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フィリピの信徒しんとへの手紙てがみ

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ピリピじんへの手紙てがみから転送てんそう

フィリピの信徒しんとへの手紙てがみ』(フィリピのしんとへのてがみ)は新約しんやく聖書せいしょなかいちしょ使徒しとパウロフィリピ(ピリッポイ)のキリストしゃ共同きょうどうたいにあてた書簡しょかん。『フィリピじんへの手紙てがみ』『フィリピしょ』『ピリピじんへの手紙てがみ』『ピリピしょ』また脚注きゃくちゅうなどでは、とりわけ章節しょうせつともな出典しゅってん参照さんしょうにおいて、しばしば「フィリ」「フィリピ」とう略記りゃっきされる。

著者ちょしゃ[編集へんしゅう]

『フィリピの信徒しんとへの手紙てがみ』(以下いか『フィリピしょ』)の著者ちょしゃがパウロであるということについては古代こだい以来いらい現代げんだい聖書せいしょ学者がくしゃにいたるまで一貫いっかんしてひろれられている。ただ2:5-11の部分ぶぶんのみは後代こうだい加筆かひつであろうとかんがえられているが、聖書せいしょ学者がくしゃによってはこの部分ぶぶん初代しょだい教会きょうかいもちいられていた賛歌さんかをパウロが引用いんようしたともかんがえている。伝承でんしょうでは、パウロがこの手紙てがみいたのは紀元きげん61ねんわりから62ねんのはじめにかけてローマ獄中ごくちゅうにあった時期じきであったとされてきた。

かれがこの手紙てがみいたとき、パウロはローマ皇帝こうてい護衛ごえいたいのもとに拘禁こうきんされた囚人しゅうじんだったが、かれ周囲しゅういではかなり大々的だいだいてきなクリスチャン活動かつどうがなされていた。かれは、カエサルのいえ信徒しんとたちからのあいさつのことばでこの手紙てがみむすんでいる。こうしたてん総合そうごうして、この手紙てがみはローマでかれたと判断はんだんできる。

執筆しっぴつ背景はいけい[編集へんしゅう]

使徒しとぎょうでん』によればフィリピの教会きょうかいはヨーロッパで最初さいしょ創設そうせつされたキリストしゃ共同きょうどうたいであり、しかもパウロの宣教せんきょう由来ゆらいするものであった(『使徒しと言行げんこうろく』16:11-40)。そういう意味いみでパウロはフィリピの共同きょうどうたい非常ひじょうつよ愛着あいちゃくいていたことがうかがえる。フィリピの信徒しんとたちは(パウロを非難ひなんするものもられた)共同きょうどうたいことなり、全員ぜんいん物心ぶっしん両面りょうめんでパウロをバックアップしていた(『使徒しと言行げんこうろく』20:33-35、『コリントの信徒しんとへの手紙てがみ』(以下いかコリ)11:7-12:2、『テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみ』3:8参照さんしょう)。

フィリピの信徒しんとたちの寛大かんだいさはパウロにとってよろこびのみなもとであった(フィリピ4:15)。20世紀せいき初頭しょとう活躍かつやくした聖書せいしょ学者がくしゃムール (Handley Carr Glyn Moule) は、

コリ8しょうおよび9しょうにあるパウロのマケドニア宣教せんきょうにおいて、異教徒いきょうとから改宗かいしゅうしたフィリピの信徒しんとたちのしみない協力きょうりょくぶりは際立きわだっている。かれらはけっして裕福ゆうふくではなかったが、寛大かんだいであった。逆説ぎゃくせつてきだが、いまにおいても裕福ゆうふく人々ひとびとよりまずしい人々ひとびとのほうが寛大かんだいさをしめすことはよくみられることである。

っている。

歴史れきしてき背景はいけい[編集へんしゅう]

フィリピの信徒しんとはパウロの必要ひつようとしていたものをあつめてエパフロディトゥスにたくした。パウロはそれをり、この手紙てがみかれたくしてフィリピへかえした。19世紀せいきイギリスの聖書せいしょ学者がくしゃジョセフ・ビート (Joseph Agar Beet) は

この手紙てがみったとき、フィリピの人々ひとびとがどのような反応はんのうしめしたか、わたしたちはうかがいることができない。残念ざんねんながらフィリピの教会きょうかいそのものが現代げんだいではのこっていない。わたしたちがいまることができるのは、かつてさかえ、使徒しとたちがあいした共同きょうどうたいがあったローマの植民しょくみん都市とし廃墟はいきょが、牧草ぼくそうなかにうずもれている風景ふうけいだけである。しかしフィリピの信徒しんとたちの情熱じょうねつ名声めいせいはこの手紙てがみによって永遠えいえんのものとなった。ローマの牢獄ろうごくなかかれたいちつう手紙てがみ時代じだい文化ぶんかえて人々ひとびとくるしい生活せいかつなかひかりとしてかがやつづけている。

とコメントしている。

内容ないよう[編集へんしゅう]

この手紙てがみからは当時とうじのローマのキリスト教きりすときょう共同きょうどうたい様子ようすがうかがえる。パウロにとって獄中ごくちゅうにあることは福音ふくいんつたえることのさまたげにならず、むしろ情熱じょうねつえたせることになった。パウロを監視かんししていたローマへいたちはその感化かんかけ、ローマのキリスト教徒きりすときょうとたちもえていった。当時とうじのローマでキリスト教きりすときょうきゅう成長せいちょうげていたことが文面ぶんめんからみとれる。

パウロはみずからの苦難くなんのなかでかみ賛美さんびし、またおなじく周囲しゅうい理解りかい迫害はくがい、さらに教義きょうぎじょう対立たいりつにさらされるフィリピの共同きょうどうたいおもんばかり、かれらをはげまし、キリストの再臨さいりんのぞむことをすすめる。

ほん書簡しょかんられる神学しんがくてき内容ないようは『ローマの信徒しんとへの手紙てがみ』にちかい。フィリピ3:20と『エフェソの信徒しんとへの手紙てがみ』(以下いか『エフェソしょ』)2:12および19を比較ひかくしてほしい。「キリストの栄光えいこう」という表現ひょうげんも『フィリピしょ』2:5-11と『エフェソしょ』1:17-23、および『コリントの信徒しんとへの手紙てがみいち』1:15-20も参照さんしょうのこと。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]