出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2008年 ねん 2月 がつ )
数学 すうがく の哲学 てつがく (すうがくのてつがく、英 えい : philosophy of mathematics )は、哲学 てつがく (科学 かがく 哲学 てつがく )の一 いち 分野 ぶんや で、数学 すうがく を条件付 じょうけんづ けている哲学 てつがく 的 てき 前提 ぜんてい や哲学 てつがく 的 てき 基礎 きそ 、そして数学 すうがく の哲学 てつがく 的 てき 意味 いみ を研究 けんきゅう するものである。
数理 すうり 哲学 てつがく (すうりてつがく、英 えい : mathematical philosophy )という用語 ようご が、しばしば「数学 すうがく の哲学 てつがく 」と同義語 どうぎご として使 つか われる[1] 。しかしながら、「数理 すうり 哲学 てつがく 」は、別 べつ の意味 いみ を少 すく なくとも二 ふた つ持 も っている。一 ひと つは、例 たと えばスコラ学 がく の神学 しんがく 者 しゃ の仕事 しごと やライプニッツ やスピノザ の体系 たいけい が目標 もくひょう にしていたような、美学 びがく 、倫理 りんり 学 がく 、論理 ろんり 学 がく 、形而上学 けいじじょうがく 、神学 しんがく といった哲学 てつがく 的 てき 主題 しゅだい を、その主張 しゅちょう するところでは、より正確 せいかく かつ厳密 げんみつ な形 かたち へと形式 けいしき 化 か するプロジェクトを意味 いみ する。さらに、個々 ここ の数学 すうがく の実践 じっせん 者 しゃ や、考 かんが えかたの似 に た現場 げんば の数学 すうがく 者 しゃ の共同 きょうどう 体 たい が日頃 ひごろ 抱 だ いているものの考 かんが え方 かた (=哲学 てつがく )を意味 いみ する。
数学 すうがく の哲学 てつがく で繰 く り返 かえ し検討 けんとう されているテーマには以下 いか のようなものがある。
数学 すうがく で扱 あつか われる主題 しゅだい の源泉 げんせん は何 なに か。
数学 すうがく 的 てき 実体 じったい の存在 そんざい 論 ろん 的 てき 地位 ちい は何 なに か。
数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう を指示 しじ するとはどういうことか。
数学 すうがく 的 てき 命題 めいだい の特徴 とくちょう は何 なに か。
論理 ろんり 学 がく と数学 すうがく はどんな関係 かんけい にあるか。
数学 すうがく において解釈 かいしゃく 学 がく はどんな役割 やくわり を果 は たすか。
数学 すうがく ではどんな研究 けんきゅう が有用 ゆうよう か。
数学 すうがく 的 てき 研究 けんきゅう の目的 もくてき は何 なに か。
どうすれば数学 すうがく は現実 げんじつ 世界 せかい と関 かか わるか。
数学 すうがく の背後 はいご にはどんな人間 にんげん 的 てき 特性 とくせい があるか。
数学 すうがく における美 び とは何 なに か。
数学 すうがく 的 てき 真理 しんり の源泉 げんせん は何 なに か、数学 すうがく 的 てき 真理 しんり とは何 なに か。
数学 すうがく という抽象 ちゅうしょう 的 てき な世界 せかい は、物質 ぶっしつ 世界 せかい とどんな関係 かんけい をもつか。
数学 すうがく の哲学 てつがく の歴史 れきし 概略 がいりゃく [ 編集 へんしゅう ]
歴史 れきし 上 じょう 、多 おお くの思想家 しそうか が、数学 すうがく とは何 なに かに関 かん して彼 かれ らの考 かんが えを明 あき らかにしてきた。今日 きょう でも数学 すうがく の哲学 てつがく 者 しゃ たちの中 なか には、この種 たね の問 と いとその成果 せいか をあるがまま説明 せつめい しようとする人々 ひとびと もいるが、他方 たほう で、単純 たんじゅん な解説 かいせつ に飽 あ きたらず、批判 ひはん 的 てき 分析 ぶんせき へと進 すす む役割 やくわり をもって任 にん じる人々 ひとびと もいる。
西洋 せいよう 哲学 てつがく と東洋 とうよう 哲学 てつがく の両方 りょうほう に、数学 すうがく 的 てき 哲学 てつがく の伝統 でんとう がある。西洋 せいよう の数学 すうがく の哲学 てつがく は、ピタゴラス教団 きょうだん の教祖 きょうそ ピタゴラス を源流 げんりゅう として、数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう の存在 そんざい 論 ろん 的 てき 地位 ちい を研究 けんきゅう したプラトン と、論理 ろんり 学 がく や無限 むげん (実 じつ 無限 むげん と可能 かのう 無限 むげん )に関 かん する諸 しょ 問題 もんだい を研究 けんきゅう したアリストテレス にまで遡 さかのぼ る。数学 すうがく に関 かん するギリシア哲学 てつがく は、彼 かれ らの幾何 きか 学 がく の研究 けんきゅう の強 つよ い影響 えいきょう の下 した にあった。かつてギリシア人 じん は、1は数 かず ではなく、むしろ任意 にんい の長 なが さの単位 たんい であるという意見 いけん を持 も っていた。数 かず は、多 おお [2] であると定義 ていぎ された。それゆえ、例 たと えば、3は、単位 たんい 長 ちょう の多 おお [2] を表 あらわ しており、本当 ほんとう の意味 いみ の数 かず では決 けっ してなかった。また同様 どうよう の理由 りゆう で、2は数 かず ではなく、1対 たい (つい)という基本 きほん 概念 がいねん であるとする議論 ぎろん が行 おこな われた。この理解 りかい は、「直線 ちょくせん ・辺 へん ・コンパス」という、たぶんに幾何 きか 学 がく 的 てき なギリシアの視点 してん に由来 ゆらい している。その視点 してん とは、幾何 きか 学 がく 的 てき 問題 もんだい において描 えが かれたいくつかの線 せん が最初 さいしょ に描 えが いた任意 にんい の長 なが さの線 せん との比 ひ で測定 そくてい されるのと同様 どうよう に、数 かず からなる線上 せんじょう に置 お かれたそれぞれの数 かず は、任意 にんい の初 はじ めの「数 かず 」つまり1との比 ひ で測定 そくてい される、というものである。これらの初期 しょき のギリシアの数 かず の概念 がいねん は、後 のち になって、2の平方根 へいほうこん が無理 むり 数 すう であるという発見 はっけん によって、打 う ち倒 たお された。ピタゴラスの門人 もんじん であるヒッパソス は、単位 たんい 正方形 せいほうけい の対角線 たいかくせん は、その辺 あたり と通約 つうやく 不能 ふのう であることを示 しめ した。換言 かんげん すると、彼 かれ は、単位 たんい 正方形 せいほうけい の対角線 たいかくせん とその辺 あたり の比 ひ を正確 せいかく にあらわす(有理 ゆうり )数 すう が存在 そんざい しないことを証明 しょうめい した。これが原因 げんいん となり、ギリシアの数学 すうがく の哲学 てつがく は再 さい 検討 けんとう されることとなった。伝承 でんしょう によれば、この発見 はっけん によって傷 きず つけられたピタゴラス教団 きょうだん の教徒 きょうと 達 たち は、ヒッパソスが彼 かれ の異端 いたん な考 かんが えを広 ひろ めるのを防 ふせ ぐために、彼 かれ を殺害 さつがい した。
ライプニッツ とともに、焦点 しょうてん は数学 すうがく と論理 ろんり 学 がく の関係 かんけい へと、強力 きょうりょく に移動 いどう した。この見方 みかた はフレーゲ とラッセルの時代 じだい を通 とお して数学 すうがく の哲学 てつがく を支配 しはい したが、19世紀 せいき 終期 しゅうき と20世紀 せいき 初頭 しょとう における発展 はってん によって疑問 ぎもん を付 ふ されるようになった。
20世紀 せいき における数学 すうがく の哲学 てつがく [ 編集 へんしゅう ]
数学 すうがく の哲学 てつがく のかわらない課題 かだい の一 ひと つは、論理 ろんり 学 がく と数学 すうがく の双方 そうほう の基礎 きそ につながる、相互 そうご の関係 かんけい に関 かか わっている。20世紀 せいき の哲学 てつがく 者 しゃ が本 ほん 記事 きじ の冒頭 ぼうとう に掲 かか げたような様々 さまざま な問 と いを立 た てていく中 なか で、20世紀 せいき の数学 すうがく の哲学 てつがく は形式 けいしき 論 ろん 理学 りがく 、集合 しゅうごう 論 ろん 、基礎 きそ 付 づ けの問題 もんだい への目立 めだ った関心 かんしん によって特徴付 とくちょうづ けられる。
一方 いっぽう で数学 すうがく 的 てき 真理 しんり が避 さ けがたく必然 ひつぜん 的 てき であるように思 おも えるのに、他方 たほう でその「真理 しんり 性 せい 」の源泉 げんせん がとらえどころがないままなのは、なかなか理解 りかい しがたい謎 なぞ と言 い える。この問題 もんだい の研究 けんきゅう は、数学 すうがく の基礎 きそ 付 づ けのプログラムとして知 し られる。
20世紀 せいき の初 はじ め、数学 すうがく の哲学 てつがく 者 しゃ たちはすでに、これら全 すべ ての問題 もんだい に関 かん して、数学 すうがく の認識 にんしき 論 ろん と存在 そんざい 論 ろん をどのように思 おも い描 えが くかをめぐって、多様 たよう な学派 がくは に分 わ かれていた。3つの学派 がくは すなわち形式 けいしき 主義 しゅぎ 、直観 ちょっかん 主義 しゅぎ 、論理 ろんり 主義 しゅぎ がこのとき現 あらわ れたのは、部分 ぶぶん 的 てき には、それまで当然 とうぜん のことと考 かんが えられていた確実 かくじつ 性 せい と厳密 げんみつ 性 せい の基準 きじゅん を当時 とうじ の数学 すうがく 、とくに解析 かいせき 学 がく が満 み たしていないのではないかという当時 とうじ 広 ひろ がりつつあった懸念 けねん への応答 おうとう であった。当時 とうじ この問題 もんだい は焦眉 しょうび の課題 かだい であり、問題 もんだい の解決 かいけつ を試 こころ みるのであれ、数学 すうがく には我々 われわれ の最 もっと も信頼 しんらい できる知識 ちしき という地位 ちい を授 さず かる資格 しかく がないと主張 しゅちょう するのであれ、どの学派 がくは もこの問題 もんだい に取 と り組 く んだ。
20世紀 せいき の初 はじ めに形式 けいしき 論 ろん 理学 りがく と集合 しゅうごう 論 ろん が驚 おどろ くべき、そして反 はん 直感 ちょっかん 的 てき な発展 はってん を遂 と げた結果 けっか 、「数学 すうがく の基礎 きそ 」と伝統 でんとう 的 てき に呼 よ ばれてきたものに関係 かんけい する新 あら たな疑問 ぎもん が生 しょう じた。紀元前 きげんぜん 300年 ねん 前後 ぜんこう のユークリッド の時代 じだい 以来 いらい 、公理 こうり に基 もと づく手法 しゅほう は、数学 すうがく の自然 しぜん な基点 きてん だと受 う け止 と められていたが、20世紀 せいき が進 すす むにつれ、当初 とうしょ の関心 かんしん の焦点 しょうてん が拡張 かくちょう され、数学 すうがく の基礎 きそ 的 てき な公理 こうり に対 たい する制限 せいげん のない探求 たんきゅう へと至 いた るようになった。公理 こうり 、命題 めいだい 、そして証明 しょうめい といった観念 かんねん 、そしてまた数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう の命題 めいだい の真理 しんり についての観念 かんねん が、形式 けいしき 化 か され、数学 すうがく 的 てき に扱 あつか うことが許 ゆる されるようになった。ツェルメロ=フレンケルの公理系 こうりけい は、多 おお くの数学 すうがく 的 てき 議論 ぎろん を解釈 かいしゃく する概念的 がいねんてき 枠組 わくぐ みを提供 ていきょう するものとして集合 しゅうごう 論 ろん を定式 ていしき 化 か した。物理 ぶつり 学 がく におけるのと同様 どうよう に数学 すうがく においても、新 あたら しい、予期 よき しないアイデアが登場 とうじょう し、特筆 とくひつ すべき変化 へんか が訪 おとず れた。ゲーデル数 すう によって、数学 すうがく 理論 りろん の無矛盾 むむじゅん 性 せい の研究 けんきゅう が可能 かのう となった。検討 けんとう されている数学 すうがく 的 てき 理論 りろん が「それ自体 じたい 、数学 すうがく 的 てき 研究 けんきゅう の対象 たいしょう となる」という反省 はんせい 的 てき 批判 ひはん を、ヒルベルト は「超 ちょう 数学 すうがく 」(メタ数学 すうがく )(英 えい : metamathematics )又 また は「証明 しょうめい 論 ろん 」(英 えい : proof theory )と呼 よ んだ[3] 。
20世紀 せいき の中 なか ごろ、圏 けん 論 ろん として知 し られる新 あら たな数学 すうがく 理論 りろん が、自然 しぜん 言語 げんご による数学 すうがく 的 てき 思考 しこう に対 たい する新 あら たな競争 きょうそう 者 しゃ として登場 とうじょう した(Mac Lane 1998)。しかしながら、20世紀 せいき が進 すす むにつれ、まさに当初 とうしょ 提起 ていき された基礎 きそ 付 づ けに関 かん する疑問 ぎもん 自体 じたい が如何 いか によく基礎 きそ 付 つ けられるのか、というところへ哲学 てつがく 的 てき 関心 かんしん は広 ひろ がっていった。ヒラリー・パトナム は、20世紀 せいき 後半 こうはん の35年間 ねんかん の状況 じょうきょう についての一 ひと つの共通 きょうつう 見解 けんかい を、次 つぎ のように要約 ようやく した。
哲学 てつがく が
科学 かがく における
誤 あやま りを
発見 はっけん したときは、しばしば、
科学 かがく は
変 か わらざるを
得 え ない。
例 たと えば
ラッセルのパラドックス があるし、
バークリー の
現実 げんじつ 的 てき 無限 むげん 小 しょう への
批判 ひはん も
思 おも い
浮 う かぶ。しかし、それよりも
変 かわ らなければならないのは
哲学 てつがく であることのほうが
多 おお い。
私 わたし には、
哲学 てつがく が
今日 きょう の
古典 こてん 的 てき 数学 すうがく に
見出 みいだ している
困難 こんなん が、
真 しん の
困難 こんなん とは
思 おも えない。そして、
私 わたし は、
我々 われわれ が
四方八方 しほうはっぽう から
提案 ていあん されている
数学 すうがく についての
数々 かずかず の
哲学 てつがく 的 てき 解釈 かいしゃく は
誤 あやま っており、「
哲学 てつがく 的 てき 解釈 かいしゃく 」はまさに
数学 すうがく が
必要 ひつよう としていないものだ、と
考 かんが えている。
— Putnam, 169-170.
今日 きょう 、数学 すうがく の哲学 てつがく は、数学 すうがく の哲学 てつがく 研究 けんきゅう 者 しゃ 、論理 ろんり 学者 がくしゃ 、数学 すうがく 者 しゃ によっていくつもの異 こと なる研究 けんきゅう の方向 ほうこう に進 すす んでおり、この主題 しゅだい に関 かん する多 おお くの学派 がくは が存在 そんざい する。次 つぎ の節 ふし で、これらの学派 がくは を個別 こべつ に取 と り上 あ げ、彼 かれ らの仮説 かせつ を説明 せつめい する。
数学 すうがく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
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実在 じつざい 論 ろん が一般 いっぱん にそうであるように、数学 すうがく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん もまた、数学 すうがく 的 てき 実体 じったい が人間 にんげん の心 しん とは離 はな れたところに実在 じつざい していると考 かんが えている。それゆえ、人間 にんげん が数学 すうがく を発明 はつめい したのではなく、数学 すうがく を発見 はっけん したのだ、ということになる。宇宙 うちゅう に別 べつ に知的 ちてき 生命 せいめい がいるとすれば、それがどんな存在 そんざい であっても同 おな じように数学 すうがく を発見 はっけん するであろう。この観点 かんてん から言 い えば、発見 はっけん されうる数学 すうがく はたった一 いち 種類 しゅるい だけである。例 たと えば、三角形 さんかっけい は真 しん の実体 じったい であり、人間 にんげん の心 しん が生 う みだしたものではない。
現場 げんば の多 おお くの数学 すうがく 者 しゃ は数学 すうがく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん 者 しゃ であった。彼 かれ らは、彼 かれ ら自身 じしん を自然 しぜん に発生 はっせい する対象 たいしょう の発見 はっけん 者 しゃ だとみなしている。数学 すうがく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん 者 しゃ の例 れい には、ポール・エルデシュ やクルト・ゲーデル も含 ふく まれる。ゲーデルは、ある意味 いみ で感覚 かんかく 的 てき 知覚 ちかく と同様 どうよう に知覚 ちかく されうる客観 きゃっかん 的 てき な数学 すうがく 的 てき 実在 じつざい を信 しん じていた。彼 かれ らによれば、無 む 媒介 ばいかい に真 しん であると考 かんが えられる確実 かくじつ な原理 げんり (例 たと えば、任意 にんい の二 ふた つの対象 たいしょう について、正確 せいかく にその二 ふた つの対象 たいしょう によって構成 こうせい される対象 たいしょう のコレクションが存在 そんざい する)というものがいくつかある。しかし、連続 れんぞく 体 たい 仮説 かせつ のように、そのような原理 げんり だけをもとにしては決定的 けっていてき に証明 しょうめい することができない仮説 かせつ もある。ゲーデルによれば、このような仮説 かせつ を合理 ごうり 的 てき に仮定 かてい するのに十分 じゅうぶん な証拠 しょうこ を提供 ていきょう するために、準 じゅん 経験 けいけん 的 てき な方法 ほうほう 論 ろん を用 もち いることができる。
どんな存在 そんざい が数学 すうがく 的 てき 実体 じったい であるのか、また、どうすれば我々 われわれ はそれらを知 し るのかをめぐって、実在 じつざい 論 ろん の内部 ないぶ にいくつもの異 こと なる立場 たちば がある。
実在 じつざい 論 ろん の一 いち 形態 けいたい としてのプラトニズムは、数学 すうがく 的 てき 実体 じったい が抽象 ちゅうしょう 的 てき であり、空間 くうかん 的 てき 時間 じかん 的 てき ないし因果 いんが 的 てき な性質 せいしつ をもたず、永遠 えいえん 不変 ふへん のものであると考 かんが えている。数 かず というものについて、多 おお くの人々 ひとびと がこのような見解 けんかい を抱 だ いているとしばしば主張 しゅちょう される。プラトニズムという用語 ようご が使 つか われる理由 りゆう は、このような観点 かんてん が、不変 ふへん かつ究極 きゅうきょく 的 てき な実在 じつざい に対 たい して日常 にちじょう 的 てき 世界 せかい がその不完全 ふかんぜん な近似 きんじ であるに過 す ぎないとする、プラトン の(「プラトンの洞窟 どうくつ 」のたとえで表 あらわ される)「イデア界 かい 」の教 きょう 説 せつ とパラレルであるように見 み えることに由来 ゆらい する。「プラトンの洞窟 どうくつ 」とか「プラトニズム」というい方 いかた には表面 ひょうめん 的 てき というにとどまらない深 ふか い意味 いみ がある。なぜなら、古代 こだい ギリシアではピタゴラス教団 きょうだん が広範 こうはん な人気 にんき を誇 ほこ っていたが、この学派 がくは によれば世界 せかい は文字通 もじどお り数 かず から生 う まれたのであり、そしてこの学派 がくは は時間 じかん 的 てき にプラトンの思想 しそう に先行 せんこう しており、おそらくプラトンの考 かんが えはこれに影響 えいきょう を受 う けているからである。
数学 すうがく 的 てき プラトニズムの主要 しゅよう な問題 もんだい は、次 つぎ のようなものである。数学 すうがく 的 てき 実体 じったい は、正確 せいかく にどこに、またどのように存在 そんざい するのか? また、我々 われわれ はそれをどのように知 し りうるのか? 我々 われわれ の物理 ぶつり 的 てき 世界 せかい と完全 かんぜん に分離 ぶんり され、数学 すうがく 的 てき 実体 じったい によって占有 せんゆう された世界 せかい があるのか? どうすれば我々 われわれ はその分離 ぶんり された世界 せかい に接近 せっきん でき、数学 すうがく 的 てき 実体 じったい についての真理 しんり を発見 はっけん できるのか? 一 ひと つの答 こた えは数学 すうがく 的 てき 宇宙 うちゅう 仮説 かせつ (究極 きゅうきょく 集合 しゅうごう )の理論 りろん であろう。この理論 りろん に従 したが えば、数学 すうがく 的 てき に存在 そんざい するすべての構造 こうぞう は、それ固有 こゆう の世界 せかい において物理 ぶつり 的 てき にも存在 そんざい するものとされる。
ゲーデルのプラトニズムは、我々 われわれ を数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう の直接的 ちょくせつてき な知覚 ちかく へと導 みちび く、特別 とくべつ な種類 しゅるい の数学 すうがく 的 てき 直観 ちょっかん を前提 ぜんてい にしている。この考 かんが えかたは、フッサール が数学 すうがく について語 かた った多 おお くのことと類似 るいじ しており、数学 すうがく 的 てき 知識 ちしき は総合 そうごう 的 てき かつアプリオリ であるとするカント の考 かんが えを支持 しじ している。フィリップ・J・デイヴィス とルーベン・ハーシュ は共著 きょうちょ 『数学 すうがく 的 てき 経験 けいけん 』The Mathematical Experience において、多 おお くの数学 すうがく 者 しゃ は日頃 ひごろ はまるでプラトニストであるかのように振舞 ふるま っているのに、慎重 しんちょう にその立場 たちば を表明 ひょうめい せざるをえないときには形式 けいしき 主義 しゅぎ (後述 こうじゅつ ) に後退 こうたい することがある、と指摘 してき した。
数学 すうがく 者 しゃ の中 なか には、さらに微妙 びみょう に異 こと なるバージョンのプラトニズムに帰着 きちゃく する見解 けんかい を抱 いだ く者 もの もいる。こういう考 かんが え方 かた は、ネオ・プラトニズム と呼 よ ばれることもある。
論理 ろんり 主義 しゅぎ は、数学 すうがく は論理 ろんり 学 がく に還元 かんげん 可能 かのう で、ゆえに数学 すうがく は論理 ろんり 学 がく の一部 いちぶ 以外 いがい の何者 なにもの でもないというテーゼである(Carnap 1931/1883, 41)。論理 ろんり 主義 しゅぎ 者 しゃ の考 かんが えでは、数学 すうがく はアプリオリ に知 し ることができるが、我々 われわれ の数学 すうがく の知識 ちしき は我々 われわれ が論理 ろんり 学 がく 全般 ぜんぱん についてもっている知識 ちしき の一部分 いちぶぶん にすぎない。そのためわれわれの数学 すうがく 知識 ちしき にとって、いかなる数学 すうがく 的 てき 直観 ちょっかん の特別 とくべつ な能力 のうりょく も不要 ふよう で、命題 めいだい の分析 ぶんせき をすればよい。論理 ろんり 主義 しゅぎ に従 したが えば、論理 ろんり 学 がく が数学 すうがく の固有 こゆう の基礎 きそ であり、全 すべ ての数学 すうがく 的 てき 言明 げんめい は必然 ひつぜん 的 てき な論理 ろんり 的 てき 真理 しんり である。
ルドルフ・カルナップ (1931年 ねん )は、論理 ろんり 主義 しゅぎ の論点 ろんてん を2点 てん 提示 ていじ している。
数学 すうがく の概念 がいねん は、論理 ろんり 学 がく 的 てき 概念 がいねん から明示 めいじ 的 てき な定義 ていぎ をとおして導 みちび きうる。
数学 すうがく の定理 ていり は、論理 ろんり 学 がく 的 てき 公理 こうり から純粋 じゅんすい に論理 ろんり 学 がく 的 てき な演繹 えんえき によって導 みちび きうる。
ゴットロープ・フレーゲ が論理 ろんり 主義 しゅぎ の創始 そうし 者 しゃ であった。独創 どくそう 的 てき な論文 ろんぶん 『算術 さんじゅつ の基本 きほん 法則 ほうそく 』Die Grundgesetze der Arithmetik の中 なか で、彼 かれ は内包 ないほう 性 せい の一般 いっぱん 原理 げんり を用 もち いて、一 ひと つの論理 ろんり 学 がく 体系 たいけい から数学 すうがく を作 つく りあげている。この内包 ないほう 性 せい の一般 いっぱん 原理 げんり を彼 かれ は「基本 きほん ルールV」と呼 よ んでいる(概念 がいねん F と G において、全 すべ ての対象 たいしょう a について Ga のときかつそのときに限 かぎ り Fa であるならば、そのときに限 かぎ って、F の外延 がいえん と G の外延 がいえん は等 ひと しい)。彼 かれ はこの原理 げんり を論理 ろんり 学 がく の一部 いちぶ として受 う け入 い れることができると考 かんが えた。
しかし、フレーゲの構成 こうせい には欠陥 けっかん があった。ラッセル が「基本 きほん ルールV」に矛盾 むじゅん があることを発見 はっけん したのである。これがラッセルのパラドックス である。この後 のち すぐフレーゲは彼 かれ の論理 ろんり 主義 しゅぎ のプログラムを捨 す てたが、ラッセルとホワイトヘッド が後継 こうけい 者 しゃ となった。彼 かれ らは、このパラドックスを「悪循環 あくじゅんかん 」に由来 ゆらい するものとし、これを扱 あつか うために「分岐 ぶんき タイプ理論 りろん 」(英 えい : ramified type theory )なるものを作 つく り上 あ げた。この理論 りろん を用 もち いれば最終 さいしゅう 的 てき に近代 きんだい 数学 すうがく の多 おお くの部分 ぶぶん を作 つく り上 あ げることができるが、しかしその数学 すうがく は部分 ぶぶん 的 てき に変更 へんこう されており、また非常 ひじょう に複雑 ふくざつ な形式 けいしき となる(例 たと えば、それぞれのタイプに異 こと なる自然 しぜん 数 すう があり、無限 むげん に多 おお くのタイプが存在 そんざい する)。彼 かれ らはまた、数学 すうがく の大 だい 部分 ぶぶん を構築 こうちく するために、「還元 かんげん 公理 こうり 」(英 えい : axiom of reducibility )をはじめとするいくつかの妥協 だきょう をしなくてはならなかった。ラッセルでさえ、この公理 こうり は実際 じっさい には論理 ろんり 学 がく に属 ぞく するものではない、と述 の べたほどであった。
現代 げんだい の論理 ろんり 主義 しゅぎ 者 しゃ は(ボブ・ヘイル(Bob Hale )やクリスピン・ライト(Crispin Wright )、おそらくは他 た の人々 ひとびと も)、フレーゲのものに近 ちか いプログラムに回帰 かいき している。彼 かれ らは基本 きほん 法則 ほうそく Vを捨 す ててしまって、ヒュームの原理 げんり (概念 がいねん F に帰属 きぞく する対象 たいしょう の数 かず は、概念 がいねん G に帰属 きぞく する対象 たいしょう の数 かず と、F の外延 がいえん と G の外延 がいえん が一対一 いちたいいち 対応 たいおう させられるとき、かつそのときに限 かぎ り、等 ひと しい。)のような抽象 ちゅうしょう 原理 げんり を支持 しじ している。フレーゲは数 かず の明示 めいじ 的 てき な定義 ていぎ のために基本 きほん 法則 ほうそく Vを必要 ひつよう としたが、数 かず の全 すべ ての性質 せいしつ はヒュームの原理 げんり から導 みちび き出 だ せる。これはフレーゲにとって不満 ふまん の残 のこ る原理 げんり であっただろう。(彼 かれ の言葉 ことば を換言 かんげん すれば)実際 じっさい のところ、数 すう 3がジュリアス・シーザー と同一 どういつ である可能 かのう 性 せい を排除 はいじょ しないからである。加 くわ えて、彼 かれ らが基本 きほん 法則 ほうそく Vを置 お き換 か えるために採用 さいよう せざるをえなかった弱 よわ められた原理 げんり の多 おお くは、もほやそれほど明白 めいはく に命題 めいだい 分析 ぶんせき 的 てき ではなく、したがって純粋 じゅんすい に論理 ろんり 学 がく 的 てき でもないように思 おも える。
もし数学 すうがく が論理 ろんり 学 がく の一部分 いちぶぶん であるならば、数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう に関 かん する疑問 ぎもん は、論理 ろんり 学 がく 的 てき 対象 たいしょう への疑問 ぎもん へと還元 かんげん される。しかしそれでは、論理 ろんり 的 てき 概念 がいねん の対象 たいしょう とは何 なに なのか? この視点 してん からは、論理 ろんり 主義 しゅぎ は、完全 かんぜん な回答 かいとう を与 あた えることなく、数学 すうがく の哲学 てつがく に関 かん する疑問 ぎもん を論理 ろんり 学 がく に関 かん する疑問 ぎもん に移動 いどう させたようにみえるかもしれない。
経験 けいけん 主義 しゅぎ は実在 じつざい 論 ろん の一種 いっしゅ であるが、数学 すうがく がアプリオリ に知 し られうるということを全 まった く否定 ひてい するものである。経験 けいけん 主義 しゅぎ は、ちょうどすべての他 ほか の科学 かがく の事実 じじつ がそうであるように、我々 われわれ は経験 けいけん 的 てき な探求 たんきゅう によって数学 すうがく 的 てき 事実 じじつ を発見 はっけん する、とする。経験 けいけん 主義 しゅぎ は、20世紀 せいき 初頭 しょとう に唱導 しょうどう された古典 こてん 的 てき な3つの立場 たちば とは別 べつ に、同 どう 世紀 せいき 中葉 ちゅうよう に最初 さいしょ に成立 せいりつ した。ただし同様 どうよう の見解 けんかい は先駆 せんく 的 てき にはジョン・スチュワート・ミル が提起 ていき していた。ミルの見解 けんかい は広 ひろ く批判 ひはん された。なぜなら、その見解 けんかい に従 したが えば、「2 + 2 = 4」のような言明 げんめい でも不 ふ 確実 かくじつ で偶然 ぐうぜん 的 てき な真理 しんり にすぎず、2個 こ の事物 じぶつ が2組 くみ 合 あ わさると4つとなることを観察 かんさつ することによってしか学 まな ぶことができないものとされてしまうからである。
クワイン とパトナム によって定式 ていしき 化 か された現代 げんだい の数学 すうがく 的 てき 経験 けいけん 主義 しゅぎ の主 おも な論拠 ろんきょ は、不可欠 ふかけつ 性 せい 論法 ろんぽう (英 えい : indispensability argument )である。これは、数学 すうがく は全 すべ ての経験 けいけん 科学 かがく にとって不可欠 ふかけつ であり、もし我々 われわれ がその科学 かがく によって記述 きじゅつ される現象 げんしょう の実在 じつざい 性 せい を信 しん じたいのであれば、我々 われわれ はその記述 きじゅつ のために必要 ひつよう とされるそれらの事物 じぶつ の実在 じつざい 性 せい もまた信 しん じなくてはならない。つまり、電球 でんきゅう があのように振舞 ふるま うのは何故 なぜ なのか述 の べるために物理 ぶつり 学 がく は電子 でんし に言及 げんきゅう しなければならないのだから、電子 でんし は実在 じつざい しているはずである。科学 かがく がその説明 せつめい を提供 ていきょう するのに数 かず について語 かた る必要 ひつよう があるのだから、数 かず は実在 じつざい しているはずである。クワインとパトナムの哲学 てつがく 全体 ぜんたい からは、これは自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき な議論 ぎろん である。この立場 たちば は数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう の存在 そんざい を経験 けいけん の最善 さいぜん の説明 せつめい として論 ろん じ、そのようにして、数学 すうがく からそれを他 た の科学 かがく から区別 くべつ しているものを剥 は ぎ取 と る。
パトナムは「プラトニスト」という言葉 ことば を、いかなる本当 ほんとう のいみでの数学 すうがく 的 てき 実践 じっせん にも必要 ひつよう とされない特定 とくてい の存在 そんざい 論 ろん を示唆 しさ する言葉 ことば として、強 つよ く拒否 きょひ した。彼 かれ は一種 いっしゅ の「純粋 じゅんすい な実在 じつざい 論 ろん 」(英 えい : pure realism )を擁護 ようご した。それは、真理 しんり についての神秘 しんぴ 的 てき な考 かんが え方 かた を拒否 きょひ し、数学 すうがく における準 じゅん 経験 けいけん 主義 しゅぎ を大 おお いに受 う け入 い れるものであった。彼 かれ は、「純粋 じゅんすい な実在 じつざい 論 ろん 」という言葉 ことば を生 う み出 だ すことにかかわった(後述 こうじゅつ )。
数学 すうがく についての経験 けいけん 主義 しゅぎ 的 てき な見解 けんかい へのもっとも重要 じゅうよう な批判 ひはん は、ミルに対 たい して提起 ていき されたものとおおよそ同 おな じである。もし数学 すうがく が他 た の科学 かがく と同 おな じだけ経験 けいけん 的 てき ならば、そのことは数学 すうがく の結果 けっか も他 た の科学 かがく の結果 けっか と同 おな じだけ誤 あやま りやすく、同 おな じだけ偶然 ぐうぜん 的 てき であることを意味 いみ している。ミルの場合 ばあい は経験 けいけん 的 てき 正当 せいとう 化 か は無 む 媒介 ばいかい 的 てき になされたが、クワインの場合 ばあい は間接 かんせつ 的 てき で、科学 かがく 理論 りろん 全体 ぜんたい の整合 せいごう 性 せい (エドワード・オズボーン・ウィルソン のいうところのコンシリエンス )を通 とお してなされる。クワインが指摘 してき するところでは、数学 すうがく が完全 かんぜん に確実 かくじつ なようにみえるのは、数学 すうがく が演 えん じている役割 やくわり が我々 われわれ の信念 しんねん の網 あみ の非常 ひじょう に中央 ちゅうおう にあるからであり、それを修正 しゅうせい することは我々 われわれ にとって不可能 ふかのう ではないまでもとてつもなく困難 こんなん だからである。
クワインとゲーデルのアプローチの欠点 けってん をそれぞれの面 めん から克服 こくふく しようと試 こころ みる数学 すうがく の哲学 てつがく については、ペネロプ・マディー (Penelope Maddy ) の著書 ちょしょ 『数学 すうがく における実在 じつざい 論 ろん 』Realism in Mathematics を参照 さんしょう せよ。
形式 けいしき 主義 しゅぎ とは、数学 すうがく 的 てき 言明 げんめい はいくつかの記号 きごう 列 れつ の操作 そうさ ルールの帰結 きけつ についての言明 げんめい とみなしてよいと考 かんが えるものである。例 たと えば、ユークリッド幾何 きか 学 がく という「ゲーム」(つまり、「公理 こうり 」という名 な のいくつかの記号 きごう 列 れつ と、与 あた えられた記号 きごう 列 れつ から新 あたら しい記号 きごう 列 れつ を生成 せいせい する「推理 すいり 規則 きそく 」からなるものとみなすということ)において、ピタゴラスの定理 ていり が成立 せいりつ する(すなわち、ピタゴラスの定理 ていり に対応 たいおう する記号 きごう 列 れつ を生成 せいせい できる)ということは証明 しょうめい 可能 かのう である。形式 けいしき 主義 しゅぎ によるなら、数学 すうがく 的 てき 真理 しんり とは、数 かず とか集合 しゅうごう とか三角形 さんかっけい といったものについての真理 しんり ではない。実 み のところ、なにものかに「ついての」真理 しんり などでは全 まった くない。
別 べつ の種類 しゅるい の形式 けいしき 主義 しゅぎ はしばしば演繹 えんえき 主義 しゅぎ (英 えい : deductivism )という名前 なまえ で知 し られている。演繹 えんえき 主義 しゅぎ によれば、ピタゴラスの定理 ていり は絶対 ぜったい 的 てき な真理 しんり ではなく、相対 そうたい 的 てき な真理 しんり である。「もし」ゲームの規則 きそく が真 しん になるような仕方 しかた で文字 もじ 列 れつ に意味 いみ が与 あた えられるなら、「そのとき」定理 ていり を真 しん と認 みと めなくてはいけない。あるいはむしろ、それに与 あた えられた解釈 かいしゃく が真 しん なる言明 げんめい であるとしなければならない。他 た のすべての数学 すうがく 的 てき 言明 げんめい についても同 おな じことが真 しん とされる。それゆえ、形式 けいしき 主義 しゅぎ では、数学 すうがく は意味 いみ のない記号 きごう ゲームにすぎないと考 かんが える必要 ひつよう はない。ゲームの規則 きそく が妥当 だとう するなんらかの解釈 かいしゃく が存在 そんざい するということが通常 つうじょう 期待 きたい されているからである(この立場 たちば を構造 こうぞう 主義 しゅぎ と比較 ひかく せよ)。しかし、形式 けいしき 主義 しゅぎ によって現場 げんば の数学 すうがく 者 しゃ たちは仕事 しごと を続 つづ けることができるし、いくつかの問題 もんだい を哲学 てつがく 者 しゃ や自然 しぜん 科学 かがく 者 しゃ に委 ゆだ ねることができる。多 おお くの形式 けいしき 主義 しゅぎ 者 しゃ は、どんな公理系 こうりけい を研究 けんきゅう すべきかは、実際 じっさい 上 じょう 、自然 しぜん 科学 かがく や他 た の数学 すうがく 領域 りょういき の要求 ようきゅう によって示唆 しさ されると言 い うであろう。
ダフィット・ヒルベルト
形式 けいしき 主義 しゅぎ を唱 とな えた初期 しょき の最 もっと も有名 ゆうめい な人物 じんぶつ はダフィット・ヒルベルト であった。ヒルベルトのプログラム とは、数学 すうがく 全体 ぜんたい を完全 かんぜん かつ無矛盾 むむじゅん な仕方 しかた で公理 こうり 化 か しようとするものであった。ここで無矛盾 むむじゅん とは、体系 たいけい 上 じょう いかなる矛盾 むじゅん も生 しょう じないということである。ヒルベルトは、「有限 ゆうげん 算術 さんじゅつ 」(通常 つうじょう の算術 さんじゅつ の下位 かい 体系 たいけい で、自然 しぜん 数 すう について哲学 てつがく 的 てき に議論 ぎろん しようもないよう選 えら ばれたもの)は無矛盾 むむじゅん であるという仮定 かてい 条件 じょうけん のもとで、数学 すうがく の体系 たいけい 的 てき 無矛盾 むむじゅん 性 せい を示 しめ そうとしたのである。しかし、完全 かんぜん かつ無矛盾 むむじゅん な数学 すうがく 体系 たいけい を作 つく りだそうというヒルベルトの目標 もくひょう は、ゲーデルの第 だい 2不完全性 ふかんぜんせい 定理 ていり によって完全 かんぜん に潰 つい えた。不完全性 ふかんぜんせい 定理 ていり によれば、十分 じゅうぶん な表現 ひょうげん 力 りょく を持 も つ無矛盾 むむじゅん な公理 こうり 体系 たいけい は自身 じしん の無矛盾 むむじゅん 性 せい を決 けっ して証明 しょうめい できないからである。このような公理 こうり 体系 たいけい はかならず有限 ゆうげん 算術 さんじゅつ を下位 かい 体系 たいけい として含 ふく むことになるから、ゲーデルの定理 ていり は、有限 ゆうげん 算術 さんじゅつ に関 かん する体系 たいけい の無矛盾 むむじゅん 性 せい が証明 しょうめい 不可能 ふかのう であることも含意 がんい している(自己 じこ の無矛盾 むむじゅん 性 せい を証明 しょうめい することになるが、ゲーデルによってそれが不可能 ふかのう であることが証明 しょうめい されている)。それゆえ、無矛盾 むむじゅん であると証明 しょうめい しようとしている体系 たいけい よりもある意味 いみ で強力 きょうりょく な無矛盾 むむじゅん 性 せい を数学 すうがく 体系 たいけい が備 そな えているのだということをまず前提 ぜんてい しておかなければ、数学 すうがく のどんな公理 こうり 体系 たいけい も実際 じっさい に無矛盾 むむじゅん であることを示 しめ すことはできないことになる。
初期 しょき のヒルベルトは演繹 えんえき 主義 しゅぎ 者 しゃ であったが、上記 じょうき のように、メタ数学 すうがく 的 てき 方法 ほうほう が本質 ほんしつ 的 てき に有意 ゆうい 味 あじ な結果 けっか を生 う み出 だ すと考 かんが え、有限 ゆうげん 算術 さんじゅつ に関 かん して実在 じつざい 論 ろん の立場 たちば に立 た っていた。後年 こうねん には、どんな解釈 かいしゃく を取 と ろうとも有意 ゆうい 味 あじ な数学 すうがく は他 た に一切 いっさい ありえないという見解 けんかい をもつようになった。
ルドルフ・カルナップ 、アルフレト・タルスキ 、ハスケル・カリー ら他 た の形式 けいしき 主義 しゅぎ 者 しゃ たちは、数学 すうがく とは形式 けいしき 公理系 こうりけい の研究 けんきゅう のことであると考 かんが えた。数理 すうり 論理 ろんり 学者 がくしゃ は形式 けいしき 体系 たいけい を研究 けんきゅう しているが、形式 けいしき 主義 しゅぎ の立場 たちば に立 た つ研究 けんきゅう 者 しゃ も実在 じつざい 論 ろん の立場 たちば に立 た つ研究 けんきゅう 者 しゃ も同 どう 程度 ていど にいる。
形式 けいしき 主義 しゅぎ の信奉 しんぽう 者 しゃ は、論理 ろんり 学 がく や非 ひ 標準 ひょうじゅん 的 てき 数 すう 系 けい 、新 あたら しい集合 しゅうごう 論 ろん などといった新 あら たなアプローチに対 たい して比較的 ひかくてき 寛容 かんよう であり、これらのアプローチを推進 すいしん している。われわれが研究 けんきゅう するゲームが多 おお ければ多 おお くほどよい。もっとも、例 れい に挙 あ げたこの3つのアプローチの動機 どうき づけになっているのは、すべて現在 げんざい の数学 すうがく 的 てき ないし哲学 てつがく 的 てき 関心 かんしん である。「ゲーム」は通常 つうじょう 恣意 しい 的 てき なものではないのである。
形式 けいしき 主義 しゅぎ に対 たい する主要 しゅよう な批判 ひはん は、数学 すうがく 者 しゃ たちの念頭 ねんとう にある現在 げんざい の数学 すうがく 的 てき 概念 がいねん は、前述 ぜんじゅつ した記号 きごう 列 れつ 操作 そうさ ゲームとは縁 えん もゆかりもないということである。例 たと えば形式 けいしき 主義 しゅぎ はどんな公理系 こうりけい を研究 けんきゅう すべきかという問 と いに対 たい しては沈黙 ちんもく する。形式 けいしき 主義 しゅぎ 的 てき 観点 かんてん からはどの公理系 こうりけい も同等 どうとう に有 ゆう 意味 いみ だからである。
近年 きんねん では、形式 けいしき 主義 しゅぎ の立場 たちば に立 た つ数学 すうがく 者 しゃ たちの中 なか には、われわれの「形式 けいしき 的 てき 」な数学 すうがく 知識 ちしき のすべてをコンピュータ読 よ み取 と り可能 かのう な形態 けいたい で体系 たいけい 的 てき にコード化 か することを提案 ていあん した者 もの たちもいる。これによって数学 すうがく 的 てき 証明 しょうめい の自動 じどう 検証 けんしょう が容易 ようい に行 おこな えるようになり、数学 すうがく 理論 りろん とコンピュータ・ソフトウェアの発展 はってん のために双方向 そうほうこう 定理 ていり 証明 しょうめい を用 もち いることができるようになるというのである。 この考 かんが え方 かた はコンピュータサイエンス と密接 みっせつ に結 むす びついているので、「計算 けいさん 可能 かのう 性 せい 」研究 けんきゅう の流 なが れのもとで数学 すうがく 的 てき 直観 ちょっかん 主義 しゅぎ と数学 すうがく 的 てき 構築 こうちく 主義 しゅぎ を擁護 ようご することにもなった(後述 こうじゅつ )。概略 がいりゃく はQEDプロジェクト を参照 さんしょう 。
数学 すうがく における直観 ちょっかん 主義 しゅぎ とは、「非 ひ 経験 けいけん 的 てき な数学 すうがく 的 てき 真理 しんり はありえない」(L・E・J・ブラウワー )をモットーとする方法 ほうほう 論 ろん 的 てき 改革 かいかく のプログラムである。直観 ちょっかん 主義 しゅぎ の信奉 しんぽう 者 しゃ はこのモットーを出発 しゅっぱつ 点 てん に、彼 かれ らが矯正 きょうせい 可能 かのう であると考 かんが えた数学 すうがく の一部分 いちぶぶん について、存在 そんざい 、生成 せいせい 、直観 ちょっかん 、知識 ちしき といったカント的 てき 概念 がいねん に従 したが って再 さい 構築 こうちく しようとした。運動 うんどう の創始 そうし 者 しゃ であるブラウワーは、数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう は「アプリオリ 」な形式 けいしき の意思 いし 作用 さよう から生 しょう じるのであり、この意思 いし 作用 さよう が経験 けいけん 的 てき 対象 たいしょう の知覚 ちかく を活気 かっき づけるのだとした(CDP, 542)。
レオポルト・クロネッカー は「自然 しぜん 数 すう は神 かみ に由来 ゆらい し、他 た のすべては人間 にんげん の産物 さんぶつ である」と述 の べている。直観 ちょっかん 主義 しゅぎ 擁護 ようご 派 は の主要 しゅよう 人物 じんぶつ は、いかなる種類 しゅるい の形式 けいしき 化 か された論理 ろんり 学 がく も数学 すうがく にとって有益 ゆうえき でないとしたブラウワーであった。彼 かれ の学生 がくせい であったアレン・ハイティング は直観 ちょっかん 論理 ろんり を定式 ていしき 化 か した。これは、古典 こてん 的 てき なアリストテレス論 ろん 理学 りがく とは異 こと なるものである。直観 ちょっかん 論理 ろんり は排中律 はいちゅうりつ を含 ふく まず、従 したが って背理法 はいりほう を認 みと めない。また直観 ちょっかん 主義 しゅぎ 的 てき 集合 しゅうごう 論 ろん の多 おお くにおいては、若干 じゃっかん の例外 れいがい を除 のぞ いて選択 せんたく 公理 こうり も斥 しりぞ けられている。直観 ちょっかん 主義 しゅぎ に基 もと づいて後年 こうねん 行 おこな われた重要 じゅうよう な研究 けんきゅう としてはエレット・ビショップ によるものがある。ビショップは実 じつ 解析 かいせき の主要 しゅよう 公理 こうり を直観 ちょっかん 主義 しゅぎ 的 てき 観点 かんてん から定義 ていぎ し直 なお し、その証明 しょうめい を行 おこな おうとした。
直観 ちょっかん 主義 しゅぎ の「明白 めいはく な構成 こうせい 」という用語 ようご の定義 ていぎ は曖昧 あいまい であり、批判 ひはん を浴 あ びた。この欠陥 けっかん を補 おぎな うため チューリングマシーン や計算 けいさん 可能 かのう 関数 かんすう といった概念 がいねん を用 もち いることが試 こころ みられ、有限 ゆうげん なアルゴリズム のふるまいに関 かん する問題 もんだい だけが有意 ゆうい 味 あじ であり、数学 すうがく 的 てき 研究 けんきゅう の対象 たいしょう であるべきであるといった主張 しゅちょう がなされた。アラン・チューリング によって提案 ていあん された計算 けいさん 可能 かのう 数 すう の研究 けんきゅう も行 おこな われた。従 したが って、直観 ちょっかん 主義 しゅぎ のアプローチがしばしばコンピュータサイエンス の理論 りろん と結 むす びついているのも不思議 ふしぎ なことではない。
直観 ちょっかん 主義 しゅぎ と同様 どうよう 、構成 こうせい 主義 しゅぎ もまた、一定 いってい の意味 いみ で明白 めいはく に構成 こうせい することのできる数学 すうがく 的 てき なものだけが数学 すうがく 的 てき 言説 げんせつ において認 みと められるべきであるという規制 きせい 原理 げんり を主張 しゅちょう する。この考 かんが え方 かた によれば、数学 すうがく とは人間 にんげん の直観 ちょっかん の営 いとな みであって、有意 ゆうい 味 あじ な記号 きごう を用 もち いたゲームなどではない。そうではなく、数学 すうがく とは、われわれが心的 しんてき 活動 かつどう を通 つう じて直接 ちょくせつ 作 つく り出 だ せるものに関係 かんけい している。また、構成 こうせい 主義 しゅぎ の支持 しじ 者 しゃ たちの中 なか には、非 ひ 構成 こうせい 的 てき 証明 しょうめい (背理法 はいりほう など)を拒否 きょひ する者 もの もいる。
数学 すうがく におけるフィクショナリズム(英 えい : Fictionalism )は、1980年 ねん にハートリー・フィールド が『数 かず を用 もち いない科学 かがく 』Science Without Numbers を出版 しゅっぱん し、その中 なか でクワインの不可欠 ふかけつ 性 せい 論法 ろんぽう を退 しりぞ け、実際 じっさい に覆 くつがえ したときに有名 ゆうめい となった。クワインは、数学 すうがく は私 わたし たちのもっとも優 すぐ れた科学 かがく 的 てき な諸 しょ 理論 りろん のために不可欠 ふかけつ であり、したがって独立 どくりつ に存在 そんざい する事物 じぶつ について言及 げんきゅう する真理 しんり の主要 しゅよう 部 ぶ として受 う け入 い れなくてはならないとしたが、フィールドは不可欠 ふかけつ ではなく、したがって実在 じつざい 的 てき な何者 なにもの にも言及 げんきゅう することのない虚偽 きょぎ であると指摘 してき した。彼 かれ はこれを、まったく数 かず と関数 かんすう を用 もち いることのないニュートン力学 りきがく の完全 かんぜん な公理系 こうりけい を提供 ていきょう することによって行 い った。ヒルベルトの公理系 こうりけい (英 えい : Hilbert's axioms )の「間 あいだ にある」(英 えい : betweenness )という概念 がいねん を使 つか って座標 ざひょう を付 つ けることなく空間 くうかん を特徴 とくちょう づけることをはじめ、それまではベクトル場 じょう によって行 おこな われていたことをするために点 てん の間 あいだ のさらなる関係 かんけい を加 くわ える。ヒルベルトの幾何 きか 学 がく は、それが抽象 ちゅうしょう 的 てき な点 てん について述 の べるため、数学 すうがく 的 てき である。しかし、フィールドの理論 りろん においては、これらの点 てん は物理 ぶつり 的 てき 空間 くうかん における具体 ぐたい 的 てき な点 てん であって、そのため特別 とくべつ な数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう はまったく必要 ひつよう ない。
どのように数学 すうがく を使 つか うことなく科学 かがく を行 おこな うかを明 あき らかにして、彼 かれ は、数学 すうがく を役 やく に立 た つフィクションという地位 ちい に復権 ふっけん させた。彼 かれ の示 しめ したところによれば、数学 すうがく 的 てき 物理 ぶつり 学 がく は、彼 かれ の非 ひ 数学 すうがく 的 てき 物理 ぶつり 学 がく の保守 ほしゅ 的 てき な拡大 かくだい (英 えい : conservative extension )の一 ひと つであり(つまり、数学 すうがく 的 てき 物理 ぶつり 学 がく で証明 しょうめい 可能 かのう なすべての物理 ぶつり 的 てき 事実 じじつ は、彼 かれ の非 ひ 数学 すうがく 的 てき 物理 ぶつり 学 がく 体系 たいけい ですでに証明 しょうめい 可能 かのう であり)、数学 すうがく はその物理 ぶつり 的 てき 現象 げんしょう への応用 おうよう がすべて真 しん であるような信頼 しんらい できるプロセスではあるが、それ自体 じたい の言明 げんめい は偽 にせ なのである。したがって、私 わたし たちが数学 すうがく を行 おこな うとき、万 まん が一 いち 、数 かず が存在 そんざい するならばと、私 わたし たちは自分 じぶん たちがある種 しゅ の物語 ものがたり を語 かた っているにすぎない。フィールドにとって、ちょうど「シャーロック・ホームズ はベーカー街 がい 221B に住 す んでいる」という言明 げんめい が偽 にせ なのと同 おな じように、「2 + 2 = 4」といった言明 げんめい は偽 にせ なのである —もっとも、これらの両方 りょうほう の言明 げんめい とも、適切 てきせつ なフィクションにもとづけば真 しん ではあるが。
この説明 せつめい によれば、数学 すうがく だけに特有 とくゆう の形而上学 けいじじょうがく 的 てき または認識 にんしき 論 ろん 的 てき な問題 もんだい は存在 そんざい しない。残 のこ された問題 もんだい は、非 ひ 数学 すうがく 的 てき 物理 ぶつり 学 がく についての一般 いっぱん 的 てき な問題 もんだい と、フィクション 一般 いっぱん についての問題 もんだい だけなのである。フィールドのアプローチは非常 ひじょう に影響 えいきょう 力 りょく があったが、今日 きょう では広 ひろ く拒絶 きょぜつ されている。これは、一 ひと つには、フィールドの還元 かんげん を行 おこな うために二 に 階 かい の論理 ろんり の強 つよ い断片 だんぺん (英 えい : strong fragments )が必要 ひつよう とされるからであり、また彼 かれ の保守 ほしゅ 的 てき な理論 りろん の言明 げんめい は抽象 ちゅうしょう 的 てき なモデルや演繹 えんえき に対 たい して量 りょう 化 か を必要 ひつよう とするように思 おも えるからである。他 た の異議 いぎ としては、量子 りょうし 論 ろん や周期 しゅうき 表 ひょう のようないくつかの科学 かがく の成果 せいか を、数学 すうがく なしでどのように得 え ることができるのかはっきりしない、というものがある。もし、ある元素 げんそ を他 た の元素 げんそ と区別 くべつ するものが電子 でんし や中性子 ちゅうせいし 、陽子 ようし の数 かず に他 た ならないならば、どのようにして数 すう の概念 がいねん なしに元素 げんそ を区別 くべつ すればよいのだろうか?[要 よう 出典 しゅってん ]
身体 しんたい 化 か 理論 りろん [ 編集 へんしゅう ]
身体 しんたい 化 か 理論 りろん (英 えい : Embodied mind theories )によれば、数学 すうがく 的 てき 思考 しこう は我々 われわれ の物理 ぶつり 的 てき 世界 せかい に存 そん する認知 にんち 器官 きかん の自然 しぜん な派生 はせい 物 ぶつ である。例 たと えば、数 かず という抽象 ちゅうしょう 的 てき な概念 がいねん は、離散 りさん 的 てき な対象 たいしょう を数 かぞ えるという経験 けいけん に源 みなもと を持 も つ。数学 すうがく は普遍 ふへん 的 てき ではないし、いかなる本当 ほんとう の意味 いみ でも人間 にんげん の脳 のう の中 なか 以外 いがい には存在 そんざい するわけではない、とする。数学 すうがく は、人間 にんげん によって発見 はっけん されたのではなく、人間 にんげん によって構築 こうちく されたのである。
したがって、この観点 かんてん においては、物理 ぶつり 的 てき 宇宙 うちゅう はまた数学 すうがく の究極 きゅうきょく 的 てき な基礎 きそ と見 み なされる。それは、脳 のう の進化 しんか を導 みちび き、脳 のう がどのような問題 もんだい について調査 ちょうさ する価値 かち を見出 みいだ すのかを決定 けってい した。しかし、人間 にんげん の心 しん には殊 こと さら実在 じつざい 性 せい を要求 ようきゅう する傾向 けいこう も、数学 すうがく をもとにして作 つく り出 だ された実在 じつざい 性 せい への特別 とくべつ な接近 せっきん 法 ほう も持 も ってはいない。オイラーの等式 とうしき のような構成 こうせい 物 ぶつ が真 しん であるとすれば、それらは人間 にんげん の心 しん と認識 にんしき の写像 しゃぞう として真 ま なのである。
したがって、身体 しんたい 化 か 理論 りろん は、数学 すうがく の有効 ゆうこう 性 せい を、数学 すうがく は脳 のう によってこの宇宙 うちゅう で有効 ゆうこう であるようにと構築 こうちく されたからであると説明 せつめい する。
この視点 してん による有名 ゆうめい な論述 ろんじゅつ は、ジョージ・レイコフ とラファエル・ヌニェス (英語 えいご 版 ばん ) (Rafael E. Núñez )の『数学 すうがく の認知 にんち 科学 かがく 』Where Mathematics Comes From である。加 くわ えて、数学 すうがく 者 しゃ キース・デヴリン(Keith Devlin )も、著書 ちょしょ 『数学 すうがく 的 てき 本能 ほんのう 』The Math Instinct において、似 に たようなコンセプトを検討 けんとう した。この視点 してん から喚起 かんき されたさらなる哲学 てつがく 的 てき なアイデアについては、数学 すうがく の認知 にんち 科学 かがく (英 えい : cognitive science of mathematics )を参照 さんしょう のこと。
社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ ・社会 しゃかい 的 てき 実在 じつざい 主義 しゅぎ [ 編集 へんしゅう ]
社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ や社会 しゃかい 的 てき 実在 じつざい 論 ろん の理論 りろん では、数学 すうがく をなによりまず社会 しゃかい 的 てき 構築 こうちく 物 ぶつ として見 み る。つまり、文化 ぶんか によって変化 へんか や変更 へんこう が行 おこな われる生産 せいさん 物 ぶつ と見 み る。自然 しぜん 科学 かがく の他 ほか の部門 ぶもん と同 おな じく、数学 すうがく もまたひとつの経験 けいけん 的 てき 試 こころ みであり、その成果 せいか は絶 た えず検証 けんしょう され、場合 ばあい によっては放棄 ほうき されるかもしれないとされる。とはいえ、経験 けいけん 主義 しゅぎ 的 てき には検証 けんしょう とは「現実 げんじつ 」とある種 しゅ の比較 ひかく を行 おこな うことであるのに対 たい して、社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ が強調 きょうちょう するのは、社会 しゃかい 集団 しゅうだん における研究 けんきゅう 上 じょう の流行 りゅうこう や研究 けんきゅう に資金 しきん 供給 きょうきゅう する社会 しゃかい の必要 ひつよう に応 おう じて数学 すうがく 研究 けんきゅう の方針 ほうしん が決定 けってい されるこということである。ただし、こうした外部 がいぶ 的 てき な力 ちから によってある種 しゅ の数学 すうがく 研究 けんきゅう が変 か えられてしまうということがあるにせよ、数学 すうがく 的 てき な伝統 でんとう 、方法 ほうほう 、問題 もんだい 、意味 いみ や価値 かち といった数 すう 学者 がくしゃ たちが文化 ぶんか 適応 てきおう しているさまざまな内的 ないてき 制約 せいやく もまた、数学 すうがく という歴史 れきし 的 てき に決定 けってい された学問 がくもん 分野 ぶんや を保持 ほじ していく上 うえ で、強力 きょうりょく に働 はたら いている。
以上 いじょう の考 かんが え方 かた は、現場 げんば の数学 すうがく 者 しゃ たちが従来 じゅうらい 感 かん じてきた、数学 すうがく とはいずれにせよ純粋 じゅんすい ないし客観 きゃっかん 的 てき なものであるという信念 しんねん とは相容 あいい れない。しかし、社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ の立場 たちば からすれば、数学 すうがく の基礎 きそ には実際 じっさい にはかなり不 ふ 確実 かくじつ なものがある。数学 すうがく 的 てき 実践 じっせん (mathematical practice ) が変化 へんか すると、かつての数学 すうがく の地位 ちい に疑問 ぎもん が投 な げかけられ、現在 げんざい の数学 すうがく 者 しゃ たちの共同 きょうどう 体 たい によって要求 ようきゅう ないし要望 ようぼう される水準 すいじゅん に変更 へんこう される。解析 かいせき 学 がく の発達 はったつ がライプニッツやニュートンの微積分 びせきぶん 法 ほう の再 さい 検討 けんとう から生 う まれたとき、こういう変化 へんか が起 お こったと言 い える。社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ の立場 たちば からは、さらに、完成 かんせい された数学 すうがく が大 おお きすぎる地位 ちい を与 あた えられていることが多 おお いのに対 たい して、まだしっかりとした証明 しょうめい をされていないいわゆるフォーク数学 すうがく (folk mathematics ) の方 ほう は、公理 こうり 的 てき 証明 しょうめい や数学 すうがく 的 てき 実践 じっせん におけるピア・レビュー に重 おも きを置 お きすぎているせいで、十分 じゅうぶん に評価 ひょうか されない。しかしそれでは、厳密 げんみつ に証明 しょうめい された成果 せいか が強調 きょうちょう されすぎていると言 い っているだけに思 おも えるかもしれない。残 のこ りはすべて混乱 こんらん して不 ふ 確実 かくじつ だ、というわけである。
数学 すうがく が社会 しゃかい 的 てき なものであるということが最 もっと も明白 めいはく なのは、数学 すうがく のサブカルチャー に当 あ たる分野 ぶんや である。主要 しゅよう な発見 はっけん がある数学 すうがく 部門 ぶもん で行 おこな われ、他 た の数学 すうがく 部門 ぶもん にも関連 かんれん しているということがありうる。それでも、数学 すうがく 者 しゃ たちの間 あいだ に社会 しゃかい 的 てき 繋 つな がりがなければ、関係 かんけい は発見 はっけん されないままになる。社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ の立場 たちば からは、それぞれの部門 ぶもん はそれぞれ認識 にんしき 共同 きょうどう 体 たい (epistemic community ) を形成 けいせい しており、コミュニケーションをしたり数学 すうがく の様々 さまざま な分野 ぶんや を横断 おうだん する統一 とういつ 理論 りろん (unifying theories ) を研究 けんきゅう しようと考 かんが えたりするのは大変 たいへん 難 むずか しいと言 い える。社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ の立場 たちば からは「数学 すうがく をする」というプロセスは現実 げんじつ に意味 いみ を作 つく りだすことなのである。他方 たほう 、社会 しゃかい 実在 じつざい 論 ろん の立場 たちば からは、人間 にんげん の抽象 ちゅうしょう 化 か 能力 のうりょく や人間 にんげん の認知 にんち バイアス や数学 すうがく 者 しゃ たちの集団 しゅうだん 的 てき 知性 ちせい の不足 ふそく によって、数学 すうがく 的 てき 対象 たいしょう という実在 じつざい 世界 せかい の理解 りかい が妨 さまた げられているとされる。社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ では、数学 すうがく の基礎 きそ の探求 たんきゅう は失敗 しっぱい せざるを得 え ないし、無駄 むだ かつ無意味 むいみ であるとして拒絶 きょぜつ されることもある。社会 しゃかい 科学 かがく 者 しゃ によっては、人種 じんしゅ 差別 さべつ やエスノセントリズム の影響 えいきょう を受 う けているとする説 せつ もある。これらの考 かんが え方 かた の中 なか にはポストモダニズム に近 ちか いものもある。
社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ への寄与 きよ はイムレ・ラカトシュ やトマス・ティモチコ (Thomas Tymoczko ) によって行 おこな われてきたが、両者 りょうしゃ を社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ 者 しゃ と呼 よ んでよいかは異論 いろん もある。もっと最近 さいきん ではポール・エルネスト が社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ 的 てき な数学 すうがく の哲学 てつがく を明白 めいはく に定式 ていしき 化 か している[1] 。ポール・エルデシュ の仕事 しごと が全体 ぜんたい として社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ を進歩 しんぽ させたと考 かんが える者 もの もいる(ただし本人 ほんにん は社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ を否定 ひてい している)。エルデシュ数 すう などを通 つう じて、「数学 すうがく が社会 しゃかい 的 てき 活動 かつどう である」ということの研究 けんきゅう へと人々 ひとびと を促 うなが したという点 てん で、エルデシュの広範 こうはん な寄与 きよ は唯一 ゆいいつ 無二 むに のものだからである。ルーベン・ハーシュ もまた社会 しゃかい 的 てき な数学 すうがく 観 かん を奨励 しょうれい し、それを「人文 じんぶん 主義 しゅぎ 的 てき 」(humanistic) アプローチと呼 よ んだ[2] 。これはアルヴィン・ホワイトのアプローチに似 に ているが、細部 さいぶ は異 こと なる[3] 。ハーシュと共著 きょうちょ を記 しる したフィリップ・J・デイヴィス もまた社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ 的 てき な数学 すうがく 観 かん に賛同 さんどう していることを表明 ひょうめい している。
社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ アプローチへの批判 ひはん は、それが些事 さじ にばかり執着 しゅうちゃく し、数学 すうがく が人間 にんげん の営 いとな みであるという当 あ たり前 まえ の説 せつ を基礎 きそ にしているということである。厳密 げんみつ でない推測 すいそく や実験 じっけん や考察 こうさつ をしてからでなければ厳密 げんみつ な証明 しょうめい はできないという指摘 してき は正 ただ しいが、それは自明 じめい のことであって、誰 だれ も否定 ひてい しようとはしない。だとすれば、そんな仕方 しかた で、陳腐 ちんぷ な真実 しんじつ に基 もと づいて数学 すうがく の哲学 てつがく を特徴 とくちょう づけるのは筋違 すじちが いというものである。カール・ワイエルシュトラス のような数学 すうがく 者 しゃ たちが諸 しょ 定理 ていり を一 いち から証明 しょうめい しようとしたとき、ライプニッツやニュートンの微積分 びせきぶん 法 ほう が再 さい 検討 けんとう された。そこには一切 いっさい 特別 とくべつ なことも興味深 きょうみぶか いこともない。それはもっと一般 いっぱん 的 てき な、厳密 げんみつ でないものの考 かんが え方 かた のトレンド と合致 がっち しているからであり、こうした考 かんが え方 かた が後 のち になって厳密 げんみつ 化 か される。数学 すうがく 研究 けんきゅう の対象 たいしょう と、数学 すうがく 研究 けんきゅう の対象 たいしょう の研究 けんきゅう とを明確 めいかく に区別 くべつ すべきである。おそらく前者 ぜんしゃ は大幅 おおはば に変化 へんか しない。後者 こうしゃ は絶 た えず変動 へんどう している。社会 しゃかい 理論 りろん が論 ろん じるのは後者 こうしゃ であり、プラトニズム 等 ひとし が論 ろん じるのは前者 ぜんしゃ である。
しかし、社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ 的 てき な立場 たちば の支持 しじ 者 しゃ からはこういう批判 ひはん は門前払 もんぜんばら いされている。なぜならそうした批判 ひはん は、数学 すうがく の対象 たいしょう そのものが社会 しゃかい 的 てき 構築 こうちく 物 ぶつ であることに気 き づいていないからである。社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ によれば、こうした対象 たいしょう はなによりまず、人間 にんげん の文化 ぶんか の領域 りょういき に存在 そんざい する記号 きごう 学 がく 的 てき な対象 たいしょう なのであり、(ウィトゲンシュタイン 的 てき に言 い えば)物理 ぶつり 的 てき 形態 けいたい を与 あた えられた記号 きごう を用 もち いて個体 こたい 内 ない に(心的 しんてき な)構築 こうちく 物 ぶつ を生 しょう じさせるという社会 しゃかい 的 てき 実践 じっせん によって維持 いじ される。社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ が考察 こうさつ しているのは、人間 にんげん の文化 ぶんか の領域 りょういき がプラトニズムの王国 おうこく やその他 た の物理 ぶつり 世界 せかい を超 こ えた天国 てんごく 的 てき な存在 そんざい 領域 りょういき に物 もの 化 か されるということなのであり、それは長 なが らく慣習 かんしゅう 的 てき に続 つづ いてきたカテゴリー錯誤 さくご なのである。
伝統 でんとう 的 てき 学派 がくは を超 こ えて[ 編集 へんしゅう ]
この節 ふし の内容 ないよう の信頼 しんらい 性 せい について検証 けんしょう が求 もと められています 。 確認 かくにん のための文献 ぶんけん や情報 じょうほう 源 げん をご存 ぞん じの方 ほう はご提示 ていじ ください。出典 しゅってん を明記 めいき し 、記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい を高 たか めるためにご協力 きょうりょく をお願 ねが いします。
1960年代 ねんだい から1990年代 ねんだい になると、数学 すうがく がなぜ役 やく に立 た つのかということに対 たい して基礎 きそ 付 づ けや正 ただ しい解答 かいとう を探 さが そうとする考 かんが え方 かた が本当 ほんとう は違 ちが うのではないか、と考 かんが える運動 うんどう が、数学 すうがく における真理 しんり が何 なに を意味 いみ するのかをめぐる精密 せいみつ な議論 ぎろん や証明 しょうめい のような数学 すうがく 者 しゃ に特有 とくゆう の営 いとな みに焦点 しょうてん を当 あ てることに代 か わって成長 せいちょう した。出発 しゅっぱつ 点 てん となったのは、物理 ぶつり 学者 がくしゃ のユージン・ウィグナー の名高 なだか い1960年 ねん の論文 ろんぶん 「自然 しぜん 科学 かがく における数学 すうがく の不合理 ふごうり な有効 ゆうこう 性 せい 」The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences であった。ウィグナーはこの論文 ろんぶん において、数学 すうがく と物理 ぶつり 学 がく の幸福 こうふく な合致 がっち は、大変 たいへん よく調和 ちょうわ しているが、不合理 ふごうり であり説明 せつめい しがたいと思 おも われると述 の べている。
生得 しょうとく 理論 りろん や認知 にんち 言語 げんご 学 がく といった学派 がくは はこうした疑義 ぎぎ に対 たい する返答 へんとう であるが、提起 ていき された議論 ぎろん をこれらの学派 がくは に限定 げんてい することは難 むずか しい。
準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
同様 どうよう の事柄 ことがら のうち、実際 じっさい には既存 きそん の学派 がくは に直接 ちょくせつ 反対 はんたい しているわけではないが、既存 きそん 学派 がくは が焦点 しょうてん にしている考 かんが え方 かた に疑義 ぎぎ を唱 とな えているのが、数学 すうがく における準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん の観念 かんねん である。この観念 かんねん は、数学 すうがく の基礎 きそ 付 づ け が存在 そんざい するという証明 しょうめい は決 けっ してできないであろうという20世紀 せいき 後半 こうはん に次第 しだい に一般 いっぱん 的 てき になっていた確信 かくしん から生 う まれた。これは数学 すうがく におけるポストモダニズムと呼 よ ばれることもあるが、この用語 ようご は論者 ろんしゃ によって濫用 らんよう されていたり中傷 ちゅうしょう の的 まと になっていることは否 いな めない。準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん によれば、数学 すうがく 者 しゃ は研究 けんきゅう を行 おこな う際 さい に、定理 ていり の証明 しょうめい だけではなく仮説 かせつ の検証 けんしょう も行 おこな っている。数学 すうがく 的 てき 論証 ろんしょう は、前提 ぜんてい から結論 けつろん に至 いた る真理 しんり を伝 つた えることもできるし、結論 けつろん から前提 ぜんてい に至 いた る虚偽 きょぎ を伝 つた えることもある。イムレ・ラカトシュ はカール・ポパー の科学 かがく 哲学 てつがく に示唆 しさ を受 う けて、準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん を発展 はってん させた。
イムレ・ラカトシュの数学 すうがく の哲学 てつがく は、一種 いっしゅ の社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ と見 み られることもあるが、本人 ほんにん はそれを意図 いと していたわけではなかった。
こうした方法 ほうほう はつねにフォーク数学 すうがく の一部 いちぶ であった。フォーク数学 すうがく によって偉大 いだい な計算 けいさん ・測定 そくてい の作業 さぎょう が行 おこな われることがある。実際 じっさい 、文化 ぶんか によっては証明 しょうめい とはこうした方法 ほうほう のことである場合 ばあい もある。
かつてヒラリー・パトナム は、数学 すうがく 的 てき 実在 じつざい 論 ろん の立場 たちば にたつなら、どんな理論 りろん でも準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん 的 てき 方法 ほうほう を含 ふく まざるをえないと述 の べたことがある。パトナムによれば、はじめて数学 すうがく をしてみた宇宙 うちゅう 人 じん は、まず準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん 的 てき 方法 ほうほう に頼 たよ るのであって、できれば厳密 げんみつ で公理 こうり 的 てき な証明 しょうめい は差 さ し控 ひか えたいと思 おも うのではないか、そして、それでもなお数学 すうがく を行 おこな っていることになるのではないか、と想像 そうぞう している。ことによると、彼 かれ らが計算 けいさん を誤 あやま る危険 きけん はほんの少 すこ し大 おお きいかもしれないが。この点 てん の詳細 しょうさい な論証 ろんしょう はThomas Tymockzo (ed), New Directions in the Philosophy of Mathematics. An Anthology , 1998に掲載 けいさい されたパトナムの論文 ろんぶん "What Is Mathematical Truth?"を参照 さんしょう 。
数学 すうがく と哲学 てつがく の統一 とういつ [ 編集 へんしゅう ]
数学 すうがく 的 てき 記号 きごう 法 ほう や数学 すうがく 的 てき 文化 ぶんか をよく理解 りかい して、旧来 きゅうらい の形而上学 けいじじょうがく 的 てき 観念 かんねん を上記 じょうき の学派 がくは の特殊 とくしゅ な形而上学 けいじじょうがく 的 てき 観念 かんねん と結 むす びつけることができるまでになる哲学 てつがく 者 しゃ は多 おお くない。ややもすればこのことは数学 すうがく 者 しゃ と哲学 てつがく 者 しゃ の断絶 だんぜつ を生 う んでしまう。この断絶 だんぜつ ゆえに、数学 すうがく 者 しゃ たちの中 なか には信用 しんよう に値 あたい しない哲学 てつがく をいつまでも公言 こうげん し続 つづ ける者 もの もいる。そうした方 ほう が、おのれの仕事 しごと を活性 かっせい 化 か してくれる世界 せかい 観 かん があるはずだと信 しん じる彼 かれ ら数 すう 学者 がくしゃ たちの不断 ふだん の信念 しんねん に適 かな うからであろう。
社会 しゃかい 理論 りろん や準 じゅん 経験 けいけん 論 ろん 、中 なか でも生得 しょうとく 理論 りろん は、現場 げんば の数学 すうがく 者 しゃ の営 いとな みが包含 ほうがん している特有 とくゆう の認識 にんしき の仕方 しかた にもっと目 め を向 む けようと試 こころ みたのであったが、実際 じっさい のところ、この認識 にんしき 論 ろん を日常 にちじょう 的 てき な人間 にんげん の知覚 ちかく や日々 ひび 行 おこな われる知識 ちしき 習得 しゅうとく と関連 かんれん づけるまでは行 い かなかった。
数学 すうがく の言語 げんご と自然 しぜん 言語 げんご [ 編集 へんしゅう ]
20世紀 せいき の言語 げんご 哲学 てつがく の革新 かくしん は、数学 すうがく がしばしば言 い われるように科学 かがく の「言語 げんご 」であるかどうかという問題 もんだい への関心 かんしん を新 あら たにさせた。数学 すうがく 者 しゃ や物理 ぶつり 学者 がくしゃ の多 おお くは(また多 おお くの哲学 てつがく 者 しゃ も)「数学 すうがく は言語 げんご である」という言明 げんめい を正 ただ しいものと認 みと めているが、言語 げんご 学者 がくしゃ は、この種 たね の言明 げんめい の意味 いみ を検討 けんとう しなければならないと考 かんが えている。例 たと えば、言語 げんご 学 がく が用 もち いる道具 どうぐ は数学 すうがく の記号 きごう 体系 たいけい 全般 ぜんぱん には適用 てきよう されない。すなわち数学 すうがく は他 た の言語 げんご とは著 いちじる しく異 こと なる仕方 しかた で研究 けんきゅう される。たとえ数学 すうがく が言語 げんご であるとしても、それは自然 しぜん 言語 げんご とは異 こと なるタイプの言語 げんご である。実際 じっさい 、数学 すうがく という言語 げんご は明確 めいかく かつ特定 とくてい の意味 いみ を担 にな わなくてはいけないから、言語 げんご 学者 がくしゃ が研究 けんきゅう する自然 しぜん 言語 げんご よりも遥 はる かに窮屈 きゅうくつ である。しかしながら、フレーゲとタルスキが数学 すうがく 的 てき 言語 げんご の研究 けんきゅう のために案出 あんしゅつ した方法 ほうほう が、タルスキの学生 がくせい であったリチャード・モンタギュー や形式 けいしき 意味 いみ 論 ろん の分野 ぶんや で研究 けんきゅう している他 ほか の言語 げんご 学者 がくしゃ たちによって大幅 おおはば に発展 はってん し、数学 すうがく 的 てき 言語 げんご と自然 しぜん 言語 げんご との違 ちが いは見 み かけほど大 おお きくないかもしれないということを明 あき らかにしている。
多 おお くの現場 げんば の数学 すうがく 者 しゃ は、自分 じぶん が課題 かだい とするテーマに対 たい してある種 しゅ の美的 びてき 感覚 かんかく を感 かん じるがゆえに、そのテーマに惹 ひ き付 づ けられている。哲学 てつがく は哲学 てつがく 者 しゃ に任 まか せ、数学 すうがく 者 しゃ は数学 すうがく に帰 かえ ろうという意見 いけん を時折 ときおり 聞 き くが、それはおそらく、数学 すうがく の美 び がそこにあるからなのである。
H・E・ハントリーは著書 ちょしょ 『黄金 おうごん 比 ひ 』で、他人 たにん によって数学 すうがく 上 じょう の定理 ていり が証明 しょうめい されるのを読 よ んだり理解 りかい したりしたいという感情 かんじょう は、芸術 げいじゅつ の傑作 けっさく を鑑賞 かんしょう したいという気持 きも ちに通 つう じると述 の べている。証明 しょうめい を読 よ む読者 どくしゃ は、その証明 しょうめい を行 おこな った元々 もともと の著者 ちょしゃ と同 おな じように理解 りかい できたとき、著者 ちょしゃ に負 ま けない爽快 そうかい さを感 かん じる。ハントリーによればそれは、芸術 げいじゅつ の鑑賞 かんしょう 者 しゃ が、その作品 さくひん を描 えが いた画家 がか や造形 ぞうけい した彫刻 ちょうこく 家 か と同様 どうよう の爽快 そうかい さを感 かん じるのと同 おな じようなものなのである。実際 じっさい 、数学 すうがく や科学 かがく の著作 ちょさく を文学 ぶんがく に対 たい するような仕方 しかた で研究 けんきゅう することができる。
フィリップ・J・デイヴィス とルーベン・ハーシュ は、数学 すうがく 的 てき 美 び の感覚 かんかく は現場 げんば の数学 すうがく 者 しゃ たちにとって普遍 ふへん 的 てき なものであると述 の べている。例 たと えば、数学 すうがく 者 しゃ たちが√2 が無理 むり 数 すう であることを証明 しょうめい する仕方 しかた には2種類 しゅるい ある。第 だい 1のやり方 かた はエウクレイデス (ユークリッド)によって始 はじ められた伝統 でんとう 的 てき な証明 しょうめい 法 ほう で、背理法 はいりほう を用 もち いる。第 だい 2のやり方 かた は算術 さんじゅつ の基本 きほん 定理 ていり に関連 かんれん するもっと直接的 ちょくせつてき な証明 しょうめい 法 ほう であるが、デイヴィスとハーシュによれば、これが問題 もんだい の核心 かくしん を衝 つ くものである。つまり、第 だい 1の証明 しょうめい 法 ほう より第 だい 2の証明 しょうめい 法 ほう の方 ほう が問題 もんだい の本質 ほんしつ に近 ちか いがゆえに、数学 すうがく 者 しゃ たちは後者 こうしゃ の方 ほう を美的 びてき 関心 かんしん をそそられる。
ポール・エルデシュ の有名 ゆうめい な例 れい では、最 もっと もエレガントないし最 もっと も美的 びてき な数学 すうがく 的 てき 証明 しょうめい が掲載 けいさい された一 いち 冊 さつ の「本 ほん 」があると仮定 かてい されている。結果 けっか として「最 もっと もエレガント」な証明 しょうめい が一 ひと つであるかどうかは、意見 いけん が分 わ かれる。グレゴリー・チャイティン はこの考 かんが えに反対 はんたい している。
数学 すうがく 者 しゃ の美的 びてき 感覚 かんかく やエレガントさの感覚 かんかく はどう見 み ても曖昧 あいまい 模糊 もこ としているという批判 ひはん が哲学 てつがく 者 しゃ たちによって何 なん 度 ど も行 おこな われてきた。とはいえ、数学 すうがく の哲学 てつがく 者 しゃ も同様 どうよう に、2つの証明 しょうめい がどちらも論理 ろんり 的 てき に正 ただ しい場合 ばあい 、どちらかが他方 たほう より望 のぞ ましいと言 い える理由 りゆう は何 なに かを探 さが し求 もと めてきた。
数学 すうがく に関 かん する美学 びがく のもう一 ひと つの側面 そくめん は、非 ひ 倫理 りんり 的 てき とか不穏当 ふおんとう とされる目的 もくてき のために数学 すうがく を使 つか うことができるということに対 たい する数学 すうがく 者 しゃ の見解 けんかい である。この見解 けんかい を説明 せつめい したものの中 なか で最 もっと も有名 ゆうめい なのは、G・H・ハーディ の著書 ちょしょ 『一 いち 数 すう 学者 がくしゃ の弁明 べんめい 』に見出 みいだ される。ハーディによれば、純粋 じゅんすい 数学 すうがく は戦争 せんそう その他 た の目的 もくてき のために用 もち いることができないがゆえに、応用 おうよう 数学 すうがく よりも美的 びてき に優 すぐ れている。
哲学 てつがく の数学 すうがく [ 編集 へんしゅう ]
哲学 てつがく の数学 すうがく とは、数学 すうがく の一 いち 分野 ぶんや で、数学 すうがく 的 てき 方法 ほうほう を用 もち いて哲学 てつがく 的 てき 問題 もんだい にアプローチしようとするものである。
例 たと えば功利 こうり 主義 しゅぎ では、様々 さまざま な状況 じょうきょう のもとで行 おこな うべき最善 さいぜん の行動 こうどう が何 なに かを明 あき らかにするために、快楽 かいらく と苦痛 くつう という名 な の計測 けいそく 単位 たんい を用 もち いて、いろいろな複雑 ふくざつ な公式 こうしき を作 つく ったりする。
^ 例 たと えば、Edward Maziarsが1969年 ねん に記 しる した書評 しょひょう (Maziars, Edward A. (1969). “Problems in the Philosophy of Mathematics (Book Review)”. Philosophy of Science 36 (3): 325. )において、「哲学 てつがく 的 てき 数学 すうがく (これは主 しゅ として数学 すうがく 者 しゃ が行 おこな う仕事 しごと である)と数理 すうり 哲学 てつがく (これは通常 つうじょう 哲学 てつがく 者 しゃ の専門 せんもん 分野 ぶんや である)とを区別 くべつ 」しようと提案 ていあん するとき、彼 かれ は、「数理 すうり 哲学 てつがく 」を「数学 すうがく の哲学 てつがく 」の同義語 どうぎご として使 つか っている。
^ a b 単位 たんい がいくつあるかということ。
^
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