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本性 ほんしょう (ほんせい、ほんしょう、英 えい : Human Nature 、人間 にんげん の本性 ほんしょう 、人間 にんげん の自然 しぜん 本性 ほんしょう )は、人間 にんげん が普遍 ふへん 的 てき に持 も つ思考 しこう 、感覚 かんかく 、行動 こうどう などを指 さ す概念 がいねん である。社会 しゃかい 学 がく 、社会 しゃかい 生物 せいぶつ 学 がく 、心理 しんり 学 がく では特 とく に進化 しんか 心理 しんり 学 がく と発達 はったつ 心理 しんり 学 がく が人間 にんげん の本性 ほんしょう を明 あき らかにしようと科学 かがく 的 てき な取 と り組 く みを行 おこな っている。哲学 てつがく 者 しゃ 、倫理 りんり 学者 がくしゃ と神学 しんがく 者 しゃ もまた人間 にんげん の本性 ほんしょう を古 ふる くから[いつ? ] 議論 ぎろん していた。
前 ぜん 近代 きんだい における自然 しぜん に関 かん する科学 かがく 的 てき 理解 りかい では、人間 にんげん の本性 ほんしょう は究極 きゅうきょく 的 てき でもっとも洗練 せんれん されたものと考 かんが えられていた。それは人間 にんげん 性 せい に対 たい する神 かみ の関与 かんよ や神聖 しんせい さ、イデア が人間 にんげん 個人 こじん とは独立 どくりつ して存在 そんざい することを含意 がんい していた。不変 ふへん の人間 にんげん 性 せい の存在 そんざい は古 ふる くから議論 ぎろん の対象 たいしょう であり、現在 げんざい でも継続 けいぞく 中 ちゅう である。ダーウィン は、人間 にんげん にも他 た の動物 どうぶつ にも本性 ほんしょう はあっても真 しん に固定 こてい 化 か されていないと主張 しゅちょう し、これは現在 げんざい の科学 かがく 者 しゃ から広 ひろ く受 う け入 い れられている。
ダーウィン以前 いぜん には、ルソー によって人間 にんげん の順応 じゅんのう 性 せい が主張 しゅちょう された。19世紀 せいき 中頃 なかごろ 以降 いこう 、人間 にんげん の本性 ほんしょう の存在 そんざい はヘーゲル 、マルクス 、ニーチェ 、サルトル のような思想家 しそうか と社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ 者 しゃ 、ポストモダニスト によって疑問 ぎもん を呈 てい された。科学 かがく 的 てき な視点 してん では、行動 こうどう 主義 しゅぎ 、決定 けってい 論 ろん 、精神 せいしん 医学 いがく 、心理 しんり 学 がく は相反 あいはん するモデルを持 も っている。彼 かれ らは人間 にんげん 性 せい の起源 きげん とメカニズムを説明 せつめい し、また固定 こてい 化 か された本性 ほんしょう という概念 がいねん を揺 ゆ るがす人間 にんげん の可塑 かそ 的 てき で多様 たよう な能力 のうりょく を示 しめ している。
形而上学 けいじじょうがく と倫理 りんり 学 がく [ 編集 へんしゅう ]
科学 かがく 者 しゃ と自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき 哲学 てつがく 者 しゃ の自然 しぜん 主義 しゅぎ 、唯物 ゆいぶつ 論 ろん 、合理 ごうり 主義 しゅぎ は人間 にんげん が完全 かんぜん に自然 しぜん 現象 げんしょう の一 ひと つであると言 い う視点 してん をとる。自然 しぜん 的 てき なメカニズム、つまり進化 しんか によって現在 げんざい の我々 われわれ が存在 そんざい する。人文 じんぶん 主義 しゅぎ 者 しゃ は人 ひと の行動 こうどう に普遍 ふへん 的 てき な善 ぜん や悪 あく の概念 がいねん を定義 ていぎ しようと試 こころ みる。しかし他 た の自然 しぜん 主義 しゅぎ 者 しゃ は善 ぜん や悪 あく の概念 がいねん が、単 たん に社会 しゃかい の期待 きたい に添 そ う行動 こうどう を取 と ったかどうかで貼 は られるレッテルではないかと疑問 ぎもん 視 し する。
ユダヤ教 きょう 、キリスト教 きりすときょう 、イスラム教 いすらむきょう のようなアブラハム宗教 しゅうきょう は人間 にんげん の本性 ほんしょう が霊的 れいてき な存在 そんざい であり、唯一 ゆいいつ 神 しん によって作 つく られ、現在 げんざい も神 かみ との繋 つな がりを持 も つと考 かんが える。善 ぜん や悪 あく は神 かみ の望 のぞ みや教 おし えに従 したが っているかどうかで定義 ていぎ される。
多神教 たしんきょう やアニミズム では、一般 いっぱん 的 てき には人間 にんげん は他 た の知性 ちせい のある存在 そんざい 、例 たと えば精霊 せいれい や神 かみ 、悪魔 あくま 、幽霊 ゆうれい といった神話 しんわ 上 じょう の存在 そんざい と同列 どうれつ に扱 あつか われる。その場合 ばあい 、人間 にんげん の悪 あく は超 ちょう 自然 しぜん 的 てき な影響 えいきょう であったりちょっとした気 き まぐれのような物 もの と考 かんが えられる。
全体 ぜんたい 論 ろん 、汎神論 はんしんろん 的 てき 世界 せかい 観 かん 、および一部 いちぶ の多神教 たしんきょう やアニミズムでは、人間 にんげん の本性 ほんしょう は神 かみ や神聖 しんせい な宇宙 うちゅう の一部 いちぶ と考 かんが えられる。仏教 ぶっきょう やヒンドゥー教 きょう のようなインド宗教 しゅうきょう や他 た の東 ひがし アジアの宗教 しゅうきょう の他 ほか 、西洋 せいよう 思想 しそう ではストア派 は や新 しん プラトン主義 しゅぎ 、スピノザ の哲学 てつがく はこれに含 ふく まれる。
占星術 せんせいじゅつ 師 し は、人間 にんげん の個性 こせい と将来 しょうらい 直面 ちょくめん する困難 こんなん の多 おお くは惑星 わくせい の位置 いち によって決定 けってい されている、あるいは影響 えいきょう を受 う けると考 かんが えている。彼 かれ らは他者 たしゃ の運命 うんめい を「当 あ て推量 ずいりょう 」するために多様 たよう な技術 ぎじゅつ を用 もち いる。
自由 じゆう 意思 いし と決定 けってい 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
自由 じゆう 意思 いし と決定 けってい 論 ろん の問題 もんだい は、人間 にんげん の本性 ほんしょう に関 かん する議論 ぎろん の中心 ちゅうしん を占 し めていた。自由 じゆう 意思 いし は真 しん に自由 じゆう な選択 せんたく をする人間 にんげん の能力 のうりょく を指 さ す。決定 けってい 論 ろん は人間 にんげん に対 たい して用 もち いられるときには、内外 ないがい の圧 あつ 力 りょく によって人間 にんげん の選択 せんたく が完全 かんぜん に決定 けってい されていることを示 しめ す。非 ひ 両立 りょうりつ 主義 しゅぎ は決定 けってい 論 ろん と自由 じゆう 意思 いし が両立 りょうりつ せず、つまり両方 りょうほう がともに正 ただ しいことはあり得 え ないと考 かんが える。
自然 しぜん 主義 しゅぎ とスピリチュアリズム[ 編集 へんしゅう ]
人間 にんげん の本性 ほんしょう についてもっともよく議論 ぎろん される別 べつ の面 めん は人間 にんげん の本性 ほんしょう の実在 じつざい 性 せい 、特 とく に肉体 にくたい との関係 かんけい である。これに対 たい する視点 してん は大 おお きく3つに分 わ ける事 こと ができる。
自然 しぜん 主義 しゅぎ の視点 してん では、人間 にんげん はいかなる意味 いみ でも霊的 れいてき な性質 せいしつ を持 も っておらず、自然 しぜん を超越 ちょうえつ した特別 とくべつ な目的 もくてき を持 も って生 う まれたのではない。人間 にんげん は完全 かんぜん に肉体 にくたい 的 てき な(物質 ぶっしつ 的 てき な)存在 そんざい であるとする唯物 ゆいぶつ 論 ろん と物理 ぶつり 主義 しゅぎ もこのなかに含 ふく まれる。しかし一部 いちぶ の自然 しぜん 主義 しゅぎ 者 しゃ は心身 しんしん について二元論 にげんろん をとる。自然 しぜん 主義 しゅぎ では人間 にんげん は計画 けいかく されて生 う まれた存在 そんざい ではない。それはランダムな変異 へんい と部分 ぶぶん 的 てき には方向 ほうこう 性 せい のある自然 しぜん 選択 せんたく の結果 けっか として生 う み出 だ された。自然 しぜん 主義 しゅぎ 者 しゃ は超 ちょう 自然 しぜん 的 てき な死後 しご の生命 せいめい や生 う まれ変 か わりを信 しん じない。自然 しぜん 主義 しゅぎ が受 う け入 い れがたい視点 してん としてしばしば非難 ひなん されるが、著名 ちょめい な科学 かがく 者 しゃ 、哲学 てつがく 者 しゃ 、思想家 しそうか によって発展 はってん した。自然 しぜん 主義 しゅぎ 者 しゃ はしばしば宗教 しゅうきょう 的 てき 信念 しんねん を根拠 こんきょ のない思想 しそう や呪術 じゅじゅつ 的 てき 思考 しこう 、迷信 めいしん と類似 るいじ したものと考 かんが える。
観念論 かんねんろん やイデア論 ろん は唯物 ゆいぶつ 論 ろん と対照 たいしょう 的 てき である。本質 ほんしつ 的 てき にそれは現象 げんしょう と真実 しんじつ の区別 くべつ であり、我々 われわれ が周囲 しゅうい に見 み ている物 もの は単 たん に何 なに か崇高 すうこう な神性 しんせい の反映 はんえい であり、また人間 にんげん (と恐 おそ らく動物 どうぶつ )の精神 せいしん や魂 たましい はその一部 いちぶ である。プラトン は人間 にんげん 性 せい を、地下 ちか 洞窟 どうくつ で生 う まれた時 とき から鎖 くさり に繋 つな がれた囚人 しゅうじん に喩 たと えた。彼 かれ は頭 あたま を動 うご かすことができず、見 み ることができるのは洞窟 どうくつ の外 そと の火 ひ によって壁 かべ の上 うえ に照 て らされた影 かげ だけである。プラトンにとって、魂 たましい は体 からだ を使 つか う精神 せいしん だった。それは非 ひ 自然 しぜん な結合 けつごう 状態 じょうたい にあり、肉体 にくたい という刑務所 けいむしょ からの解放 かいほう を切望 せつぼう している。
トマス・アクィナス の視点 してん は唯物 ゆいぶつ 論 ろん と観念論 かんねんろん の中間 ちゅうかん に位置 いち する。アクィナスの視点 してん は本質 ほんしつ 的 てき にはキリスト教 きりすときょう 神学 しんがく とアリストテレス の哲学 てつがく の統合 とうごう である。アリストテレスは人間 にんげん が動物 どうぶつ (物質 ぶっしつ )と理性 りせい (知性 ちせい ある魂 たましい )の統合 とうごう と言 い った。人間 にんげん の魂 たましい は霊的 れいてき で、不滅 ふめつ で、本質 ほんしつ 的 てき で、固有 こゆう 的 てき である。それは様々 さまざま なかたちで肉体 にくたい に依存 いぞん しており、明確 めいかく に区別 くべつ する事 こと ができるものの、肉体 にくたい と精神 せいしん は不可分 ふかぶん である。
自然 しぜん 状態 じょうたい とは社会 しゃかい 的 てき 要因 よういん が加 くわ えられる前 まえ の人間 にんげん の状態 じょうたい を指 さ す概念 がいねん で、人間 にんげん 性 せい の「ナチュラルエッセンス」を記述 きじゅつ する試 こころ みである。
性善説 せいぜんせつ
ジョン・ロック によれば自然 しぜん 状態 じょうたい の人間 にんげん には、自然 しぜん 法則 ほうそく に従 したが いながら行動 こうどう を命 めい じる完全 かんぜん な自由 じゆう がある。ロックはまた、人間 にんげん はみな等 ひと しい価値 かち を持 も つので、他者 たしゃ の許可 きょか を得 え ずともそれぞれが行動 こうどう することができるというホッブズ に同意 どうい した。財産 ざいさん 権 けん をまもるためにコミュニティに参加 さんか することを同意 どうい するとき、自然 しぜん 状態 じょうたい を失 うしな う。
ペラギウス によれば人 ひと は原罪 げんざい によって穢 けが されておらず、その代 か わりに完全 かんぜん に善 ぜん か悪 あく を選 えら ぶことができる。
性悪説 せいあくせつ
ホッブズによれば自然 しぜん 状態 じょうたい の人間 にんげん は本質 ほんしつ 的 てき に、「全 すべ てに対 たい する全 すべ ての闘争 とうそう 」である。そして人生 じんせい は「汚 きたな くて、野蛮 やばん で、短 みじか い」。この状態 じょうたい はよい政府 せいふ によって正 ただ されることができる。
キリスト教 きりすときょう の原罪 げんざい の概念 がいねん によれば、人間 にんげん はアダムの罪 つみ によって穢 けが された本質 ほんしつ 的 てき に堕落 だらく した存在 そんざい で、イエス・キリスト の正 ただ しさに対 たい する信仰 しんこう をとおして神 かみ の慈悲 じひ により救 すく われるだけである。
バートランド・ラッセル によれば道徳 どうとく 的 てき な罪 つみ あるいは罰 ばち は、捕食 ほしょく 者 しゃ であった我々 われわれ の祖先 そせん から受 う け継 つ いだ本能 ほんのう である。
生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 決定 けってい 論 ろん と環境 かんきょう 決定 けってい 論 ろん によれば、人間 にんげん の行動 こうどう は生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 、環境 かんきょう 的 てき に決定 けってい されており、一部 いちぶ の人 ひと はしたがって、悪 わる いとされる行動 こうどう にも良 よ いとされる行動 こうどう にも、本当 ほんとう に個人 こじん の責任 せきにん を問 と うことができないと主張 しゅちょう する。
人間 にんげん の道徳 どうとく 性 せい の起源 きげん と性質 せいしつ に関 かん する視点 してん
道徳 どうとく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん または道徳 どうとく 的 てき 客観 きゃっかん 主義 しゅぎ は道徳 どうとく の規準 きじゅん が人間 にんげん の視点 してん から超越 ちょうえつ して存在 そんざい すると考 かんが える。問題 もんだい に対 たい する人間 にんげん の意見 いけん に関係 かんけい なく、善悪 ぜんあく は決定 けってい できる。客観 きゃっかん 的 てき な道徳 どうとく は人間 にんげん の本性 ほんしょう 、神 かみ の命令 めいれい 、あるいはその両方 りょうほう から生 しょう じると見 み なされる。
道徳 どうとく 的 てき 相対 そうたい 主義 しゅぎ は道徳 どうとく の規準 きじゅん は社会 しゃかい 構築 こうちく 物 ぶつ であり、その社会 しゃかい 以外 いがい では意味 いみ を持 も たないと考 かんが える。
道徳 どうとく 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ は特定 とくてい の行為 こうい が善 ぜん であり、または悪 あく であり、文脈 ぶんみゃく に依存 いぞん しないと考 かんが える。
道徳 どうとく 的 てき 普遍 ふへん 主義 しゅぎ は道徳 どうとく 相対 そうたい 主義 しゅぎ と道徳 どうとく 絶対 ぜったい 主義 しゅぎ の妥協 だきょう 点 てん であり、一般 いっぱん 的 てき に通用 つうよう する中心 ちゅうしん 的 てき な道徳 どうとく 性 せい があると考 かんが える。
無 む 道徳 どうとく 主義 しゅぎ は善 ぜん や悪 あく の概念 がいねん が無意味 むいみ であると考 かんが える。
自然 しぜん 主義 しゅぎ 者 しゃ は人生 じんせい に究極 きゅうきょく 的 てき な目的 もくてき はないと考 かんが える。この見解 けんかい の支持 しじ 者 しゃ はしばしば世俗 せぞく 的 てき ヒューマニズム を支持 しじ する。
目的 もくてき 論 ろん は人間 にんげん の存在 そんざい に固有 こゆう の目的 もくてき があると考 かんが える。
ニヒリズム はいかなる存在 そんざい も客観 きゃっかん 的 てき な意味 いみ 、目的 もくてき 、価値 かち を持 も たないと考 かんが える。
心理 しんり 学 がく と生物 せいぶつ 学 がく [ 編集 へんしゅう ]
哲学 てつがく と科学 かがく の長 なが い議論 ぎろん の中心 ちゅうしん は、不変 ふへん の人間 にんげん 性 せい が存在 そんざい するかどうかである。そして以下 いか のような疑問 ぎもん が提示 ていじ されている。
何 なに が人間 にんげん の本性 ほんしょう を決定 けってい するか?あるいは何 なに が人間 にんげん の本性 ほんしょう を制約 せいやく し、影響 えいきょう を与 あた えるか?
人間 にんげん の本性 ほんしょう はどの程度 ていど 可塑 かそ 的 てき か?
それはどの程度 ていど 個人 こじん の間 あいだ 、社会 しゃかい の間 あいだ で変動 へんどう するか?
人間 にんげん 行動 こうどう は多様 たよう であり、全 まった く不変 ふへん の人間 にんげん 行動 こうどう を見 み つけることは難 むずか しい。人間 にんげん 性 せい に関 かん する小 ちい さな、しかし科学 かがく 的 てき には重要 じゅうよう な証拠 しょうこ は行動 こうどう 科学 かがく 者 しゃ から提示 ていじ されている。生物 せいぶつ 学者 がくしゃ は行動 こうどう の傾向 けいこう に影響 えいきょう を与 あた える遺伝子 いでんし を捜 さが している。遺伝子 いでんし の発現 はつげん は環境 かんきょう の影響 えいきょう を受 う けるために、100%同 おな じ傾向 けいこう を与 あた える遺伝子 いでんし は存在 そんざい しないと考 かんが えられているが、強 つよ く遺伝 いでん 的 てき な傾向 けいこう がある行動 こうどう 形質 けいしつ は人間 にんげん の本性 ほんしょう の一部 いちぶ であると考 かんが えられる。
ジョン・ロックの経験 けいけん 主義 しゅぎ の原理 げんり は人間 にんげん の本性 ほんしょう をまっさらな白紙 はくし 状態 じょうたい と見 み なした。この視点 してん では、人 ひと は生 う まれた時 とき には空白 くうはく の石版 せきばん であるので規則 きそく を持 も たず、我々 われわれ が感覚 かんかく を通 とお して経験 けいけん するデータによって心 しん の規則 きそく は形作 かたちづく られる。認知 にんち 科学 かがく 者 しゃ はこの見解 けんかい を支持 しじ していないが、特 とく にE.O.ウィルソン の社会 しゃかい 生物 せいぶつ 学 がく と、進化 しんか 心理 しんり 学 がく によって強 つよ く反対 はんたい された。
普遍 ふへん 性 せい の議論 ぎろん [ 編集 へんしゅう ]
全 すべ ての個人 こじん 、全 すべ ての社会 しゃかい に類似 るいじ した表情 ひょうじょう の文法 ぶんぽう がある。誰 だれ でも笑顔 えがお によって同 おな じ事 ごと を伝 つた えあう。また眼 め を使 つか って意思 いし を伝 つた えあうのも共通 きょうつう である。魅力 みりょく 的 てき な顔 かお は左右 さゆう 対称 たいしょう 性 せい と配置 はいち の影響 えいきょう を受 う け、人種 じんしゅ や文化 ぶんか に左右 さゆう されず、良 よ い環境 かんきょう や優良 ゆうりょう 遺伝子 いでんし に起因 きいん する発達 はったつ の健全 けんぜん さや健康 けんこう さの目安 めやす となっているようである。女性 じょせい は女性 じょせい 的 てき で神経質 しんけいしつ そうな顔 かお よりも、雄々 おお しく積極 せっきょく 的 てき であると評価 ひょうか される男性 だんせい の顔 かお を選 えら ぶ通 つう 文化 ぶんか 的 てき な傾向 けいこう があるようである。排卵 はいらん 期 き には女性 じょせい はより魅力 みりょく 的 てき であると評価 ひょうか される。新生児 しんせいじ は他 た の形状 けいじょう よりも人間 にんげん の顔 かお をより好 この み、他 た の人 ひと の声 こえ や音 おと よりも母親 ははおや の声 こえ を良 よ く好 この む強 つよ い傾向 けいこう がある。ドナルド・E・ブラウン は著書 ちょしょ 『ヒューマン・ユニバーサルズ 』で全 すべ ての人間 にんげん の間 あいだ に共通 きょうつう する基本 きほん 的 てき に不変 ふへん な特徴 とくちょう を400確認 かくにん した。
影響 えいきょう の大 おお きな思想家 しそうか の視点 してん [ 編集 へんしゅう ]
プラトン はソクラテス から理性 りせい の概念 がいねん と人 ひと の生涯 しょうがい を調 しら べることを学 まな び、その上 うえ に形而上学 けいじじょうがく と、人類 じんるい 学 がく 的 てき な考察 こうさつ を行 おこな った。彼 かれ にとって人間 にんげん とは頭 あたま の中 なか に知性 ちせい のある魂 たましい を住 す まわせ、体 からだ は貪欲 どんよく な獣 しし であった。魂 たましい の義務 ぎむ は野獣 やじゅう の体 からだ を抑制 よくせい し、不快 ふかい な共存 きょうぞん 状態 じょうたい からの解放 かいほう として死 し を歓迎 かんげい することであった。プラトンの二元論 にげんろん は非常 ひじょう に影響 えいきょう 力 りょく があった。それはキリスト教 きりすときょう 神学 しんがく にも深 ふか い影響 えいきょう を与 あた えた。
アリストテレス はプラトンのもっとも有名 ゆうめい な教 おし え子 ご であり後世 こうせい に多 おお くの影響 えいきょう を与 あた えた。
人間 にんげん は結婚 けっこん する動物 どうぶつ である。家庭 かてい を築 きず き、一族 いちぞく や村 むら を築 きず き、父権 ふけん の系統 けいとう を存続 そんぞく させる(ニコマコス倫理 りんり 学 がく )
人間 にんげん は政治 せいじ をする動物 どうぶつ である。複雑 ふくざつ な共同 きょうどう 体 たい を開発 かいはつ する生得 しょうとく 的 てき な傾向 けいこう を持 も つ。家庭 かてい 的 てき な側面 そくめん とは対照 たいしょう 的 てき に、合理 ごうり 性 せい 、特 とく に法 ほう と伝統 でんとう を作 つく ることによって繁栄 はんえい する。
人間 にんげん は模倣 もほう する動物 どうぶつ である。法 ほう を作 つく り町 まち を運営 うんえい するだけでなく、想像 そうぞう 力 りょく を働 はたら かせることも好 この む。
ルソー がフランス革命 かくめい 前 まえ に書 か いた著作 ちょさく は、人 ひと は本来 ほんらい 孤独 こどく で、政治 せいじ を学 まな んだのだと述 の べて西洋 せいよう 革命 かくめい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。この重要 じゅうよう な点 てん は、人間 にんげん の本性 ほんしょう は固定 こてい されておらず、少 すく なくとも以前 いぜん の思想家 しそうか が考 かんが えたほど大 おお きく存在 そんざい しているのではないと言 い うことである。人間 にんげん は現在 げんざい は政治 せいじ 的 てき で、合理 ごうり 的 てき で、言語 げんご を持 も っているが、当初 とうしょ はそれらを持 も っていなかった。ルソーは人間 にんげん の本性 ほんしょう を否定 ひてい しなかったが、それは不 ふ 合理 ごうり で道徳 どうとく 意識 いしき とはかけ離 はな れた本能 ほんのう 的 てき な情動 じょうどう としてのみであった。これは19,20世紀 せいき まで、特 とく にカント 、ヘーゲル 、マルクス に大 おお きな影響 えいきょう を残 のこ した。
マルクス は人間 にんげん の本性 ほんしょう を否定 ひてい し社会 しゃかい 化 か と経験 けいけん に全 まった く依存 いぞん した空白 くうはく の石版 せきばん だと主張 しゅちょう したと見 み なされることがある。マルクスが環境 かんきょう 要因 よういん を非常 ひじょう に重要 じゅうよう と見 み なしたことは事実 じじつ であるが、理論 りろん の展開 てんかい の間 あいだ に、人間 にんげん の本性 ほんしょう に対 たい する強 つよ い視点 してん を持 も っていた。彼 かれ は資本 しほん 主義 しゅぎ の元 もと で人 じん が本性 ほんしょう から引 ひ き離 はな されると考 かんが えた。そして資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい に続 つづ く、人間 にんげん が個性 こせい と本性 ほんしょう をより発揮 はっき できる社会 しゃかい を想定 そうてい した。それは共産 きょうさん 主義 しゅぎ であった。
オーストリア学派 がくは の経済 けいざい 学 がく 思想家 しそうか は1870年代 ねんだい から1940年代 ねんだい にかけてマルクスの視点 してん に大 おお きく反対 はんたい する独自 どくじ の視点 してん を発展 はってん させた。彼 かれ らは初期 しょき の哲学 てつがく 者 しゃ や啓蒙 けいもう 思想家 しそうか に頼 たよ ったものではあったが、発展 はってん の過程 かてい で人間 にんげん の本性 ほんしょう に対 たい する特徴 とくちょう 的 てき な視点 してん を提唱 ていしょう した。彼 かれ らはデカルト やカント のように不変 ふへん の人間 にんげん 性 せい が存在 そんざい するが、本性 ほんしょう のより完全 かんぜん な理解 りかい を通 とお して進歩 しんぽ が可能 かのう だと考 かんが えた。彼 かれ らは限定 げんてい 合理 ごうり 性 せい と限界 げんかい 効用 こうよう の追求 ついきゅう に関連 かんれん した人間 にんげん の本性 ほんしょう を想定 そうてい した。
経済 けいざい 学 がく と同 どう 時期 じき にオーストリア では精神 せいしん 分析 ぶんせき も立 た ち上 あ がろうとしていた。創始 そうし 者 しゃ であるジークムント・フロイト は、マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ が「人 ひと の経済 けいざい 環境 かんきょう が知的 ちてき 、倫理 りんり 的 てき 、芸術 げいじゅつ 的 てき 態度 たいど に与 あた える決定的 けっていてき な影響 えいきょう 」に注視 ちゅうし するのは正 ただ しいことだと考 かんが えていた。同時 どうじ にマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ の階級 かいきゅう 闘争 とうそう が現代 げんだい [いつ? ] まで続 つづ いているという視点 してん は浅 あさ すぎるとも考 かんが えていた。階級 かいきゅう 闘争 とうそう に続 つづ いて、フロイトによれば闘争 とうそう は父 ちち と子 こ の間 あいだ で、一族 いちぞく のリーダーと反抗 はんこう 的 てき な挑戦 ちょうせん 者 しゃ との間 あいだ で残 のこ っている。この精神 せいしん に基 もと づいてソビエト連邦 れんぽう を厳 きび しく批判 ひはん した。
E.O.ウィルソン は1979年 ねん の著書 ちょしょ で次 つぎ のように述 の べた。「人 ひと もまた自然 しぜん 選択 せんたく の産物 さんぶつ なのだという命題 めいだい は、確 たし かにあまり魅力 みりょく 的 てき なものではないが、この見解 けんかい を回避 かいひ する道 みち はなさそうである。そして、人間 にんげん の置 お かれた状況 じょうきょう を真剣 しんけん に考察 こうさつ しようとする際 さい に、この命題 めいだい はつねにその出発 しゅっぱつ 点 てん に置 お かれるべき必須 ひっす の仮説 かせつ と言 い える」。1998年 ねん には、人間 にんげん の本性 ほんしょう の解明 かいめい のために全 すべ ての科学 かがく が協力 きょうりょく するときだと主張 しゅちょう した。文化 ぶんか 的 てき な現象 げんしょう や儀式 ぎしき は人間 にんげん 性 せい の産物 さんぶつ であってその一部 いちぶ ではない。例 たと えば美術 びじゅつ 品 ひん は人間 にんげん 性 せい ではないが、美術 びじゅつ を扱 あつか う心 しん は人間 にんげん 性 せい の一部 いちぶ である。そして芸術 げいじゅつ 心 しん やヘビへの嫌悪 けんお やインセスト・タブー は科学 かがく 的 てき 還元 かんげん 主義 しゅぎ によって明 あき らかにできると主張 しゅちょう する。これまでそのような現象 げんしょう は心理 しんり 学 がく 、社会 しゃかい 学 がく 、人類 じんるい 学 がく が扱 あつか ってきたが、ウィルソンはそれが自然 しぜん 科学 かがく も含 ふく めた学際 がくさい 的 てき な研究 けんきゅう の一部 いちぶ であり得 え ると提案 ていあん した。