田川たがわひろ

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田川たがわ ひろ田川たがわ ひろ、きたがわ ひろし、1887ねん - 1974ねん)は日本にっぽん牧師ぼくしであり、日本にっぽんナザレン教団きょうだん創立そうりつしゃで、指導しどうしゃである。

日本にっぽん福音ふくいん連盟れんめい2代目だいめ会長かいちょう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1887ねん熊本くまもとけんまれる。少年しょうねん時代じだい苦学くがくして中学校ちゅうがっこうまですすんだ。中学ちゅうがく5ねんとき卒業そつぎょうまえ渡米とべいして、カリフォルニア農園のうえん労働ろうどうしゃキャンプはたらく。そのときにナザレン教会きょうかい宣教師せんきょうし出会であい、信仰しんこうはいり、献身けんしんするためパサデナ大学だいがく入学にゅうがくした。おな時期じき渡辺わたなべよしふとし土山つちやま鉄次てつじ在籍ざいせきしていた。1913ねんパサデナ大学だいがく日本人にっぽんじん最初さいしょ留学生りゅうがくせいになった松永まつながいく五郎ごろう出会であう。松永まつながのちに、ナザレン日本にっぽん部会ぶかい最初さいしょ部会ぶかいちょう就任しゅうにんした人物じんぶつである。

1915ねん喜田きたがわはパサデナ大学だいがく神学しんがく卒業そつぎょうして、ステープルス夫妻ふさいとも日本にっぽん宣教せんきょうのために帰国きこくする。喜田きたがわ郷里きょうり熊本くまもと伝道でんどうはじめて、日本にっぽん最初さいしょのナザレン教会きょうかい組織そしきする。さら熊本くまもと聖書せいしょ学校がっこうつくる。そこで、喜田きたがわおとうと田川たがわ四郎しろう加来かく国生こくしょうらがまなぶ。

1922ねん喜田きたがわ京都きょうとうつり、本町ほんまち教会きょうかい設立せつりつした。日本にっぽん伝道でんどう日本人にっぽんじんおこなうべきことになり、だいいちかい日本にっぽん部会ぶかいおこなわれ、松永まつながいくろう日本人にっぽんじんとして最初さいしょ部長ぶちょうに、喜田きたがわ聖書せいしょ学校がっこうちょう選任せんにんされた。

1936ねんにナザレン教団きょうだん自給じきゅう自治じちった。アメリカのナザレン教会きょうかい本部ほんぶにおいて日本にっぽん部会ぶかい西部せいぶ東部とうぶ部会ぶかいけることがまり、西部せいぶ部会ぶかいちょう田川たがわひろが、東部とうぶ部会ぶかいちょうにはエコールが就任しゅうにんした。

1941ねん日本にっぽんナザレン教団きょうだん日本にっぽん基督教きりすときょうだん加入かにゅう。ナザレンが所属しょぞくする日本にっぽんひじり基督教きりすときょうだんだいはちになる。喜田きたがわ日本にっぽん基督教きりすときょうだん牧師ぼくしになる。

1947ねん11月 日本にっぽん基督教きりすときょうだん離脱りだつして、日本にっぽんナザレン教団きょうだん再建さいけんされる。戦後せんごさい来日らいにちしたエコール宣教師せんきょうし総理そうりとして、戦前せんぜんからの指導しどうしゃであった喜田きたがわや、諫山いさやま修身しゅうしん木田きだあいしんらが中心ちゅうしんとなった。

喜田きたがわ真白まっしろ富士ふじのメロディーでられるさん美歌みかいつかはしらねど」を作詞さくしした。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]