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中田なかたあやめ

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今井いまいあやめから転送てんそう
中田なかたあやめ
1923ねんごろ(42さいごろ)の中田なかたあやめ
生誕せいたん 1881ねん4がつ15にち
宮城みやぎけん仙台せんだい
死没しぼつ (1939-09-14) 1939ねん9月14にち(58さいぼつ
東京とうきょう柏木かしわぎげん東京とうきょう新宿しんじゅく
職業しょくぎょう 牧師ぼくし
配偶はいぐうしゃ 中田なかた重治しげはる
テンプレートを表示ひょうじ

中田なかた あやめ(なかだ あやめ、旧姓きゅうせい今井いまい英語えいご:Iris Nakada、1881ねん4がつ15にち - 1939ねん9月14にち)は、ホーリネス教会きょうかい創始そうししゃ監督かんとく中田なかた重治しげはる番目ばんめつま昭和しょうわホーリネス・リバイバル中心ちゅうしんてき人物じんぶつ東京とうきょう聖書せいしょ学院がくいん舎監しゃかんとしておおきな勢力せいりょくるった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

初期しょき[編集へんしゅう]

1881ねん(明治めいじ14ねん)4がつ15にち仙台せんだいで、ちち今井いまいよし五郎ごろうははよねの長女ちょうじょとしてまれた。のちいもうとうめだいおとうとごうまれる。小学校しょうがっこう卒業そつぎょうするときに、外国がいこくじん宣教師せんきょうしみちびかれて信仰しんこうった。

日本にっぽんメソジスト教会きょうかい付属ふぞく女学校じょがっこうはいり、1898ねん(明治めいじ31ねん)3がつ卒業そつぎょうする。卒業そつぎょう横浜よこはませいけい女学校じょがっこう入学にゅうがくしたが、学費がくひがなかったので、同校どうこういち学科がっかつことによって、その謝礼しゃれい学費がくひをまかなってまなんで卒業そつぎょうした。

メソジストの伝道でんどう時代じだい[編集へんしゅう]

卒業そつぎょう、メソジスト教会きょうかい婦人ふじん伝道でんどうとして各地かくち伝道でんどうした。

小樽おたる在住ざいじゅうときに、日本にっぽんホーリネス教会きょうかい監督かんとく中田なかた重治しげはる巡回じゅんかいしてリバイバル集会しゅうかい開催かいさいしたのに出席しゅっせきし、そのとききよめの体験たいけんけた。

1910ねん(明治めいじ43ねん)ハワイわたるために上京じょうきょうするが、検疫けんえき結果けっかトラホーム許可きょかされなかった。そこで、千葉ちばけん佐原さわらまちのメソジスト教会きょうかいはたらくことになった。

結婚けっこん[編集へんしゅう]

1911ねん(明治めいじ44ねん)3がつ中田なかた重治しげはるかつ夫人ふじんうしない、4かかえているのをてあやめはふか同情どうじょうした。中田なかた再婚さいこんおもつと、今井いまいあやめをいち候補こうほとしてげた。側近そっきん牧師ぼくしたちの賛成さんせいて、あやめと1911ねん(明治めいじ44ねん)8がつ結婚けっこんした。

やまいかみ[編集へんしゅう]

結婚けっこん直後ちょくご1912ねん(明治めいじ45ねん)3がつごろちょう結核けっかくわずら危篤きとくになるが、くすりまずにかみたよっていやされる。1912ねん(明治めいじ45ねん)7がつ明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょしたころに、宮城みやぎけん実家じっか今井いまい継子けいしゆたかれて精神せいしんてき疲労ひろうのために静養せいようく。

あやめの精神せいしんてき疲労ひろうのために、帰京ききょうをあやぶんだ親戚しんせきもいた。そのころおっと重治しげはる急性きゅうせいリューマチかか関節かんせつつう病床びょうしょうせると、実家じっかより東京とうきょうかえおっと看病かんびょうをした。[1]おっと看病かんびょうをしているうちに、あやめも下腹かふくいたみをうったえてやまいゆかせった。療養りょうようのためにおっととも熱海あたみ温泉おんせんやく1ヶ月かげつ滞在たいざいして、帰京ききょうした。その出産しゅっさんするが死産しざんになる。そのちょう結核けっかく診断しんだんされる。

絶望ぜつぼうてき病状びょうじょうおちいるが、周囲しゅういひといのりにより週間しゅうかん奇跡きせきてき回復かいふくする。のちにこの経験けいけんを『かげたに脱出だっしゅつす』というだいひじりきよしとも発表はっぴょうする。[2]さらに、流産りゅうざん原因げんいんで5ねん1917ねん(大正たいしょう6ねん)に腹膜炎ふくまくえんになり衰弱すいじゃくしたが、丹羽にわ平三郎へいさぶろう小原おはら十三じゅうざらとあぶらちゅういでいのったところいやされた。

ホーリネスの教職きょうしょく[編集へんしゅう]

聖書せいしょ学院がくいんきょう役者やくしゃかい中田なかた前列ぜんれつひだりから5にんみぎとなりおっと重治しげはる

1929ねん(昭和しょうわ4ねん)の日本にっぽんホーリネス教会きょうかい年会ねんかいで、12めい男子だんしとも按手れいけて、正式せいしき教職きょうしょくになる。

1930ねん(昭和しょうわ5ねん)に東京とうきょう聖書せいしょ学院がくいん昭和しょうわホーリネス・リバイバルこる。あやめは舎監しゃかんとして修養しゅうようせいおおきな影響えいきょうあたえた。リバイバルが過熱かねつしていくなか1932ねん(昭和しょうわ7ねん)のころから、あやめは逸脱いつだつしはじめ、あやめの指導しどうにより、修養しゅうようせい神学しんがくしょ冬物ふゆもの衣料いりょうやした。そして、あやめとの確執かくしつ原因げんいんで、おなじくホーリネスの教職きょうしょくであった継子けいし羽後うご聖書せいしょ学院がくいんる。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1939ねん(昭和しょうわ14ねん)9がつ14にちがんのために柏木かしわぎ自宅じたく死去しきょする。直前ちょくぜんって和解わかいして、『十字架じゅうじかでね』とった。9月16にち聖書せいしょ学院がくいんだい講堂こうどう葬儀そうぎ執行しっこうされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 中田なかた重治しげはるでん』208ページ、しかし、これはのち妊娠にんしんのためであるとかった。
  2. ^ 中田なかた重治しげはるでん』211ページ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 米田よねだいさむ中田なかた重治しげはるでん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]