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ストア

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キプロスとう出身しゅっしんゼノン

ストア(ストアは、まれ: Στωικισμόςえい: Stoicism、ストイシズム)は、ヘレニズム哲学てつがくいち学派がくはで、紀元前きげんぜん3世紀せいきはじめの古代こだいギリシャゼノンによってはじめられた。

みずからにりかかる苦難くなんなどの運命うんめいをいかに克服こくふくしてゆくかを哲学てつがく提唱ていしょうした[1]たとえば、知者ちしゃすなわち「道徳どうとくてき知的ちてき完全かんぜん」なひとは、判断はんだんあやまりからまれる破壊はかいてき衝動しょうどうなどにさいなまされることはない、といている[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

ストア関心かんしんいていたのは、宇宙うちゅうろんてき決定けっていろん人間にんげん自由じゆう意思いしとの関係かんけいや、自然しぜん一致いっちする意志いし(プロハイレーシスばれる)を維持いじすることが道徳どうとくてきなことであるというきょうせつである。このため、ストアみずからの哲学てつがく生活せいかつ方法ほうほうとしてあらわし、個々人ここじん哲学てつがくもっともよくしめすものは発言はつげん内容ないようよりも行動こうどう内容ないようであるとかんがえた[3]

ルキウス・アンナエウス・セネカエピクテトスのような後期こうきストアは、「とく幸福こうふくにより十全じゅうぜんとなる」という信念しんねんから、知者ちしゃ不幸ふこうどうじないと主張しゅちょうした。この思想しそうは「ストアてき静寂しじま」というフレーズが意味いみするところにちかい。だが、知者ちしゃしん自由じゆうとされ、あらゆる道徳どうとくてき腐敗ふはいひとしく悪徳あくとくであるという「過激かげき倫理りんりてきな」ストア思想しそう含意がんいしない[2]

ヘレニズム時代じだい以降いこう古代こだいギリシアローマ時代じだいにおいてはアカデメイア学派がくは逍遥しょうよう学派がくはエピクロスならんでよん大学だいがくとされていた。創始そうし以降いこう、ストア思想しそう古代こだいギリシアマ帝国まていこくつうじて非常ひじょう流行りゅうこうし、マルクス・アウレリウス・アントニヌスをも信奉しんぽうしゃとして、哲学てつがく異教いきょうてき性格せいかくキリスト教きりすときょう教義きょうぎ調和ちょうわしないものとしてユスティニアヌス1せいすべての学派がくははいするまでつづいた[4][5]

ストアなるは、ゼノンアテナイアゴラ北面ほくめん彩色さいしき柱廊ちゅうろうストア・ポイキレ)で教授きょうじゅしていたことにちなむ。

おおくの古代こだいギリシャの哲学てつがくしゃが、一神教いっしんきょう多神教たしんきょうてき一神教いっしんきょうしんじていた[6]が、ストア影響えいきょうけた中期ちゅうき後期こうきプラトン主義しゅぎについても異教いきょう一神教いっしんきょう(pagan monotheism)として分類ぶんるいすることがある[7]

基本きほんてききょうせつ[編集へんしゅう]

哲学てつがく人間にんげん自分じぶん外部がいぶにあるすべてのものをれることを保証ほしょうしないが、わりにその適切てきせつ主題しゅだいなかねむっているものをれるであろう。大工だいく使つか素材そざい木材もくざい彫刻ちょうこくよう青銅せいどうであるから、かた素材そざい各人かくじんなまである。」

—エピクテトス[8]

ストア主義しゅぎしゃそれぞれのかんがかたたがいに密接みっせつ関係かんけいしている。

ストア思想しそうについては現存げんそん資料しりょう後期こうきかたよっているため、前期ぜんき中期ちゅうき思想しそう明確めいかくにはわからない。したがっていくつかの断片だんぺんてき資料しりょうや、後期こうきでももっと前期ぜんきちかいとされるキケロ、エピクテトスの思想しそう(ただしエピクテトス自身じしん著作ちょさくのこさなかったことからかれ思想しそう弟子でしアッリアノス記録きろくによる)から推測すいそくするしかない。

ストア世界せかい統一とういつてき説明せつめい形式けいしきろん理学りがく二元論にげんろんてき自然しぜんがく自然しぜん主義しゅぎてき倫理りんりがくによって構築こうちくした。なかでも倫理りんりがく人間にんげんおも関心かんしんであるとかれらは強調きょうちょうしたが、後代こうだい哲学てつがくしゃたちはストア論理ろんり学理がくりろんにより関心かんしんしめした。

ストア破壊はかいてき衝動しょうどう手段しゅだんとして自制心じせいしん忍耐にんたいりょくきたえることをいた。明朗めいろう先入観せんにゅうかんのない思考しこうによって普遍ふへんてき理性りせい(ロゴス)を理解りかいすることができるとかれらはかんがえた。ストア最大さいだい特徴とくちょう個人こじん道徳どうとくてき倫理りんりてき幸福こうふく追求ついきゅうすることにある。「『とく』は自然しぜん一致いっちした『意志いし』にこそそんする[9]」 この思想しそう対人たいじん関係かんけいのような分野ぶんやにも適用てきようされる; 「憤怒ふんぬ羨望せんぼう嫉妬しっとから解放かいほうされること[10]」と奴隷どれいをも「すべてのひとひとしく自然しぜん産物さんぶつなのだからひと対等たいとう[11]」とみとめること。ストア主義しゅぎは、非道ひどう権力けんりょくこうするさいや、災難さいなんつづ事態じたい対峙たいじするさいなぐさめとなった。

ストア倫理りんりがくでは決定けっていろん支持しじされる。ストアてきとくいた人間にんげんかんして、邪悪じゃあく人間にんげんは「くるまにくくりけられたいぬのようなもので、くるますす方向ほうこうへどこにでもかされる[9]」とクレアンテスかんがえた。対照たいしょうてきに、ストアとく人間にんげん意志いし世界せかい一致いっちするものへと修正しゅうせいし、エピクテトスのうところによれば、「むときも幸福こうふくで、危機ききうちるときも幸福こうふくで、むかえるときにも幸福こうふくで、追放ついほうされたときにも幸福こうふくで、恥辱ちじょくけたときにも幸福こうふく[10]」であらしめるために、「完全かんぜん自立じりつてきな」個人こじん意志いし同時どうじに「厳密げんみつ決定けっていろんてき統一とういつたい」である世界せかい断定だんていする。この思想しそうのちに「古典こてんてき汎神論はんしんろん」とばれ(、オランダ哲学てつがくしゃバールーフ・デ・スピノザ採用さいようされ)た[12]

ヘレニズム世界せかいマ帝国まていこくにおいてストア知的ちてきエリート階層かいそう主流しゅりゅう哲学てつがくとなり[13]、ギルバート・マーレイのところによれば、「アレクサンドロスの後継こうけいしゃのほぼ全員ぜんいんみずからをストア主義しゅぎしゃだとべた[14]」 ストア起源きげんエピクロスどう時期じきではあるが、よりなが歴史れきしち、そのきょうせつにおける恒常こうじょうせいはよりすくなかった。ストア主義しゅぎ犬儒けんじゅ学派がくはきょうせつなか最良さいりょうのものをぎ、より完備かんびして円熟えんじゅくした哲学てつがくとなった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

アンティステネス、キュニコス学派がくは創始そうししゃ

紀元前きげんぜん301ねんはじめごろ、キティオンのゼノンストア・ポイキレ(すなわちいろどりかざり柱廊ちゅうろう)で哲学てつがくき、ここからその名声めいせい[15]エピクロスのようなほか学派がくはとはことなり、ゼノンはアテナイアゴラ(中央ちゅうおう広場ひろば)を見晴みはらすコロネードのような公共こうきょうてき場所ばしょ哲学てつがくくことをえらんだ。

ゼノンの思想しそうソクラテス弟子でしアンティステネス始祖しそとするキュニコス学派がくは思想しそうから発展はってんした。ゼノンの弟子でしのうちもっと影響えいきょうりょくがあったのはクリュシッポスで、かれ今日きょうストア主義しゅぎばれているものを成型せいけいした。のローマ時代じだいのストア主義しゅぎは、何者なにものによっても直接ちょくせつ制御せいぎょされていない世界せかい調和ちょうわするかた喧伝けんでんした。

研究けんきゅうしゃ大抵たいていストア歴史れきしさんそうける:

アルバート・アーサー・ロングべているように、ぜんそうのストア主義しゅぎしゃ著作ちょさく完全かんぜんかたち現存げんそんするものはまったい。後期こうきストアのローマじんたちの著作ちょさくのみが現存げんそんしている[16]

ストアろん理学りがく[編集へんしゅう]

命題めいだい論理ろんり[編集へんしゅう]

ゼノンの一人ひとりメガラぞくするディオドロス・クロノスは、今日きょう命題めいだい論理ろんりとしてられる論理ろんりがくへのアプローチをはじめて導入どうにゅうした哲学てつがくしゃとされる。命題めいだい論理ろんりとはめいではなく命題めいだいつまりぶんもとづいた論理ろんりがくへのアプローチであり、論理ろんりがくアリストテレスめい論理ろんりとはまったことなったものにした。のちにクリュシッポスが、このアプローチをストア論理ろんりがくとしてられることになる体系たいけいへと発展はってんさせ、アリストテレスの三段論法さんだんろんぽうのライバルとされる演繹えんえき体系たいけい(ストア三段論法さんだんろんぽう)を導入どうにゅうした。ストア論理ろんりがくたいするあらたな関心かんしんが20世紀せいきこり、論理ろんりがく重要じゅうよう発展はってん命題めいだい論理ろんりもとづいてこった。「クリュシッポスとゴットロープ・フレーゲの哲学てつがくてき論理ろんりがくつよ親近しんきんせい非常ひじょう印象いんしょうてきである[17]」とズザンネ・ボプツィエンいている。

「クリュシッポスは事実じじつじょう今日きょう論理ろんりがく関係かんけいしているあらゆる論理ろんりがくてき話題わだいかんする300以上いじょう論理ろんりがくてき著作ちょさくあらわした。そのなかには言語げんご行為こうい理論りろん構文こうぶん分析ぶんせき単数たんすうあるいは複数ふくすう表現ひょうげん述語じゅつご論理ろんり指標しひょう存在そんざい命題めいだい論理ろんり演算えんざん否定ひてい包含ほうがん論理ろんりてき帰結きけつ妥当だとうせい論証ろんしょう形式けいしき演繹えんえき命題めいだい論理ろんり様相ようそう論理ろんりどきしょう論理ろんり認識にんしき論理ろんりだいしめせ論理ろんり命令めいれい論理ろんり多義たぎせい論理ろんりてきパラドックスがある[18]」ともボプツィエンはいている。

ストア範疇はんちゅうろん[編集へんしゅう]

すべての存在そんざい(まれ: νにゅーτたうαあるふぁ)は——すべてのもの(まれ: τινά)ではなく——物質ぶっしつてきであるとストアではかんがえられた。かれらは具体ぐたいてきなものと抽象ちゅうしょうてきなものとの区別くべつみとめたが、純粋じゅんすい物質ぶっしつてきなものが存在そんざいするというアリストテレスの主張しゅちょうかんしては否定ひていした。そのためかれらは、物体ぶったいあついならそれは世界中せかいじゅう存在そんざいするねつもと一部いちぶがその物質ぶっしつなかはいったからだというアナクサゴラス主張しゅちょうは(アリストテレスとおなじく)みとめた。しかしアリストテレスとはちがって、あらゆる付帯ふたいせいをカバーするような思想しそう発達はったつさせた。そのためある物体ぶったいあかいならそれは世界中せかいじゅう存在そんざいするあか元素げんそ一部いちぶがその物質ぶっしつなかはいったからだということになる。

よん種類しゅるい範疇はんちゅうがあるとかれらはかんがえた。

基体きたい (ギリシア: ὑποκείμενον)
ものがそれから構成こうせいされるところの基本きほんてき物質ぶっしつ形相ぎょうそうたない実体じったい(ousia)
性質せいしつづけられた(もの) (ギリシア: ποιόν)
物質ぶっしつ個々ここ物体ぶったい形成けいせいする方法ほうほう; ストア自然しぜんがくでは、物質ぶっしつ形相ぎょうそうをもたらす物質ぶっしつてき構成こうせい要素ようそ(pneuma: 気息きそく)
なんらかの様態ようたいにある(もの)(ギリシア: πως ἔχかいοおみくろんνにゅー)
おおきさ、形状けいじょう行動こうどう体勢たいせいといった特定とくてい特徴とくちょうであり、物体ぶったい内部ないぶそんするものではない
なにかとの関係かんけいにおいてなんらかの様態ようたいにあるもの(ギリシア: πρός τί πως ἔχかいοおみくろんνにゅー)
時間じかん空間くうかんないにおける物体ぶったいとの相対そうたいてき位置いちのような、現象げんしょうとの相対そうたいてき特徴とくちょう

認識にんしきろん[編集へんしゅう]

ストアでは、知識ちしき理性りせい使つかうことで獲得かくとくされるとしんじられた。真理しんり誤謬ごびゅうとは区別くべつされる; 実際じっさいには近似きんじつくされるだけだとしても。ストアによれば、感覚かんかく器官きかんつね感覚かんかくっている: そして物体ぶったいから感覚かんかく器官きかんつうじてしんへとはくどうつたわり、しんにおいてはくどう表象ひょうしょう(phantasia)における印象いんしょうのこす(しんあらわれる印象いんしょうはファンタズマとばれる)[19]

しん印象いんしょうたいして判断はんだんする——賛成さんせいもしくは反対はんたいする——能力のうりょく(sunkatathesis)をち、実在じつざいただしい表象ひょうしょう間違まちがった表象ひょうしょうから区別くべつすることができる。印象いんしょうなかには即座そくざ賛成さんせいできるものもあるが、様々さまざま程度ていど躊躇ためらいがちな賛成さんせいまり、信念しんねんもしくは意見いけん(ドクサ)とばれるものもある。ただ理性りせいつうじてのみ人間にんげん明確めいかく理解りかい確信かくしん(カタレプシス)をられる。ストア知者ちしゃ獲得かくとくできる、たしかな、しんなる知識ちしき(エピステーメー)は確信かくしん仲間なかま専門せんもん知識ちしき人間にんげん判断はんだん集成しゅうせいたしかめることによってのみられる。

あるものがその実態じったいにおいて、そのはだか状態じょうたいにおいて、その完全かんぜん全体ぜんたいせいにおいてどんな種類しゅるいのものかを見極みきわめるために、そしてその適切てきせつ名前なまえ解決かいけつけて混合こんごうされたものの名前なまえかるために、あなたに表象ひょうしょうされたものの定義ていぎ記述きじゅつ自分じぶんのためになしなさい。なぜなら、あなたの生涯しょうがいにおいて表象ひょうしょうされた物体ぶったいしん系統的けいとうてき観察かんさつし、同時どうじにこの世界せかいがどんな世界せかいであるか、世界せかいなか万物ばんぶつがどのようにはたらくか、全体ぜんたいとの関連かんれんなか個々ここのものがどんな意味いみつかを見極みきわめるために物事ものごとつね観察かんさつすることほど、しん練磨れんまするじょう生産せいさんてきなことはないのだから。

—マルクス・アウレリウス・アントニヌス,『自省じせいろく』、だいIIIまきだい11しょう

ストア自然しぜんがく宇宙うちゅうろん[編集へんしゅう]

ストアによれば、世界せかい物質ぶっしつてきで、(ひとつの)かみあるいは自然しぜんとしてられている理性りせいてき実体じったいであり、能動のうどうてき受動じゅどうてき種類しゅるいけられる[7]受動じゅどうてき実体じったい物質ぶっしつであり、「なににでも使つかえる実体じったいだが活性かっせいで、何者なにものかによって運動うんどうくわえられないとうごかないままでいる[20]運命うんめいあるいは普遍ふへんてき理性りせい(ロゴス)とばれる能動のうどうてき実体じったい知的ちてきエーテルつまり原初げんしょほのおであり、受動じゅどうてき物質ぶっしつはたらきかける:

世界せかいそれ自体じたいかみであり、世界せかい自身じしん霊魂れいこん流出りゅうしゅつする; それはおな世界せかいみちび原理げんりであり、もの一般いっぱんてき本性ほんしょうやあらゆる物質ぶっしつ包含ほうがんする全体ぜんたいせいとともにしん理性りせいなかはたらく; 運命うんめいづけられたちから未来みらい必然ひつぜんせい; それにエーテルのほのお原理げんり; さらにみず大地だいち空気くうきのような本来ほんらい状態じょうたい流動的りゅうどうてき遷移せんいてきしょ元素げんそ; それから太陽たいようつきほし々; これらと、すべてのものが内包ないほうされるような普遍ふへんてき存在そんざいふくまれる

—クリュシッポス,キケロ『かみ々の本性ほんしょうについて』だいIまきより

万物ばんぶつ運命うんめい法則ほうそくしたがう、というのは世界せかい自身じしん本性ほんしょう一致いっちしてのみ活動かつどうし、受動じゅどうてき物質ぶっしつべるからである。人間にんげん動物どうぶつたましいはこの原初げんしょからの流出りゅうしゅつぶつであり、同様どうよう運命うんめいしたがう:

世界せかいひとつの実体じったいひとつのたましいそなえたひとつの生命せいめいだとつねなせ; そして万物ばんぶつ知覚ちかくと、つまりこのひとつの生命せいめいについての知覚ちかくをどうやってつのかを観察かんさつせよ; さらに万物ばんぶつがどのようにひとつの運動うんどう共同きょうどうしてうごくかを観察かんさつせよ; それから万物ばんぶつがどのようにたがいの原因げんいんとなっているかをれ; もう構造こうぞうつむがれつづけるいとをも観察かんさつせよ

—マルクス・アウレリウス,『自省じせいろく』、だいIVまきだい40せつ

個々ここたましいはその本性ほんしょうじょうほろびゆくものであり、「世界せかい種子しゅしたる理性りせい(logos spermatikos)にむかれられることでほのおてき本性ほんしょうをとり、変化へんか拡散かくさん[21]」うる。ただしい理性りせい人間にんげん世界せかいとの基礎きそなのだから、人生じんせい目的もくてき理性りせいしたがってきること、すなわち自然しぜんしたがってきることとなる。

ストアかみについてフレデリック・ブレンクはこういている。

ストア宇宙うちゅうのロゴスやヘゲモンコン(理性りせい指導原理しどうげんり)と同一どういつかみしんじ、伝統でんとうてきかみ々を格下かくさげた。しかしストアはこのひとつのかみへの崇拝すうはいおこなわなかった。なか後期こうきプラトン主義しゅぎしゃ哲学てつがくてき言説げんせつなか最高さいこうかみについて、一般いっぱんてきにはかみ々ではなく、このひとつのかみ宇宙うちゅう創造そうぞう摂理せつり責任せきにんつとかたっている[7]

アスカロンのアンティオコスアカデメイアペリパトス、ストアの3つの学派がくは説明せつめいし、これらの3つの学派がくはたがいに些細ささいてんでしか乖離かいりしていないと指摘してきしている[22]

ストア神学しんがく[編集へんしゅう]

ストア神学しんがく一神教いっしんきょうとして分類ぶんるいされることがある[6][23][24][7]。ストアキリスト教徒きりすときょうと天使てんし聖人せいじんといった神聖しんせい(divine)あるいはかみ(god)とぶことができる存在そんざいつように、あるひとつのかみ特定とくていかみ(Godあるいはthe God)とび、その特定とくていかみのぞいたかみ々には、最高さいこうしん頂点ちょうてんとした階層かいそうせいよりもはるかに徹底てっていした従属じゅうぞく関係かんけい派生はせい関係かんけい)をもたせていたとかんがえられている[25]かれらはたんなる最高さいこうしんでなく『特定とくていかみ(the God)[注釈ちゅうしゃく 1]』、それだけがかみぶにあたいする唯一ゆいいつ無二むにかみかのように特別とくべつ名称めいしょう使つかった[25]

ストアによるとゼウスだけがかみであるための基準きじゅん完全かんぜんたし、かみ々はゼウスによって運命うんめいづけられ、ゼウスの計画けいかく実行じっこうするためだけに存在そんざいしており、かみ々は完全かんぜんにゼウス(the God)に依存いぞんし、不死ふしでさえなかった[26]。ストアすべての存在そんざい物質ぶっしつてきなものとしゼウス(the God)を活動かつどうてきほのお同一どういつした。世界せかい理性りせいてき動物どうぶつであり、周期しゅうきてきほのお転化てんかする。このほのお状態じょうたい世界せかい世界せかい理性りせい、ゼウスと完全かんぜん一致いっちするものとかんがえた[27]

ストア倫理りんりがく道徳どうとくろん[編集へんしゅう]

現代げんだいにおいて「ストイック」という言葉ことばは「感情かんじょうてき」あるいは苦痛くつう関心かんしんだという意味いみ使つかわれるため、ストアがく感情かんじょう否定ひていてき見方みかたしめ学派がくはとしてしばしば誤解ごかいされるが、古代こだいギリシャにおいて「情動じょうどう」の意味いみは「苦悶くもん」あるいは「苦痛くつう[28]、すなわち外的がいてき出来事できごとに「受動じゅどうてきに」反応はんのうすることだとしんにとどめたといったように、現代げんだい用法ようほうとは幾分いくぶんことなることからんだ誤解ごかいである。

ストアがくでは「理性りせい」にしたがうことによって「情動じょうどう」から解放かいほうされることをいたのみであり、感情かんじょうることを追求ついきゅうしたわけではなかった。むしろかれらは、明確めいかく判断はんだん内的ないてき静寂しじまをもたらしてくれるような断固だんこたるアスケーシスによって感情かんじょう変質へんしつさせようとしたのである[29]内省ないせい専心せんしん論理ろんりてき思考しこうなどがそういった自己じこ修養しゅうよう方法ほうほうとされた。またストアがく先行せんこうするキュニコス哲学てつがく論理ろんりをもまえ、ぜんたましい自体じたい内部ないぶそんするということであったともとなえた。「情動じょうどう」つまり本能ほんのうてき反応はんのう(たとえば肉体にくたいてき危険きけんにさらされたときにかおあおざめ身震みぶるいすること)と通常つうじょうやくされる「パトス」と、ストア知者ちしゃ(ソポス)の表徴ひょうちょうである「エウパトス」とが区別くべつされた。情動じょうどう間違まちがった判断はんだんからまれるのと同様どうようただしい判断はんだんからまれてくるかんじが「エウパテイア」である。

その思想しそうアパテイアまれ: ἀπάθειαしん平安へいあん)によって苦痛くつうから解放かいほうされるというもので[30]、ここではしん平安へいあん古代こだいてき意味いみ理解りかいされる―客観きゃっかんてきであり、人生じんせいめるときすこやかなるとき平静へいせい明確めいかく判断はんだんとをたもこと

ストアでは、「理性りせい」は論理ろんりもちいることだけではなく、自然しぜんロゴス普遍ふへんてき理性りせい万物ばんぶつ内在ないざいするものの過程かてい理解りかいすることをも意味いみした。かれらのかんがえるところによれば、理性りせいとくによるなまとは、まんにん本質ほんしつてき価値かち普遍ふへんてき理性りせい認識にんしきし、世界せかいかみてき秩序ちつじょ一致いっちしてきることである。ストア哲学てつがくよん枢要すうようとくは、

であるが、これはプラトンのおしえに由来ゆらいする分類ぶんるいである。

ソクラテスしたがって、ストアでは、自然しぜんなか理性りせい人間にんげん無知むちであることから不幸ふこうあくしょうじるとされた。だれ不親切ふしんせつひとがいるなら、それはそのひと親切しんせつさへとみちび普遍ふへんてき理性りせい気付きづいていないからである。そこで、あく不幸ふこう解決かいけつするにはストア哲学てつがく自分じぶん自身じしん判断はんだん行動こうどう観察かんさつし、どこで自然しぜん普遍ふへんてき理性りせいそむくかを決定けっていすること―を実践じっせんすべきだとされた。

自己じこいのちをあっさりとあつかうが、人間にんげんそれぞれの究極きゅうきょくてき最終さいしゅうてき自由じゆう意志いし全面ぜんめんてき尊重そんちょうしているが、けっして他者たしゃたいしての殺人さつじん肯定こうていしない。ただし当時とうじほか哲学てつがく同様どうようてきたいして勇猛ゆうもうたたかうことはぜんとされた。(当時とうじ世相せそう反映はんえい解釈かいしゃくすればいたって当然とうぜん)このようなかんがかたは「たましいかみからりているだけ」という言葉ことばはしてきあらわされている。(ひと最終さいしゅうてきかみからの御霊みたまであるということを主張しゅちょう

高潔こうけつ生活せいかつおくれないような状況じょうきょう賢者けんじゃ自殺じさつすることをゆるすことがストアではみとめられた[31]悪政あくせいしたきることはストア主義しゅぎしゃとしてマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスのいう自己じこ一貫いっかんせい(コンスタンティア)にもとり、名誉めいよある倫理りんりてき選択せんたくおこな自由じゆうきずつけるとプルタルコスかんがえた[32]深刻しんこく苦痛くつうやまいけたときには自殺じさつ正当せいとうされうる[31]が、さもなければ大抵たいてい場合ばあい自殺じさつ社会しゃかいてき義務ぎむ放棄ほうきとみなされた[33]

善悪ぜんあく関心かんしん」の理論りろん[編集へんしゅう]

ここでいう「関心かんしん」(indifference)とは道徳どうとくりつ適用てきようがいにあるもの、すなわち倫理りんりてき目的もくてき促進そくしん妨害ぼうがいもしないものをいう。道徳どうとくりつによって要請ようせいされもきんじられもしない行動こうどう、いいかえれば道徳どうとくせいたない行動こうどう道徳どうとくてき関心かんしんであるとわれる。関心かんしんまれ: ἀδιάφοραアディアポラ)の理論りろんはストアにおいて、その対立たいりつぶつたるぜんあくκαθήκοντα カテーコンタἁμαρτήματα ハマルテーマタ、それぞれ「手近てぢか行動こうどう」つまり自然しぜん一致いっちした行動こうどう、と失敗しっぱい)の必然ひつぜんてき結果けっかとしてまれた。この二分にぶんほう結果けっかとして、おおくの物事ものごとぜんにもあくにもけられず関心かんしんとみなされた。

結果けっかてきに「関心かんしん」のなかにさらにみっつの下位かい分類ぶんるい発達はったつした: 自然しぜん一致いっちしたせい支援しえんするのでこのまれるべきもの; 自然しぜん一致いっちしたせい妨害ぼうがいするのでけられるべきもの; そしてせま意味いみ無関心むかんしんなもの

「アディアポラ」の理論りろんはキュニコス学派がくはおよび懐疑かいぎ主義しゅぎとも共通きょうつうであった。カントによれば、関心かんしんなるものの概念がいねん倫理りんり範囲はんいがいである[よう出典しゅってん]関心かんしんなるものの理論りろんルネサンスフィリップ・メランヒトンによって復活ふっかつさせられた。

アディアポラの観点かんてんからすれば、究極きゅうきょくてきには世俗せぞくてき善悪ぜんあく人間にんげん判断はんだんした幻想げんそうぎない。アディアポラの思想しそうてば、いのちぜんではなく、「のぞましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況じょうきょう如何いか四肢しし切断せつだん非常ひじょう老齢ろうれい不当ふとう命令めいれいしたがわなければならないひとし)によっては先述せんじゅつのように自殺じさつ肯定こうていした。

運命うんめい肯定こうてい自由じゆう意志いし肯定こうてい[編集へんしゅう]

これによりひと運命うんめいれる「覚悟かくご」が必要ひつようであることをさとる。しかし、不完全ふかんぜん運命うんめい補正ほせいする自由じゆう意志いしにより運命うんめいさえも自己じこ意識いしきによって方向ほうこうへと革新かくしんできると主張しゅちょうする。

たましい鍛練たんれん[編集へんしゅう]

マルクス・アウレリウス・アントニヌス、ストア主義しゅぎしゃ皇帝こうてい

ストアにとって哲学てつがくとはたん信念しんねん倫理りんりてき主張しゅちょうあつめたものではなく、持続じぞくてき実践じっせん鍛錬たんれん(つまり「アスケーシス」、禁欲きんよく主義しゅぎ参照さんしょう)をともなう「かた」である。ストア哲学てつがくてき霊魂れいこんてき実践じっせんには論理ろんりがく、ソクラテスてき対話たいわ自己じこ対話たいわ瞑想めいそういまこの瞬間しゅんかんたいして注意ちゅういつづける訓練くんれん(あるしゅ東洋とうよう瞑想めいそう同様どうようである)、毎日まいにちそのこった問題もんだいとその可能かのう解決かいけつほうについて内省ないせいすること、ヒュポムネマタ、等々とうとうがある。ストアにとって哲学てつがくとはつね実践じっせん反省はんせいおこな動的どうてき過程かていなのである。

著書ちょしょ自省じせいろく』において、マルクス・アウレリウスはそういった実践じっせんのいくつかを規定きていした。たとえば、だいIIまきだい1しょうにはこうある:

早朝そうちょう自分じぶんむかってう: わたし今日きょう恩知おんしらずで、凶暴きょうぼうで、危険きけんで、ねたふかく、無慈悲むじひ人々ひとびとうことになっている。こういった品性ひんせいみなかれらがしん善悪ぜんあく無知むちであることからしょうじるのだ[...]何者なにものわたしわざわいむことはないからかれらのうちのだれかがわたしきずつけることはないし、わたし親類しんるい縁者えんじゃはらてたりきらったりすることもない; というのはわたしたちはきょうはたらけするためにまれてきたからである[...]

アウレリウスに先行せんこうして、エピクテトスが『語録ごろく』においてみっつの主題しゅだいトポス)、つまり判断はんだん欲望よくぼう志向しこう区別くべつしている[34]。フランスの哲学てつがくしゃピエール・アドによれば、エピクテトスはこのみっつの主題しゅだいをそれぞれ論理ろんりがく自然しぜんがく倫理りんりがくとみなした[35]。『自省じせいろく』において「かく格率かくりつはこれら非常ひじょう特徴とくちょうてきみっつのトポスのうちのひとつあるいはふたつあるいはみっすべてを発展はってんさせる[36]」ものであるとアドはいている。

Seamus Mac Suibhneによって、たましい鍛錬たんれん実践じっせん反省はんせいてき行動こうどう実践じっせん影響えいきょうおよぼすものとされている。[37]。ストアたましい鍛錬たんれん近代きんだい認知にんち行動こうどう療法りょうほうとが相似そうじしていることがロバートソンの『認知にんち行動こうどう療法りょうほう哲学てつがく』において長々ながなが詳述しょうじゅつされている[38]。また、こうした実践じっせん重視じゅうし姿勢しせいソクラテスの「ただきるのではなく、よりく、いきる」につながるかんがかただとおもわれる。

感情かんじょうからの解放かいほう理性りせい主義しゅぎ[編集へんしゅう]

あらゆる感情かんじょうから解放かいほうされた状態じょうたいたましい安定あんていとし、最善さいぜん状態じょうたいとして希求ききゅうする。アパテイアἀπάθεια/apatheia、語源ごげんてきにはパトスpathos否定ひてい接頭せっとう「a」がく)とばれるこの境地きょうち賢者けんじゃ到達とうたつすべき目標もくひょうであるとともに、ストア学派すとあがくはにおける最高さいこう幸福こうふくであった。当然とうぜんさいしての恐怖きょうふ不安ふあん克服こくふく対象たいしょうかんがえる。その理想りそうとしてよくソクラテスの最期さいごげられる。おこらず、かなしまず、ただ当然とうぜんのこととして現実げんじつ行動こうどうすることを理想りそうとする。

社会しゃかい哲学てつがく[編集へんしゅう]

ストア顕著けんちょ特徴とくちょうはそのコスモポリタニズムにある: ストアによれば、ぜん人類じんるいひとつの普遍ふへんてき霊魂れいこん顕現けんげんであり、兄弟きょうだいあいをもってたがいに躊躇ちゅうちょなくたすうべきである。『語録ごろく』において、エピクテトス人間にんげん世界せかいたいする関係かんけいについてべている: 「各人かくじんだいいちにはめいめいの所属しょぞくする共同きょうどうたい一員いちいんである; しかしかれかみひと偉大いだいくに一員いちいんでもあり、そのくにではコピーだけが政治せいじ関心かんしんつのだ[39]」 この思想しそうシノペのディオゲネス模倣もほうしたものである。ディオゲネスは「わたしはアテナイじんでもコリントスじんでもなく世界せかい市民しみんである[40]」とべている。

階級かいきゅう資産しさんといった外的がいてき差異さい社会しゃかいてき関係かんけいにおいてなん重要じゅうようせいたないとかれらはかんがえた。わりにかれらは人間にんげん兄弟きょうだいあいぜん人類じんるい本性ほんしょうてき平等びょうどう称揚しょうようした。ストアはギリシアーローマ世界せかいもっと影響えいきょうりょくある学派がくはとなり、カトやエピクテトスといったおおくの注目ちゅうもくあたいする著述ちょじゅつ人物じんぶつ輩出はいしゅつした。

とくに、かれらは奴隷どれい慈悲じひをかけることをすすめたことで注目ちゅうもくされる。セネカは「あなたが自分じぶん奴隷どれいんでいるものはあなたと同根どうこんからしょうじたこと、おなてんかって微笑ほほえみかけること、あなたとおな言葉ことば呼吸こきゅうし、き、ぬことをおもいやりをもっておぼえておきなさい[41]。」とセネカはすすめている。

ストア主義しゅぎとキリストきょう[編集へんしゅう]

ミラノのアンブロジウス代言だいげんでは、「こえキリスト教きりすときょう司教しきょうこえだが、訓戒くんかいゼノン(ストア創始そうししゃ)のものである」とした[42][43]かれが「かみれい」とんだものについて、マクスウェル・スタニフォースはこういている。

クレントス英語えいごばんゼノンの「創造そうぞう」にもっと明確めいかく意味いみあたえたいとおもい、それを表現ひょうげんするためにプネウマ(「精神せいしん」)という言葉ことば最初さいしょおもいついたのである。この知的ちてきな「精神せいしん」は、同様どうように、空気くうきながれやいきよわ物質ぶっしつであるが、本質ほんしつてきにはあたたかみのある性質せいしつっているとかんがえられていた。それはかみとしての宇宙うちゅうに、そしてたましい生命せいめいあたえる原理げんりとしての人間にんげん内在ないざいしていた。ここから、キリストきょう神学しんがくの「聖霊せいれい」、つまり「いのちおもでありあたぬし」にいたるまでは、あきらかにながみちのりではない。聖霊せいれいはペンテコステのときにしたとしてえるかたちあらわれ、それ以来いらい、キリストきょうでもストアでも、生命せいめい恩恵おんけいてきあたたかさというかんがえとむすびついてきた[44]

三位一体さんみいったいについて、スタニフォースはこういている。

三位一体さんみいったい教義きょうぎにおいても、ちち言葉ことば聖霊せいれいという教会きょうかいてき概念がいねんは、かみ統一とういつせいあらわすストアのさまざまな名称めいしょうにその萌芽ほうが見出みいだしている。セネカは、宇宙うちゅう形作かたちづく最高さいこうちからについていているが、「このちから我々われわれは、あるときはすべてを支配しはいするかみび、あるときはからだたない知恵ちえび、あるときは聖霊せいれいび、あるときは運命うんめいぶ」とべている。教会きょうかいは、かみ性質せいしつについての独自どくじ可能かのう定義ていぎ到達とうたつするために、これらの用語ようご最後さいご部分ぶぶん拒否きょひするだけでよかった[44]

使徒しとパウロはアテネ滞在たいざいちゅうにストアっていたことが、使徒しと言行げんこうろく17:16-18で報告ほうこくされている。パウロはその手紙てがみなかで、ストア哲学てつがく知識ちしきおおいに活用かつようし、ストア用語ようご比喩ひゆ使つかって、あたらしい異邦いほうじん改宗かいしゅうしゃキリスト教きりすときょう理解りかいたすけている。ストア影響えいきょうは、アンブロジウス、マルクス・ミヌシウス・フェリックス、テルトゥリアヌス著作ちょさくにもられる。

ふたつの哲学てつがくおおきなちがいはストア汎神論はんしんろん、つまりかみけっして超越ちょうえつてきでなくむしろ内在ないざいてきであるという立場たちばをとることにある。世界せかいつくりだす実在じつざいとしてのかみキリスト教きりすときょう思想しそうにおいては人格じんかくてきなものとされるが、ストアかみ宇宙うちゅう総体そうたい同一どういつした、万物ばんぶつ物質ぶっしつてきであるというストア主義しゅぎ思想しそうはキリストきょうつよ対立たいりつしている。[独自どくじ研究けんきゅう?]また、ストアキリスト教きりすときょうちがって世界せかいはじまりやわりを措定そていしない[45]し、個人こじん死後しご存在そんざいつづけると主張しゅちょうしない[よう出典しゅってん]

ストア主義しゅぎ教父きょうふによって「異教いきょう哲学てつがく」とみなされた[4][5]が、それにもかかわらずストア主義しゅぎ中心ちゅうしんてき哲学てつがくてき概念がいねんのなかには初期しょきキリスト教きりすときょう著述ちょじゅつ利用りようされたものがある。そのれいとして「ロゴス」、「とく」、「たましい」、「良心りょうしん」といった術語じゅつごがある[45]。しかも、相似そうじてん用語ようご共有きょうゆう(あるいは借用しゃくよう)にまらない。ストア主義しゅぎキリスト教きりすときょう主張しゅちょうした概念がいねんとして、この世界せかいにおける所有しょゆう愛着あいちゃく無益むえきせい刹那せつなせいだけでなく、外的がいてき世界せかい直面ちょくめんしたさい内的ないてき自由じゆう自然しぜん(あるいはかみ)とひととのきんえんせい人間にんげん本性ほんしょう堕落だらく―あるいは「持続じぞくてきあく」―というかんがえ、などがある[45]各人かくじん人間にんげんせいおおきな可能かのうせいまし発展はってんさせるために、情動じょうどうおよびよりおとった感情かんじょう(すなわち渇望かつぼう羨望せんぼう怒気どき)にかんして禁欲きんよく実践じっせんすることが奨励しょうれいされた。

マルクス・アウレリウスの『自省じせいろく』のようなストア著作ちょさく時代じだいえておおくのキリスト教徒きりすときょうとによってたか評価ひょうかされた。ストアのアパテイアという理想りそう今日きょう正教会せいきょうかいによって完全かんぜん倫理りんりてき状態じょうたいとしてみとめられている。ミラノのアンブロシウスはストア哲学てつがく自身じしん神学しんがく適用てきようしたことでられた。

ユストゥス・リプシウスは、古代こだいストア哲学てつがくキリスト教きりすときょう適合てきごうするかたち復活ふっかつさせることを目的もくてきとした一連いちれん著作ちょさく発表はっぴょうし、1600ねん出版しゅっぱんされたエピクテトゥスのはん編集へんしゅうしゃとして、フランシスコ・サンチェス・デ・ラス・ブロッサススペインでストア主義しゅぎ推進すいしんした。そのフランシスコ・デ・ケベードが『ストア教義きょうぎ』(1635ねん)を出版しゅっぱんし、ストアとキリストきょうあいだのギャップをめる努力どりょくつづけた[46]

自殺じさつをめぐる解釈かいしゃくちが[編集へんしゅう]

自殺じさつ人間にんげん自由じゆう最高さいこう表現ひょうげんであるとするストアたいして、キリストきょうかんがえでは、自殺じさつは「形式けいしきてきに」自由じゆう表現ひょうげんであるにすぎず、「自由じゆう存立そんりつ基盤きばん自体じたい破壊はかいされてしまうために「内容ないようてきにはもっとも不自由ふじゆう行為こうい」であるとされる[47]。そして個人こじん肉体にくたいはあくまで「かみつくられて存在そんざいする造物ぞうぶつ」であるため、個人こじんみずからの肉体にくたい自由じゆう破壊はかいする権利けんりゆうしていない、とされる[48]

近代きんだい用法ようほう[編集へんしゅう]

「ストイック」という言葉ことば一般いっぱん苦痛くつう歓喜かんき強欲ごうよく歓楽かんらく無関心むかんしんひとして使つかわれる。「感情かんじょうおさえ、我慢強がまんづよえるひと」という近代きんだい用法ようほうは1579ねん名詞めいしかたちはじめてられ、1596ねんには形容詞けいようしかたちられた[49]。「エピクロス主義しゅぎもの」と対照たいしょうてきに、『スタンフォード哲学てつがく百科ひゃっか事典じてん』のStoicismのこうには「英語えいご形容詞けいようしstoicalがその哲学てつがくてき起源きげんたいして誤解ごかいをもたらすことはない[50]」とべられている。

ストア引用いんよう[編集へんしゅう]

ストア一般いっぱんてききょうせつしめすような、著名ちょめいなストア哲学てつがくしゃからの引用いんよう以下いかしめす。

エピクテトス:

  • 自由じゆうひと欲求よっきゅうたすことではなく、欲求よっきゅう除去じょきょすることでられる。」 — (iv.1.175)
  • かみはどこにいるのか? あなたのしんなかに。あくはどこにあるのか? あなたのしんなかに。どちらもないのはどこか? しんから独立どくりつなもののところである。」 — (ii.16.1)
  • 人間にんげんものにかきみだされるのではなくものたいする自分じぶんかんがえにかきみだされるのだ。」 — (Ench. 5)
  • 「それゆえ、もし不幸ふこうひとがいたらかれ自分じぶん自分じぶん自身じしん理由りゆう不幸ふこうなのだとおもさせよう — (iii.24.2)
  • わたしわたし長所ちょうしょかんして自然しぜんによって形成けいせいされた: わたし欠点けってんかんして形成けいせいされたわけではない。」 — (iii.24.83)
  • 自分じぶん自身じしん以外いがいなにぶつにも執着しゅうちゃくしてはならない; 自分じぶんからはなされたのち苦痛くつうしかのこさないようなあなたにならないものに執着しゅうちゃくしてはならない。」 — (iv.1.112)

マルクス・アウレリウス・アントニヌス:

  • 判断はんだんすることをやめよ、『わたしきずついた』とかんがえるのをやめよ、あなたはきず自体じたいまぬかれているのだ。」 — (viii.40)
  • 世界せかいよ、あなたにとってただしいものはすべてわたしにとってもただしい。あなたにとって時宜じぎかなっているもののうちわたしにとってはやすぎたりおそすぎたりするものなどない。自然しぜんよ、あなたのぶしがもたらすものはみなわたしにとってみのりある。あなたからすべてのものがまれる、あなたのうちすべてのものがある、あなたにかってすべてのものがかえする。」 — (iv.23)
  • 「あなたがあなたの前面ぜんめんはたらいているなら、あなたが即座そくざにそれをもどすことになっているかのように、ただしい理性りせいがあなたを破壊はかいするようなものはなくあなたの心的しんてき部分ぶぶん純粋じゅんすいたもち、真面目まじめに、活発かっぱつに、静謐せいひつつづく; もしあなたがそれをたもち、なに期待きたいせず、しかし自然しぜんしたがったいま生活せいかつ満足まんぞくし、あなたがくちにするすべての言葉ことばにおいて英雄えいゆうてき真理しんりべるなら、あなたは幸福こうふくらせるだろう。そして何者なにものこれ妨害ぼうがいできない。」 — (iii.12)
  • 人生じんせいこることすべてにいちいちおどろくのはなんと馬鹿ばかげていてなんと奇妙きみょうなことだろう!」 — (xii.13)
  • 外的がいてきなものがたましいれることはない、たとえもっと僅少きんしょう程度ていどにおいても; たましいはい許可きょかあたえられることもないし、たましい変化へんかさせたりうごかしたりすることもない; しかしたましい自身じしん変化へんか移動いどうさせられるのだ。」 — (v 19)
  • 「あなた自身じしんつよさは役目やくめおなじではないのだから、ひとちからえているとおもわないことだ; しかしすべてがひと権能けんのう職分しょくぶんであるなら、それがあなた自身じしん範囲はんいにもふくまれることをしんじなさい。」 — (vi.19)
  • 「あるいはあなたをなやませるものはあなたの名声めいせいなのか? しかしわたしたちがどれだけはやくものをわすれるかをみよ。間断かんだんなき奈落ならく記憶きおくすべてのみこんでしまう。その間隙かんげき拍手はくしゅおくられる。」 — (iv.3)

ルキウス・アンナエウス・セネカ:

  • 問題もんだいは、どれだけながきるかではなくどれだけ立派りっぱきるかである。」 — (Ep. 101.15)
  • 幸福こうふくわたしたちにもたらさないものを彼女かのじょわたしたちからることはできない。」 — (Ep. 59.18)
  • 自然しぜんに、彼女かのじょのぞむままに彼女かのじょ自身じしん問題もんだいあつかわせてみよう; なにがあっても勇敢ゆうかん快活かいかつでいよう。ほろびゆくもののうちなにものもわたしたち自身じしんのものではないことをよくかんがえておこう。」 — (De Provid. v.8)
  • とくとはただしき理性りせいならない。」 — (Ep. 66.32)

ストア哲学てつがくしゃ[編集へんしゅう]

以下いか代表だいひょうてき人物じんぶつである。なお、キケロはそのちょ宿命しゅくめいについて』においてれるように宿命しゅくめいろんるところはまったくなく、ストアにはふくめないが、かれ思想しそうかれかれきた時代じだいから影響えいきょうけてなおストアてきである(なお、一般いっぱんてきにはかれはアカデメイア学派がくは分類ぶんるいされる)。かれ著作ちょさくかれ自身じしん思想しそうでないが、ストア思想しそうじょう参考さんこうになる。

前期ぜんき[編集へんしゅう]

中期ちゅうき[編集へんしゅう]

後期こうき[編集へんしゅう]

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • クリュシッポス論理ろんりがく研究けんきゅう』(散逸さんいつ
  • セネカ
    • いかりについて』(De Ira)
    • 寛容かんようについて』(De Clementia)
    • 賢者けんじゃ不動ふどうしんについて』(De Constantia Sapientiis)
    • しん平静へいせいについて』(De Tranquillitate Animi)
    • 人生じんせいみじかさについて』(De Brevitate Vitae)
    • 幸福こうふく人生じんせいについて』(De Vita Beata)
    • 神慮しんりょについて』(De Providentia)
    • 善行ぜんこうについて』(De Beneficiis)
  • マルクス・アウレリウス・アントニヌス自省じせいろく

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ οおみくろん θεός

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  23. ^ Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 8. "One way of justifying to themselves and to others their attachment to specific gods was to proclaim that what was really being worshipped under various names and historically sanctioned forms of cult was the one ineffable principle of all things. Unambiguously professed in a sentence like the following: ‘God being one, has many names’,12 this belief permeates Greek religious theory. The Stoic Cleanthes can thus address a fervent hymn to Zeus as a god with a definite historical personality, in which we encounter a monistic view of divinity.13 Indeed this may be the reason why this pagan prayer was selected by Stobaeus, along with a similar Orphic hymn to Zeus, for the anthology that he compiled for his son’s use and education"
  24. ^ Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 19. "Platonists and Aristotelians defined God as absolutely immaterial and therefore transcending the world of the senses, while the Stoics taught that, though incorporeal, God displays a form of materiality, but of a very subtle and literally ethereal nature, and likened him to intelligible light or fire. Yet, as is argued in the second chapter of this volume, both had a monotheistic view, and the Christians, who drew on Greek philosophy for the formulation of their own theology, recognized this. Of the two views on offer orthodox Christianity opted for the first, without however being able to reject the Stoic position altogether, as Tertullian’s rhetorical question testifies: ‘for who will deny that God is a body, though he is a spirit?’48 This ambiguity is even more clearly present in pagan theological literature, which combines belief in a transcendental God with the worship of the Sun seen as the representation of God in this world."
  25. ^ a b Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), pp. 43-44. "the Platonists, the Peripatetics, and the Stoics do not just believe in one highest god, they believe in something which they must take to be unique even as a god. For they call it ‘God’ or even ‘the God’, as if in some crucial way it was the only thing which deserved to be called ‘god’. If, thus, they also believe that there are further beings which can be called ‘divine’ or ‘god’, they must have thought that these further beings could be called ‘divine’ only in some less strict, diminished, or derived sense. Second, the Christians themselves speak not only of the one true God, but also of a plurality of beings which can be called ‘divine’ or ‘god’; for instance, the un-fallen angels or redeemed and saved human beings."
  26. ^ Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 53. "Nevertheless, this clearly means that only Zeus satisfies the criterion for being a god fully, whereas all other gods only satisfy the criterion by not insisting on strict indestructibility, but by accepting a weak form of immortality. It is only in this diminished sense that things other than Zeus can be called ‘god’. More importantly, though, these other gods only exist because the God has created them as part of his creation of the best possible world, in which they are meant to play a certain role. The power they thus have is merely the power to do what the God has fated them to do. They act completely in accordance with the divine plan......It is very clear in their case, even more so than in Aristotle’s, that these further divine beings are radically dependent on the God and only exist because they have a place in the divine order of things. Far from governing the universe or having any independent share in its governance, they only share in the execution of the divine plan; they are not even immortal, strictly speaking. Theirs is a rather tenuous divinity."
  27. ^ Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 51. "But the Stoics not only think that all beings are material or corporeal, they also, more specifically, identify God or Zeus with a certain kind of fire which is supposed to be intelligent, active, and creative. So perhaps we have to assume that the Stoics distinguish two aspects of the fiery substance which is Zeus, two aspects, though, which in reality are never separated, namely its divine, creative character, and its material character. Thus God and Zeus are the same to the extent that Zeus is active, creative, intelligent. Now the Stoics also believe that the world is a rational animal that periodically turns entirely into the fiery substance which is Zeus. What happens is that the reason of this animal is itself constituted by this fiery substance, and that this reason slowly consumes and absorbs into itself the soul and the body of the world. Thus, in this state of conflagration, the world, the reason of the world, and Zeus completely coincide."
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

一般いっぱんしょ[編集へんしゅう]

いち文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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研究けんきゅうしょ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]