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全的ぜんてき堕落だらく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

全的ぜんてき堕落だらく(ぜんてきだらく、英語えいご: Total Depravity)は、すべての人間にんげんつみによって全的ぜんてき堕落だらくしているという聖書せいしょ教理きょうり前提ぜんていであり、プロテスタントとくカルヴァン主義しゅぎ神学しんがく根幹こんかんとなる教理きょうりである。カルヴァン主義しゅぎの5特質とくしつTULIPひと[1]宗教しゅうきょう改革かいかくしゃプロテスタント正統せいとう主義しゅぎにおいて、教父きょうふアウグスティヌスによる原罪げんざいろん神学しんがくてき発展はってん展開てんかい構築こうちくされ、教理きょうりてき神学しんがくてき提示ていじされた。このおしえは、ルーテル神学しんがく改革かいかく神学しんがくカルヴァン主義しゅぎ)、形骸けいがいてきウエスレアン・アルミニアン神学しんがくなど、プロテスタントにおけるかく神学しんがくてき立場たちば横断おうだんしてれられている。ただしルーテル教会きょうかい、カルヴァン主義しゅぎと、ウェスレアン・アルミニアン神学しんがくあいだには若干じゃっかんちがいがある。

ローマ・カトリックにおいては、アウグスティヌスの原罪げんざいろんるものの、全的ぜんてき堕落だらくせつられず、アウグスティヌスのろん全的ぜんてき堕落だらく根拠こんきょとすることについて否定ひていしている[2]

正教会せいきょうかいでは、アウグスティヌスをぜん否定ひていはしないものの、アウグスティヌスの自由じゆう意志いしかかろんそのものをれず、全的ぜんてき堕落だらくというかんがかたまったられない。

ラテン教父きょうふ

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聖書せいしょのコンテキストからの聖典せいてん解釈かいしゃくからみちびかれる「全的ぜんてき堕落だらく」や、さらにはアダムの堕罪さえも人類じんるいたい影響えいきょうおよぼすべきものではないと最初さいしょ主張しゅちょうはじめた4世紀せいきペラギウスは、すくいれい人間にんげん自由じゆう意志いしによって実現じつげんされるのだから、かみ救済きゅうさい必要ひつようとしないとする(ペラギウス主義しゅぎ)。
これに対立たいりつする、人間にんげん自由じゆう意志いしみとめられようが、かかる意志いしかみ予定よていしたものにぎないとするアウグスティヌスとの論争ろんそうは、ペラギウス駁論ばくろんしゅうとして著述ちょじゅつのこされている。
結果けっか、ペラギウスはエフェソスこう会議かいぎにおいて異端いたんであるとの審決しんけつ確定かくていし、排斥はいせきされた。

カルヴァン主義しゅぎ

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すべての人間にんげん堕落だらく

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ひとは、アダム創造そうぞうぬしであるかみへの反逆はんぎゃく、すなわち堕罪ゆえに、その結果けっかとして「全的ぜんてき堕落だらく」したとするもので、ここに「全的ぜんてき」とは、じゅう意味いみつ。だいいちに、その「堕落だらく」がぜん人類じんるいひろがりアダムの末裔まつえいであるかぎり、その「堕落だらく」からのがれたものはいない、という「堕落だらく普遍ふへんせいしめすことばであり、だいに、人格じんかくのすべての領域りょういきにその「堕落だらく」がおよんでいると意味いみにおいて「全的ぜんてき」なのである。つまりすべての人間にんげん堕落だらくしており、また人間にんげん人格じんかくもすべて堕落だらくしているという意味いみである。「神学しんがくだいいち原理げんりは、人間にんげん堕落だらく人間にんげんつみである。」[3]われている。

教会きょうかい史上しじょう神学しんがく基本きほんてきかたちは、ペラギウス主義しゅぎはんペラギウス主義しゅぎ、アウグスティヌス主義しゅぎみっつしかないとする指摘してきがある。ロバート・チャールズ・スプロールは、ペラギウス主義しゅぎキリスト教きりすときょう、あるいははんキリスト教きりすときょうであり、自由じゆう主義しゅぎ神学しんがく(リベラル)とペラギウス主義しゅぎすくいはないとしている[4]

人格じんかくすべての堕落だらく

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意志いし

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まず「意志いし」の分野ぶんやにおいて、かみそむいたひと意志いしは、つみsin)の奴隷どれいとなっていて、いのちのみなもとであるかみのいのち、すなわち「永遠えいえんのいのち」にあずからないかぎり、意志いしつねつみくだり)にかたむいてゆく。

アウグスティヌスは堕落だらくまえ堕落だらく人間にんげんをこのように分類ぶんるいする。

  1. posse peccare エデンではつみおか自由じゆうもあった
  2. non posse non peccare 堕落だらく人間にんげんつみおかさずにいるという自由じゆうをもっていない
  3. posse non peccare めぐみをあたえられた人間にんげんつみおかさない自由じゆうもある
  4. non posse peccare 天国てんごくつみおか自由じゆうはない。

理性りせい知性ちせい

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理性りせい」においても、ひとみずからをかしこものとしているが、そのおろかになっている。近代きんだい啓蒙けいもう主義しゅぎおこるにつれて、人間にんげん理性りせいは、かみから自立じりつした理性りせいとして自己じこ主張しゅちょうし、その結果けっか物質ぶっしつてき世界せかいは、地中海ちちゅうかい世界せかいからたまき太平洋たいへいよう世界せかいへと格段かくだんひろがり、現代げんだいでは、人間にんげん知識ちしきは、地球ちきゅうえて宇宙うちゅうへとひろがりをせている。しかし、その一方いっぽうで、心理しんりがく発展はってんにもかかわらず、ひとおのれかんして無知むちであり、れい世界せかい見失みうしなって、みずからをよん次元じげん世界せかい五感ごかん世界せかいめてしまっている。

まれながらの人間にんげん[5][6]堕落だらくしているので、聖書せいしょ理解りかいすることはできず、新生しんせいしてクリスチャンとなり、聖霊せいれいみちびかれて聖書せいしょんではじめて聖書せいしょ理解りかいすることができる[7][8][9][10]

堕落だらくまえ世界せかい堕落だらく世界せかいことなっており、堕落だらく人間にんげん堕落だらくまえ世界せかい理解りかいすることが出来できない[11]。また、人間にんげん知性ちせいにも堕落だらく影響えいきょうおよんでいるため、学問がくもんにもクリスチャンの学問がくもんノンクリスチャン学問がくもん種類しゅるい学問がくもんがある[12]

感情かんじょう

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感情かんじょう情緒じょうちょ」の分野ぶんやにおいても、この「堕落だらく」の結果けっか顕著けんちょであって、しばしば現代げんだいじん感情かんじょう倒錯とうさく経験けいけんする。あいするわりににくみ、謙遜けんそんであるわりに傲慢ごうまんとなっている。

相対そうたいてきぜん

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このように「堕落だらく」は、人格じんかくさん要素ようそ知情意ちじょうい」のすべてにおよんでおり、ここにひと根源こんげんてき課題かだいがあるとされる。ジャン・カルヴァンはこのようにべる。「キリストしゃかみのかたちをびることによってかみ認識にんしきされるように、かれらは堕落だらくしてびるにいたったサタンのぞうによって、サタンのらとして、正当せいとうなされるからである。(だいいちヨハネ3:8)[8]

ただし、一般いっぱん恩寵おんちょうがあるので、ノンクリスチャン異教徒いきょうとぜんおこなう能力のうりょくをまったくうしなったわけではなく、かれらもすくいにいたることのない相対そうたいてきぜんおこなう能力のうりょくゆうしている。たましいかみからはなれていることでは霊的れいてき状態じょうたい悪魔あくまわらないが、人間にんげんである異教徒いきょうと使つかいであった悪魔あくまには相違そういがある[13]堕落だらくした人間にんげんも、悪魔あくま悪霊あくりょうほどの腐敗ふはい進捗しんちょくられない[14]

ウェストミンスター信仰しんこう告白こくはく』16:7は、新生しんせいしていないものかみめいじられている事柄ことがらで、自分じぶんにも他人たにんにも有益ゆうえき善行ぜんこうおこなったとしても「その行為こういは、罪深つみぶかいものであり、かみよろこばせることも、かみからめぐみをけるにふさわしいものにすることもできない。それでもなお、かれらがこの行為こういおこたることは、いっそう罪深つみぶかく、かみおこらせることである」と告白こくはくしている。[15][16]

これは「わるものたがやすことはつみである。しかし、わるものたがやさないことはもっと罪深つみぶかい」と表現ひょうげんされる[17]

カトリック教会きょうかい

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ローマ・カトリック教会きょうかいにおいて、全的ぜんてき堕落だらく見解けんかいられない[2]

トリエントこう会議かいぎ1546ねん1547ねんだい5・だい6会議かいぎ)において、原罪げんざいよしみとめかんするおしえがとりあげられた。ここにおいて、人間にんげん自由じゆう意志いしつみによってよわめられるにぎず、すくいの過程かてい参与さんよする資格しかくをもっており、人間にんげんすくいは恩寵おんちょう人間にんげん行為こういとによるとされ、宗教しゅうきょう改革かいかく対抗たいこうする立場たちばあきらかにされている[18]

アウグスティヌスはカトリック教会きょうかいにおいて「最大さいだい教師きょうし」ともばれ重要じゅうようされるが、原罪げんざい人間にんげんせいもろさ・よわさにかんする教理きょうり、および恩寵おんちょう必須ひっすであることをめぐっては、しばしば極端きょくたんはしったとも指摘してきされる。ルターツヴィングリカルヴァンなどにより、アウグスティヌスに残存ざんそんしていた誤謬ごびゅうが、あやまって利用りようされたとカトリック教会きょうかいでは理解りかいされる[19]

ローマ・カトリックにおいては、アウグスティヌスのろん全的ぜんてき堕落だらくせつであることをそもそもみとめない[2]

正教会せいきょうかいにおける「堕落だらく理解りかい

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正教会せいきょうかいアウグスティヌスルターカルヴァンらが主張しゅちょうしたような人間にんげん堕落だらくについての理解りかいらない(アウグスティヌスは正教会せいきょうかいでも聖人せいじんではあるが、人間にんげんの「堕落だらく」についてのかれ見解けんかい評価ひょうかされていない)[20][21]

正教会せいきょうかいにおいては、人間にんげんまれたときから、堕落だらくした条件じょうけんなかきざるをず、肉体にくたいてき弱化じゃっかと、霊的れいてきやまいとしての意志いしよわさ・連帯れんたいせい欠如けつじょといった結果けっかがその条件じょうけんからもたらされると理解りかいされる[20]

しかし正教会せいきょうかいではつみによって人間にんげんがこのようにんでいることみとめるが、人間にんげん本性ほんしょうから堕落だらく全面ぜんめんてき腐敗ふはいこうむっているとはしない。ルター主義しゅぎしゃ堕落だらくによってひとうちなるかみぞううしなわれたとするのにたいし、正教会せいきょうかいでは「かみぞうが昏昧したのであって絶滅ぜつめつしたのではない」とし、「あやか」(Likeness)はうしなわれたが「ぞう」(Image)はうしなわれていないと主張しゅちょうする[22]。さらに、正教会せいきょうかいにおいては、自由じゆう意志いしには限界げんかいはあるが絶滅ぜつめつしてはいないとし、人間にんげん意志いしんではいるとはいえ、依然いぜんとしてぜん選択せんたくすること可能かのうであると理解りかいされる[22]

アウグスティヌスによる、堕落だらく結果けっか自由じゆう意志いしうしなわれた」というせつ、「人間にんげんせいはそのんでしまった過誤かごせられ、自由じゆううしなった」というせつに、正教会せいきょうかい同意どういしない[22]

正教会せいきょうかいエルサレムのせいキュリロスげんる。「(各人かくじんは)そのおこなうことを実行じっこうするちからっている。貴方あなたつみおかすためにまれてきたのではないからだ。」「悪魔あくまあくへのほのめかしをおこなうことは出来できる。しかし、貴方あなた貴方あなた自身じしん意志いしそむかせること出来できない。」またさらに、西方せいほう教会きょうかい神学しんがく影響えいきょうはなはだしかった時代じだい正教せいきょうまもるきょうてき信仰しんこう告白こくはくあらわしたとされるエルサレムそう主教しゅきょうドシセオス2せいは、1672ねんにエルサレム地方ちほう公会こうかいみとめられた『信仰しんこう告白こくはく』で、「かみは、意志いしするちから、すなわちご自身じしんしたがうことを意志いしするちからも、したがわないことを意志いしするちからも、げられることはない」と断言だんげんした[22]

同時どうじに、すくいは完全かんぜんかみのみわざであるともされる。どんな「配分はいぶん」にせよ、かみと、そのきょうはたらけしゃ人間にんげんそれぞれの貢献こうけんにつき、割合わりあい概念がいねんめること否定ひていされる。我々われわれすくいというわざは、全体ぜんたいてき完全かんぜんかみめぐみのわざであり、かつそのかみめぐみのわざのうちにあって、人間にんげん全体ぜんたいてき完全かんぜん自由じゆうでありつづける。かみめぐみと人間にんげん自由じゆうたがいに排斥はいせきすることかんがえられず、たがいにおぎなう。ウラジーミル・ロースキイによればこれは「おな現実げんじつふたつのきょく」と表現ひょうげんされる。かみめぐみのはたらきの余地よちひろければひろいほど、人間にんげん自由じゆう一層いっそう活発かっぱつはたらくとされる[23]

以上いじょうのような正教会せいきょうかい概念がいねんは、正教会せいきょうかいにおいてペラギウス主義しゅぎはんペラギウス主義しゅぎとは自認じにんされない。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Reformed Churches (Christian Cyclopedia The Lutheran Church--Missouri Synod)
  2. ^ a b c Teaching of St. Augustine of Hippo (CATHOLIC ENCYCLOPEDIA)
  3. ^ マーティン・ロイドジョンズ山上さんじょう説教せっきょう下巻げかんpp.328-329
  4. ^ ロバート・チャールズ・スプロールなにからのすくいなのか』いのちのことばしゃ
  5. ^ だいいちコリント2:14
  6. ^ しん改訳かいやく聖書せいしょ
  7. ^ 尾山おやまれいひとし聖書せいしょ権威けんいひつじぐんしゃ
  8. ^ a b ジャン・カルヴァンキリスト教きりすときょう綱要こうよう改革かいかく教会きょうかい
  9. ^ マーティン・ロイドジョンズ山上さんじょう説教せっきょう』「霊的れいてき判断はんだん識別しきべつ下巻げかんp.286-302
  10. ^ 内田うちだ和彦かずひこかみ言葉ことばである聖書せいしょ』p.96-97、近代きんだい文芸ぶんげいしゃ
  11. ^ 尾山おやまれいひとしひらかれた聖書せいしょ』ニューライフ出版しゅっぱん
  12. ^ P.S.ヘスラムちょ近代きんだい主義しゅぎとキリストきょう-アブラハム・カイパー思想しそう-』p.164-180,きょうぶんかん 2002
  13. ^ パーマー p.4-8
  14. ^ ローレン・ベットナー不死ふし新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ p.20-21
  15. ^ ウェストミンスター信仰しんこう基準きじゅん新教しんきょう出版しゅっぱんしゃ
  16. ^ Works done by unregenerate men, although for the matter of them they may be things which God commands, and of good use both to themselves and others; yet, because they proceed not from a heart purified by faith; nor are done in a right manner, according to the Word; nor to a right end, the glory of God; they are therefore sinful and can not please God, or make a man meet to receive grace from God. And yet their neglect of them is more sinful, and displeasing unto God.
  17. ^ 予定よていろん一般いっぱん恩寵おんちょう』p.46
  18. ^ キリスト教きりすときょうだい事典じてんきょうぶんかん昭和しょうわ48ねん 改訂かいてい新版しんぱんだい2はん
  19. ^ 『カトリックだい辞典じてん I』(14ぺーじ - 18ぺーじ「アウグスチヌス」、上智大学じょうちだいがく編纂へんさん冨山とやまぼう昭和しょうわ42ねんだいななさつ
  20. ^ a b 主教しゅきょうカリストス・ウェアしる司祭しさいダヴィド水口みずぐちゆうあきら司祭しさいゲオルギイ松島まつしま雄一ゆういちやく『カリストス・ウェア主教しゅきょう論集ろんしゅう1 わたしたちはどのようにすくわれるのか』16 - 17ぺーじ日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい 西日本にしにほん主教しゅきょう
  21. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p5, ISBN 9780631232032
  22. ^ a b c d 出典しゅってん台詞せりふぶん引用いんようもと前掲ぜんけい『カリストス・ウェア主教しゅきょう論集ろんしゅう1 わたしたちはどのようにすくわれるのか』18- 19ぺーじ
  23. ^ 出典しゅってん台詞せりふぶん引用いんようもと前掲ぜんけい『カリストス・ウェア主教しゅきょう論集ろんしゅう1 わたしたちはどのようにすくわれるのか』22ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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