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自由じゆう意志いし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

自由じゆう意志いし(じゆういし、英語えいご: free willドイツ: freier Willeフランス語ふらんすご: libre arbitreラテン語らてんご: liberum arbitrium)とは、人間にんげんには、なにからも影響えいきょう指図さしず制約せいやく)をけずに、「なにかをそうとする気持きもちやかんがえ」を自由じゆう能力のうりょくがある、とする仮説かせつである。

概要がいよう

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自由じゆう意志いし問題もんだいとは、人間にんげんが、自発じはつてきに”意志いし”をすことができるかか、といういであり、それはまた、人間にんげん行動こうどう自由じゆうがあるかどうかにもかかわってくる重要じゅうよう問題もんだいである。

様々さまざま哲学てつがくうえ立場たちばが、あらゆる事象じしょう過去かこ未来みらいにかかわらず、すで決定けっていされているかか(決定けっていろんVS決定けっていろん)について、また同様どうように、自由じゆう決定けっていろん共存きょうぞんできるかか(両立りょうりつ主義しゅぎVS両立りょうりつ主義しゅぎ)について意見いけんちがえている。それゆえに、たとえば、かた決定けっていろんは、宇宙うちゅう決定けっていろんてきであり、このことが自由じゆう意志いし不可能ふかのうにすると主張しゅちょうしている。

自由じゆう意志いし問題もんだい自由じゆう因果いんがとの関係かんけい、そして自然しぜん法則ほうそく因果いんがてき決定けっていしているのかどうかという、原理げんりてきあるいは本質ほんしつてきいであり、宗教しゅうきょうてき倫理りんりてきそして科学かがくてき原理げんりからいからっている。たとえば、宗教しゅうきょうとくキリスト教きりすときょうイスラム教いすらむきょうなどの一神教いっしんきょうにおいて、自由じゆう意志いしみとめることは、万能ばんのうであるはずのかみがそのちから個々ここ意志いしおよぼすことができないという宣言せんげんとなるため、このようなかみはもはや万能ばんのうとはいえなくなる(この矛盾むじゅん解決かいけつするために神学しんがくじょう諸説しょせつつくられてきた)。また、倫理りんりがくにおいては、自由じゆう意志いしは、個々人ここじん[よう校閲こうえつ]自身じしん行為こういたいして道徳どうとくてき説明せつめい義務ぎむっているとするが、意志いし自分じぶん自由じゆうにならないのであれば、意志いし原因げんいんとして発生はっせいする行為こうい、さらに結果けっかについても、いかなる責任せきにんうことはできなくなってしまい、自由じゆうという概念がいねん全体ぜんたい消失しょうしつする。

自由じゆう意志いし問題もんだいは、哲学てつがくてき思索しさくはじまって以来いらい中心ちゅうしんてき論点ろんてんであった。一方いっぽう現代げんだいのう科学かがく進展しんてんによって意志いし形成けいせい過程かてい解明かいめいされつつあり、もはや自由じゆう意志いし形而上学けいじじょうがくうえ課題かだいとして片付かたづけることはゆるされない段階だんかいている。

科学かがく領域りょういきにおいて自由じゆう意志いし主張しゅちょうすることは、のう思考しこうふく身体しんたい動作どうさ物理ぶつりてき因果律いんがりつによって完全かんぜん規定きていされているわけではないということとほぼ同等どうとうであるが、「物理ぶつりてき因果律いんがりつではないべつなにか」とは一体いったいなになのかについて具体ぐたいてき説明せつめいは、げん段階だんかいではとぼしい。

いずれにせよ、「道徳どうとく維持いじしようとする自由じゆう意志いし肯定こうていちから」と「決定けっていろんてきな、自由じゆう意志いし否定ひてい科学かがくてき思考しこう」との、ふたつの対立たいりつ顕在けんざいするなかで、様々さまざま見方みかたまれてきたのである。

哲学てつがくにおける自由じゆう意志いし

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自由じゆう意志いし問題もんだいにおける哲学てつがくじょう基本きほんてき立場たちばは、

  1. 決定けっていろんしんか?
  2. 自由じゆう意志いしはあるか?

という2つの質問しつもんたいして肯定こうていするか否定ひていするかでまる。

決定けっていろんとは、おおざっぱに定義ていぎするならば、現在げんざい未来みらいのあらゆる事象じしょうは、自然しぜん法則ほうそくむすいた過去かこ事象じしょうによって因果いんがてき必然ひつぜんせいがあるという見方みかたである。 決定けっていろんしんであることをれ、それゆえ、人間にんげんなんらかの自由じゆう意志いしゆうしていることを拒絶きょぜつする立場たちばは、かた決定けっていろんばれる。 一方いっぽうで、決定けっていろん否定ひていし、自然しぜん法則ほうそくえるような自由じゆう意志いし要求ようきゅうする立場たちばは(哲学てつがくてきリバタリアニズムばれる[1]。このリバタリアニズムという用語ようご政治せいじ思想しそうもちいられる意味いみとはことなるが、自由じゆう意志いしろん使つかわれたのがさきである[2]

これらかた決定けっていろんしゃとリバタリアンはともに、決定けっていろん自由じゆう意志いし概念がいねんとは相容あいいれないとする両立りょうりつろんをとる。一方いっぽうで、自由じゆう意志いし存在そんざい決定けっていろん両立りょうりつ可能かのうであるとする立場たちばは、両立りょうりつろんばれる。りょう立論りつろんしゃ自由じゆう自由じゆう意志いしという概念がいねんを、決定けっていろん矛盾むじゅんしないようさい定義ていぎし、めて理解りかいなおそうとする[3][4]

  • りょう立論りつろん
  • 両立りょうりつろん
    • かた決定けっていろん決定けっていろん肯定こうていし、自由じゆう意志いし否定ひていする。
    • リバタリアニズム:決定けっていろん否定ひていし、自由じゆう意志いし肯定こうていする。
    • かた両立りょうりつ主義しゅぎ決定けっていろん非決定ひけっていろん関係かんけいなく自由じゆう意志いし否定ひていする。

決定けっていろん

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決定けっていろんは、様々さまざま意味いみ幅広はばひろ用語ようごである。それぞれのことなる意味いみ対応たいおうして、自由じゆう意志いしかんすることなる問題もんだいしょうじる[5]因果いんがてきないし単調たんちょうてき決定けっていろんとは、未来みらい事象じしょう自然しぜん法則ほうそくともな過去かこおよび現在げんざい事象じしょうによって必然ひつぜんされているという主張しゅちょうである。このような決定けっていろんは、ときとして、ラプラスの悪魔あくまという思考しこう実験じっけんによって表現ひょうげんされる。過去かこおよび現在げんざいのあらゆる事実じじつそして宇宙うちゅう支配しはいするあらゆる自然しぜん法則ほうそくっている存在そんざいというものを想定そうていしてみればよい。このような存在そんざいは、未来みらいもっと細部さいぶいたるまで予測よそくするために、この知識ちしき利用りようすることができるかもしれない[6]

他方たほうで、論理ろんりがくてき決定けっていろんとは、あらゆる命題めいだいは、それが過去かこかんする命題めいだいであれ、現在げんざいあるいは未来みらいかんする命題めいだいであれ、しんにせのいずれかであるというかんがかたである。自由じゆう意志いし問題もんだいは、この文脈ぶんみゃくでは、未来みらいにおけるある事柄ことがら現在げんざいにおいてすでしんにせさだまっているにもかかわらず、その選択せんたく自由じゆうであることがありえるのかという問題もんだい[5]

また、神学しんがくてき決定けっていろん主張しゅちょうによれば、人類じんるいおこなおうとするあらゆる事柄ことがらを、かれらの行為こうい全知ぜんちというある形式けいしきつうじてあらかじめることによって[7]、あるいはかれらの行為こういをあらかじめさだめておくことによって決定けっていするかみ存在そんざいする[8]自由じゆう意志いし問題もんだいは、この文脈ぶんみゃくでは、もしわたしたち人間にんげんのためにときながれの最初さいしょからその行為こうい決定けっていした存在そんざいというものがいるならば、どうしてわたしたち人間にんげん行為こうい自由じゆうでありえるのかという問題もんだいく。

生物せいぶつがくてき決定けっていろん見解けんかいによれば、あらゆる振舞ふるまえ信念しんねんおよび欲求よっきゅうは、わたしたちの生来せいらいてき性質せいしつによって固定こていされている。このほかにも、文化ぶんかてき決定けっていろん心理しんりてき決定けっていろんなどをふく様々さまざま決定けっていろんがある[5]。もっとも、これらの決定けっていろんてき主張しゅちょうが、たとえばそだちのふくあいてき決定けっていろんのように、むすけられるのが普通ふつうである。

両立りょうりつ主義しゅぎ

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トマス・ホッブズ古典こてんてき決定けっていろんしゃである。

またべつ哲学てつがくしゃは、決定けっていろん自由じゆう意志いし両立りょうりつ可能かのうであるとかんがえた。これは両立りょうりつ主義しゅぎ(りょうりつしゅぎ)とよばれるかんがかたである。りょう立論りつろんしゃ決定けっていろんみとめつつ、自由じゆうという概念がいねんをそれにかたちさい定義ていぎしようとする[3]。そのため論者ろんしゃによって自由じゆう意志いし定義ていぎことなる。

古典こてんてき両立りょうりつ主義しゅぎ

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トマス・ホッブズような両立りょうりつ主義しゅぎしゃにとって、自由じゆう意志いしとは、「その個人こじん意志いしにしたがい、外的がいてき障害しょうがいはばまれることなく行動こうどうすること」を意味いみする。この立場たちば両立りょうりつ主義しゅぎ典型てんけいである。両立りょうりつ主義しゅぎしゃたちは自分じぶんたちの主張しゅちょう解説かいせつするために、強姦ごうかん殺人さつじん窃盗せっとうあるいはその制約せいやくによって、あるひと自由じゆう意志いしあきらかに否定ひていされるような事例じれい指摘してきする。このような事例じれい自由じゆう意志いし欠如けつじょしているのは、因果いんがてき過去かこ未来みらい決定けっていしているからではなく、他者たしゃ個人こじん欲求よっきゅう選好せんこう無視むししているためである。他者たしゃ個人こじん強制きょうせいしているのであり、両立りょうりつ主義しゅぎしゃによれば、これは自由じゆう意志いしくつがえしていることになる。かくして、両立りょうりつ主義しゅぎしゃは、自由じゆう意志いしにとって重要じゅうようなのは、個々人ここじん選択せんたくみずからの欲求よっきゅうおよび選好せんこう一致いっちしていることであって、なんらかの外的がいてき(または内的ないてき)なちからによってくつがえされていないことだ、とろんじる[9][10]両立りょうりつ主義しゅぎしゃであるためには、自由じゆう意志いしについての特定とくていかんがかた支持しじする必要ひつようはなく、決定けっていろん自由じゆう意志いしはんするということを否定ひていするだけでよい[11]

現代げんだいてき両立りょうりつ主義しゅぎ

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ハリー・フランクファートダニエル・デネットのような現代げんだいてき両立りょうりつ主義しゅぎしゃ主張しゅちょうによれば、たとえ強制きょうせいされた行為こういしゃであっても、その強制きょうせい行為こういしゃ個人こじんてき意図いと欲求よっきゅう一致いっちしていれば、やはりそのひと自由じゆうであるといわれることがある[12][13]とくに、フランクファートは、階層かいそうあみばれる両立りょうりつ主義しゅぎ提唱ていしょうした。このかんがえによれば、個人こじんは、たがいに矛盾むじゅんするいちかい欲求よっきゅうつことができ、これらのいちかい欲求よっきゅうかんする欲求よっきゅうかい欲求よっきゅう)というものをつこともできる。その結果けっか、これらの欲求よっきゅうのうちのどちらかひとつがその欲求よっきゅうまさることになる。個人こじん意志いしは、影響えいきょうりょくのあるいちかい欲求よっきゅう(それにもとづいて行為こういした欲求よっきゅう)と同一どういつされることになる。たとえば、無意識むいしきてき麻薬まやく中毒ちゅうどく患者かんじゃ不本意ふほんい麻薬まやく中毒ちゅうどく患者かんじゃ自発じはつてき麻薬まやく中毒ちゅうどく患者かんじゃ存在そんざいするとしよう。これら3種類しゅるい患者かんじゃはみな、麻薬まやく摂取せっしゅしたいといういちかい欲求よっきゅうと、麻薬まやく摂取せっしゅしたくないという相反あいはんするいちかい欲求よっきゅうっているかもしれない。だいいちグループである無意識むいしきてき中毒ちゅうどく患者かんじゃは、麻薬まやく摂取せっしゅしたくないというかい欲求よっきゅうたない。すなわち、かれらには麻薬まやくかんするかい欲求よっきゅうそのものがけており、麻薬まやく摂取せっしゅ有無うむ対立たいりつするいちかい欲求よっきゅう優劣ゆうれつ依存いぞんする。だいグループである不本意ふほんい中毒ちゅうどく患者かんじゃは、麻薬まやく摂取せっしゅしたくないというかい欲求よっきゅうっている。他方たほうで、だいさんグループである自発じはつてき中毒ちゅうどく患者かんじゃは、麻薬まやく摂取せっしゅしたいというかい欲求よっきゅうっている。フランクファートによれば、だいいちグループのメンバーは、意志いし欠如けつじょしているとみなされるべきであり、したがってもはや人格じんかくをもつ存在そんざいではない。だいグループのメンバーは、麻薬まやく摂取せっしゅしたくないということを自由じゆう欲求よっきゅうしているが、かれらの意志いし中毒ちゅうどくによってかされてしまう。最後さいごに、だいさんグループのメンバーは、かれらを中毒ちゅうどくにした麻薬まやく自発じはつてき摂取せっしゅしている。フランクファートの理論りろんは、任意にんいかずのレベルを分岐ぶんきさせることができる。この理論りろんたいする批判ひはんは、意志いし葛藤かっとう欲求よっきゅう選好せんこうのより高次こうじレベルにおいてしょうじないとはかぎらないと指摘してきする[14]。また、ある人々ひとびとは、フランクファートは階層かいそうあみなか様々さまざまなレベルがどのように相互そうご作用さようするのかという問題もんだいたいする適切てきせつ説明せつめいあたえていないとろんじる[15]

デネットはかれ著書ちょしょ自由じゆう余地よち』において、自由じゆう意志いし両立りょうりつ主義しゅぎ擁護ようごする論拠ろんきょ提示ていじした。これは、おなじくかれ著書ちょしょ自由じゆう進化しんかする』のなかでさらに詳述しょうじゅつされている[16]かれによれば、もしあるひとかみ全能ぜんのう悪魔あくまなどの可能かのうせい排除はいじょするならば、そのとき、カオスと、世界せかい現状げんじょうかんするわたしたちの知識ちしき正確せいかくさにたいする生来せいらいてき制約せいやくのせいで、未来みらいはあらゆる有限ゆうげんてき存在そんざいしゃにとって確実かくじつになる。ただいち明解めいかいなものは、予想よそうである。別様べつよう行為こういする能力のうりょく意味いみつのは、このような予想よそうたいしてのみであって、られておらずまたることのできない未来みらいたいしてではない。各人かくじんだれかが予想よそうしたのとはことなる仕方しかた行動こうどうする能力のうりょくゆうしているので、自由じゆう意志いし実在じつざいすることができる[16]両立りょうりつ主義しゅぎしゃは、このようなかんがかたにはわたしたちは環境かんきょうからの刺激しげき対応たいおうするかたちたん自動的じどうてき応答おうとうをすることしかできないという問題もんだいまつわりつくと非難ひなんする。かれらの主張しゅちょうによれば、わたしたちの行為こういすべて、外的がいてきちからによってコントロールされているか、あるいは、ランダム・チョイスでしかない[17]自由じゆう意志いし両立りょうりつ主義しゅぎかんするもっと洗練せんれんされた分析ぶんせきが、その批評ひひょうたちによって提供ていきょうされている[11]

両立りょうりつ主義しゅぎ

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ドルバック筋金入すじがねいりの決定けっていろんしゃであった。

両立りょうりつ主義しゅぎには3つの立場たちばがある。ひとつは、ドルバックのような筋金入すじがねいりの決定けっていろんしゃであり、決定けっていろん肯定こうていして自由じゆう意志いし否定ひていする。もうひとつは、(哲学てつがくてき)リバタリアンであり、トマス・リードヴァン・インワーゲンロバート・ケインなどがこれにぞくする。かれらは、自由じゆう意志いし肯定こうていして決定けっていろん否定ひていする両立りょうりつ主義しゅぎしゃであり、なんらかの意味いみ決定けっていろんしんであるとかんがえている[18]最後さいごのひとつは、かた両立りょうりつ主義しゅぎであり、自由じゆう意志いしというものは、決定けっていろんとも非決定ひけっていろんとも相容あいいれない。つまり、この立場たちばによれば、自由じゆう意志いしは、決定けっていろんてき世界せかいかん非決定ひけっていろんてき世界せかいかんとをわず、そもそも成立せいりつしない概念がいねんである。デルク・ピールブーム(Derk Pereboom)[注釈ちゅうしゃく 1]がこの見解けんかい擁護ようごしている[19]

直観ちょっかんによる論証ろんしょう

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両立りょうりつ主義しゅぎ伝統でんとうてき論拠ろんきょは、デネットりゅうえば、つぎのような直観ちょっかんポンプ(intuition pump)に基礎きそけられている。もし人間にんげんかれ行為こうい選択せんたくにおいて決定けっていされているとすれば、かれは、その振舞ふるまいめられているその機械きかいてき存在そんざいたことになるはずである。つまり、かり人間にんげん振舞ふるまい因果いんがてき決定けっていされているならば、そのときにはかれは、風見鶏かざみどり、ビリヤードのたま人形にんぎょうあるいはロボットよりも洗練せんれんされた存在そんざいではないはずである。これらのもの自由じゆう意志いしゆうしていないので、もし決定けっていろんただしいとすれば、人間にんげん自由じゆう意志いしゆうしていないはずである[20][18]ようするに、このような両立りょうりつ主義しゅぎは、人間にんげん以外いがい事物じぶつには自由じゆう意志いしがないという直観ちょっかんから出発しゅっぱつし、人間にんげん事物じぶつ類似るいじせいから、決定けっていろん自由じゆう意志いしとの両立りょうりつ否定ひていする。いいかえれば、決定けっていろんただしいときには、人間にんげん人間にんげん以外いがい事物じぶつ似通にかよっており、そして人間にんげん以外いがい事物じぶつ自由じゆう意志いしゆうしていないので、人間にんげんもまた自由じゆう意志いしゆうしていないとかんがえられる。このような論拠ろんきょは、たとえばデネットのように、たとえ人間にんげんがその事物じぶつなんらかの要素ようそ共有きょうゆうしているとしても、だからといって人間にんげんとそれらの事物じぶつとのあいだ重要じゅうよう差異さいがないということにはならないという理由りゆうで、両立りょうりつ主義しゅぎから拒絶きょぜつされている[13]。また、人間にんげん事物じぶつ類似るいじしているがゆえに事物じぶつにも自由じゆう意志いしがあるという反対はんたい推論すいろんがなぜみとめられないのかというアニミズムてき疑問ぎもんのこる。

因果律いんがりつによる論証ろんしょう

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両立りょうりつ主義しゅぎのもうひとつの論拠ろんきょは、因果いんがくさりである。両立りょうりつ主義しゅぎは、自由じゆう意志いしかんする観念論かんねんろんのキーとなる。ほとんどの両立りょうりつ主義しゅぎしゃは、行為こうい自由じゆうという観念かんねんたんなる自発じはつてき振舞ぶるまいからっていることを否定ひていする。かれらの主張しゅちょうによれば、むしろ、自由じゆう意志いしとは、人間にんげん自己じこ行為こうい究極きゅうきょくてき根源こんげんてき原因げんいんであると主張しゅちょうする。伝統でんとうてきないいまわしによれば、人間にんげん自己じこ原因げんいんでなければならない。あるひと選択せんたくゆうせめであるということは、かれがそれらの選択せんたくだいいち原因げんいんであるということにひとしい。ここで、だいいち原因げんいんというのは、その原因げんいん先行せんこうする原因げんいんがないということを意味いみする。その論証ろんしょうつぎのようなものである。もし人間にんげん自由じゆう意志いしゆうしているならば、人間にんげん選択せんたくだいいち原因げんいんである。もし決定けっていろんしんであるならば、人間にんげんのあらゆる選択せんたくは、かれのコントロールにふくさない事象じしょうおよび行為こういる。それゆえに、もし人間にんげんすことすべてが自己じこのコントロールにふくさない事象じしょうおよび行為こういるならば、人間にんげん自己じこ行為こうい究極きゅうきょくてき原因げんいんであることはありえない。したがって、人間にんげん自由じゆう意志いしちえない[21][22][23]。このような論拠ろんきょもまた、様々さまざま両立りょうりつ主義しゅぎしゃたる哲学てつがくしゃたちによって批判ひはんされている[24][25][26]

必然ひつぜんてききからの論証ろんしょう

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両立りょうりつ主義しゅぎの3番目ばんめ論拠ろんきょは、1960年代ねんだいカール・ギネットによって定式ていしきされ、現代げんだい文献ぶんけんなかおおきな注目ちゅうもくけている。その単純たんじゅん論証ろんしょうは、以下いかのような文章ぶんしょうりる。もし決定けっていろんしんであるならば、わたしたちは、わたしたちの現代げんだい状態じょうたい決定けっていしている過去かこ事象じしょうをコントロールすることができず、また、自然しぜん法則ほうそくをコントロールすることもできない。わたしたちはこれらの事柄ことがらをコントロールすることができないので、同様どうようにそれらの事柄ことがら必然ひつぜんてききをコントロールすることもできない。わたしたちの選択せんたく行為こういは、決定けっていろんしたでは、過去かこおよび自然しぜん法則ほうそく必然ひつぜんてききであるから、わたしたちはそれらをコントロールすることができないし、またそれゆえに、自由じゆう意志いしたない。これは、必然ひつぜんてききからの論証ろんしょうばれる[24][26]

つまり、両立りょうりつ主義しゅぎにとっての難題なんだいは、両立りょうりつ主義しゅぎが、ひとはそのひとしたのと別様べつよう選択せんたくをすることができないという不可能ふかのうせいはらんでいるという事実じじつそんする。たとえば、両立りょうりつ主義しゅぎしゃでありちょうどこんソファーにすわっているジェーンは、もし彼女かのじょのぞんだならば彼女かのじょったままでいることもできたはずだという主張しゅちょうれるだろう。しかし、必然ひつぜんてききからの論証ろんしょうによって帰結きけつされるのは、かりにジェーンがったままでいたならば、彼女かのじょ自然しぜん法則ほうそく違反いはんするかあるいは過去かこ変更へんこうするという矛盾むじゅんこすことになるということである。したがって、ギネットおよびヴァン・インワーゲンの主張しゅちょうによれば、両立りょうりつ主義しゅぎしゃは、自分じぶんしんじていない能力のうりょく実在じつざいせいれているということになる。このような論証ろんしょうたいする反論はんろんのひとつは、能力のうりょくかんする観念かんねん必然ひつぜんせいかんする観念かんねんとはじつ等価とうかであるというものである。べつ反論はんろんによれば、自由じゆう意志いしおこなわれた選択せんたくこしたのだということは幻想げんそうであり、選択せんたくというものははじめから、その決定けっていしゃなどというものとは無関係むかんけいされるのだというものである[26]デイヴィド・ルイスによれば、両立りょうりつ主義しゅぎしゃれているのは、もし現実げんじつ過去かこにあったのとはことなる事情じじょうがあったならばなにかを別様べつようすことができたという能力のうりょくだけである[27]

リバタリアニズム

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両立りょうりつ主義しゅぎぞくするもうひとつのかんがかたは、(哲学てつがくてき)リバタリアニズムである。リバタリアンによれば、自由じゆう意志いし実在じつざいしており、あたえられた状況じょうきょうで、個人こじんが2つ以上いじょう行動こうどう自由じゆうえらぶことができることを要求ようきゅうする。決定けっていろんは、可能かのう未来みらいは1つしかないということを含意がんいしているので、自由じゆう意志いし概念がいねんとは両立りょうりつせず、あやまりでなければならない。

リバタリアニズムの観点かんてんは、ちょう自然しぜんてき理論りろん科学かがくてき自然しぜんてき理論りろんとに下位かい区分くぶんされる。ちょう自然しぜんてき理論りろんによれば、物理ぶつりてき知性ちせいないしこん物理ぶつりてき因果いんが関係かんけい克服こくふくし、その結果けっか行為こうい実行じっこうつながるのうない物理ぶつりてき事象じしょうには完全かんぜん物理ぶつりてき説明せつめいがつかない。このアプローチは、心身しんしん二元論にげんろん関連かんれんしており、神学しんがくてき動機どうきゆうしているかもしれない。

リバタリアニズムの科学かがくてき説明せつめいは、ときとして、しん宇宙うちゅう全体ぜんたい浸透しんとうしているとするひろししんろんいに[28]。もうひとつの自然しぜんてきなアプローチは、自由じゆう意志いしがこの宇宙うちゅう基礎きそてき構成こうせい要素ようそであることを要求ようきゅうしない。いわゆるランダムせいが、リバタリアンによって必要ひつよう不可欠ふかけつであるとしんじられている自由じゆう余地よち提供ていきょうするためにいにされる。自由じゆう決断けつだんは、決定けっていろん要素ようそむすいたあるしゅ複雑ふくざつ高次こうじのプロセスであるとみなされる。このようなアプローチのれいは、ロバート・ケインによって発展はってんさせられた。

視点してん

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実用じつようじょう有用ゆうよう概念がいねんとしての自由じゆう意志いし

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ウィリアム・ジェームズ見解けんかい両義りょうぎてきである。かれは「倫理りんりてき理由りゆう」にもとづいて自由じゆう意志いししんじるいっぽう、自由じゆう意志いし存在そんざいする科学かがくてき根拠こんきょにもとづいた証拠しょうこはないとかんがえ、また、自分じぶん自身じしん内観ないかん自由じゆう意志いし支持しじしない、とした[29]。さらに、ウィリアム・ジェームズは、人間にんげんかんする決定けっていろん道徳どうとくてき責任せきにん前提ぜんてい要件ようけんであるとしんじる理由りゆうで、両立りょうりつ主義しゅぎれなかった。かれ著書ちょしょ『プラグマティズム』において、形而上学けいじじょうがくてき理論りろん考慮こうりょせずに、つぎのようにいている。「直感ちょっかん効用こうようは、人々ひとびとあいだで、刑罰けいばつ報酬ほうしゅうかんする社会しゃかいてき任務にんむまっとうするにあたって、安心あんしんして信頼しんらいされるものである」[30]かれは、決定けっていろん救済きゅうさいかんするおしえとして重要じゅうようであるとしんじていた。このおしえは、世界せかいおおくのてんからわる状態じょうたいにあるにもかかわらず、個々人ここじん行為こういつうじて、よりよい状態じょうたいになりるという見方みかた許容きょようする。決定けっていろんは、かれろんじるところによれば、進歩しんぽ世界せかい改善かいぜんつながる現実げんじつてき概念がいねんであるというかんがえである進歩しんぽ主義しゅぎ破壊はかいしてしまう[30]

道徳どうとくてき責任せきにん

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通常つうじょう社会しゃかい通念つうねんでは、ひと自己じこ行為こうい責任せきにんっており、各人かくじんなにをするかにおうじて称賛しょうさん非難ひなんける。ところで、おおくのひとは、道徳どうとくてき責任せきにん自由じゆう意志いし前提ぜんていとするとしんじている。そこで、自由じゆう意志いしかんする論争ろんそうにおけるもうひとつの重要じゅうよう論点ろんてんは、ひと自己じこ行為こうい道徳どうとくてき責任せきにんうのか、そして、もしうとすればどのような意味いみうのかといういである。

かた決定けっていろん見解けんかい

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両立りょうりつ主義しゅぎは、決定けっていろん道徳どうとくてき責任せきにん相性あいしょうわるいとかんがえる傾向けいこうにある。ひとが、時間じかんながれのはじめから決定けっていされている(あるいは予見よけんされる潜在せんざいてき可能かのうせいがある)行為こういたいして責任せきにんうということは、不可能ふかのうおもわれる。かた決定けっていろんしゃは、「これほど自由じゆう意志いしにとって不利ふりなことはない」と主張しゅちょうし、決定けっていろん擁護ようごして、自由じゆう意志いし概念がいねん放棄ほうきする[31]著名ちょめい弁護士べんごしであるクラレンス・ダロウは、かれ依頼人いらいにんであるレオポルドとローブ無罪むざい主張しゅちょうするにあたって、このようなかた決定けっていろん観念かんねんいにした[32]

リバタリアンの見解けんかい

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反対はんたいに、リバタリアンは、「これほど決定けっていろんしゃにとって不利ふりなことはない」と主張しゅちょうする[33]ジャン=ポール・サルトルは、人々ひとびと時々ときどき決定けっていろんかくみのにしてゆうせめせいからのがれようとするとろんじる。「我々われわれつねに、この自由じゆうわたしたちにのしかかるとき、あるいは、わたしたちが免責めんせき必要ひつようとするとき、決定けっていろんという信念しんねんなかむ」[34]。リバタリアンは、決定けっていされていない行為こうい完全かんぜんにランダムなのではなく、その判断はんだんがまださだめられていない実体じったいてき意志いし由来ゆらいすると反論はんろんする。この議論ぎろんは、問題もんだい科学かがくてき問題もんだいから哲学てつがくてき問題もんだいうつすものの、どの形而上学けいじじょうがくてき主体しゅたい実際じっさい責任せきにんっているのかという問題もんだいがまだのこっているため、両立りょうりつ主義しゅぎしゃはこのような論証ろんしょう十分じゅうぶんであるとはかんがえないかもしれない。リバタリアンは、未決みけつ意志いしがどのようにして行為こうい主体性しゅたいせいむすくのかということをあきらかにするのに苦労くろうしてきた[35]

両立りょうりつ模索もさく

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道徳どうとくてき責任せきにんという論点ろんてんは、かた決定けっていろん両立りょうりつ主義しゅぎとの論争ろんそう中核ちゅうかくめている。かた決定けっていろんしゃは、個々人ここじん両立りょうりつ主義しゅぎてき意味いみにおける自由じゆう意志いしをしばしばっているということをれるようにせまられるが、しかし、かれらはこのような意味いみにおける自由じゆう意志いし道徳どうとくてき責任せきにん根拠こんきょになりうることを否定ひていする。行為こういしゃ選択せんたく強制きょうせいされていないという事実じじつは、かた決定けっていろんしゃ主張しゅちょうするところによれば、決定けっていろん行為こういしゃから責任せきにんうばうという事実じじつなんえない。

両立りょうりつ主義しゅぎしゃろんじるところによれば、反対はんたいに、決定けっていろん道徳どうとくてき責任せきにん前提ぜんてい条件じょうけんである。社会しゃかいは、あるひと行為こういなんらかのかたち決定けっていされていないかぎり、ひと責任せきにんわせることができない。このような論証ろんしょうは、デビッド・ヒュームにまでさかのぼることができる。もし決定けっていろんしんであるならば、決定けっていされていない事象じしょうはランダムだということになる。神経しんけいけいによってランダムにこされた行為こうい実行じっこうしたという理由りゆうで、あるひと賞賛しょうさんされたり非難ひなんされたりするのはおかしい。むしろ、ひとだれかに道徳どうとくてき責任せきにんわせるためには、その行為こういがそのひと欲求よっきゅうおよび選好せんこうすなわちそのひと固有こゆう性格せいかくからしょうじたということをあきらかにする必要ひつようがある[10]

さまざまな分野ぶんやでの「自由じゆう意志いし

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刑法けいほうがく

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自由じゆう意志いし道徳どうとくてき責任せきにんかんする議論ぎろんは、刑法けいほうがくにおいても論点ろんてんとなっている。刑法けいほうじょう責任せきにんは、ひと素因そいんてき環境かんきょうてき要因よういんによって制約せいやくされつつも制限せいげんされた範囲はんい自由じゆう意思いし決定けっていによって行為こういしうるとする相対そうたいてき非決定ひけっていろん前提ぜんていとして、自由じゆう意思いし自由じゆう意志いし)による行為こうい可能かのうせい構成こうせい要件ようけん該当がいとうする違法いほう行為こうい回避かいひできたこと)によって基礎きそづけられる道義どうぎてき責任せきにんであるという見解けんかい道義どうぎてき責任せきにんろん)が、戦後せんご刑法けいほうがくにおいては通説つうせつとなった(かつて有力ゆうりょくであった人格じんかくてき責任せきにんろん道義どうぎてき責任せきにん前提ぜんていとするものである)[36][37]伝統でんとうてき通説つうせつはこれを決定けっていろんから説明せつめいしていたが、近時きんじ有力ゆうりょく見解けんかいはこれを決定けっていろん(やわらかな決定けっていろん両立りょうりつ可能かのうろん)から説明せつめいする[38]。このような論争ろんそう継続けいぞくしているものの、分野ぶんやおなじく刑法けいほう通常つうじょう思考しこう能力のうりょくがある人間にんげん自由じゆう意志いしつことは自明じめいであるという想定そうていもとづいている。いいかえれば、刑法けいほう自由じゆう意志いしというたんなる仮説かせつ依存いぞんしているわけで、自由じゆう意志いし完全かんぜん否定ひていされた場合ばあい刑法けいほう理論りろん根本こんぽんてき崩壊ほうかいしてしまうという非常ひじょうあやうい状況じょうきょうにあるとえる。

自由じゆう意志いし神学しんがく

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人間にんげん行動こうどうする意味いみにおける自由じゆう意志いしは、アダムの全的ぜんてき堕落だらくこう存在そんざいするが、かみしたが自由じゆう意志いし堕落だらく以降いこううしなわれている。新生しんせいしたクリスチャンにのみ、かみかう自由じゆう意志いし存在そんざいする。この自由じゆう意志いしろんアウグスティヌスマルティン・ルタージャン・カルヴァンジョナサン・エドワーズ改革かいかく神学しんがく共有きょうゆうする[39]

聖書せいしょではかみさだめた道徳どうとくまもることで保護ほごされる法則ほうそくつ。(イザヤ 48:17) あなたをすくほう,イスラエルのせいなるほうはこうう。「あなたのためになるかたおしえ, あなたをみちびいてただしいみちあゆませる。」 にんはアダムからいだ不完全ふかんぜんさによる堕落だらく原因げんいん間違まちがい、道徳どうとくからそれる傾向けいこうしめ秩序ちつじょみだして自滅じめつつながる決定けっていをするのである。 道徳どうとくまもれば、社会しゃかい秩序ちつじょ安定あんていしあわせにらせるという法則ほうそくいだせるので、道徳どうとく自然しぜん法則ほうそくおなじく因果いんがてき決定けっていされているという事実じじつみちびかれる。

くわえて、絶対ぜったい自由じゆうがあるのは創造そうぞうしゃかみのみとされる。(啓示けいじ4:11) すべせい宇宙うちゅうにも法則ほうそくがあり、生物せいぶつはDNAにまれる本能ほんのうしたがい、かみようつくられた人間にんげん自由じゆう意志いしからかみ道徳どうとく基準きじゅんしたがう、みな宇宙うちゅう一部いちぶとして制限せいげんされる。

定説ていせつ 人間にんげん自由じゆう意志いしあたえたかみは、当然とうぜんじん自由じゆう意志いし尊重そんちょう全能ぜんのうしゃとして知力ちりょくをコントロールされる。(さる30:19,20)かみ目的もくてきかかわることであれば、意図いとてき知力ちりょく行使こうしし、将来しょうらいきることを預言よげんしたり目的もくてき達成たっせいされるのである。そうでないと全能ぜんのうしゃなるかみとはえない。(イザヤ43:12,13)

ただかみひとしんめるためひと傾向けいこうからしょうじる結果けっからせることができるのであって自由じゆう意志いし無視むしすることではない。(創世そうせい4:4-7) このようなかみあいからご自分じぶん自由じゆう意志いし行使こうしされ、人間にんげんただしい自由じゆう意志いしもちかたとして人類じんるいしめされている。(創世そうせい1:26,マタイ22:37-39)

自由じゆう意志いし科学かがく

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物理ぶつりがく

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一般いっぱんてきに、「意志いしのうはたらき」であり、かつ、「のう物理ぶつり法則ほうそくしたがう」ならば自由じゆう意志いしはないとかんがえるのが適当てきとうである。ぎゃく自由じゆう意志いしがあるのであれば、これらの一方いっぽうか、両方りょうほう否定ひていされなければならない。

初期しょき科学かがく思想家しそうかのうち、あるもの決定けっていろんてきなものとして宇宙うちゅうえがき、またあるもの完全かんぜん正確せいかく未来みらい出来事できごと予言よげんするには、充分じゅうぶん情報じょうほうあつめさえすればいいとかんがえた。古典こてん物理ぶつりがく決定けっていろんてき理論りろんであり、初期しょき条件じょうけんまれば未来みらい一意いちい決定けっていされる。しかし量子力学りょうしりきがく標準ひょうじゅんてきコペンハーゲン解釈かいしゃくは、結果けっかかくりつてきあたえられる非決定ひけっていろんである。とはいえ量子りょうしろん決定けっていせいは、ひと行動こうどうふく世界せかい物理ぶつり法則ほうそくしたがってランダムにまるということであり、これは通常つうじょう意味いみでの自由じゆう意志いしにはつながらない。ただし少数しょうすうではあるが、のうない量子りょうし効果こうかひと意志いしむすびつけることで自由じゆう意志いし確保かくほしようとする論者ろんしゃもいる(量子りょうしのう理論りろん[40]量子力学りょうしりきがくほか解釈かいしゃくには決定けっていろんてきなものもあり、たとえば世界せかい解釈かいしゃくは、初期しょき状態じょうたいあたえられれば分岐ぶんきするかく世界せかい状態じょうたい一意いちいまる決定けっていろんである。

決定けっていろんひと意識いしきむすびつけるのに相性あいしょうがよいのは随伴ずいはん現象げんしょうせつであり、これは「物質ぶっしつ相互そうご作用さようから意識いしきまれ、意識いしき物質ぶっしつたいしてなん因果いんがてき作用さようももたらさない」とするかんがえである。

生物せいぶつがく

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物理ぶつり学者がくしゃ同様どうように、生物せいぶつ学者がくしゃもまた自由じゆう意志いし問題もんだい頻繁ひんぱん提起ていきしてきた。

生物せいぶつがくもっと白熱はくねつした議論ぎろんひとつが「そだ」(nature and nurture, 本性ほんしょう教育きょういく)の議論ぎろんである。人間にんげんてき行為こういにおいて文化ぶんか環境かんきょう比較ひかくして、遺伝いでんがく生物せいぶつがくはどれほど重要じゅうようであるか?遺伝いでんがくてき研究けんきゅうは、ダウン症候群しょうこうぐんのような明白めいはく場合ばあいから統合とうごう失調しっちょうしょうになる統計とうけいがくてき傾向けいこうのようなより微妙びみょう影響えいきょうまで、個人こじん性格せいかく影響えいきょうあたえるおおくの特殊とくしゅ遺伝いでんてき要因よういん見極みきわめた。

かつてはそだちかという二者択一にしゃたくいつてき議論ぎろんがなされ,社会しゃかい学者がくしゃおも後者こうしゃ立場たちばから前者ぜんしゃ立場たちば生物せいぶつがくてき決定けっていろんとして非難ひなんした(といってもそだ理論りろんもつきつめれば決定けっていろんなのだが)。しかし,現在げんざい生物せいぶつ学者がくしゃ一般いっぱんてき合意ごういは、そだちの両方りょうほうによってひと形成けいせいされているのであり,さまざまな行為こういのそれぞれについて遺伝いでん影響えいきょう環境かんきょう影響えいきょう複雑ふくざつからっているということである。

のう科学かがく神経しんけい科学かがく

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運動うんどう準備じゅんび電位でんい観測かんそくれい被験者ひけんしゃ動作どうさ決定けってい意識いしきするより(ちゅうの 0 sec の時点じてん)おおよそ1/3びょうほどまえから、関連かんれんするのう活動かつどうによる電位でんい変化へんか計測けいそくされる。

現在げんざいではきたままののう研究けんきゅうすることが可能かのうになってきており、「意思いし決定けっていの『機構きこう』」(the decision-making "machinery") がはたらいているさま観察かんさつすることができる。

この領域りょういきにおける重要じゅうよう実験じっけん1980年代ねんだいベンジャミン・リベットによっておこなわれた[41]任意にんい時間じかん被験者ひけんしゃ手首てくびげてもらい、それと関連かんれんするのう活動かつどう観察かんさつする実験じっけんである(このとき、準備じゅんび電位でんい(readiness potential)とばれる電気でんき信号しんごうがる)。準備じゅんび電位でんい身体しんたいうごきに先行せんこうするのう活動かつどうとしてよくられていたが、行動こうどう意図いとかんじることと準備じゅんび電位でんい一致いっちするかどうかはわかっておらず、Libetはこのてん探求たんきゅうした。行動こうどう意図いと被験者ひけんしゃにいつまれるかを決定けっていするために、時計とけいはりつづけてもらって、うごかそうとする意識いしきてき意図いとかんじたときの時計とけいはり位置いち報告ほうこくしてもらった。

Libet は、被験者ひけんしゃのう活動かつどうが、意識いしきてき動作どうさ決定けっていするおおよそ1/3びょうまえ開始かいししたことを発見はっけんした。これは、実際じっさい決定けっていがまず潜在せんざい意識いしきでなされており、それから意識いしきてき決定けっていへと翻訳ほんやくされていることを暗示あんじしている。

のちに Dr. Alvaro Pascual-Leone によっておこなわれた関連かんれん実験じっけんでは、うごかすをランダムにえらばせた。ここでは、磁場じばもちいてのうことなる半球はんきゅう刺激しげきすることによって被験者ひけんしゃのどちらかのつよ影響えいきょうおよぼしうることを発見はっけんした。たとえば、標準ひょうじゅんてきみぎきのひと実験じっけん期間きかんの60%のあいだ右手みぎてうごかすことをえらぶ、しかし右脳うのう刺激しげきされているあいだ実験じっけん期間きかんの80%のあいだ左手ひだりてえらんだとされる(右脳うのうからだひだり半身はんしんを、左脳さのうみぎ半身はんしん統括とうかつしていることが想起そうきされる)。

この場合ばあいうごかした選択せんたく外的がいてき影響えいきょう磁場じばもちいたのうたいする刺激しげき)がくわえられていたにもかかわらず、被験者ひけんしゃは「選択せんたくが(外的がいてき影響えいきょうとは独立どくりつに)自由じゆうになされたことを確信かくしんしている」と報告ほうこくしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  3. ^ a b トーマス・ピンク 『哲学てつがくがわかる 自由じゆう意志いし岩波書店いわなみしょてん、2017ねん、p174
  4. ^ 木島きしま泰三たいぞう自由じゆう意志いしこうがわ 決定けっていろんをめぐる哲学てつがく講談社こうだんしゃ、2020ねん、p16
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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