ジェリー・アラン・フォーダー (英語 えいご : Jerry Alan Fodor 、1935年 ねん - 2017年 ねん 11月29日 にち [1] )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の哲学 てつがく 者 しゃ であり認識 にんしき 科学 かがく 者 しゃ であり、現在 げんざい 、ニュージャージー州 しゅう のラトガーズ大学 だいがく で教鞭 きょうべん をとっている。心 しん の哲学 てつがく と認知 にんち 科学 かがく の分野 ぶんや で多 おお くの著作 ちょさく があり、心 しん のモジュール性 せい や思考 しこう の言語 げんご 仮説 かせつ など、これら分野 ぶんや の基礎 きそ を築 きず いた研究 けんきゅう 者 しゃ である。
フォーダーは、心 しん 的 てき 状態 じょうたい (例 たと えば信念 しんねん と欲求 よっきゅう )は個体 こたい と心的 しんてき 表象 ひょうしょう との関係 かんけい である、と主張 しゅちょう する。彼 かれ によれば、これら心的 しんてき 表象 ひょうしょう こそが、心 しん の中 なか で思考 しこう の言語 げんご (Language of Thought : LOT)によって正 ただ しく説明 せつめい できる唯一 ゆいいつ のものである。さらに、この思考 しこう 言語 げんご はそれ自身 じしん 、有用 ゆうよう な説明 せつめい のツールであるだけでなく、脳 のう の中 なか で実際 じっさい に体系 たいけい 化 か されて存在 そんざい しているものである。フォーダーは、思考 しこう と他 た の心的 しんてき なプロセスが、表象 ひょうしょう の文法 ぶんぽう に基 もと づき行 おこな われる計算 けいさん からうまれると主張 しゅちょう して(この計算 けいさん が思考 しこう の言語 げんご を作 つく り上 あ げるのであるが)、一種 いっしゅ の機能 きのう 主義 しゅぎ 者 しゃ である一線 いっせん を守 まも ろうとする。
フォーダーにとって、心 こころ (例 たと えば知覚 ちかく 的 てき プロセスや言語 げんご プロセス)の主要 しゅよう な部分 ぶぶん は、モジュール または「器官 きかん 」として構築 こうちく される。そして、モジュール/「器官 きかん 」は、それらが果 は たす機能 きのう 的 てき な役割 やくわり によって定義 ていぎ される。これらのモジュールは心 しん の「主要 しゅよう な処理 しょり 」の一部 いちぶ であり、互 たが いに比較的 ひかくてき 独立 どくりつ している。そして、モジュールは、より広域 こういき 的 てき であったり、より限定 げんてい 的 てき であったりする「領域 りょういき 特定 とくてい 性 せい 」という特徴 とくちょう をもつ。フォーダーが提示 ていじ するのは次 つぎ のことである:これらのモジュールがもつ性質 せいしつ のおかげで、外的 がいてき 対象 たいしょう とも因果 いんが 関係 かんけい が成立 せいりつ することが可能 かのう になり、このことが、心 しん 的 てき 状態 じょうたい が世界 せかい の事象 じしょう に関係 かんけい した内容 ないよう を持 も つことを可能 かのう にする。一方 いっぽう で、中央 ちゅうおう の処理 しょり 部分 ぶぶん は、様々 さまざま な内容 ないよう の入力 にゅうりょく と出力 しゅつりょく の間 あいだ の論理 ろんり 的 てき な関係 かんけい を担当 たんとう する。
フォーダーは当初 とうしょ 、心 しん 的 てき 状態 じょうたい が外部 がいぶ の事象 じしょう によって因果 いんが 的 てき に決定 けってい されるという考 かんが えを否定 ひてい していたが、近年 きんねん は、心 しん 的 てき 内容 ないよう に関 かん する意味 いみ と指示 しじ の問題 もんだい のために、言語 げんご 哲学 てつがく について多 おお くの論文 ろんぶん を書 か き研究 けんきゅう を行 おこな っている。この領域 りょういき で彼 かれ は、非対称 ひたいしょう 的 てき な指示 しじ の因果 いんが 説 せつ について論 ろん じ、またクワイン らが主張 しゅちょう する意味 いみ の全体 ぜんたい 論 ろん を否定 ひてい する多 おお くの議論 ぎろん を行 おこな った。フォーダーは、心 しん の還元 かんげん 主義 しゅぎ 的 てき な説明 せつめい に強 つよ く反対 はんたい する。彼 かれ は、心 しん 的 てき 状態 じょうたい が多重 たじゅう 実現 じつげん 可能 かのう であり、説明 せつめい のレベルにおいて階層 かいそう 構造 こうぞう (ヒエラルキー)が存在 そんざい すると主張 しゅちょう する。たとえば心理 しんり 学 がく や言語 げんご 学 がく などの高次 こうじ の理論 りろん の一般 いっぱん 化 か および法則 ほうそく は、ニューロン やシナプス の振 ふ る舞 ま いといった低 てい 次 つぎ の説明 せつめい によっては捕 と らえることができないものである、と。
ジェリー・フォーダーは1935年 ねん ニューヨーク市 し に生 う まれた。彼 かれ は今 いま もその町 まち で妻 つま と愛 あい 猫 ねこ とともに暮 く らし続 つづ けている。彼 かれ は二 に 人 にん の子 こ を育 そだ てた。1956年 ねん コロンビア大学 ころんびあだいがく から首席 しゅせき で学位 がくい を得 え た。ヒラリー・パトナム の指導 しどう の下 した 、1960年 ねん にはプリンストン大学 ぷりんすとんだいがく から哲学 てつがく の博士 はかせ 号 ごう を授 さづ けた。1959年 ねん から1986年 ねん までの間 あいだ 、フォーダーはマサチュ まさちゅ ーセッツ工科大学 せっつこうかだいがく で教員 きょういん だった。1986年 ねん から1988年 ねん まで、ニューヨーク市立 しりつ 大学 だいがく の正 せい 教授 きょうじゅ をつとめた。1988年 ねん からはラトガース大学 だいがく の哲学 てつがく と認知 にんち 科学 かがく のニュージャージー教授 きょうじゅ 職 しょく にある。[2] 哲学 てつがく 以外 いがい では、フォーダーはオペラの熱烈 ねつれつ な愛好 あいこう 家 か であり、ロンドン・レビュー・オブ・ブックス でオペラについての連載 れんさい コラムを持 も つほどである。
ラトガースで最 もっと も有名 ゆうめい なフォーダーの元 もと 同僚 どうりょう のひとりに、新 しん 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ の哲学 てつがく 者 しゃ コリン・マッギン がいる。マッギンはフォダーについて次 つぎ のように書 か いている。
"(フォーダーは)無骨 ぶこつ で大柄 おおがら の体 からだ の中 なか にやさしさを持 も った男 おとこ だ。議論 ぎろん の仕方 しかた さえ無骨 ぶこつ になりがちだが。彼 かれ の中 なか には内気 うちき と多弁 たべん が同居 どうきょ している・・・傷 きず つきやすい魂 たましい を抱 かか えながらも周囲 しゅうい を恐 おそ れさせる論客 ろんかく だ・・・ジェリーと哲学 てつがく の問題 もんだい で意見 いけん が異 こと なると、特 とく にそれがジェリーにとって大切 たいせつ な事柄 ことがら だと、苦 くる しみはあるが彼 かれ を鍛 きた える経験 けいけん となるだろう・・・朝 あさ 一 いち 杯 はい のコーヒーを飲 の む前 まえ から、彼 かれ の精神 せいしん のすばやさ、創造 そうぞう 性 せい 、鋭 するど いウィットのせいで紛糾 ふんきゅう することはない。ジェリー・フォーダーをラトガースの教授 きょうじゅ にすることは、すぐさま彼 かれ を有名 ゆうめい にした。フォーダーは今日 きょう 、心 しん の哲学 てつがく の世界 せかい 的 てき なリーダーであることに異議 いぎ を唱 とな えるものはあるまい。私 わたし は1970年代 ねんだい にイギリスで彼 かれ と出会 であ い・・・その知的 ちてき な会話 かいわ から彼 かれ が本物 ほんもの だとわかった(もっとも我々 われわれ はいつも意見 いけん が一致 いっち するという訳 わけ ではないが)"。[3]
フォーダーは名誉 めいよ あるソサエティ「ファイベータカッパ 」のメンバーであり、またアメリカ芸術 げいじゅつ 科学 かがく アカデミー のメンバーである。彼 かれ は数 すう 多 おお くの賞 しょう や表彰 ひょうしょう を受 う けている:ニューヨーク州 しゅう レージェント・フェロー、ウッドロウ・ウィルソン・フェロー(プリンストン大学 ぷりんすとんだいがく )、チャンセラー・グリーン・フェロー(プリンストン大学 ぷりんすとんだいがく )、フルブライト・フェロー (オックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく )、行動 こうどう 科学 かがく 高等 こうとう 研究 けんきゅう センター のフェロー、グッケンハイム・フェロー 。[4]
心 しん 的 てき 状態 じょうたい の本性 ほんしょう [ 編集 へんしゅう ]
『命題 めいだい 的 てき 態度 たいど 』(1978年 ねん )という著作 ちょさく で、フォーダーは、心 しん 的 てき 状態 じょうたい (mental states)とは、個体 こたい と心的 しんてき 表象 ひょうしょう (mental representations)との関係 かんけい である、という鍵 かぎ になるアイデアを導入 どうにゅう した。長 なが い間 あいだ に彼 かれ の立場 たちば は多 おお く部分 ぶぶん で変化 へんか したにもかかわらず、志向 しこう 性 せい とは関係 かんけい であるというアイデアは、元 もと になった定式 ていしき 化 か から現在 げんざい に至 いた るまで変化 へんか していない。[5]
この本 ほん でのフォーダーの課題 かだい は、心 しん 的 てき 状態 じょうたい のもつ「関係 かんけい 的 てき 」という本性 ほんしょう を説明 せつめい するためには心的 しんてき 表象 ひょうしょう (とりわけ、思考 しこう の言語 げんご における文 ぶん )が必要 ひつよう だということを示 しめ すことにあった。フォーダーはその他 た の説明 せつめい 仮説 かせつ として二 ふた つの代案 だいあん を提示 ていじ する。一 ひと つ目 め は心的 しんてき 状態 じょうたい が関係 かんけい 的 てき 性格 せいかく を持 も つということを完全 かんぜん に否定 ひてい する仮説 かせつ 。二 ふた つ目 め は心的 しんてき 状態 じょうたい を二 に 項 こう 関係 かんけい と考 かんが える仮説 かせつ 。後者 こうしゃ はこの関係 かんけい を何 なん の間 あいだ の関係 かんけい と見 み るかによってさらに分割 ぶんかつ される。つまり、個体 こたい と自然 しぜん 言語 げんご の文 ぶん との間 あいだ の関係 かんけい だと見 み るカルナップ 的 てき 見解 けんかい [6] [7] [8] と、個体 こたい と自然 しぜん 言語 げんご の文 ぶん によって表現 ひょうげん される命題 めいだい との間 あいだ の関係 かんけい だと見 み るフレーゲ 的 てき 見解 けんかい [9] である。
これらに対 たい してフォーダー自身 じしん の見解 けんかい は、思考 しこう 的 てき 態度 たいど の本性 ほんしょう を適切 てきせつ に説明 せつめい するためには三 さん 項 こう 関係 かんけい を用 もち いることが必要 ひつよう だというもの。つまり個体 こたい 、表象 ひょうしょう 、命題 めいだい 的 てき 内容 ないよう の三 さん 項 こう である。[5]
こういった三 さん 項 こう 関係 かんけい に対 たい する精神 せいしん 状態 じょうたい を考慮 こうりょ することで、典型 てんけい 的 てき な実在 じつざい 論 ろん によって、この問題 もんだい を解決 かいけつ するために重要 じゅうよう な要素 ようそ をすべてまとめておくことが可能 かのう になる。さらに、心的 しんてき 表象 ひょうしょう は単 たん に信念 しんねん や欲望 よくぼう の対象 たいしょう であるだけではなく、そこで心 しん 的 てき プロセスが働 はたら く領域 りょういき でもある。心的 しんてき 表象 ひょうしょう は心 しん の内容 ないよう の統語 とうご 的 てき 観念 かんねん と機能 きのう 的 てき 構造 こうぞう の計算 けいさん 機 き 的 てき 観念 かんねん との理想 りそう 的 てき な連合 れんごう である。これらの観念 かんねん は、フォーダーによれば、心 しん 的 てき プロセスの説明 せつめい としては最良 さいりょう のものである[5] 。
心 しん の機能 きのう 的 てき 構造 こうぞう 物 ぶつ [ 編集 へんしゅう ]
心 しん のモジュール性 せい の概念 がいねん の先駆 せんく 者 しゃ として、19世紀 せいき にフランツ・ガル が創始 そうし した骨相 こっそう 学 がく の運動 うんどう がある。
言語 げんご 学者 がくしゃ のノーム・チョムスキー の開拓 かいたく した道 みち を辿 たど り、フォーダーは生得 しょうとく 論 ろん に強 つよ く傾倒 けいとう した[10] 。生得 しょうとく 論 ろん は多 おお くの認知 にんち 機能 きのう ・認知 にんち 的 てき な構想 こうそう を先天的 せんてんてき なものであると前提 ぜんてい する。フォーダーにとって、この立場 たちば は行動 こうどう 主義 しゅぎ および連合 れんごう 主義 しゅぎ に対 たい する彼 かれ 自身 じしん の批判 ひはん から自然 しぜん と浮 う かび上 あ がるものである。その批判 ひはん を端緒 たんしょ として彼 かれ は、自身 じしん が暗黙 あんもく に前提 ぜんてい としていた心 しん のモジュール性 せい を定式 ていしき 化 か してもいる。
歴史 れきし 的 てき に、精神 せいしん 構造 こうぞう に関 かん する問 と いは昨日 きのう の本質 ほんしつ に関 かん して二 ふた つの対照 たいしょう 的 てき な理論 りろん に分割 ぶんかつ されてきた[誰 だれ によって? ] 。その理論 りろん のうち一方 いっぽう は「水平 すいへい 的 てき 」観点 かんてん と言 い われるもので、その呼称 こしょう は心的 しんてき プロセスを、領域 りょういき 特異 とくい 的 てき でない機能 きのう の相互 そうご 作用 さよう と見 み なすことに由来 ゆらい する。例 たと えば、判断 はんだん は、それが知覚 ちかく 的 てき 感覚 かんかく についての判断 はんだん であろうと言語 げんご の理解 りかい についての判断 はんだん であろうと判断 はんだん である。理論 りろん のうちもう一方 いっぽう は「垂直 すいちょく 的 てき 」観点 かんてん と言 い われるもので、その呼称 こしょう は人 ひと の心的 しんてき 機能 きのう が領域 りょういき 特異 とくい 的 てき で、遺伝 いでん 的 てき に決定 けってい されていて、神経 しんけい 構造 こうぞう と特異 とくい 的 てき に結 むす びついていて、などなどと主張 しゅちょう することに由来 ゆらい する。[10]
垂直 すいちょく 的 てき 観点 かんてん は19世紀 せいき の骨相 こっそう 学 がく と呼 よ ばれる運動 うんどう およびその創始 そうし 者 しゃ のフランツ・ヨーゼフ・ガル にまで遡 さかのぼ る。ガルは、心的 しんてき 機能 きのう は物理 ぶつり 的 てき な脳 のう 内 ない の領域 りょういき と特異 とくい 的 てき に結 むす び付 つ けられると主張 しゅちょう した[誰 だれ によって? ] 。このゆえに、例 たと えばある人物 じんぶつ の知性 ちせい の水準 すいじゅん は頭頂 とうちょう 葉 は 後部 こうぶ のある特定 とくてい の隆起 りゅうき の大 おお きさから、誇張 こちょう なしに「読 よ み上 あ げ」ることができることになる[11] 。この、モジュール性 せい の過度 かど に単純 たんじゅん 化 か された見方 みかた は、20世紀 せいき 中 ちゅう を通 つう じて反証 はんしょう されてきた[誰 だれ によって? ] 。
フォーダーは、1980年代 ねんだい にまさにその物理 ぶつり 的 てき 特異 とくい 性 せい の考 かんが えなしにモジュール性 せい の考 かんが えを復活 ふっかつ させ、1983年 ねん にモノグラフ『心 しん のモジュール性 せい 』[11] を発表 はっぴょう するとともに最 もっと も能弁 のうべん にモジュール性 せい を提唱 ていしょう するものとなった。特 とく にモジュール性 せい の二 ふた つの特質 とくしつ 、つまり情報 じょうほう の被 ひ 包 つつみ 性 せい 及 およ び領域 りょういき 特異 とくい 性 せい によって、機能 きのう の構造 こうぞう の問題 もんだい とその心 しん 的 てき 内容 ないよう を結 むす びつけることが可能 かのう になった。こういった二 ふた つの特質 とくしつ によって可能 かのう となる個人 こじん の背景 はいけい となる信念 しんねん とは独立 どくりつ に情報 じょうほう を作 つく り上 あ げる能力 のうりょく によって、フォーダーは心的 しんてき 内容 ないよう と言 い う考 かんが えの原子 げんし 論 ろん 的 てき な原因 げんいん の説明 せつめい をできるようになった。主 おも な考 かんが えは、い換 いか えれば、精神 せいしん 状態 じょうたい の内容 ないよう の特性 とくせい は、排他 はいた 的 てき にそれらがその一部分 いちぶぶん であるようなシステムの内的 ないてき 関係 かんけい にのみ依存 いぞん するというよりむしろ外的 がいてき 世界 せかい との原因 げんいん の関係 かんけい にも依存 いぞん する。[11]
フォーダーの心 しん 的 てき モジュール性 せい 、情報 じょうほう の被 ひ 包 つつみ 性 せい 、領域 りょういき 特異 とくい 性 せい といった考 かんが えは、フォーダーを悔 くや しがらせたことではあるが、ゼノン・ピリジン のような認知 にんち 科学 かがく 者 もの やスティーヴン・ピンカー 及 およ びヘンリー・プロトキン といった進化 しんか 心理 しんり 学 がく 者 もの などによって取 と り上 あ げられ、発展 はってん させられてきた[12] [13] [14] 。しかしフォーダーは、ピンカー、プロトキン、その他 た 彼 かれ が皮肉 ひにく を込 こ めて「新 しん 統語 とうご 派 は 」と呼 よ ぶ人々 ひとびと がモジュール性 せい や類似 るいじ の考 かんが えを本来 ほんらい のものから外 はず れた使 つか い方 かた をしていると不満 ふまん を表 あらわ している。彼 かれ は、心 しん は「大 だい 規模 きぼ にモジュール的 てき 」なのではなく、これらの研究 けんきゅう 者 しゃ が信 しん じているのとは違 ちが って、心 しん は計算 けいさん 機 き 的 てき に、あるいはその他 た のモデルで説明 せつめい するにはまだ長 なが い時間 じかん を必要 ひつよう としていると主張 しゅちょう している。[15]
志向 しこう の実在 じつざい 論 ろん (intentional realism)[ 編集 へんしゅう ]
『内容 ないよう の理論 りろん とその他 た の試論 しろん (A Theory of Content and Other Essays)』(1990年 ねん )でフォーダーは彼 かれ のもう一 ひと つの中心 ちゅうしん 的 てき な考 かんが えを取 と り上 あ げている。心的 しんてき 表象 ひょうしょう の実在 じつざい 性 せい の問題 もんだい である[16] 。フォーダーは、LOTのそれのように象徴 しょうちょう 的 てき 構造 こうぞう によって説明 せつめい されるという考 かんが えを正当 せいとう 化 か することで精神 せいしん 状態 じょうたい の内容 ないよう 物 ぶつ も正当 せいとう 化 か することを必要 ひつよう としている。
フォーダーのデネットに対 たい する批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
フォーダーはいわゆる「標準 ひょうじゅん 的 てき 実在 じつざい 論 ろん 」の批判 ひはん から始 はじ める。フォーダーによればこの立場 たちば は二 ふた つの互 たが いに異 こと なる主張 しゅちょう を持 も つことを特徴 とくちょう とする。そのうちの一 ひと つは、精神 せいしん 状態 じょうたい の内的 ないてき 構造 こうぞう と、そういった言明 げんめい が互 たが いに関係 かんけい がないという主張 しゅちょう に注目 ちゅうもく することである。もう一 ひと つは、心 しん 的 てき 内容 ないよう の意味 いみ 論 ろん 的 てき な理論 りろん と、そういった内容 ないよう の原因 げんいん が果 は たす役割 やくわり と信念 しんねん が果 は たす推論 すいろん 上 じょう の網 あみ とは同型 どうけい 性 せい があるという主張 しゅちょう に携 たずさ わることである。近代 きんだい の心 しん の哲学 てつがく 者 しゃ の間 あいだ で、多数 たすう 派 は の立場 たちば は、この二 ふた つのうち前者 ぜんしゃ が間違 まちが っていて後者 こうしゃ が正 ただ しいとするものであったようだ。フォーダーはこうした立場 たちば からは離 はな れ、前者 ぜんしゃ が正 ただ しいことを受 う け入 い れて後者 こうしゃ が正 ただ しいということを強 つよ く否定 ひてい する[16] 。
特 とく に、フォーダーはダニエル・デネットの道具 どうぐ 主義 しゅぎ を強 つよ く批判 ひはん する[16] 。デネットは、心的 しんてき 表象 ひょうしょう の実在 じつざい 性 せい に傾倒 けいとう せずに精神 せいしん 状態 じょうたい に注目 ちゅうもく しつつ同時 どうじ に実在 じつざい 論 ろん 者 しゃ でいることは可能 かのう だと主張 しゅちょう する[17] 。さて、フォーダーによれば、このレベルで分析 ぶんせき 的 てき な人 ひと は「なぜ」内的 ないてき に戦略 せんりゃく を実行 じっこう できるかを説明 せつめい できないという。:
「道具 どうぐ 主義 しゅぎ に対 たい する標準 ひょうじゅん 的 てき な反論 はんろん が[…]ある[…]:信念 しんねん /欲望 よくぼう の心理 しんり 学 がく が間違 まちが っているならばなぜ信念 しんねん /欲望 よくぼう の心理 しんり 学 がく がうまくいくかを説明 せつめい するのは困難 こんなん である[…]パトナムやボイドらが、予測 よそく が成功 せいこう したことから理論 りろん が真 しん であることまで当然 とうぜん 考 かんが えられる推論 すいろん があると強調 きょうちょう している。:そしてこれは以下 いか のようなときにより確実 かくじつ にもなる[…]私 わたし たちが、予測 よそく を最後 さいご まで成功 せいこう させるような『ただ一 ひと つの』理論 りろん を実際 じっさい に扱 あつか うときに。以下 いか のことは明 あき らかである[…]実在 じつざい 論 ろん 者 しゃ の考 かんが えを選 えら んで前提 ぜんてい が作用 さよう しないことがあるだろうか[…]信念 しんねん /欲望 よくぼう に対 たい する解釈 かいしゃく の」[18]
生産 せいさん 性 せい 、合成 ごうせい 性 せい と思考 しこう [ 編集 へんしゅう ]
フォーダーは、LOTにおいて心的 しんてき 表象 ひょうしょう の実在 じつざい 性 せい に賛成 さんせい した「肯定 こうてい 的 てき 」な主張 しゅちょう を行 おこな ってもいる。彼 かれ は、言語 げんご が思考 しこう を表現 ひょうげん するものであり、また、言語 げんご が体系 たいけい だったものであるならば、思考 しこう もまた体系 たいけい だっていなければならないと主張 しゅちょう している。フォーダーはノーム・チョムスキーの研究 けんきゅう を利用 りよう して、自身 じしん の心 しん の理論 りろん の擁護 ようご とそれに対立 たいりつ するコネクショニズムのような体系 たいけい に対 たい する論駁 ろんばく の両方 りょうほう を行 おこな っている[19] 。自然 しぜん 言語 げんご の体系 たいけい 性 せい はチョムスキーによって[20] より基本 きほん 的 てき な二 ふた つの概念 がいねん 、生産 せいさん 性 せい と単調 たんちょう 性 せい で説明 せつめい される。
生産 せいさん 性 せい とは、表象 ひょうしょう の体系 たいけい が与 あた えられた一 いち 揃 ぞろ いの象徴 しょうちょう から新 あたら しい表象 ひょうしょう を無限 むげん に生 う み出 だ せることを言 い っている。「ジョン」、「愛 あい している」、そして「メアリー」と言 い った単語 たんご は「ジョンはメアリーを愛 あい している」や「メアリーはジョンを愛 あい している」といったような構文 こうぶん に従 したが う。フォーダーの思考 しこう の言語 げんご 仮説 かせつ は、表象 ひょうしょう はその要素 ようそ である部分 ぶぶん に仕切 しき ることができ、また、こういった仕切 しき られた表象 ひょうしょう は新 あたら しい一 いち 続 つづ きの表象 ひょうしょう に組 く み替 か えられうるという理論 りろん を立 た てている[19] 。
生産 せいさん 性 せい よりも重要 じゅうよう なのが体系 たいけい 性 せい である、というのも体系 たいけい 性 せい は人 ひと の認知 にんち 機能 きのう に関 かん して疑 うたが わしい理想 りそう 化 か に依存 いぞん していないからである。この主張 しゅちょう は、認知 にんち する者 もの は何 なん らかの文 ぶん を、他 た の文 ぶん も理解 りかい することができる能力 のうりょく のおかげで理解 りかい できるのだと言 い っている。例 たと えば、「ジョンはメアリーを愛 あい している」という文 ぶん は理解 りかい できるが「メアリーはジョンを愛 あい している」と言 い う文 ぶん を理解 りかい できない者 もの などいないし、「PとQ」を理解 りかい できるが「P」を理解 りかい できない者 もの などいないということである。体系 たいけい 性 せい それ自体 じたい は自然 しぜん 言語 げんご ・自然 しぜん 論理 ろんり の特質 とくしつ としてほとんど異議 いぎ を唱 とな える者 もの はいないが、しかし思考 しこう は言語 げんご と全 まった く同 おな じように体系 たいけい 的 てき なのだと異論 いろん を唱 とな える者 もの はいる[21] 。また、コネクショナリズムの系譜 けいふ に属 ぞく する者 もの の中 なか には言語 げんご の明 あき らかな体系 たいけい 性 せい を説明 せつめい できるような非 ひ 古典 こてん 的 てき ネットワークを作 つく り上 あ げようとする者 もの もいる[22] 。
体系 たいけい 性 せい と生産 せいさん 性 せい が言語 げんご の単調 たんちょう 的 てき 構造 こうぞう に依存 いぞん しているという事実 じじつ は、言語 げんご は組 く み合 あ わせ的 てき な意味 いみ 論 ろん を有 ゆう しているということを意味 いみ する。思考 しこう も組 く み合 あ わせ的 てき な意味 いみ 論 ろん を持 も っているなら、思考 しこう の言語 げんご が存在 そんざい するに違 ちが いないということになる[23] 。
フォーダーが表象 ひょうしょう が実在 じつざい することに賛成 さんせい して与 あた えた第 だい 二 に の主張 しゅちょう は思考 しこう のプロセスを必然 ひつぜん 的 てき に伴 ともな う。この主張 しゅちょう は心的 しんてき 表象 ひょうしょう に関 かん する理論 りろん とその構造 こうぞう のモデルの関係 かんけい に関連 かんれん している。メンタリーズの文 ぶん が推敲 すいこう の独特 どくとく な過程 かてい を要求 ようきゅう しているならば、そういった文 ぶん は確 たし かな型 かた の計算 けいさん 機 き 的 てき な機構 きこう を要求 ようきゅう している。心的 しんてき 表象 ひょうしょう の統語 とうご 論 ろん 的 てき な考 かんが えは、心 しん 的 てき 過程 かてい はそれらが推敲 すいこう した象徴 しょうちょう の「型 かた 」にのみ従 したが う計量 けいりょう であるという考 かんが えと並 なら んでいく。これが心 しん の計算 けいさん 機 き 理論 りろん である。結果 けっか 的 てき に、古典 こてん 的 てき な人工 じんこう 知能 ちのう に基 もと づいた構造 こうぞう のモデルを擁護 ようご することは心的 しんてき 表象 ひょうしょう の実在 じつざい 性 せい の擁護 ようご を必然 ひつぜん 的 てき に通過 つうか する[23] 。
フォーダーにとって、思考 しこう 過程 かてい に関 かん するこの形式 けいしき 的 てき な考 かんが えは、象徴 しょうちょう の原因 げんいん となる役割 やくわり とそれらが表現 ひょうげん する内容 ないよう の対比 たいひ を目立 めだ たせるという利点 りてん を持 も ってもいる。彼 かれ の考 かんが えでは、統語 とうご 論 ろん は、象徴 しょうちょう の原因 げんいん となる役割 やくわり と象徴 しょうちょう の内容 ないよう とを調停 ちょうてい する役割 やくわり を持 も つ。象徴 しょうちょう 間 あいだ の意味 いみ 論 ろん 的 てき な関係 かんけい はそれらの統語 とうご 論 ろん 的 てき 関係 かんけい が「模倣 もほう 」することができる。二 ふた つの象徴 しょうちょう の「内容 ないよう 」につながる推論 すいろん 上 じょう の関係 かんけい は一方 いっぽう の象徴 しょうちょう のもう一方 いっぽう からの派生 はせい を修正 しゅうせい する形式 けいしき 的 てき 統語 とうご 規則 きそく が模倣 もほう することができる[23] 。
内容 ないよう の本質 ほんしつ [ 編集 へんしゅう ]
1980年代 ねんだい 初 はじ めから、フォーダーは心的 しんてき 内容 ないよう 及 およ び意味 いみ の原因 げんいん に関 かん する考 かんが えに着目 ちゃくもく してきた。この内容 ないよう に関 かん する考 かんが えは、彼 かれ が研究 けんきゅう 活動 かつどう 初期 しょき に賛成 さんせい していた推論 すいろん 上 じょう の役割 やくわり の意味 いみ 論 ろん と鋭 するど く対照 たいしょう をなす2010年 ねん 現在 げんざい [update] 。フォーダーは推論 すいろん 上 じょう の役割 やくわり の理論 りろん (inferential role semantics、IRS)の意味 いみ 論 ろん 的 てき ホーリズムへの傾倒 けいとう は精神 せいしん の真 しん の自然 しぜん 化 か の可能 かのう 性 せい を排除 はいじょ するとしてこれを批判 ひはん している。しかし自然 しぜん 化 か は原始 げんし 論 ろん 的 てき ・因果 いんが 的 てき な術語 じゅつご の内容 ないよう の説明 せつめい を含 ふく まなければならない[24] 。
アンチ・ホーリズム(全体 ぜんたい 論 ろん ) [ 編集 へんしゅう ]
フォーダーはホーリズムに関 かん してたくさんのそして様々 さまざま な批判 ひはん を行 おこな ってきた。彼 かれ はホーリズムに関 かん する様々 さまざま な考 かんが え全 すべ てを伴 ともな う中心 ちゅうしん 的 てき な問題 もんだい を、意味 いみ 論 ろん 的 てき 評価 ひょうか の決定 けってい 因子 いんし は「認識 にんしき 論 ろん 的 てき 接着 せっちゃく 剤 ざい 」と言 い う考 かんが えであるという考 かんが えだとみなしている。手短 てみじか に言 い えば、Pの意味 いみ がQの意味 いみ を決定 けってい するのに関係 かんけい があると誰 だれ かが考 かんが えたならば、PはQの認識 にんしき 論 ろん 的 てき 接着 せっちゃく 剤 ざい である。意味 いみ のホーリズムはこの考 かんが えに強 つよ く依存 いぞん している。ホーリズムの下 した では、精神 せいしん 状態 じょうたい の内容 ないよう の同一 どういつ 性 せい はその認識 にんしき 論 ろん 的 てき 接着 せっちゃく 剤 ざい の「全体 ぜんたい 性 せい 」のみによって決定 けってい される。そしてこのことによって精神 せいしん 状態 じょうたい が実在 じつざい できなくなる。:
「もし人々 ひとびと が認識 にんしき 論 ろん 的 てき 関係 かんけい を評価 ひょうか するやり方 かた を基本 きほん 的 てき な部分 ぶぶん で完全 かんぜん に違 ちが えているなら、そしてもし私 わたし たちが意味 いみ のホーリズムに従 したが い認識 にんしき 論 ろん 的 てき 接着 せっちゃく 剤 ざい の『全体 ぜんたい 性 せい 』のやり方 かた によって志向 しこう 的 てき 状態 じょうたい を個別 こべつ 化 か しているならば、結果 けっか として二 に 人 にん の人 ひと は(この問題 もんだい に関 かん して言 い うならば同 どう 一人物 いちじんぶつ の中 なか の二 ふた つの一時 いちじ 的 てき な領域 りょういき でも)決 けっ して同一 どういつ の志向 しこう 的 てき 状態 じょうたい になることはないであろう。それゆえ、二人 ふたり の人 ひと が同一 どういつ の志向 しこう 的 てき 標準 ひょうじゅん 化 か の下 した に包摂 ほうせつ されることは絶対 ぜったい にありえないことになる。そして、それゆえに、志向 しこう 的 てき 標準 ひょうじゅん 化 か は決 けっ して成功 せいこう しえない。さらに、それゆえに、思考 しこう 的 てき 心理 しんり 学 がく には何 なん の希望 きぼう もない。」[24]
因果 いんが の非対称 ひたいしょう 性 せい [ 編集 へんしゅう ]
意味 いみ 論 ろん 的 てき な評価 ひょうか は象徴 しょうちょう 体系 たいけい の構成 こうせい 要素 ようそ の内的 ないてき 関係 かんけい にのみ関 かか わるという考 かんが えを批判 ひはん されて、フォーダーは心的 しんてき 内容 ないよう 及 およ び意味 いみ に関 かん して外材 がいざい 主義 しゅぎ の立場 たちば を受 う け入 い れた。フォーダーにとって、近年 きんねん 、精神 せいしん の自然 しぜん 化 か の問題 もんだい は、「世界 せかい の一部 いちぶ が他 た の一部 いちぶ と関係 かんけい している(と説明 せつめい できる、と表現 ひょうげん できる、ことが真 しん である)ことの十分 じゅうぶん 条件 じょうけん 」を非 ひ 内在 ないざい 的 てき ・非 ひ 意味 いみ 論 ろん 的 てき 術語 じゅつご で与 あた えられる可能 かのう 性 せい と結 むす びついている。この目的 もくてき が表象 ひょうしょう の心 しん の理論 りろん のうちで達成 たっせい されれば、挑戦 ちょうせん はLOTの原始 げんし 的 てき ・非 ひ 論理 ろんり 的 てき 象徴 しょうちょう の解釈 かいしゃく を打 う ち立 た てる因果 いんが の理論 りろん を考案 こうあん する。フォーダーの最初 さいしょ の提議 ていぎ は、心 しん 的 てき 言語 げんご において「水 みず 」の象徴 しょうちょう がH2Oという特性 とくせい を表現 ひょうげん することを決定 けってい する物 もの が、その象徴 しょうちょう の発生 はっせい が確 たし かに水 みず の因果 いんが 関係 かんけい であることであるということである。この理論 りろん をより直観 ちょっかん 的 てき に説明 せつめい するとフォーダーが「未 み 完成 かんせい の因果 いんが 理論 りろん 」と呼 よ ぶものになる。この理論 りろん によれば、象徴 しょうちょう の発生 はっせい はその発生 はっせい の原因 げんいん となる特性 とくせい を説明 せつめい する。例 たと えば、「ウマ」と言 い う言葉 ことば は、ウマのウマであることを言 い っている。このためには、「ウマ」の象徴 しょうちょう の発生 はっせい のはっきりした特性 とくせい が、何 なに かが「ウマ」の発生 はっせい であると決定 けってい するはっきりした特性 とくせい と法 ほう のような関係 かんけい を持 も っていることが必要 ひつよう にして十分 じゅうぶん となる[16] 。
この理論 りろん に関 かん する主 おも な問題 もんだい は誤 あやま った表象 ひょうしょう の問題 もんだい である。「もし[…]そういった特性 とくせい が存在 そんざい すること全 すべ てが、そして特性 とくせい が存在 そんざい する場合 ばあい にのみ発生 はっせい するならば、象徴 しょうちょう は特性 とくせい を説明 せつめい する」という考 かんが えに伴 ともな う避 さ けられない問題 もんだい が二 ふた つある。一 ひと つは、「全 すべ ての」ウマが「ウマ」を発生 はっせい させるわけではないということである。もうひとつは必 かなら ずしもウマ「だけ」が「ウマ」を発生 はっせい させるわけではないということである。「A」(「ウマ」)がA(ウマ)によって発生 はっせい する場合 ばあい もあるが、別 べつ の場合 ばあい には、――例 たと えば、法 ほう が可視 かし 的 てき である状態 じょうたい かもしくは距離 きょり があるために、ウシをウマと誤認 ごにん する――「A」(「ウマ」)がB(ウシ)によって発生 はっせい している。この場合 ばあい 「A」という象徴 しょうちょう は単 たん にAの特性 とくせい を表 あらわ すのみならず、AあるいはBの特性 とくせい の分離 ぶんり をも表 あらわ している。それゆえに未 み 完成 かんせい の因果 いんが 理論 りろん は象徴 しょうちょう の内容 ないよう が分離 ぶんり している場合 ばあい とそうでない場合 ばあい を区別 くべつ することができない。このためにフォーダーが「分離 ぶんり の問題 もんだい 」と呼 よ ぶものが発展 はってん した。
フォーダーはこの問題 もんだい に対 たい して、彼 かれ が「ごくわずかに未完成 みかんせい な因果 いんが 理論 りろん 」と定義 ていぎ したものをもって回答 かいとう している。このアプローチでは、未完成 みかんせい な因果 いんが 理論 りろん の基盤 きばん となっている対称 たいしょう 性 せい を破壊 はかい することが必要 ひつよう になっている。フォーダーは、Aによる「A」の発生 はっせい (真 しん )をBによる「A」の発生 はっせい (偽 にせ )から区別 くべつ する方法 ほうほう を見 み つけなければいけない。フォーダーによれば、出発 しゅっぱつ 点 てん は、偽 にせ の場合 ばあい は真 しん の場合 ばあい に「存在 そんざい 論 ろん 的 てき に依存 いぞん 」しているが、逆 ぎゃく はそうではないということである。依存 いぞん 関係 かんけい の、つまり、真 しん なる内容 ないよう (A = A)と偽 にせ なる内容 ないよう (A = A or B)の非対称 ひたいしょう 性 せい が存在 そんざい する。前者 ぜんしゃ は後者 こうしゃ と独立 どくりつ に存在 そんざい するが、後者 こうしゃ は前者 ぜんしゃ が存在 そんざい する場合 ばあい に限 かぎ り存在 そんざい する :
「意味 いみ 論 ろん 的 てき 観点 かんてん から言 い えば、間違 まちが いは「事故 じこ 」であるに違 ちが いない。:「ウマ」の外延 がいえん に牛 うし が存在 そんざい しないならば、ウシがウマと呼 よ ばれ得 え るような「ウマ」の意味 いみ を要求 ようきゅう することはできない。一方 いっぽう 、「ウマ」がそれが意味 いみ するところのものを意味 いみ しないならば、そしてそれがウマと誤認 ごにん しているのならば、ウシを「ウマ」と呼 よ ぶことは不可能 ふかのう であろう。以上 いじょう 二 ふた つを並 なら べてみれば、間違 まちが って「これはウマである」と言 い うことが可能 かのう なのはそれを正 ただ しく言 い えるための意味 いみ 論 ろん 的 てき 基盤 きばん が存在 そんざい するからであって、逆 ぎゃく ではない。このことを未完成 みかんせい な因果 いんが 理論 りろん の言葉 ことば で言 い えば、ウシを見 み た人 ひと が「ウマ」と言 い うことはウマを見 み た人 ひと が「ウマ」と言 い うことに依存 いぞん している。;しかしウマを見 み た人 ひと が「ウマ」というのはウシを見 み た人 ひと が「ウマ」と言 い うことに依存 いぞん して「いない」[…]」[16]
1960年代 ねんだい の間 あいだ 、ドナルド・デイヴィッドソン、ヒラリー・パトナム、そしてフォーダーといった様々 さまざま な哲学 てつがく 者 しゃ が、世界 せかい は「物理 ぶつり 学 がく の普遍 ふへん 性 せい 」を破 やぶ らないという唯物 ゆいぶつ 論 ろん 者 しゃ の考 かんが え方 かた に執着 しゅうちゃく する一方 いっぽう で心的 しんてき 因果 いんが 関係 かんけい といわゆる「民俗 みんぞく 心理 しんり 学 がく 」の説明 せつめい 上 じょう の効能 こうのう を保 たも つ方法 ほうほう を発展 はってん させるという難題 なんだい を解決 かいけつ しようとしてきた。まず、彼 かれ らの主張 しゅちょう するところは、心 しん の哲学 てつがく においてかつて支配 しはい 的 てき だった立場 たちば 、行動 こうどう 主義 しゅぎ と類別 るいべつ 確認 かくにん 理論 りろん を放棄 ほうき することである[25] 。論理 ろんり 的 てき 行動 こうどう 主義 しゅぎ に伴 ともな う問題 もんだい は、特 とく に行動 こうどう は一 ひと つの心的 しんてき な出来事 できごと /原因 げんいん の結果 けっか ではなくむしろひと連 つら なりの出来事 できごと /原因 げんいん の結果 けっか だと考 かんが えた場合 ばあい に、行動 こうどう 主義 しゅぎ が精神 せいしん 状態 じょうたい の「間 あいだ の」因果 いんが 関係 かんけい を説明 せつめい できず、しかもそういった因果 いんが 関係 かんけい が心理 しんり 学 がく 的 てき に説明 せつめい する上 じょう で本質 ほんしつ 的 てき であると思 おも われることである。一方 いっぽう で類別 るいべつ 確認 かくにん 理論 りろん は根本 こんぽん 的 てき に異 こと なる物理 ぶつり 学 がく 的 てき 体系 たいけい が全 まった く同 おな じ精神 せいしん 状態 じょうたい の中 なか に見出 みいだ されるという事実 じじつ を説明 せつめい できない。深 ふか く人間 にんげん 中心 ちゅうしん 的 てき で(どうして人類 じんるい が宇宙 うちゅう で唯一 ゆいいつ の知的 ちてき 損 そん 座 ざ だということがあるだろうか)ある場合 ばあい を除 のぞ けば、同 どう 一説 いっせつ は、神経 しんけい 科学 かがく においてヒトの脳 のう はそれぞれ互 たが いに異 こと なっているという証拠 しょうこ を集 あつ めるのに失敗 しっぱい する。このゆえに、異 こと なる物理 ぶつり 学 がく 的 てき 体系 たいけい において一般 いっぱん に精神 せいしん 状態 じょうたい に言及 げんきゅう できないことによってそれ自体 じたい 異 こと なる種 たね の間 あいだ だけではなく同 どう 種別 しゅべつ 個体 こたい 間 あいだ でも証明 しょうめい される。
An illustration of multiple realizability. M stands for mental and P stand for physical. It can be seen that more than one P can instantiate one M but not vice versa. Causal relations between states are represented by the arrows (M1 goes to M2, etc.)
フォーダーによれば、こういった問題 もんだい の解決 かいけつ は、機能 きのう 主義 しゅぎ 、いわば二元論 にげんろん 及 およ び還元 かんげん 主義 しゅぎ の失敗 しっぱい を克服 こくふく するために作 つく られた[誰 だれ によって? ] 仮説 かせつ に見 み いだされるという。ここで詳細 しょうさい に述 の べなければ、この考 かんが えは重要 じゅうよう なものは精神 せいしん 状態 じょうたい を存在 そんざい せしめる物理 ぶつり 的 てき 基盤 きばん ではなく精神 せいしん 状態 じょうたい の機能 きのう だということである。この立場 たちば は心 しん の多重 たじゅう 実現 じつげん 可能 かのう 性 せい という原理 げんり に基 もと づいて生 う まれた。この立場 たちば によると、例 たと えば、私 わたし とコンピュータは全 まった く異 こと なる物質 ぶっしつ 的 てき 材料 ざいりょう (右 みぎ 図 ず 参照 さんしょう )からできているにもかかわらず同一 どういつ の機能 きのう 的 てき 状態 じょうたい を事例 じれい を挙 あ げて裏付 うらづ ける(「理解 りかい する」)ことができる。このことによって機能 きのう 主義 しゅぎ は「トークン唯物 ゆいぶつ 論 ろん 」の一 いち 形態 けいたい だと分類 ぶんるい される[26] 。
フォーダーは生物 せいぶつ 学者 がくしゃ のマッシモ・ピアッテッリ=パルマリーニとともに「ダーウィンはなぜ間違 まちが えたか(What Darwin Got Wrong)」(2010年 ねん )と言 い う本 ほん を書 か いている。そこでは、ネオダーウィニストが「悲惨 ひさん なほど無 む 批判 ひはん 的 てき 」であると言 い われ、ダーウィンの進化 しんか 論 ろん について「種 たね の表現 ひょうげん 型 がた を形作 かたちづく るうえでの環境 かんきょう の貢献 こうけん が過大 かだい 評価 ひょうか され、それに応 おう じて内部 ないぶ 変数 へんすう の影響 えいきょう が過小 かしょう 評価 ひょうか されている」と言 い われている[27] [28] [29] 。進化 しんか 生物 せいぶつ 学者 がくしゃ のジェリー・コインはこの本 ほん を「自然 しぜん 選択 せんたく に対 たい する深 ふか く間違 まちが って案内 あんない された批判 ひはん 」[30] で「耳障 みみざわ りである度合 どあい に比例 ひれい して生物 せいぶつ 学 がく 的 てき に無知 むち である」[31] と評 ひょう している。
多様 たよう な志向 しこう の様々 さまざま な種類 しゅるい の哲学 てつがく 者 しゃ が多 おお くのフォーダーの考 かんが えに挑戦 ちょうせん してきた。例 たと えば、思考 しこう の言語 げんご 仮説 かせつ は、無限 むげん 退行 たいこう の餌食 えじき であるとか、あるいは無用 むよう の長物 ちょうぶつ であると言 い って非難 ひなん されてきた。特 とく に、サイモン・ブラックバーン は1984年 ねん の論説 ろんせつ で、フォーダーは自然 しぜん 言語 げんご の習得 しゅうとく はLOTの下 した での仮説 かせつ の形成 けいせい と確認 かくにん であると説明 せつめい しているので、LOT自体 じたい は習得 しゅうとく されるために仮説 かせつ を形成 けいせい ・確認 かくにん するためのより基礎 きそ 的 てき なもう一 ひと つの表象 ひょうしょう 的 てき 基盤 きばん を必要 ひつよう とする言語 げんご にすぎないのではないかという問 と いをフォーダーに投 な げかけると主張 しゅちょう した。自然 しぜん 言語 げんご を習得 しゅうとく するためには何 なん らかの表象 ひょうしょう 的 てき 基盤 きばん (LOT)を必要 ひつよう とするならばLOTそれ自体 じたい もその何 なん らかの表象 ひょうしょう 的 てき 基盤 きばん を必要 ひつよう とし、というように無限 むげん に続 つづ くのではないか?一方 いっぽう 、そういった表象 ひょうしょう 的 てき 基盤 きばん をLOTが必要 ひつよう としないならば、なぜLOTを自然 しぜん 言語 げんご は必要 ひつよう とするのか?この場合 ばあい 、LOTは無用 むよう の長物 ちょうぶつ となる[32] 。フォーダーは、これに答 こた えて、LOTは先天的 せんてんてき なものであるのでそれに先立 さきだ つ言語 げんご を介 かい して習得 しゅうとく する必要 ひつよう がない点 てん で特異 とくい 的 てき なのだと主張 しゅちょう している。
1981年 ねん にダニエル・デネットがLOTに対 たい するもう一 ひと つの反論 はんろん を明確 めいかく に述 の べている。デネットは、私 わたし たちの無自覚 むじかく な行動 こうどう も含 ふく めてコンピュータに対 たい する私 わたし たちの行動 こうどう の証拠 しょうこ に基 もと づいて、LOTははっきりした説明 せつめい が命題 めいだい 的 てき 態度 たいど を説明 せつめい する上 じょう で不 ふ 必要 ひつよう であるように見 み えると主張 しゅちょう している。コンピュータ・プログラムとチェスで戦 たたか っている間 あいだ 、私 わたし たちはしばしばそういった態度 たいど をコンピュータに帰 かえ して以下 いか のように言 い う:
「コンピュータはクィーンを左 ひだり に動 うご かそうと考 かんが えている」私 わたし たちは命題 めいだい 的 てき 態度 たいど をコンピュータに帰 かえ していて、このことによって私 わたし たちは様々 さまざま な文脈 ぶんみゃく でのコンピュータの振 ふ る舞 ま いを説明 せつめい ・予測 よそく している。だが、心 しん 的 てき 言語 げんご で「俺 おれ はあの野郎 やろう のケツを蹴 け り飛 と ばせると思 おも っている」という命題 めいだい 的 てき 態度 たいど と同様 どうよう のどこか周囲 しゅうい でコンピュータが実際 じっさい に「考 かんが えている」あるいは「信 しん じている」と主張 しゅちょう する者 もの はいない。同様 どうよう のことが、風通 かぜとお しの悪 わる い状況 じょうきょう で「新鮮 しんせん な空気 くうき を吸 す おうとすること」のようなと日常 にちじょう 的 てき な無意識 むいしき 的 てき な行動 こうどう の多 おお くに関 かん しても当 あ てはまるとデネットは主張 しゅちょう している[33] 。
言語 げんご 学者 がくしゃ や言語 げんご 哲学 てつがく 者 しゃ の中 なか には、フォーダーが自 みずか ら「極端 きょくたん な」といっている先天 せんてん 説 せつ を批判 ひはん している者 もの もいる。例 たと えば、ケント・バッハは、語彙 ごい 意味 いみ 論 ろん と語 かたり の多義 たぎ 性 せい を批判 ひはん したことでフォーダーを激 はげ しく非難 ひなん している。フォーダーは「keep」、「get」、「make」、「put」のような動詞 どうし には語句 ごく 構造 こうぞう が存在 そんざい しないと主張 しゅちょう している。彼 かれ は代 か わりに、「keep」は単 たん にKEEPという概念 がいねん (フォーダーは概念 がいねん を特性 とくせい 、名称 めいしょう 、その他 た の実体 じったい と区別 くべつ するために繰 く り込 こ んでいる)を表 あらわ すと主張 しゅちょう している。個人 こじん が持 も つ言葉 ことば と概念 がいねん の間 あいだ にシンプルに一対一 いちたいいち 対応 たいおう が存在 そんざい するならば、"keep your clothes on"、"keep your receipt"あるいは"keep washing your hands"はフォーダーの理論 りろん の下 した ではすべてKEEPという同 おな じ概念 がいねん に与 あずか ることになる。この概念 がいねん はおそらくkeepingの外的 がいてき 特性 とくせい を追跡 ついせき している。しかし、これが正 ただ しいならば、RETAINTはRETAIN YOUR RECEIPTに関 かん して異 こと なる特性 とくせい を取 と り上 あ げなければいけなくなる、というのは人 ひと はretain one's clothes onやあるいは retain washing one's handsといったことをできなくなるからである。フォーダーの理論 りろん は、FASTという概念 がいねん がFAST CAR、FAST DRIVER、FAST TRACKあるいはFAST TIMEの内容 ないよう にどのように「異 こと なった形 かたち で」貢献 こうけん するのかを説明 せつめい する上 じょう でも問題 もんだい がある[34] 。こういった文 ぶん で「fast」の解釈 かいしゃく が異 こと なることが英語 えいご の特徴 とくちょう であるかどうか、あるいはプラグマティズム的 てき 推論 すいろん の結果 けっか であるかどうかは議論 ぎろん の余地 よち がある[35] 。こういった種類 しゅるい の批判 ひはん に対 たい するフォーダー自身 じしん の回答 かいとう は、無遠慮 ぶえんりょ に説明 せつめい すれば「概念 がいねん 」である。「人 ひと は『存在 そんざい している』というのは『椅子 いす が存在 そんざい している』と『数 かず が存在 そんざい している』の違 ちが いを見 み てみれば曖昧 あいまい に違 ちが いないということもある。それに対 たい するありふれた回答 かいとう はこうである。椅子 いす の存在 そんざい と数 かず の存在 そんざい というのも翻 ひるがえ って考 かんが えると椅子 いす と数 かず の違 ちが いと酷似 こくじ している。前者 ぜんしゃ を説明 せつめい するために後者 こうしゃ の立場 たちば をとるから、『存在 そんざい する』という語 かたり の多義 たぎ 性 せい を必要 ひつよう ともしなくなる。」 [36]
信 しん じがたいほどに多 おお くの概念 がいねん が原始 げんし 的 てき で未定義 みていぎ であるフォーダーの主張 しゅちょう は受 う け入 い れがたいと考 かんが える批判 ひはん 者 しゃ もいる。例 たと えば、フォーダーはEFFECT、ISLAND、TRAPEZOIDあるいはWEEKといった言葉 ことば を全 すべ て原始 げんし 的 てき ・先天的 せんてんてき ・非 ひ 分析 ぶんせき 的 てき に考 かんが えている、というのはそれらは皆 みな 、彼 かれ が「語彙 ごい 概念 がいねん 」と呼 よ ぶもの(私 わたし たちの言語 げんご が一 ひと つの単語 たんご であらわしているもの)のカテゴリに放 ほう り込 こ まれるのである。こういった考 かんが えに反 はん して、バッハはVIXENという概念 がいねん はほとんど明 あき らかにFEMALEとFOXという二 ふた つの概念 がいねん からなる、BACHELORはSINGLEとMALEから、などなどと主張 しゅちょう している[34] 。
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