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目的もくてきろん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

目的もくてきろんえい: teleologyどく: Teleologie)とは、我々われわれ人間にんげんいとなみやこの世界せかいが、なんらかの目的もくてきによって規定きてい支配しはいされ、それを達成たっせいするために存在そんざい現象げんしょうしているとする思想しそうてき哲学てつがくてき立場たちばのこと[1]人間にんげん主体性しゅたいせい強調きょうちょうするものから、自然しぜん本性ほんしょう強調きょうちょうするもの、かみ意思いし強調きょうちょうするもの、それらを混合こんごうしたものまで、様々さまざまかれる。

人間にんげん世界せかい存在そんざい現象げんしょう目的もくてきい」とする機械きかいろん対置たいちされる。

また、カント関連かんれん倫理りんりがくてき文脈ぶんみゃくでは、帰結きけつ主義しゅぎ同一どういつされ、規則きそく主義しゅぎ規範きはん主義しゅぎ義務ぎむろん)と対置たいちされることもある[2]

概要がいよう

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この言葉ことば自体じたいは、ギリシャで「目的もくてき終局しゅうきょく」を意味いみする “τέλος” (telos、テロス)からつくられたドイツ単語たんごであり、クリスティアン・ヴォルフによってつくられ、1728ねん自著じちょ導入どうにゅうされたとされている[1]

「この世界せかいの「実体じったい本質ほんしつてき存在そんざいなにであるか」を考察こうさつする「存在そんざいろん」にたいして、「目的もくてきろん」は、「人間にんげんふくしょ存在そんざいが、(究極きゅうきょくてきに)どこにかってなに目指めざしてなに(どのような状態じょうたい)を達成たっせい実現じつげんすべく存在そんざい活動かつどうしているのか」を考察こうさつする。したがって、全般ぜんぱんてきには、前者ぜんしゃの「存在そんざいろん」は世界せかいたいする「静的せいてき」(static) な考察こうさつという性格せいかくつよいのにたいして、後者こうしゃの「目的もくてきろん」は事物じぶつたいする「動的どうてき」(dynamic) な考察こうさつという性格せいかくつよい。(ただし、とりわけマルティン・ハイデッガー以降いこう欧州おうしゅうどくふつ)を中心ちゅうしんとしたいわゆる現代げんだい哲学てつがくでは、存在そんざい自体じたい自己じこ関心かんしん世界せかいとのかた)によって産出さんしゅつされるとかんがえるので、両者りょうしゃ動的どうてき観点かんてんによって統合とうごうされることになる。)

また、近代きんだい初頭しょとう17世紀せいきてきデカルトてき古典こてん力学りきがくてきな、静的せいてき因果律いんがりつ構造こうぞうのみを想定そうていした「機械きかいろん」にたいして、終局しゅうきょく目的もくてきからさかのぼってごう目的もくてき情報じょうほう秩序ちつじょてるありかたとして、「目的もくてきろん」が対置たいちされることもおお[1]。この対比たいひは、とりわけカント理論りろん理性りせいたいする実践じっせん理性りせい人間にんげん自由じゆう道徳どうとく法則ほうそくめぐ議論ぎろん理解りかいするじょうで、とても重要じゅうようになる。

歴史れきし

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古代こだい

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古代こだいギリシャにおける初期しょきの(自然しぜん哲学てつがくしゃたちは、世界せかい根源こんげんてき始原しげんてき存在そんざいアルケー」や抽象ちゅうしょうてき法則ほうそくせいロゴスヌースひとし)を、(観察かんさつてきにであれ、論理ろんりてき形而上けいじじょうてきにであれ)考察こうさつしたが、そうじて「存在そんざいろん」の範疇はんちゅうまり、「目的もくてきろんてき観点かんてんたなかった。かれらの世界せかいかんは「循環じゅんかんてき」なものであり、動的どうてき観点かんてんったとしても、それは循環じゅんかんてき状態じょうたい遷移せんいとしてであり、どこかにけてすすんでいくという観点かんてんたなかった。

ソクラテス

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人間にんげんについての目的もくてきろん嚆矢こうしは、ソクラテスであると措定そていされている。かれは「アレテー」(とく卓越たくえつせい)を重視じゅうしし、人間にんげんたましい精神せいしん)を可能かのうなかぎり向上こうじょうさせ、せい達成たっせいしていくことを目的もくてきとした。しかし、それは「物質ぶっしつてき」になのか「精神せいしんてき」になのか、あるいは「知的ちてき」になのか「霊的れいてき」になのか、様々さまざま意見いけん解釈かいしゃくかれ、かれ弟子でしたちもプラトンキュニコスからキュレネいたるまで、様々さまざま分岐ぶんきしていくことになる。

プラトン

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プラトンは、ピュタゴラス教団きょうだんエレア影響えいきょうけつつ、中期ちゅうき対話たいわへんにおいて、「想起そうきせつ」「イデアろん」とばれる一連いちれん思想しそう展開てんかいし、「ぜんのイデア」を目指めざ倫理りんりかんとしてソクラテスの発想はっそう合理ごうりした。その思想しそう物語ものがたり)は以下いかのようなものである:「我々われわれたましい(プシュケー、精神せいしん)は、大昔おおむかしかみ々ととも天上てんじょうかいにいて、実在じつざい(イデア)を観照かんしょうしていたが、地上ちじょうかいちてきて、肉体にくたい寄生きせいし、輪廻りんね転生てんせいかえすことになった。我々われわれ忘却ぼうきゃくしてしまっているが、たましいには、かつての天上てんじょうかいにおける実在じつざい(イデア)の記憶きおくのこされており、我々われわれはそれをこす真実しんじつ(イデア)の姿すがたきつけられ、その記憶きおくもどそうとする。そうしてとくんだたましいは、輪廻りんね転生てんせいからいちはや解脱げだつし、天上てんじょうかい帰還きかんすることができる。」

こうしてプラトンは、人間にんげんなま真実しんじつもとめる性質せいしつを、「たましいによるイデアの想起そうき」として合理ごうりし、「天上てんじょうかいへの(いちはやい)帰還きかん」「とくそだててかみ々へとちかづくこと」を究極きゅうきょく目的もくてきとした。

後期こうきにはプラトンは、ぜんのイデアの神格しんかくである、ぜんなる創造そうぞうぬしデミウルゴス」をしつつ、この世界せかい宇宙うちゅうそのものが、ぜん体現たいげんすべくかみによって形成けいせい管理かんりされていることをき、キリスト教きりすときょう神学しんがくにも影響えいきょうあたえることになる。

アリストテレス

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古代こだいギリシャで展開てんかいされてきた諸説しょせつ、そして自然しぜんかんする知見ちけんけていたアリストテレスは、「よん原因げんいんせつ」を基礎きそとして、人間にんげんまらず、自然しぜん万物ばんぶつが、デュナミス可能かのうたい)からエネルゲイアげん実態じったい)をて、エンテレケイア完全かんぜんげん実態じったい)を実現じつげんする過程かていにあるのだという、抽象ちゅうしょうてきかつ包括ほうかつてきな、壮大そうだい理論りろん大成たいせいした。その理論りろんでは、万物ばんぶつ自己じこ役割やくわり潜在せんざいせいくした完全かんぜんげん実態じったい(=自足じそく状態じょうたい)の達成たっせい究極きゅうきょく目的もくてきとされ、それにけて運動うんどうつづけることになる。人倫じんりん社会しゃかい政治せいじも、その一部いちぶとして説明せつめいされる。(プラトンの「デミウルゴス」に相当そうとうする)自足じそくした「不動ふどうどうしゃ」としてのかみとはことなり、人間にんげんおのれ一人ひとりでは自足じそくできないので、共同きょうどうして社会しゃかい構成こうせいする。人間にんげんのあらゆるいとなみには目的もくてきがあるが、究極きゅうきょくてきにはそれ自体じたい目的もくてきであるような「最高さいこうぜん」が目指めざされる。

このように、アリストテレスと目的もくてきろん不可分ふかぶん関係かんけいにあり、アリストテレスおよびその理論りろんは、古代こだいにおける目的もくてきろん象徴しょうちょうてき中心ちゅうしんてき位置いちめる。

古代こだいインドでは、バラモン教ばらもんきょうウパニシャッド哲学てつがく以来いらい世界せかい根源こんげん本質ほんしつ(梵、ブラフマン)とたましいアートマン)の同一どういつせいさと境地きょうち梵我一如いちにょ)にいたること、そしてそれにより輪廻りんね転生てんせいす(解脱げだつする)ことが、人間にんげん究極きゅうきょく目的もくてきとされてきた。この発想はっそうは、(すこ観点かんてん用語ようご・ニュアンスがことなる場合ばあいもあるが)仏教ぶっきょうジャイナきょうなど、のインドけい宗教しゅうきょうによっても継承けいしょうされている。

このインド思想しそうは、上記じょうきしたように、プラトンの発想はっそう類似るいじしている。また、後代こうだいの、「いちしゃからの流出りゅうしゅつ」(と、そこへの回帰かいき)を特徴とくちょうとするネオプラトニズムともちかい。

中世ちゅうせい

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神学しんがくつよ社会しゃかいてき影響えいきょうりょくっていた中世ちゅうせいでは、目的もくてきろんは「かみ意思いし」(摂理せつり)として置換ちかんされ、考察こうさつされた。(こういった発想はっそう自体じたいは、かみ々にたいする敬虔けいけん信仰しんこうしんっていたソクラテスをふくめ、古代こだいからわりとよくある発想はっそうであり、中世ちゅうせい特徴とくちょうてきというわけでもない。)

近代きんだい以降いこう

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17世紀せいき以降いこう古典こてん力学りきがく・「機械きかいろんてき自然しぜんかん発端ほったんとして自然しぜん科学かがく発達はったつしてきた近代きんだいにおいては、アリストテレスてき世界せかい全体ぜんたい包括ほうかつした目的もくてきろん解体かいたいされ、(世界せかい説明せつめいする自然しぜん科学かがくたいして)我々われわれ人間にんげん社会しゃかいがどうあるべきかという、ソクラテスてきな、人間にんげん社会しゃかいのありかた限定げんていされた目的もくてきろん回帰かいきしていくことになる。(同時どうじに、目的もくてきろんかぎらず、哲学てつがくそのものが、自然しぜん科学かがくてき領野りょうやいやられていき、人間にんげんろん社会しゃかいろんや、カントにはじまる境界きょうかい策定さくていてき科学かがく哲学てつがくてき言説げんせつ変容へんようしていくことになる。)

18世紀せいき代表だいひょうする哲学てつがくしゃであるイマヌエル・カントは、形而上学けいじじょうがくにおける、曖昧あいまい了解りょうかいもとづく超越ちょうえつてき(transcendent)言説げんせつ乱立らんりつによる無秩序むちつじょ状況じょうきょう終止符しゅうしふつべく、人間にんげんはその能力のうりょくしたがい、なに適正てきせいるか、かたるかを、感性かんせい悟性ごせい理性りせい吟味ぎんみ批判ひはんとおして秩序ちつじょて、その適正てきせいなルールにのっとった、あくまで内在ないざいてき超越ちょうえつてき)な立場たちばからの、超越ちょうえつろんてき先験的せんけんてき、transcedental)な言及げんきゅう可能かのうにする環境かんきょう整備せいび企図きとした、批判ひはん哲学てつがく創始そうししゃとしてられる。

その議論ぎろんなかで、かれ感性かんせい悟性ごせいによる経験けいけんてき現象げんしょうてき因果律いんがりつ機械きかいろんてき必然ひつぜんてき認識にんしき対応たいおうする理論りろん理性りせいには回収かいしゅうされらない、そして(その対象たいしょうにならないがゆえに)それらと両立りょうりつ可能かのうな、もの自体じたい自由じゆう背景はいけいとする、経験けいけん不可能ふかのうで、自律じりつてきな、当為とうい義務ぎむ規範きはん)によってつ、実践じっせん理性りせい余地よちみとめる。

この議論ぎろんのっとったかれ社会しゃかいろんでは、自身じしん実践じっせんてき規範きはん格率かくりつ)が「普遍ふへんてき立法りっぽう原理げんりとして妥当だとうする」ことを要請ようせいしつつ、その道徳どうとく法則ほうそくのっとって自律じりつしたかく人格じんかくが、たがいの人格じんかく目的もくてきとして尊重そんちょうし、共同きょうどうする「目的もくてき王国おうこく」が目指めざされる。

ヘーゲル

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17世紀せいきてき古典こてん力学りきがくてきな「機械きかいろん」から、生物せいぶつがくてきな「ゆう機体きたいろん」(社会しゃかいゆう機体きたいろん[3]、「進化しんかろん」(社会しゃかい進化しんかろん)へと世界せかいかん移行いこうしてきた19世紀せいき代表だいひょうする哲学てつがくしゃであるヘーゲルは、機械きかいろん(に対応たいおうする理論りろん理性りせい)と、その残余ざんよ(に対応たいおうする実践じっせん理性りせい)の二分にぶんほうつカントの議論ぎろん破棄はきし、個々ここ精神せいしん絶対ぜったい精神せいしんへとすすんでいく(そして現実げんじつ形成けいせいしていく)過程かてい弁証法べんしょうほうてきえがした。

ヘーゲルのこの議論ぎろんを、カール・マルクスらが生産せいさん関係かんけい基礎きそとしてなおしたことで、共産きょうさん主義しゅぎ目指めざされる社会しゃかい進化しんかろんとしてのマルクス主義まるくすしゅぎ成立せいりつした。

マルティン・ハイデッガー

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20世紀せいき欧州おうしゅうどくふつ)を中心ちゅうしんとした現代げんだい哲学てつがく発端ほったんとなった哲学てつがくしゃであるマルティン・ハイデッガーは、フッサール現象げんしょうがくから出発しゅっぱつし、アリストテレスら古代こだいギリシャ以降いこうからヘーゲルらにいたるまでの伝統でんとうてき哲学てつがくにおいて、「存在そんざい自体じたい不問ふもんされている、いいかえれば、人間にんげん世界せかいとのかかわりかた画一かくいつてき先決せんけつされていることを問題もんだいにした。かれ曖昧あいまい存在そんざい了解りょうかいもとづく存在そんざいてき(ontic)ないをはっする実証じっしょう科学かがくとはことなり、より根源こんげんてきな、「存在そんざい」そのそもにたいする存在そんざいろんてき(ontological)ない(「基礎きそてき存在そんざいろん」)が必要ひつようであり、それこそが本来ほんらい、まさに哲学てつがく役割やくわりであるとかんがえた。

かれ存在そんざいろんでは、「世界せかい-ない-存在そんざい」(In-der-Welt-sein)としての「げん存在そんざい」(Dasein)である我々われわれ人間にんげんが、不安ふあんおおかくし、平均へいきんてき画一かくいつてき世間せけんてき関心かんしん逃避とうひ没入ぼつにゅうくずおれおとした「ひと」(das Man)から、本来ほんらいてきなありかたである、への不安ふあんけた「への存在そんざい」(Sein zum Tode)として、しん実存じつぞん確立かくりつすることが目指めざされる。

出典しゅってん脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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