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ジョージ・ウィリアム・ノックス

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ジョージ・ウィリアム・ノックス
George William Knox
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう (1853-08-11) 1853ねん8がつ11にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークしゅうローム
死去しきょ (1912-04-25) 1912ねん4がつ25にち(58さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん大日本帝国だいにっぽんていこく朝鮮ちょうせん日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせんきょうしろげん大韓民国だいかんみんこくソウル
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
両親りょうしん ちち:ウィリアム・イートン・ノックス
はは:アリス・ウッドワード・ノックス
配偶はいぐうしゃ アン・キャロライン・ホームズ
職業しょくぎょう 宣教師せんきょうし
出身しゅっしんこう ハミルトン大学だいがくオーバン大学だいがく
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ジョージ・ウィリアム・ノックス(George William Knox、1853ねん8がつ11にち - 1912ねん4がつ25にち)は、米国べいこく長老ちょうろう教会きょうかいから派遣はけんされた、明治めいじ時代じだいアメリカじん来日らいにち宣教師せんきょうしである。ナックスとも表記ひょうきされることもある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

初期しょき[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークしゅうロームで、米国べいこく長老ちょうろう教会きょうかい有力ゆうりょく牧師ぼくし神学しんがく博士はかせのウィリアム・イートン・ノックスと長老ちょうろう教会きょうかい夫人ふじん活動かつどうははアリス・ウッドワード・ノックスのあいだ長男ちょうなんとしてまれた。

ノックスは父親ちちおやまきかいするロームで成長せいちょうして、1870ねんからニューヨークしゅうクリントンハミルトン大学だいがく入学にゅうがくした。1874ねんにハミルトン大学だいがく卒業そつぎょうすると、ちちおな牧師ぼくし目指めざして、オーバン神学校しんがっこう入学にゅうがくした。1877ねんはる神学校しんがっこう卒業そつぎょうして、アン・キャロライン・ホームズと結婚けっこんして、ニューヨークしゅうエルミラのだいいち長老ちょうろう教会きょうかい日本にっぽん派遣はけん宣教師せんきょうし任命にんめいけた。ノックス夫妻ふさいは9月にカリフォルニアしゅうサンホセ移動いどうして日本にっぽんきの準備じゅんびととのえた。

在日ざいにちミッションでは、教派きょうは合同ごうどうのための宣教師せんきょうしさんめいえらび、ノックスとトーマス・セロン・アレキサンダーとトーマス・クレイ・ウィンを1877ねんまつ派遣はけんした。

日本にっぽん宣教せんきょう[編集へんしゅう]

1880年代ねんだいなかばのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく長老ちょうろう教会きょうかい東京とうきょうミッションのメンバーの家族かぞく集合しゅうごう写真しゃしん,ノックスはまえからさんれつみぎから2人ふたりよこいている人物じんぶつ、そのまえ右側みぎがわにいるのが夫人ふじん

ノックスは1877ねん11月2にち夫婦ふうふ横浜よこはま上陸じょうりくして、横浜よこはま長老ちょうろう教会きょうかい宣教師せんきょうしかん滞在たいざいした。同館どうかんでは、ジョン・クレッグ・バラが横浜よこはまでバラ学校がっこうばれたミッションの男子だんし学校がっこう経営けいえいしていた。早速さっそく、ノックスが日本語にほんご勉強べんきょうとともにバラ学校がっこう英語えいごおしえることになった。また、住吉すみよしまち教会きょうかいだいかり牧師ぼくし招聘しょうへいされた。同年どうねん、9月17にちオランダ改革かいかく教会きょうかいスコットランド一致いっち長老ちょうろう教会きょうかいおよび日本人にっぽんじん教会きょうかいである日本にっぽん長老ちょうろう公会こうかい日本にっぽん基督きりすと公会こうかい合同ごうどうして、日本にっぽん基督きりすと一致いっち教会きょうかい成立せいりつしていた。この団体だんたい教職きょうしょく養成ようせいのために東京とうきょう一致いっち神学校しんがっこう開港かいこうされた。ウィリアム・インブリージェームス・ランジング・アメルマン、サミュエル・グリフィリン・マクラーレンが専任せんにん教授きょうじゅとしてえらばれ、グイド・フルベッキデイヴィッド・タムソンとミラーが就任しゅうにんした。

築地つきじ転居てんきょしたノックスは築地つきじだい学校がっこう教授きょうじゅとして2年間ねんかんつとめ、1883ねんさきこころざし学校がっこう築地つきじだい学校がっこう合併がっぺいして東京とうきょう一致いっち英和えいわ学校がっこうになったときに、東京とうきょう一致いっち神学校しんがっこう教授きょうじゅになった。神学校しんがっこうではべんしょうろん教理きょうり問答もんどう説教せっきょうがく教授きょうじゅした。ノックスは政治せいじ社会しゃかい問題もんだい哲学てつがく倫理りんりがく神学しんがく時事じじ問題もんだいなどあらゆることに関心かんしんしめしていた。せんもん基督教きりすときょうべんしょうがく以外いがいにも新約しんやく聖書せいしょ釈義しゃくぎ研究けんきゅう根気こんきつよ組織そしきてき分析ぶんせきした。また、日本にっぽん古典こてん研究けんきゅうおこない、アジア協会きょうかい理事りじちょうふく理事りじちょうなどをつとめた。

1883ねん明治めいじ16ねん)7がつには韓国かんこく最初さいしょのプロテスタント信徒しんと一人ひとりであるいつき関係かんけいで、朝鮮ちょうせん現地げんち視察しさつ旅行りょこうにもき、朝鮮ちょうせん伝道でんどうこころみた。さらに、アメリカ聖書せいしょ協会きょうかいヘンリー・ルーミス宣教師せんきょうし協力きょうりょくして、いつき廷の名前なまえでアメリカ本国ほんごく朝鮮ちょうせん伝道でんどうのための宣教師せんきょうし派遣はけん要請ようせいする。1885ねんメソジスト教会きょうかいH・G・アーペンゼラーとアメリカ長老ちょうろうH・G・アンダーウッド来日らいにちする。2めい宣教師せんきょうしいつき廷から朝鮮ちょうせんまなび、2カ月かげつのイースターより韓国かんこく仁川にがわ伝道でんどう開始かいしする。[1]

1886ねん明治めいじ19ねん)から東京大学とうきょうだいがくまねかれて、アーネスト・フェノロサ後任こうにんとして、哲学てつがく審美しんびがく講義こうぎおこなった。

在日ざいにち宣教師せんきょうし日本人にっぽんじん教職きょうしょくしゃたちがミッション傘下さんか学校がっこう統合とうごうして、「日本にっぽんプリンストン」を目指めざしてクリスチャン・カレッジの創設そうせつ企画きかくした。その実行じっこう委員いいん一人ひとりとしてノックスが活躍かつやくした。1887ねん明治めいじ20ねん)9がつ明治めいじ学院がくいん開校かいこうされた。

1887ねんはるにノックス一家いっかはアメリカに一時いちじ帰国きこくオハイオしゅうごした。1888ねん明治めいじ21ねん)9がつ18にち日本にっぽんもどった。そのとし、ノックスは日本にっぽんでの宣教せんきょう事業じぎょう功績こうせきたいして、プリンストン大学ぷりんすとんだいがくから名誉めいよ博士はかせごう授与じゅよされた。

日本にっぽん基督きりすと一致いっち協会きょうかい伝道でんどうきょく創設そうせつ努力どりょくした。また、どう協会きょうかい教職きょうしょく安川やすかわとおる人脈じんみゃくで、板垣いたがき退助たいすけ植木うえき枝盛えもり片岡かたおか健吉けんきちらの立志りっししゃ自由党じゆうとうとの関係かんけいまれたので、1884ねんより積極せっきょくてき高知こうち伝道でんどう展開てんかいした。ノックス、タムソン、フルベッキ、ミラーなどが高知こうち派遣はけんされた。1884ねん11月よりノックスは高知こうちはいり、12月まつまで各地かくち演説えんぜつかいおこなった。片岡かたおか健吉けんきち坂本さかもとただしひろし武市たけいちやすしはら保太郎やすたろうなどがノックスから洗礼せんれいけた。

ノックスは慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく1891ねん明治めいじ24ねん)からいち年間ねんかん心理しんりがく講義こうぎ出向しゅっこうする。1892ねん明治めいじ25ねん)にはアメルマンが帰国きこくしたので、アメルマンの旧約きゅうやく聖書せいしょ釈義しゃくぎ担当たんとう、ノックスの学問がくもんてき興味きょうみ旺盛おうせいであった。しかし、インブリーが1893ねん明治めいじ26ねん)に一時いちじ帰国きこくすると、ノックスはついに帰国きこく決意けついし、おなねんの6がつ19にちにアメリカに帰国きこくした。

本国ほんごく帰国きこく[編集へんしゅう]

アメリカに帰国きこくしてしばらく静養せいようしたのち1894ねん明治めいじ27ねん)12月1にちよりニューヨークしゅうにある長老ちょうろう教会きょうかい奉仕ほうしを5年間ねんかんおこなった。1897ねん明治めいじ30ねん)よりニューヨークユニオン神学校しんがっこう講師こうしまねかれて、べんしょうろん講義こうぎおこなった。その、ユニオン神学校しんがっこうからの招聘しょうへいがあり、1899ねん明治めいじ32ねん)2がつより、教授きょうじゅとしてユニオン神学校しんがっこう哲学てつがく宗教しゅうきょう海外かいがい伝道でんどう講義こうぎった。そのあいだすぐれた論文ろんぶん発表はっぴょうしてたか評価ひょうかけ、ホバート・カレッジから文学ぶんがく博士はかせごうウェスレアン大学だいがくから神学しんがく博士はかせごうエール大学だいがくから神学しんがく博士はかせごう受領じゅりょうした。1903ねん明治めいじ36ねん)にはエール大学だいがく講師こうしとして講壇こうだんつ。1904ねん明治めいじ37ねん)に当時とうじ明治めいじ学院がくいん総理そうり井深いぶか梶之助かじのすけがインブリーととも訪米ほうべいする。井深いぶかとインブリーはノックスのいえ明治めいじ学院がくいん将来しょうらいについてかたった。

1906ねん明治めいじ39ねん)から1908ねん明治めいじ41ねん)までユニオン神学校しんがっこう学部がくぶちょうつとめた。これらの功績こうせきみとめられ、1908ねん日本にっぽん政府せいふはノックスにくんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょうおくった。

きょうじょうでの客死かくし[編集へんしゅう]

1911ねん明治めいじ44ねん)オン神学校しんがっこうはノックスをインド中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん日本にっぽん派遣はけんした。6月にニューヨークこう出港しゅっこうして、ヨーロッパをまわり、インド、中国ちゅうごく満州まんしゅう経由けいゆして、1912ねん明治めいじ45ねん)4がつ18にち平壌ぴょんやんからきょうしろについた。しかし風邪かぜをこじらせ、長老ちょうろう教会きょうかいセベレンス病院びょういん入院にゅういんちゅう肺炎はいえんで4がつ25にち客死かくしした。日本にっぽん政府せいふ危篤きとくらせに、くんさんとう瑞宝章ずいほうしょうおくった。

5月1にちきょうじょう葬儀そうぎおこなわれた。5月4にち東京とうきょう夫人ふじんがノックスの遺骨いこつたずさえて来日らいにちした。10日とおかに、井深いぶか梶之助かじのすけ植村うえむら正久まさひさら20めい内輪うちわ追悼ついとうかいおこなった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ まことだいいつき廷」『日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』110ぺーじ