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物理的領域の因果的閉包性 - Wikipedia コンテンツにスキップ

物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせい(ぶつりてきりょういきのいんがてきへいほうせい、えい:Causal closure of physics)とは、『どんな物理ぶつり現象げんしょう物理ぶつり現象げんしょうのほかには一切いっさい原因げんいんたない』という経験けいけんそくである。物理ぶつりてき閉鎖へいさえい:physical closure)、物理ぶつりてき閉鎖へいさえい:Closed under physics)などともばれる。しん哲学てつがくという哲学てつがくいち分科ぶんかで、しん因果いんが作用さようえい:Causal efficacy of mind, この世界せかいにおいて意識いしきクオリア因果いんがてき能力のうりょく、すなわちほかのものの原因げんいんとなることが出来でき能力のうりょく、いいかえれば意識いしきやクオリアがしょ現象げんしょう因果いんが連鎖れんさあみなかでとるポジション)について議論ぎろんするさいに、おも物理ぶつり主義しゅぎ立場たちばから、二元論にげんろんへの反論はんろんとして提示ていじされる。

因果いんがてき閉包性へいほうせいとは[編集へんしゅう]

物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせいとは、「物理ぶつり現象げんしょう原因げんいんとしては物理ぶつり現象げんしょうだけをかんがえれば十分じゅうぶんで、それ以外いがい要素ようそについてかんがえる必要ひつようがない」といいかえることも出来できる。 たとえば物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせいが「あきらかにやぶれているような世界せかい」のいちれい紹介しょうかいしてみると、たとえば、つぎのような世界せかいである。

  • 普段ふだん物理ぶつり法則ほうそくしたがって物事ものごと淡々たんたんすすんでいる。しかし、時々ときどきかみ介入かいにゅうして奇跡きせきこす。

時々ときどきこる「奇跡きせき」は物理ぶつり法則ほうそく以外いがい事象じしょうかみ介入かいにゅう)を原因げんいんとするため、こうした世界せかいでは物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせい成立せいりつしていない。 物理ぶつりてきなものが、厳密げんみつ意味いみ因果いんがてきじているのか、というてんについては、哲学てつがくじょうまだおおくの論点ろんてん存在そんざいする。量子力学りょうしりきがくにおけるかくりつ過程かてい問題もんだいから、因果いんが(ヒュームの懐疑かいぎ)や時間じかん(マクダカート)といったものの実在じつざいせいたいする問題もんだいいたるまで、その範囲はんい多岐たきにわたる。

とはいえ、現代げんだい科学かがくでは物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせい基本きほんてき前提ぜんていとされており、こうした閉包性へいほうせい問題もんだい議論ぎろんされることはまれである。

そんななか因果いんがてき閉包性へいほうせい概念がいねんについて議論ぎろんしているのは、おも哲学てつがくいち領域りょういきであるしん哲学てつがくにおいてである。この理由りゆうは、つぎのような問題もんだいたとえば「心的しんてきなものは物理ぶつりてきなものにたいして影響えいきょうあたえることができるのか」といった問題もんだいろんじようとすると、かなら物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせいはなしかびがってくるためである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

デカルト代表だいひょうされる実体じったい二元論にげんろんにおいては、物的ぶってきなものと心的しんてきなものという本質ほんしつてきことなる種類しゅるいのものがこの存在そんざいするとかんがえた。そしてこの両者りょうしゃなんらかのかたち相互そうご作用さようするとした。 しかしながらニュートンはじまった機械きかいろんてき世界せかいかんは、おおくの人々ひとびとあいだ物理ぶつり現象げんしょう因果いんがてきじているにちがいない、というかんがえをひろめ、これが随伴ずいはん現象げんしょうせつ土壌どじょう形作かたちづくった。

その 機械きかいろんてき見方みかた惑星わくせい落体らくたいといった一部いちぶ物質ぶっしつだけにまらず、自然しぜん現象げんしょう一般いっぱんひろくその適用てきよう範囲はんいひろげていく。とくに20世紀せいき後半こうはんごろから急速きゅうそく発展はってんした神経しんけい科学かがく莫大ばくだい発見はっけんかさねから、のういたってもやはり、そのいを原子げんし分子ぶんし機械きかいてき挙動きょどう結果けっかとして説明せつめいできることがあきらかになった。これにより心的しんてき性質せいしつとして理解りかいされていた様々さまざま人間にんげん行動こうどう運動うんどう発話はつわ表情ひょうじょう判断はんだんなど)も物理ぶつりてき領域りょういき現象げんしょうとしてのう物質ぶっしつてき要素ようそから説明せつめいされることが一般いっぱんてきになり、人間にんげん一種いっしゅ自動じどう機械きかいオートマトン)としてとらえるかんがかた非常ひじょう根強ねづよいものとなる。

しかしその 心的しんてき性質せいしつのうち、現象げんしょうてき意識いしきクオリアなどといわれる主観しゅかんてき体験たいけんについては、物理ぶつり領域りょういき単純たんじゅん還元かんげんすることがむずかしいのではないか、という問題もんだいが、しん哲学てつがく研究けんきゅうしゃたちを中心ちゅうしん数多かずおお提出ていしゅつされるようになる。因果いんがてき閉包性へいほうせい概念がいねんは、こうしたしん哲学てつがく分野ぶんやで、意識いしきやクオリアの自然しぜんかいでの位置いちづけの議論ぎろん、『物理ぶつり現象げんしょうはそれだけで因果いんがてきじているようにえるが、そうすると意識いしきやクオリアの居場所いばしょはどこにあるのか』、といった議論ぎろんおこなうさい登場とうじょうする概念がいねんである。

しん因果いんがてき[編集へんしゅう]

物理ぶつりてき領域りょういき因果いんがてき閉包性へいほうせい前提ぜんていにしたうえで、現象げんしょう意識いしきやクオリアの位置いちづけをさぐった場合ばあいもっともシンプルな解答かいとうとして随伴ずいはん現象げんしょうせつ帰結きけつする。

随伴ずいはん現象げんしょうせつでは意識いしきやクオリアといった主観しゅかんてき体験たいけんは、物理ぶつり現象げんしょうたいしてなん因果いんが作用さようももたないとする(すなわち主観しゅかんてき体験たいけん物理ぶつり現象げんしょう原因げんいんとなることはない、ということ)。この立場たちばからると主観しゅかんてき体験たいけんのポジションは、じた物理ぶつり領域りょういきたいして、ちゅうぶらりんな格好かっこうになる。そのため随伴ずいはん現象げんしょうせつにおける心的しんてきなものは、物理ぶつり現象げんしょうにぶらがっているだけの付属ふぞくぶつという意味いみで、「因果いんがてき提灯ぢょうちん」(いんがてきちょうちん、えい:Causal dangler)とばれることもある[1]

しかし現象げんしょう意識いしきやクオリアを、物理ぶつり状態じょうたいになんの因果いんが作用さようこさない随伴ずいはん現象げんしょうとして位置いちづけると、そこからはあるしゅパラドックスこされる。それは現象げんしょう意識いしきやクオリアにかんしてのうおこなっている判断はんだん報告ほうこくには現象げんしょう意識いしきやクオリア自体じたい因果いんがてき一切いっさいかかわっていないことになる、という問題もんだいである。この問題もんだい因果いんがてき排除はいじょ問題もんだい(Causal exclusion problem)、または現象げんしょう判断はんだんのパラドックス(Paradox of phenomenal judgement)などとばれる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ dangler (ダングラー)は「ぶらさがるもの」という意味いみ英語えいご。この言葉ことばに「提灯ちょうちん」という日本語にほんごやくてたのは、1989ねんハーバート・ファイグル邦訳ほうやくしょ『こころともの』(伊藤いとうしゃくやすし荻野おぎの弘之ひろゆき[わけ])においてであるとされる。(山口やまぐちしょう (2012) p.92, p.294)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]