エリザベス・ラッセル
エリザベス・ラッセル(Elizabeth Russell、1836
経歴 [編集 ]
- 1836
年 オハイオ州 ハリソン郡 カーディスで6人 同胞 の2番目 として生 まれた。父 、ジョン・ラッセルは機械 大工 であった。何 回 かの引 っ越 しのあと、1844年 (8歳 )、一家 はバージニア州 (後 のウェスト・バージニア州 )ホイーリングに居 を定 めた。 - 1855
年 (19歳 )母 、ジュリア・アン・ラッセルが亡 くなった。学校 の成績 が優秀 だったのでワシントン・セミナリーの校長 、サラ・フォスター・ハンナの目 に留 まり、将来 を期待 された。 - 1857
年 (21歳 )ワシントン・セミナリーに寄宿 生 として入学 した。ワシントン (ペンシルベニア州 )にあった同校 はすぐれた教育 を行 う女学院 として有名 であった。在学 中 に理想 的 な女子 教育 、そして福音 伝道 への思 いが芽生 えた。 - 1859
年 (23歳 )ワシントン・セミナリーをクラス総代 として卒業 した。その後 約 10年間 教師 として働 いた。南北戦争 (1861年 - 1865年 )により、バージニア州 からウェスト・バージニア州 が分離 した。 - 1873
年 (36歳 )原因 不明 の心身 の不調 にみまわれ、働 けない日 が続 いた。そんなある日 メソジスト監督 派 教会 の伝道 集会 に参加 したところ、不調 から抜 け出 せた。そしてホーリネス運動 に参加 し、福音 伝道 することが使命 だと思 えるようになった。ふたたび高校 教師 の職 を得 て、教室 に復帰 した。教師 をしながら米国 メソジスト監督 派 教会 女性 海外 伝道 協会 (WFMS)ウェスト・バージニア州 支部 の幹事 をつとめた。はじめは自分 の年齢 で海外 派遣 はないと考 えていたが、WFMSで仕事 をするうちに自分 自身 が海外 へ出 たいという気持 ちが強 くなった。この年 (明治 6年 )、日本 ではキリスト教 禁止 令 の高札 が撤去 された。メソジスト監督 派 教会 は宣教師 ジョン・デヴィソンを長崎 に派遣 した。ジョン・デヴィソンは1876年 、出島 にメソジスト教会 を建 てた。そして1879年 9月 、WFMSに手紙 を出 し、女子 教育 のために二 人 の女性 宣教師 を長崎 に派遣 するよう依頼 した。 - 1879
年 (43歳 )10月 25日 、当時 33歳 の教師 、ジェニー・マーガレット・ギール[2]とともにサンフランシスコを出発 し、横浜 を経由 して11月23日 、長崎 に到着 した。12月1日 、長崎 ・東山手 の外国 人 居留 地 に女学校 を創設 した。1881年 、校 名 を「活 水 女学校 」と定 め、1882年 、校舎 を新築 した。クリスチャンの妻 、母 となるための教育 にとどまらず、当時 の女学校 では珍 しかった高等 数学 や科学 の授業 を行 い、自立 した女性 を育成 するための専門 教育 を重視 した。 - 1885
年 (48歳 )日本人 の赤 ん坊 を養子 として引 き取 った(エレン・メイ・ラッセルと命名 しメイと呼 んだ)。メイは11歳 になった時 、寡婦 となっていたラッセルの妹 、ジュリアの家 (デラウェア (オハイオ州 ))に預 けられた。1910年 、メイはオハイオ・ウェスリアン大学 を卒業 した。長崎 にもどり、活水学院 で働 いた。 - 1893
年 (56歳 )ラッセルは当時 の地震 などで生 じた孤児 の収容 施設 を天草 に設 けた(活 水 女 園 )[3][4]。また、長崎 港 に入港 する外国 人 船員 たちを遊郭 などの歓楽街 から遠 ざけるための宿泊 施設 を作 った[5]。 - 1898
年 (62歳 )活水学院 の校長 を退 き、補佐 役 となった。日 清 戦争 (1894年 - 1995年 )、日 露 戦争 (1904年 - 1905年 )そして第 一 次 世界 大戦 (1914年 - 1918年 )を経験 した。 - 1919
年 (82歳 )日本 を去 りメイとともにオハイオの妹 、ジュリアの家 に移 った。教育 および社会 福祉 に対 する功績 に対 し、大正天皇 から藍綬 褒章 が授与 された。英字 新聞 Nagasaki Express(1919年 5月 28日 )はラッセルの偉大 な功績 、クリスチャンとしての信念 と情熱 を称 えた。帰国 後 は、結核 に罹患 したメイの看病 と高齢 のジュリアの世話 をしながら日々 を送 った。1924年 、メイが39歳 で死去 した。まもなくジュリアも死去 した。 - 1928
年 ジュリアの家 で死去 した。享年 91。
その他 [編集 ]
ラッセルとギールが
映画 [編集 ]
関連 した文献 [編集 ]
- レイン・アーンズ『
幕末 ・明治 ・大正 ・昭和 長崎 居留 地 の西洋 人 』長崎 出版 社 、2002年 。 白浜 祥子 『長崎 活 水 の娘 たちよ―エリザベス・ラッセル女史 の足跡 』彩 流 社 、2003年 。齋藤 元子 『女性 宣教師 の日本 探訪 記 ―明治 期 における米国 メソジスト教会 の海外 伝道 』日本 ウェスレー協会 ウェスレー研究 基金 委員 会 、2009年 。
出典 [編集 ]
- ^ “The Legacy of Elizabeth Russell”. International Bulletin of Missionary Research (Overseas Ministries Study Center) 32 (2): 93-99. (2008-04).
- ^ “Founder of Fukuoka Jogakuin - Jennie Margaret Gheer (1846-1910)”.
日本 基督教 団 . 2022年 2月 11日 閲覧 。 - ^
二瓶 淨 幸 「大島 サキと活 水 における最初 のリバイバル」『活 水論 文集 健康 生活 学部 編 』第 58巻 、活 水 女子大 学 、2015年 3月 31日 。 - ^
前田 志津子 「古賀 村 と活 水 女 園 についての検討 」『活 水論 文集 』第 64巻 、活 水 女子大 学 、2021年 3月 31日 。 - ^ “Kwassui’s First Leaders”. Kwassui Women’s University. 2022
年 2月 11日 閲覧 。 - ^ “わが
心 に刻 まれし乙女 たちをーエリザベス・ラッセル女史 の生涯 ”.長崎 バプテスト教会 . 2022年 2月 10日 閲覧 。