中田なかた重治しげはる

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なかだ じゅうじ

中田なかた 重治しげはる
1928ねんごろ(58さいごろ)の中田なかた重治しげはる
生誕せいたん (1870-11-20) 1870ねん11月20にち
陸奥みちのくこく弘前ひろさきはん津軽つがる新寺しんてらまち
げん青森あおもりけん弘前ひろさき北新寺きたしんてらまち
死没しぼつ (1939-09-24) 1939ねん9月24にち(68さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう淀橋よどばし柏木かしわぎ
げん東京とうきょう新宿しんじゅく北新宿きたしんじゅく
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん
国籍こくせき 弘前ひろさきはん日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう ひがし奥義おうぎじゅく東京とうきょう英和えいわ学校がっこう中退ちゅうたい)、ムーディ聖書せいしょ学校がっこう
職業しょくぎょう 監督かんとく福音ふくいん使牧師ぼくし)・大衆たいしゅう伝道でんどうしゃ巡回じゅんかい伝道でんどうしゃ宗教しゅうきょう説教せっきょう翻訳ほんやく賛美さんび作家さっか神学校しんがっこう教師きょうし神学校しんがっこう校長こうちょう院長いんちょう)・実業じつぎょうジャーナリスト神学しんがくしゃにちどうろんもの
配偶はいぐうしゃ 小舘こだてかつ先妻せんさい
今井いまいあやめ後妻ごさい
子供こども 中田なかた羽後うご次男じなん
大江おおえ陸奥むつ長女ちょうじょ
つじきょう次女じじょ
有馬ありまリリさんじょ
岡本おかもとゆたかよんじょ
おや 中田なかたへいさくちち
中田なかた千代ちよはは
親戚しんせき 中田なかた久吉ひさよし実兄じっけい
大江おおえ寛人ひろとまご
つじせんどうまご
有馬ありましきおっとまご
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中田なかた 重治しげはる(なかだ じゅうじ[1]1870ねん11月20にち明治めいじ3ねん10月27にち)- 1939ねん昭和しょうわ14ねん9月24にち)は、明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ初期しょきにかけて活躍かつやくした日本にっぽん教会きょうかい監督かんとく大衆たいしゅう伝道でんどうしゃ巡回じゅんかい伝道でんどうしゃ福音ふくいん使牧師ぼくし)、神学校しんがっこう柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいん教師きょうし院長いんちょう校長こうちょう)、宗教しゅうきょう説教せっきょう翻訳ほんやく賛美さんび作家さっか実業じつぎょうジャーナリスト神学しんがくしゃにちどうろんもの[2]である。

明治めいじ時代じだいメソジスト牧師ぼくし中田なかた久吉ひさよし実兄じっけい日本にっぽん代表だいひょうする教会きょうかい音楽家おんがくか中田なかた羽後うご次男じなん日本にっぽんアライアンス教団きょうだん大江おおえ寛人ひろと日本にっぽん基督教きりすときょうだん議長ぎちょうつじせんどうおなじく日本にっぽん基督教きりすときょうだん牧師ぼくし有馬ありましきおっとまごである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

日本にっぽんホーリネス教会きょうかい創始そうししゃ一人ひとり初代しょだい監督かんとくであり、日本にっぽんホーリネス教会きょうかい既存きそん五大ごだい教派きょうは長老ちょうろうメソジスト会衆かいしゅうバプテストルーテル)になら巨大きょだい組織そしき発展はってんさせた功労こうろうしゃにちどうろんかんした神学しんがくじょう問題もんだいで、ホーリネス分裂ぶんれつ事件じけんこした。その残留ざんりゅうした教職きょうしょくしゃたちともに、きよめ教会きょうかい創設そうせつし、どう教会きょうかい終身しゅうしん監督かんとくになる。

明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ初期しょきわたきよめ(ひじりきよし)の中心ちゅうしんてき指導しどうしゃとしての活動かつどうは、松江まつえバンドともきよめながれをつくった。それらの人材じんざい戦後せんご福音ふくいん形成けいせい中心ちゅうしんてき存在そんざいになった。雄弁ゆうべん説教せっきょうだい規模きぼ伝道でんどう活動かつどうから日本にっぽんムーディともばれるリバイバリストとされている。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

幼少ようしょう弘前ひろさき時代じだい (1870-1888)[編集へんしゅう]

中田なかた重治しげはるは、1870ねん明治めいじ3ねん)10がつ27にち陸奥みちのくこく弘前ひろさきげん青森あおもりけん弘前ひろさき)で、津軽つがるはん足軽あしがる家柄いえがらである中田なかたの3にん兄弟きょうだい三男さんなんとしてまれた。[3]

まれるとすぐ、版籍はんせき奉還ほうかんがあり、津軽つがるはんはん奉還ほうかんすることになり、中田なかたろくうしなう。そこで、中田なかた先祖せんぞ伝来でんらいである弘前ひろさき郊外こうがいにある大光寺だいこうじむら(げん青森あおもりけん平川ひらかわ)に転居てんきょ生計せいけいをたてることになる。

中田なかた生涯しょうがい恩師おんし本多ほんだ庸一よういち

ちちへいさくは、1874ねん明治めいじ7ねん)9がつ10日とおか中田なかたが4さいになるまえ脳溢血のういっけつ死去しきょした。ちち死去しきょしたときはは(千代ちよ)は外出がいしゅつちゅうであり、重治しげはるちち見届みとどけた。へいさく死後しごははへいさくあに再婚さいこんすすめられるがことわり、一家いっか弘前ひろさき転居てんきょする。ははせんだいはは野菜やさい行商ぎょうしょうとなって、重治しげはるたち3にん息子むすこそだてた。少年しょうねん時代じだい重治しげはるは「おに」と綽名され、かなりのあばれんぼうとしてられることになった。

中田なかたあに久吉ひさよし

1875ねん明治めいじ8ねんごろ長男ちょうなん久吉ひさよし弘前ひろさきのメソジスト教会きょうかいのミッションスクールのひがし奥義おうぎじゅくはいる。これが、中田なかた一家かずやキリスト教きりすときょうれる、最初さいしょのきっかけになる。

1880ねんごろ弘前ひろさきメソジスト教会きょうかい

また、1877ねん明治めいじ10ねん)の7さいごろあばれんぼうであった重治しげはる素行そこうわることを期待きたいして、母親ははおや重治しげはるたちをあに久吉ひさよしまなひがし奥義おうぎじゅく関係かんけいのあるメソジスト教会きょうかい弘前ひろさき公会こうかいれてくようになった。

そのころメソジスト教会きょうかい指導しどうしゃであった本多ほんだ庸一よういちひがし奥義おうぎじゅく校長こうちょう弘前ひろさき公会こうかい牧師ぼくしをしており、重治しげはるらは本多ほんだ教育きょういくけるようになる。本多ほんだ生涯しょうがいにわたり重治しげはるおおきな影響えいきょうあたえる師弟してい関係かんけいになる。[4]

教会きょうかいつどなかで、最初さいしょ次男じなん貞作ていさく入信にゅうしんするが、貞作ていさくはわずか14さい夭折ようせつする。貞作ていさくをきっかけにして母親ははおやキリスト教きりすときょう入信にゅうしんする。

1885ねん明治めいじ18ねんごろあに久吉ひさよし石川いしかわけん金沢かなざわにある歩兵ほへいだい7連隊れんたい入隊にゅうたいちゅうに、米国べいこく長老ちょうろうトーマス・ウィン宣教師せんきょうし教会きょうかいかよ信仰しんこうつ。そのとしあに久吉ひさよし金沢かなざわ歩兵ほへいだい7連隊れんたいの営所からもどり1ねんほど自宅じたくで、重治しげはるともごす。

弘前ひろさき滞在たいざいちゅう久吉ひさよしは14さい~15さい重治しげはる軍隊ぐんたいしきスパルタ式すぱるたしき教育きょういくをした。これにより、中田なかた一層いっそうきかん(あばれんぼう)になったとわれる。[5]

1886ねん明治めいじ19ねんごろ、15さい重治しげはる久吉ひさよし影響えいきょうひがし奥義おうぎじゅく普通ふつう入学にゅうがくした。重治しげはるひがし奥義おうぎじゅく卒業そつぎょうすると、らいとく女学校じょがっこうでしばらくアルバイトをしたが、船員せんいんになることをこころざし、函館はこだてって船員せんいん試験しけんけることになった。しかし、津軽海峡つがるかいきょうわたるときに船酔ふなよいし、そのまま試験しけんけて落第らくだいしてしまう。これで、船員せんいんになるゆめあきらめることになる。

入信にゅうしんと召命[編集へんしゅう]

中田なかた洗礼せんれいさづけたギデオン・ドレーパー宣教師せんきょうし

重治しげはるは、後年こうねん1888ねん明治めいじ21ねんごろに18さいすくわれたとかた[6]ギデオン・ドレーパーより受洗じゅせんしたとかたった。[7]洗礼せんれいけた重治しげはる弘前ひろさき公会こうかい盲人もうじん伝道でんどうしゃ藤田ふじたただしらと一緒いっしょ差別さべつ部落ぶらくなどにも伝道でんどうかけ、弘前ひろさきこうじまち付近ふきん講義こうぎしょひらいた。そのころ伝道でんどうしゃになる召命ける。

東京とうきょう英和えいわ学校がっこう時代じだい (1888-1891)[編集へんしゅう]

現在げんざい青山学院大学あおやまがくいんだいがく

1888ねん明治めいじ21ねん伝道でんどうしゃになることをこころざし、弘前ひろさき教会きょうかいよりあずかった聖書せいしょあるいて旅費りょひかせいで上京じょうきょうする。そして、東京とうきょう英和えいわ学校がっこう青山学院あおやまがくいん神学しんがく邦語ほうご入学にゅうがくした。おなねん恩師おんし本多ほんだ庸一よういち仙台せんだいメソジスト教会きょうかいより東京とうきょう英和えいわ学校がっこうむかえられていた。

当時とうじ神学しんがく部長ぶちょうであったマクレイ

中田なかた入学にゅうがくしたとき神学しんがく部長ぶちょうR・S・マクレイであった。に、J・ソーパー、G・ドレーパー、スペンサーなどがおも教師きょうしであった。しかし、ノルトンがおしえていた当時とうじキリスト教きりすときょうかい流行りゅうこうであった高等こうとう批評ひひょうてき聖書せいしょ勉強べんきょうは、弘前ひろさき教会きょうかいジョン・イングらよりいだ福音ふくいん主義しゅぎてき信仰しんこうにはわなかったこともあり学業がくぎょうには熱心ねっしんではなかった。

在学ざいがくちゅう重治しげはる勉学べんがくよりも伝道でんどうしゃとしてからだきたえる必要ひつようかんじて、もっぱら柔術じゅうじゅつはげんだ。渋川しぶかわりゅう指南しなん指導しどうあおいだり、東京とうきょう四谷よつや渋川しぶかわりゅう道場どうじょうかよ初段しょだん免許めんきょじょうた。のバプテスト指導しどうしゃ千葉ちば勇五郎ゆうごろうなどもとも柔術じゅうじゅつはげんだ仲間なかまである。

とも東京とうきょう基督きりすと青年せいねんかい活動かつどうした別所べっしょ梅之助うめのすけ

中田なかた熊谷くまがいメソジスト教会きょうかい牧師ぼくしだったあに久吉ひさよし教会きょうかいに、毎週まいしゅうまつ徒歩とほかよってあにまきかいたすけた。さらに、基督きりすと青年せいねんかい(げん、YMCA)の活動かつどうちかられて、1891ねん明治めいじ24ねんごろには基督きりすと青年せいねんかい重鎮じゅうちんになり、のメソジストの重鎮じゅうちん別所べっしょ梅之助うめのすけらと、学生がくせい伝道でんどうちかられた。また、演説えんぜつにもちかられて、土曜日どようび神田かんだ青年せいねん会館かいかんおこなわれた松村まつむら介石かいせき土曜どよう講壇こうだんきにったりした。

1890ねん明治めいじ23ねん)に本多ほんだ庸一よういちがアメリカのドルー神学校しんがっこうより帰国きこくして、だい2代目だいめ院長いんちょう就任しゅうにんする。そのころ在学ざいがくちゅうに、華族かぞく令嬢れいじょう恋愛れんあい騒動そうどうこしてしまう。恋仲こいなかになった令嬢れいじょういえ男子だんし跡継あとつぎがいないので、中田なかた神学校しんがっこう(東京とうきょう英和えいわ学校がっこう)をめて、帝国ていこく大学だいがくはい外交がいこうかんにという条件じょうけんで、跡継あとつぎの婿養子むこようしになるさそいをける。中田なかた伝道でんどうしゃあきらめるつもりはなかったので、ちしようとした。しかし、令嬢れいじょうれられず、それでもかなわぬこい心中しんちゅうのすることをもかんがえたが、同窓どうそうせいによってめられ、結局けっきょくこい破局はきょくむかえた。[8]その騒動そうどうのちに、その華族かぞく令嬢れいじょうとついでしまう。中田なかた失意しついのあまり、本多ほんだ退学たいがくもうたが、説得せっとくされて学校がっこうとどまった。

その最終さいしゅう学年がくねんむかえた中田なかたは、同郷どうきょう出身しゅっしん恩師おんし本多ほんだ期待きたいにそむくまじとはげんだが、1891ねん明治めいじ24ねん)の卒業そつぎょう試験しけん結果けっか成績せいせき不良ふりょうであった。教師きょうしかいひらかれて中田なかた卒業そつぎょう検討けんとうしたが、中田なかた受講じゅこう科目かもく半数はんすう落第らくだいてんであったので退学たいがく処分しょぶん決定けっていされる。院長いんちょう本多ほんだ庸一よういち中田なかた救済きゅうさいしようとしたが、結局けっきょく教師きょうしかい意見いけんれて退校たいこう処分しょぶんくだした。

メソジスト伝道でんどう時代じだい(1891-1896)[編集へんしゅう]

中田なかた東京とうきょう英和えいわ学校がっこう卒業そつぎょうできなかったが、本多ほんだ庸一よういち温情おんじょうによりメソジスト教会きょうかい伝道でんどうかり免状めんじょうもらった。北海道ほっかいどう八雲やくもまち(渡島ととう総合そうごう振興しんこうきょくうみぐん八雲やくもまち)に派遣はけんされた。その小樽おたる、また択捉島えとろふとう伝道でんどう択捉えとろふ時代じだい按手れいけて、正式せいしきにメソジスト教会きょうかい正式せいしき教職きょうしょくになる。

かつとの結婚けっこん[編集へんしゅう]

中田なかた重治しげはるとかつ結婚けっこん記念きねん写真しゃしん(1894ねんごろ)

1894ねん明治めいじ22ねん)2がつ23にち弘前ひろさき教会きょうかい牧師ぼくし山鹿やまが元次もとつぐろう紹介しょうかいで、弘前ひろさき教会きょうかい伝道でんどう小館こだてかつ結婚けっこんした。[9]結婚けっこん最初さいしょまれた、長男ちょうなんひだりない生後せいご1ヶ月かげつ風土病ふうどびょうくす。かつ重症じゅうしょう風土病ふうどびょうになり、択捉えとろふげる。このことをとおして中田なかた深刻しんこく信仰しんこう危機きき経験けいけんする。

次男じなん誕生たんじょう[編集へんしゅう]

弘前ひろさき静養せいようしたのちに、秋田あきたけん大館おおだて大館おおだて教会きょうかいだい4代目だいめ牧師ぼくしになった。松村まつむら彦吉という信者しんじゃとも伝道でんどうはじめた。ここで、次男じなんまれ、羽後うごこくにちなんで羽後うご命名めいめいされた。[10]

アメリカ留学りゅうがく時代じだい(1896-1898)[編集へんしゅう]

中田なかた大館おおだてで1ねんほど伝道でんどうするなかで、にくちから限界げんかいかんじ、聖霊せいれいのバプテスマもとめるようになった。聖霊せいれいのバプテスマをけて活躍かつやくしていた伝道でんどうしゃムーディしたって渡米とべいしたいとねがうようになった。中田なかたつまかつあに久吉ひさよし資金しきん提供ていきょうけたが、渡米とべい費用ひようのために200えん借金しゃっきんをした。

アメリカ留学りゅうがく[編集へんしゅう]

R・A・トーレイ

1896ねん明治めいじ29ねん)12月に恩師おんし本多ほんだ庸一よういち見送みおくられて横浜よこはまこうより渡米とべいした。1896ねん年末ねんまつサンフランシスコみなと到着とうちゃくすると、メソジスト教会きょうかい監督かんとくメリマン・ハリス出迎でむかえた。ハリスは中田なかた伝道でんどう手助てだすけを要請ようせいしたが、辞退じたいしてシカゴかった。シカゴにくとムーディ聖書せいしょ学校がっこう短期たんきコースでまなぶ。中田なかたはムーディー聖書せいしょ学院がくいんでの学費がくひるために学校がっこう掃除そうじ料理りょうり給仕きゅうじじんをした。

ムーディ聖書せいしょ学院がくいんでは、当時とうじのムーディー聖書せいしょ学院がくいん校長こうちょうR・A・トーレイだった。トーレイたち奉仕ほうしのためには聖霊せいれいちから聖霊せいれいのバプテスマが必要ひつようであるとおしえていた。中田なかた霊的れいてき状態じょうたいくなかったので、ひじりもとめて断食だんじきしたり、徹夜てつやしたりしていのったが効果こうかがななく、周囲しゅういものに「ファナチック(狂信きょうしんてき)」とわれた。

きよめの確信かくしん[編集へんしゅう]

シカゴ滞在たいざいちゅう中田なかた重治しげはる(1897ねん)
現在げんざいのムーディー聖書せいしょ学校がっこう

F・B・マイヤー学校がっこう説教せっきょうしたときに、『現世げんせいちゅうつみより自由じゆうになれない』との説教せっきょうき、「キリストしゃ完全かんぜん」と「つみのない完全かんぜん」のちがいをった。また、ホーリネスの神学しんがくしゃA.M.ヒルズに出会であい、著書ちょしょ清潔せいけつちから』をもらった。このしょチャールズ・ホッジなどのせつ反駁はんばくしながら、きよし定義ていぎや、きよしける方法ほうほうろんじた書物しょもつである。このしょひじりきよしをの必要ひつようせい痛感つうかんした。また、ジョン・ウェスレー著書ちょしょにも影響えいきょうけた。

さらに、1897ねん明治めいじ30ねん)11月22にちインドのタミルぞく伝道でんどうしゃV・D・ダヴィッド集会しゅうかい出席しゅっせきした。そこで、きよし体験たいけんをする。その直後ちょくご部屋へやかえっていのったときに完全かんぜんなきよめの確信かくしんけた。

カウマン夫妻ふさいとの出会であ[編集へんしゅう]

チャールズ・カウマン

中田なかたシカゴにあるグレース・メソジスト・監督かんとく教会きょうかい出席しゅっせきしていた。ある礼拝れいはいで、電信でんしん技士ぎしとしてはたらきながら、ムーディ聖書せいしょ学院がくいん信徒しんとコースでまなんでいた、チャールズ・カウマン夫妻ふさいとキルボン夫妻ふさい出会であう。のちに、カウマン夫妻ふさい中田なかたひそかに経済けいざいてき援助えんじょし、いのささえた。

1898ねん明治めいじ31ねん)ムーディー聖書せいしょ学院がくいん短期たんきコースを終了しゅうりょうした。聖霊せいれい体験たいけんけた中田なかたはや日本にっぽんかえって伝道でんどうしたいとねが帰国きこくすることになった。

だい1かい世界せかい旅行りょこう[編集へんしゅう]

中田なかた日本にっぽんかえまえ世界せかいまわって聖霊せいれいひとまじわりたいとおもい、ムーディーとトーレーはげまされてアメリカを出発しゅっぱつした。旅行りょこう費用ひようはなかったが、きよしによってけた大胆だいたん信仰しんこうにより、方々かたがた旅行りょこうしてひじりあかした結果けっか謝礼しゃれい旅行りょこうすることができた。

カナダトロントでは、メソジストの高木たかぎみずのえ太郎たろうい、下宿げしゅくさき滞在たいざいした。トロントよりわたりすぐるした。わたりすぐるする費用ひようがなかったが、船内せんないうし世話せわするという条件じょうけん無料むりょう乗船じょうせんすることが出来できた。

イギリス旅行りょこう[編集へんしゅう]
バークレー・バックストン

ふね英国えいこくグリニッジくと、在米ざいべいペンテコステ同盟どうめいかいおとずれた。レーダー・ハリス会長かいちょう夫人ふじん英国えいこく旅行りょこう手配てはいをしてもらい、ロンドンバークレー・バックストン実家じっかった。バックストンは来日らいにちちゅうえなかったが当主とうしゅトマス・バークレー(Sir Thomas Buxton, 3rd Baronet)夫妻ふさいより歓迎かんげいされる。

中田なかたがロンドンにいた翌日よくじつの5がつ19にち政治せいじウィリアム・グラッドストン死去しきょした。中田なかたはグラッドストンの葬儀そうぎ出席しゅっせきし、グラッドストンからおおきな影響えいきょうけることになった。

さらに、バックストンより下宿げしゅくりょうもらってロンドンで下宿げしゅくした。また、バックストン紹介しょうかい実業じつぎょう政治せいじD・A・トマス(D.A.Thomas)に出合であった。また、ウェストミンスター寺院じいんジョン・ウェスレーはかおとずれた。

帰国きこく費用ひようがなかったが、日本にっぽんせき船舶せんぱく渡丸わたまるにボーイとしてやとわれて帰国きこくすることができた。ふねなか同郷どうきょう出身しゅっしんひがし奥義おうぎじゅくいの珍田ちんだ捨巳すてみった。珍田ちんだから一等いっとう船客せんきゃくまねかれたが、辞退じたいしてボーイをつづけながら帰国きこくした。

帰国きこく[編集へんしゅう]
笹森ささもりしげる一郎いちろう

1898ねん明治めいじ31ねん)9がつ長崎ながさき上陸じょうりくした中田なかた鎮西ちんぜい学院がくいん笹森ささもり宇一郎ういちろうおとずれた。笹森ささもりからは「中田なかたというひとはえらいひとになる」とわれた。[11]

弘前ひろさきのかつ実家じっか小館おたてかえ途中とちゅうで、東京とうきょう新橋しんばしえきでトラクトを配布はいふしていたちいさきぐん土肥どい修平しゅうへいった。

メソジスト巡回じゅんかい伝道でんどうしゃ時代じだい(1898-1900)[編集へんしゅう]

笹尾ささお鉄三郎てつさぶろう

帰郷ききょう早速さっそく松江まつえのバークレー・バックストンをたずねた。高雅こうが風采ふうさい態度たいど自分じぶんけたものを見出みだしたしむようになった。翌年よくねん、1899ねんにメソジスト教会きょうかい年会ねんかいでの巡回じゅんかい伝道でんどうしゃ任命にんめいされる。しかし、教派きょうはにとらわれないで日本にっぽんちゅうまねかれて説教せっきょうをした、1898ねん、バックストンにまねかれて松江まつえき、もちみずうみろうという料理りょうり伝道でんどうかい説教せっきょうをしているときに、けつけた笹尾ささお鉄三郎てつさぶろうう。敬虔けいけん姿すがた笹尾ささおだと直感ちょっかんして、だい集会しゅうかいめぐみてくるひと個人こじん伝道でんどう依頼いらいした。

巡回じゅんかい伝道でんどう多忙たぼうであった重治しげはるトラホームくるしんだが、信仰しんこうによっていやされた。1899ねん正月しょうがつには銀座ぎんざ教会きょうかいだいいちかい新年しんねんひじりかいひらいたところ好評こうひょうであったので、以後いご各地かくち新年しんねんひじりかい開催かいさいした。

そのとき東京とうきょう青山あおやま長者ちょうじゃまる青山あおやまよし以教かい[12]牧師ぼくしかんりてむことになった。1899ねん10がつには弘前ひろさき伝道でんどうした。弘前ひろさきでの伝道でんどう爆発ばくはつてき伝道でんどうわれた。11月盛岡もりおか集会しゅうかいでは、中田なかた説教せっきょういた野辺地のへじ天馬てんま献身けんしん決意けついする。

メソジスト脱退だったい時代じだい(1900-1901)[編集へんしゅう]

中田なかた全国ぜんこく巡回じゅんかい伝道でんどうしているあいだに、メソジストのみに限定げんていした伝道でんどうをしようとおもわず、ちょう教派きょうはでの伝道でんどうかんがえた。それゆえに、メソジストないでは、次第しだい中田なかた異分子いぶんしあつかいするようになった。1900ねんに、中田なかた自由じゆう伝道でんどうおこなうためにメソジスト教会きょうかい脱退だったいすることにした。おなじくメソジストの伝道でんどうであったつまかつは、したしんだメソジストをはなれることを、最初さいしょ賛成さんせいしなかった。しかし、中田なかた説得せっとく次第しだい理解りかいはじめて賛成さんせいするようになった。中田なかたは、メソジストを脱退だったい信仰しんこうともとの交流こうりゅう必要ひつようのため、きよし教理きょうりしんじるちょう教派きょうは人々ひとびとと「ひじりきよしとも」を結成けっせい定期ていき連絡れんらく集会しゅうかいをするようになった。

中央ちゅうおう福音ふくいん伝道でんどうかん時代じだい(1901-1905)[編集へんしゅう]

1901ねん明治めいじ34ねん)に日本基督教会にほんきりすときょうかい日本にっぽん組合くみあい基督教きりすときょうかい日本にっぽんメソジスト教会きょうかいキリスト教会きょうかい最大さいだい教派きょうは連合れんごうである福音ふくいん同盟どうめいかいが、これまでの日本にっぽんのキリスト教会きょうかい停滞ていたいやぶるための、じゅう世紀せいき大挙たいきょ伝道でんどう大々的だいだいてきった。

中央ちゅうおう福音ふくいん伝道でんどうかん聖書せいしょ学校がっこう設立せつりつ[編集へんしゅう]

神田かんだ神保じんぼうまち中央ちゅうおう福音ふくいん伝道でんどうかん,1901ねんごろ

1901ねん2がつ1にちチャールズ・E・カウマンレテー・B・カウマンがピルグリム・ホーリネス教会きょうかい宣教師せんきょうしとして来日らいにちする。1901ねん4がつ中田なかたとカウマン夫妻ふさい神田かんだ神保じんぼうまちで、神田かんだを「かみ」、神保じんぼうまちを「かみたもまち」として、廃校はいこうになった学校がっこう校舎こうしゃりて、『中央ちゅうおう福音ふくいん伝道でんどうかん』と看板かんばんかかげ、ここを拠点きょてんとして伝道でんどう開始かいしした。月曜日げつようび以外いがい毎晩まいばん伝道でんどうかい開催かいさい毎日まいにち午後ごごせいべつかいをもってホーリスネス運動うんどう指導しどうした。[13]中央ちゅうおう伝道でんどうかんかん建物たてもの使つかい、4がつ1にち聖書せいしょ学校がっこう東洋とうよう宣教せんきょうかい聖書せいしょ学院がくいん)を開校かいこうした。

地方ちほう伝道でんどうかん設立せつりつ[編集へんしゅう]

中田なかた重治しげはるパゼット・ウィルクス三谷みたにたねきち、1902ねん

10月には山形やまがたけん楯岡たておかまち現在げんざい村山むらやま楯岡たておか)に最初さいしょ地方ちほう伝道でんどうかん設立せつりつする。中田なかたはカウマンととも視察しさつまち郊外こうがいやまのぼって祝福しゅくふくそそがれるようにいのった。[14]1903ねん明治めいじ36ねん)2がつには、最上もがみぐん新庄しんじょうまち現在げんざい山形やまがたけん新庄しんじょう)、谷地やち現在げんざい山形やまがたけん河北かほくまち谷地やち)に伝道でんどうかん設立せつりつした。[15]

聖書せいしょ学院がくいん教師きょうし生徒せいと家族かぞく、1902ねん
1902ねん8がつ弘前ひろさき教会きょうかいまえ集合しゅうごうした中田なかた重治しげはる福音ふくいん音楽おんがくたい中田なかた中央ちゅうおう

1902ねん明治めいじ35ねん)8がつアーネスト・キルボルン夫妻ふさい中田なかたはたらきにくわわり、自給じきゅう伝道でんどうをモットーに活動かつどうをした。1903ねん5がつには清水しみず俊蔵しゅんぞう新庄しんじょう福音ふくいん伝道でんどうかん転任てんにんするときは、カウマンととも同行どうこうして新庄しんじょうき、貸家かしやさがまわった。ふつそうらの迫害はくがいにもかかわらずおおきな貸家かしやつけることができた。[16]この教会きょうかい新庄しんじょう中学校ちゅうがっこう学生がくせい沓澤くつざわこう(清水しみずこう)が回心かいしんした。[17]

明治めいじさんじゅうねん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

聖書せいしょ学院がくいん初期しょき教師きょうしじん

その中田なかたとカウマンは楯岡たておか谷地やち(山形やまがたけん西村山にしむらやまぐん河北かほくまち)、新庄しんじょう金山かなやま(山形やまがたけん最上もがみぐん金山かなやままち)をて、にち院内いんないとうげ秋田あきたけん院内いんない雄勝峠おがちとうげ)を大雨おおあめなか徒歩とほちょう院内いんないまち(げん秋田あきたけん湯沢ゆざわ)にった。その湯沢ゆざわ(げん秋田あきたけん湯沢ゆざわ)、横手よこてげん秋田あきたけん横手よこて)、黒沢尻くろさわじり盛岡もりおか旅行りょこうした。

1903ねん明治めいじ36ねん)8がつには、大宮おおみやさいたま大宮おおみや)で修養しゅうようかいひらき、カウマン、キルボルンのほか河辺かわべ貞吉さだきち武田たけだ駒吉こまきち秋山あきやまゆかり五郎ごろうおよ中田なかた実兄じっけい中田なかた久吉ひさよしまねいた。1903ねん10がつには、名古屋なごや近江八幡おうみはちまん京都きょうと大阪おおさか岡山おかやま松江まつえ巡回じゅんかい旅行りょこうをして、1903ねん12月には、ローランズ夫妻ふさいともに、鹿児島かごしまけん鹿屋かのやくだり訪問ほうもんする。帰路きろ飫肥おび(げん宮崎みやざきけん日南にちなん)、宮崎みやざきとおり、そこから海路かいろ使つか神戸こうべそして、実兄じっけい久吉ひさよしははせんだいがいる名古屋なごや寄港きこうし、東京とうきょうもどった。

1904ねん明治めいじ37ねん)7がつごろ中田なかたはい膿瘍のうようわずらい、神奈川かながわけん茅ヶ崎ちがさき葉山はやま高橋たかはし是清これきよ別邸べってい静養せいようすることになった。4がつごろには回復かいふくし、病気びょうき療養りょうよう体験たいけんだんを「快復かいふく御礼おれい」という文章ぶんしょうにして、機関きかんほのおした」に発表はっぴょうした。

にち戦争せんそう朝鮮半島ちょうせんはんとう訪問ほうもん[編集へんしゅう]

1904ねん明治めいじ37ねん)2がつ10日とおかにち戦争せんそう開戦かいせんする。大山おおやまいわお元帥げんすい派遣はけんぐんそう司令しれいかんになり、数個すうこ軍団ぐんだん朝鮮半島ちょうせんはんとう出動しゅつどうした。朝鮮半島ちょうせんはんとう駐留ちゅうりゅうした黒木くろきため将軍しょうぐん軍団ぐんだんのために、基督教きりすときょう各派かくは連合れんごうして、戦時せんじ伝道でんどうもうけて戦地せんち慰問いもんすることになった。

基督教きりすときょう青年せいねんかい同盟どうめい委員いいんちょう本多ほんだ庸一よういちは、福音ふくいん同盟どうめいかい会長かいちょう小崎おざき弘道ひろみちともに、基督教きりすときょう共同きょうどうてき奉仕ほうしについてげきばした。それは、従軍じゅうぐん布教ふきょうまたは軍隊ぐんたい慰問いもん使派遣はけんすることと、軍人ぐんじん出入でいりしているところで伝道でんどう方法ほうほうくすこと、内地ないち戦地せんち軍人ぐんじんようしょう冊子さっし配布はいふすることであった。

本多ほんだ庸一よういちメソジストよし以派)の日本にっぽん年会ねんかい任命にんめいした韓国かんこく伝道でんどう委員いいんかい委員いいんちょうねて朝鮮半島ちょうせんはんとうくことになり、中田なかた同行どうこうしゃえらんだ。1904ねん5がつ14にち神戸こうべこうより筑後川ちくごがわまる出発しゅっぱつした。そして、5月16にち釜山ぷさん上陸じょうりくして、木浦きうら仁川にがわて、18にちきょうしろいた。5月26にち歩兵ほへいだい24連隊れんたいだい大隊だいたい本多ほんだとも説教せっきょうをした。さらに、6がつ10日とおかには下痢げり歯痛しつうえながらしゅういた。14にちには、平壌ぴょんやんった。

中田なかた本多ほんだわかれてよししゅうき、かもみどりこうながめて戦争せんそう惨状さんじょう目撃もくげきした。7月3にち仁川にがわからきょうじょうかえった。中田なかたはその京畿けいきどう忠清ただきよどうしょ教会きょうかい訪問ほうもんして、きょうじょうかえり、19にち仁川にがわから乗船じょうせんして7がつ21にち釜山ぷさんこう経由けいゆして、7がつ28にちには東京とうきょうかえる。[18]

柏木かしわぎへの移転いてん[編集へんしゅう]

柏木かしわぎ移転いてんしたころ聖書せいしょ学院がくいん、1904ねんごろ

神保じんぼうまち聖書せいしょ学校がっこう男子だんし寄宿舎きしゅくしゃ淡路あわじまち女子じょし寄宿舎きしゅくしゃせまくなったので、中田なかたとカウマンは郊外こうがいひろ敷地しきちもとめるようになった。中田なかたとカウマンはゆたか多摩たまぐん淀橋よどばしまち柏木かしわぎさんせんつぼ土地とちつけて購入こうにゅうした。

1904ねん8がつ25にちには新築しんちく聖書せいしょ学院がくいん図面ずめんが「ほのおした」の発表はっぴょうされ、1904ねん10がつ31にち聖書せいしょ学校がっこう淀橋よどばしまち柏木かしわぎうつす。正式せいしき名称めいしょう聖書せいしょ学院がくいん通称つうしょう柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいんばれる。1905ねん2がつ10日とおかより11にちまで、神田美土代かんだみとしろまち基督きりすと青年せいねん会館かいかん(YMCA)で「聖書せいしょてきじゅん福音ふくいん宣伝せんでん大会たいかい」がひらかれ、中田なかた笹尾ささお鉄三郎てつさぶろう三谷みたにたねきちらととも説教せっきょうをした。中田なかたは「キリストの大本営だいほんえい」というだいで1あいだはん説教せっきょうをし、「恩恵おんけい」をひらいた。[19]

1904ねん9がつ4にちあに久吉ひさよし病気びょうきたおれた。中田なかた久吉ひさよしのもとをけつけ、13にちちょうチブス診断しんだんされて好生よしおかん入院にゅういんしたさいにも、った。しかし、久吉ひさよし入院にゅういん直後ちょくごくなった。

翌年よくねん1905ねん明治めいじ38ねん)2がつ15にちにカウマン夫妻ふさいさい来日らいにちすると、3がつ下旬げじゅん中田なかたはカウマン夫妻ふさいとも名古屋なごや伊豆いず地方ちほう巡回じゅんかい伝道でんどうした。4月のイースターにはさんじょのリリーがまれた。6月には疲労ひろうおぼえた中田なかたはカウマンととも日光にっこう保養ほようった。

好地こうち由太郎よしたろう

1905ねん7がつ26にち浅草あさくさ駒形橋こまがたばしちかくに、駒形こまがた伝道でんどうかんもうけて、7がつから好地こうち由太郎よしたろうんで伝道でんどうした。9月に浅草あさくさ路傍ろぼう伝道でんどうをしたところ好地こうちらが暴徒ぼうとおそわれるという事件じけんがあった。このけんについて基督教きりすときょうかいから忠告ちゅうこく委員いいん中田なかた訪問ほうもんし、好地こうちらの伝道でんどう仕方しかたについて忠告ちゅうこくした。中田なかたはこれにたいして「ほかにどんな方法ほうほうがあるのか」と反論はんろんした。

9月には深川ふかがわ材木ざいもくしょう川端かわばた商店しょうてん開業かいぎょうしていた川端かわばた京五郎きょうごろうが、友人ゆうじん竹谷たけたにべんぞうさそわれてかようようになり、翌年よくねん4がつ受洗じゅせんする。[20]

東洋とうよう宣教せんきょうかい時代じだい(1905-1917)[編集へんしゅう]

30だいごろ中田なかた重治しげはる

1905ねん明治めいじ38ねん)3がつ中田なかたはカウマンととも法人ほうじん組織そしき設立せつりつする協議きょうぎはじめ、11月に東洋とうよう宣教せんきょうかい(Oriental Missionary Society:OMS)を設立せつりつする。[21]中田なかた笹尾ささお鉄三郎てつさぶろう、カウマン夫妻ふさい、キルボンのめい幹部かんぶとして運営うんえいをした。カウマン夫妻ふさいとキルボルンが米国べいこくとの交渉こうしょう会計かいけい担当たんとうし、笹尾ささお聖書せいしょ学院がくいん院長いんちょう担当たんとう中田なかた伝道でんどう方面ほうめん指導しどう管理かんりするやく担当たんとうした。

世界せかい一周いっしゅう旅行りょこう (だい2かい世界せかい旅行りょこう)[編集へんしゅう]

1910ねんごろ中田なかだ

1906ねん明治めいじ39ねんはじ中田なかた霊的れいてき非常ひじょう不安ふあんおぼえた。それで、欧米おうべいのクリスチャンとまじわることによってかわきをたそうと世界せかい一周いっしゅう旅行りょこう計画けいかくした。

中国ちゅうごく旅行りょこう[編集へんしゅう]

最初さいしょ湖北こほくしょう出身しゅっしんの曹亜はくとい青年せいねんともなって、2がつまつ上海しゃんはいおとずれ、チャイナ・インランドミッション(OMF)をたずねた。

2がつ25にちには日本基督教会にほんきりすときょうかい教会きょうかい説教せっきょうしたり、青年せいねんかい英語えいご集会しゅうかいなどで説教せっきょうした。中田なかたは曹ととも揚子江ようすこうさかのぼり、南京なんきん通過つうかして、きゅう上陸じょうりくした、翌日よくじつ黄石こうせきこうかい、鉄道てつどう興国こうこくけんかった、3月4にち興国こうこくけんの曹の実家じっか滞在たいざいした。

現地げんちじん偏見へんけんにより危険きけんかんじた中田なかたは、曹のおとうとともに曹家を脱出だっしゅつした。[22]

イギリス旅行りょこう[編集へんしゅう]
オズワルド・チェンバーズ

3月16にちにフランスの郵船ゆうせんオセアニーンごう上海しゃんはいち、インド洋いんどようて、4がつ26にちにロンドンについた。5月3にちのジョン・ウェスレーのはかき、エクセターホール(Exeter Hall)で講演こうえんをした。そのときに、スコットランドひと説教せっきょうオズワルド・チェンバーズう。中田なかたはチェンバースとガーディナーと一緒いっしょ北部ほくぶスコットランドにき、カレドニア運河うんがからフォート・ウィリアムインヴァネスった。

途中とちゅうチェンバースが病気びょうきになったので、中田なかたはディビット・トマスと一緒いっしょにウェールズにき、アメリカじんクェーカー伝道でんどうしゃチャールズ・ストーカーと一緒いっしょにイギリスの島々しまじま巡回じゅんかい説教せっきょうした。ストーカーはスコットランドにき、中田なかたはチェンバーズとともにアメリカにわたることになった。

6がつポーツマスった。そこでは、帝国ていこく海軍かいぐん軍艦ぐんかん香取かとり鹿島かしま停泊ていはくしていたので、乗組のりくみいん伝道でんどうし、ウェルカム・ミッションという水夫すいふのための伝道でんどうかんでも伝道でんどうした。ロンドンにもどり、ウェストミンスター・チャペルキャンベル・モルガン聖書せいしょ講義こうぎとトマス・スポルジョンの説教せっきょういた。

7がつ21にちケズィックく。そこには木村きむら清松きよまつ松井まついよね太郎たろう日野ひのはらよしらの日本人にっぽんじんがいた。7月28にちからひらかれたケズィック大会たいかい出席しゅっせきした。中田なかたはバックストンやパゼット・ウィルクスらととも大会たいかい説教せっきょうをした。9月にロンドンにかえり、バックストンで、松江まつえきよし公会こうかい永野ながの武二郎たけじろうった。そして、ひがしロンドンのマントル運動うんどうた。

アメリカ旅行りょこう[編集へんしゅう]

1906ねん11月6にちチェンバーズとともにイギリスからアメリカに旅立たびだつ。アメリカで東海岸ひがしかいがん中田なかたとチェンバーズは5週間しゅうかん説教せっきょうをする。12月にオハイオしゅうシンシナティかみ聖書せいしょ学校がっこうでクリスマス・ホーリネス会議かいぎ説教せっきょうした。

ジプシー・スミス
アズベリー大学だいがく

1907ねん1がつ初旬しょじゅんシカゴでムーディー聖書せいしょ学院がくいんきゃくとしてごし、1がつ下旬げじゅんには、アイオワしゅうオスカルーサき、ジプシー・スミス(Rodney "Gipsy" Smith)の活動かつどうた。オスカルーサ大学だいがく(Oskaloosa College)ではキルボルンのむすめのアイラとエドウィンに面会めんかいした。また、アズベリー大学だいがくH・C・モリソン(H・C・Morrison)総長そうちょうにあった。1907ねん6がつにシンシナティにもどりホーリネス会議かいぎ説教せっきょうした。1907ねん6がつ10日とおかにチェンバース、スタンレー、坂井さかい勝次郎かつじろう東善ひがしぜんわれともにシアトルを出発しゅっぱつした。

1907ねん明治めいじ40ねん)6がつ27にち横浜よこはまこうく。チェンバーズは日本にっぽん滞在たいざいして聖書せいしょ学院がくいんとう見学けんがくする。7月29にちより7がつ31にちまで上野うえの天幕てんまく伝道でんどう司会しかいをし、8がつ1にちより8がつ3にちまで、神田かんだ伝道でんどうかん青年せいねんかん中田なかだらのために歓迎かんげい特別とくべつだい集会しゅうかい開催かいさいされた。歓迎かんげいかい中田なかた挨拶あいさつし、このたびにより中田なかた精神せいしんてき不安ふあん一掃いっそうされたことをかたった。[23]

明治めいじよんじゅうねん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

1907ねん明治めいじ40ねん)9がつ18にちには中田なかた東京とうきょう出発しゅっぱつして、岩手いわてけん土沢つちさわ伝道でんどうしていた米田よねだゆたかのもとをおとずれ、また盛岡もりおかにいた野辺地のへじ嘉吉よしきち天馬てんば)をおとずれた。さらに、青森あおもり親戚しんせきむすめ洗礼せんれいほどこした。その弘前ひろさき楯岡たておかげん山形やまがたけん村山むらやま楯岡たておか)を帰京ききょうした。

10月17にちには柏木かしわぎじゅん福音ふくいん信徒しんとだい懇親こんしんかい開催かいさいし、11月6にちには、好地こうち由太郎よしたろうとも千葉ちばけん巡回じゅんかいし、東金とうがね銚子ちょうしき、都田みやこだ友次ともじろう伝道でんどうたすけた。11月24にちには小出こいで朋治ともはる一緒いっしょ新潟にいがた巡回じゅんかいした。12月には伊豆いずすくいれい旅行りょこうしょうして、伊豆いず沼津ぬまづ田子たつこ松崎まつざき青野あおの石井いしいじょう下加茂したかも下田しもだ巡回じゅんかい伝道でんどうした。

1908ねん明治めいじ41ねん4がつ10日とおか中田なかたさい来日らいにちしたカウマン夫妻ふさいをキルボルンとともに神戸こうべこう出迎でむかえた。帰京ききょう中田なかたらは協議きょうぎした結果けっか東洋とうよう宣教せんきょうかい役員やくいん制度せいどもうけることになり5がつ10日とおか発表はっぴょうされた。中田なかた総理そうり笹尾ささお鉄三郎てつさぶろうふく総理そうりになった。この時点じてんで、福音ふくいん伝道でんどうかん全国ぜんこく16箇所かしょにあった。

明治めいじよんじゅうさんねん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

1910ねん明治めいじ43ねん中田なかたは、大宮おおみや氷川ひかわ公園こうえんでの関東かんとう修養しゅうようかいえたのち、渡辺わたなべよしふとし一緒いっしょに、東北とうほく北海道ほっかいどう旅行りょこうった。仙台せんだい土沢つちざわ小樽おたる旭川あさひかわ深川ふかがわ札幌さっぽろった。中田なかた札幌さっぽろもり五郎ごろういにくと、独立どくりつ教会きょうかい組合くみあい教会きょうかい日本基督教会にほんきりすときょうかいメソジスト教会きょうかいせい公会こうかい牧師ぼくしたちが、中田なかたYMCAせて、いわゆる教会きょうかい裁判さいばんおこない、札幌さっぽろ福音ふくいん伝道でんどうかん信徒しんとぬすんでいると詰問きつもんした。中田なかたは、「世界せかいはわれわれの教区きょうくである」とのジョン・ウェスレー標語ひょうごもちいて反論はんろんした。

かつ再婚さいこん[編集へんしゅう]

明治めいじ44ねん死去しきょした前妻ぜんさいかつ

1910ねん11がつごろよりつまかつ葡萄ぶどうじょう妊娠にんしん貧血ひんけつより衰弱すいじゃくし、腹膜炎ふくまくえん併発へいはつして、1911ねん明治めいじ44ねん)3がつ8にち死去しきょした。3月9にち柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいん講堂こうどう葬儀そうぎおこなわれた。東洋とうよう宣教せんきょうかい東京とうきょう部長ぶちょうであった清水しみず俊蔵しゅんぞう司式ししき本多ほんだ庸一よういち代理だいりとして、中田なかた説教せっきょうをした。3月14にちにはかつ追悼ついとうかいおこなわれた。

中田なかたは5月には静岡しずおか神戸こうべ巡回じゅんかい伝道でんどうをした。このころから、カウマンとキルボルンらと東洋とうよう宣教せんきょうかい管理かんり主導しゅどうけんかんして意見いけんちがいがしょうじるようになった。

1911ねん8がつ今井いまいあやめ英語えいごめいIris)と再婚さいこんする。結婚けっこん直後ちょくごの8がつ4にちより、福島ふくしまけん白河しらかわ郡山こおりやま会津若松あいづわかまつ福島ふくしま仙台せんだい、それから山形やまがたけん北上ほくじょう山形やまがた楯岡たておか(げん村山むらやま)、新庄しんじょう秋田あきたけんはい秋田あきた能代のしろ大館おおだて小坂こさかまち最後さいごに、青森あおもりけん弘前ひろさきまで伝道でんどう旅行りょこうをし、そのとし9がつ10日とおか帰京ききょうした。

聖教せいきょうだん事件じけん[編集へんしゅう]

1911ねん明治めいじ44ねん)10がつ25にちに、中田なかた機関きかんほのおした』に東洋とうよう宣教せんきょうかいから分離ぶんりして、あらたに日本にっぽん聖教せいきょうだん設立せつりつすることを宣言せんげんした。これが聖教せいきょうだん事件じけんである。東洋とうよう宣教せんきょうかい運営うんえい主導しゅどうけんめぐ中田なかたとアメリカじんたちとの衝突しょうとつにより決別けつべつをすることになったのである。

事件じけん経緯けいいとしては、中田なかたがわとカウマンがわわかれたが、おおくのもの中立ちゅうりつたもった。分離ぶんり発表はっぴょうしたのち交渉こうしょうつづけられた。両者りょうしゃはそれぞれ分離ぶんり独立どくりつすること了解りょうかいしたが、中田なかたがわ形成けいせい不利ふりかんがえ、1ヶ月かげつ和解わかいし、もとのように協力きょうりょく体制たいせいになった。笹尾ささお中立ちゅうりつ立場たちばたも両者りょうしゃ交渉こうしょう取成とりなした。1911ねん12月の「ほのおした」で中田なかた明治めいじ44ねんだい試練しれんとしであったと述懐じゅっかいした。

笹尾ささお辞任じにん[編集へんしゅう]

1913ねん大正たいしょう2ねん)4がつ笹尾ささお鉄三郎てつさぶろう聖書せいしょ学院がくいん院長いんちょう事実じじつじょう辞任じにんした。笹尾ささお辞任じにん翌年よくねんの5がつ14にちに「ほのおした」で正式せいしき発表はっぴょうされた。その笹尾ささおはフリーの巡回じゅんかい伝道でんどうしゃになり関西かんさい九州きゅうしゅう伝道でんどう旅行りょこうをしたが、鹿児島かごしま肋膜炎ろくまくえんわずら帰京ききょうし、1914ねん大正たいしょう3ねん)12月30にち東京とうきょう病死びょうしした。1915ねん大正たいしょう4ねん)1がつ4にち中田なかた司式ししき聖書せいしょ学院がくいんにて葬儀そうぎおこなわれた。

1916ねん大正たいしょう5ねん) 1がつ中田なかた関西かんさいかい、姫路ひめじ広島ひろしま香澄かすみむら(げん岡山おかやまけん備前びぜん)を巡回じゅんかいする。途中とちゅうつまあやめが病気びょうきであるという電報でんぽうけて、急遽きゅうきょ帰京ききょうした。小原おはら十三じゅうざ丹羽にわ平三郎へいさぶろうらと病気びょうきいやしをいのるとあやめは回復かいふくした。

1916ねん5がつには聖書せいしょ学院がくいん東洋とうよう宣教せんきょうかい大会たいかいひらかれた。J・B・ソントン宣教師せんきょうし中田なかた説教せっきょうをした。この大会たいかいちゅうには神田かんだ浅草あさくさ牛込うしごめなどでも特別とくべつ集会しゅうかいひらかれた。

大正たいしょう5ねん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

特別とくべつ集会しゅうかいわると、中田なかたひさしぶりに関西かんさい方面ほうめん旅行りょこうをした。途中とちゅう名古屋なごや説教せっきょうをし、鳥取とっとり島根しまねけん松江まつえて、さらに島根しまねけん出雲いずも地方ちほう山奥やまおくに、伊藤いとうかおる清水しみず良太郎りょうたろう一緒いっしょ人力車じんりきしゃおこなった。島根しまねけん仁多にたぐん横田よこたまち(げん島根しまねけん奥出雲おくいずもまち)にくと、中田なかた救世きゅうせいぐん隊員たいいん出迎でむかえてくれた。その中田なかた一人ひとり備後びんご(広島ひろしまけん)の国境こっきょうえて、庄原しょうばらについた。そこで、芝居しばい小屋こやりて伝道でんどう集会しゅうかいをした。その西城さいじょうをへて、三次みつぎとお広島ひろしま婦人ふじん集会しゅうかいかたった。

広島ひろしま宇品うじなこうより四国しこく地方ちほう愛媛えひめけんわたり、文治ぶんじまきかいする愛媛えひめけん今治いまばり今治いまばり教会きょうかい(げん日本にっぽん基督教きりすときょうだん今治いまばり教会きょうかい)でかたり、尾道おのみちとおり、東京とうきょうかえった。5月には有馬ありま温泉おんせんでの日本にっぽん伝道でんどうたい年会ねんかい出席しゅっせきして、秋山あきやまゆかり五郎ごろう米田よねだゆたか鈴鹿すずか正一しょういち小出こいで朋治ともはるらにった。そして、神戸こうべ神戸こうべ湊川みなとがわ伝道でんどうかんさんばん伝道でんどう集会しゅうかい開催かいさい説教せっきょうかたった。

1916ねん大正たいしょう5ねん)8がつからは、愛知あいちけん知多ちたぐんにおける愛知あいち修養しゅうようかい竹田たけだしゅんづくりとも講師こうしをした。また、9月には東北とうほく北海道ほっかいどう巡回じゅんかいし、かえりに秋田あきたけん大館おおだてった。そして、10月2にちより開催かいさいされた山陽さんよう秋期しゅうき修養しゅうようかいでは来日らいにちちゅうのバックストンととも講師こうしつとめた。

大正たいしょう6ねん巡回じゅんかい伝道でんどうかみ[編集へんしゅう]

1917ねん大正たいしょう6ねん)1がつ中旬ちゅうじゅんより長野ながのけん上諏訪かみすわまち甲信こうしん修養しゅうようかい出席しゅっせきして、2がつ19にちよりは、飯田いいだ修養しゅうようかいく。4月はまきせき太郎たろうともに、また4がつ11にちより甲府こうふ日本基督教会にほんきりすときょうかい山梨やまなし修養しゅうようかいでは金井かない為一ためいちろうとも説教せっきょうした。4月25にちより29にちまで小石川こいしかわゆびたに福音ふくいん教会きょうかい伝道でんどうかい応援おうえんしたのちに、岩手いわてけん土沢つちさわき、小原おはら十三じゅうざった。

5月15にちからは、名古屋なごや御影みかげ[よう曖昧あいまい回避かいひ]岡山おかやま下関しものせき巡回じゅんかいした。その、6がつ阪神はんしん修養しゅうようかい説教せっきょうし、7がつ岡山おかやまけん河内かわちむら[よう曖昧あいまい回避かいひ]さく西にし修養しゅうようかい説教せっきょうした。また、8がつ3にちより、箱根はこね修養しゅうようかいでバックストンらと説教せっきょうをし、松島まつしま修養しゅうようかいこうとしたが、肋間ろっかん神経痛しんけいつうのために8がつ12にちごろ帰京ききょうして静養せいようした。やまいして、13にちからの浅草あさくさ会館かいかん開館かいかんまんさんねん記念きねんかいではあやめととも出席しゅっせきして説教せっきょうした。

『イエスはる』の原書げんしょいたブラックストン

その塩原しおばら温泉おんせん神谷かみや旅館りょかんでしばらく静養せいようした。そのときに「おもきんし」という再臨さいりんろん原稿げんこうき、ウィリアム・ブラックストンの「イエスはる」という研究けんきゅうしょ翻訳ほんやくおこなった。これが、のちにプロテスタントのキリスト教きりすときょうかい全体ぜんたいんだ再臨さいりん運動うんどうへとつながっていった。

1917ねん9がつ帰京ききょうして日本にっぽんメソジスト教会きょうかい本郷ほんごう中央ちゅうおう教会きょうかい牧師ぼくし小沢おざわ勝之助かつのすけ葬儀そうぎ出席しゅっせきしてピリピしょから説教せっきょうした。そして、9月21にちほのおしたには、病気びょうきいやされたしゃつげした。

東洋とうよう宣教せんきょうかいホーリネス教会きょうかい時代じだい(1917-1928)[編集へんしゅう]

1917ねん10がつ25にちより、東洋とうよう宣教せんきょう大会たいかい聖書せいしょ学院がくいんひらかれて、東洋とうよう宣教せんきょうかいから独立どくりつした新教しんきょうだん設立せつりつする。28にちには中田なかた東洋とうよう宣教せんきょうかい理事りじであったが、新教しんきょうだんしん監督かんとく就任しゅうにんして、しん監督かんとく按手しきおこなわれた。[24]ちいさきれよ、おそれるる勿れ」とだいして説教せっきょうをした。10月31にちしん教会きょうかい任命にんめいしきおこない、東洋とうよう宣教せんきょうかいホーリネス教会きょうかい[25]設立せつりつされる。このはルターの宗教しゅうきょう改革かいかくよんひゃくねん記念きねんであった。[26]ホーリネス教会きょうかい設立せつりつともに、東洋とうよう宣教せんきょうかい総理そうりのチャールズ・カウマンは、中田なかただい部分ぶぶん責任せきにんゆずったかたちになった。

このとし機関きかんほのおした』を『ひじりきよしとも』と改題かいだいした。この雑誌ざっしは、中田なかた主筆しゅひつで、最初さいしょ月刊げっかんであったが、のち週刊しゅうかんになった。

再臨さいりん運動うんどう[編集へんしゅう]

中田なかた重治しげはる内村うちむら鑑三かんぞう木村きむら清松きよまつ再臨さいりん運動うんどうはじめた ころ、1918ころ

1918ねんになり、正月しょうがつ2にちより、5にちまで、神田かんだ教会きょうかい新年しんねんひじりかいひらかれ、中田なかた再臨さいりん問題もんだい説教せっきょう毎朝まいあさした。これが再臨さいりん運動うんどう前哨ぜんしょうせんになった。

柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいんちか内村うちむら鑑三かんぞういえ付近ふきんきた火災かさいときに、中田なかた聖書せいしょ学院がくいん生徒せいと動員どういんして消化しょうか活動かつどう手伝てつだわせた。内村うちむら中田なかたにそのおれいいにてからしたしくなった。中田なかたはホーリネスのよんじゅう福音ふくいんひとつとして再臨さいりん標榜ひょうぼうしていた。また内村うちむらむすめルツとおして再臨さいりん信仰しんこうつようになっていた。神学しんがくちがいはあるがおなじく再臨さいりん両者りょうしゃは、急速きゅうそく接近せっきんするようになった。

1918ねん1がつ6にち神田かんだ基督教きりすときょう青年せいねん会館かいかん(YMCA)でひらかれただいいちかい集会しゅうかいにより、内村うちむら鑑三かんぞう木村きむら清松きよまつ中田なかた重治しげはるらの再臨さいりん運動うんどう開始かいしされ、いちねんはんわたって全国ぜんこく展開てんかいされることになる。これは、当時とうじ日本にっぽんキリスト教きりすときょうかいんだ運動うんどうになる。

5月26にち横浜よこはま青年せいねん会館かいかんはる予言よげん大会たいかい最後さいご集会しゅうかいった。「日出ひのでずるこくよりのぼ天使てんし」というだいで、再臨さいりんにおける日本にっぽん国民こくみん使命しめいについていた。つづいて、平出ひらで慶一けいいち内村うちむら鑑三かんぞう講演こうえんをした。

横浜よこはま講演こうえんえると、下関しものせきき、しんまるり、28にち釜山ぷさんって、3日間にちかん伝道でんどう集会しゅうかいった。そのきょうじょう東洋とうよう宣教せんきょうかい聖書せいしょ学院がくいん講演こうえんをした。そのなでじゅんき6日間にちかん集会しゅうかいをした。翌日よくじつ大連たいれんき、再臨さいりん問題もんだいかたい、日本にっぽん基督教きりすときょうかい説教せっきょうして、23にちハルピンまるり、27にち帰京ききょうする。

中田なかた朝鮮半島ちょうせんはんとう満州まんしゅう旅行りょこうしているあいだに、本郷ほんごう教会きょうかいでは主催しゅさいしゃ海老名えびな弾正だんじょうらによって再臨さいりん運動うんどう反対はんたい運動うんどうきた。メソジストの今井いまい三郎さぶろうせい公会こうかい杉浦すぎうら貞二郎ていじろうらが弁士べんしとして反対はんたいろん展開てんかいした。

反対はんたい運動うんどうにもかかわらず、7がつ26にちより31にちまで、箱根はこね修養しゅうようかい開催かいさいした。中田なかたと、内村うちむら鑑三かんぞう秋山あきやまゆかり五郎ごろう車田くるまだあき平出ひらで慶一けいいちらが再臨さいりん講演こうえんおこなった。

その中田なかたはねこう金井かない為一ためいちろう一緒いっしょに、松島まつしま修養しゅうようかい講師こうしをしにかけた。帰途きと車中しゃちゅう山室やまむろ軍平ぐんぺい一緒いっしょになりかたった。そして、はねをつれて大阪おおさかき、基督教きりすときょう同志どうしせい交会の再臨さいりんのためのひじりきよし団体だんたい講演こうえんをした。

1919ねんになっても再臨さいりん運動うんどうつづけられたが、6がつになって、中田なかたたちが教会きょうかい攻撃こうげきしたという理由りゆうで、青年せいねん会館かいかんから使用しようことわられた

大正たいしょうはちねん後半こうはん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

1919ねん大正たいしょう8ねん)7がつ再臨さいりん運動うんどう収束しゅうそくすると、千葉ちばけん佐倉さくら大阪おおさかったのち、8がつつまあやめを同伴どうはんして北海道ほっかいどう旅行りょこうこころみた。仙台せんだい教会きょうかい(日本にっぽん基督教きりすときょうだん仙台せんだい青葉あおばそう教会きょうかい)で説教せっきょうしたのち、あやめの故郷こきょう遠田えんたぐん沼部ぬまべむら小塩おしおむら(げん宮城みやぎけん大崎おおさき)で、あやめのちち一緒いっしょに、前年ぜんねん死去しきょしたあやめはは遺骨いこつ埋葬まいそう石碑せきひてた。

その小樽おたる室蘭むろらん弘前ひろさき小坂こさかった。また、9月には岐阜ぎふけん飛騨高山ひだたかやま公会堂こうかいどう説教せっきょうをして、北陸ほくりくとお帰京ききょうした。10月には、姫路ひめじ山陽さんよう集会しゅうかいで、トーレーと一緒いっしょ講演こうえんをした。息子むすこ中田なかた羽後うごはトーレーと一緒いっしょ渡米とべいしてロサンゼルスでまなぶことになった。トーレー帰国きこく中田なかた説教せっきょうをした。その京都きょうとき、11月には唐津からつ赤穂あこう神戸こうべ熊内くもち教会きょうかい巡回じゅんかいした。

その関西かんさいかい12がつ1にち青木あおききよし十郎じゅうろう司会しかい神戸かんべイエス・キリスト教会きょうかい(げん日本にっぽん基督教きりすときょうだん主恩しゅおん教会きょうかい)で説教せっきょうした。その福岡ふくおか九州学院きゅうしゅうがくいん講演こうえんし、長崎ながさきでは米田よねだゆたか再会さいかいして、東山ひがしやま学院がくいん日本にっぽん基督教きりすときょうかい説教せっきょうをした。その奈良なら岡山おかやま丸亀まるがめ伊勢いせって帰京ききょうした。

大正たいしょうのリバイバル[編集へんしゅう]

大正たいしょう時代じだいのリバイバリスト柘植つげ知人ちじん

再臨さいりん思想しそう高揚こうようなかで、1919ねん大正たいしょう8ねん)11月17にちよるに、秋山あきやまゆかり五郎ごろう柘植つげ知人ちじん小原おはら十三じゅうざ鈴木すずきせんすけらが中心ちゅうしんになった淀橋よどばし教会きょうかい徹夜てつや祈祷きとうかいがきっかけになり、だいいちかい大正たいしょう中期ちゅうきホーリネス・リバイバルきる。かれらは信州しんしゅう飯田いいだ教会きょうかい集会しゅうかいのためにいのった。すると、全員ぜんいんはげしいよろこびと感動かんどうつつまれた。一向いっこう飯田いいだで4日間にちかんいのかいおこなリバイバルこし、さらに11月23にち東京とうきょうもど淀橋よどばし教会きょうかい集会しゅうかい続行ぞっこうした。

関西かんさい出張しゅっちょうしていた中田なかた重治しげはるは、すぐに東京とうきょうもど集会しゅうかい指導しどうした。11月28にちにはせいべつかいひらかれ、11月30にち礼拝れいはいペンテコステてき熱狂ねっきょうてき光景こうけいになった。この熱狂ねっきょう翌年よくねんつづき、よく1920ねん大正たいしょう9ねん)3がつ26にちから30にちまで、東京とうきょう聖書せいしょ学院がくいんで、秋山あきやまゆかり五郎ごろうまきせき太郎たろう中田なかた重治しげはるらが発起人ほっきにんになって、ちょう教派きょうは日本にっぽん全国ぜんこくリバイバル集会しゅうかいたれた。[27]

このリバイバル運動うんどう結果けっかホーリネス教会きょうかい急激きゅうげき成長せいちょうした。その全国ぜんこく各地かくちでリバイバル大会たいかいひらかれ、リバイバルの雰囲気ふんいきはホーリネス教会きょうかい標準ひょうじゅんてきなスタイルになっていった。

米国べいこく旅行りょこう (だい3度目どめ世界せかい旅行りょこう)[編集へんしゅう]

1920ねん大正たいしょう9ねん9月22にち春洋はるみまる横浜よこはまこう出航しゅっこうした。10月1にちホノルル到着とうちゃくした。伝道でんどうワイパフったのちに、きたアメリカにかって出航しゅっこうする。10月8にちにはサンフランシスコ到着とうちゃくした。24ねんまえひじりけたときのきっかになった「ひじりきよしちから」の著者ちょしゃヒルスにパサデナ大学だいがく(げん、ポイント・ローマ・ナザレン大学だいがく)でった。

10がつ20日はつかにより4日間にちかんロサンジェルス日本人にっぽんじん教会きょうかい説教せっきょうした。伝道でんどう集会しゅうかい回心かいしんした人々ひとびとによって、北米ほくべいホーリネス教会きょうかいがカリホルニアしゅうサンノレンゾ(San Lorenzo)に建設けんせつされる。

中田なかた重治しげはる羽後うご親子ちかこ

1921ねん大正たいしょう10ねん)4がつ中田なかた重治しげはるともシカゴくためにロサンジェルスをはなれたのちは、中田なかたかれらをみちびく。[28]さらに、東海岸ひがしかいがん途中とちゅうニューヨークり、メソジスト教会きょうかい監督かんとく平岩ひらいわ愃保面会めんかいした。そのフィラデルフィアき、ワシントンD.C.により、ノースカロライナしゅうフェアモント英語えいごばん説教せっきょうしたのちフロリダしゅうってマイアミ休息きゅうそくした。その、カリフォルニアしゅうもどる。

1921ねん9がつ中田なかた重治しげはる羽後うごは、カリフォルニアしゅう北米ほくべいホーリネス教会きょうかい最初さいしょ洗礼せんれいしきったのち、とも帰国きこくする。

1921ねんじょうしゅう草津くさつったときは、三上みかみ千代ちよ出迎でむかえた。

1922ねんごろ中田なかだ前列ぜんれつひだりより1にん後妻ごさい中田なかたあやめ

大正たいしょうじゅういちねん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

1922ねん大正たいしょう11ねん)の新年しんねん福音ふくいん宣伝せんでん大会たいかいで、神田美土代かんだみとしろまち青年せいねん会館かいかん秋山あきやまゆかり五郎ごろうとも説教せっきょうした。これは、「基督教きりすときょう攻勢こうせい運動うんどう」とづけられた。5まんまいのチラシと、1まんほん三角さんかくしょうはたをと1000えんくらいの経費けいひ使つかってだい規模きぼ伝道でんどう展開てんかいした。羽後うご音楽おんがく指導しどうをした。

5月1にちより5にちまで、日本にっぽん全国ぜんこくリバイバル大会たいかい最中さいちゅうに、中田なかた虫垂炎ちゅうすいえんくるしんだ。5月30にちより、鳥取とっとり米子よなご松江まつえ神戸こうべ唐津からつ島原しまばら宮崎みやざき天幕てんまく集会しゅうかい鹿児島かごしま福岡ふくおか別府べっぷ門司もじなどの巡回じゅんかい伝道でんどうした。島原しまばらからふねったときに、腎臓じんぞう結石けっせきくるしんだ。

8がつ2にちから、9月9にちまで、聖書せいしょ学院がくいん夏期かき講習こうしゅうかいひらいたが、この期間きかんちゅうに、中田なかたこころ嚢炎にかかったが、かみによっていやされた。

9がつ中旬ちゅうじゅんから朝鮮ちょうせん満州まんしゅう旅行りょこうかけた。9月14にち下関しものせきから出発しゅっぱつして、けいみなみひろししゅう滞在たいざいして、そのぜんみなみ光州こうしゅうき、大田おおたきょうしろソウル)にき、きょうじょう新築しんちく聖書せいしょ学院がくいんかたった。

田中たなかしん三郎さぶろうともに、朝鮮ちょうせん総督そうとく訪問ほうもんして、らいびょうひと救済きゅうさいについての助言じょげんいただいた。 21にちには奉天ほうてんき、滞在たいざいちゅう3かい集会しゅうかいをした。そして、なでじゅんで4かい集会しゅうかいをして、朝鮮ちょうせんもどり、光州こうしゅうで3かい集会しゅうかいをした。光州こうしゅうでは、らい病院びょういん患者かんじゃ慰問いもんした。

正式せいしき監督かんとく就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1922ねん大正たいしょう11ねん)10がつ2にちより6にちまで、柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいんひらかれたホーリネス年会ねんかいで、議長ぎちょう選出せんしゅつされた。監督かんとくもうけることが決定けっていされ、監督かんとく投票とうひょうおこなわれ中田なかた正式せいしき初代しょだい監督かんとく就任しゅうにんした。就任しゅうにんすると中田なかた監督かんとく終身しゅうしんではなく5ねんいち改選かいせんされるものであるとかたった。

つづいて北海道ほっかいどう小樽おたるけんじどうしき特別とくべつ集会しゅうかいに、さらに、名古屋なごや大垣おおがき鹿児島かごしま奄美あまみ大島おおしま喜界きかいとう大島おおしま名瀬なぜ、12月には沖縄おきなわわた那覇なはった。この旅行りょこうで「ふゆでものいるくに」という一文いちぶんいた。

大正たいしょうじゅうねん伝道でんどう旅行りょこう[編集へんしゅう]

1923ねん大正たいしょう12ねん)2がつ5にち都田みやこだ恒太郎つねたろう要請ようせいにより、羽後うごとも青山学院あおやまがくいん中学ちゅうがく学生がくせい説教せっきょうした。4月11にちから6日間にちかん連合れんごうてきなリバイバル大会たいかいひらき、外部がいぶからは日本にっぽん組合くみあい基督教きりすときょうかい大阪おおさか天満てんま教会きょうかい武本たけもと喜代きよぞう説教せっきょうた。その、5月はうえしゅう草津くさつ明星みょうじょうだん信州しんしゅう各地かくち、5月11にちには中国ちゅうごく地方ちほう近畿きんき地方ちほう巡回じゅんかい、6がつ中田なかた重治しげはる東北とうほく北海道ほっかいどう伝道でんどうた。旭川あさひかわ十勝とかち釧路くしろ美幌びほろ、そして網走あばしりから札幌さっぽろまわった。

北海道ほっかいどうでアイヌじん伝道でんどうしゃこう寅三とらぞうった。6月には疲労ひろうちょうチブス病気びょうきにかかるが、かみ癒によりいやされて、7がつ13にちより東北とうほく北陸ほくりく地方ちほう巡回じゅんかいした。

このころ中田なかた幸田こうだ露伴ろはんたずねてかたった。[29]幸田こうだでコドモかい時折ときおりひらかれるようになり、子供こども伝道でんどうおこなわれた。

全国ぜんこく教派きょうは聖書せいしょ大会たいかい[編集へんしゅう]

聖書せいしょ学院がくいんないでの集会しゅうかい(1923ねんごろ)

1923ねん大正たいしょう12ねん)に聖書せいしょ学院がくいん夏期かき聖書せいしょ講習こうしゅうかいひらかれた。その直後ちょくご、24にちより、箱根はこねで「全国ぜんこく教派きょうは聖書せいしょ大会たいかい」がひらかれた。これは、聖書せいしょ信仰しんこう同士どうし結束けっそくするための運動うんどうであり、「聖書せいしょかえれ」をスローガンにした。発起人ほっきにんには、せい公会こうかいジョン・バチェラーらの宣教師せんきょうしや、日本にっぽん基督教きりすときょうかいひきしんじあきら,亀谷かめたに凌雲りょううん、メソジストの釘宮くぎみや辰生たつおなどちょう教派きょうはで、中田なかたは、金森かなもり通倫つうりん木村きむら清松きよまつ平出ひらで慶一けいいち一宮いちのみや政吉まさきちらととも実行じっこう委員いいんつとめた。中田なかたはこのとき誤謬ごびゅう原因げんいん」という講演こうえんをした。それは、のちに、「聖書せいしょ信仰しんこうさけび」というだい出版しゅっぱんされた。

関東大震災かんとうだいしんさい[編集へんしゅう]

1923ねん9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさいする。ホーリネス教会きょうかいは、神田かんだ浅草あさくさ本所ほんじょ下谷しもたによん教会きょうかい深川ふかがわ伝道でんどうしょ横浜よこはま教会きょうかいと、北条ほうじょう教会きょうかいうしなわれた。

柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいん屋根やねかわられたり、かべやぶれたりした程度ていど被害ひがいだった。また、中田なかた自宅じたく倒壊とうかいをまぬかれた。柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいんはクリスチャンの罹災りさいしゃ避難ひなんしょとなり、50めい男女だんじょ寄宿きしゅくした。また、学院がくいん寄宿舎きしゅくしゃ解放かいほうされた。中田なかた救護きゅうご運動うんどうのために大車輪だいしゃりんもちい、みずか罹災りさいしゃ訪問ほうもんした。

中田なかたは、この震災しんさいとおして、東京とうきょう道徳どうとくてき堕落だらくについてのばちであるが、かみ恩恵おんけいによっていかりをとどめられたのだから、あらためてかみかえるべきであるとおもった。また、被害ひがい江東こうとう方面ほうめんおおきく、その地方ちほう伝道でんどうおくれていたので信仰しんこうたずになくなった罹災りさいしゃがいたであろうことをやみ、下町したまち霊魂れいこんのために教会きょうかい謙虚けんきょ真摯しんし態度たいどがるべきだとおもった。

罹災りさいしゃたちは聖書せいしょ学院がくいん避難ひなんしてとき中田なかたて「ハレルヤ、ハレルヤ」とい、中田なかたも「ハレルヤ、ハレルヤ」と連呼れんこした。

ブラジルの日系にっけいじん伝道でんどう[編集へんしゅう]

1926ねん大正たいしょう15ねん)、ホーリネス教会きょうかい台湾たいわん在留ざいりゅう邦人ほうじん伝道でんどうとブラジルでの日系にっけいじん伝道でんどう本格ほんかくてき開始かいしされた。中田なかた植民しょくみん邦人ほうじん伝道でんどう外国がいこくじん伝道でんどういしとしてかんがえて、満州まんしゅう朝鮮ちょうせん台湾たいわん伝道でんどうすすめた。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)、金森かなもり通倫つうりん救世きゅうせいぐんはなれ、ホーリネス教会きょうかいかかわり、「ひゃくまんすくいれい運動うんどう」を提唱ていしょうした。中田なかたもその運動うんどうをホーリネス教会きょうかいをあげて協力きょうりょくした。ホーリネス教会きょうかいだいかい総会そうかいひらかれた、この総会そうかいなかで「が、ホーリネス教会きょうかい極力きょくりょくひゃくまんすくいれい完成かんせいす」との、金森かなもり通倫つうりん決議けつぎ採択さいたくされた。

だい2だい監督かんとく就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)9がつ9にちより12にちまで、日本にっぽんホーリネス教会きょうかいだい総会そうかい淀橋よどばし教会きょうかいおこなわれた。中田なかた議長ぎちょうつとめ、三日みっか監督かんとく選挙せんきょおこなわれ、中田なかたが49ひょう獲得かくとくし、だい2だい監督かんとく再選さいせんした。その総会そうかいで、中田なかた金森かなもり通倫つうりん紹介しょうかいして、ひゃくまんすくいれい運動うんどう決議けつぎ可決かけつした。

昭和しょうわのリバイバルがこった柏木かしわぎ時代じだい聖書せいしょ学院がくいん正門せいもん
聖書せいしょ学院がくいんおこなわれたホーリネスのリバイバル宣教せんきょう大会たいかい、1928ねん

豪州ごうしゅう旅行りょこう (だい4かい世界せかい旅行りょこう)[編集へんしゅう]

だい総会そうかい中田なかた豪州ごうしゅうニュージーランド訪問ほうもんした。以前いぜん聖書せいしょ学院がくいん止宿ししゅくさせたマオリじんからの招待しょうたいであった。 1927ねん昭和しょうわ2ねん)11月18にち長崎ながさきこうより三島みしままる出航しゅっこうした。一時いちじ香港ほんこん寄港きこうする。

さらに南下なんかし、12月1にちについにはじめて赤道あかみち通過つうかして、12月12にちには豪州ごうしゅうシドニーいた。さらに、12月16にちニュージーランドけて出航しゅっこうして、12月20にちウェリントンいた。マオリじんのラタナのむらで、マオリじんメソジストの総理そうりハッドンに面会めんかいした。

12月28にちより1がつ2にちにケンブリッジのキャンプ集会しゅうかい説教せっきょうをした。そので、オークランドマタマタ、ウェリントンにった。シドニーで2がつ22にちははせんだい死去しきょらせの電報でんぽうけ、3月27にちには帰国きこく途上とじょうシンガポール中田なかた羽後うご夫妻ふさいった。シンガポールから宮崎みやざきまるり、香港ほんこん上海しゃんはい経由けいゆして帰国きこくした。

日本にっぽんホーリネス教会きょうかい時代じだい(1928-1933)[編集へんしゅう]

東洋とうよう宣教せんきょうかいからの自立じりつ[編集へんしゅう]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)4がつにホーリネス教会きょうかいだい10ねんかいひらかれて、ホーリネス教会きょうかい東洋とうよう宣教せんきょうかいから経済けいざいてき自立じりつすることになり、日本にっぽんホーリネス教会きょうかいしょうするようになる。そして、5月1にちをホーリネス自給じきゅう記念きねんさだめ、東洋とうよう宣教せんきょうかいから援助えんじょをやめて自給じきゅうすること月給げっきゅうせい全廃ぜんぱい満場一致まんじょういっち可決かけつした。

毎年まいとし5がつ1にちをホーリネス教会きょうかい自給じきゅう記念きねんさだめることになった。中田なかた月額げつがく200えん監督かんとくきゅうことわり、生徒せいと一緒いっしょ食事しょくじとするようになった。ここに、東洋とうようホーリネス教会きょうかい東洋とうよう宣教せんきょうかい(OMS)から完全かんぜん独立どくりつし、正式せいしき名称めいしょう日本にっぽんホーリネス教会きょうかいしょうするようになる。

金森かなもり通倫つうりん加入かにゅう[編集へんしゅう]

救世きゅうせいぐん時代じだい軍服ぐんぷく姿すがた金森かなもり通倫つうりん

また、熊本くまもとバンド金森かなもり通倫つうりん聖書せいしょ学院がくいん名誉めいよ教授きょうじゅ任命にんめいされ、牧師ぼくし福音ふくいん使ばれるようになった。さらに、5月14にち機関きかん教会きょうかいを、いつでもいのりがささげられるようにいのりのいえ改称かいしょうするようにめいじた。1928ねん金森かなもり通倫つうりんが、救世きゅうせいぐん脱退だったいして、ホーリネス教会きょうかい入会にゅうかいする。以後いご金森かなもりは、中田なかた重治しげはる絶大ぜつだい信頼しんらいもとに、ホーリネス教会きょうかい重要じゅうようはたらきをおこなう。

1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ23にち物部ものべ赳夫たけおつづいて田村たむらこうブラジル宣教師せんきょうしとして出発しゅっぱつした。7月25にちより30にちまで箱根はこねリバイバルひじりかいはじめとして、青森あおもりけんだいつば奥羽おううリバイバルひじりかい六甲山ろっこうざん関西かんさいリバイバルひじりかい、さらに九州きゅうしゅうリバイバルひじりかい説教せっきょうした。

台湾たいわん北日本きたにっぽんたび[編集へんしゅう]

台湾たいわん活躍かつやくした宣教師せんきょうし井上いのうえ伊之助いのすけ

1928ねん昭和しょうわ3ねん中田なかた中田なかた金森かなもり通倫つうりんとも台湾たいわん井上いのうえ伊之助いのすけ訪問ほうもんして、各地かくちまわり、台湾たいわん高雄たかおにもおこなった。9月7にち帰国きこくした。10月には、きたかって出発しゅっぱつして、水戸みと日立ひたち鉱山こうざん仙台せんだい一ノ関いちのせき函館はこだて小樽おたる札幌さっぽろ旭川あさひかわ釧路くしろ野付のつけうし美幌びほろ網走あばしりまわり、だいはく昭和しょうわ天皇てんのう大典たいてん祝典しゅくてん集会しゅうかいをし、そこで日本にっぽんメソジスト教会きょうかい牧師ぼくし吉崎よしざき俊雄としおった。11月16にち帰京ききょうした。

12月4にち中田なかたあやめのいもうと今井いまい梅代うめよ死去しきょする。保坂ほさかはじめ武蔵むさし)としげるることになった。12月7にちより、大阪おおさか関西かんさいリバイバルひじりかい金森かなもり一緒いっしょ出席しゅっせきして、鳥取とっとり中国ちゅうごく地方ちほうまわって12月22にち帰京ききょうする。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)1がつ29にち宗教しゅうきょう法案ほうあん反対はんたい信徒しんと大会たいかい青山あおやま会館かいかんひらかれて、中田なかた金森かなもり綱島つなしま佳吉よしきち富永とみながいさおすりとも講演こうえんした。12にち5にちのちに、中田なかたよんじょゆたか結婚けっこんする岡本おかもとわれがアメリカより帰国きこくした。

東洋とうよう宣教せんきょうかい理事りじ[編集へんしゅう]

聖書せいしょ学院がくいんきょう役者やくしゃかい中田なかた前列ぜんれつひだりから4にん

1929ねん昭和しょうわ4ねん)3がつ23にちより、聖書せいしょ学院がくいんでホーリネス大会たいかいひらかれて、中田なかた金森かなもりとレテー・カウマンが説教せっきょうした。その年会ねんかい東洋とうよう宣教せんきょうかい理事りじかいくわわることになり、中田なかた公式こうしき創立そうりつしゃ一人ひとりとしてみとめられた。また、教職きょうしょく試験しけん撤廃てっぱいすることになった。

そこで、宗教しゅうきょう法案ほうあん反対はんたい日本基督教会にほんきりすときょうかいひきしんじあきらがきたので宗教しゅうきょう法案ほうあんとも反対はんたいすることを宣言せんげんした。そして、東洋とうよう宣教せんきょうかいホーリネス教会きょうかい財団ざいだん法人ほうじん組織そしきすることになり、東洋とうよう宣教せんきょうかい淀橋よどばし柏木かしわぎ牛込うしごめ財産ざいさんをホーリネス教会きょうかい譲渡じょうとすることがまった。その年会ねんかい中田なかたあやめが按手れいけ、正式せいしき日本にっぽんホーリネス教会きょうかい教職きょうしょくになる。

ブラジル・イギリス・アメリカ旅行りょこうだい5かい世界せかい旅行りょこう[編集へんしゅう]

ブラジル旅行りょこう[編集へんしゅう]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)3がつ28にちに、中田なかた重治しげはる湯浅ゆあさ十郎じゅうろう湯浅ゆあさ八郎はちろうおとうと一家いっかともブラジルイギリスアメリカ外遊がいゆう出発しゅっぱつする。3月31にち門司もじ出発しゅっぱつして、4がつ4にちには香港ほんこんり、きゅうりゅう説教せっきょうをして、シンガポールき、4がつ8にちダーハン説教せっきょうをする。23ねんぶりにムーディー聖書せいしょ学院がくいん同窓生どうそうせいリングランドとジョルダンという婦人ふじんった。

5月12にちポート・エリザベスいて、15にちにはケープタウン到着とうちゃくして、29にちブラジルサントスいた。サンパウロ物部ものべ赳夫たけお教会きょうかいウニーダ長老ちょうろう教会きょうかい説教せっきょうをした。アラサッパよりルサンビアき、ホッカワ、プレジデント、ウェンセスラウカンバラてサンパウロにもどり、5月27にちマッケンジー大学だいがく説教せっきょうした。7月1にちワシントン・ルイス大統領だいとうりょう面会めんかいした。7月3にちリオデジャネイロ出発しゅっぱつして、大西洋たいせいようわたり17にちリスボン寄港きこうする。

イギリス旅行りょこう[編集へんしゅう]

20日はつかリバプール到着とうちゃくすると、ジャクソンとい人物じんぶつ出迎でむかえられた。ボルケンヘッドき、ドライスデール聖書せいしょ学院がくいん止宿ししゅくして、ドライスデールのインマヌエル教会きょうかい説教せっきょうした。レテー・カウマンたちが同行どうこうした。

つたゆう(1947ねん)

ロンドンではバークレー・バックストンおうとおもったが留守るすうことができず、バーンマウス日本にっぽん伝道でんどうたい修養しゅうようかいき、バックストンとバゼット・ウィルクス再会さいかいした。ブラジルではホーリネス日本人にっぽんじん教会きょうかい訪問ほうもんする。中田なかた週間しゅうかん滞在たいざいして説教せっきょうをして教会きょうかいはげました。

ロンドン大学だいがく在学ざいがくちゅうつたゆうともにドンカスターとサンダランドった。9月9にちロンドンのウェスレアンのサウスウールのキングス・ホールで説教せっきょうした。そのときに「日本にっぽんのウェスレー」と広告こうこくされた。

アメリカ旅行りょこう[編集へんしゅう]

大西洋たいせいようわたり、9月17にちニューヨークき、21にちビンガムトンった。翌日よくじつシンシナタ聖書せいしょ学校がっこうった。アズベリー大学だいがくき、竹田たけだしゅんづくり息子むすこった。また土屋つちや顕一けんいちという哲学てつがく博士はかせった。[30]のちテーラー大学だいがく(Taylor University)で説教せっきょうして、さらに、シカゴき、ムーディー聖書せいしょ学院がくいん(エバンジェリスティック・インスチチュート)に宿泊しゅくはくした。

そして、10がつ中旬ちゅうじゅんまでバークレーモデストサクラメントとおり、カリフォルニアしゅうポイント・ローマ・ナザレン大学だいがく(Point Loma Nazarene University)で説教せっきょうした。つづいて、サンディエゴきよしかいち、23にちはペニエル伝道でんどうかんで、そしてハンターの聖書せいしょ学校がっこうでも説教せっきょうをした。24にちサンピドロ(San Pedro)よりマニラまるで、小原おはら十三じゅうざ同船どうせんしつつ日本にっぽんへの帰国きこくいた。

帰国きこく[編集へんしゅう]

11月12にち横浜よこはま到着とうちゃくした。12月20にちより、淀橋よどばし教会きょうかいだい15かい淀橋よどばしひじりかいひらかれた。中田なかた金森かなもり通倫つうりんまきせき太郎たろう一緒いっしょ説教せっきょうした。「日本にっぽんのホーリネスじん世界せかいてき使命しめい」という内容ないようかたった。最後さいごばんに「よんじゅう福音ふくいん」という自作じさくさん美歌みかうたった。

12月によんじゅう福音ふくいん大会たいかいひらかれ、1930ねん4がつ1にち筆記ひっきされたものが出版しゅっぱんされた。

昭和しょうわ初期しょきのリバイバル[編集へんしゅう]

中田なかた重治しげはる監督かんとく

1930ねん昭和しょうわ5ねん)1がつ1にち青年せいねん会館かいかん聖書せいしょ信仰しんこうかい説教せっきょうをし、2がつ5にちより7にちまで上諏訪かみすわひじりかいった。1930ねん2がつそう選挙せんきょで『教職きょうしょくしゃ落選らくせんいのれ』とった。

2がつ5にちから9にちまで、神田かんだ教会きょうかいひらけきょうさんじゅう周年しゅうねん記念きねん伝道でんどうかいひらかれた。2月14にちより、18にちまで弘前ひろさき新年しんねんひじりかい出席しゅっせきした。4月1にちから、ホーリネス大会たいかいひらかれ、土山つちやま鉄次てつじ講師こうしをした。

日比谷公会堂ひびやこうかいどう東洋とうよう宣教せんきょうかいひらききょうさんじゅうねん記念きねん伝道でんどうかいとして「ただしんぜよ大会たいかい」がひらかれた。銀座ぎんざまるうちみっつのグループが路傍ろぼう行軍こうぐんした。

朝鮮ちょうせん満州まんしゅうたび[編集へんしゅう]

4がつ27にちから、中田なかた朝鮮ちょうせん満州まんしゅう地方ちほう旅行りょこうき、川端かわばた京五郎きょうごろう同行どうこうした。5月8にち水原みずはら公会堂こうかいどう説教せっきょうした。ここは、まつみやびきゅうがいたところであった。きょうじょうき、12にち公会堂こうかいどう説教せっきょうした。もり五郎ごろう婦人ふじん実家じっかである本町ほんまち警察けいさつ署長しょちょう小松こまつ止宿ししゅくした。

13にちあさ安東あんどうき、神社じんじゃ参拝さんぱい拒否きょひした女学生じょがくせい停学ていがく問題もんだいのためにろんじた。15にち奉天ほうてんき、17にちなでじゅんき、19にちりょうき、20日はつか大連たいれんった。満州まんしゅう牧場ぼくじょう経営けいえいしていた勝俣かつまたいえまった。みなみ満州まんしゅう鉄道てつどう大倉おおくら理事りじ訪問ほうもんして女学生じょがくせい停学ていがく問題もんだいについてはなった。

5月19にち新宿しんじゅく柏木かしわぎにあった聖書せいしょ学院がくいんで2かい昭和しょうわ初期しょきホーリネス・リバイバルこる。大連たいれんにいた中田なかた連絡れんらくけて、5月25にち東京とうきょうもどった。

中田なかた帰国きこくしたら、30にちから6がつ7にちまで、東京とうきょう市内しないがい教会きょうかいでリバイバル祈祷きとうかいたれた。6月8にちペンテコステ大会たいかい聖書せいしょ学院がくいんひらかれて、英国えいこく米国べいこく、ロシア、南洋なんよう、ブラジル、台湾たいわん朝鮮ちょうせん高砂たかさごぞくアイヌ修養しゅうようせいあかした。中田なかた説教せっきょうをしたが、聖霊せいれいのリバイバルは悪魔あくまのリバイバルであることも危惧きぐして、雑誌ざっし一文いちぶんせて警告けいこくした。

神社じんじゃ問題もんだい[編集へんしゅう]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)の日本にっぽんホーリネス教会きょうかい年会ねんかいで、「神社じんじゃ問題もんだいたいする建議けんぎあん」が上程じょうていされた。それによると、年会ねんかいは、「神社じんじゃ」をひとつの宗教しゅうきょうとしてなすということであった。

中田なかたはその機関きかんに「神社じんじゃ問題もんだいかんする進言しんげん」を公開こうかいじょうとして発表はっぴょうした。また、「信仰しんこう自由じゆう問題もんだい」なる一文いちぶん発表はっぴょうして、この神社じんじゃ問題もんだいろんじた。

1928ねん昭和しょうわ3ねん東京とうきょう府立ふりつだいよん中学校ちゅうがっこうで、ホーリネス教会きょうかい幹部かんぶ息子むすこ神社じんじゃ参拝さんぱい拒否きょひしたという理由りゆう退学たいがく要求ようきゅうされた。さん年間ねんかん教師きょうしとのたたかいにより、生徒せいと神経しんけい衰弱すいじゃくになり、期限きげん休学きゅうがくすることになり、ついには退学たいがくすることになった。

クリスチャン政治せいじ田川たがわ大吉郎だいきちろう

神社じんじゃ問題もんだいのために、中田なかたは6がつ13にち小原おはらじゅうさんつかさらとともに、民政みんせいとう有力ゆうりょくしゃおとずれた。また、田川たがわ大吉郎だいきちろうともに、ひらけつとむしょう外務省がいむしょうおとずれてうったえかけた。

この時期じき地方ちほう公立こうりつ学校がっこうではこのような問題もんだい度々たびたびはじめ、クリスチャン教職員きょうしょくいんらが免職めんしょくされる事件じけんこった。中田なかたはこれらにたいして、「軍事ぐんじ教練きょうれん賛成さんせいだが神社じんじゃ参拝さんぱい反対はんたい」という論評ろんぴょう発表はっぴょうした。

台湾たいわん旅行りょこう[編集へんしゅう]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月2にちに、中田なかた吉川よしかわみのる同伴どうはんして台湾たいわんけて出発しゅっぱつした。神戸こうべ集会しゅうかいをしたのちに、門司もじこうから海路かいろで、もとたかしき、台北たいぺいき、ラジオで「植民しょくみん宗教しゅうきょう」とだいする放送ほうそうをした。だいいねほど台湾たいわんじん教会きょうかい説教せっきょうして、12月7にちからきたとう温泉おんせんきょう役者やくしゃかいをしたころからはげしい神経痛しんけいつうおぼえてたいみなみからかえし、くわ扶丸門司もじ東京とうきょうかえった。

日本にっぽんホーリネス教会きょうかいのリバイバル大会たいかい(1932ねん)

1932ねん昭和しょうわ7ねん)になってもあまり旅行りょこうはできなくなり、静養せいようした。検査けんさけて、胆石たんせきやまいであると判明はんめいした。その中田なかたは「難病なんびょうよりいやさる」とのぶん発表はっぴょうして、トラホーム、はいうみよう、赤痢せきりリューマチ動脈どうみゃく硬化こうか肋間ろっかん神経痛しんけいつう食道しょくどうこぶよりいやされたことをあかした。2がつ10日とおかせいべつかいでは説教せっきょうできるまでになった。

分裂ぶんれつ(1933-1936)[編集へんしゅう]

1932ねんごろ中田なかた柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいん教師きょうしじん

1932ねん昭和しょうわ7ねん日本にっぽん基督きりすと浅草あさくさ教会きょうかい牧師ぼくし永井ながい直治なおじわたしやく新約しんやく聖書せいしょ出版しゅっぱんした。そのとき中田なかたはその聖書せいしょ普及ふきゅうのために、日本にっぽん聖書せいしょ会社かいしゃ設立せつりつする。

にちどうろん[編集へんしゅう]

1932ねん11月に、淀橋よどばし教会きょうかいで「聖書せいしょよりたる日本にっぽん」という聖書せいしょ解釈かいしゃく連続れんぞく講演こうえんおこなう。[31]そのなかで、中田なかた教職きょうしょく個人こじん伝道でんどう教会きょうかい形成けいせいをすることよりも、キリストの再臨さいりんとユダヤ民族みんぞく回復かいふくのためのいのりが優先ゆうせん事項じこうである主張しゅちょうした。この中田なかた主張しゅちょうれる教職きょうしょく信徒しんともいたが、米田よねだゆたか教授きょうじゅたちは批判ひはんてきであった。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ聖書せいしょ信仰しんこう連盟れんめい大阪おおさか自由じゆうメソヂスト神学校しんがっこう(げん大阪おおさかキリスト教きりすときょう短期大学たんきだいがく)で設立せつりつされ、中田なかた理事りじちょうえらばれた。しかし、このとしあききたホーリネス分裂ぶんれつ事件じけん混乱こんらんで、実質じっしつてきはたらきをすることなく消滅しょうめつする。

1933ねん4がつに、中田なかた昭和しょうわ天皇てんのうから観桜かんおうかい招待しょうたいされて、夫婦ふうふ参加さんかしている。

臨時りんじ総会そうかい-監督かんとく解職かいしょく[編集へんしゅう]

委員いいんかいのメンバー(ひだりから、米田よねだゆたか一宮いちのみや政吉まさきち菅野かんのするど小原おはら十三じゅうざ車田くるまだあき

中田なかたは1933ねん9がつ22にち聖書せいしょ学院がくいん教授きょうじゅ車田くるまだあき米田よねだゆたか小原おはら十三じゅうざ一宮いちのみや政吉まさきち土屋つちや顕一けんいち)に日本にっぽんホーリネス教会きょうかい運営うんえい方針ほうしん伝道でんどう中心ちゅうしんではなく、キリストの再臨さいりんユダヤ民族みんぞく回復かいふくのためのいのりに専念せんねんすべきという、自分じぶん方針ほうしんしたがって聖書せいしょ学院がくいんおしえるように要求ようきゅうする書簡しょかんおくった。

中田なかた要求ようきゅうたいして、聖書せいしょ学院がくいん教授きょうじゅは、従来じゅうらいのホーリススの伝統でんとうてき教理きょうり否定ひていするものとして拒否きょひした。さらに、教授きょうじゅたちはこと是非ぜひうために、臨時りんじ総会そうかい招集しょうしゅうした。中田なかた招集しょうしゅう最初さいしょみとめたが、のちにこれをし、臨時りんじ総会そうかい非合法ひごうほうなし、10月19にちけで、車田くるまだ小原おはら一宮いちのみや土屋つちや解任かいにんした。

25にち淀橋よどばし教会きょうかい開催かいさいされた臨時りんじ総会そうかいひらかれ、10月26にち中田なかた監督かんとく解職かいしょくあん上程じょうていされた。採決さいけつ結果けっか、ほとんど全会ぜんかい一致いっち決議けつぎされた。監督かんとく解職かいしょくともない、それにわる運営うんえい体制たいせいとして、監督かんとく代行だいこうとしての委員いいんかい制度せいどもうけ、選挙せんきょにより委員いいんかいとして、車田くるまだあき米田よねだゆたか小原おはら十三じゅうざ一宮いちのみや政吉まさきち菅野かんのするど選出せんしゅつされた。

民事みんじ訴訟そしょう[編集へんしゅう]

ホーリネス神田かんだ教会きょうかい

最初さいしょ中田なかた決定けっていしたがい、信仰しんこうじょう理由りゆうかれることになった。中田なかた主張しゅちょう賛成さんせいするもの半数はんすうほどいたので、ここで中田なかたがわ委員いいんかいがわに、日本にっぽんホーリネス教会きょうかい分裂ぶんれつすることになった。

車田くるまだあき教職きょうしょくしゃのホーリネス神田かんだ教会きょうかい玄関げんかんでの集合しゅうごう写真しゃしん

しかし、のち中田なかた臨時りんじ総会そうかい合法ごうほうせい否定ひていし、監督かんとく解職かいしょく方法ほうほう間違まちがいであると主張しゅちょうし、メソジストの監督かんとく審判しんぱんほう自分じぶん立場たちば弁明べんめいした。11月2にちごう機関きかんで、臨時りんじ総会そうかい非合法ひごうほうせいうったえたが、訴訟そしょうのための法的ほうてき手続てつづきはらず、中田なかたがわはこのけんかんして沈黙ちんもくする声明せいめいはっした。しかし、のち中田なかたはこの総会そうかい法的ほうてき無効むこうとするための民事みんじ訴訟そしょうこした。[32]こうして、両者りょうしゃ対立たいりつ収集しゅうしゅう困難こんなんになり、神田かんだ教会きょうかい所属しょぞくをめぐる両者りょうしゃあらそいは新聞しんぶんにもげられる。

和協わきょう分離ぶんり[編集へんしゅう]

中田なかたこした臨時りんじ総会そうかい決議けつぎ無効むこうとする民事みんじ訴訟そしょう告訴こくそたいし、1934ねん昭和しょうわ9ねん)4がつ24にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょで、臨時りんじ総会そうかい構成こうせいについて調しらべがおこなわれた。この事態じたい憂慮ゆうりょした阿部あべ義宗よしむねらメソジスト教会きょうかい指導しどうしゃ松山まつやま常次郎つねじろうらクリスチャン政治せいじらの仲介ちゅうかいにより、翌年よくねん1935ねん昭和しょうわ10ねん)3がつ5にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょにおいて、赤木あかぎ判事はんじ中心ちゅうしんとして、和解わかいだんはじまった。結論けつろんとして、双方そうほうよりさんめい委員いいん(和協わきょう委員いいん)をえらび、和解わかいあんことになった。

和協わきょう午餐ごさんかい開催かいさいされた鉄道てつどうホテルの内部ないぶ

1936ねん昭和しょうわ11ねん)11月28にち正午しょうご東京とうきょうえき鉄道てつどうホテル和協わきょう午餐ごさんかいひらき、日本にっぽんホーリネス教団きょうだん和協わきょう分離ぶんり決定けっていされた。これにより、両者りょうしゃ法的ほうてき和解わかいし、中田なかたは『きよめ教会きょうかい』と名乗なのり、5教授きょうじゅ車田くるまだあき指導しどうしゃとして『日本にっぽん聖教せいきょうかい』と名乗なのることになった。

1936ねん12月21にち青山学院あおやまがくいん神学しんがく講堂こうどう和協わきょう委員いいん主催しゅさいもと和協わきょう報告ほうこく感謝かんしゃかいひらかれた。

きよめ教会きょうかい発足ほっそく[編集へんしゅう]

きよめ教会きょうかい監督かんとく就任しゅうにんした中田なかた(1936ねん)

1936ねん昭和しょうわ11ねん12月25にちクリスマスに、きよめ教会きょうかい日本にっぽん聖教せいきょうかい正式せいしき発足ほっそくした。

このがきよめ教会きょうかい創立そうりつ記念きねんである。きよめ教会きょうかいよんじょう会則かいそくもうけることになる。その結果けっか総会そうかいはなくなり、監督かんとく終身しゅうしんしょくになる。後継こうけいしゃ監督かんとく任命にんめいすると規定きていされた。

晩年ばんねん(1937-1939)[編集へんしゅう]

終身しゅうしん監督かんとく就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)になり、きよめ教会きょうかい終身しゅうしん監督かんとくになった中田なかたあたらしきてんあたらしきというだい文章ぶんしょう機関きかん新年しんねんごうせた。新年しんねん指針ししんを「けんしんじこう」であるとして、そのだいを5かい使用しようしてかたった。そして、監督かんとくれいはっし、じゅん監督かんとく政治せいじ方針ほうしんとして、みずからきよめ教会きょうかい終身しゅうしん監督かんとくになることを1がつ7にちごう機関きかん宣言せんげんした。

きよめ教会きょうかい全国ぜんこくきよめ大会たいかいが、1937ねん4がつ1にちより4にちまで、聖書せいしょ学院がくいん開催かいさいされた。この終身しゅうしん監督かんとく確認かくにんされ、倍増ばいぞう計画けいかく徹底てってい要求ようきゅうされた。

4がつ11にち午後ごご満州まんしゅうじん基督教きりすときょう各派かくは牧師ぼくし13めいが、聖書せいしょ学院がくいんおとずれて、開会かいかいちゅうせいべつかい列席れっせきした。中田なかたかれらとかたり、日本にっぽん満州まんしゅう提携ていけいしてリバイバルのためにさなければと力説りきせつした。

6月25にち聖書せいしょ学院がくいん納屋なやより放火ほうかにより出火しゅっかして、監督かんとくきょくの3ぶんの1が焼失しょうしつした。

にちちゅう戦争せんそう[編集へんしゅう]

1937ねん7がつ7にちきたささえ事変じへん(にちちゅう戦争せんそう)が勃発ぼっぱつした。文部省もんぶしょうよりの通達つうたつそくして、中田なかた全国ぜんこく福音ふくいん使てに通達つうたつはっして、慰問いもんぶくろおくるようにめいじた。慰問いもんぶくろは7がつちゅうに4000突破とっぱした。7がつ上旬じょうじゅんより、中田なかた体調たいちょうくず藤沢ふじさわくぐい中岡なかおかうつ静養せいようした。

9月5にちに、中田なかた東京とうきょうもどり、学院がくいん教会きょうかいで「殉国じゅんこく殉教じゅんきょう」とだいして説教せっきょうし、愛国心あいこくしん強調きょうちょうした。このころから、中田なかたは、国家こっか主義しゅぎてき愛国あいこく主義しゅぎてき論説ろんせつくようになった。10月13にち国民こくみん精神せいしん総動員そうどういん強調きょうちょう週間しゅうかんには、毎日まいにち祈祷きとうかいけとめいじた。さらに、11月3にちには、宮城みやぎ遥拝ようはい祈祷きとうかいけとめいじた。10月27にち中田なかた誕生たんじょう日本にっぽんぐん上海しゃんはい郊外こうがい大場おおば鎮(上海しゃんはい宝山たからやま大場おおば)を陥落かんらくさせたことをよろこんだ。

1938ねん昭和しょうわ13ねん2がつ11にち紀元節きげんせつ祝典しゅくてんには慰問いもんぶくろ献納けんのうしき聖書せいしょ学院がくいんおこなった。

だい委員いいん選出せんしゅつ[編集へんしゅう]

中田なかた監督かんとく誕生たんじょういわ

4がつ全国ぜんこくきよめ大会たいかいだいかい年会ねんかいおこなわれたときから、中田なかた神経痛しんけいつうなやまされた。6月には中田なかた健康けんこう悪化あっかのために代行だいこう委員いいん設置せっちされ、中田なかたあやめ、斎藤さいとうはじめはち斎藤さいとう保太郎やすたろう田中たなか敬止けいしもり五郎ごろうえらばれた。

10月30にちきゅうだん軍人ぐんじん会館かいかんすめらぎ宣揚せんよう全国ぜんこく必勝ひっしょう祈祷きとうかい開催かいさいした。そのとき、『聖書せいしょより日本にっぽん民族みんぞく使命しめい』とだいするにちどうろん講演こうえん開催かいさいする。ひきしんじあきらライオンはみがき小林こばやし喜一きいち社長しゃちょう青山学院あおやまがくいん教授きょうじゅ比屋根ひやごん安定あんていらをはじやく1800にん入場にゅうじょうした。中田なかた疲労ひろうして加藤かとう三郎さぶろう[よう曖昧あいまい回避かいひ]医師いしらにわれて帰宅きたくした。[33]

八紘はっこう一宇いちう[編集へんしゅう]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)にはいり、きよめのともには「しん東亜とうあ建設けんせつ新春しんしゅんす」との文章ぶんしょうせられた。元旦がんたんからさん日間にちかん日本にっぽん民族みんぞくあたえられたかみ力説りきせつした。1がつ26にち機関きかん文章ぶんしょうでは、宗教しゅうきょう団体だんたいほう統制とうせいじょう必要ひつようとあればやむをえないとして、賛成さんせいした。2月9にちには、ジャバとう伝道でんどうしていたきよめ教会きょうかい宮平みやだいらしゅうあきらじゅうすうねんまえに、オランダ政府せいふより退去たいきょ命令めいれいけた事件じけんしるして、八紘はっこう一宇いちう理想りそう実行じっこうするために、キリストきょう必要ひつようであるとべた。

1939ねん2がつ11にち紀元節きげんせつ連合れんごう礼拝れいはいでは、きみ斉唱せいしょう宮城みやぎ遥拝ようはい愛国あいこく行進曲こうしんきょくひとしうたい、紀元節きげんせついわい、中田なかた日本にっぽんすめらぎどううえ特殊とくしゅくにであるとべた。

4がつのきよめ大会たいかいでは、監督かんとくした総務そうむき、一切いっさい教務きょうむあつかうようになった。また、地方ちほう分権ぶんけん廃止はいしして、監督かんとく直轄ちょっかつけん強化きょうかした。

中田なかた夫妻ふさい闘病とうびょう[編集へんしゅう]

7がつまつに、あやめ夫人ふじん容態ようだい急変きゅうへん病床びょうしょうくことになり、子宮しきゅうがん兆候ちょうこうあらわれた。そして、8がつはいると、中田なかた自身じしん下痢げりつづき、身体しんたいおとろえを自覚じかくした。9月にはいりあやめが危篤きとくになり、中田なかた重態じゅうたいだったので、谷中たになかさかえが側近そっきんにあって世話せわをした。中田なかた口述こうじゅつ筆記ひっきにより、機関きかん論説ろんせつつづけた。加藤かとう三郎さぶろう医師いし診断しんだんしたが、中田なかた夫妻ふさいかみ癒をしんじるゆえ特別とくべつ手当てあてはしなかった。

あやめの死去しきょ[編集へんしゅう]

9月14にち午前ごぜん014ふん中田なかたあやめがいきった。いきまえに、おいの中田なかたあいなり仲介ちゅうかい中田なかた羽後うご和解わかいすることができた。9月16にち聖書せいしょ学院がくいんだい講堂こうどうで、あやめの葬式そうしきおこなわれた。斎藤さいとうはじめはち司式ししきで、葬儀そうぎ委員いいんちょうもり五郎ごろうだった。

後継こうけいしゃ選出せんしゅつ[編集へんしゅう]

中田なかた後継こうけいしゃもり五郎ごろう

9月17にち中田なかた間近まぢかせまっているので、中田なかた自宅じたくもり五郎ごろう大江おおえ捨一谷中たになか廣美ひろみ保坂ほさかいちら7にんあつまりはなった。

中田なかた死後しごに、教団きょうだん監督かんとくそと会長かいちょうてることにする。また、会長かいちょう名誉めいよせいにして、監督かんとく実権じっけんにぎらせることと、補佐ほさ委員いいんてることをめた。また、これらの決議けつぎ事項じこう弁護士べんごしあさ浅次郎あさじろう法的ほうてき有効ゆうこうにしようとした。

はないの結果けっかもり五郎ごろう会長かいちょうになりきよめりょうみ、聖書せいしょ学院がくいん柏木かしわぎ教会きょうかい責任せきにんもりることが、中田なかた指示しじによってめられた。中田なかだのことは、保坂ほさかはじめ谷中たになか廣美ひろみ夫妻ふさいまかされた。

中田なかた死去しきょ[編集へんしゅう]

中田なかた重治しげはる死去しきょ、1939ねん9がつ24にち

つまあやめがくなった10日とおかの1939ねん9がつ24にち650ふん東京とうきょう淀橋よどばし柏木かしわぎ自宅じたくで、ちょう結核けっかくにより死去しきょする。9月28にちもり五郎ごろう司式ししきにより、せい学院がくいんだい講堂こうどう葬儀そうぎおこなわれた。

遺体いたい淀橋よどばし落合おちあいまち(げん新宿しんじゅく上落合かみおちあい)の落合おちあい火葬かそうじょう遺骨いこつになり、せい学院がくいんない納骨のうこつどうおさめられた。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)に中田なかた遺骨いこつ改葬かいそうされ多磨たま霊園れいえん(19-1-3)ににんつまともおさめられている。[34]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 「しげはる」としている文献ぶんけんもあるが、英語えいご文献ぶんけんおよび自筆じひつサインはJuji Nakadaといてある。米田よねだいさむちょ中田なかた重治しげはるでん裏表紙うらびょうし写真しゃしん参照さんしょう
  2. ^ 山口やまぐち幸子さちこ『ホーリネスのながれ』183-184ページ
  3. ^ 中田なかた本家ほんけは、高山たかやま右近うこんころ奥州おうしゅう流刑りゅうけいにされた切支丹きりしたん末裔まつえいであるとわれる。重治しげはる祖父そふ弘前ひろさきはん納戸なんどがかりをしていたが、部下ぶか不祥事ふしょうじ責任せきにんをとって足軽あしがるになり、祖父そふ蔵吉くらきち時代じだいにはべいになった。そして、へいさく時代じだい足軽あしがるもどることが出来できた。『中田なかた重治しげはるでん
  4. ^ 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん』206ページ、本多ほんだ庸一よういち死去しきょさいして、「ろくななさいころよりしたしく教育きょういくせられし」と雑誌ざっしべている。
  5. ^ 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん』17ページ、久吉ひさよし重治しげはるをものさしでなぐり、ものさしをこわすほどであった。または、重治しげはる手紙てがみたせて、墓場はかば往復おうふくさせたりした。のちに、重治しげはるがこの方式ほうしき次男じなんはね鍛錬たんれんしようとしたらぎゃく効果こうかまねいたとはねのちかたっている。
  6. ^ 日本にっぽん説教せっきょう4(中田なかた重治しげはる)』188ページ
  7. ^ 米田よねだいさむによると、中田なかた重治しげはる弘前ひろさき教会きょうかい洗礼せんれいけたのは、(16さい-17さい)1886ねん-1887ねんころ推定すいていされている。「中田なかた重治しげはるでん」24-25ページ、当時とうじは、本多ほんだ庸一よういち珍田ちんだ捨巳すてみおも洗礼せんれいしきおこなっていた。宣教師せんきょうしのギデオン・ドレーパーが洗礼せんれいしきおこなったのは、1887ねん6がつ2にちいちかいかぎりである。その中田なかた重治しげはる洗礼せんれいけたと推定すいていされる。しかし、弘前ひろさき教会きょうかいじゅうねんりゃくには、その受洗じゅせんしゃめいなかには、婦人ふじんめい名前なまえほかさんめいとなっており、中田なかた重治しげはるふくまれていない。米田よねだいさむによると中田なかた洗礼せんれいけた時期じき特定とくていすることは不可能ふかのうである。
  8. ^ 日本にっぽん説教せっきょう4(中田なかた重治しげはる)』150ページ
  9. ^ 中田なかた重治しげはるでん』によると、「かつは、はげしい性格せいかく中田なかたによくつかえ、温順おんじゅんなかにもしんつよい、女性じょせいであった。」とひょうされている。
  10. ^ 中田なかた重治しげはるでん」59ページ
  11. ^ 中田なかた重治しげはるでん」91ページ、笹森ささもり山田やまだ寅之助とらのすけともにメソジストでウェスレーの基督きりすとしゃ完全かんぜんろんとなえたきよし恩寵おんちょうおもんじた人物じんぶつであった。
  12. ^ 1884ねん創立そうりつされたが、だい世界せかい大戦たいせんちゅう疎開そかいにより活動かつどう中断ちゅうだんされ、1941ねん日本にっぽん基督教きりすときょうだん銀座ぎんざ教会きょうかい合同ごうどうした。『日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』442ぺーじ
  13. ^ しんキリスト教きりすときょう辞典じてん、いのちのことばしゃ、1991,955ページ「中田なかた重治しげはる千代崎ちよざき秀雄ひでお
  14. ^ 中田なかた重治しげはるでん』118ページ、中田なかたとカウマンは山形やまがたけん福音ふくいんにもっとも縁遠えんどおいとかんがえたので、最初さいしょ地方ちほう伝道でんどうかん楯岡たておかえらんだといわれる。
  15. ^ 日本にっぽんにおける福音ふくいん歴史れきし中村なかむらさとしちょ、いのちのことばしゃ、2000,78ページ、さらに、栃木とちぎけん宇都宮うつのみや横浜よこはま伊豆いずなどに地方ちほう福音ふくいん伝道でんどうかん設立せつりつした
  16. ^ 中田なかた重治しげはるでん』119ページ
  17. ^ のちに、沓澤くつざわ清水しみず俊蔵しゅんぞう婿養子むこようしになり清水しみずせいになる。『日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』P.630
  18. ^ この韓国かんこくしょ教会きょうかい訪問ほうもんは、日本にっぽんにもクリスチャンがあることを韓国かんこくにいる欧米おうべい宣教師せんきょうしたちらしめ、にち戦争せんそう人種じんしゅ戦争せんそうであるかのような見解けんかいたいして、日本にっぽん立場たちば弁護べんごするためであったとわれる。米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん」130ぺーじ
  19. ^ 中田なかた重治しげはるでん』141ページ
  20. ^ 日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』p.339
  21. ^ 中田なかた重治しげはるでん』147ページ、この設立せつりつは、中田なかた伝道でんどうによって各地かくち福音ふくいん伝道でんどうかんができ、これらを統一とういつする名称めいしょう組織そしき必要ひつようになってきたからであった。東洋とうよう宣教せんきょうかい命名めいめいしたのは、中国ちゅうごくをはじめアジア諸国しょこく伝道でんどうしたいというねがいがあったからである。
  22. ^ 中田なかた晩年ばんねん死去しきょするまえに、このことをおもして、『揚子江ようすこう遡江そこう旧記きゅうき』を口述こうじゅつした。『中田なかた重治しげはるでん』154ページ
  23. ^ 中田なかた重治しげはるでん』162ページ
  24. ^ 監督かんとくせい公会こうかいのビショップではなく、スーパーインテンデントであり。「総理そうり」にちか事務職じむしょくめいで、身分みぶんではないと中田なかたのちなん説明せつめいした。『中田なかた重治しげはるでん』249ページ
  25. ^ 「ホーリネス」という名称めいしょうは「ひじりきよし」の英訳えいやくであり、ゼカリヤしょ14しょう20せつだいコリント7しょう1せつ、ヘブルしょ12しょう14せつ関連かんれんがある。「東洋とうよう宣教せんきょうかい」は教派きょうはで、「ホーリネス」はその教会きょうかい性質せいしつあらわしたものである。「ホーリネス」にしたのは、「ひじりきよし」では語呂ごろわるいため、また海外かいがいのホーリネス伝道でんどうかん教会きょうかい)に共鳴きょうめいするためである。『中田なかた重治しげはるでん』248ページ
  26. ^ 中田なかた最初さいしょ団体だんたい組織そしきするつもりはなく、ちょう教派きょうはてき伝道でんどう団体だんたいとしてスタートしたが、次第しだい教派きょうはとの体質たいしつちがいがあきらかになり、独自どくじ特色とくしょくてきたために団体だんたい組織そしきしたのである。『中田なかた重治しげはるでん』247ページ
  27. ^ 日本にっぽん伝道でんどうたい日本にっぽん自由じゆうメソヂスト教団きょうだんなどが協賛きょうさんしたが、個人こじんてきには日本にっぽんアライアンス教団きょうだん日本基督教会にほんきりすときょうかいメソジスト組合くみあい教会きょうかいせい公会こうかいヘフジバ・ミッション同盟どうめい日本にっぽんひろし教会きょうかいなどのきょう役者やくしゃ参加さんかもあったとわれている。
  28. ^ 羽後うごは1919ねんよりちち伝道でんどうのための音楽おんがく伝道でんどうしゃになるためにロサンジェルスで留学りゅうがくしていた。
  29. ^ 中田なかた幸田こうだあに幸田こうだぐん千島ちしま時代じだいいで、幸田こうだ後妻ごさい千代ちよはクリスチャンでしたしかった。『中田なかた重治しげはるでん』329ページ
  30. ^ のち土屋つちや聖書せいしょ学院がくいん教授きょうじゅになった。
  31. ^ 内容ないよう日本にっぽん民族みんぞくシュメールヒッタイトユダヤ混血こんけつであり、ヨハネの黙示録もくしろく登場とうじょうする「かつしん(いけるかみ)のしるしちてしょよりのぼたる天使てんし」は、日本人にっぽんじんのことであるとした。再臨さいりんときには、ユダヤじん回復かいふくするので、日本にっぽんエルサレムまでの鉄道てつどう建設けんせつしスラエル建国けんこく支援しえんするべきであると主張しゅちょうした。『中田なかた重治しげはるでん
  32. ^ 中田なかた重治しげはるでん』では民事みんじ訴訟そしょうこしたことはれられていないが、中村なかむらさとし日本にっぽんにおける福音ふくいん歴史れきし』(p.129)など文献ぶんけんではげられている。
  33. ^ 中田なかた重治しげはる日本にっぽん説教せっきょう4)』206ページ
  34. ^ 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん』529ページ

関連かんれん書物しょもつ[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 聖書せいしょよりたる日本にっぽん』1933ねん
  • 中田なかた重治しげはる全集ぜんしゅう』(米田よねだいさむへん中田なかた重治しげはる全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1975ねん

訳書やくしょ[編集へんしゅう]

  • 耶蘇やそる(Christ is coming,1881)』(W.ブラックストンしる中田なかた重治しげはるやく)ホーリネス教団きょうだん出版しゅっぱん、1917ねん
  • ぜんあい』(J.A.ウッドちょ中田なかた重治しげはるやく東洋とうよう宣教せんきょうかいホーリネス教会きょうかい出版しゅっぱん、1931ねん

伝記でんき[編集へんしゅう]

  • 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん福音ふくいん宣教せんきょうかい、1959ねん

作詞さくし[編集へんしゅう]

  • つみ闇路やみじに』(聖歌せいか412ばん)1909ねん訳詩やくし
  • おかししつみをば』(聖歌せいか712ばん)1909ねん訳詩やくし
  • 聖霊せいれいえるごとくせよ』(聖歌せいか414ばんおなだいひじりかい標語ひょうごにもなった。中田なかた重治しげはる作詞さくし中田なかた作曲さっきょく。1930ねんのリバイバルでさかんにうたわれた。
  • 御霊みたまよほろぶる世人せじんのため』(聖歌せいか715ばん)、1930ねん
  • 『ろばのあぎとぼね』(聖歌せいか719ばんサムソンはなしがテーマになっている。中田なかた重治しげはる作詞さくし中田なかた作曲さっきょく。1930ねんのリバイバルでさかんにうたわれた。
  • 『あさひのこうは』(聖歌せいか721ばん)1930ねんよんじゅう福音ふくいんうたったもの。
  • わしのごとく』(聖歌せいか729ばん)1930ねん中田なかた重治しげはる中田なかた共同きょうどう作詞さくし

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

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弟子でし[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん中田なかた重治しげはるでん刊行かんこう委員いいんかい、1959ねん
  • 中村なかむらさとし日本にっぽんにおける福音ふくいん歴史れきし』いのちのことばしゃ、2000ねん
  • 中村なかむらさとし日本にっぽんキリスト教きりすときょう宣教せんきょう』いのちのことばしゃ、2009ねん
  • 山森やまもりてつただししる有賀ありが喜一きいちわけ日本にっぽん教会きょうかい成長せいちょう』いのちのことばしゃ、1985ねん
  • 池上いけがみ良正よしまさ、「ホーリネス・リバイバルとはなにだったのか」『キリストきょう文明ぶんめい人類じんるいがくてき研究けんきゅう国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん調査ちょうさ報告ほうこく、2006ねん
  • 山口やまぐち幸子さちこ、『ホーリネスのながれ』日本にっぽんホーリネス教団きょうだん出版しゅっぱんきょく、1999ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
初代しょだい
日本にっぽんホーリネス教会きょうかい監督かんとく
だい1・2・3だい:1917ねん - 1936ねん
次代じだい
1936ねん日本にっぽんホーリネス教会きょうかい和協わきょう分離ぶんり消滅しょうめつ
先代せんだい
初代しょだい
きよめ教会きょうかい終身しゅうしん監督かんとく
1936ねん - 1939ねん
次代じだい
会長かいちょう もり五郎ごろう
先代せんだい
アーネスト・キルボルン
柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいん院長いんちょう
だい2だい1917ねん-1924ねん
次代じだい
車田くるまだあき
先代せんだい
車田くるまだあき
柏木かしわぎ聖書せいしょ学院がくいん院長いんちょう
だい4だい1930ねん-1939ねん
次代じだい
もり五郎ごろう
先代せんだい
車田くるまだあき
淀橋よどばし教会きょうかい主任しゅにん牧師ぼくし
だい3だい:1915 - 1917ねん
次代じだい
小原おはら十三じゅうざ