(Translated by https://www.hiragana.jp/)
コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia コンテンツにスキップ

コウモリであるとはどのようなことか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
コウモリであるとはどのようなことか?

コウモリであるとはどのようなことか」(えい:What is it like to be a bat?)は、アメリカの哲学てつがくしゃトマス・ネーゲル1974ねん発表はっぴょうした哲学てつがく論文ろんぶん、およびどう論文ろんぶん収録しゅうろくした書籍しょせきである。

ネーゲルはこの論文ろんぶんで「コウモリであるとはどのようなことであるか」をうている。コウモリがどのような主観しゅかんてき体験たいけんっているのか=「コウモリであるとはどのようなことか」という問題もんだいは、コウモリの生態せいたい神経しんけいけい構造こうぞう調査ちょうさするといった客観きゃっかんてき物理ぶつり主義しゅぎてき方法ほうほうろんではたどりくことができない事実じじつであり、意識いしき主観しゅかんてき性質せいしつは、科学かがくてき客観きゃっかんせいなかには還元かんげんすることができない問題もんだいであると主張しゅちょうした。

この論文ろんぶんは、心身しんしん問題もんだい中心ちゅうしん意識いしき主観しゅかんてき側面そくめん意識いしき現象げんしょうてき側面そくめん)にあることをべた有名ゆうめい論文ろんぶんであり、表題ひょうだいいは、よくられたい、または思考しこう実験じっけんのひとつとして、現代げんだいしん哲学てつがくしゃたちのあいだでしばしば議論ぎろんのぼる。

クオリアにもつながるいである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

このいにかんするひとつの留意りゅういてんは、ネーゲルがうているのは「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」というてんである。つまり、このいは人間にんげんが、たとえばあなたが、人間にんげんとしてののう人間にんげん思考しこう回路かいろ本能ほんのう)だけをたもったまま、コウモリのからだて、コウモリのらしりをした場合ばあいにどうかんじるか、をうているのではない。

もし、あなたが人間にんげんとしてののうだけをたもったまま、コウモリのからだでもってコウモリの生活せいかつをしてみたのなら「そらぶことはこわい。けれどちょっぴりたのしい」とか、「昆虫こんちゅうべるだなんて気持きもちがわるい。でもべなきゃんじゃう」とか、「洞窟どうくつ天井てんじょうにぶらがってねむるなんてへんねむかただ。っこちないかな」などとおもいたることだろう。しかし、ネーゲルがうているのは、ひとがコウモリになった場合ばあい感情かんじょう印象いんしょう世界せかいとらかたということではなく「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」である。つまり、コウモリのからだとコウモリののうった生物せいぶつが、どのように世界せかいかんじているのか、である。

コウモリは反射はんしゃしたちょう音波おんぱってえさかべ把握はあくする

コウモリの特質とくしつから、コウモリはくちからちょう音波おんぱはっし、その反響はんきょうおんをもとに周囲しゅうい状態じょうたい把握はあくしている(反響はんきょう定位ていい)。コウモリは、この反響はんきょうおんをいったい「える」ようにしてかんるのか、それとも「こえる」ようにしてかんるのか、またはまったちがったふうにかんじているのか(ひょっとするとなにひとつかんじていないかもれない)。ネーゲルがうているのは、こうしたコウモリ自身じしん主観しゅかんてき経験けいけんである。このようにコウモリのかんかた、といったことをうこと自体じたい容易よういにして可能かのうではある。しかし結局けっきょくのところ我々われわれはそのこたえ「コウモリであるとはどのようなことか」をじゅつってはいない、とネーゲルはう。

ネーゲルが対象たいしょうとする動物どうぶつとしてコウモリえらんだのには、コウモリが哺乳類ほにゅうるいぞくしており、系統けいとうじゅなかである程度ていど人間にんげんちか位置いちにある生物せいぶつであること。とはいえ同時どうじに、つばさがあったりちょう音波おんぱ周囲しゅうい状況じょうきょう把握はあくしたりと、運動うんどう器官きかん感覚かんかく器官きかんかんして人間にんげんとは距離きょりのある生物せいぶつであるため、としている。つまりあまり人間にんげんちか生物せいぶつだと問題もんだいあざやかにしめすのがむずかしく、かといってこれ以上いじょう系統けいとうじゅくだってすすんでいく(たとえばハチアリまでくと)、そもそもそこに意識いしき体験たいけんがあるのかどうか疑念ぎねんてくるという難点なんてんがある。そこでコウモリという中間ちゅうかんてき距離きょり生物せいぶつえらんだ、としている。

この論文ろんぶんった重要じゅうよう影響えいきょうひとつとしては、意識いしき主観性しゅかんせい定義ていぎとして「…であるとはどのようなことか(What is it like to be ...)」という表現ひょうげんもちいた方法ほうほう有名ゆうめいにしたことがある。以下いか論文ろんぶん序盤じょばんでネーゲルが主観しゅかんてき意識いしき体験たいけんとして意識いしき定義ていぎしている部分ぶぶん文章ぶんしょうである。

おそらく意識いしき体験たいけんは、宇宙うちゅう全体ぜんたいにわたって太陽系たいようけいほか諸々もろもろ惑星わくせいじょうに、われわれにはまったく想像そうぞうもつかないような無数むすう形態けいたいをとってしょうじているのである。しかし、その形態けいたいがどれほど多様たようであろうとも、ある生物せいぶつおよそ意識いしき体験たいけんつという事実じじつ意味いみ一定いっていであり、それは根本こんぽんてきには、その生物せいぶつであることはそのようにあることであるようなそのなにかが存在そんざいする、という意味いみなのである。意識いしき体験たいけんという形態けいたいには、これ以上いじょう意味いみふくまれているかもしれない。生物せいぶつ行動こうどうかんする意味いみさえ(わたしにはうたがわしくおもわれるのだが)ふくまれているかもしれない。 しかし根本こんぽんてきには、ある生物せいぶつ意識いしきをともなうしんてきしょ状態じょうたいをもつのは、その生物せいぶつであることはそのようにあることであるようなそのなにかが―しかもその生物せいぶつにとってそのようにあることであるようなそのなにかが―存在そんざいしている場合ばあいであり、またその場合ばあいだけなのである。 — トマス・ネーゲル 「コウモリであるとはどのようなことか」(1974ねん) / 永井ながいひとしわけ (1989ねん、p.260)

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけんとしては下記かき書籍しょせき参照さんしょう

  • Nagel, Thomas. "The View from Nowhere", Oxford University Press, (1986) ISBN 0195056442 / 邦訳ほうやく: トマス・ネーゲルちょ, 中村なかむらのぼる山田やまだみやびだい岡山おかやま敬二けいじ齋藤さいとうむべこれ新海しんかい太郎たろう鈴木すずきたもつはや やく、『どこでもないところからのながめ』、春秋しゅんじゅうしゃ、2009ねんISBN 9784393329047

文献ぶんけん情報じょうほう[編集へんしゅう]

ネーゲルの論文ろんぶん1974ねんに The Philosophical Review 発表はっぴょうされた。その、1979ねん出版しゅっぱんされたネーゲルの論文ろんぶんしゅう "Mortal Questions" のだい12しょう収録しゅうろくされる。1989ねんには永井ながいひとしによって邦訳ほうやくされ、『コウモリであるとはどのようなことか』という書籍しょせきめい出版しゅっぱんされる。英語えいご論文ろんぶん自体じたいはオンライン・ペーパーとしてネットじょう閲覧えつらんできる。

「コウモリであるとはどのようなことか」という論文ろんぶんは、ほんの15ページほどの簡潔かんけつ構成こうせいであり、ネーゲルの思考しこう内容ないようは、その概要がいようがごく簡素かんそしめされているのみである。ネーゲルの主観性しゅかんせい問題もんだいかんする詳細しょうさい思考しこう内容ないようは、1986ねん出版しゅっぱんされた "The View from Nowhere" (邦訳ほうやく:『どこでもないところからのながめ』)にてべられている。200ページをえるこの書籍しょせきは、「中心ちゅうしんたないどこからのながめでもない視点してん」である客観きゃっかんと、「いま・ここからの視点してん」である主観しゅかんとのあいだ葛藤かっとうあつかっており、そのなかで「であるとはどのようなことか」という題目だいもくが、この書籍しょせきなかでは「あたまなかのこと」という表現ひょうげん換言かんげんされている。ネーゲルが「コウモリであるとはどのようなことか」について、どういうこといたかったのかを考察こうさつすることができる。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]