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亀谷かめたに凌雲りょううん

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かめがい りょううん

亀谷かめたに 凌雲りょううん
牧師ぼくし時代じだい亀谷かめたに凌雲りょううん(47さい)
生誕せいたん (1888-04-09) 1888ねん4がつ9にち
富山とやまけん新庄しんじょうまち
死没しぼつ (1973-03-16) 1973ねん3月16にち(84さいぼつ
富山とやまけん新庄しんじょうまち
職業しょくぎょう 教師きょうし僧侶そうりょのちに、牧師ぼくし
配偶はいぐうしゃ 愛子あいこ(先妻せんさい)、堀内ほりうち千代子ちよこ(後妻ごさい)
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亀谷かめたに 凌雲りょううん(かめがい りょううん、1888ねん4がつ9にち - 1973ねん3月16にち)は、もと浄土真宗じょうどしんしゅう僧侶そうりょ住職じゅうしょく)で、のちキリスト教きりすときょうプロテスタント)に改宗かいしゅうして牧師ぼくしになった人物じんぶつ日本にっぽん基督教きりすときょうだん富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい設立せつりつした。

生涯しょうがい

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僧侶そうりょ時代じだい

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1888ねん(明治めいじ21ねん)富山とやまけん新庄しんじょうまち(げん富山とやま荒川あらかわ)の浄土真宗じょうどしんしゅう大谷おおやせいねがいてら住職じゅうしょく息子むすことしてまれた。親鸞しんらん直系ちょっけいである蓮如れんにょから、18だい末裔まつえいである。[注釈ちゅうしゃく 1] 

じゅうなな代目だいめ住職じゅうしょくであるちちが2さいとき山崩やまくずれのため大水おおみずて、家族かぞくたすかったが、てらながされ無一文むいちもんになった。ちち無理むりをして新庄しんじょうまちてら再建さいけんしたが、借金しゃっきんい、檀家だんかすくなくなって生活せいかつまずしかった[1]

僧侶そうりょとなる教育きょういくけて、富山とやま中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうだいよん高等こうとう学校がっこう (旧制きゅうせい)で、倫理りんり時間じかん西田にしだ幾多郎きたろうよりキリスト教きりすときょう説明せつめいいたが、そのときはよくわからず仏教ぶっきょう信仰しんこう熱心ねっしんもとめていた[2]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくでは、井上いのうえ哲次郎てつじろう波多野はたの精一せいいちから哲学てつがく姉崎あねざき正治しょうじから宗教しゅうきょうがくまなぶ。

在学ざいがくちゅうは、「明治めいじ親鸞しんらん」といわれた真宗しんしゅう大谷おおや僧侶そうりょ近角ちかずみ常観じょうかんが、青年せいねん信仰しんこう教育きょういくのために東京とうきょう本郷ほんごう主宰しゅさいしていた求道きゅうどう学舎がくしゃ懇願こんがんしてはいり、大学だいがくさん年間ねんかん大学院だいがくいんいちねんよん年間ねんかん教育きょういくけ、ふか感化かんかけた[3]

一方いっぽうキリスト教きりすときょう聖書せいしょはじめた。日曜日にちようびにのぞいた本郷ほんごう救世きゅうせいぐん小隊しょうたい山室やまむろ説教せっきょう祈祷きとうちから」をいて感動かんどうけ、東京とうきょうるまでのいち年間ねんかん日曜にちよう午前ごぜんちゅう近角ちかずみはなし午後ごご山室やまむろはなし熱心ねっしんつづけた[4]

小樽おたる時代じだい

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大学だいがくねんときちちんだので、てらがなければならなくなったが、勉強べんきょうがしたくて大学院だいがくいんすすんだ。またてら結婚式けっこんしきげた。いつまでも実家じっか世話せわになるわけにいかず北海道ほっかいどう小樽おたる中学ちゅうがく教師きょうしとなった。小樽おたるにもてらはあったが、信仰しんこうのためというより仏事ぶつじ行事ぎょうじのためだけのてらであったのでたされず、研究けんきゅうにもならなかったので、札幌さっぽろ北海道大学ほっかいどうだいがく総長そうちょう佐藤さとうあきらかいや、ホームズ宣教師せんきょうしをよく訪問ほうもんしてキリストきょうについてまなんだ。

そのころ全国ぜんこくてき伝道でんどうをしていた当時とうじ救世きゅうせいぐん所属しょぞくしていた金森かなもり通倫つうりん小樽おたる伝道でんどう集会しゅうかいおこなった。出席しゅっせきした凌雲りょううんは「かみつみすくい」についての金森かなもり熱烈ねつれつはなしつよたれたが、一緒いっしょいのったさい金森かなもりった言葉ことば反発はんぱつかんじて葛藤かっとうする。しかしいのるようにとわれた言葉ことばしんのこり、かみいのはじめる[5]いちねんほどで小樽おたる中学ちゅうがく解雇かいこ宣告せんこく落胆らくたんしかけたが、下宿げしゅくかえると母校ぼこう富山とやま中学ちゅうがくから教師きょうしてほしいと依頼いらいじょうとどいていた[6]小樽おたる時代じだいは、新婚しんこんつま老母ろうぼ世話せわのために富山とやまのこしての単身たんしん赴任ふにんだったので、郷里きょうりもどれることはねがわしいことだった[7]

クリスチャン時代じだい

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富山とやまけん青葉あおば幼稚園ようちえんぶんえんのアームストトング宣教師せんきょうし

1917ねん大正たいしょう6ねん)、人間にんげんというだい問題もんだいがイエス・キリストの復活ふっかつ出来事できごとにおいて成就じょうじゅされているのをり、9月23にち富山とやまのぼ立町たてまちメソジスト教会きょうかいで、メソジストのE・C・ヘガニー宣教師せんきょうし[注釈ちゅうしゃく 2]より洗礼せんれいける[8]最初さいしょは、住職じゅうしょく仕事しごとをしながらキリスト教きりすときょう信仰しんこうしていたが、のち家族かぞくけて、つま母親ははおやになどのだい反対はんたいをうける。一時いちじキリスト教きりすときょう信仰しんこうてることもかんがえたが、正式せいしきキリスト教きりすときょう信者しんじゃになることを決意けついし、ウィリアム・メレル・ヴォーリズとの出会であいがきっかけとなり、近江兄弟社おうみきょうだいしゃ聖書せいしょ学校がっこう入学にゅうがくする。

富山とやま新庄しんじょう教会きょうかいまえ亀谷かめたに凌雲りょううん(50さい)

本願寺ほんがんじ聖書せいしょ1さつ金森かなもり通倫つうりんの『信仰しんこうのすすめ』をおくり、除名じょめいもう直接ちょくせつ献身けんしんして東京とうきょう神学しんがくしゃまなび、植村うえむら正久まさひさらに薫陶くんとうけた。

富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい牧師ぼくし

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牧師ぼくしになり、1919ねん(大正たいしょう8ねん)購入こうにゅうして、9月から、亀谷かめたに夫妻ふさいうつむ。富士見町ふじみちょう教会きょうかい牧師ぼくし植村うえむら正久まさひさらの尽力じんりょくで、地元じもとカルバリやま(ゴルゴダのおか)とみなして、富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい設立せつりつする。1920ねん富山とやま日本にっぽん基督教きりすときょうかい牧師ぼくし兼務けんむする。アームストロング宣教師せんきょうし新庄しんじょう伝道でんどうしょ幼稚園ようちえん設立せつりつする。

1925ねん6がつ18にち亀谷かめたに愛子あいこ夫人ふじんくなる。1926ねん堀内ほりうち千代子ちよこ再婚さいこんする。[注釈ちゅうしゃく 3]

1951ねん(昭和しょうわ26ねん)に自伝じでんとして『仏教ぶっきょうから基督きりすとへ―溢るゝ恩寵おんちょう―』をあらわす。

1969ねん(昭和しょうわ44ねん)牧師ぼくし引退いんたいし、名誉めいよ牧師ぼくしになり篠原しのはらあい牧師ぼくし就任しゅうにんする。1972ねん(昭和しょうわ47ねん)10がつ17にち昏睡こんすい状態じょうたいおちいり、翌年よくねん1973ねん(昭和しょうわ48ねん)3がつ16にち死去しきょする。3月19にち葬儀そうぎおこなわれ、5月13にち記念きねん礼拝れいはいおこなわれる。[9]

亀谷かめたには、キリストは仏教ぶっきょう破壊はかいしゃではなく、完成かんせいしゃであるとの信仰しんこうち、富山とやまでの郷里きょうり伝道でんどう終生しゅうせいつかえた。

神学しんがく

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富山とやま新庄しんじょう教会きょうかいまえ亀谷かめたに凌雲りょううん牧師ぼくし

平家ひらか物語ものがたり』の「祇園ぎおん精舎しょうじゃかねこえ 諸行無常しょぎょうむじょうひびきあり 沙羅双樹さらそうじゅはないろ 盛者じょうしゃ必衰のをあらはす」を引用いんようする。そして、この無常むじょうかん仏教ぶっきょう専有せんゆうのものではないとし、「コヘレトの言葉ことば(伝道でんどうしゃしょ)」だい1しょうだい2-14せつ、「ペトロの手紙てがみいちだい1しょうだい24-25せつ、「マタイでんだい24しょうだい35せつ引用いんようする。

仏教ぶっきょう罪障ざいしょうなやみ、他力たりき本願ほんがんてた。親鸞しんらん罪責ざいせきかんてっした。「ローマしょ」(だい3しょうだい10-18せつだい7しょうだい18-25せつ)をんで、この罪責ざいせきかん聖書せいしょにあるとさとった。使徒しとパウロ自分じぶんを「罪人ざいにんのかしら」とんでいる。かみたいしてつみおかした人類じんるいほろぼされるべきというのは、必然ひつぜんである。

仏教ぶっきょう目的もくてきは、罪障ざいしょう宿業しゅくごう断絶だんぜつすることにあり、わたる陀によるすくいをもとめていた。すくいの宣布せんぷしゃではなく、すくぬし自身じしんたいとねがっていた。「それがキリストご自身じしんである」と確信かくしんした。すくぬしとして肉体にくたいをもって地上ちじょうたり、十字架じゅうじかにおいてつみからのすくいをあたえてくださり、これをしんじるものは、十字架じゅうじかのいさおしによって永遠えいえんつみから解放かいほうされ、すくわれて永遠えいえんかみみんとなる、としんじた。仏教ぶっきょう罪業ざいごうから断絶だんぜつされ、かみ反逆はんぎゃくしたつみからすくわれた。「じつにキリストによるのほか、このかみへの大罪だいざいよりのすくいはまったくないのだ。十字架じゅうじかによるつみよりの永遠えいえんすくい!ぜん人類じんるいよ、しんよりあらためてとこしえのこのすくいにあずかかれ!」。さらに復活ふっかつ希望きぼう聖霊せいれいめぐみ、教会きょうかい活動かつどう天国てんごくとみ再臨さいりん待望たいぼうについてかたっている[10]

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 野村のむら 1988, pp. 324)
  2. ^ カナダで晩年ばんねんごし、1954ねん11月13にちカナダで死去しきょする。(富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい 1979, pp. 324)
  3. ^ 堀内ほりうち千代子ちよこ共立きょうりつ女子じょし神学校しんがっこう卒業そつぎょうし、開拓かいたく伝道でんどうをしていた。(富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい 1979, pp. 324)

出典しゅってん

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  1. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp. 196
  2. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp. 197
  3. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp. 198
  4. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp.200
  5. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp. 201
  6. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp. 202
  7. ^ 高見澤たかみざわ 1976, pp. 199
  8. ^ 守部もるべ 2009, pp. 76
  9. ^ 富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい 1979, pp. 31
  10. ^ 亀谷かめたに 1951, pp. 31

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてんきょうぶんかん、1988ねんISBN 4-7642-4006-8 
    • 野村のむら耕三こうぞう亀谷かめたに凌雲りょううん」『日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』1988ねん、324ぺーじ 
  • 富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい しる富山とやま新庄しんじょう創立そうりつ60周年しゅうねん記念きねん編集へんしゅう委員いいんかい へん日本にっぽんキリスト教団きょうだん富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい富山とやま新庄しんじょう教会きょうかい 
  • 亀谷かめたに凌雲りょううん仏教ぶっきょうからキリストへ』亀谷かめたに凌雲りょううん先生せんせい図書としょ保存ほぞんかい、1951ねんISBN 978-4-99004041-3 
  • 亀谷かめたに凌雲りょううん念仏ねんぶつより基督きりすとへ』金沢かなざわ福音ふくいんかん、1951ねんISBN 978-4-264-02638-9 
  • 守部もるべみやび日本にっぽん宣教せんきょう夜明よあけ―47都道府県とどうふけんそれぞれの物語ものがたり』マナブックス、2009ねん、76ぺーじISBN 9784264026389
  • 高見澤たかみざわ潤子じゅんこててたもの―亀谷かめたに凌雲りょううん」『永遠えいえんのあしおと―真実しんじつかみ出会であったひとたち』主婦しゅふ友社ともしゃ、1976ねん、195-216ぺーじ

外部がいぶリンク

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