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ジョン・イング(John Ing、1840年8月22日 - 1920年6月4日)は、日本で活動したアメリカ人宣教師。本多庸一と共に弘前教会を設立した。リンゴを日本で広めた宣教師としても知られる。リンゴ自体は、それ以前から日本で知られていた[1][注釈 1]。
1840年、アメリカ・イリノイ州で、メソジスト派の牧師スタンフォード・イングの息子として農村に誕生する。父親のスタンフォードはメソジスト監督教会の教区長になる。
1859年アズベリー大学に入学、父親と共に南北戦争に参戦し、イングは北軍の騎兵大尉になる。戦後アズベリー大学に復学して学び、牧師の資格を得、1870年にセントルイス年会員になり、レキシントン[要曖昧さ回避]教会に牧師に任命された。この年、ルーシーと結婚する。
宣教師として清国の九江で活動し、4年間で4伝道地を持つ巡回地を設立する。
健康を害して清国を離れ帰国することになるが、1874年(明治7年)に横浜に立ち寄った時に、本多庸一と出合う。
1874年12月初旬に本多の紹介で会った菊池九郎の要請で、弘前の東奥義塾の英語教師として就任。妻と共に男女のクラスを教えた。イングは英語の他に、理数、博物、歴史を教える。
1874年(明治7年)のクリスマスにイング宅で本多と塾生10数名がクリスマスを祝ったときに、西洋リンゴが出されて好評であった。以後、イングはリンゴ、トマト、キャベツなどを種子と苗木を輸入して、栽培を指導した。
1875年(明治8年)10月2日、イング宅に本多をはじめとする22名が集まり、祈りと共に教会を組織し、長老2名、執事1名を選挙した。これが弘前教会の始まりである。この集まりは弘前バンドと呼ばれる。
1876年(明治9年)12月に弘前公会は美以教会に加入し、イングは正式な教師になった。
1878年(明治11年)弘前を離れ、函館に行く。日本基督教団函館教会の宣教師となる。後任の英語教師は、長崎で活動していたJ・C・デヴィソンが着任した。
1881年、ミズーリ州にいるときに妻ルーシーが死去する。1882年、会を引退する。1884年再婚し、1891年、イリノイ州に農場を買い移住する。1920年死去し、イリノイ州のベントン墓地に葬られた。
- ^ 明治4年(1871)明治政府主導でラインホルト・ガルトネルから開拓使が引き継いだ農場を西洋式農法を取り入れた官園「七重開墾場」にしてから、明治8年から20年に無償・有償で670,000本余の苗木を開拓者に配布していた[2][3]
- 米田勇『中田重治伝』中田重治伝刊行会、1959年 - p.6、「宣教師が弘前に西洋林檎の種を最初に輸入したという説がある」で、さらにp.14「前述の宣教師は『ジョン・イング』という説もある」と、2重に曖昧で「種をもらった若者が栽培した」伝説を書いた形で歴史記述でもなく、参考文献にならない。
- 『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年