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ペラギウス

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はんペラギウス主義しゅぎから転送てんそう
17世紀せいきえがかれたペラギウスの肖像しょうぞう

ペラギウスPelagius, 354ねん - 420ねん/440ねん)は、初期しょきキリスト教きりすときょう時代じだい神学しんがくしゃペラギウス主義しゅぎばれる教義きょうぎひろ展開てんかいしたが、のち異端いたんとされた[1]

生涯しょうがい

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ペラギウスの出自しゅつじカレドニアばれた現在げんざいスコットランドまたはアイルランドわれる。修道しゅうどうそうだったとかたがれているが、実際じっさいにそうだったという確証かくしょうはなく、修道しゅうどうとして組織そしきはいっていたという証拠しょうこもない。しかしかれ非常ひじょう博識はくしきで、ラテン語らてんごのみならずギリシアにもつうじていた[2]。また、道徳どうとくてき非常ひじょうきよ生涯しょうがいおくったとわれており、それがアウグスティヌスの「おもよ、すべてなんじめいずるところをあたえたまえ」という言葉ことばにあらわされた、恩寵おんちょう行為こういたいする褒美ほうびではなく道徳どうとくてきいが救済きゅうさい直接ちょくせつむすびつくわけでもないというかんがかた反発はんぱつさせた、とかんがえられる[3]

380ねんころローマにおもむいたペラギウスは、苦行くぎょう実践じっせん伝道でんどうひろられるようになり、この時期じきおおくの著作ちょさくのこしたとわれる。現在げんざいではかれ著作ちょさく散逸さんいつしてしまい、その筆跡ひっせき対立たいりつしゃによる引用いんようのみでしかうかがうことができないが、ローマにおけるペラギウスは、当時とうじのローマ社会しゃかい倫理りんりてき破綻はたん警鐘けいしょうらし、またアウグスティヌスなどおおくの教父きょうふいた「かみ恩寵おんちょうゆだねる」という態度たいど批判ひはんしたという。[よう出典しゅってん]

しかし、405ねんころにアウグスティヌスの「告白こくはく」にれたペラギウスは、アウグスティヌスの人間にんげん存在そんざいのとらえかたつよ関心かんしんったともわれる。当時とうじ教会きょうかいおしえでは、人間にんげんとは絶対ぜったいてきかみ恩寵おんちょうにすがるのみの従属じゅうぞくてき存在そんざいでしかなかったが、アウグスティヌスのおしえはそれら従来じゅうらい教義きょうぎはんするもののようにペラギウスにはおもわれたからだという。[よう出典しゅってん]

カルタゴ

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410ねん西にしゴートぞくアラリック1せいによってローマが略奪りゃくだつされると、ペラギウスは弟子でしのケレスティウスをれてカルタゴのがれた。また、このときにペラギウスは直接ちょくせつアウグスティヌスとあいまみえたともわれる。カルタゴにおいてペラギウスのおしえは急速きゅうそくひろまった。しかしペラギウスの教義きょうぎには従来じゅうらい教会きょうかい教義きょうぎとはことなるてんがあり、とく原罪げんざい救済きゅうさいかんしてはおおきくはなれていた。そのためアウグスティヌスは、自説じせつひろ人々ひとびとかたちでペラギウス主義しゅぎ対抗たいこうした。すなわち、人間にんげん原罪げんざい強調きょうちょうし、幼児ようじ洗礼せんれい必要ひつようせいき、かみたるキリストなくしてつみなき人生じんせいはありえないとした。ただしこれは、あくまで一般いっぱん人々ひとびとたいしてのきょうせつであり、ペラギウスを名指なざししての論争ろんそうではなかった。このあとあいだもなくして、ペラギウスとケレスティウスはパレスティナへとのがれた。[よう出典しゅってん]

パレスティナ

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パレスティナでは、このヒエロニムスとのあいだ論争ろんそうはじまる。ヒエロニムスはアウグスティウスの弟子でしオロシウスとともにペラギウスの思想しそう弾劾だんがい。しかし現地げんちエルサレム司教しきょうヨハネがペラギウスの友人ゆうじんだったため、415ねん7がつ、ヨハネの主導しゅどう教会きょうかい会議かいぎ開催かいさいされる。ここでペラギウスは、かみひとつくたまうたものゆえひとかみ救済きゅうさい必要ひつようとしていると主張しゅちょうした。またかれほかにも、みずからの主張しゅちょう補強ほきょうするために、かれみとめるすうおおくの教会きょうかい重鎮じゅうちんからの手紙てがみ披露ひろうした。そのなかにはアウグスティヌスのものもあった[よう出典しゅってん]こまかい教義きょうぎ解釈かいしゃくでは意見いけんことにするとしても、アウグスティヌスはペラギウス自身じしん人柄ひとがら評価ひょうかしていた[4]

異端いたん

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しかしこの教会きょうかい会議かいぎには、ペラギウス主義しゅぎ正統せいとうからはずれた教義きょうぎ解釈かいしゃく認定にんていするだけの権威けんいがなかった[よう出典しゅってん]。そこでアウグスティヌスと司教しきょうたちは、ペラギウスとケレスティウスの出席しゅっせきなしにペラギウス主義しゅぎふたた弾劾だんがいインノケンティウス1せい (ローマ教皇きょうこう)文書ぶんしょおくり、かれ教義きょうぎ解釈かいしゃく異端いたんとするよう上申じょうしんし、それに成功せいこうする。

それでもペラギウス自身じしん行動こうどう間違まちがった信仰しんこうによるつみとはさだめられなかった。ペラギウスは教皇きょうこうゾシムスしょおくり、自分じぶんがまったき正統せいとう信仰しんこうっていると主張しゅちょう、さらに自分じぶん主張しゅちょう以前いぜんから矛盾むじゅんしたものではないとはっきり態度たいどあきらかにした。教皇きょうこうはペラギウスのしょ感銘かんめいかれ無罪むざいとした[4]

いまだもってペラギウス主義しゅぎ異端いたんとされないことにアウグスティヌスはおどろくが、418ねんのカルタゴ会議かいぎでははっきりとペラギウス主義しゅぎ否定ひていされる。すなわち原罪げんざい幼児ようじ洗礼せんれい、そしてかみ恩寵おんちょうについての教義きょうぎ明確めいかく定義ていぎされ、これが教会きょうかい全体ぜんたい基準きじゅんとして確立かくりつした。これによりペラギウス主義しゅぎはイタリアからえることとなった。[よう出典しゅってん]

最期さいご

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ペラギウスの最期さいごはよくかっていない。かれ対立たいりつする教会きょうかい勢力せいりょくによってころされたとも、失望しつぼうしてローマを東方とうほうかったともうわさされた。しかしかれがいなくなったのちおしえは弟子でしたちにがれ、おもブリタンニア・パレスティナ・きたアフリカで、ペラギウス主義しゅぎすう世紀せいきのあいだ存続そんぞくした。はんペラギウス主義しゅぎもそのなかひとつである。ただし、ペラギウスが実際じっさいいたおしえがどのようなものだったのかについては資料しりょうがほとんどのこされておらず、かれ教義きょうぎすくなからず教会きょうかい勢力せいりょくによって歪曲わいきょくされている可能かのうせいがある。[よう出典しゅってん]

映画えいがでのペラギウス

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2004ねん製作せいさく映画えいがキング・アーサー』には、主人公しゅじんこうアルトリウス(アーサーおう)の精神せいしんてきとしてペラギウスのてくる。この映画えいがでは、ペラギウスはローマでころされたという設定せっていになっており、そのったアルトリウスはマ帝国まていこくへの忠誠ちゅうせいるにいたる。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ ハルナック 1997, pp. 213–214.
  2. ^ ハルナック 1997, p. 213.
  3. ^ ハルナック 1997, p. 212.
  4. ^ a b ハルナック 1997, p. 214.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • D.A.v.ハルナック教義きょうぎ綱要こうよう山田やまだ保雄やすお やく久島くしま千枝ちえ、1997ねん3がつ1にち、212-214ぺーじNCID BA3091606X 
  • 山田やまだのぞむ『キリストの模範もはん ペラギウス神学しんがくにおけるかみとパイデイア』きょうぶんかん、1997ねん8がつ10日とおかISBN 978-4764271647 
  • アウグスティヌス「ペラギウスちょ自然しぜんについて』を引用いんようするアウグスティヌスちょ自然しぜん恩恵おんけい所収しょしゅう」『アウグスティヌス著作ちょさくしゅう だい9かん ペラギウス駁論ばくろんしゅう1』金子かねこはれいさむ わけきょうぶんかん、1979ねん9がつ1にち、125-245ぺーじISBN 978-4764230095 
  • アウグスティヌス「ペラギウスちょ自由じゆう意志いし弁護べんご』を引用いんようするアウグスティヌスちょ『キリストの恩恵おんけい原罪げんざい所収しょしゅう」『アウグスティヌス著作ちょさくしゅう だい29かん ペラギウス駁論ばくろんしゅう3』金子かねこはれいさむはた宏枝ひろえ やくきょうぶんかん、1999ねん7がつ1にち、185-293ぺーじISBN 978-4764230293 

著作ちょさく日本語にほんごやく

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  • 鎌田かまた伊知郎いちろう やく解説かいせつ『ペラギウス デメトリアスへの手紙てがみ』」『初期しょきラテン教父きょうふ』 4かん上智大学じょうちだいがく中世ちゅうせい思想しそう研究所けんきゅうじょ へんやく監修かんしゅう平凡社へいぼんしゃ中世ちゅうせい思想しそう原典げんてん集成しゅうせい〉、1999ねん6がつ1にち、925-977ぺーじISBN 978-4582734140 
  • 「「ペラギウスとカエレスティウス」より『インノケンティウスいちせいへの手紙てがみ』、聖書せいしょ注解ちゅうかい、『自由じゆう意志いしろん』(断片だんぺん)、『ディオスポリス教会きょうかい会議かいぎ提訴ていそされた命題めいだい』からの抄訳しょうやくしゅう」『ラテン教父きょうふ』 3かん小高おだかあつし へんやくきょうぶんかん原典げんてん古代こだいキリスト教きりすときょう思想しそう〉、2001ねん6がつ1にち、288-309ぺーじISBN 978-4764271982 

関連かんれん項目こうもく

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