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本多ほんだ庸一よういち

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ほんだ よういつ

本多ほんだ 庸一よういち
生誕せいたん 1849ねん1がつ7にち
陸奥みちのくこく弘前ひろさきはん領内りょうない(げん青森あおもりけん弘前ひろさき)
死没しぼつ (1912-03-26) 1912ねん3月26にち(63さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん長崎ながさきけん長崎ながさき(客死かくし)
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん
国籍こくせき 弘前ひろさきはん日本の旗 日本にっぽん
別名べつめい 徳蔵とくぞう
出身しゅっしんこう バラじゅくブラウンじゅくドルー神学校しんがっこう
職業しょくぎょう 牧師ぼくし教育きょういくしゃ教会きょうかい監督かんとく
配偶はいぐうしゃ 長嶺ながみねサダ(後妻ごさい)
子供こども 本多ほんだ愛雄よしお(牧師ぼくし)
おや ちち:本多ほんだ八郎はちろう左衛門さえもん久元ひさもとはは:トモ
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本多ほんだ 庸一よういち(ほんだ よういつ[1][2]1849ねん1がつ7にちよしみひさし元年がんねん12月13にち) - 1912ねん明治めいじ45ねん3月26にち)は、日本にっぽんキリスト教きりすときょう伝道でんどうしゃ牧師ぼくし教育きょういくしゃ政治せいじ日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい初代しょだい監督かんとく青森あおもりけん弘前ひろさきまれ。新島にいじまじょう植村うえむら正久まさひさ内村うちむら鑑三かんぞう新渡戸にとべ稲造いなぞうならび、明治めいじ日本にっぽんにおけるキリスト教きりすときょう主義しゅぎ教育きょういく先駆せんくしゃとされる。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

弘前ひろさき藩士はんし時代じだい[編集へんしゅう]

本多ほんだ先祖せんぞは、徳川とくがわ譜代ふだい本多ほんだながれをむ。

弘前ひろさきはん石高こくだか300せき本多ほんだ八郎はちろう左衛門さえもん久元ひさもと(1823ねん-1896ねん)と本多ほんだトモの長男ちょうなんとして1848ねんよしみなが元年がんねん)に弘前ひろさき城下じょうか在府ざいふまちまれる。幼名ようみょう徳蔵とくらった。祖父そふ東作ひがしさくひささだはん要職ようしょく歴任れきにんした人物じんぶつであった。

1858ねん、10さいより弘前ひろさきはん藩校はんこう稽古けいこかん漢書かんしょ素読そどく儒学じゅがくまなんだ。1865ねん(慶応けいおう元年がんねん)、17さいかいぐみとして出仕しゅっしして、藩校はんこうつかさかん[3]になる。本多ほんだ陽明学ようめいがく蘭学らんがく英学えいがく兵法ひょうほう剣術けんじゅつまなび、とく兵法ひょうほう剣術けんじゅつ達人たつじんとして幕末ばくまつ困難こんなん政局せいきょくなかでさまざまな活動かつどうおこなった。

戊辰戦争ぼしんせんそうはじまると、1868ねん(慶応けいおう4ねん)6がつ弘前ひろさきはん本多ほんだ菊池きくち九郎くろうらを奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかするため白石しらいししろ派遣はけんする。慶応けいおう4ねん(1868ねん)7がつ11にちに、京都きょうと留守るすやくつとめていた西にし館平たてひら近衛このえから勤皇きんのうてんずるようにとの命令めいれいしょって帰国きこくしたことにより、はんろん一変いっぺんして弘前ひろさきはん薩長さっちょう同盟どうめいがわく、弘前ひろさきはん重役じゅうやく会議かいぎ出席しゅっせきしているときに官軍かんぐんがわにつくことがあきらかにされる[4]本多ほんだ菊池きくち石郷岡いしごうおかいちとく工藤くどうみね次郎じろうおか兵一ひょういちらは、弘前ひろさきはん裏切うらぎりは、列藩れっぱん同盟どうめいたいする信義しんぎにもとるとして抗議こうぎしたが、函館はこだてへの転属てんぞくめいじられた。本多ほんだ菊池きくち石郷岡いしごうおからは、津軽つがる藩主はんしゅ津軽つがるうけたまわあきら黒石くろいしはんあるじ津軽つがるうけたまわじょらの慰留いりゅうって、庄内しょうないはんからの使者ししゃとも脱藩だっぱんして、庄内しょうない背信はいしんびて切腹せっぷくしようとしたが、庄内しょうない藩士はんし説得せっとくされてめた。そこで、9がつ中旬ちゅうじゅん弘前ひろさきはんへい捕虜ほりょ部隊ぶたい編成へんせいして、庄内しょうないはんぐんくわわり、秋田あきた戦争せんそう従軍じゅうぐんする。薩摩さつまはん西郷さいごう従道つぐみち指揮しきする薩摩さつまぐんさんばん小隊しょうたい交戦こうせんする。庄内しょうないはん降伏ごうぶく弘前ひろさきはんはんする。戦後せんごはんはこのかれらの行動こうどうを「義挙ぎきょ」としてとなえて帰国きこくゆるした。

1869ねんはこかん戦争せんそうでははんいのちしたが青森あおもりみなと参謀さんぼうになる。

横浜よこはまブラウンじゅく時代じだい[編集へんしゅう]

維新いしん弘前ひろさきはん命令めいれいで、1870ねん明治めいじ3ねん)に英語えいごまなぶために横浜よこはま留学りゅうがくした。横浜よこはまおさむぶんかんで、オランダ改革かいかくアメリカじん宣教師せんきょうしS.R.ブラウンらに英語えいごまなんだ。1871ねんには、ジェームス・バラちいさな会堂かいどうひらいていたバラじゅく入学にゅうがくする。バラ塾生じゅくせい本多ほんだ植村うえむら正久まさひさ押川おしかわ方義まさよしがバラに要請ようせいして祈祷きとうかいはじめた。それがきっかけで、よく1872ねん3がつ10日とおかにプロテスタント教会きょうかい日本にっぽん基督きりすと公会こうかい設立せつりつされる[5]本多ほんだ一度いちど弘前ひろさき帰国きこくしたのち自費じひ留学りゅうがくして1872ねん5月にバラじゅく復帰ふっきした。直後ちょくご、5月13にち日本にっぽん基督きりすと公会こうかいかり牧師ぼくしになったJ・H・バラから受洗じゅせんし、キリストしゃとなる。

のちに、バラじゅく塾生じゅくせいともに、1873ねん開校かいこうされたS・R・ブラウンの私塾しじゅくであるブラウンじゅく入学にゅうがくし、ブラウンから英語えいごまなんだ。

弘前ひろさき教会きょうかいひがし奥義おうぎじゅく時代じだい[編集へんしゅう]

1881ねんごろ本多ほんだ庸一よういち

1873ねん弘前ひろさき帰郷ききょうして、廃藩置県はいはんちけん影響えいきょう廃校はいこうとなっていたひがし奥義おうぎじゅく再興さいこうし、そのとしの12月より塾長じゅくちょうつとめる。 珍田ちんだ捨巳すてみ菊池きくちぐんすけ菊池きくち九郎くろうおとうと)、川村かわむら敬三けいぞうジョン・イングらが教師きょうしとなった[6]

塾長じゅくちょうはたらきのかたわ1876ねん明治めいじ9ねん)、東北とうほく最古さいこプロテスタント教会きょうかいである弘前ひろさき教会きょうかいジョン・イングとも設立せつりつし、初代しょだい牧師ぼくし兼務けんむする。イングがメソジストの宣教師せんきょうしであったので、イングにわせて弘前ひろさき教会きょうかいおよび本多ほんだはメソジストにてんじる。弘前ひろさき教会きょうかい初期しょきのメンバー(弘前ひろさきバンド)の、山鹿やまが元次もとつぐろうさか啓之ひろゆきすけ山田やまだ寅之助とらのすけ佐藤さとうあい麿まろ珍田ちんだ捨巳すてみらは、伝道でんどう教育きょういく政治せいじ産業さんぎょう文化ぶんかなど様々さまざま分野ぶんや活躍かつやくすることになる[7]

弘前ひろさき教会きょうかいまきかいしながら、自由じゆう民権みんけん運動うんどうかかわり指導しどうてき立場たちばになった。1878ねん明治めいじ11ねん)に、はじめて府県ふけんかいひらかれたとき初代しょだい青森あおもりけんかい議長ぎちょう選出せんしゅつされた。1879ねんには、国会こっかい請願せいがんしょされ、1881ねんには、国会こっかい開設かいせつみことのりくだされた。本多ほんだ支持しじしゃは、本多ほんだだいいち衆議院しゅうぎいん議員ぎいんにすることを希望きぼうして、本多ほんだもそれを希望きぼうしていた。しかし、当時とうじ政府せいふ宗教しゅうきょう代議士だいぎしになることを禁止きんししていたので、本多ほんだ政治せいじになるか、宗教しゅうきょうになるかなやんでしまう[8]

アメリカ留学りゅうがく時代じだい[編集へんしゅう]

1886ねん明治めいじ19ねん)8がつ設立せつりつされた仙台せんだい以教かい現在げんざい日本にっぽん基督教きりすときょうだん仙台せんだいきょう教会きょうかい[9]初代しょだい牧師ぼくし就任しゅうにんする。翌年よくねん4がつれんかいかい本多ほんだ仙台せんだい以教かい廃止はいしあん提出ていしゅつし、可決かけつされる。しかし、鈴木すずき義一ぎいちH・W・シュワーツうったえにより存続そんぞくされることになり、7がつ本多ほんだ東京とうきょう英和えいわ学校がっこう移動いどうした。

東京とうきょうでは築地つきじ以教かいげん日本にっぽん基督教きりすときょうだん銀座ぎんざ教会きょうかい)の長老ちょうろうせい教師きょうし)になり、青山あおやまよし以教かい牧師ぼくし東京とうきょう英和えいわ学校がっこう教師きょうしになる。1888ねん明治めいじ21ねん長嶺ながみねサダ(本多ほんだ貞子さだこ)と再婚さいこんした。同年どうねん9がつより米国べいこく洋行ようこうした。

あるペンシルベニアしゅうスクラントン郊外こうがい友人ゆうじん岩村いわむらとおるとも散歩さんぽして、鉄橋てっきょううえたたずんでいると、列車れっしゃた。岩村いわむらさけんでも、列車れっしゃ間近まぢかせまるまで本多ほんだかなかった。危機一髪ききいっぱついて、とっさに枕木まくらぎせた。すると、列車れっしゃ本多ほんだあたまをかすめて、本多ほんだ上着うわぎはしけただけでたすかった。この体験たいけんがきっかけで、本多ほんだ政界せいかい進出しんしゅつすることをやめて、キリストきょう伝道でんどう生涯しょうがいをささげる決心けっしんをした。のちに、ドルー神学校しんがっこう本格ほんかくてき神学しんがくまな[10]

青山学院あおやまがくいん校長こうちょう時代じだい[編集へんしゅう]

1890ねん明治めいじ23ねん)6がつ帰国きこく東京とうきょう英和えいわ学校がっこうこうぬし校長こうちょう)に就任しゅうにんし、1894ねん明治めいじ27ねん)、青山学院あおやまがくいん改称かいしょうだい2だい院長いんちょうとなり、17年間ねんかん院長いんちょうしょく学院がくいん発展はってん基礎きそきずく。その教育きょういく理念りねんとして“こいねがわくはかみめぐみにより、我輩わがはい学校がっこうより所謂いわゆるManをさしめよ”という言葉ことばのこし、青山学院あおやまがくいんは“Man”をそだてる学校がっこうであるとべている。ここでいう“Man”とは、Sincerity(至誠しせいーきわめて誠実せいじつであるということ)、Simplicity(しつちょくかざがなくまじめであること)というふたつの資質ししつそなえた人物じんぶつであり、その精神せいしんはスクールモットーである「しおせいひかり」へとつながっている。

1897ねん明治めいじ30ねん)7がつ1にちひらかれただい9かい福音ふくいん同盟どうめいかい役員やくいん選挙せんきょによりどうかい会長かいちょうえらばれた[11]。その在任ざいにんちゅう植村うえむら海老名えびなキリストろん論争ろんそうこり、1902ねん4がつ福音ふくいん同盟どうめいかい総会そうかいにおいて「ほん同盟どうめい福音ふくいん主義しゅぎみとめるもの聖書せいしょを以って信仰しんこう行為こうい完全かんぜんなる規範きはんとし、ひととそのすくいのためにきゅうえるわれとうしゅイエス・キリストをかみしんじるものをう。」[12]宣言せんげんされ、海老名えびな弾正だんじょう福音ふくいん同盟どうめいかいから追放ついほうされた。しかし、本多ほんだ友人ゆうじんである海老名えびな追放ついほうしたとして会長かいちょう辞任じにんした[13]

1904ねん明治めいじ37ねん)、にち戦争せんそうはじまると、キリストきょう各派かくは連合れんごうして、戦時せんじ伝道でんどうもうけ、戦地せんち慰問いもんすることになった。キリスト教きりすときょう青年せいねんかい同盟どうめい委員いいんちょうであった本多ほんだは、だい日本にっぽん福音ふくいん同盟どうめいかい委員いいんちょうであった小崎おざき弘道ひろみち一緒いっしょに、キリストきょう共同きょうどうてき奉仕ほうしについてげきばした。その内容ないようは、従軍じゅうぐん布教ふきょうまたは、軍隊ぐんたい慰問いもん使派遣はけんして、軍隊ぐんたいのいるところで伝道でんどうすること。そして、軍人ぐんじんようしょう冊子さっし内地ないち戦地せんち配布はいふすることであった。

1904ねん5がつに、だい日本にっぽん福音ふくいん同盟どうめいかいは、本多ほんだ中田なかた重治しげはる委員いいんとして、韓国かんこくにあるしょ教会きょうかい訪問ほうもんするという内容ないよう書状しょじょう韓国かんこく基督教きりすときょうかいおくった。だい日本にっぽん福音ふくいん同盟どうめいかいにち戦争せんそうかんにちりょう帝国ていこく韓国かんこく日本にっぽん)の安全あんぜん東洋とうよう進歩しんぽ平和へいわ戦争せんそうであるが、韓国かんこく領土りょうど開戦かいせんしたので、日本にっぽん委員いいん派遣はけんして慰問いもんすると主張しゅちょうした。

本多ほんだメソジスト・エピスコパル日本にっぽん年会ねんかい任命にんめいした韓国かんこく伝道でんどう委員いいんかい委員いいんちょうねて、中田なかた重治しげはる同行どうこうしゃにして、韓国かんこく訪問ほうもんすることになった。5月14にち筑後川ちくごがわまる乗船じょうせんして、16にち釜山ぷさん上陸じょうりくして、木浦きうら仁川にがわて、18にちきょうしろ(ソウル)に到着とうちゃくして、歩兵ほへいだい24連隊れんたいだい1大隊だいたい連隊れんたいちょう山本やまもと悌二郎ていじろう大佐たいさ)で中田なかた一緒いっしょ説教せっきょうをした。その各地かくち訪問ほうもんして、6がつ10日とおかにはしゅうき、14にち平壌ぴょんやんき、よししゅうかう中田なかた重治しげはる一旦いったんわかれて、順安じゅんあんった。その元山もとやまむかった。

このとき韓国かんこくしょ教会きょうかい訪問ほうもんは、にち戦争せんそう白人はくじんたい黄色おうしょく人種じんしゅたたかいであるようにみなす世界せかい世論せろんたいして、日本にっぽん立場たちば弁明べんめいして、韓国かんこくにいた白人はくじん宣教師せんきょうしらに日本人にっぽんじんにもクリスチャンがいることをらしめるためであったとわれる。中田なかた重治しげはるはそのとき本多ほんだのことを『先生せんせい武官ぶかん役人やくにんたいして非常ひじょう鄭重ていちょう礼儀れいぎただしくし、「かれらはこうしておけばよろこんでいる」とわれた。』宿やどゆかよこたわれば、寝入ねいったと』った[14]

1905ねん明治めいじ38ねん)にはにち戦争せんそう義戦ぎせん宣伝せんでん民間みんかん使節しせつとして井深いぶか梶之助かじのすけとともに欧米おうべい諸国しょこく歴訪れきほうした[15]

日本にっぽんメソジスト教会きょうかい監督かんとく時代じだい[編集へんしゅう]

晩年ばんねん本多ほんだ庸一よういち

また、日本にっぽんでは統一とういつてき組織そしきキリスト教きりすときょう宣教せんきょうにあたったほうが合理ごうりてきかんがえるようになり、1907ねん日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい設立せつりつする。同年どうねん青山学院あおやまがくいん院長いんちょう退しりぞいて、初代しょだい監督かんとくとなり、日本にっぽん独自どくじ宣教せんきょう組織そしき確立かくりつした。

1909ねん明治めいじ42ねん)の宣教せんきょう開始かいし50ねん記念きねんかい感謝かんしゃと、だいじゅう講演こうえんかい過去かこ将来しょうらいける宣教師せんきょうし事業じぎょう」の講演こうえん担当たんとうつま貞子さだこ講演こうえんをする。

1910ねん明治めいじ43ねん)に英国えいこくエディンバラおこなわれた「世界せかい宣教せんきょう大会たいかい」に井深いぶか梶之助かじのすけ原田はらだすけらととも出席しゅっせきした。

1912ねん明治めいじ45ねん)2がつ25にちに、内務ないむ次官じかん床次とこなみ竹二郎たけじろう企画きかくで、神道しんとう仏教ぶっきょう、キリストきょうさん会同かいどうために政府せいふせきしゃかく宗教しゅうきょう代表だいひょう出席しゅっせきした。政府せいふはらたかし内務ないむ大臣だいじんらが出席しゅっせき、キリストきょう代表だいひょうとして、本多ほんだ宮川みやがわけいてる千葉ちば勇五郎ゆうごろう井深いぶか梶之助かじのすけら7めい出席しゅっせきした。翌日よくじつさん大乗だいじょう再度さいど会合かいごうして、決議けつぎあん検討けんとうした。キリストきょうがわはこの会同かいどうすすんで協力きょうりょくして、神仏しんぶつきょう同等どうとう待遇たいぐうけたことをよろこんだ。これを、さんきょう会同かいどうという[16]

同年どうねん3がつ26にち、メソジスト教会きょうかい西部せいぶ年会ねんかいのために長崎ながさき滞在たいざいちゅうりょうはい気管支きかんしカタルちょう出血しゅっけつとう病気びょうき死去しきょした。4月12にちよる青山学院あおやまがくいん弘道こうどうかんで、追悼ついとうかいおこなわれ、植村うえむら正久まさひさ中田なかた重治しげはるらが出席しゅっせきした。

日本にっぽんメソジスト教会きょうかい最後さいご監督かんとく本多ほんだおい阿部あべ義宗よしむね本多ほんだ業績ぎょうせき記念きねんして、本多ほんだ記念きねん教会きょうかい設立せつりつした。

家族かぞく[編集へんしゅう]

弟子でし[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

  • 『メソヂスト監督かんとく教会きょうかい教理きょうりおよ条例じょうれい』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1892ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050432 
  • 『メソヂスト監督かんとく教会きょうかい礼文れぶん』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1892ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050438 
  • 宣戦せんせん詔勅しょうちょく俗解ぞっかい問答もんどうしんかん事件じけん基督教きりすときょう同志どうしかい、1894ねん10がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40004468 
  • 『メソジスト監督かんとく教会きょうかい教理きょうりおよ条例じょうれい』メソジスト出版しゅっぱんしゃ、1894ねん12月。全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050433 
  • 軍人ぐんじん必要ひつよう精神せいしんかて』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1894ねん12月。全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050044 
  • 一般いっぱん教育きょういくかんする文部省もんぶしょう訓令くんれいだいじゅうごうたいする運動うんどう顚末がい畧及意見いけんきょうぶんかん、1899ねん12月。 NCID BB25410444 
  • 本多ほんだ庸一よういち先生せんせい説教せっきょうしゅう白鳥しらとり斯文しぶんかく、1907ねん5がつNCID BA42958657全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050387 
  • 高木たかぎみずのえ太郎たろう へん本多ほんだ庸一よういち先生せんせい遺稿いこう日本にっぽん基督教きりすときょうきょうぶん協会きょうかい、1918ねん11月。 NCID BN06323427全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:43012491 

編集へんしゅう[編集へんしゅう]

  • ひがし奥義おうぎじゅく一覧いちらん本多ほんだ庸一よういち、1878ねん9がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40041397 
  • よし以教かい個条かじょう総則そうそく』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1894ねん3がつNCID BA38906172全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050409 
  • よし以教かい問答もんどう』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1894ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050411 
  • ソボルン『講演こうえんしゅう 世界せかいのペンテコステのせつ』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ〈メソヂスト教会きょうかい講演こうえんしゅう〉、1895ねん1がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050075 
  • ワーレン『われとうさきなにもとむべき乎』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1895ねん1がつNCID BA30592966全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050599 
  • バルロース『講演こうえんしゅう しん永遠えいえん』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1895ねん3がつNCID BB01696987全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40049462 
  • アンブラー『基督教きりすときょうだい真理しんり』メソヂスト出版しゅっぱんしゃ、1895ねん5がつNCID BA55595115全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40049627 
  • 一般いっぱん教育きょういくかんする文部省もんぶしょう訓令くんれいだいじゅうごうたいする運動うんどう顛末てんまつ概略がいりゃく意見いけんきょうぶんかん、1899ねん12月。 NCID BB25410444 
  • 日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい礼文れぶんきょうぶんかん、1908ねん10がつNCID BB01617459全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40050259 
    • 日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい礼文れぶん』(複製ふくせいばん更新こうしん伝道でんどうかい出版しゅっぱん委員いいんかい〈ウェスレー研究けんきゅうかいパンフレット No.7〉、1991ねん10がつNCID BN16161161 
  • 日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい教義きょうぎ及条れいきょうぶんかん、1909ねん1がつ 
    • 日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい教義きょうぎ及条れい資料しりょう』(複製ふくせいばん更新こうしん伝道でんどうかい出版しゅっぱん委員いいんかい〈ウェスレー研究けんきゅうかいパンフレット No.8〉、1992ねん7がつNCID BN15121591 

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

  • 本多ほんだ庸一よういち三好みよし退蔵たいぞう しる堀田ほった達治たつじ へん開会かいかいたてまつきょうじょう閲歴えつれききょうぶんかん福音ふくいん同盟どうめいかい演説えんぜつしゅう だい1しゅう〉、1898ねん6がつNCID BN14957352 

目録もくろく[編集へんしゅう]

  • 小林こばやし和幸かずゆき青山学院あおやまがくいん資料しりょうセンター150ねん編纂へんさんしつ へん本多ほんだ庸一よういち関係かんけい資料しりょう目録もくろく青山学院あおやまがくいん150ねん編纂へんさん委員いいんかい青山学院あおやまがくいん150ねん編纂へんさん報告ほうこく 1〉、2017ねん3がつNCID BB23839487全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22929270 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 本多ほんだつまあねまごたる作曲さっきょく柴田しばたみなみつよしは、「本多ほんだ庸一よういちみは、ほとんどの人名じんめい辞典じてん伝記でんきで『よういつ』となっているが、わたくしも従兄弟いとこたちも『よういち』以外いがいかたいた記憶きおくはない。本人ほんにんまごたるひとが、親族しんぞく一人ひとりである外国がいこくじんのためにマ字まじ作製さくせいした一家いっか系統けいとうじゅでも、そのはYoichiとなっている。本人ほんにんマ字まじ署名しょめい確認かくにんする必要ひつようがあるが、未見みけんである」とべている(柴田しばたみなみゆう『わが音楽おんがく わが人生じんせい』pp.366-367、岩波書店いわなみしょてん1995ねん)。
  2. ^ 青森あおもりけん百科ひゃっか事典じてん』(東奥日報社とうおうにっぽうしゃ、1981ねん3がつ)では、『ほんだよういち』としている。
  3. ^ 藩校はんこう稽古けいこかん取締役とりしまりやく
  4. ^ 工藤くどうたけしちょ奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい基礎きそてき研究けんきゅう』420-421ページ
  5. ^ 日本にっぽん最初さいしょのプロテスタント教会きょうかいは1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)に長崎ながさきてられた英国えいこくせい公会こうかい会堂かいどうである。日本にっぽんはつのプロテスタント教会きょうかいのスケッチをバークガフニ環境かんきょう建築けんちくがく部長ぶちょう発見はっけん長崎ながさき総合そうごう技術ぎじゅつ大学だいがく
  6. ^ 中田なかた重治しげはるでん』14ページ
  7. ^ 日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』P.1180
  8. ^ 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん』28ページ
  9. ^ 以はメソジスト監督かんとく
  10. ^ 高野たかの勝夫かつお『キリストきょう逸話いつわ例話れいわしゅう』309ページ
  11. ^ 本多ほんだ庸一よういちでん』 125ぺーじ
  12. ^ 時代じだい5かん p.423
  13. ^ 本多ほんだ庸一よういちでん』 406ぺーじ
  14. ^ 中田なかた重治しげはるでん』130ページ
  15. ^ 学校がっこう法人ほうじん青山学院あおやまがくいん本多ほんだ庸一よういち』 1968ねん、219ぺーじ
  16. ^ 小野おの静雄しずお『プロテスタント教会きょうかい』p/230-231

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
初代しょだい
日本にっぽんメソヂスト教会きょうかい監督かんとく
初代しょだい:1907ねん - 1912ねん
次代じだい
平岩ひらいわ愃保