数学すうがく哲学てつがく

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数学すうがく哲学てつがく(すうがくのてつがく、えい: philosophy of mathematics)は、哲学てつがく科学かがく哲学てつがく)のいち分野ぶんやで、数学すうがく条件付じょうけんづけている哲学てつがくてき前提ぜんてい哲学てつがくてき基礎きそ、そして数学すうがく哲学てつがくてき意味いみ研究けんきゅうするものである。

数理すうり哲学てつがく(すうりてつがく、えい: mathematical philosophy)という用語ようごが、しばしば「数学すうがく哲学てつがく」と同義語どうぎごとして使つかわれる[1]。しかしながら、「数理すうり哲学てつがく」は、べつ意味いみすくなくともふたっている。ひとつは、たとえばスコラがく神学しんがくしゃ仕事しごとライプニッツスピノザ体系たいけい目標もくひょうにしていたような、美学びがく倫理りんりがく論理ろんりがく形而上学けいじじょうがく神学しんがくといった哲学てつがくてき主題しゅだいを、その主張しゅちょうするところでは、より正確せいかくかつ厳密げんみつかたちへと形式けいしきするプロジェクトを意味いみする。さらに、個々ここ数学すうがく実践じっせんしゃや、かんがえかたの現場げんば数学すうがくしゃ共同きょうどうたい日頃ひごろいているもののかんがかた(=哲学てつがく)を意味いみする。

テーマ[編集へんしゅう]

数学すうがく哲学てつがくかえ検討けんとうされているテーマには以下いかのようなものがある。

  • 数学すうがくあつかわれる主題しゅだい源泉げんせんなにか。
  • 数学すうがくてき実体じったい存在そんざいろんてき地位ちいなにか。
  • 数学すうがくてき対象たいしょう指示しじするとはどういうことか。
  • 数学すうがくてき命題めいだい特徴とくちょうなにか。
  • 論理ろんりがく数学すうがくはどんな関係かんけいにあるか。
  • 数学すうがくにおいて解釈かいしゃくがくはどんな役割やくわりたすか。
  • 数学すうがくではどんな研究けんきゅう有用ゆうようか。
  • 数学すうがくてき研究けんきゅう目的もくてきなにか。
  • どうすれば数学すうがく現実げんじつ世界せかいかかわるか。
  • 数学すうがく背後はいごにはどんな人間にんげんてき特性とくせいがあるか。
  • 数学すうがくにおけるとはなにか。
  • 数学すうがくてき真理しんり源泉げんせんなにか、数学すうがくてき真理しんりとはなにか。
  • 数学すうがくという抽象ちゅうしょうてき世界せかいは、物質ぶっしつ世界せかいとどんな関係かんけいをもつか。

数学すうがく哲学てつがく歴史れきし概略がいりゃく[編集へんしゅう]

歴史れきしじょうおおくの思想家しそうかが、数学すうがくとはなにかにかんしてかれらのかんがえをあきらかにしてきた。今日きょうでも数学すうがく哲学てつがくしゃたちのなかには、このたねいとその成果せいかをあるがまま説明せつめいしようとする人々ひとびともいるが、他方たほうで、単純たんじゅん解説かいせつきたらず、批判ひはんてき分析ぶんせきへとすす役割やくわりをもってにんじる人々ひとびともいる。

西洋せいよう哲学てつがく東洋とうよう哲学てつがく両方りょうほうに、数学すうがくてき哲学てつがく伝統でんとうがある。西洋せいよう数学すうがく哲学てつがくは、ピタゴラス教団きょうだん教祖きょうそピタゴラス源流げんりゅうとして、数学すうがくてき対象たいしょう存在そんざいろんてき地位ちい研究けんきゅうしたプラトンと、論理ろんりがく無限むげんじつ無限むげん可能かのう無限むげん)にかんするしょ問題もんだい研究けんきゅうしたアリストテレスにまでさかのぼる。数学すうがくかんするギリシア哲学てつがくは、かれらの幾何きかがく研究けんきゅうつよ影響えいきょうしたにあった。かつてギリシアじんは、1はかずではなく、むしろ任意にんいながさの単位たんいであるという意見いけんっていた。かずは、おお[2]であると定義ていぎされた。それゆえ、たとえば、3は、単位たんいちょうおお[2]あらわしており、本当ほんとう意味いみかずではけっしてなかった。また同様どうよう理由りゆうで、2はかずではなく、1たい(つい)という基本きほん概念がいねんであるとする議論ぎろんおこなわれた。この理解りかいは、「直線ちょくせんへん・コンパス」という、たぶんに幾何きかがくてきなギリシアの視点してん由来ゆらいしている。その視点してんとは、幾何きかがくてき問題もんだいにおいてえがかれたいくつかのせん最初さいしょえがいた任意にんいながさのせんとの測定そくていされるのと同様どうように、かずからなる線上せんじょうかれたそれぞれのかずは、任意にんいはじめの「かず」つまり1との測定そくていされる、というものである。これらの初期しょきのギリシアのかず概念がいねんは、のちになって、2の平方根へいほうこん無理むりすうであるという発見はっけんによって、たおされた。ピタゴラスの門人もんじんであるヒッパソスは、単位たんい正方形せいほうけい対角線たいかくせんは、そのあたり通約つうやく不能ふのうであることをしめした。換言かんげんすると、かれは、単位たんい正方形せいほうけい対角線たいかくせんとそのあたり正確せいかくにあらわす(有理ゆうりすう存在そんざいしないことを証明しょうめいした。これが原因げんいんとなり、ギリシアの数学すうがく哲学てつがくさい検討けんとうされることとなった。伝承でんしょうによれば、この発見はっけんによってきずつけられたピタゴラス教団きょうだん教徒きょうとたちは、ヒッパソスがかれ異端いたんかんがえをひろめるのをふせぐために、かれ殺害さつがいした。

ライプニッツとともに、焦点しょうてん数学すうがく論理ろんりがく関係かんけいへと、強力きょうりょく移動いどうした。この見方みかたフレーゲとラッセルの時代じだいとおして数学すうがく哲学てつがく支配しはいしたが、19世紀せいき終期しゅうき20世紀せいき初頭しょとうにおける発展はってんによって疑問ぎもんされるようになった。

20世紀せいきにおける数学すうがく哲学てつがく[編集へんしゅう]

数学すうがく哲学てつがくのかわらない課題かだいひとつは、論理ろんりがく数学すうがく双方そうほう基礎きそにつながる、相互そうご関係かんけいかかわっている。20世紀せいき哲学てつがくしゃほん記事きじ冒頭ぼうとうかかげたような様々さまざまいをてていくなかで、20世紀せいき数学すうがく哲学てつがく形式けいしきろん理学りがく集合しゅうごうろん基礎きそけの問題もんだいへの目立めだった関心かんしんによって特徴付とくちょうづけられる。

一方いっぽう数学すうがくてき真理しんりけがたく必然ひつぜんてきであるようにおもえるのに、他方たほうでその「真理しんりせい」の源泉げんせんがとらえどころがないままなのは、なかなか理解りかいしがたいなぞえる。この問題もんだい研究けんきゅうは、数学すうがく基礎きそけのプログラムとしてられる。

20世紀せいきはじめ、数学すうがく哲学てつがくしゃたちはすでに、これらすべての問題もんだいかんして、数学すうがく認識にんしきろん存在そんざいろんをどのようにおもえがくかをめぐって、多様たよう学派がくはかれていた。3つの学派がくはすなわち形式けいしき主義しゅぎ直観ちょっかん主義しゅぎ論理ろんり主義しゅぎがこのときあらわれたのは、部分ぶぶんてきには、それまで当然とうぜんのこととかんがえられていた確実かくじつせい厳密げんみつせい基準きじゅん当時とうじ数学すうがく、とくに解析かいせきがくたしていないのではないかという当時とうじひろがりつつあった懸念けねんへの応答おうとうであった。当時とうじこの問題もんだい焦眉しょうび課題かだいであり、問題もんだい解決かいけつこころみるのであれ、数学すうがくには我々われわれもっと信頼しんらいできる知識ちしきという地位ちいさずかる資格しかくがないと主張しゅちょうするのであれ、どの学派がくはもこの問題もんだいんだ。

20世紀せいきはじめに形式けいしきろん理学りがく集合しゅうごうろんおどろくべき、そしてはん直感ちょっかんてき発展はってんげた結果けっか、「数学すうがく基礎きそ」と伝統でんとうてきばれてきたものに関係かんけいするあらたな疑問ぎもんしょうじた。紀元前きげんぜん300ねん前後ぜんこうユークリッド時代じだい以来いらい公理こうりもとづく手法しゅほうは、数学すうがく自然しぜん基点きてんだとめられていたが、20世紀せいきすすむにつれ、当初とうしょ関心かんしん焦点しょうてん拡張かくちょうされ、数学すうがく基礎きそてき公理こうりたいする制限せいげんのない探求たんきゅうへといたるようになった。公理こうり命題めいだい、そして証明しょうめいといった観念かんねん、そしてまた数学すうがくてき対象たいしょう命題めいだい真理しんりについての観念かんねんが、形式けいしきされ、数学すうがくてきあつかうことがゆるされるようになった。ツェルメロ=フレンケルの公理系こうりけいは、おおくの数学すうがくてき議論ぎろん解釈かいしゃくする概念的がいねんてき枠組わくぐみを提供ていきょうするものとして集合しゅうごうろん定式ていしきした。物理ぶつりがくにおけるのと同様どうよう数学すうがくにおいても、あたらしい、予期よきしないアイデアが登場とうじょうし、特筆とくひつすべき変化へんかおとずれた。ゲーデルすうによって、数学すうがく理論りろん無矛盾むむじゅんせい研究けんきゅう可能かのうとなった。検討けんとうされている数学すうがくてき理論りろんが「それ自体じたい数学すうがくてき研究けんきゅう対象たいしょうとなる」という反省はんせいてき批判ひはんを、ヒルベルトは「ちょう数学すうがく」(メタ数学すうがく)(えい: metamathematicsまたは「証明しょうめいろん」(えい: proof theory)とんだ[3]

20世紀せいきなかごろ、けんろんとしてられるあらたな数学すうがく理論りろんが、自然しぜん言語げんごによる数学すうがくてき思考しこうたいするあらたな競争きょうそうしゃとして登場とうじょうした(Mac Lane 1998)。しかしながら、20世紀せいきすすむにつれ、まさに当初とうしょ提起ていきされた基礎きそけにかんする疑問ぎもん自体じたい如何いかによく基礎きそけられるのか、というところへ哲学てつがくてき関心かんしんひろがっていった。ヒラリー・パトナムは、20世紀せいき後半こうはんの35年間ねんかん状況じょうきょうについてのひとつの共通きょうつう見解けんかいを、つぎのように要約ようやくした。

哲学てつがく科学かがくにおけるあやまりを発見はっけんしたときは、しばしば、科学かがくわらざるをない。たとえばラッセルのパラドックスがあるし、バークリー現実げんじつてき無限むげんしょうへの批判ひはんおもかぶ。しかし、それよりもかわらなければならないのは哲学てつがくであることのほうがおおい。わたしには、哲学てつがく今日きょう古典こてんてき数学すうがく見出みいだしている困難こんなんが、しん困難こんなんとはおもえない。そして、わたしは、我々われわれ四方八方しほうはっぽうから提案ていあんされている数学すうがくについての数々かずかず哲学てつがくてき解釈かいしゃくあやまっており、「哲学てつがくてき解釈かいしゃく」はまさに数学すうがく必要ひつようとしていないものだ、とかんがえている。 — Putnam, 169-170.

今日きょう数学すうがく哲学てつがくは、数学すうがく哲学てつがく研究けんきゅうしゃ論理ろんり学者がくしゃ数学すうがくしゃによっていくつものことなる研究けんきゅう方向ほうこうすすんでおり、この主題しゅだいかんするおおくの学派がくは存在そんざいする。つぎふしで、これらの学派がくは個別こべつげ、かれらの仮説かせつ説明せつめいする。

現代げんだい学派がくは[編集へんしゅう]

数学すうがくてき実在じつざいろん[編集へんしゅう]

実在じつざいろん一般いっぱんにそうであるように、数学すうがくてき実在じつざいろんもまた、数学すうがくてき実体じったい人間にんげんしんとははなれたところに実在じつざいしているとかんがえている。それゆえ、人間にんげん数学すうがく発明はつめいしたのではなく、数学すうがく発見はっけんしたのだ、ということになる。宇宙うちゅうべつ知的ちてき生命せいめいがいるとすれば、それがどんな存在そんざいであってもおなじように数学すうがく発見はっけんするであろう。この観点かんてんからえば、発見はっけんされうる数学すうがくはたったいち種類しゅるいだけである。たとえば、三角形さんかっけいしん実体じったいであり、人間にんげんしんみだしたものではない。

現場げんばおおくの数学すうがくしゃ数学すうがくてき実在じつざいろんしゃであった。かれらは、かれ自身じしん自然しぜん発生はっせいする対象たいしょう発見はっけんしゃだとみなしている。数学すうがくてき実在じつざいろんしゃれいには、ポール・エルデシュクルト・ゲーデルふくまれる。ゲーデルは、ある意味いみ感覚かんかくてき知覚ちかく同様どうよう知覚ちかくされうる客観きゃっかんてき数学すうがくてき実在じつざいしんじていた。かれらによれば、媒介ばいかいしんであるとかんがえられる確実かくじつ原理げんりたとえば、任意にんいふたつの対象たいしょうについて、正確せいかくにそのふたつの対象たいしょうによって構成こうせいされる対象たいしょうのコレクションが存在そんざいする)というものがいくつかある。しかし、連続れんぞくたい仮説かせつのように、そのような原理げんりだけをもとにしては決定的けっていてき証明しょうめいすることができない仮説かせつもある。ゲーデルによれば、このような仮説かせつ合理ごうりてき仮定かていするのに十分じゅうぶん証拠しょうこ提供ていきょうするために、じゅん経験けいけんてき方法ほうほうろんもちいることができる。

どんな存在そんざい数学すうがくてき実体じったいであるのか、また、どうすれば我々われわれはそれらをるのかをめぐって、実在じつざいろん内部ないぶにいくつものことなる立場たちばがある。

プラトニズム[編集へんしゅう]

実在じつざいろんいち形態けいたいとしてのプラトニズムは、数学すうがくてき実体じったい抽象ちゅうしょうてきであり、空間くうかんてき時間じかんてきないし因果いんがてき性質せいしつをもたず、永遠えいえん不変ふへんのものであるとかんがえている。かずというものについて、おおくの人々ひとびとがこのような見解けんかいいているとしばしば主張しゅちょうされる。プラトニズムという用語ようご使つかわれる理由りゆうは、このような観点かんてんが、不変ふへんかつ究極きゅうきょくてき実在じつざいたいして日常にちじょうてき世界せかいがその不完全ふかんぜん近似きんじであるにぎないとする、プラトンの(「プラトンの洞窟どうくつ」のたとえであらわされる)「イデアかい」のきょうせつとパラレルであるようにえることに由来ゆらいする。「プラトンの洞窟どうくつ」とか「プラトニズム」といういいかたには表面ひょうめんてきというにとどまらないふか意味いみがある。なぜなら、古代こだいギリシアではピタゴラス教団きょうだん広範こうはん人気にんきほこっていたが、この学派がくはによれば世界せかい文字通もじどおかずからまれたのであり、そしてこの学派がくは時間じかんてきにプラトンの思想しそう先行せんこうしており、おそらくプラトンのかんがえはこれに影響えいきょうけているからである。

数学すうがくてきプラトニズムの主要しゅよう問題もんだいは、つぎのようなものである。数学すうがくてき実体じったいは、正確せいかくにどこに、またどのように存在そんざいするのか? また、我々われわれはそれをどのようにりうるのか? 我々われわれ物理ぶつりてき世界せかい完全かんぜん分離ぶんりされ、数学すうがくてき実体じったいによって占有せんゆうされた世界せかいがあるのか? どうすれば我々われわれはその分離ぶんりされた世界せかい接近せっきんでき、数学すうがくてき実体じったいについての真理しんり発見はっけんできるのか? ひとつのこたえは数学すうがくてき宇宙うちゅう仮説かせつ究極きゅうきょく集合しゅうごう)の理論りろんであろう。この理論りろんしたがえば、数学すうがくてき存在そんざいするすべての構造こうぞうは、それ固有こゆう世界せかいにおいて物理ぶつりてきにも存在そんざいするものとされる。

ゲーデルのプラトニズムは、我々われわれ数学すうがくてき対象たいしょう直接的ちょくせつてき知覚ちかくへとみちびく、特別とくべつ種類しゅるい数学すうがくてき直観ちょっかん前提ぜんていにしている。このかんがえかたは、フッサール数学すうがくについてかたったおおくのことと類似るいじしており、数学すうがくてき知識ちしき総合そうごうてきかつアプリオリであるとするカントかんがえを支持しじしている。フィリップ・J・デイヴィスルーベン・ハーシュ共著きょうちょ数学すうがくてき経験けいけんThe Mathematical Experienceにおいて、おおくの数学すうがくしゃ日頃ひごろはまるでプラトニストであるかのように振舞ふるまっているのに、慎重しんちょうにその立場たちば表明ひょうめいせざるをえないときには形式けいしき主義しゅぎ後述こうじゅつ後退こうたいすることがある、と指摘してきした。

数学すうがくしゃなかには、さらに微妙びみょうことなるバージョンのプラトニズムに帰着きちゃくする見解けんかいいだものもいる。こういうかんがかたは、ネオ・プラトニズムばれることもある。

論理ろんり主義しゅぎ[編集へんしゅう]

論理ろんり主義しゅぎは、数学すうがく論理ろんりがく還元かんげん可能かのうで、ゆえに数学すうがく論理ろんりがく一部いちぶ以外いがい何者なにものでもないというテーゼである(Carnap 1931/1883, 41)。論理ろんり主義しゅぎしゃかんがえでは、数学すうがくアプリオリることができるが、我々われわれ数学すうがく知識ちしき我々われわれ論理ろんりがく全般ぜんぱんについてもっている知識ちしき一部分いちぶぶんにすぎない。そのためわれわれの数学すうがく知識ちしきにとって、いかなる数学すうがくてき直観ちょっかん特別とくべつ能力のうりょく不要ふようで、命題めいだい分析ぶんせきをすればよい。論理ろんり主義しゅぎしたがえば、論理ろんりがく数学すうがく固有こゆう基礎きそであり、すべての数学すうがくてき言明げんめい必然ひつぜんてき論理ろんりてき真理しんりである。

ルドルフ・カルナップ(1931ねん)は、論理ろんり主義しゅぎ論点ろんてんを2てん提示ていじしている。

  1. 数学すうがく概念がいねんは、論理ろんりがくてき概念がいねんから明示めいじてき定義ていぎをとおしてみちびきうる。
  2. 数学すうがく定理ていりは、論理ろんりがくてき公理こうりから純粋じゅんすい論理ろんりがくてき演繹えんえきによってみちびきうる。

ゴットロープ・フレーゲ論理ろんり主義しゅぎ創始そうししゃであった。独創どくそうてき論文ろんぶん算術さんじゅつ基本きほん法則ほうそくDie Grundgesetze der Arithmetikなかで、かれ内包ないほうせい一般いっぱん原理げんりもちいて、ひとつの論理ろんりがく体系たいけいから数学すうがくつくりあげている。この内包ないほうせい一般いっぱん原理げんりかれは「基本きほんルールV」とんでいる(概念がいねん FG において、すべての対象たいしょう a について Ga のときかつそのときにかぎFa であるならば、そのときにかぎって、F外延がいえんG外延がいえんひとしい)。かれはこの原理げんり論理ろんりがく一部いちぶとしてれることができるとかんがえた。

しかし、フレーゲの構成こうせいには欠陥けっかんがあった。ラッセルが「基本きほんルールV」に矛盾むじゅんがあることを発見はっけんしたのである。これがラッセルのパラドックスである。こののちすぐフレーゲはかれ論理ろんり主義しゅぎのプログラムをてたが、ラッセルとホワイトヘッド後継こうけいしゃとなった。かれらは、このパラドックスを「悪循環あくじゅんかん」に由来ゆらいするものとし、これをあつかうために「分岐ぶんきタイプ理論りろん」(えい: ramified type theory)なるものをつくげた。この理論りろんもちいれば最終さいしゅうてき近代きんだい数学すうがくおおくの部分ぶぶんつくげることができるが、しかしその数学すうがく部分ぶぶんてき変更へんこうされており、また非常ひじょう複雑ふくざつ形式けいしきとなる(たとえば、それぞれのタイプにことなる自然しぜんすうがあり、無限むげんおおくのタイプが存在そんざいする)。かれらはまた、数学すうがくだい部分ぶぶん構築こうちくするために、「還元かんげん公理こうり」(えい: axiom of reducibility)をはじめとするいくつかの妥協だきょうをしなくてはならなかった。ラッセルでさえ、この公理こうり実際じっさいには論理ろんりがくぞくするものではない、とべたほどであった。

現代げんだい論理ろんり主義しゅぎしゃは(ボブ・ヘイル(Bob Hale)やクリスピン・ライト(Crispin Wright)、おそらくは人々ひとびとも)、フレーゲのものにちかいプログラムに回帰かいきしている。かれらは基本きほん法則ほうそくVをててしまって、ヒュームの原理げんり概念がいねん F帰属きぞくする対象たいしょうかずは、概念がいねん G帰属きぞくする対象たいしょうかずと、F外延がいえんG外延がいえん一対一いちたいいち対応たいおうさせられるとき、かつそのときにかぎり、ひとしい。)のような抽象ちゅうしょう原理げんり支持しじしている。フレーゲはかず明示めいじてき定義ていぎのために基本きほん法則ほうそくVを必要ひつようとしたが、かずすべての性質せいしつはヒュームの原理げんりからみちびせる。これはフレーゲにとって不満ふまんのこ原理げんりであっただろう。(かれ言葉ことば換言かんげんすれば)実際じっさいのところ、すう3がジュリアス・シーザー同一どういつである可能かのうせい排除はいじょしないからである。くわえて、かれらが基本きほん法則ほうそくVをえるために採用さいようせざるをえなかったよわめられた原理げんりおおくは、もほやそれほど明白めいはく命題めいだい分析ぶんせきてきではなく、したがって純粋じゅんすい論理ろんりがくてきでもないようにおもえる。

もし数学すうがく論理ろんりがく一部分いちぶぶんであるならば、数学すうがくてき対象たいしょうかんする疑問ぎもんは、論理ろんりがくてき対象たいしょうへの疑問ぎもんへと還元かんげんされる。しかしそれでは、論理ろんりてき概念がいねん対象たいしょうとはなになのか? この視点してんからは、論理ろんり主義しゅぎは、完全かんぜん回答かいとうあたえることなく、数学すうがく哲学てつがくかんする疑問ぎもん論理ろんりがくかんする疑問ぎもん移動いどうさせたようにみえるかもしれない。

経験けいけん主義しゅぎ[編集へんしゅう]

経験けいけん主義しゅぎ実在じつざいろん一種いっしゅであるが、数学すうがくアプリオリられうるということをまった否定ひていするものである。経験けいけん主義しゅぎは、ちょうどすべてのほか科学かがく事実じじつがそうであるように、我々われわれ経験けいけんてき探求たんきゅうによって数学すうがくてき事実じじつ発見はっけんする、とする。経験けいけん主義しゅぎは、20世紀せいき初頭しょとう唱導しょうどうされた古典こてんてきな3つの立場たちばとはべつに、どう世紀せいき中葉ちゅうよう最初さいしょ成立せいりつした。ただし同様どうよう見解けんかい先駆せんくてきにはジョン・スチュワート・ミル提起ていきしていた。ミルの見解けんかいひろ批判ひはんされた。なぜなら、その見解けんかいしたがえば、「2 + 2 = 4」のような言明げんめいでも確実かくじつ偶然ぐうぜんてき真理しんりにすぎず、2事物じぶつが2くみわさると4つとなることを観察かんさつすることによってしかまなぶことができないものとされてしまうからである。

クワインパトナムによって定式ていしきされた現代げんだい数学すうがくてき経験けいけん主義しゅぎおも論拠ろんきょは、不可欠ふかけつせい論法ろんぽうえい: indispensability argument)である。これは、数学すうがくすべての経験けいけん科学かがくにとって不可欠ふかけつであり、もし我々われわれがその科学かがくによって記述きじゅつされる現象げんしょう実在じつざいせいしんじたいのであれば、我々われわれはその記述きじゅつのために必要ひつようとされるそれらの事物じぶつ実在じつざいせいもまたしんじなくてはならない。つまり、電球でんきゅうがあのように振舞ふるまうのは何故なぜなのかべるために物理ぶつりがく電子でんし言及げんきゅうしなければならないのだから、電子でんし実在じつざいしているはずである。科学かがくがその説明せつめい提供ていきょうするのにかずについてかた必要ひつようがあるのだから、かず実在じつざいしているはずである。クワインとパトナムの哲学てつがく全体ぜんたいからは、これは自然しぜん主義しゅぎてき議論ぎろんである。この立場たちば数学すうがくてき対象たいしょう存在そんざい経験けいけん最善さいぜん説明せつめいとしてろんじ、そのようにして、数学すうがくからそれを科学かがくから区別くべつしているものをる。

パトナムは「プラトニスト」という言葉ことばを、いかなる本当ほんとうのいみでの数学すうがくてき実践じっせんにも必要ひつようとされない特定とくてい存在そんざいろん示唆しさする言葉ことばとして、つよ拒否きょひした。かれ一種いっしゅの「純粋じゅんすい実在じつざいろん」(えい: pure realism)を擁護ようごした。それは、真理しんりについての神秘しんぴてきかんがかた拒否きょひし、数学すうがくにおけるじゅん経験けいけん主義しゅぎおおいにれるものであった。かれは、「純粋じゅんすい実在じつざいろん」という言葉ことばすことにかかわった(後述こうじゅつ)。

数学すうがくについての経験けいけん主義しゅぎてき見解けんかいへのもっとも重要じゅうよう批判ひはんは、ミルにたいして提起ていきされたものとおおよそおなじである。もし数学すうがく科学かがくおなじだけ経験けいけんてきならば、そのことは数学すうがく結果けっか科学かがく結果けっかおなじだけあやまりやすく、おなじだけ偶然ぐうぜんてきであることを意味いみしている。ミルの場合ばあい経験けいけんてき正当せいとう媒介ばいかいてきになされたが、クワインの場合ばあい間接かんせつてきで、科学かがく理論りろん全体ぜんたい整合せいごうせいエドワード・オズボーン・ウィルソンのいうところのコンシリエンス)をとおしてなされる。クワインが指摘してきするところでは、数学すうがく完全かんぜん確実かくじつなようにみえるのは、数学すうがくえんじている役割やくわり我々われわれ信念しんねんあみ非常ひじょう中央ちゅうおうにあるからであり、それを修正しゅうせいすることは我々われわれにとって不可能ふかのうではないまでもとてつもなく困難こんなんだからである。 クワインとゲーデルのアプローチの欠点けってんをそれぞれのめんから克服こくふくしようとこころみる数学すうがく哲学てつがくについては、ペネロプ・マディー (Penelope Maddy) の著書ちょしょ数学すうがくにおける実在じつざいろんRealism in Mathematics参照さんしょうせよ。

形式けいしき主義しゅぎ[編集へんしゅう]

形式けいしき主義しゅぎとは、数学すうがくてき言明げんめいはいくつかの記号きごうれつ操作そうさルールの帰結きけつについての言明げんめいとみなしてよいとかんがえるものである。たとえば、ユークリッド幾何きかがくという「ゲーム」(つまり、「公理こうり」というのいくつかの記号きごうれつと、あたえられた記号きごうれつからあたらしい記号きごうれつ生成せいせいする「推理すいり規則きそく」からなるものとみなすということ)において、ピタゴラスの定理ていり成立せいりつする(すなわち、ピタゴラスの定理ていり対応たいおうする記号きごうれつ生成せいせいできる)ということは証明しょうめい可能かのうである。形式けいしき主義しゅぎによるなら、数学すうがくてき真理しんりとは、かずとか集合しゅうごうとか三角形さんかっけいといったものについての真理しんりではない。のところ、なにものかに「ついての」真理しんりなどではまったくない。

べつ種類しゅるい形式けいしき主義しゅぎはしばしば演繹えんえき主義しゅぎえい: deductivism)という名前なまえられている。演繹えんえき主義しゅぎによれば、ピタゴラスの定理ていり絶対ぜったいてき真理しんりではなく、相対そうたいてき真理しんりである。「もし」ゲームの規則きそくしんになるような仕方しかた文字もじれつ意味いみあたえられるなら、「そのとき」定理ていりしんみとめなくてはいけない。あるいはむしろ、それにあたえられた解釈かいしゃくしんなる言明げんめいであるとしなければならない。のすべての数学すうがくてき言明げんめいについてもおなじことがしんとされる。それゆえ、形式けいしき主義しゅぎでは、数学すうがく意味いみのない記号きごうゲームにすぎないとかんがえる必要ひつようはない。ゲームの規則きそく妥当だとうするなんらかの解釈かいしゃく存在そんざいするということが通常つうじょう期待きたいされているからである(この立場たちば構造こうぞう主義しゅぎ比較ひかくせよ)。しかし、形式けいしき主義しゅぎによって現場げんば数学すうがくしゃたちは仕事しごとつづけることができるし、いくつかの問題もんだい哲学てつがくしゃ自然しぜん科学かがくしゃゆだねることができる。おおくの形式けいしき主義しゅぎしゃは、どんな公理系こうりけい研究けんきゅうすべきかは、実際じっさいじょう自然しぜん科学かがく数学すうがく領域りょういき要求ようきゅうによって示唆しさされるとうであろう。

ダフィット・ヒルベルト

形式けいしき主義しゅぎとなえた初期しょきもっと有名ゆうめい人物じんぶつダフィット・ヒルベルトであった。ヒルベルトのプログラムとは、数学すうがく全体ぜんたい完全かんぜんかつ無矛盾むむじゅん仕方しかた公理こうりしようとするものであった。ここで無矛盾むむじゅんとは、体系たいけいじょういかなる矛盾むじゅんしょうじないということである。ヒルベルトは、「有限ゆうげん算術さんじゅつ」(通常つうじょう算術さんじゅつ下位かい体系たいけいで、自然しぜんすうについて哲学てつがくてき議論ぎろんしようもないようえらばれたもの)は無矛盾むむじゅんであるという仮定かてい条件じょうけんのもとで、数学すうがく体系たいけいてき無矛盾むむじゅんせいしめそうとしたのである。しかし、完全かんぜんかつ無矛盾むむじゅん数学すうがく体系たいけいつくりだそうというヒルベルトの目標もくひょうは、ゲーデルのだい2不完全性ふかんぜんせい定理ていりによって完全かんぜんついえた。不完全性ふかんぜんせい定理ていりによれば、十分じゅうぶん表現ひょうげんりょく無矛盾むむじゅん公理こうり体系たいけい自身じしん無矛盾むむじゅんせいけっして証明しょうめいできないからである。このような公理こうり体系たいけいはかならず有限ゆうげん算術さんじゅつ下位かい体系たいけいとしてふくむことになるから、ゲーデルの定理ていりは、有限ゆうげん算術さんじゅつかんする体系たいけい無矛盾むむじゅんせい証明しょうめい不可能ふかのうであることも含意がんいしている(自己じこ無矛盾むむじゅんせい証明しょうめいすることになるが、ゲーデルによってそれが不可能ふかのうであることが証明しょうめいされている)。それゆえ、無矛盾むむじゅんであると証明しょうめいしようとしている体系たいけいよりもある意味いみ強力きょうりょく無矛盾むむじゅんせい数学すうがく体系たいけいそなえているのだということをまず前提ぜんていしておかなければ、数学すうがくのどんな公理こうり体系たいけい実際じっさい無矛盾むむじゅんであることをしめすことはできないことになる。

初期しょきのヒルベルトは演繹えんえき主義しゅぎしゃであったが、上記じょうきのように、メタ数学すうがくてき方法ほうほう本質ほんしつてき有意ゆういあじ結果けっかすとかんがえ、有限ゆうげん算術さんじゅつかんして実在じつざいろん立場たちばっていた。後年こうねんには、どんな解釈かいしゃくろうとも有意ゆういあじ数学すうがく一切いっさいありえないという見解けんかいをもつようになった。

ルドルフ・カルナップアルフレト・タルスキハスケル・カリー形式けいしき主義しゅぎしゃたちは、数学すうがくとは形式けいしき公理系こうりけい研究けんきゅうのことであるとかんがえた。数理すうり論理ろんり学者がくしゃ形式けいしき体系たいけい研究けんきゅうしているが、形式けいしき主義しゅぎ立場たちば研究けんきゅうしゃ実在じつざいろん立場たちば研究けんきゅうしゃどう程度ていどにいる。

形式けいしき主義しゅぎ信奉しんぽうしゃは、論理ろんりがく標準ひょうじゅんてきすうけいあたらしい集合しゅうごうろんなどといったあらたなアプローチにたいして比較的ひかくてき寛容かんようであり、これらのアプローチを推進すいしんしている。われわれが研究けんきゅうするゲームがおおければおおくほどよい。もっとも、れいげたこの3つのアプローチの動機どうきづけになっているのは、すべて現在げんざい数学すうがくてきないし哲学てつがくてき関心かんしんである。「ゲーム」は通常つうじょう恣意しいてきなものではないのである。

形式けいしき主義しゅぎたいする主要しゅよう批判ひはんは、数学すうがくしゃたちの念頭ねんとうにある現在げんざい数学すうがくてき概念がいねんは、前述ぜんじゅつした記号きごうれつ操作そうさゲームとはえんもゆかりもないということである。たとえば形式けいしき主義しゅぎはどんな公理系こうりけい研究けんきゅうすべきかといういにたいしては沈黙ちんもくする。形式けいしき主義しゅぎてき観点かんてんからはどの公理系こうりけい同等どうとうゆう意味いみだからである。

近年きんねんでは、形式けいしき主義しゅぎ立場たちば数学すうがくしゃたちのなかには、われわれの「形式けいしきてき」な数学すうがく知識ちしきのすべてをコンピュータ可能かのう形態けいたい体系たいけいてきにコードすることを提案ていあんしたものたちもいる。これによって数学すうがくてき証明しょうめい自動じどう検証けんしょう容易よういおこなえるようになり、数学すうがく理論りろんとコンピュータ・ソフトウェアの発展はってんのために双方向そうほうこう定理ていり証明しょうめいもちいることができるようになるというのである。 このかんがかたコンピュータサイエンス密接みっせつむすびついているので、「計算けいさん可能かのうせい研究けんきゅうながれのもとで数学すうがくてき直観ちょっかん主義しゅぎ数学すうがくてき構築こうちく主義しゅぎ擁護ようごすることにもなった(後述こうじゅつ)。概略がいりゃくQEDプロジェクト参照さんしょう

直観ちょっかん主義しゅぎ[編集へんしゅう]

数学すうがくにおける直観ちょっかん主義しゅぎとは、「経験けいけんてき数学すうがくてき真理しんりはありえない」(L・E・J・ブラウワー)をモットーとする方法ほうほうろんてき改革かいかくのプログラムである。直観ちょっかん主義しゅぎ信奉しんぽうしゃはこのモットーを出発しゅっぱつてんに、かれらが矯正きょうせい可能かのうであるとかんがえた数学すうがく一部分いちぶぶんについて、存在そんざい生成せいせい直観ちょっかん知識ちしきといったカントてき概念がいねんしたがってさい構築こうちくしようとした。運動うんどう創始そうししゃであるブラウワーは、数学すうがくてき対象たいしょうは「アプリオリ」な形式けいしき意思いし作用さようからしょうじるのであり、この意思いし作用さよう経験けいけんてき対象たいしょう知覚ちかく活気かっきづけるのだとした(CDP, 542)。

レオポルト・クロネッカーは「自然しぜんすうかみ由来ゆらいし、のすべては人間にんげん産物さんぶつである」とべている。直観ちょっかん主義しゅぎ擁護ようご主要しゅよう人物じんぶつは、いかなる種類しゅるい形式けいしきされた論理ろんりがく数学すうがくにとって有益ゆうえきでないとしたブラウワーであった。かれ学生がくせいであったアレン・ハイティング直観ちょっかん論理ろんり定式ていしきした。これは、古典こてんてきアリストテレスろん理学りがくとはことなるものである。直観ちょっかん論理ろんり排中律はいちゅうりつふくまず、したがって背理法はいりほうみとめない。また直観ちょっかん主義しゅぎてき集合しゅうごうろんおおくにおいては、若干じゃっかん例外れいがいのぞいて選択せんたく公理こうりしりぞけられている。直観ちょっかん主義しゅぎもとづいて後年こうねんおこなわれた重要じゅうよう研究けんきゅうとしてはエレット・ビショップによるものがある。ビショップはじつ解析かいせき主要しゅよう公理こうり直観ちょっかん主義しゅぎてき観点かんてんから定義ていぎなおし、その証明しょうめいおこなおうとした。

直観ちょっかん主義しゅぎの「明白めいはく構成こうせい」という用語ようご定義ていぎ曖昧あいまいであり、批判ひはんびた。この欠陥けっかんおぎなうため チューリングマシーン計算けいさん可能かのう関数かんすうといった概念がいねんもちいることがこころみられ、有限ゆうげんアルゴリズムのふるまいにかんする問題もんだいだけが有意ゆういあじであり、数学すうがくてき研究けんきゅう対象たいしょうであるべきであるといった主張しゅちょうがなされた。アラン・チューリングによって提案ていあんされた計算けいさん可能かのうすう研究けんきゅうおこなわれた。したがって、直観ちょっかん主義しゅぎのアプローチがしばしばコンピュータサイエンス理論りろんむすびついているのも不思議ふしぎなことではない。

構成こうせい主義しゅぎ[編集へんしゅう]

直観ちょっかん主義しゅぎ同様どうよう構成こうせい主義しゅぎもまた、一定いってい意味いみ明白めいはく構成こうせいすることのできる数学すうがくてきなものだけが数学すうがくてき言説げんせつにおいてみとめられるべきであるという規制きせい原理げんり主張しゅちょうする。このかんがかたによれば、数学すうがくとは人間にんげん直観ちょっかんいとなみであって、有意ゆういあじ記号きごうもちいたゲームなどではない。そうではなく、数学すうがくとは、われわれが心的しんてき活動かつどうつうじて直接ちょくせつつくせるものに関係かんけいしている。また、構成こうせい主義しゅぎ支持しじしゃたちのなかには、構成こうせいてき証明しょうめい背理法はいりほうなど)を拒否きょひするものもいる。

フィクショナリズム[編集へんしゅう]

数学すうがくにおけるフィクショナリズム(えい: Fictionalism)は、1980ねんハートリー・フィールドが『かずもちいない科学かがくScience Without Numbers出版しゅっぱんし、そのなかでクワインの不可欠ふかけつせい論法ろんぽう退しりぞけ、実際じっさいくつがえしたときに有名ゆうめいとなった。クワインは、数学すうがくわたしたちのもっともすぐれた科学かがくてきしょ理論りろんのために不可欠ふかけつであり、したがって独立どくりつ存在そんざいする事物じぶつについて言及げんきゅうする真理しんり主要しゅようとしてれなくてはならないとしたが、フィールドは不可欠ふかけつではなく、したがって実在じつざいてき何者なにものにも言及げんきゅうすることのない虚偽きょぎであると指摘してきした。かれはこれを、まったくかず関数かんすうもちいることのないニュートン力学りきがく完全かんぜん公理系こうりけい提供ていきょうすることによってった。ヒルベルトの公理系こうりけいえい: Hilbert's axioms)の「あいだにある」(えい: betweenness)という概念がいねん使つかって座標ざひょうけることなく空間くうかん特徴とくちょうづけることをはじめ、それまではベクトルじょうによっておこなわれていたことをするためにてんあいだのさらなる関係かんけいくわえる。ヒルベルトの幾何きかがくは、それが抽象ちゅうしょうてきてんについてべるため、数学すうがくてきである。しかし、フィールドの理論りろんにおいては、これらのてん物理ぶつりてき空間くうかんにおける具体ぐたいてきてんであって、そのため特別とくべつ数学すうがくてき対象たいしょうはまったく必要ひつようない。

どのように数学すうがく使つかうことなく科学かがくおこなうかをあきらかにして、かれは、数学すうがくやくつフィクションという地位ちい復権ふっけんさせた。かれしめしたところによれば、数学すうがくてき物理ぶつりがくは、かれ数学すうがくてき物理ぶつりがく保守ほしゅてき拡大かくだいえい: conservative extension)のひとつであり(つまり、数学すうがくてき物理ぶつりがく証明しょうめい可能かのうなすべての物理ぶつりてき事実じじつは、かれ数学すうがくてき物理ぶつりがく体系たいけいですでに証明しょうめい可能かのうであり)、数学すうがくはその物理ぶつりてき現象げんしょうへの応用おうようがすべてしんであるような信頼しんらいできるプロセスではあるが、それ自体じたい言明げんめいにせなのである。したがって、わたしたちが数学すうがくおこなうとき、まんいちかず存在そんざいするならばと、わたしたちは自分じぶんたちがあるしゅ物語ものがたりかたっているにすぎない。フィールドにとって、ちょうど「シャーロック・ホームズベーカーがい221Bんでいる」という言明げんめいにせなのとおなじように、「2 + 2 = 4」といった言明げんめいにせなのである —もっとも、これらの両方りょうほう言明げんめいとも、適切てきせつなフィクションにもとづけばしんではあるが。

この説明せつめいによれば、数学すうがくだけに特有とくゆう形而上学けいじじょうがくてきまたは認識にんしきろんてき問題もんだい存在そんざいしない。のこされた問題もんだいは、数学すうがくてき物理ぶつりがくについての一般いっぱんてき問題もんだいと、フィクション一般いっぱんについての問題もんだいだけなのである。フィールドのアプローチは非常ひじょう影響えいきょうりょくがあったが、今日きょうではひろ拒絶きょぜつされている。これは、ひとつには、フィールドの還元かんげんおこなうためにかい論理ろんりつよ断片だんぺんえい: strong fragments)が必要ひつようとされるからであり、またかれ保守ほしゅてき理論りろん言明げんめい抽象ちゅうしょうてきなモデルや演繹えんえきたいしてりょう必要ひつようとするようにおもえるからである。異議いぎとしては、量子りょうしろん周期しゅうきひょうのようないくつかの科学かがく成果せいかを、数学すうがくなしでどのようにることができるのかはっきりしない、というものがある。もし、ある元素げんそ元素げんそ区別くべつするものが電子でんし中性子ちゅうせいし陽子ようしかずならないならば、どのようにしてすう概念がいねんなしに元素げんそ区別くべつすればよいのだろうか?[よう出典しゅってん]

身体しんたい理論りろん[編集へんしゅう]

身体しんたい理論りろんえい: Embodied mind theories)によれば、数学すうがくてき思考しこう我々われわれ物理ぶつりてき世界せかいそんする認知にんち器官きかん自然しぜん派生はせいぶつである。たとえば、かずという抽象ちゅうしょうてき概念がいねんは、離散りさんてき対象たいしょうかぞえるという経験けいけんみなもとつ。数学すうがく普遍ふへんてきではないし、いかなる本当ほんとう意味いみでも人間にんげんのうなか以外いがいには存在そんざいするわけではない、とする。数学すうがくは、人間にんげんによって発見はっけんされたのではなく、人間にんげんによって構築こうちくされたのである。

したがって、この観点かんてんにおいては、物理ぶつりてき宇宙うちゅうはまた数学すうがく究極きゅうきょくてき基礎きそなされる。それは、のう進化しんかみちびき、のうがどのような問題もんだいについて調査ちょうさする価値かち見出みいだすのかを決定けっていした。しかし、人間にんげんしんにはことさら実在じつざいせい要求ようきゅうする傾向けいこうも、数学すうがくをもとにしてつくされた実在じつざいせいへの特別とくべつ接近せっきんほうってはいない。オイラーの等式とうしきのような構成こうせいぶつしんであるとすれば、それらは人間にんげんしん認識にんしき写像しゃぞうとしてなのである。

したがって、身体しんたい理論りろんは、数学すうがく有効ゆうこうせいを、数学すうがくのうによってこの宇宙うちゅう有効ゆうこうであるようにと構築こうちくされたからであると説明せつめいする。

この視点してんによる有名ゆうめい論述ろんじゅつは、ジョージ・レイコフラファエル・ヌニェス英語えいごばんRafael E. Núñez)の『数学すうがく認知にんち科学かがくWhere Mathematics Comes Fromである。くわえて、数学すうがくしゃキース・デヴリン(Keith Devlin)も、著書ちょしょ数学すうがくてき本能ほんのうThe Math Instinctにおいて、たようなコンセプトを検討けんとうした。この視点してんから喚起かんきされたさらなる哲学てつがくてきなアイデアについては、数学すうがく認知にんち科学かがくえい: cognitive science of mathematics)を参照さんしょうのこと。

社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ社会しゃかいてき実在じつざい主義しゅぎ[編集へんしゅう]

社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ社会しゃかいてき実在じつざいろん理論りろんでは、数学すうがくをなによりまず社会しゃかいてき構築こうちくぶつとしてる。つまり、文化ぶんかによって変化へんか変更へんこうおこなわれる生産せいさんぶつる。自然しぜん科学かがくほか部門ぶもんおなじく、数学すうがくもまたひとつの経験けいけんてきこころみであり、その成果せいかえず検証けんしょうされ、場合ばあいによっては放棄ほうきされるかもしれないとされる。とはいえ、経験けいけん主義しゅぎてきには検証けんしょうとは「現実げんじつ」とあるしゅ比較ひかくおこなうことであるのにたいして、社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ強調きょうちょうするのは、社会しゃかい集団しゅうだんにおける研究けんきゅうじょう流行りゅうこう研究けんきゅう資金しきん供給きょうきゅうする社会しゃかい必要ひつようおうじて数学すうがく研究けんきゅう方針ほうしん決定けっていされるこということである。ただし、こうした外部がいぶてきちからによってあるしゅ数学すうがく研究けんきゅうえられてしまうということがあるにせよ、数学すうがくてき伝統でんとう方法ほうほう問題もんだい意味いみ価値かちといったすう学者がくしゃたちが文化ぶんか適応てきおうしているさまざまな内的ないてき制約せいやくもまた、数学すうがくという歴史れきしてき決定けっていされた学問がくもん分野ぶんや保持ほじしていくうえで、強力きょうりょくはたらいている。

以上いじょうかんがかたは、現場げんば数学すうがくしゃたちが従来じゅうらいかんじてきた、数学すうがくとはいずれにせよ純粋じゅんすいないし客観きゃっかんてきなものであるという信念しんねんとは相容あいいれない。しかし、社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ立場たちばからすれば、数学すうがく基礎きそには実際じっさいにはかなり確実かくじつなものがある。数学すうがくてき実践じっせん (mathematical practice) が変化へんかすると、かつての数学すうがく地位ちい疑問ぎもんげかけられ、現在げんざい数学すうがくしゃたちの共同きょうどうたいによって要求ようきゅうないし要望ようぼうされる水準すいじゅん変更へんこうされる。解析かいせきがく発達はったつがライプニッツやニュートンの微積分びせきぶんほうさい検討けんとうからまれたとき、こういう変化へんかこったとえる。社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ立場たちばからは、さらに、完成かんせいされた数学すうがくおおきすぎる地位ちいあたえられていることがおおいのにたいして、まだしっかりとした証明しょうめいをされていないいわゆるフォーク数学すうがく (folk mathematics) のほうは、公理こうりてき証明しょうめい数学すうがくてき実践じっせんにおけるピア・レビューおもきをきすぎているせいで、十分じゅうぶん評価ひょうかされない。しかしそれでは、厳密げんみつ証明しょうめいされた成果せいか強調きょうちょうされすぎているとっているだけにおもえるかもしれない。のこりはすべて混乱こんらんして確実かくじつだ、というわけである。

数学すうがく社会しゃかいてきなものであるということがもっと明白めいはくなのは、数学すうがくサブカルチャーたる分野ぶんやである。主要しゅよう発見はっけんがある数学すうがく部門ぶもんおこなわれ、数学すうがく部門ぶもんにも関連かんれんしているということがありうる。それでも、数学すうがくしゃたちのあいだ社会しゃかいてきつながりがなければ、関係かんけい発見はっけんされないままになる。社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ立場たちばからは、それぞれの部門ぶもんはそれぞれ認識にんしき共同きょうどうたい (epistemic community) を形成けいせいしており、コミュニケーションをしたり数学すうがく様々さまざま分野ぶんや横断おうだんする統一とういつ理論りろん (unifying theories) を研究けんきゅうしようとかんがえたりするのは大変たいへんむずかしいとえる。社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ立場たちばからは「数学すうがくをする」というプロセスは現実げんじつ意味いみつくりだすことなのである。他方たほう社会しゃかい実在じつざいろん立場たちばからは、人間にんげん抽象ちゅうしょう能力のうりょく人間にんげん認知にんちバイアス数学すうがくしゃたちの集団しゅうだんてき知性ちせい不足ふそくによって、数学すうがくてき対象たいしょうという実在じつざい世界せかい理解りかいさまたげられているとされる。社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎでは、数学すうがく基礎きそ探求たんきゅう失敗しっぱいせざるをないし、無駄むだかつ無意味むいみであるとして拒絶きょぜつされることもある。社会しゃかい科学かがくしゃによっては、人種じんしゅ差別さべつエスノセントリズム影響えいきょうけているとするせつもある。これらのかんがかたなかにはポストモダニズムちかいものもある。

社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎへの寄与きよイムレ・ラカトシュやトマス・ティモチコ (Thomas Tymoczko) によっておこなわれてきたが、両者りょうしゃ社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎしゃんでよいかは異論いろんもある。もっと最近さいきんではポール・エルネスト社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎてき数学すうがく哲学てつがく明白めいはく定式ていしきしている[1]ポール・エルデシュ仕事しごと全体ぜんたいとして社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ進歩しんぽさせたとかんがえるものもいる(ただし本人ほんにん社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ否定ひていしている)。エルデシュすうなどをつうじて、「数学すうがく社会しゃかいてき活動かつどうである」ということの研究けんきゅうへと人々ひとびとうながしたというてんで、エルデシュの広範こうはん寄与きよ唯一ゆいいつ無二むにのものだからである。ルーベン・ハーシュもまた社会しゃかいてき数学すうがくかん奨励しょうれいし、それを「人文じんぶん主義しゅぎてき」(humanistic) アプローチとんだ[2]。これはアルヴィン・ホワイトのアプローチにているが、細部さいぶことなる[3]。ハーシュと共著きょうちょしるしたフィリップ・J・デイヴィスもまた社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎてき数学すうがくかん賛同さんどうしていることを表明ひょうめいしている。

社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎアプローチへの批判ひはんは、それが些事さじにばかり執着しゅうちゃくし、数学すうがく人間にんげんいとなみであるというたりまえせつ基礎きそにしているということである。厳密げんみつでない推測すいそく実験じっけん考察こうさつをしてからでなければ厳密げんみつ証明しょうめいはできないという指摘してきただしいが、それは自明じめいのことであって、だれ否定ひていしようとはしない。だとすれば、そんな仕方しかたで、陳腐ちんぷ真実しんじつもとづいて数学すうがく哲学てつがく特徴とくちょうづけるのは筋違すじちがいというものである。カール・ワイエルシュトラスのような数学すうがくしゃたちがしょ定理ていりいちから証明しょうめいしようとしたとき、ライプニッツやニュートンの微積分びせきぶんほうさい検討けんとうされた。そこには一切いっさい特別とくべつなことも興味深きょうみぶかいこともない。それはもっと一般いっぱんてきな、厳密げんみつでないもののかんがかたトレンド合致がっちしているからであり、こうしたかんがかたのちになって厳密げんみつされる。数学すうがく研究けんきゅう対象たいしょうと、数学すうがく研究けんきゅう対象たいしょう研究けんきゅうとを明確めいかく区別くべつすべきである。おそらく前者ぜんしゃ大幅おおはば変化へんかしない。後者こうしゃえず変動へんどうしている。社会しゃかい理論りろんろんじるのは後者こうしゃであり、プラトニズムひとしろんじるのは前者ぜんしゃである。

しかし、社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎてき立場たちば支持しじしゃからはこういう批判ひはん門前払もんぜんばらいされている。なぜならそうした批判ひはんは、数学すうがく対象たいしょうそのものが社会しゃかいてき構築こうちくぶつであることにづいていないからである。社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎによれば、こうした対象たいしょうはなによりまず、人間にんげん文化ぶんか領域りょういき存在そんざいする記号きごうがくてき対象たいしょうなのであり、(ウィトゲンシュタインてきえば)物理ぶつりてき形態けいたいあたえられた記号きごうもちいて個体こたいないに(心的しんてきな)構築こうちくぶつしょうじさせるという社会しゃかいてき実践じっせんによって維持いじされる。社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎ考察こうさつしているのは、人間にんげん文化ぶんか領域りょういきがプラトニズムの王国おうこくやその物理ぶつり世界せかいえた天国てんごくてき存在そんざい領域りょういきものされるということなのであり、それはながらく慣習かんしゅうてきつづいてきたカテゴリー錯誤さくごなのである。

伝統でんとうてき学派がくはえて[編集へんしゅう]

1960年代ねんだいから1990年代ねんだいになると、数学すうがくがなぜやくつのかということにたいして基礎きそけやただしい解答かいとうさがそうとするかんがかた本当ほんとうちがうのではないか、とかんがえる運動うんどうが、数学すうがくにおける真理しんりなに意味いみするのかをめぐる精密せいみつ議論ぎろん証明しょうめいのような数学すうがくしゃ特有とくゆういとなみに焦点しょうてんてることにわって成長せいちょうした。出発しゅっぱつてんとなったのは、物理ぶつり学者がくしゃユージン・ウィグナー名高なだかい1960ねん論文ろんぶん自然しぜん科学かがくにおける数学すうがく不合理ふごうり有効ゆうこうせいThe Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciencesであった。ウィグナーはこの論文ろんぶんにおいて、数学すうがく物理ぶつりがく幸福こうふく合致がっちは、大変たいへんよく調和ちょうわしているが、不合理ふごうりであり説明せつめいしがたいとおもわれるとべている。

生得しょうとく理論りろん認知にんち言語げんごがくといった学派がくははこうした疑義ぎぎたいする返答へんとうであるが、提起ていきされた議論ぎろんをこれらの学派がくは限定げんていすることはむずかしい。

じゅん経験けいけんろん[編集へんしゅう]

同様どうよう事柄ことがらのうち、実際じっさいには既存きそん学派がくは直接ちょくせつ反対はんたいしているわけではないが、既存きそん学派がくは焦点しょうてんにしているかんがかた疑義ぎぎとなえているのが、数学すうがくにおけるじゅん経験けいけんろん観念かんねんである。この観念かんねんは、数学すうがく基礎きそ存在そんざいするという証明しょうめいけっしてできないであろうという20世紀せいき後半こうはん次第しだい一般いっぱんてきになっていた確信かくしんからまれた。これは数学すうがくにおけるポストモダニズムとばれることもあるが、この用語ようご論者ろんしゃによって濫用らんようされていたり中傷ちゅうしょうまとになっていることはいなめない。じゅん経験けいけんろんによれば、数学すうがくしゃ研究けんきゅうおこなさいに、定理ていり証明しょうめいだけではなく仮説かせつ検証けんしょうおこなっている。数学すうがくてき論証ろんしょうは、前提ぜんていから結論けつろんいた真理しんりつたえることもできるし、結論けつろんから前提ぜんていいた虚偽きょぎつたえることもある。イムレ・ラカトシュカール・ポパー科学かがく哲学てつがく示唆しさけて、じゅん経験けいけんろん発展はってんさせた。

イムレ・ラカトシュの数学すうがく哲学てつがくは、一種いっしゅ社会しゃかい構築こうちく主義しゅぎられることもあるが、本人ほんにんはそれを意図いとしていたわけではなかった。

こうした方法ほうほうはつねにフォーク数学すうがく一部いちぶであった。フォーク数学すうがくによって偉大いだい計算けいさん測定そくてい作業さぎょうおこなわれることがある。実際じっさい文化ぶんかによっては証明しょうめいとはこうした方法ほうほうのことである場合ばあいもある。

かつてヒラリー・パトナムは、数学すうがくてき実在じつざいろん立場たちばにたつなら、どんな理論りろんでもじゅん経験けいけんろんてき方法ほうほうふくまざるをえないとべたことがある。パトナムによれば、はじめて数学すうがくをしてみた宇宙うちゅうじんは、まずじゅん経験けいけんろんてき方法ほうほうたよるのであって、できれば厳密げんみつ公理こうりてき証明しょうめいひかえたいとおもうのではないか、そして、それでもなお数学すうがくおこなっていることになるのではないか、と想像そうぞうしている。ことによると、かれらが計算けいさんあやま危険きけんはほんのすこおおきいかもしれないが。このてん詳細しょうさい論証ろんしょうはThomas Tymockzo (ed), New Directions in the Philosophy of Mathematics. An Anthology, 1998に掲載けいさいされたパトナムの論文ろんぶん"What Is Mathematical Truth?"を参照さんしょう

数学すうがく哲学てつがく統一とういつ[編集へんしゅう]

数学すうがくてき記号きごうほう数学すうがくてき文化ぶんかをよく理解りかいして、旧来きゅうらい形而上学けいじじょうがくてき観念かんねん上記じょうき学派がくは特殊とくしゅ形而上学けいじじょうがくてき観念かんねんむすびつけることができるまでになる哲学てつがくしゃおおくない。ややもすればこのことは数学すうがくしゃ哲学てつがくしゃ断絶だんぜつんでしまう。この断絶だんぜつゆえに、数学すうがくしゃたちのなかには信用しんようあたいしない哲学てつがくをいつまでも公言こうげんつづけるものもいる。そうしたほうが、おのれの仕事しごと活性かっせいしてくれる世界せかいかんがあるはずだとしんじるかれすう学者がくしゃたちの不断ふだん信念しんねんかなうからであろう。

社会しゃかい理論りろんじゅん経験けいけんろんなかでも生得しょうとく理論りろんは、現場げんば数学すうがくしゃいとなみが包含ほうがんしている特有とくゆう認識にんしき仕方しかたにもっとけようとこころみたのであったが、実際じっさいのところ、この認識にんしきろん日常にちじょうてき人間にんげん知覚ちかく日々ひびおこなわれる知識ちしき習得しゅうとく関連かんれんづけるまではかなかった。

数学すうがく言語げんご自然しぜん言語げんご[編集へんしゅう]

20世紀せいき言語げんご哲学てつがく革新かくしんは、数学すうがくがしばしばわれるように科学かがくの「言語げんご」であるかどうかという問題もんだいへの関心かんしんあらたにさせた。数学すうがくしゃ物理ぶつり学者がくしゃおおくは(またおおくの哲学てつがくしゃも)「数学すうがく言語げんごである」という言明げんめいただしいものとみとめているが、言語げんご学者がくしゃは、このたね言明げんめい意味いみ検討けんとうしなければならないとかんがえている。たとえば、言語げんごがくもちいる道具どうぐ数学すうがく記号きごう体系たいけい全般ぜんぱんには適用てきようされない。すなわち数学すうがく言語げんごとはいちじるしくことなる仕方しかた研究けんきゅうされる。たとえ数学すうがく言語げんごであるとしても、それは自然しぜん言語げんごとはことなるタイプの言語げんごである。実際じっさい数学すうがくという言語げんご明確めいかくかつ特定とくてい意味いみになわなくてはいけないから、言語げんご学者がくしゃ研究けんきゅうする自然しぜん言語げんごよりもはるかに窮屈きゅうくつである。しかしながら、フレーゲとタルスキが数学すうがくてき言語げんご研究けんきゅうのために案出あんしゅつした方法ほうほうが、タルスキの学生がくせいであったリチャード・モンタギュー形式けいしき意味いみろん分野ぶんや研究けんきゅうしているほか言語げんご学者がくしゃたちによって大幅おおはば発展はってんし、数学すうがくてき言語げんご自然しぜん言語げんごとのちがいはかけほどおおきくないかもしれないということをあきらかにしている。

数学すうがく美学びがく[編集へんしゅう]

おおくの現場げんば数学すうがくしゃは、自分じぶん課題かだいとするテーマにたいしてあるしゅ美的びてき感覚かんかくかんじるがゆえに、そのテーマにけられている。哲学てつがく哲学てつがくしゃまかせ、数学すうがくしゃ数学すうがくかえろうという意見いけん時折ときおりくが、それはおそらく、数学すうがくがそこにあるからなのである。

H・E・ハントリーは著書ちょしょ黄金おうごん』で、他人たにんによって数学すうがくじょう定理ていり証明しょうめいされるのをんだり理解りかいしたりしたいという感情かんじょうは、芸術げいじゅつ傑作けっさく鑑賞かんしょうしたいという気持きもちにつうじるとべている。証明しょうめい読者どくしゃは、その証明しょうめいおこなった元々もともと著者ちょしゃおなじように理解りかいできたとき、著者ちょしゃけない爽快そうかいさをかんじる。ハントリーによればそれは、芸術げいじゅつ鑑賞かんしょうしゃが、その作品さくひんえがいた画家がか造形ぞうけいした彫刻ちょうこく同様どうよう爽快そうかいさをかんじるのとおなじようなものなのである。実際じっさい数学すうがく科学かがく著作ちょさく文学ぶんがくたいするような仕方しかた研究けんきゅうすることができる。

フィリップ・J・デイヴィスルーベン・ハーシュは、数学すうがくてき感覚かんかく現場げんば数学すうがくしゃたちにとって普遍ふへんてきなものであるとべている。たとえば、数学すうがくしゃたちが√2無理むりすうであることを証明しょうめいする仕方しかたには2種類しゅるいある。だい1のやりかたエウクレイデス(ユークリッド)によってはじめられた伝統でんとうてき証明しょうめいほうで、背理法はいりほうもちいる。だい2のやりかた算術さんじゅつ基本きほん定理ていり関連かんれんするもっと直接的ちょくせつてき証明しょうめいほうであるが、デイヴィスとハーシュによれば、これが問題もんだい核心かくしんくものである。つまり、だい1の証明しょうめいほうよりだい2の証明しょうめいほうほう問題もんだい本質ほんしつちかいがゆえに、数学すうがくしゃたちは後者こうしゃほう美的びてき関心かんしんをそそられる。

ポール・エルデシュ有名ゆうめいれいでは、もっともエレガントないしもっと美的びてき数学すうがくてき証明しょうめい掲載けいさいされたいちさつの「ほん」があると仮定かていされている。結果けっかとして「もっともエレガント」な証明しょうめいひとつであるかどうかは、意見いけんかれる。グレゴリー・チャイティンはこのかんがえに反対はんたいしている。

数学すうがくしゃ美的びてき感覚かんかくやエレガントさの感覚かんかくはどうても曖昧あいまい模糊もことしているという批判ひはん哲学てつがくしゃたちによってなんおこなわれてきた。とはいえ、数学すうがく哲学てつがくしゃ同様どうように、2つの証明しょうめいがどちらも論理ろんりてきただしい場合ばあい、どちらかが他方たほうよりのぞましいとえる理由りゆうなにかをさがもとめてきた。

数学すうがくかんする美学びがくのもうひとつの側面そくめんは、倫理りんりてきとか不穏当ふおんとうとされる目的もくてきのために数学すうがく使つかうことができるということにたいする数学すうがくしゃ見解けんかいである。この見解けんかい説明せつめいしたもののなかもっと有名ゆうめいなのは、G・H・ハーディ著書ちょしょいちすう学者がくしゃ弁明べんめい』に見出みいだされる。ハーディによれば、純粋じゅんすい数学すうがく戦争せんそうその目的もくてきのためにもちいることができないがゆえに、応用おうよう数学すうがくよりも美的びてきすぐれている。

哲学てつがく数学すうがく[編集へんしゅう]

哲学てつがく数学すうがくとは、数学すうがくいち分野ぶんやで、数学すうがくてき方法ほうほうもちいて哲学てつがくてき問題もんだいにアプローチしようとするものである。

たとえば功利こうり主義しゅぎでは、様々さまざま状況じょうきょうのもとでおこなうべき最善さいぜん行動こうどうなにかをあきらかにするために、快楽かいらく苦痛くつうという計測けいそく単位たんいもちいて、いろいろな複雑ふくざつ公式こうしきつくったりする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ たとえば、Edward Maziarsが1969ねんしるした書評しょひょうMaziars, Edward A. (1969). “Problems in the Philosophy of Mathematics (Book Review)”. Philosophy of Science 36 (3): 325. )において、「哲学てつがくてき数学すうがく(これはしゅとして数学すうがくしゃおこな仕事しごとである)と数理すうり哲学てつがく(これは通常つうじょう哲学てつがくしゃ専門せんもん分野ぶんやである)とを区別くべつ」しようと提案ていあんするとき、かれは、「数理すうり哲学てつがく」を「数学すうがく哲学てつがく」の同義語どうぎごとして使つかっている。
  2. ^ a b 単位たんいがいくつあるかということ。
  3. ^ Kleene, Stephen (1971). Introduction to Metamathematics. Amsterdam, Netherlands: North-Holland Publishing Company. p. 5 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

よりくわしく[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関係かんけいする著作ちょさく[編集へんしゅう]

歴史れきし関連かんれん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ジャーナル[編集へんしゅう]