自由 じゆう 意志 いし (じゆういし、英語 えいご : free will 、ドイツ語 ご : freier Wille 、フランス語 ふらんすご : libre arbitre 、ラテン語 らてんご : liberum arbitrium )とは、人間 にんげん には、何 なに からも影響 えいきょう (指図 さしず や制約 せいやく )を受 う けずに、「何 なに かを成 な そうとする気持 きも ちや考 かんが え」を自由 じゆう に生 う み出 だ す能力 のうりょく がある、とする仮説 かせつ である。
自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい とは、人間 にんげん が、自発 じはつ 的 てき に”意志 いし ”を生 う み出 だ すことができるか否 ひ か、という問 と いであり、それはまた、人間 にんげん に行動 こうどう の自由 じゆう があるかどうかにも関 かか わってくる重要 じゅうよう な問題 もんだい である。
様々 さまざま な哲学 てつがく 上 うえ の立場 たちば が、あらゆる事象 じしょう は過去 かこ 未来 みらい にかかわらず、既 すで に決定 けってい されているか否 ひ か(決定 けってい 論 ろん VS非 ひ 決定 けってい 論 ろん )について、また同様 どうよう に、自由 じゆう は決定 けってい 論 ろん と共存 きょうぞん できるか否 ひ か(両立 りょうりつ 主義 しゅぎ VS非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ )について意見 いけん を違 ちが えている。それゆえに、例 たと えば、固 かた い決定 けってい 論 ろん は、宇宙 うちゅう は決定 けってい 論 ろん 的 てき であり、このことが自由 じゆう 意志 いし を不可能 ふかのう にすると主張 しゅちょう している。
自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい は自由 じゆう と因果 いんが との関係 かんけい 、そして自然 しぜん 法則 ほうそく は因果 いんが 的 てき に決定 けってい しているのかどうかという、原理 げんり 的 てき あるいは本質 ほんしつ 的 てき な問 と いであり、宗教 しゅうきょう 的 てき 、倫理 りんり 的 てき そして科学 かがく 的 てき 原理 げんり の絡 から み合 あ いから成 な っている。例 たと えば、宗教 しゅうきょう 特 とく にキリスト教 きりすときょう やイスラム教 いすらむきょう などの一神教 いっしんきょう において、自由 じゆう 意志 いし を認 みと めることは、万能 ばんのう であるはずの神 かみ がその力 ちから を個々 ここ の意志 いし に及 およ ぼすことができないという宣言 せんげん となるため、このような神 かみ はもはや万能 ばんのう とはいえなくなる(この矛盾 むじゅん を解決 かいけつ するために神学 しんがく 上 じょう の諸説 しょせつ が作 つく られてきた)。また、倫理 りんり 学 がく においては、自由 じゆう 意志 いし は、個々人 ここじん は[要 よう 校閲 こうえつ ] 自身 じしん の行為 こうい に対 たい して道徳 どうとく 的 てき な説明 せつめい 義務 ぎむ を負 お っているとするが、意志 いし が自分 じぶん の自由 じゆう にならないのであれば、意志 いし を原因 げんいん として発生 はっせい する行為 こうい 、さらに結果 けっか についても、いかなる責任 せきにん も問 と うことはできなくなってしまい、自由 じゆう という概念 がいねん 全体 ぜんたい が消失 しょうしつ する。
自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい は、哲学 てつがく 的 てき 思索 しさく が始 はじ まって以来 いらい 、中心 ちゅうしん 的 てき な論点 ろんてん であった。一方 いっぽう 、現代 げんだい の脳 のう 科学 かがく の進展 しんてん によって意志 いし の形成 けいせい 過程 かてい が解明 かいめい されつつあり、もはや自由 じゆう 意志 いし を形而上学 けいじじょうがく 上 うえ の課題 かだい として片付 かたづ けることは許 ゆる されない段階 だんかい に来 き ている。
科学 かがく の領域 りょういき において自由 じゆう 意志 いし を主張 しゅちょう することは、脳 のう と思考 しこう を含 ふく む身体 しんたい の動作 どうさ が物理 ぶつり 的 てき な因果律 いんがりつ によって完全 かんぜん に規定 きてい されているわけではないということとほぼ同等 どうとう であるが、「物理 ぶつり 的 てき な因果律 いんがりつ ではない別 べつ の何 なに か」とは一体 いったい 何 なに なのかについて具体 ぐたい 的 てき な説明 せつめい は、現 げん 段階 だんかい では乏 とぼ しい。
いずれにせよ、「道徳 どうとく を維持 いじ しようとする自由 じゆう 意志 いし 肯定 こうてい 派 は の力 ちから 」と「決定 けってい 論 ろん 的 てき な、自由 じゆう 意志 いし 否定 ひてい 派 は の科学 かがく 的 てき 思考 しこう 」との、二 ふた つの対立 たいりつ が顕在 けんざい 化 か する中 なか で、様々 さまざま な見方 みかた が生 う まれてきたのである。
自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい における哲学 てつがく 上 じょう の基本 きほん 的 てき な立場 たちば は、
決定 けってい 論 ろん は真 しん か?
自由 じゆう 意志 いし はあるか?
という2つの質問 しつもん に対 たい して肯定 こうてい するか否定 ひてい するかで決 き まる。
決定 けってい 論 ろん とは、おおざっぱに定義 ていぎ するならば、現在 げんざい と未来 みらい のあらゆる事象 じしょう は、自然 しぜん 法則 ほうそく と結 むす び付 つ いた過去 かこ の事象 じしょう によって因果 いんが 的 てき 必然 ひつぜん 性 せい があるという見方 みかた である。
決定 けってい 論 ろん が真 しん であることを受 う け入 い れ、それゆえ、人間 にんげん が何 なん らかの自由 じゆう 意志 いし を有 ゆう していることを拒絶 きょぜつ する立場 たちば は、固 かた い決定 けってい 論 ろん と呼 よ ばれる。
一方 いっぽう で、決定 けってい 論 ろん を否定 ひてい し、自然 しぜん 法則 ほうそく を乗 の り越 こ えるような自由 じゆう 意志 いし を要求 ようきゅう する立場 たちば は(哲学 てつがく 的 てき )リバタリアニズム と呼 よ ばれる[ 1] 。このリバタリアニズムという用語 ようご は政治 せいじ 思想 しそう で用 もち いられる意味 いみ とは異 こと なるが、自由 じゆう 意志 いし 論 ろん で使 つか われたのが先 さき である[ 2] 。
これら固 かた い決定 けってい 論 ろん 者 しゃ とリバタリアンはともに、決定 けってい 論 ろん が自由 じゆう 意志 いし の概念 がいねん とは相容 あいい れないとする非 ひ 両立 りょうりつ 論 ろん をとる。一方 いっぽう で、自由 じゆう 意志 いし の存在 そんざい と決定 けってい 論 ろん が両立 りょうりつ 可能 かのう であるとする立場 たちば は、両立 りょうりつ 論 ろん と呼 よ ばれる。両 りょう 立論 りつろん 者 しゃ は自由 じゆう や自由 じゆう 意志 いし という概念 がいねん を、決定 けってい 論 ろん と矛盾 むじゅん しないよう再 さい 定義 ていぎ し、切 き り詰 つ めて理解 りかい し直 なお そうとする[ 3] [ 4] 。
両 りょう 立論 りつろん
非 ひ 両立 りょうりつ 論 ろん
固 かた い決定 けってい 論 ろん :決定 けってい 論 ろん を肯定 こうてい し、自由 じゆう 意志 いし を否定 ひてい する。
リバタリアニズム:決定 けってい 論 ろん を否定 ひてい し、自由 じゆう 意志 いし を肯定 こうてい する。
固 かた い非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ :決定 けってい 論 ろん 非決定 ひけってい 論 ろん に関係 かんけい なく自由 じゆう 意志 いし を否定 ひてい する。
決定 けってい 論 ろん は、様々 さまざま な意味 いみ を持 も つ幅広 はばひろ い用語 ようご である。それぞれの異 こと なる意味 いみ に対応 たいおう して、自由 じゆう 意志 いし に関 かん する異 こと なる問題 もんだい が生 しょう じる[ 5] 。因果 いんが 的 てき ないし単調 たんちょう 的 てき 決定 けってい 論 ろん とは、未来 みらい の事象 じしょう は自然 しぜん 法則 ほうそく を伴 ともな う過去 かこ および現在 げんざい の事象 じしょう によって必然 ひつぜん 化 か されているという主張 しゅちょう である。このような決定 けってい 論 ろん は、時 とき として、ラプラスの悪魔 あくま という思考 しこう 実験 じっけん によって表現 ひょうげん される。過去 かこ および現在 げんざい のあらゆる事実 じじつ そして宇宙 うちゅう を支配 しはい するあらゆる自然 しぜん 法則 ほうそく を知 し っている存在 そんざい というものを想定 そうてい してみればよい。このような存在 そんざい は、未来 みらい を最 もっと も細部 さいぶ に至 いた るまで予測 よそく するために、この知識 ちしき を利用 りよう することができるかもしれない[ 6] 。
他方 たほう で、論理 ろんり 学 がく 的 てき 決定 けってい 論 ろん とは、あらゆる命題 めいだい は、それが過去 かこ に関 かん する命題 めいだい であれ、現在 げんざい あるいは未来 みらい に関 かん する命題 めいだい であれ、真 しん か偽 にせ のいずれかであるという考 かんが え方 かた である。自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい は、この文脈 ぶんみゃく では、未来 みらい におけるある事柄 ことがら が現在 げんざい において既 すで に真 しん か偽 にせ に定 さだ まっているにもかかわらず、その選択 せんたく が自由 じゆう であることがありえるのかという問題 もんだい に行 い き着 つ く[ 5] 。
また、神学 しんがく 的 てき 決定 けってい 論 ろん の主張 しゅちょう によれば、人類 じんるい が行 おこな おうとするあらゆる事柄 ことがら を、彼 かれ らの行為 こうい を全知 ぜんち というある形式 けいしき を通 つう じてあらかじめ知 し ることによって[ 7] 、あるいは彼 かれ らの行為 こうい をあらかじめ定 さだ めておくことによって決定 けってい する神 かみ が存在 そんざい する[ 8] 。自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい は、この文脈 ぶんみゃく では、もし私 わたし たち人間 にんげん のために時 とき の流 なが れの最初 さいしょ からその行為 こうい を決定 けってい した存在 そんざい というものがいるならば、どうして私 わたし たち人間 にんげん の行為 こうい が自由 じゆう でありえるのかという問題 もんだい に行 い き着 つ く。
生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 決定 けってい 論 ろん の見解 けんかい によれば、あらゆる振舞 ふるまえ 、信念 しんねん および欲求 よっきゅう は、私 わたし たちの生来 せいらい 的 てき な性質 せいしつ によって固定 こてい されている。この他 ほか にも、文化 ぶんか 的 てき 決定 けってい 論 ろん や心理 しんり 的 てき 決定 けってい 論 ろん などを含 ふく む様々 さまざま な決定 けってい 論 ろん がある[ 5] 。もっとも、これらの決定 けってい 論 ろん 的 てき な主張 しゅちょう が、例 たと えば氏 し と育 そだ ちの複 ふく 合 あい 的 てき 決定 けってい 論 ろん のように、結 むす び付 つ けられるのが普通 ふつう である。
トマス・ホッブズ は古典 こてん 的 てき な決定 けってい 論 ろん 者 しゃ である。
また別 べつ の哲学 てつがく 者 しゃ は、決定 けってい 論 ろん と自由 じゆう 意志 いし は両立 りょうりつ 可能 かのう であると考 かんが えた。これは両立 りょうりつ 主義 しゅぎ (りょうりつしゅぎ)とよばれる考 かんが え方 かた である。両 りょう 立論 りつろん 者 しゃ は決定 けってい 論 ろん を認 みと めつつ、自由 じゆう という概念 がいねん をそれに合 あ う形 かたち で再 さい 定義 ていぎ しようとする[ 3] 。そのため論者 ろんしゃ によって自由 じゆう 意志 いし の定義 ていぎ も異 こと なる。
トマス・ホッブズ ような両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ にとって、自由 じゆう 意志 いし とは、「その個人 こじん の意志 いし にしたがい、外的 がいてき な障害 しょうがい に阻 はば まれることなく行動 こうどう すること」を意味 いみ する。この立場 たちば は両立 りょうりつ 主義 しゅぎ の典型 てんけい である。両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ たちは自分 じぶん たちの主張 しゅちょう を解説 かいせつ するために、強姦 ごうかん 、殺人 さつじん 、窃盗 せっとう あるいはその他 た の制約 せいやく によって、ある人 ひと の自由 じゆう 意志 いし が明 あき らかに否定 ひてい されるような事例 じれい を指摘 してき する。このような事例 じれい で自由 じゆう 意志 いし が欠如 けつじょ しているのは、因果 いんが 的 てき に過去 かこ が未来 みらい を決定 けってい しているからではなく、他者 たしゃ が個人 こじん の欲求 よっきゅう や選好 せんこう を無視 むし しているためである。他者 たしゃ が個人 こじん を強制 きょうせい しているのであり、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ によれば、これは自由 じゆう 意志 いし を覆 くつがえ していることになる。かくして、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ は、自由 じゆう 意志 いし にとって重要 じゅうよう なのは、個々人 ここじん の選択 せんたく が自 みずか らの欲求 よっきゅう および選好 せんこう と一致 いっち していることであって、何 なん らかの外的 がいてき (または内的 ないてき )な力 ちから によって覆 くつがえ されていないことだ、と論 ろん じる[ 9] [ 10] 。両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ であるためには、自由 じゆう 意志 いし についての特定 とくてい の考 かんが え方 かた を支持 しじ する必要 ひつよう はなく、決定 けってい 論 ろん が自由 じゆう 意志 いし に反 はん するということを否定 ひてい するだけでよい[ 11] 。
ハリー・フランクファート やダニエル・デネット のような現代 げんだい 的 てき な両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ の主張 しゅちょう によれば、たとえ強制 きょうせい された行為 こうい 者 しゃ であっても、その強制 きょうせい が行為 こうい 者 しゃ の個人 こじん 的 てき な意図 いと や欲求 よっきゅう と一致 いっち していれば、やはりその人 ひと は自由 じゆう であるといわれることがある[ 12] [ 13] 。特 とく に、フランクファートは、階層 かいそう の網 あみ と呼 よ ばれる両立 りょうりつ 主義 しゅぎ を提唱 ていしょう した。この考 かんが えによれば、個人 こじん は、互 たが いに矛盾 むじゅん する一 いち 階 かい の欲求 よっきゅう を持 も つことができ、これらの一 いち 階 かい の欲求 よっきゅう に関 かん する欲求 よっきゅう (二 に 階 かい の欲求 よっきゅう )というものを持 も つこともできる。その結果 けっか 、これらの欲求 よっきゅう のうちのどちらかひとつがその他 た の欲求 よっきゅう に勝 まさ ることになる。個人 こじん の意志 いし は、影響 えいきょう 力 りょく のある一 いち 階 かい の欲求 よっきゅう (それに基 もと づいて行為 こうい した欲求 よっきゅう )と同一 どういつ 視 し されることになる。例 たと えば、無意識 むいしき 的 てき な麻薬 まやく 中毒 ちゅうどく 患者 かんじゃ 、不本意 ふほんい な麻薬 まやく 中毒 ちゅうどく 患者 かんじゃ 、自発 じはつ 的 てき な麻薬 まやく 中毒 ちゅうどく 患者 かんじゃ が存在 そんざい するとしよう。これら3種類 しゅるい の患者 かんじゃ はみな、麻薬 まやく を摂取 せっしゅ したいという一 いち 階 かい の欲求 よっきゅう と、麻薬 まやく を摂取 せっしゅ したくないという相反 あいはん する一 いち 階 かい の欲求 よっきゅう を持 も っているかもしれない。第 だい 一 いち グループである無意識 むいしき 的 てき な中毒 ちゅうどく 患者 かんじゃ は、麻薬 まやく を摂取 せっしゅ したくないという二 に 階 かい の欲求 よっきゅう を持 も たない。すなわち、彼 かれ らには麻薬 まやく に関 かん する二 に 階 かい の欲求 よっきゅう そのものが欠 か けており、麻薬 まやく 摂取 せっしゅ の有無 うむ は対立 たいりつ する一 いち 階 かい の欲求 よっきゅう の優劣 ゆうれつ に依存 いぞん する。第 だい 二 に グループである不本意 ふほんい な中毒 ちゅうどく 患者 かんじゃ は、麻薬 まやく を摂取 せっしゅ したくないという二 に 階 かい の欲求 よっきゅう を持 も っている。他方 たほう で、第 だい 三 さん グループである自発 じはつ 的 てき な中毒 ちゅうどく 患者 かんじゃ は、麻薬 まやく を摂取 せっしゅ したいという二 に 階 かい の欲求 よっきゅう を持 も っている。フランクファートによれば、第 だい 一 いち グループのメンバーは、意志 いし が欠如 けつじょ しているとみなされるべきであり、したがってもはや人格 じんかく をもつ存在 そんざい ではない。第 だい 二 に グループのメンバーは、麻薬 まやく を摂取 せっしゅ したくないということを自由 じゆう に欲求 よっきゅう しているが、彼 かれ らの意志 いし は中毒 ちゅうどく によって打 う ち負 ま かされてしまう。最後 さいご に、第 だい 三 さん グループのメンバーは、彼 かれ らを中毒 ちゅうどく にした麻薬 まやく を自発 じはつ 的 てき に摂取 せっしゅ している。フランクファートの理論 りろん は、任意 にんい の数 かず のレベルを分岐 ぶんき させることができる。この理論 りろん に対 たい する批判 ひはん は、意志 いし の葛藤 かっとう が欲求 よっきゅう や選好 せんこう のより高次 こうじ レベルにおいて生 しょう じないとはかぎらないと指摘 してき する[ 14] 。また、ある人々 ひとびと は、フランクファートは階層 かいそう の網 あみ の中 なか で様々 さまざま なレベルがどのように相互 そうご 作用 さよう するのかという問題 もんだい に対 たい する適切 てきせつ な説明 せつめい を与 あた えていないと論 ろん じる[ 15] 。
デネットは彼 かれ の著書 ちょしょ 『自由 じゆう の余地 よち 』において、自由 じゆう 意志 いし の両立 りょうりつ 主義 しゅぎ を擁護 ようご する論拠 ろんきょ を提示 ていじ した。これは、同 おな じく彼 かれ の著書 ちょしょ 『自由 じゆう は進化 しんか する』の中 なか でさらに詳述 しょうじゅつ されている[ 16] 。彼 かれ によれば、もしある人 ひと が神 かみ や全能 ぜんのう の悪魔 あくま などの可能 かのう 性 せい を排除 はいじょ するならば、そのとき、カオス と、世界 せかい の現状 げんじょう に関 かん する私 わたし たちの知識 ちしき の正確 せいかく さに対 たい する生来 せいらい 的 てき な制約 せいやく のせいで、未来 みらい はあらゆる有限 ゆうげん 的 てき 存在 そんざい 者 しゃ にとって不 ふ 確実 かくじつ になる。唯 ただ 一 いち 明解 めいかい なものは、予想 よそう である。別様 べつよう に行為 こうい する能力 のうりょく が意味 いみ を持 も つのは、このような予想 よそう に対 たい してのみであって、知 し られておらずまた知 し ることのできない未来 みらい に対 たい してではない。各人 かくじん は誰 だれ かが予想 よそう したのとは異 こと なる仕方 しかた で行動 こうどう する能力 のうりょく を有 ゆう しているので、自由 じゆう 意志 いし は実在 じつざい することができる[ 16] 。非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ は、このような考 かんが え方 かた には私 わたし たちは環境 かんきょう からの刺激 しげき に対応 たいおう する形 かたち で単 たん に自動的 じどうてき な応答 おうとう をすることしかできないという問題 もんだい が纏 まつ わりつくと非難 ひなん する。彼 かれ らの主張 しゅちょう によれば、私 わたし たちの行為 こうい は全 すべ て、外的 がいてき な力 ちから によってコントロールされているか、あるいは、ランダム・チョイス でしかない[ 17] 。自由 じゆう 意志 いし の両立 りょうりつ 主義 しゅぎ に関 かん するもっと洗練 せんれん された分析 ぶんせき が、その他 た の批評 ひひょう 家 か たちによって提供 ていきょう されている[ 11] 。
ドルバック は筋金入 すじがねい りの決定 けってい 論 ろん 者 しゃ であった。
非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ には3つの立場 たちば がある。ひとつは、ドルバック のような筋金入 すじがねい りの決定 けってい 論 ろん 者 しゃ であり、決定 けってい 論 ろん を肯定 こうてい して自由 じゆう 意志 いし を否定 ひてい する。もうひとつは、(哲学 てつがく 的 てき )リバタリアンであり、トマス・リード 、ヴァン・インワーゲン 、ロバート・ケイン などがこれに属 ぞく する。彼 かれ らは、自由 じゆう 意志 いし を肯定 こうてい して決定 けってい 論 ろん を否定 ひてい する非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ であり、何 なん らかの意味 いみ で非 ひ 決定 けってい 論 ろん が真 しん であると考 かんが えている[ 18] 。最後 さいご のひとつは、固 かた い非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ であり、自由 じゆう 意志 いし というものは、決定 けってい 論 ろん とも非決定 ひけってい 論 ろん とも相容 あいい れない。つまり、この立場 たちば によれば、自由 じゆう 意志 いし は、決定 けってい 論 ろん 的 てき 世界 せかい 観 かん と非決定 ひけってい 論 ろん 的 てき 世界 せかい 観 かん とを問 と わず、そもそも成立 せいりつ しない概念 がいねん である。デルク・ピールブーム(Derk Pereboom )[ 注釈 ちゅうしゃく 1] がこの見解 けんかい を擁護 ようご している[ 19] 。
非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ の伝統 でんとう 的 てき な論拠 ろんきょ は、デネット流 りゅう に言 い えば、次 つぎ のような直観 ちょっかん ポンプ (intuition pump)に基礎 きそ 付 つ けられている。もし人間 にんげん が彼 かれ の行為 こうい の選択 せんたく において決定 けってい されているとすれば、彼 かれ は、その振舞 ふるまい を決 き められているその他 た の機械 きかい 的 てき 存在 そんざい と似 に たことになるはずである。つまり、仮 かり に人間 にんげん の振舞 ふるまい が因果 いんが 的 てき に決定 けってい されているならば、そのときには彼 かれ は、風見鶏 かざみどり 、ビリヤードの球 たま 、人形 にんぎょう あるいはロボットよりも洗練 せんれん された存在 そんざい ではないはずである。これらの物 もの は自由 じゆう 意志 いし を有 ゆう していないので、もし決定 けってい 論 ろん が正 ただ しいとすれば、人間 にんげん も自由 じゆう 意志 いし を有 ゆう していないはずである[ 20] [ 18] 。要 よう するに、このような非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ は、人間 にんげん 以外 いがい の事物 じぶつ には自由 じゆう 意志 いし がないという直観 ちょっかん から出発 しゅっぱつ し、人間 にんげん と事物 じぶつ の類似 るいじ 性 せい から、決定 けってい 論 ろん と自由 じゆう 意志 いし との両立 りょうりつ を否定 ひてい する。い換 いか えれば、決定 けってい 論 ろん が正 ただ しいときには、人間 にんげん は人間 にんげん 以外 いがい の事物 じぶつ と似通 にかよ っており、そして人間 にんげん 以外 いがい の事物 じぶつ は自由 じゆう 意志 いし を有 ゆう していないので、人間 にんげん もまた自由 じゆう 意志 いし を有 ゆう していないと考 かんが えられる。このような論拠 ろんきょ は、例 たと えばデネットのように、たとえ人間 にんげん がその他 た の事物 じぶつ と何 なん らかの要素 ようそ を共有 きょうゆう しているとしても、だからといって人間 にんげん とそれらの事物 じぶつ との間 あいだ に重要 じゅうよう な差異 さい がないということにはならないという理由 りゆう で、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ から拒絶 きょぜつ されている[ 13] 。また、人間 にんげん と事物 じぶつ は類似 るいじ しているがゆえに事物 じぶつ にも自由 じゆう 意志 いし があるという反対 はんたい の推論 すいろん がなぜ認 みと められないのかというアニミズム 的 てき な疑問 ぎもん も残 のこ る。
非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ のもうひとつの論拠 ろんきょ は、因果 いんが の鎖 くさり である。非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ は、自由 じゆう 意志 いし に関 かん する観念論 かんねんろん のキーとなる。ほとんどの非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ は、行為 こうい の自由 じゆう という観念 かんねん が単 たん なる自発 じはつ 的 てき 振舞 ぶるまい から成 な り立 た っていることを否定 ひてい する。彼 かれ らの主張 しゅちょう によれば、むしろ、自由 じゆう 意志 いし とは、人間 にんげん が自己 じこ の行為 こうい の究極 きゅうきょく 的 てき で根源 こんげん 的 てき な原因 げんいん であると主張 しゅちょう する。伝統 でんとう 的 てき ない回 いまわ しによれば、人間 にんげん は自己 じこ 原因 げんいん でなければならない。ある人 ひと の選択 せんたく が有 ゆう 責 せめ であるということは、彼 かれ がそれらの選択 せんたく の第 だい 一 いち 原因 げんいん であるということに等 ひと しい。ここで、第 だい 一 いち 原因 げんいん というのは、その原因 げんいん に先行 せんこう する原因 げんいん がないということを意味 いみ する。その論証 ろんしょう は次 つぎ のようなものである。もし人間 にんげん が自由 じゆう 意志 いし を有 ゆう しているならば、人間 にんげん は選択 せんたく の第 だい 一 いち 原因 げんいん である。もし決定 けってい 論 ろん が真 しん であるならば、人間 にんげん のあらゆる選択 せんたく は、彼 かれ のコントロールに服 ふく さない事象 じしょう および行為 こうい に因 よ る。それゆえに、もし人間 にんげん が為 な すこと全 すべ てが自己 じこ のコントロールに服 ふく さない事象 じしょう および行為 こうい に因 よ るならば、人間 にんげん が自己 じこ の行為 こうい の究極 きゅうきょく 的 てき な原因 げんいん であることはありえない。したがって、人間 にんげん は自由 じゆう 意志 いし を持 も ちえない[ 21] [ 22] [ 23] 。このような論拠 ろんきょ もまた、様々 さまざま な両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ たる哲学 てつがく 者 しゃ たちによって批判 ひはん されている[ 24] [ 25] [ 26] 。
必然 ひつぜん 的 てき な成 な り行 ゆ きからの論証 ろんしょう [ 編集 へんしゅう ]
非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ の3番目 ばんめ の論拠 ろんきょ は、1960年代 ねんだい にカール・ギネット によって定式 ていしき 化 か され、現代 げんだい の文献 ぶんけん の中 なか で大 おお きな注目 ちゅうもく を受 う けている。その単純 たんじゅん な論証 ろんしょう は、以下 いか のような文章 ぶんしょう で足 た りる。もし決定 けってい 論 ろん が真 しん であるならば、私 わたし たちは、私 わたし たちの現代 げんだい の状態 じょうたい を決定 けってい している過去 かこ の事象 じしょう をコントロールすることができず、また、自然 しぜん 法則 ほうそく をコントロールすることもできない。私 わたし たちはこれらの事柄 ことがら をコントロールすることができないので、同様 どうよう にそれらの事柄 ことがら の必然 ひつぜん 的 てき な成 な り行 ゆ きをコントロールすることもできない。私 わたし たちの選択 せんたく や行為 こうい は、決定 けってい 論 ろん の下 した では、過去 かこ および自然 しぜん 法則 ほうそく の必然 ひつぜん 的 てき な成 な り行 ゆ きであるから、私 わたし たちはそれらをコントロールすることができないし、またそれゆえに、自由 じゆう 意志 いし も持 も たない。これは、必然 ひつぜん 的 てき な成 な り行 ゆ きからの論証 ろんしょう と呼 よ ばれる[ 24] [ 26] 。
つまり、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ にとっての難題 なんだい は、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ が、人 ひと はその人 ひと が為 な したのと別様 べつよう の選択 せんたく をすることができないという不可能 ふかのう 性 せい を孕 はら んでいるという事実 じじつ に存 そん する。例 たと えば、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ でありちょうど今 こん ソファーに座 すわ っているジェーンは、もし彼女 かのじょ が望 のぞ んだならば彼女 かのじょ は立 た ったままでいることもできたはずだという主張 しゅちょう を受 う け入 い れるだろう。しかし、必然 ひつぜん 的 てき な成 な り行 ゆ きからの論証 ろんしょう によって帰結 きけつ されるのは、仮 かり にジェーンが立 た ったままでいたならば、彼女 かのじょ は自然 しぜん 法則 ほうそく に違反 いはん するかあるいは過去 かこ を変更 へんこう するという矛盾 むじゅん を引 ひ き起 お こすことになるということである。したがって、ギネットおよびヴァン・インワーゲンの主張 しゅちょう によれば、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ は、自分 じぶん が信 しん じていない能力 のうりょく の実在 じつざい 性 せい を受 う け入 い れているということになる。このような論証 ろんしょう に対 たい する反論 はんろん のひとつは、能力 のうりょく に関 かん する観念 かんねん と必然 ひつぜん 性 せい に関 かん する観念 かんねん とは実 じつ は等価 とうか であるというものである。別 べつ の反論 はんろん によれば、自由 じゆう 意志 いし が行 おこな われた選択 せんたく を引 ひ き起 お こしたのだということは幻想 げんそう であり、選択 せんたく というものは初 はじ めから、その決定 けってい 者 しゃ などというものとは無関係 むかんけい に為 な されるのだというものである[ 26] 。デイヴィド・ルイス によれば、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ が受 う け入 い れているのは、もし現実 げんじつ に過去 かこ にあったのとは異 こと なる事情 じじょう があったならば 何 なに かを別様 べつよう に為 な すことができたという能力 のうりょく だけである[ 27] 。
非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ に属 ぞく するもうひとつの考 かんが え方 かた は、(哲学 てつがく 的 てき )リバタリアニズムである。リバタリアンによれば、自由 じゆう 意志 いし は実在 じつざい しており、与 あた えられた状況 じょうきょう 下 か で、個人 こじん が2つ以上 いじょう の行動 こうどう を自由 じゆう に選 えら ぶことができることを要求 ようきゅう する。決定 けってい 論 ろん は、可能 かのう な未来 みらい は1つしかないということを含意 がんい しているので、自由 じゆう 意志 いし の概念 がいねん とは両立 りょうりつ せず、誤 あやま りでなければならない。
リバタリアニズムの観点 かんてん は、超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 理論 りろん と科学 かがく 的 てき (自然 しぜん 的 てき )理論 りろん とに下位 かい 区分 くぶん される。超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 理論 りろん によれば、非 ひ 物理 ぶつり 的 てき な知性 ちせい ないし魂 こん が物理 ぶつり 的 てき な因果 いんが 関係 かんけい を克服 こくふく し、その結果 けっか 、行為 こうい の実行 じっこう に繋 つな がる脳 のう 内 ない の物理 ぶつり 的 てき な事象 じしょう には完全 かんぜん に物理 ぶつり 的 てき な説明 せつめい がつかない。このアプローチは、心身 しんしん 二元論 にげんろん と関連 かんれん しており、神学 しんがく 的 てき な動機 どうき を有 ゆう しているかもしれない。
リバタリアニズムの科学 かがく 的 てき な説明 せつめい は、時 とき として、心 しん が宇宙 うちゅう 全体 ぜんたい に浸透 しんとう しているとする汎 ひろし 心 しん 論 ろん を引 ひ き合 あ いに出 だ す[ 28] 。もうひとつの自然 しぜん 的 てき なアプローチは、自由 じゆう 意志 いし がこの宇宙 うちゅう の基礎 きそ 的 てき な構成 こうせい 要素 ようそ であることを要求 ようきゅう しない。いわゆるランダム性 せい が、リバタリアンによって必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ であると信 しん じられている自由 じゆう の余地 よち を提供 ていきょう するために引 ひ き合 あ いに出 だ される。自由 じゆう な決断 けつだん は、非 ひ 決定 けってい 論 ろん の要素 ようそ と結 むす び付 つ いたある種 しゅ の複雑 ふくざつ な高次 こうじ のプロセスであるとみなされる。このようなアプローチの例 れい は、ロバート・ケイン によって発展 はってん させられた。
実用 じつよう 上 じょう 有用 ゆうよう な概念 がいねん としての自由 じゆう 意志 いし [ 編集 へんしゅう ]
ウィリアム・ジェームズ の見解 けんかい は両義 りょうぎ 的 てき である。彼 かれ は「倫理 りんり 的 てき 理由 りゆう 」にもとづいて自由 じゆう 意志 いし を信 しん じるいっぽう、自由 じゆう 意志 いし が存在 そんざい する科学 かがく 的 てき 根拠 こんきょ にもとづいた証拠 しょうこ はないと考 かんが え、また、自分 じぶん 自身 じしん の内観 ないかん も自由 じゆう 意志 いし を支持 しじ しない、とした[ 29] 。さらに、ウィリアム・ジェームズは、人間 にんげん に関 かん する非 ひ 決定 けってい 論 ろん は道徳 どうとく 的 てき 責任 せきにん の前提 ぜんてい 要件 ようけん であると信 しん じる理由 りゆう で、非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ を受 う け入 い れなかった。彼 かれ は著書 ちょしょ 『プラグマティズム』において、形而上学 けいじじょうがく 的 てき 理論 りろん を考慮 こうりょ せずに、次 つぎ のように書 か いている。「直感 ちょっかん や効用 こうよう は、人々 ひとびと の間 あいだ で、刑罰 けいばつ や報酬 ほうしゅう に関 かん する社会 しゃかい 的 てき 任務 にんむ を全 まっと うするにあたって、安心 あんしん して信頼 しんらい されるものである」[ 30] 。彼 かれ は、非 ひ 決定 けってい 論 ろん が救済 きゅうさい に関 かん する教 おし えとして重要 じゅうよう であると信 しん じていた。この教 おし えは、世界 せかい が多 おお くの点 てん から見 み て悪 わる い状態 じょうたい にあるにもかかわらず、個々人 ここじん の行為 こうい を通 つう じて、よりよい状態 じょうたい になり得 え るという見方 みかた を許容 きょよう する。決定 けってい 論 ろん は、彼 かれ が論 ろん じるところによれば、進歩 しんぽ が世界 せかい の改善 かいぜん に繋 つな がる現実 げんじつ 的 てき な概念 がいねん であるという考 かんが えである進歩 しんぽ 主義 しゅぎ を破壊 はかい してしまう[ 30] 。
通常 つうじょう の社会 しゃかい 通念 つうねん では、人 ひと は自己 じこ の行為 こうい に責任 せきにん を負 お っており、各人 かくじん が何 なに をするかに応 おう じて称賛 しょうさん や非難 ひなん を受 う ける。ところで、多 おお くの人 ひと は、道徳 どうとく 的 てき 責任 せきにん は自由 じゆう 意志 いし を前提 ぜんてい とすると信 しん じている。そこで、自由 じゆう 意志 いし に関 かん する論争 ろんそう におけるもうひとつの重要 じゅうよう な論点 ろんてん は、人 ひと は自己 じこ の行為 こうい に道徳 どうとく 的 てき な責任 せきにん を負 お うのか、そして、もし負 お うとすればどのような意味 いみ で負 お うのかという問 と いである。
非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ は、決定 けってい 論 ろん は道徳 どうとく 的 てき 責任 せきにん と相性 あいしょう が悪 わる いと考 かんが える傾向 けいこう にある。人 ひと が、時間 じかん の流 なが れの初 はじ めから決定 けってい されている(あるいは予見 よけん される潜在 せんざい 的 てき な可能 かのう 性 せい がある)行為 こうい に対 たい して責任 せきにん を負 お うということは、不可能 ふかのう に思 おも われる。固 かた い決定 けってい 論 ろん 者 しゃ は、「これほど自由 じゆう 意志 いし にとって不利 ふり なことはない」と主張 しゅちょう し、決定 けってい 論 ろん を擁護 ようご して、自由 じゆう 意志 いし の概念 がいねん を放棄 ほうき する[ 31] 。著名 ちょめい な弁護士 べんごし であるクラレンス・ダロウ は、彼 かれ の依頼人 いらいにん であるレオポルドとローブ の無罪 むざい を主張 しゅちょう するにあたって、このような固 かた い決定 けってい 論 ろん の観念 かんねん を引 ひ き合 あ いに出 だ した[ 32] 。
反対 はんたい に、リバタリアンは、「これほど決定 けってい 論 ろん 者 しゃ にとって不利 ふり なことはない」と主張 しゅちょう する[ 33] 。ジャン=ポール・サルトル は、人々 ひとびと は時々 ときどき 、決定 けってい 論 ろん を隠 かく れ蓑 みの にして有 ゆう 責 せめ 性 せい から逃 のが れようとすると論 ろん じる。「我々 われわれ は常 つね に、この自由 じゆう が私 わたし たちにのしかかるとき、あるいは、私 わたし たちが免責 めんせき を必要 ひつよう とするとき、決定 けってい 論 ろん という信念 しんねん の中 なか に逃 に げ込 こ む」[ 34] 。リバタリアンは、決定 けってい されていない行為 こうい は完全 かんぜん にランダムなのではなく、その判断 はんだん がまだ定 さだ められていない実体 じったい 的 てき な意志 いし に由来 ゆらい すると反論 はんろん する。この議論 ぎろん は、問題 もんだい を科学 かがく 的 てき 問題 もんだい から哲学 てつがく 的 てき 問題 もんだい に移 うつ すものの、どの形而上学 けいじじょうがく 的 てき な主体 しゅたい が実際 じっさい に責任 せきにん を負 お っているのかという問題 もんだい がまだ残 のこ っているため、両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ はこのような論証 ろんしょう を十分 じゅうぶん であるとは考 かんが えないかもしれない。リバタリアンは、未決 みけつ の意志 いし がどのようにして行為 こうい 主体性 しゅたいせい と結 むす び付 つ くのかということを明 あき らかにするのに苦労 くろう してきた[ 35] 。
道徳 どうとく 的 てき な責任 せきにん という論点 ろんてん は、固 かた い決定 けってい 論 ろん と両立 りょうりつ 主義 しゅぎ との論争 ろんそう の中核 ちゅうかく 部 ぶ を占 し めている。固 かた い決定 けってい 論 ろん 者 しゃ は、個々人 ここじん は両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 的 てき な意味 いみ における自由 じゆう 意志 いし をしばしば持 も っているということを受 う け入 い れるように迫 せま られるが、しかし、彼 かれ らはこのような意味 いみ における自由 じゆう 意志 いし が道徳 どうとく 的 てき な責任 せきにん の根拠 こんきょ になりうることを否定 ひてい する。行為 こうい 者 しゃ の選択 せんたく が強制 きょうせい されていないという事実 じじつ は、固 かた い決定 けってい 論 ろん 者 しゃ が主張 しゅちょう するところによれば、決定 けってい 論 ろん は行為 こうい 者 しゃ から責任 せきにん を奪 うば うという事実 じじつ を何 なん ら変 か えない。
両立 りょうりつ 主義 しゅぎ 者 しゃ が論 ろん じるところによれば、反対 はんたい に、決定 けってい 論 ろん は道徳 どうとく 的 てき 責任 せきにん の前提 ぜんてい 条件 じょうけん である。社会 しゃかい は、ある人 ひと の行為 こうい が何 なん らかの形 かたち で決定 けってい されていないかぎり、人 ひと に責任 せきにん を負 お わせることができない。このような論証 ろんしょう は、デビッド・ヒューム にまで遡 さかのぼ ることができる。もし非 ひ 決定 けってい 論 ろん が真 しん であるならば、決定 けってい されていない事象 じしょう はランダムだということになる。神経 しんけい 系 けい によってランダムに引 ひ き起 お こされた行為 こうい を実行 じっこう したという理由 りゆう で、ある人 ひと が賞賛 しょうさん されたり非難 ひなん されたりするのはおかしい。むしろ、人 ひと が誰 だれ かに道徳 どうとく 的 てき 責任 せきにん を負 お わせるためには、その行為 こうい がその人 ひと の欲求 よっきゅう および選好 せんこう すなわちその人 ひと の固有 こゆう の性格 せいかく から生 しょう じたということを明 あき らかにする必要 ひつよう がある[ 10] 。
自由 じゆう 意志 いし と道徳 どうとく 的 てき 責任 せきにん に関 かん する議論 ぎろん は、刑法 けいほう 学 がく においても論点 ろんてん となっている。刑法 けいほう 上 じょう の責任 せきにん は、人 ひと は素因 そいん 的 てき ・環境 かんきょう 的 てき 要因 よういん によって制約 せいやく されつつも制限 せいげん された範囲 はんい で自由 じゆう な意思 いし 決定 けってい によって行為 こうい しうるとする相対 そうたい 的 てき 非決定 ひけってい 論 ろん を前提 ぜんてい として、自由 じゆう 意思 いし (自由 じゆう 意志 いし )による他 た 行為 こうい 可能 かのう 性 せい (構成 こうせい 要件 ようけん に該当 がいとう する違法 いほう な行為 こうい を回避 かいひ できたこと)によって基礎 きそ づけられる道義 どうぎ 的 てき 責任 せきにん であるという見解 けんかい (道義 どうぎ 的 てき 責任 せきにん 論 ろん )が、戦後 せんご 刑法 けいほう 学 がく においては通説 つうせつ となった(かつて有力 ゆうりょく であった人格 じんかく 的 てき 責任 せきにん 論 ろん も道義 どうぎ 的 てき 責任 せきにん を前提 ぜんてい とするものである)[ 36] [ 37] 。伝統 でんとう 的 てき 通説 つうせつ はこれを非 ひ 決定 けってい 論 ろん から説明 せつめい していたが、近時 きんじ の有力 ゆうりょく な見解 けんかい はこれを決定 けってい 論 ろん (やわらかな決定 けってい 論 ろん 、両立 りょうりつ 可能 かのう 論 ろん )から説明 せつめい する[ 38] 。このような論争 ろんそう は継続 けいぞく しているものの、他 た の分野 ぶんや と同 おな じく刑法 けいほう も通常 つうじょう の思考 しこう 能力 のうりょく がある人間 にんげん が自由 じゆう 意志 いし を持 も つことは自明 じめい であるという想定 そうてい に基 もと づいている。い換 いか えれば、刑法 けいほう は自由 じゆう 意志 いし という単 たん なる仮説 かせつ に依存 いぞん しているわけで、自由 じゆう 意志 いし が完全 かんぜん に否定 ひてい された場合 ばあい は刑法 けいほう 理論 りろん が根本 こんぽん 的 てき に崩壊 ほうかい してしまうという非常 ひじょう に危 あや うい状況 じょうきょう にあると言 い える。
人間 にんげん が行動 こうどう する意味 いみ における自由 じゆう 意志 いし は、アダムの全的 ぜんてき 堕落 だらく 後 こう も存在 そんざい するが、神 かみ に従 したが う自由 じゆう 意志 いし は堕落 だらく 以降 いこう に失 うしな われている。新生 しんせい したクリスチャンにのみ、神 かみ に向 む かう自由 じゆう 意志 いし が存在 そんざい する。この自由 じゆう 意志 いし 論 ろん はアウグスティヌス 、マルティン・ルター 、ジャン・カルヴァン 、ジョナサン・エドワーズ 、改革 かいかく 派 は 神学 しんがく が共有 きょうゆう する[ 39] 。
聖書 せいしょ では神 かみ が定 さだ めた道徳 どうとく を守 まも ることで保護 ほご される法則 ほうそく が成 な り立 た つ。(イザヤ 48:17)
あなたを救 すく う方 ほう ,イスラエルの聖 せい なる方 ほう はこう言 い う。「あなたのためになる生 い き方 かた を教 おし え,
あなたを導 みちび いて正 ただ しい道 みち を歩 あゆ ませる。」
人 にん はアダムから受 う け継 つ いだ不完全 ふかんぜん さによる堕落 だらく が原因 げんいん で間違 まちが い、道徳 どうとく からそれる傾向 けいこう を示 しめ し秩序 ちつじょ を乱 みだ して自滅 じめつ に繋 つな がる決定 けってい をするのである。
道徳 どうとく を守 まも れば、社会 しゃかい 秩序 ちつじょ は安定 あんてい し幸 しあわ せに暮 く らせるという法則 ほうそく が見 み いだせるので、道徳 どうとく は自然 しぜん の法則 ほうそく と同 おな じく因果 いんが 的 てき に決定 けってい されているという事実 じじつ に導 みちび かれる。
加 くわ えて、絶対 ぜったい の自由 じゆう があるのは創造 そうぞう 者 しゃ の神 かみ のみとされる。(啓示 けいじ 4:11)
他 た は全 すべ て無 む 生 せい の宇宙 うちゅう にも法則 ほうそく があり、生物 せいぶつ はDNAに組 く み込 こ まれる本能 ほんのう に従 したが い、神 かみ と似 に た様 よう に造 つく られた人間 にんげん は自由 じゆう 意志 いし から神 かみ の道徳 どうとく 基準 きじゅん に従 したが う、皆 みな 宇宙 うちゅう の一部 いちぶ として制限 せいげん を課 か される。
予 よ 定説 ていせつ
人間 にんげん に自由 じゆう 意志 いし を与 あた えた神 かみ は、当然 とうぜん 人 じん の自由 じゆう 意志 いし を尊重 そんちょう し全能 ぜんのう 者 しゃ として予 よ 知力 ちりょく をコントロールされる。(申 さる 30:19,20)神 かみ の目的 もくてき に関 かか わる事 こと であれば、意図 いと 的 てき に予 よ 知力 ちりょく を行使 こうし し、将来 しょうらい 起 お きることを預言 よげん したり目的 もくてき を達成 たっせい されるのである。そうでないと全能 ぜんのう 者 しゃ なる神 かみ とは言 い えない。(イザヤ43:12,13)
但 ただ し神 かみ は人 ひと の心 しん を読 よ める為 ため 、人 ひと の傾向 けいこう から生 しょう じる結果 けっか を知 し らせる事 こと ができるのであって自由 じゆう 意志 いし を無視 むし することではない。(創世 そうせい 4:4-7)
このような神 かみ は愛 あい からご自分 じぶん の自由 じゆう 意志 いし を行使 こうし され、人間 にんげん の正 ただ しい自由 じゆう 意志 いし の用 もち い方 かた として人類 じんるい に示 しめ されている。(創世 そうせい 1:26,マタイ22:37-39)
一般 いっぱん 的 てき に、「意志 いし は脳 のう の働 はたら き」であり、かつ、「脳 のう が物理 ぶつり 法則 ほうそく に従 したが う」ならば自由 じゆう 意志 いし はないと考 かんが えるのが適当 てきとう である。逆 ぎゃく に自由 じゆう 意志 いし があるのであれば、これらの一方 いっぽう か、両方 りょうほう が否定 ひてい されなければならない。
初期 しょき の科学 かがく 思想家 しそうか のうち、ある者 もの は決定 けってい 論 ろん 的 てき なものとして宇宙 うちゅう を描 えが き、またある者 もの は完全 かんぜん に正確 せいかく に未来 みらい の出来事 できごと を予言 よげん するには、充分 じゅうぶん な情報 じょうほう を集 あつ めさえすればいいと考 かんが えた。古典 こてん 物理 ぶつり 学 がく は決定 けってい 論 ろん 的 てき な理論 りろん であり、初期 しょき 条件 じょうけん が決 き まれば未来 みらい は一意 いちい に決定 けってい される。しかし量子力学 りょうしりきがく の標準 ひょうじゅん 的 てき なコペンハーゲン解釈 かいしゃく は、結果 けっか が確 かく 率 りつ 的 てき に与 あた えられる非決定 ひけってい 論 ろん である。とはいえ量子 りょうし 論 ろん の非 ひ 決定 けってい 性 せい は、人 ひと の行動 こうどう を含 ふく め世界 せかい が物理 ぶつり 法則 ほうそく に従 したが ってランダムに決 き まるということであり、これは通常 つうじょう の意味 いみ での自由 じゆう 意志 いし にはつながらない。ただし少数 しょうすう ではあるが、脳 のう 内 ない の量子 りょうし 効果 こうか と人 ひと の意志 いし を結 むす びつけることで自由 じゆう 意志 いし を確保 かくほ しようとする論者 ろんしゃ もいる(量子 りょうし 脳 のう 理論 りろん )[ 40] 。量子力学 りょうしりきがく の他 ほか の解釈 かいしゃく には決定 けってい 論 ろん 的 てき なものもあり、例 たと えば多 た 世界 せかい 解釈 かいしゃく は、初期 しょき 状態 じょうたい が与 あた えられれば分岐 ぶんき する各 かく 世界 せかい の状態 じょうたい が一意 いちい に決 き まる決定 けってい 論 ろん である。
決定 けってい 論 ろん と人 ひと の意識 いしき を結 むす びつけるのに相性 あいしょう がよいのは随伴 ずいはん 現象 げんしょう 説 せつ であり、これは「物質 ぶっしつ の相互 そうご 作用 さよう から意識 いしき が生 う まれ、意識 いしき は物質 ぶっしつ に対 たい して何 なん の因果 いんが 的 てき 作用 さよう ももたらさない」とする考 かんが えである。
物理 ぶつり 学者 がくしゃ と同様 どうよう に、生物 せいぶつ 学者 がくしゃ もまた自由 じゆう 意志 いし の問題 もんだい を頻繁 ひんぱん に提起 ていき してきた。
生物 せいぶつ 学 がく の最 もっと も白熱 はくねつ した議論 ぎろん の一 ひと つが「氏 し と育 そだ ち 」(nature and nurture, 本性 ほんしょう と教育 きょういく )の議論 ぎろん である。人間 にんげん 的 てき 行為 こうい において文化 ぶんか と環境 かんきょう に比較 ひかく して、遺伝 いでん 学 がく と生物 せいぶつ 学 がく はどれほど重要 じゅうよう であるか?遺伝 いでん 学 がく 的 てき 研究 けんきゅう は、ダウン症候群 しょうこうぐん のような明白 めいはく な場合 ばあい から統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう になる統計 とうけい 学 がく 的 てき 傾向 けいこう のようなより微妙 びみょう な影響 えいきょう まで、個人 こじん の性格 せいかく に影響 えいきょう を与 あた える多 おお くの特殊 とくしゅ な遺伝 いでん 的 てき 要因 よういん を見極 みきわ めた。
かつては氏 し か育 そだ ちかという二者択一 にしゃたくいつ 的 てき な議論 ぎろん がなされ,社会 しゃかい 学者 がくしゃ は主 おも に後者 こうしゃ の立場 たちば から前者 ぜんしゃ の立場 たちば を生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 決定 けってい 論 ろん として非難 ひなん した(といっても育 そだ ち理論 りろん もつきつめれば決定 けってい 論 ろん なのだが)。しかし,現在 げんざい の生物 せいぶつ 学者 がくしゃ の一般 いっぱん 的 てき な合意 ごうい は、氏 し と育 そだ ちの両方 りょうほう によって人 ひと は形成 けいせい されているのであり,さまざまな行為 こうい のそれぞれについて遺伝 いでん の影響 えいきょう と環境 かんきょう の影響 えいきょう が複雑 ふくざつ に絡 から み合 あ っているということである。
運動 うんどう 準備 じゅんび 電位 でんい の観測 かんそく 例 れい 。被験者 ひけんしゃ が動作 どうさ の決定 けってい を意識 いしき するより(図 ず 中 ちゅう の 0 sec の時点 じてん )おおよそ1/3秒 びょう ほど前 まえ から、関連 かんれん する脳 のう 活動 かつどう による電位 でんい の変化 へんか が計測 けいそく される。
現在 げんざい では生 い きたままの脳 のう を研究 けんきゅう することが可能 かのう になってきており、「意思 いし 決定 けってい の『機構 きこう 』」(the decision-making "machinery") が働 はたら いている様 さま を観察 かんさつ することができる。
この領域 りょういき における重要 じゅうよう な実験 じっけん が1980年代 ねんだい にベンジャミン・リベット によって行 おこな われた[ 41] 。任意 にんい の時間 じかん に被験者 ひけんしゃ に手首 てくび を曲 ま げてもらい、それと関連 かんれん する脳 のう 活動 かつどう を観察 かんさつ する実験 じっけん である(このとき、準備 じゅんび 電位 でんい (readiness potential)と呼 よ ばれる電気 でんき 信号 しんごう が立 た ち上 あ がる)。準備 じゅんび 電位 でんい は身体 しんたい の動 うご きに先行 せんこう する脳 のう 活動 かつどう としてよく知 し られていたが、行動 こうどう の意図 いと を感 かん じることと準備 じゅんび 電位 でんい が一致 いっち するかどうかはわかっておらず、Libetはこの点 てん を探求 たんきゅう した。行動 こうどう の意図 いと が被験者 ひけんしゃ にいつ生 う まれるかを決定 けってい するために、時計 とけい の針 はり を見 み 続 つづ けてもらって、動 うご かそうとする意識 いしき 的 てき 意図 いと を感 かん じたときの時計 とけい の針 はり の位置 いち を報告 ほうこく してもらった。
Libet は、被験者 ひけんしゃ の脳 のう の活動 かつどう が、意識 いしき 的 てき に動作 どうさ を決定 けってい するおおよそ1/3秒 びょう 前 まえ に開始 かいし したことを発見 はっけん した。これは、実際 じっさい の決定 けってい がまず潜在 せんざい 意識 いしき でなされており、それから意識 いしき 的 てき 決定 けってい へと翻訳 ほんやく されていることを暗示 あんじ している。
後 のち に Dr. Alvaro Pascual-Leone によって行 おこな われた関連 かんれん 実験 じっけん では、動 うご かす手 て をランダムに選 えら ばせた。ここでは、磁場 じば を用 もち いて脳 のう の異 こと なる半球 はんきゅう を刺激 しげき することによって被験者 ひけんしゃ のどちらかの手 て に強 つよ く影響 えいきょう を及 およ ぼしうることを発見 はっけん した。例 たと えば、標準 ひょうじゅん 的 てき に右 みぎ 利 き きの人 ひと は実験 じっけん 期間 きかん の60%の間 あいだ 右手 みぎて を動 うご かすことを選 えら ぶ、しかし右脳 うのう が刺激 しげき されている間 あいだ 、実験 じっけん 期間 きかん の80%の間 あいだ 左手 ひだりて を選 えら んだとされる(右脳 うのう は体 からだ の左 ひだり 半身 はんしん を、左脳 さのう は右 みぎ 半身 はんしん を統括 とうかつ していることが想起 そうき される)。
この場合 ばあい 、動 うご かした手 て の選択 せんたく へ外的 がいてき 影響 えいきょう (磁場 じば を用 もち いた脳 のう に対 たい する刺激 しげき )が加 くわ えられていたにもかかわらず、被験者 ひけんしゃ は「手 て の選択 せんたく が(外的 がいてき 影響 えいきょう とは独立 どくりつ に)自由 じゆう になされたことを確信 かくしん している」と報告 ほうこく している。
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