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哲学てつがくてきゾンビ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

哲学てつがくてきゾンビ(てつがくてきゾンビ、英語えいご: Philosophical zombieりゃく: p-zombie)とは、しん哲学てつがく使つかわれる言葉ことばである。物理ぶつりてき化学かがくてき電気でんきてき反応はんのうとしては、普通ふつう人間にんげんまったおなじであるが、我々われわれ意識いしきにのぼってくる感覚かんかく意識いしきやそれにともなう経験けいけんクオリア)をまったっていない存在そんざい定義ていぎされている。

デイヴィッド・チャーマーズ1990年代ねんだいにクオリアの説明せつめいもちいた思考しこう実験じっけんでありしん哲学てつがくしゃたちのあいだ有名ゆうめいになった。

ホラー映画えいがてくるゾンビ区別くべつするために、現象げんしょうゾンビ(Phenomenal Zombie)ともばれる。おもに性質せいしつ二元論にげんろん(または中立ちゅうりつ一元論いちげんろん)の立場たちばから物理ぶつり主義しゅぎ(または唯物ゆいぶつろん)の立場たちば攻撃こうげきするさいもちいられる。ゾンビの概念がいねんもちいて物理ぶつり主義しゅぎ批判ひはんするこの論証ろんしょうのことをゾンビ論法ろんぽうZombie Argument)、または想像そうぞう可能かのうせい論法ろんぽうConceivability Argument)とぶ。

概要がいよう

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哲学てつがくてきゾンビの概念がいねん紹介しょうかいするにあたり、まずつぎのことをあきらかにしておく。

議論ぎろん混乱こんらんふせぐために、つぎのような2つの区分くぶんがある。

行動こうどうてきゾンビ(Behavioral Zombie
外面がいめん行動こうどうだけていては、普通ふつう人間にんげん区別くべつできないゾンビ。解剖かいぼうすれば人間にんげんとのちがいがかる可能かのうせいがある、というふくみをつ。れいとして、SF映画えいがてくる精巧せいこうアンドロイドは、「機械きかい内面ないめんてき経験けいけんなどっていない」という前提ぜんていかんがえれば、行動こうどうてきゾンビにたる。
哲学てつがくてきゾンビ(Neurological Zombie
のう神経しんけい細胞さいぼう状態じょうたいまでふくむ、すべての観測かんそく可能かのう物理ぶつりてき状態じょうたいかんして、普通ふつう人間にんげん区別くべつすること出来できないゾンビ。

哲学てつがくてきゾンビという言葉ことばは、しん哲学てつがく分野ぶんやにおける純粋じゅんすい理論りろんてきなアイデアであって、たんなる議論ぎろん道具どうぐであり、「外面がいめんてきには普通ふつう人間にんげんまったおなじようにうが、そのさい内面ないめんてき経験けいけん意識いしきやクオリア)をたない人間にんげん」というかたち定義ていぎされた仮想かそう存在そんざいである。哲学てつがくてきゾンビが実際じっさいにいる、としんじているひと哲学てつがくしゃなかにもほとんどおらず「哲学てつがくてきゾンビは存在そんざい可能かのうなのか」「なぜ我々われわれ哲学てつがくてきゾンビではないのか」などがしん哲学てつがくほかしょ問題もんだいからめて議論ぎろんされる。

かりに“哲学てつがくてきゾンビが存在そんざいする”として、哲学てつがくてきゾンビとどれだけ長年ながねんっても、普通ふつう人間にんげん区別くべつすることはだれにも出来できない。それは、普通ふつう人間にんげんまったおなじように、わらいもするし、いかりもするし、熱心ねっしん哲学てつがく議論ぎろんをしさえする。物理ぶつりてき化学かがくてき電気でんきてき反応はんのうとしては、普通ふつう人間にんげんとまったくおなじであり区別くべつできない。もし区別くべつできたならば、それは哲学てつがくてきゾンビではなく行動こうどうてきゾンビである。

しかし普通ふつう人間にんげん哲学てつがくてきゾンビの唯一ゆいいつちがいは、哲学てつがくてきゾンビにはそのさいに「たのしさ」の意識いしきも、「いかり」の意識いしきも、議論ぎろん厄介やっかいさにたいする「苛々する」という意識いしきつことがなく、“我々われわれ意識いしきにのぼってくる感覚かんかく意識いしきやそれにともなう経験けいけん(クオリア)”というものがまったくない、というてんである。哲学てつがくてきゾンビにとっては、それらは物理ぶつりてき化学かがくてき電気でんきてき反応はんのう集合しゅうごうたいでしかない。

ゾンビ論法ろんぽう

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ゾンビ論法ろんぽう(zombie argument)または想像そうぞう可能かのうせい論法ろんぽう(Conceivability Argument)とは物理ぶつり主義しゅぎ批判ひはんする以下いか形式けいしき論証ろんしょうす。[1]

  1. 我々われわれ世界せかいには意識いしき体験たいけんがある。
  2. 物理ぶつりてきには我々われわれ世界せかい同一どういつでありながら、我々われわれ世界せかい意識いしきかんする肯定こうていてき事実じじつりたない、論理ろんりてき可能かのう世界せかい存在そんざいする。
  3. したがって意識いしきかんする事実じじつは、物理ぶつりてき事実じじつとはまたべつの、われわれの世界せかいかんするさらなる事実じじつである。
  4. ゆえに唯物ゆいぶつろんにせである。

かく段階だんかいについて説明せつめいすると

1.我々われわれ世界せかいには意識いしき体験たいけんがある。
意識いしき」「クオリア」「経験けいけん」「感覚かんかく」など様々さまざま名前なまえばれるものが、「ある」という主張しゅちょうである。ここは基本きほんてき素朴そぼく主張しゅちょうである。
2.物理ぶつりてきには我々われわれ世界せかい同一どういつでありながら、我々われわれ世界せかい意識いしきかんする肯定こうていてき事実じじつりたない、論理ろんりてき可能かのう世界せかい存在そんざいする。
現在げんざい物理ぶつりがくでは、意識いしき・クオリア・経験けいけん感覚かんかくまったいた世界せかい想像そうぞう可能かのうであることを主張しゅちょうする。この哲学てつがくてきゾンビだけがいる世界せかいを、ゾンビワールドう。
3.したがって意識いしきかんする事実じじつは、物理ぶつりてき事実じじつとはまたべつの、われわれの世界せかいかんするさらなる事実じじつである。
ゾンビワールドにけているが、わたしたち現実げんじつ世界せかいには、意識いしき・クオリア・経験けいけん感覚かんかくそなわっているという事実じじつがある。それは、現在げんざい物理ぶつり法則ほうそくにはふくまれていない。
4.ゆえに唯物ゆいぶつろんにせである。
以上いじょうてんから現在げんざい物理ぶつり法則ほうそく物理ぶつりりょうですべての説明せつめいができるというかんがえは間違まちがっている。

歴史れきし

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ゾンビ論法ろんぽう類似るいじしたタイプの議論ぎろん、つまり「意識いしき体験たいけん」と「物質ぶっしつかたちうごき」とのあいだ合理ごうりてきなつながりが見出みだせない、というタイプの議論ぎろんは、歴史れきしじょう様々さまざまかたちろんじられている。歴史れきしくだるにつれて議論ぎろん洗練せんれんされていくが、以下いかおもれいをいくつか列挙れっきょする。

ライプニッツによる風車かざぐるま小屋こや思考しこう実験じっけん

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思考しこうできる機械きかい現代げんだいてきえば人工じんこう知能ちのう)があるとして、その機械きかい風車かざぐるまほどまでおおきくしたとする。このとき、そのなかにはいってまわりを見渡みわたしたら、いったいなにえるだろうか。ライプニッツはそこをかんがえた。

17世紀せいきのドイツの哲学てつがくしゃライプニッツ著書ちょしょモナドロジー』のなかで、風車かざぐるま小屋こや(windmill)をいにしてったつぎのような論証ろんしょうがある[2]

ものをかんがえたり、かんじたり、知覚ちかくしたりできる仕掛しかけの機械きかいがあるとする。その機械きかい全体ぜんたいをおなじ割合わりあい拡大かくだいし、風車かざぐるま小屋こやのなかにでもはいるように、そのなかにはいってみたとする。だがその場合ばあい機械きかい内部ないぶさぐって、うつるものといえば、部分ぶぶん部分ぶぶんがたがいにうごかしあっている姿すがただけで、表象ひょうしょうについて説明せつめいするにたりるものは、けっして発見はっけんできはしない。 — ライプニッツ 『モナドロジー』(1714ねん) だい17せつ清水しみず竹田たけだやく[3]

ここで使つかわれている言葉ことば少々しょうしょう時代じだいがかっているが、表象ひょうしょうという言葉ことばが、おおよそ現代げんだいでいうところ意識いしきという言葉ことば対応たいおうする。この風車かざぐるま議論ぎろんから、ライプニッツは、モナド(ライプニッツが存在そんざいすると仮定かていした、それ以上いじょう分割ぶんかつすることができない、この世界せかい最小さいしょう構成こうせい要素ようそ)の内的ないてき性質せいしつ、として表象ひょうしょう位置いちづけていく。

ラッセルによる世界せかい因果いんが骨格こっかく議論ぎろん

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20世紀せいき前半ぜんはん哲学てつがくしゃバートランド・ラッセルが『物質ぶっしつ分析ぶんせき(Analysis of Matter)』(1927ねん)を中心ちゅうしん様々さまざま著作ちょさくなか展開てんかいした議論ぎろんなかにも、同種どうしゅ議論ぎろんられる。ラッセルは物理ぶつりがくはどのようなものか、ということの分析ぶんせきおこななかで、物理ぶつりがく対象たいしょう対象たいしょうあいだにどのような関係かんけいがあるかをあつかうが、そうした関係かんけいをもつとう対象たいしょう内在ないざいてき性質せいしつあつかえない、とし、物理ぶつりがくおこな世界せかい記述きじゅつ外形がいけいてきなもの、「世界せかい因果いんが骨格こっかく(Causal Skelton of the World)」をあつかったものだとした。

物理ぶつりがく数学すうがくてきである。しかしそれはわたしたち物理ぶつりてき世界せかいについて非常ひじょうによくっているためではなく、むしろほんのすこししからないためである - わたしたち発見はっけんしうるのは世界せかい数学すうがくてき性質せいしつのみである。物理ぶつりてき世界せかいは、そのとき空間くうかん構造こうぞうのある抽象ちゅうしょうてき特徴とくちょうかかわってのみられうる - そうした特長とくちょうは、しん世界せかいかんして、その内在ないざいてき特徴とくちょうかんしてなにちがいがあるのか、またはないのか、をしめすのに十分じゅうぶんではない。 — バートランド・ラッセル 『Human knowledge: It's Scope and Limits』(1948ねん)
わたしたち直接ちょくせつ経験けいけんする心的しんてき事象じしょうである場合ばあいのぞいて、物理ぶつりてき事象じしょう内在ないざいてき性質せいしつについて、わたしたちなにらない。 — バートランド・ラッセル 『Mind and Matter』(1956ねん)

クリプキの様相ようそう論法ろんぽう

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1970年代ねんだい哲学てつがくしゃソール・クリプキ様相ようそう(modality)の概念がいねんもちいてった様相ようそう論法ろんぽう(modal argument)とばれる論証ろんしょうがある。この議論ぎろん直感ちょっかんてきというよりかなり技巧ぎこうてきなものだが、可能かのう世界せかいろん枠組わくぐみのなかで、固定こてい指示しじ(rigid designator)あいだ同一どういつせい言明げんめい必然ひつぜんてきなものでなければならない、という前提ぜんていにたったうえで、神経しんけい現象げんしょういた代表だいひょうされるようなわたしたちの心的しんてき感覚かんかくとのあいだ同一どういつせい言明げんめい(いわゆるどう一説いっせつ)を批判ひはんした。この論証ろんしょうはクリプキの講義こうぎろく名指なざしと必然ひつぜんせい』で詳細しょうさいろんじられている。クリプキは、同書どうしょさい終章しゅうしょう論証ろんしょう結果けっか以下いかのような寓話ぐうわてきなストーリで表現ひょうげんしている[4][5]

神様かみさま世界せかいつくったとする。神様かみさまは、この世界せかいにどういう種類しゅるい粒子りゅうし存在そんざいし、かつそれらがたがいにどう相互そうご作用さようするか、そうしたことをすべてさだわったとする。さて、これで神様かみさま仕事しごとわりだろうか?いや、そうではない。神様かみさまにはまだやるべき仕事しごとのこされている。神様かみさまはある状態じょうたいにある感覚かんかくともなうようさだめる仕事しごとをしなければならない。

その

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ほか逆転ぎゃくてんスペクトルメアリーの部屋へや中国ちゅうごく部屋へやなどの思考しこう実験じっけん問題もんだいあつかっている。

批判ひはん

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アポステリオリな必然ひつぜんせい

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物理ぶつり主義しゅぎ立場たちばからせられるゾンビ論法ろんぽうへの批判ひはんは、現時点げんじてんわたしたちにゾンビは一見いっけん論理ろんりてき可能かのうlogically possible)におもえることはみとめつつ-これはしばしばゾンビ直感ちょっかんZombic Hunch)とばれる-、そうした直感ちょっかんおも現在げんざいわたしたちの神経しんけいけいへの無知むち起因きいんする、というかたちおこなわれる。つまり神経しんけいけいへの理解りかいがまだ中途半端ちゅうとはんぱ段階だんかいにあるから現象げんしょう体験たいけん完全かんぜんいた人間にんげん機能きのうてき同型どうけいぶつなどというものを想像そうぞうできるのであり、もし神経しんけい科学かがく知識ちしきふかまっていけば、そうした存在そんざい論理ろんりてき不可能ふかのうであると理解りかいできるだろう、と。これはアポステリオリ必然ひつぜんせいからの議論ぎろんばれる[6][7]。こうした主張しゅちょう説明せつめいとしてよく使用しようされるのはつぎれいである。

むかしひとは、がたひがしそらえる特定とくていあかるいほしを「けの明星みょうじょう」とんでいた。そして夕方ゆうがた西にしそらえる特定とくていあかるいほしを「よい明星みょうじょう」とんでいた。むかしひとはこのふたつのほし別々べつべつほしだとかんがえていた。こうした知識ちしき段階だんかいにあるひとであれば、あるけの明星みょうじょう」が爆発ばくはつして消滅しょうめつし、「よい明星みょうじょう」はそのままのこる、といった状況じょうきょう想像そうぞうすることも可能かのうだったはずである。しかし時代じだいすす科学かがくてき知識ちしきふかまるにつれ、「けの明星みょうじょう」と「よい明星みょうじょう」はじつおなぼし金星かなぼし」だったとかった。つまりがた観測かんそくされる金星きんぼしを「けの明星みょうじょう」とび、夕方ゆうがた観測かんそくされる金星きんぼしを「よい明星みょうじょう」とんでいただけだったとかった。こうなると、「けの明星みょうじょう」が爆発ばくはつして消滅しょうめつし、「よい明星みょうじょう」はそのままのこる、といった状況じょうきょう想像そうぞうすることは不可能ふかのうとなる。

現象げんしょう判断はんだんのパラドックス

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もうひとつの主要しゅよう批判ひはんてんとして、ゾンビが想定そうてい可能かのう意識いしき体験たいけん物理ぶつりてき事実じじつ論理ろんりてき付随ふずいlogical supervenience)しない)という前提ぜんていったときあらわれる判断はんだんかんする因果いんが問題もんだいがある。意識いしき体験たいけん物理ぶつりてき現象げんしょうべつのものとし、かつ、物理ぶつりてき世界せかい物理ぶつり法則ほうそくによって因果いんがてきじている(物理ぶつり領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせい)とした場合ばあいに、物理ぶつり世界せかいおこなわれている判断はんだん意識いしき体験たいけんそのものが関与かんよしてこなくなってしまう因果いんがてき排除はいじょ問題もんだい (The Causal Exclusion Problem)である。ゾンビ論法ろんぽう提唱ていしょうしゃであるチャーマーズ自身じしんは より対象たいしょう範囲はんいしぼかたちでこの問題もんだい現象げんしょう判断はんだんのパラドックスんでいる[8][9]つぎのような問題もんだいである。

ゾンビを想定そうてい可能かのうとしたとき、「双子ふたごのゾンビ世界せかい」の想定そうてい可能かのうとなる。つまりいちしゅパラレル・ワールドのようのものとして、「物理ぶつりてき事実じじつかんしてわたしたち世界せかいまったおなじだが、意識いしき体験たいけんだけをいたわたしたち世界せかいのコピー」が想定そうてい可能かのうである。そこにはチャーマーズのゾンビ双子ふたごがいるだろう(チャーマーズと物理ぶつりてきまった同型どうけいだが、意識いしき体験たいけんだけをいた存在そんざい)。チャーマーズのゾンビ双子ふたごは、意識いしき体験たいけんまったっていないにもかかわらず、機能きのうてきにはチャーマーズとまったおなじように振舞ふるまうはずだから、ハードプロブレムについて論文ろんぶんき、意識いしきかんするあたらしい自然しぜん法則ほうそく探究たんきゅうすべきだとい、この世界せかいのチャーマーズとまったおな主張しゅちょうをしていなければならない。しかしゾンビ世界せかいのチャーマーズは、意識いしき体験たいけんのないゾンビ世界せかいでいったいなにについて研究けんきゅうしているのだろうか。意識いしき体験たいけんのないゾンビ世界せかいでハードプロブレムを主張しゅちょうするゾンビ双子ふたご想定そうていできるとすると、そのゾンビ双子ふたごまったおな主張しゅちょうをしているこの世界せかい本物ほんもののチャーマーズの主張しゅちょうにはいったいどういう正当せいとうせいがあるだろうか。

実在じつざいとしてのぜん人類じんるい哲学てつがくてきゾンビ

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スーザン・ブラックモアかんがえでは、(一般人いっぱんじんれることはむずかしいが)意識いしきとは錯覚さっかくであり、自我じがだれかなどはおらず、「わたし」が存在そんざいするようながするときはいつも、その「わたし」は一時いちじてき虚構きょこうにすぎず、またのう構成こうせいする物質ぶっしつ物理ぶつり法則ほうそくしばられているのでわたしたちに自由じゆう意志いしはない。もしこの仮定かていただしいものであれば、人間にんげんまれたときからの環境かんきょう外部がいぶ入力にゅうりょくとその反応はんのう出力しゅつりょくかさねによっていまここにきている哲学てつがくてきゾンビの存在そんざいそのものである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ チャーマーズちょ, はやし いちやく意識いしきするしん」 163ぺーじ
  2. ^ Kulstad, Mark and Carlin, Laurence, "Leibniz's Philosophy of Mind" 1.Matter and Thought, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2008 Edition), Edward N. Zalta (ed.)
  3. ^ 清水しみず竹田たけだやく中公ちゅうこうクラシックス>モナドロジー p.8
  4. ^ クリプキ 『名指なざしと必然ひつぜんせい最終さいしゅうあきら
  5. ^ Kirk, Robert "Zombies" 2.Zombies and physicalism, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2011 Edition), Edward N. Zalta (ed.)
  6. ^ しょうくさ たい (2007)
  7. ^ 金武かなたけ (2006)
  8. ^ 意識いしきするしんだい6しょう現象げんしょう判断はんだんのパラドックス」(pp.221-263)
  9. ^ 青山あおやまたくひさし (2005)

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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日本語にほんごのオープンアクセス文献ぶんけん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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日本語にほんご文章ぶんしょう
  • サイト「哲学てつがくてきなにか、あと科学かがくとか」:項目こうもく 哲学てつがくてきゾンビ」 - ウェイバックマシン(2006ねん1がつ4にちアーカイブぶん) - 身近みぢか表現ひょうげんで、哲学てつがくてきゾンビについて解説かいせつしている。
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