ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ 。最古 さいこ の数学 すうがく 文書 ぶんしょ の一 ひと つとして知 し られる。
数学 すうがく 史 し (すうがくし、英語 えいご :history of mathematics)とは、数学 すうがく の歴史 れきし のことである。第 だい 一 いち には、数学 すうがく 上 じょう の発見 はっけん の起源 きげん についての研究 けんきゅう であり、副次的 ふくじてき な興味 きょうみ として、過去 かこ の数学 すうがく においてどのような手法 しゅほう が一般 いっぱん 的 てき であったかや、どのような記号 きごう が使 つか われたかなども調 しら べられている。
数学 すうがく 史 し は、文明 ぶんめい が起 お こる以前 いぜん に遡 さかのぼ って説明 せつめい することができる。そこには、狩猟 しゅりょう や採集 さいしゅう 、また生活 せいかつ を維持 いじ するために必要 ひつよう だった計数 けいすう の概念 がいねん などが含 ふく まれる。また、文明 ぶんめい 成立 せいりつ 後 ご は各地 かくち で様々 さまざま な水準 すいじゅん の数学 すうがく の発展 はってん が興 おこ るが、やがて文明 ぶんめい の交流 こうりゅう によって現代 げんだい の数学 すうがく に繋 つな がっていく。
原始時代 げんしじだい から古代 こだい の数学 すうがく 的 てき 概念 がいねん [ 編集 へんしゅう ]
有史 ゆうし より遥 はる か古 ふる い時代 じだい の線画 せんが にも、数学 すうがく の知識 ちしき や、天体 てんたい 観測 かんそく に基 もと づいた測 はか 時 とき 法 ほう があったことを示 しめ すものがある。古 こ 生物 せいぶつ 学者 がくしゃ による例 れい では、南 みなみ アフリカの砂岩 さがん 洞窟 どうくつ の中 なか に、幾何 きか 学 がく 的 てき 模様 もよう で彩 いろど られた線 せん 刻 こく 画 が が発見 はっけん され、紀元前 きげんぜん 7万 まん 年 ねん 頃 ごろ [1] のものと推定 すいてい されている。他 ほか にも、アフリカ やフランス で発見 はっけん されている紀元前 きげんぜん 3万 まん 5千 せん ~2万 まん 年 ねん 頃 ごろ [2] の先史 せんし 時代 じだい 遺物 いぶつ の中 なか に、時間 じかん を表現 ひょうげん しようとした形跡 けいせき がある[3] 。
古代 こだい 、記数 きすう 法 ほう は、女性 じょせい が生理 せいり の日 ひ を記録 きろく するために必要 ひつよう とされたという証拠 しょうこ がある。また、28~30のキズがついた石 いし や骨 ほね が、複数 ふくすう 見 み つかるという事例 じれい がある。さらに、ハンターたちは獣 しし の群 ぐん について考慮 こうりょ する際 さい には、「1」「2」「多数 たすう 」、さらに「無 む 」や「零 れい (れい、ゼロ)」の概念 がいねん を使 つか っていたということも分 わ かっている。整数 せいすう や実数 じっすう といった数 すう の集合 しゅうごう の要素 ようそ の一 ひと つとして零 れい を見出 みいだ したとは言 い えないものの、零 れい の概念 がいねん はこの時期 じき からすでにあったということもできる[4] [5] 。
イシャンゴの骨 ほね といわれる遺物 いぶつ が、ナイル川 がわ 源流 げんりゅう 地域 ちいき (コンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく 北東 ほくとう 部 ぶ )で発見 はっけん されており、紀元前 きげんぜん 2万 まん 年 ねん 頃 ごろ のものと推測 すいそく されている。この骨 ほね が表現 ひょうげん している内容 ないよう [6] は、最初 さいしょ 期 き の素数 そすう 列 れつ や、古代 こだい エジプト のかけ算 ざん であると考 かんが えられている。また、紀元前 きげんぜん 5000年代 ねんだい のエジプト先 さき 王朝 おうちょう 時代 じだい のエジプト人 じん は幾何 きか 学 がく 的 てき ・空間 くうかん 的 てき デザインの絵画 かいが 表現 ひょうげん を残 のこ している。紀元前 きげんぜん 3000年代 ねんだい 以降 いこう のイングランド やスコットランド における巨石 きょせき 記念 きねん 物 ぶつ には、円 えん 、楕円 だえん 、ピタゴラス数 すう 、などの数学 すうがく 的 てき 概念 がいねん が織 お り込 こ まれているとの指摘 してき がある[7] 。
古代 こだい インド数学 すうがく で知 し られている最古 さいこ の史料 しりょう は、紀元前 きげんぜん 3000~2600年 ねん 頃 ごろ の、北 きた インド およびパキスタン に位置 いち したインダス文明 ぶんめい (ハラッパー文化 ぶんか )にある。 ハラッパー文化 ぶんか は十進法 じっしんほう を使 つか った重量 じゅうりょう ・距離 きょり の計量 けいりょう 法 ほう を発達 はったつ させ、驚 おどろ くほど精密 せいみつ で数学 すうがく 的 てき な比率 ひりつ の寸法 すんぽう をもったレンガを作 つく っていた。また、道 みち は完全 かんぜん な直角 ちょっかく をなして敷設 ふせつ されている。彼 かれ らが用 もち いたデザインには立方体 りっぽうたい ・樽 たる 型 がた ・円錐 えんすい ・円柱 えんちゅう などを含 ふく む幾何 きか 学 がく 的 てき 形態 けいたい や、同心 どうしん あるいは交錯 こうさく する円 えん や三角形 さんかっけい などの意匠 いしょう がある。発見 はっけん された数学 すうがく 用具 ようぐ には、十 じゅう 進 しん 目盛 めもり が刻 きざ まれ、細 こま かく精細 せいさい な目盛 めも りの付 つ いた正確 せいかく な定規 じょうぎ や、地平 ちへい 座標 ざひょう における角度 かくど を40度 ど あるいは360度 ど 法 ほう で測 はか るために用 もち いられた貝 かい のコンパス、天球 てんきゅう を8ないし12分 ふん して計測 けいそく するための貝 かい 製 せい の計測 けいそく 器 き 、航法 こうほう のために星 ほし の位置 いち を計測 けいそく する計測 けいそく 器 き などがある。インダス文字 もじ はまだ解読 かいどく されていないため、ハラッパーの文字 もじ による数学 すうがく についてはほとんどわかっていない。考古学 こうこがく 的 てき な証拠 しょうこ によれば、この文明 ぶんめい は、8を基数 きすう とする記数 きすう 法 ほう を使 つか っており、円周 えんしゅう 率 りつ π ぱい の値 ね を知 し っていたとの説 せつ がある[8] 。中国 ちゅうごく の殷 いん 王朝 おうちょう 時代 じだい (紀元前 きげんぜん 1600年 ねん 頃 ごろ ~1046年 ねん )には、現在 げんざい も使 つか われる漢 かん 数字 すうじ の初期 しょき のものが、亀甲 きっこう に彫 ほ られている[9] [10] 。周 しゅう 王朝 おうちょう の時代 じだい にすでに用 もち いられていた算 さん 籌(さんちゅう)記法 きほう は竹 たけ の棒 ぼう を並 なら べて数 かず を表 あらわ した方法 ほうほう を字 じ 写 うつ したものだが、これは位取 くらいど り記数 きすう 法 ほう の歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も古 ふる い現 あらわ れだと見 み なすことができる。例 たと えば「123」を(縦 たて 書 が きで)表 あらわ す場合 ばあい は以下 いか のようにする。まず「1」を表 あらわ す数字 すうじ を書 か く。次 つぎ に「100」を表 あらわ す数字 すうじ を書 か く。次 つぎ に「2」を表 あらわ す数字 すうじ を書 か く。次 つぎ に「10」を表 あらわ す数字 すうじ を書 か く。そして「3」を表 あらわ す数字 すうじ を書 か く(要 よう するに「一 いち 百 ひゃく 二 に 十 じゅう 三 さん 」と書 か く)。これは、算盤 そろばん での計算 けいさん を可能 かのう にした。算盤 そろばん が発明 はつめい された時期 じき は不明 ふめい だが、西暦 せいれき 190年 ねん 頃 ごろ に劉 りゅう 徽 により書 か かれた『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』の注釈 ちゅうしゃく の中 なか に記述 きじゅつ が存在 そんざい する[11] 。
近代 きんだい においては知識 ちしき が全 ぜん 世界 せかい に拡散 かくさん したが、それ以前 いぜん の時代 じだい では、数学 すうがく 上 じょう の発見 はっけん についての記録 きろく があるのは限 かぎ られた地域 ちいき のみである。発見 はっけん されている古 ふる い数学 すうがく 文書 ぶんしょ として、
などがある。これらの文書 ぶんしょ はすべてピタゴラス数 すう について述 の べており、ピタゴラスの定理 ていり の内容 ないよう は最 もっと も早 はや く最 もっと も広 ひろ まった数学 すうがく の法則 ほうそく の一 ひと つであると見 み なせる。これらの例 れい は、ピタゴラス数 すう のうちのいくつかの振 ふ る舞 ま いを調 しら べたり、その法則 ほうそく 性 せい に注目 ちゅうもく しているに過 す ぎない。普遍 ふへん 性 せい を仮定 かてい する定理 ていり (証明 しょうめい された真 しん なる命題 めいだい )という概念 がいねん は、ギリシア文明 ぶんめい 以降 いこう で見 み られるようになる。
古代 こだい から中世 ちゅうせい における数学 すうがく の発展 はってん [ 編集 へんしゅう ]
エジプトおよびバビロニア数学 すうがく は、古代 こだい ギリシア においてさらに発展 はってん した。古代 こだい ギリシアの数学 すうがく は、手法 しゅほう と内容 ないよう の両方 りょうほう を革新 かくしん したという点 てん で、非常 ひじょう に重要 じゅうよう であると考 かんが えられている[12] 。これら古代 こだい 文明 ぶんめい で発展 はってん した数学 すうがく は、イスラム数学 すうがく でさらに大 おお きく発展 はってん した。多 おお くのギリシア語 ご とアラビア語 ご の数学 すうがく の文献 ぶんけん が中世 ちゅうせい のヨーロッパでラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく され、さらに発展 はってん した。
紀元前 きげんぜん にも数学 すうがく や文化 ぶんか の地域 ちいき 間 あいだ の相互 そうご 作用 さよう の証拠 しょうこ はいくつも見 み られるが、古代 こだい ・中世 ちゅうせい の数学 すうがく 史 し の特徴 とくちょう は、大 だい 発展 はってん の後 のち しばしば何 なに 世紀 せいき もの停滞 ていたい が起 お きたり、地域 ちいき ごとに特色 とくしょく を持 も って発展 はってん していることである。文化 ぶんか の交流 こうりゅう が蓄積 ちくせき し、14世紀 せいき にイタリアでのルネサンス やヨーロッパの大 だい 航海 こうかい 時代 じだい が始 はじ まると、数学 すうがく 上 じょう の新 しん 発見 はっけん が他 た の科学 かがく 上 じょう の発見 はっけん と顕著 けんちょ に相互 そうご 作用 さよう を持 も ちながら進歩 しんぽ し続 つづ けるようになった。この傾向 けいこう は現代 げんだい まで続 つづ いている。本節 ほんぶし では、地域 ちいき ごとに特色 とくしょく を持 も って発展 はってん した初期 しょき の数学 すうがく の発展 はってん について述 の べる。
バビロニア数学 すうがく は、初期 しょき シュメール 人 ひと からヘレニズム期 き 初期 しょき のメソポタミア (現代 げんだい のイラク )の人々 ひとびと の数学 すうがく を示 しめ す。バビロンが研究 けんきゅう 場所 ばしょ の中心 ちゅうしん 的 てき 役割 やくわり を果 は たし、ヘレニズム時代 じだい に終 お えたことからバビロニア数学 すうがく と呼 よ ばれた。この時点 じてん から、バビロニア数学 すうがく はギリシアおよびエジプト数学 すうがく と融合 ゆうごう し、ヘレニズム数学 すうがく をもたらした。その後 ご イスラム帝国 ていこく のもと、イラク/メソポタミア、特 とく にバグダード は再度 さいど イスラム数学 すうがく の研究 けんきゅう の重要 じゅうよう な中心 ちゅうしん となった。
散在 さんざい した文献 ぶんけん しか残 のこ されていないエジプト数学 すうがく と対照 たいしょう 的 てき に、バビロニア数学 すうがく は1850年 ねん 以降 いこう 掘 ほ り出 だ された400以上 いじょう の粘土 ねんど 板 ばん で知 し ることができる。粘土 ねんど 板 ばん は湿 しめ っている間 あいだ に楔形文字 くさびがたもじ で書 か かれ、釜 がま で焼 や くか日光 にっこう で熱 ねっ して硬 かた くする。これらの幾 いく つかは、宿題 しゅくだい を採点 さいてん したものと思 おも われる。
数学 すうがく が記述 きじゅつ された最 もっと も古 ふる い証拠 しょうこ は、メソポタミア最古 さいこ の文明 ぶんめい を興 おこ した古代 こだい シュメール人 じん までさかのぼる。シュメール人 じん は、紀元前 きげんぜん 3000年 ねん から複 ふく 合 あい 的 てき な測定 そくてい システムを開発 かいはつ した。紀元前 きげんぜん 2500年 ねん 頃 ごろ 以降 いこう 、シュメール人 じん は粘土 ねんど 板 ばん に乗算 じょうざん 表 ひょう を書 か き、幾何 きか 学 がく の学習 がくしゅう と除算 じょざん 問題 もんだい に利用 りよう した。バビロニア文字 もじ の最古 さいこ の形跡 けいせき もまた、この時代 じだい にさかのぼる[13] 。
復元 ふくげん された粘土 ねんど 板 ばん の大 だい 部分 ぶぶん は紀元前 きげんぜん 1800〜1600年 ねん の時代 じだい であり、分数 ぶんすう 、代数 だいすう 、二 に 次 じ および三 さん 次 じ 方程式 ほうていしき 、およびピタゴラス数 すう の概念 がいねん が扱 あつか われている(プリンプトン322 参照 さんしょう )[14] 。粘土 ねんど 板 ばん にはまた、乗算 じょうざん 表 ひょう 、三角 さんかく 法 ほう 表 ひょう および一 いち 次 じ と二 に 次 じ 方程式 ほうていしき の解法 かいほう が含 ふく まれている。バビロニアの粘土 ねんど 板 ばん YBC 7289は、2の平方根 へいほうこん の小数点 しょうすうてん 第 だい 5位 い まで正確 せいかく な近似 きんじ 値 ち を出 だ している。円周 えんしゅう 率 りつ の値 ね として、実際 じっさい 的 てき な計算 けいさん のためにはしばしば 3 が用 もち いられていた[15] が、22 / 7 などのより精確 せいかく な近似 きんじ 値 ち も知 し られていた。(円周 えんしゅう 率 りつ の歴史 れきし も参照 さんしょう のこと)
バビロニア数学 すうがく は、六 ろく 十進法 じっしんほう (60を底 そこ とする)の位取 くらいど り記数 きすう 法 ほう を記述 きじゅつ していた。ここから、現在 げんざい 1分 ふん が60秒 びょう 、1時 じ 間 あいだ が60分 ふん 、および円 えん が360度 ど (60 × 6) の用法 ようほう が由来 ゆらい している。60には多 おお くの約数 やくすう があるという事実 じじつ により、バビロニア数学 すうがく の進歩 しんぽ が促進 そくしん された。また、エジプト、ギリシア、ローマ数学 すうがく と異 こと なり、バビロニア数学 すうがく は正 ただ しい位取 くらいど り記数 きすう 法 ほう を持 も ち、左 ひだり の列 れつ に書 か かれる数字 すうじ が、十進法 じっしんほう より大 おお きな値 ね を示 しめ す、しかしながら、小数点 しょうすうてん に相当 そうとう するものが欠 か けているため、数字 すうじ によって実際 じっさい に表 あらわ されている数値 すうち はしばしば文脈 ぶんみゃく から推論 すいろん しなければならなかった。
エジプト数学 すうがく は、エジプト語 ご で書 か かれた数学 すうがく を示 しめ す。ヘレニズム時代 じだい から、エジプト人 じん 学者 がくしゃ の記述 きじゅつ 言語 げんご としてギリシア語 ご はエジプト語 ご に代 か わり、この時点 じてん からエジプト数学 すうがく はギリシアおよびバビロニア数学 すうがく と融合 ゆうごう しヘレニズム数学 すうがく となった。 エジプト での数学 すうがく 研究 けんきゅう は後 のち に、イスラム帝国 ていこく のもとイスラム数学 すうがく の一部 いちぶ として続 つづ き、アラビア語 ご がエジプト人 じん 学者 がくしゃ の記述 きじゅつ 言語 げんご となった。
今 いま まで発見 はっけん された最古 さいこ の数学 すうがく の文書 ぶんしょ は、エジプト中 ちゅう 王国 おうこく の紀元前 きげんぜん 2000〜1800年 ねん のパピルスである、モスクワ数学 すうがく パピルス である。他 た の古代 こだい 数学 すうがく 文書 ぶんしょ と同様 どうよう に、今日 きょう でいう「単語 たんご 問題 もんだい 」または「文章 ぶんしょう 問題 もんだい 」からなり、明 あき らかに娯楽 ごらく を目的 もくてき としたものであった。注目 ちゅうもく するべきものには、切 きり 頭 あたま 体 たい の体積 たいせき を求 もと めるための方法 ほうほう を表 あらわ している以下 いか のようなものがある:「ピラミッドを切断 せつだん し、高 たか さ6、底辺 ていへん 4、上辺 うわべ 2である。4を二乗 にじょう すると16。4を倍 ばい にすると8。2を二乗 にじょう すると4。16と8、および4を加 くわ えると28。6の3分 ぶん の1を得 え るので2回 かい 。28を2回 かい 取 と るので56。結果 けっか は56。正 ただ しい結果 けっか である。
リンド・パピルス (紀元前 きげんぜん 1650年 ねん 頃 ごろ )は、もう一 ひと つの主要 しゅよう なエジプト数学 すうがく のテキストであり、整数 せいすう 論 ろん と幾何 きか 学 がく のマニュアルになっている[16] 。また、乗算 じょうざん 、除算 じょざん 、および単位 たんい 分数 ぶんすう の公式 こうしき の解法 かいほう [17] や、合成 ごうせい 数 すう と素数 そすう 、整数 せいすう 論 ろん 、幾何 きか 学 がく 、と調和 ちょうわ 平均 へいきん 、エラトステネスの篩 ふるい と完全 かんぜん 数 すう (とくに、6 に関 かん する記述 きじゅつ )について一定 いってい の数学 すうがく 的 てき 知識 ちしき が得 え られていたことの証拠 しょうこ もえられている[18] 。また、簡単 かんたん な一 いち 次 じ 方程式 ほうていしき の解法 かいほう が示 しめ されており[19] 、等差 とうさ 数列 すうれつ と幾何級数 きかきゅうすう も扱 あつか っている[20] 。
また、リンド・パピルスでは、1パーセント未満 みまん の誤差 ごさ で円周 えんしゅう 率 りつ の近似 きんじ 値 ち を得 え る方法 ほうほう や 、円 えん 積 せき 問題 もんだい への過去 かこ の取 と り組 く みが述 の べられ、さらに余 よ 接 せっ 関数 かんすう の一種 いっしゅ について、知 し られているかぎり最古 さいこ の使用 しよう 例 れい を見 み いだすことができる。これらの知見 ちけん は解析 かいせき 幾何 きか 学 がく に関 かか わる基礎 きそ 的 てき な体系 たいけい がこの時代 じだい に確立 かくりつ されていたことを示 しめ している。
さらに、ペルリン・パピルス(紀元前 きげんぜん 1300年 ねん 頃 ごろ )は、古代 こだい エジプト人 じん が簡単 かんたん な二 に 次 じ の連立 れんりつ 方程式 ほうていしき の解法 かいほう を知 し っていたことを示 しめ している[21] [22] [23] 。
イスラム数学 すうがく (西暦 せいれき 800〜1500年 ねん 頃 ごろ )[ 編集 へんしゅう ]
フワーリズミー
イスラム帝国 ていこく は、中東 ちゅうとう 、中央 ちゅうおう アジア 、北 きた アフリカ 、イベリア半島 はんとう 、および8世紀 せいき のインド の一部 いちぶ にわたって成立 せいりつ し、数学 すうがく に重要 じゅうよう な貢献 こうけん を果 は たした。ほとんどのイスラムの数学 すうがく 書 しょ はアラビア語 ご で書 か かれたが、すべてをアラブ人 じん が書 か いたのではない。ヘレニズムにおけるギリシア語 ご と同様 どうよう に、アラビア語 ご は当時 とうじ のイスラム世界中 せかいじゅう のアラブ人 じん 以外 いがい の学者 がくしゃ はアラビア語 ご を使用 しよう した。重要 じゅうよう なイスラム数学 すうがく 者 しゃ にはペルシア人 じん もいる。
フワーリズミー は、9世紀 せいき バグダード のペルシア人数 にんずう 学者 がくしゃ で天文学 てんもんがく 者 しゃ であり、インド・アラビア数字 すうじ および方程式 ほうていしき の解法 かいほう に関 かん する重要 じゅうよう な本 ほん を著 あらわ した。彼 かれ の著作 ちょさく で西暦 せいれき 825年 ねん 頃 ごろ に書 か かれた『インドの数 かず の計算 けいさん 法 ほう 』は、アラブ人数 にんずう 学者 がくしゃ アル=キンディー と共 とも に作成 さくせい され、インド数学 すうがく とインド・アラビア数字 すうじ を西洋 せいよう に広 ひろ める助 たす けとなった。「アルゴリズム 」の語 かたり は、彼 かれ の名 な のラテン語 らてんご 化 か 、「Algoritmi」に由来 ゆらい し、「代数 だいすう 学 がく (algebra) は彼 かれ の著作 ちょさく の名称 めいしょう 『ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ』(約分 やくぶん と消 けし 約 やく の計算 けいさん の書 しょ )に由来 ゆらい する。フワーリズミーは、古代 こだい の代数 だいすう 的 てき 手法 しゅほう の保存 ほぞん とこの分野 ぶんや への独自 どくじ の貢献 こうけん より、「代数 だいすう の父 ちち 」と呼 よ ばれている[24] 。代数 だいすう 学 がく の更 さら なる発展 はってん は、アル=カラジ (Al-Karaji ) (西暦 せいれき 953〜1029年 ねん )の論文 ろんぶん 『アル・ファフリー』で、未知数 みちすう の整数 せいすう 冪 べき 乗 じょう と整数 せいすう 根 ね を包含 ほうがん する方法 ほうほう 論 ろん を拡張 かくちょう した。10世紀 せいき に、アブル・ウワファ はディオファントス の著作 ちょさく をアラビア語 ご に翻訳 ほんやく し、正接 せいせつ 関数 かんすう を進展 しんてん させた。
数学 すうがく 的 てき 帰納 きのう 法 ほう を用 もち いている最初 さいしょ の数学 すうがく 的 てき 証明 しょうめい は、西暦 せいれき 1000年 ねん 頃 ごろ のアル=カラジ の著作 ちょさく に現 あらわ れ、二 に 項 こう 定理 ていり 、パスカルの三角形 さんかっけい 、積分 せきぶん 立方 りっぽう 数 すう 合計 ごうけい の証明 しょうめい に使 つか われた[15] 。 数学 すうがく 歴史 れきし 家 か のF. Woepcke[25] は、アル=カラジを「最初 さいしょ に代数 だいすう 的 てき な微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく の理論 りろん を導入 どうにゅう した者 もの 」として賞賛 しょうさん した。イブン・アル=ハイサム は、二 に 重 じゅう 平方 へいほう 数 すう の和 わ の公式 こうしき を推論 すいろん した最初 さいしょ の数学 すうがく 者 しゃ であり、帰納 きのう 法 ほう を使用 しよう して、任意 にんい の整数 せいすう の冪 べき 乗 じょう の和 わ に対 たい する一般 いっぱん 公式 こうしき を決定 けってい する方法 ほうほう を開発 かいはつ し、それが積分 せきぶん 法 ほう の発展 はってん の基礎 きそ となった[26] 。
ウマル・ハイヤーム は12世紀 せいき の詩人 しじん 、数学 すうがく 者 しゃ で、『ユークリッドにおける困難 こんなん に関 かん する議論 ぎろん 』でユークリッド原論 げんろん の不備 ふび 、特 とく に平行 へいこう 線 せん 公理 こうり について述 の べ、その結果 けっか 、解析 かいせき 幾何 きか 学 がく および非 ひ ユークリッド幾何 きか 学 がく の基礎 きそ を築 きず いた。また、三 さん 次 じ 関数 かんすう の一般 いっぱん 的 てき な幾何 きか 学 がく 的 てき な解法 かいほう を考案 こうあん した。彼 かれ はまた、暦法 れきほう の改正 かいせい に非常 ひじょう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。13世紀 せいき のペルシア人数 にんずう 学者 がくしゃ 、ナスィールッディーン・トゥースィー は、球面 きゅうめん 三角 さんかく 法 ほう を進展 しんてん させた。彼 かれ はまた、エウクレイデス の平行 へいこう 線 せん 公理 こうり に関 かん する有力 ゆうりょく な書 しょ を著 あらわ した。15世紀 せいき にアル=カーシー は、円周 えんしゅう 率 りつ を小数点 しょうすうてん 16桁 けた まで計算 けいさん した。カーシーはまた、n 乗 の 根 ね を計算 けいさん するアルゴリズムを持 も ち、それは数 すう 世紀 せいき 後 ご のパオロ・ルフィニ およびホーナー による手法 しゅほう の特殊 とくしゅ な例 れい であった。他 た の特筆 とくひつ すべきイスラム数学 すうがく 者 しゃ には、イブン・ヤフヤ・アル=マグリービー・アル=サマウアル (Ibn Yahyā al-Maghribī al-Samaw'al ) 、サービト・イブン=クッラ 、アブ・カミル (Abū Kāmil Shujā ibn Aslam ) 、アブー・サフル・アル=クーヒー がいる。
この時代 じだい のイスラム数学 すうがく 者 しゃ の成果 せいか には、代数 だいすう 学 がく とアルゴリズム の発展 はってん (フワーリズミー 参照 さんしょう )、球面 きゅうめん 三角 さんかく 法 ほう の発展 はってん [27] 、アラビア数字 すうじ への小数点 しょうすうてん の追加 ついか 、正弦 せいげん を除 のぞ く現在 げんざい の三角 さんかく 関数 かんすう のすべての発見 はっけん 、キンディー による暗号 あんごう 解読 かいどく と頻度 ひんど 分析 ぶんせき の導入 どうにゅう 、アル=カラジ による微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく の導入 どうにゅう と数学 すうがく 的 てき 帰納 きのう 法 ほう による証明 しょうめい 、イブン・アル=ハイサム による解析 かいせき 幾何 きか 学 がく と初期 しょき の無限 むげん 小 しょう 一般 いっぱん 公式 こうしき と積分 せきぶん 法 ほう の発展 はってん 、ウマル・ハイヤーム による代数 だいすう 幾何 きか 学 がく の開始 かいし 、ナスィールッディーン・トゥースィー によるユークリッド幾何 きか 学 がく の平行 へいこう 線 せん 公理 こうり への最初 さいしょ の反証 はんしょう 、非 ひ ユークリッド幾何 きか 学 がく の最初 さいしょ の試 こころ み、その他 た 代数 だいすう 学 がく 、算術 さんじゅつ 、微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく 、暗号 あんごう 理論 りろん 、幾何 きか 学 がく 、数 かず 論 ろん 、および三角 さんかく 法 ほう における多大 ただい な進歩 しんぽ があった。
オスマン帝国 ていこく (15世紀 せいき 〜)の時代 じだい に、イスラム数学 すうがく は停滞 ていたい した。これは、ローマ人 じん がヘレニズムを征服 せいふく したときの数学 すうがく の停滞 ていたい と類似 るいじ している。
ジョン・J・オコナーとエドモンド・F・ロバートソンは『マックチューター数学 すうがく 史 し アーカイブ 』で述 の べた:
最近 さいきん の
研究 けんきゅう によって、
現代 げんだい の
人間 にんげん がアラビア・イスラーム
数学 すうがく から
受 う けた
恩恵 おんけい について
新 あら たな
姿 すがた が
見 み えてきた。これまでは16、17、18
世紀 せいき のヨーロッパの
数学 すうがく 者 しゃ によるとされてきた
鮮 あざ やかな
新 しん 概念 がいねん が、
実 じつ はそれよりさらに4
世紀 せいき ほど
前 まえ のアラビア・イスラームの
数学 すうがく 者 しゃ によって
生 う み
出 だ されていたことが
判明 はんめい した。
今日 きょう 研究 けんきゅう されている
数学 すうがく のスタイルは
多 おお くの
点 てん で、ギリシア
人 じん の
数学 すうがく よりも、アラビア・イスラームの
数学 すうがく にずっと
近 ちか いのである。
— J. J. O'Connor and E. F. Robertson、Arabic mathematics : forgotten brilliance? JOC/EFR November 1999 - "The MacTutor History of Mathematics archive"[28]
ヴェーダ 数学 すうがく は器 うつわ 時代 じだい の初期 しょき に始 はじ まり、『シャタパタ・ブラーフマナ 』(紀元前 きげんぜん 9世紀 せいき 頃 ごろ )で円周 えんしゅう 率 りつ を小数点 しょうすうてん 第 だい 2位 い まで概算 がいさん していた[29] 。『シュルバ・スートラ 』(紀元前 きげんぜん 800〜500年 ねん 頃 ごろ )は幾何 きか 学 がく テキストであり、無理 むり 数 すう 、素数 そすう 、帰一 きいつ 算 さん 、立方根 りっぽうこん を使用 しよう し、2の平方根 へいほうこん を小数点 しょうすうてん 第 だい 5位 い まで計算 けいさん し、円 えん 積 せき 問題 もんだい の方法 ほうほう 論 ろん を与 あた え、線型 せんけい 方程式 ほうていしき と二 に 次 じ 方程式 ほうていしき を解 と き、ピタゴラス数 すう の理論 りろん の代数 だいすう 的 てき な展開 てんかい と、ピタゴラスの定理 ていり の記述 きじゅつ および数値 すうち 的 てき な証明 しょうめい が与 あた えられている。
パーニニ (紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき 頃 ごろ )はサンスクリット の文法 ぶんぽう 規則 きそく を定式 ていしき 化 か した。パーニニの記法 きほう は、現在 げんざい の数学 すうがく 的 てき 表記 ひょうき と同様 どうよう であり、メタ規則 きそく 、変換 へんかん および再帰 さいき は洗練 せんれん され、その文法 ぶんぽう 規則 きそく はチューリングマシン と同等 どうとう の計算 けいさん 能力 のうりょく を持 も っていた。ピンガラ (Pingala ) (およそ紀元前 きげんぜん 3〜1年 ねん )は、韻律 いんりつ の論文 ろんぶん で二進法 にしんほう に類似 るいじ する仕組 しく みを使用 しよう した。彼 かれ の拍子 ひょうし 組合 くみあい わせ論 ろん は、二 に 項 こう 定理 ていり に類似 るいじ する。ピンガラの作品 さくひん はまた、フィボナッチ数 すう の基本 きほん 的 てき 概念 がいねん (mātrāmeru と呼 よ ばれた)を含 ふく む。ブラーフミー文字 もじ は、少 すく なくとも紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき のマウリヤ朝 あさ 以降 いこう に発達 はったつ し、最近 さいきん の考古学 こうこがく の証拠 しょうこ で紀元前 きげんぜん 600年 ねん に時代 じだい が戻 もど された。ブラーフミー数字 すうじ は紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき である。
紀元前 きげんぜん 400年 ねん から西暦 せいれき 200年 ねん の間 あいだ 、ジャイナ教 きょう の数学 すうがく 者 しゃ は数学 すうがく の唯一 ゆいいつ の目的 もくてき のために研究 けんきゅう を始 はじ めた。彼 かれ らは最初 さいしょ に超越 ちょうえつ 数 すう 、集合 しゅうごう 論 ろん 、対数 たいすう 、および添字 そえじ 、三 さん 次 じ 方程式 ほうていしき 、四 よん 次 じ 方程式 ほうていしき 、列 れつ と数列 すうれつ 、順列 じゅんれつ と組合 くみあ わせ 、二乗 にじょう と平方根 へいほうこん 導出 どうしゅつ 、有限 ゆうげん および無限 むげん 冪 べき 乗 じょう について、基本 きほん 法則 ほうそく を発展 はってん させた。紀元前 きげんぜん 200年 ねん から西暦 せいれき 200年 ねん の間 あいだ に書 か かれたバクシャーリー写本 しゃほん には、最大 さいだい 5つの未知数 みちすう を含 ふく む線型 せんけい 方程式 ほうていしき の解 かい 、二 に 次 じ 方程式 ほうていしき の解 かい 、算術 さんじゅつ 数列 すうれつ および幾何 きか 数列 すうれつ 、複数 ふくすう の数列 すうれつ 、二 に 次 じ 不定 ふてい 方程式 ほうていしき 、連立 れんりつ 方程式 ほうていしき 、および0 と負 まけ の数 かず が記述 きじゅつ された[30] 。無理 むり 数 すう の正確 せいかく な計算 けいさん が発見 はっけん でき、100万 まん から少 すく なくとも小数点 しょうすうてん 11位 い の平方根 へいほうこん の計算 けいさん が含 ふく まれている。
中世 ちゅうせい インド数学 すうがく (西暦 せいれき 400〜1600年 ねん 頃 ごろ )[ 編集 へんしゅう ]
アリヤバータ
『スーリヤ・シッダーンタ』 (Surya Siddhanta ) (西暦 せいれき 400年 ねん 頃 ごろ )は三角 さんかく 関数 かんすう 、正弦 せいげん 、余弦 よげん 、逆 ぎゃく 正弦 せいげん 関数 かんすう を導入 どうにゅう し、天体 てんたい の実際 じっさい の動 うご き、空 そら の中 なか での実際 じっさい の位置 いち を決定 けってい する法則 ほうそく の基礎 きそ を築 きず いた。この文書 ぶんしょ では、より古 ふる くの文書 ぶんしょ の写 うつ しで、天体 てんたい 時間 じかん の周期 しゅうき が述 の べられ、365.2563627日間 にちかん の恒星 こうせい 年 ねん に対応 たいおう し、現在 げんざい の公称 こうしょう 値 ち である365.25636305日間 にちかん より1.4秒 びょう 長 なが いだけである。この文書 ぶんしょ は、中世 ちゅうせい にアラビア語 ご とラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく された。
アリヤバータ は、西暦 せいれき 499年 ねん に正 せい 矢 や 関数 かんすう (en:Versine , 1 - cos θ しーた ) を導入 どうにゅう し、正弦 せいげん の最初 さいしょ の三角 さんかく 法 ほう 表 ひょう を作成 さくせい し、代数 だいすう 学 がく 、無限 むげん 小 しょう 、微分 びぶん 方程式 ほうていしき の解法 かいほう とアルゴリズム を開発 かいはつ し、現代 げんだい と同等 どうとう な手法 しゅほう により線型 せんけい 方程式 ほうていしき の解 かい を求 もと め、また万有引力 ばんゆういんりょく の地動説 ちどうせつ に基 もと づく正確 せいかく な天文学 てんもんがく の計算 けいさん を行 おこな った。彼 かれ の著作 ちょさく 『アーリヤバティーヤ』 (Aryabhatiya ) は、アラビア語 ご 翻訳 ほんやく が8世紀 せいき に、ラテン語 らてんご の翻訳 ほんやく が13世紀 せいき に行 おこな われた。彼 かれ はまた、円周 えんしゅう 率 りつ の値 ね を小数点 しょうすうてん 以下 いか 第 だい 4位 い の3.1416まで計算 けいさん した。後 ご の14世紀 せいき に、サンガマグラーマのマーダヴァ は、円周 えんしゅう 率 りつ を小数点 しょうすうてん 以下 いか 第 だい 11位 い まで計算 けいさん した。
7世紀 せいき に、ブラーマグプタ はブラーマグプタの定理 ていり 、ブラーマグプタの二 に 平方 へいほう 恒等 こうとう 式 しき 、ブラーマグプタの公式 こうしき を定 さだ め、『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ 』で初 はじ めて、明快 めいかい に0 を空位 くうい および数字 すうじ の両方 りょうほう として使用 しよう し、インド・アラビア数字 すうじ を説明 せつめい した。このインド数学 すうがく 書 しょ (西暦 せいれき 770年 ねん 頃 ごろ )の翻訳 ほんやく から、イスラム 数学 すうがく 者 しゃ は数字 すうじ 体系 たいけい を導入 どうにゅう し、アラビア数字 すうじ に採用 さいよう した。イスラム学者 がくしゃ はこの数字 すうじ 体系 たいけい の知識 ちしき を12世紀 せいき までにヨーロッパに伝 つた え、世界中 せかいじゅう で旧 きゅう 数字 すうじ 体系 たいけい を置 お き換 か えている。10世紀 せいき に、ピンガラの著書 ちょしょ についてのハラユーダ (Halayudha ) の論評 ろんぴょう には、フィボナッチ数 すう 、パスカルの三角形 さんかっけい の研究 けんきゅう が含 ふく まれ、行列 ぎょうれつ の計算 けいさん が記述 きじゅつ された。
12世紀 せいき に、バースカラ2世 せい は、導 しるべ 関数 かんすう 、微分 びぶん 係数 けいすう 、微分 びぶん 法 ほう の概念 がいねん と共 とも に、微分 びぶん 学 がく を考 かんが えだした。彼 かれ はまた、ロルの定理 ていり (平均 へいきん 値 ち の定理 ていり の特殊 とくしゅ な場合 ばあい )を述 の べ、ペル方程式 ほうていしき を研究 けんきゅう し、正弦 せいげん 関数 かんすう の導 しるべ 関数 かんすう を調査 ちょうさ した。14世紀 せいき から、マーダヴァと他 た のケーララ学派 がくは の数学 すうがく 者 しゃ は、この概念 がいねん を発展 はってん させた。彼 かれ らは、解析 かいせき 学 がく と浮動 ふどう 小数点 しょうすうてん 数 すう 、微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく の基礎 きそ から総合 そうごう 的 てき な開発 かいはつ を行 おこな った。これには、平均 へいきん 値 ち の定理 ていり 、限界 げんかい 点 てん の積分 せきぶん 、曲線 きょくせん の下 した の領域 りょういき とその不定 ふてい 積分 せきぶん または積分 せきぶん 、収束 しゅうそく 判定 はんてい 、非 ひ 線型 せんけい 方程式 ほうていしき を解 と くための反復 はんぷく 法 ほう 、および無限 むげん 級数 きゅうすう 、冪 べき 級数 きゅうすう 、テイラー級数 きゅうすう 、三角 さんかく 級数 きゅうすう が含 ふく まれる。16世紀 せいき に、ジャヤスタデーヴァ (Jyeṣṭhadeva ) がケーララ学派 がくは による発展 はってん と定理 ていり の多 おお くを『ユクティバーサ』 (Yuktibhasa ) に統合 とうごう した。これは、世界 せかい 初 はつ の微分 びぶん 学 がく の教科書 きょうかしょ であり、積分 せきぶん 法 ほう の概念 がいねん もまた導入 どうにゅう した。インドでの数学 すうがく の進歩 しんぽ は、16世紀 せいき 後半 こうはん の政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん のため停滞 ていたい した。
『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』
中国 ちゅうごく では古代 こだい から算 さん 籌 (さんちゅう)と呼 よ ばれる小 ちい さな木 こ っ端 ぱ や竹 たけ などを用 もち いた計算 けいさん が行 おこな われていた。この計算 けいさん 方法 ほうほう では、算 さん 籌によって表 あらわ した一 いち から九 きゅう までの基数 きすう を位取 くらいど り式 しき に並 なら べることで様々 さまざま に数 かず を表 あらわ した。これを用 もち いて、加減乗除 かげんじょうじょ から求根 きゅうこん 、方程式 ほうていしき を解 と くに至 いた るまで様々 さまざま な算術 さんじゅつ が扱 あつか われ、中国 ちゅうごく 数学 すうがく はこの計算 けいさん 術 じゅつ の下 した で発展 はってん した。なお漢字 かんじ の「算 さん 」は、音 おと を表 あらわ す「具 ぐ 」と意味 いみ を示 しめ す(算 さん 籌を暗示 あんじ させる)「竹 たけ 」とを組 く み合 あ わせた形声 けいせい 文字 もじ である[31] [32] 。
紀元前 きげんぜん 212年 ねん に、秦 はた の始皇帝 しこうてい が秦 はた 国外 こくがい の書物 しょもつ をすべて燃 も やすことを命 めい じた。この命令 めいれい が完全 かんぜん に遂行 すいこう されることはなかったが、結果 けっか として古代 こだい 中国 ちゅうごく 数学 すうがく に関 かん しては僅 わず かしか知 し られていない。周 しゅう (紀元前 きげんぜん 1046年 ねん 〜)以降 いこう 、焚書 ふんしょ を免 まぬか れた最古 さいこ の数学 すうがく 書 しょ は『易 えき 経 けい 』であり、哲学 てつがく 、数学 すうがく 、および神秘 しんぴ 的 てき 目的 もくてき で、8種 しゅ 3組 くみ (三重 みえ )および64種 しゅ 6組 くみ (六 ろく 重 じゅう )が使用 しよう される。各組 かくくみ は分割 ぶんかつ した、または切 き れ目 め の無 な い直線 ちょくせん で構成 こうせい され、それぞれ陰 かげ 「女性 じょせい 」陽 ひ 「男性 だんせい 」と呼 よ ばれる。(六 ろく 十 じゅう 四 よん 卦 け 参照 さんしょう )
中国 ちゅうごく の幾何 きか 学 がく の現存 げんそん する最 もっと も古 ふる い書物 しょもつ は、紀元前 きげんぜん 330年 ねん 頃 ごろ の墨 ぼく 家 か の哲学 てつがく 原理 げんり で、墨 ぼく 子 こ (紀元前 きげんぜん 470〜390年 ねん )の後継 こうけい 者 しゃ により編纂 へんさん された。『墨 ぼく 経 けい 』は、物理 ぶつり 化学 かがく に関 かん する様々 さまざま な分野 ぶんや を記述 きじゅつ し、数学 すうがく について僅 わず かながら書 が き示 しめ した。
焚書 ふんしょ の後 のち 、漢 かん (紀元前 きげんぜん 202年 ねん 〜西暦 せいれき 220年 ねん )は、現在 げんざい 失 うしな われた書物 しょもつ を拡張 かくちょう したと推定 すいてい される数学 すうがく 書 しょ を生 う み出 だ した。最 もっと も重要 じゅうよう な書物 しょもつ は『九 きゅう 章 しょう 算術 さんじゅつ 』であり、全編 ぜんぺん が完成 かんせい したのは遅 おそ くとも西暦 せいれき 179年 ねん だとされている。しかし、一部 いちぶ は別 べつ の書名 しょめい の下 した にそれ以前 いぜん から存在 そんざい した。この数学 すうがく 書 しょ は、その名 な の通 とお り九 ここの つ、すなわち方田 ほうだ ・粟 あわ 米 まい ・衰 おとろえ 分 ぶん ・少 しょう 広 ひろ ・商 しょう 功 いさお ・均 ひとし 輸・盈 みつる 不足 ふそく ・方 ぽう 程 ほど ・勾股の章 しょう に分 わ けて、農業 のうぎょう 、商業 しょうぎょう 、幾何 きか 学 がく 、工学 こうがく 、測量 そくりょう に関 かん する246語 ご の問題 もんだい で構成 こうせい され、特別 とくべつ な直角 ちょっかく 三角形 さんかっけい および円周 えんしゅう 率 りつ の要素 ようそ を含 ふく んでいる。また、体積 たいせき におけるカバリエリの定理 ていり を、西洋 せいよう でカバリエリ が提案 ていあん する1,000年 ねん 以上 いじょう 前 まえ に使用 しよう していた。ピタゴラスのピタゴラスの定理 ていり の数学 すうがく 的 てき 証明 しょうめい 、およびガウスの消去 しょうきょ 法 ほう の数式 すうしき も含 ふく まれている。方 ほう 程 ほど (連立 れんりつ 方程式 ほうていしき のこと)の章 しょう では、益 えき の数 かず ・損 そん の数 かず を表 あらわ す正 せい 算 さん ・負 ふ 算 さん という赤 あか と黒 くろ の算 さん 籌の区別 くべつ を用 もち いて連立 れんりつ 方程式 ほうていしき を解 と き、正負 せいふ 計算 けいさん の法則 ほうそく までも述 の べている。この書 しょ は中国 ちゅうごく や朝鮮 ちょうせん では長 なが い時期 じき にわたって重要 じゅうよう な数学 すうがく の教科書 きょうかしょ の一 ひと つとして扱 あつか われた。この書 しょ の研究 けんきゅう としては西暦 せいれき 3世紀 せいき に劉 りゅう 徽 による論評 ろんぴょう と問題 もんだい や解法 かいほう の数学 すうがく 的 てき 考察 こうさつ が行 おこな われた。
さらに、漢 かん の天文学 てんもんがく 者 しゃ 、発明 はつめい 家 か である張 ちょう 衡 (西暦 せいれき 78〜139年 ねん )の数学 すうがく 書 しょ には円周 えんしゅう 率 りつ の公式 こうしき 化 か があり、劉 りゅう 徽の計算 けいさん と異 こと なっていた。張 ちょう 衡は、球体 きゅうたい の体積 たいせき を求 もと めるために円周 えんしゅう 率 りつ の公式 こうしき を使用 しよう した。また、数学 すうがく 者 しゃ で音楽 おんがく 理論 りろん 家 か の京 きょう 房 ぼう (紀元前 きげんぜん 78〜37年 ねん )は、ピタゴラスコンマ を用 もち いて53の完全 かんぜん 五 ご 度 ど が31オクターヴ にほぼ等 ひと しいことを述 の べた。これは後 のち に、ドイツのニコラス・メルカトル が17世紀 せいき に53平均 へいきん 律 りつ を発見 はっけん するまで、正確 せいかく に計算 けいさん されることはなかった。
張 ちょう 衡 (西暦 せいれき 78〜139年 ねん )
南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい の祖 そ 沖 おき 之 の (5世紀 せいき )は、円周 えんしゅう 率 りつ の値 ね を小数点 しょうすうてん 以下 いか 第 だい 7位 い まで計算 けいさん した。これは以後 いご 1,000年間 ねんかん 、最 もっと も正確 せいかく な値 ね であった。
漢 かん に続 つづ く唐 とう の開始 かいし と宋 そう の終 お わりまでの約 やく 1,000年間 ねんかん 、ヨーロッパの数学 すうがく が存在 そんざい しない時代 じだい に、中国 ちゅうごく 数学 すうがく は繁栄 はんえい した。官僚 かんりょう 登用 とうよう 試験 しけん である科挙 かきょ においても数学 すうがく は科目 かもく に含 ふく まれ、初期 しょき 中国 ちゅうごく の主 おも な数学 すうがく 業績 ぎょうせき を集 あつ めた『算 さん 経 けい 十 じゅう 書 しょ 』が教科書 きょうかしょ として推奨 すいしょう された。
中国 ちゅうごく で最初 さいしょ に開発 かいはつ され、後 のち に西洋 せいよう で多 おお く知 し られるものに、負 まけ の数 かず 、二 に 項 こう 定理 ていり 、線型 せんけい 方程式 ほうていしき を解決 かいけつ するための行列 ぎょうれつ 手法 しゅほう 、および中国 ちゅうごく の剰余 じょうよ 定理 ていり がある。中国 ちゅうごく ではまた、ヨーロッパで知 し られる前 まえ に、パスカルの三角形 さんかっけい 、帰一 きいつ 算 さん が開発 かいはつ された。この時代 じだい 大 おお いに発展 はってん した算法 さんぽう に天元 てんげん 術 じゅつ がある。これは算 さん 籌を用 もち いた代数 だいすう 問題 もんだい の解法 かいほう であって、問題 もんだい に与 あた えられた条件 じょうけん から計算 けいさん を施 ほどこ して、等式 とうしき から一 いち 元 げん 数 すう 次 じ 方程式 ほうていしき を作 つく る算法 さんぽう である。朱 しゅ 世 よ 傑 すぐる はこれを四 よっ つの未知数 みちすう まで拡張 かくちょう させて高次 こうじ の四 よん 元 もと 連立 れんりつ 方程式 ほうていしき の解法 かいほう 、四元 よつもと 術 じゅつ を創 つく った。また、方程式 ほうていしき 自体 じたい を解 と くために、天元 てんげん 術 じゅつ とともに、一般 いっぱん 次数 じすう における方程式 ほうていしき の近似 きんじ 解法 かいほう の開 ひらき 方術 ほうじゅつ [注 ちゅう 1] が発展 はってん した。この天元 てんげん 術 じゅつ を主 おも とした中国 ちゅうごく の算法 さんぽう は江戸 えど 時代 じだい の日本 にっぽん に伝 つた わり、和算 わさん の発展 はってん の大 おお きな要因 よういん となった。祖 そ 沖 おき 之 の や朱 しゅ 世 よ 傑 すぐる の他 ほか に、唐 とう や宋 そう の時代 じだい の重要 じゅうよう な人物 じんぶつ として、一 いち 行 ぎょう 、沈括 、賈憲 、秦 はた 九 きゅう 韶 、李 り 冶達 いたる がいる。科学 かがく 者 しゃ の沈括は、微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく 、三角 さんかく 法 ほう 、度量衡 どりょうこう 学 がく (Metrology ) 、順列 じゅんれつ に関 かん する問題 もんだい を使用 しよう して、特定 とくてい の戦闘 せんとう 陣形 じんけい が使用 しよう できる地勢 ちせい の空間 くうかん や、兵糧 ひょうろう の量 りょう に対 たい して継続 けいぞく 可能 かのう な軍事 ぐんじ 作戦 さくせん の期間 きかん を計算 けいさん した。
中国 ちゅうごく ではまた、魔 ま 方陣 ほうじん として知 し られる複雑 ふくざつ な結合 けつごう 図表 ずひょう が古 ふる くから述 の べられ、楊輝 (Yang Hui ) (西暦 せいれき 1238〜1298年 ねん )によって完成 かんせい された。
その後 ご 17世紀 せいき 初年 しょねん においては、中国 ちゅうごく に資本 しほん 主義 しゅぎ がめばえ、商業 しょうぎょう 算術 さんじゅつ が発展 はってん してそろばん を用 もち いた珠算 しゅざん が普及 ふきゅう し、初等 しょとう 的 てき な実用 じつよう 数学 すうがく が重要 じゅうよう 視 し された。よって高度 こうど な数学 すうがく の研究 けんきゅう は大 おお きく減少 げんしょう し、くわえて丁度 ちょうど この時 とき に、マテオ・リッチ (Matteo Ricci, 利 り 瑪竇)ら宣教師 せんきょうし たちにより西洋 せいよう 数学 すうがく が伝来 でんらい し、中国 ちゅうごく 数学 すうがく は西洋 せいよう 科学 かがく ととって替 か わられ、衰退 すいたい の一途 いっと を行 い くこととなった。
古代 こだい 中国 ちゅうごく の数学 すうがく の方法 ほうほう がインドに伝 つた えられたという直接 ちょくせつ の記録 きろく はないものの、インド数学 すうがく におけるいくつかの方法 ほうほう は古代 こだい 中国 ちゅうごく のそれに類似 るいじ しており、何 なん らかの伝播 でんぱ があったことを示唆 しさ している。6世紀 せいき 頃 ごろ におけるインド数学 すうがく における位取 くらいど り記数 きすう 法 ほう の導入 どうにゅう に影響 えいきょう を与 あた えているとの見方 みかた を示 しめ している。そのほかにインド数学 すうがく における分数 ぶんすう の記法 きほう や比例 ひれい 問題 もんだい の解法 かいほう などの算法 さんぽう 、円周 えんしゅう 率 りつ の表示 ひょうじ 3927 / 1250 などに中国 ちゅうごく の数学 すうがく との類似 るいじ や一致 いっち が見 み られる。インドを通 つう じたイスラム圏 けん への中国 ちゅうごく 数学 すうがく の伝播 でんぱ の他 ほか に、元 もと の西進 せいしん による中国 ちゅうごく の暦法 れきほう がイスラム圏 けん に伝 つた えられた。さらに、アル・カーシー による「算術 さんじゅつ の鍵 かぎ 」(1427年 ねん )の中 なか で行 おこな われている算法 さんぽう のいくつかは宋 そう ・元 もと 時代 じだい に中国 ちゅうごく で発展 はってん させられたものと一致 いっち している[11] 。とはいえ、ヨーロッパの数学 すうがく がルネサンス の間 あいだ に栄 さか えた後 のち でさえ、重要 じゅうよう な中国 ちゅうごく 数学 すうがく の成果 せいか は衰退 すいたい する中 なか 、ヨーロッパと中国 ちゅうごく の数学 すうがく は総 そう じて別個 べっこ の流儀 りゅうぎ であった。後 のち にマテオ・リッチのようなイエズス会 かい 宣教師 せんきょうし が16世紀 せいき から18世紀 せいき にかけて2つの文化 ぶんか の間 あいだ で数学 すうがく 思想 しそう を交流 こうりゅう させた。
サモス のピタゴラス
ギリシア数学 すうがく は紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき 頃 ごろ から西暦 せいれき 450年 ねん の間 あいだ にギリシア語 ご で書 か かれた数学 すうがく を示 しめ す[33] 。ギリシア人数 にんずう 学者 がくしゃ は東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 全体 ぜんたい 、イタリアから北 きた アフリカに広 ひろ がる都市 とし に住 す んでいたが、これらの地域 ちいき は文化 ぶんか と言語 げんご で結 むす びつけられていた。ギリシアの数学 すうがく は、ヘレニズム数学 すうがく とも呼 よ ばれる。
ミレトス のタレス ギリシア数学 すうがく は、以前 いぜん の文化 ぶんか で発達 はったつ した数学 すうがく に比 くら べて遥 はる かに洗練 せんれん されたものであった。ギリシア以前 いぜん の数学 すうがく は、すべて帰納的 きのうてき 推論 すいろん を示 しめ している。すなわち、繰 く り返 かえ した観測 かんそく で経験 けいけん 則 そく を証明 しょうめい した。ギリシア数学 すうがく は、対照 たいしょう 的 てき に、演繹 えんえき 法 ほう を使用 しよう した。ギリシア人 じん は、定義 ていぎ および原理 げんり から結論 けつろん を得 え る論理 ろんり を使用 しよう した[34] 。
ギリシア数学 すうがく はタレス (紀元前 きげんぜん 624〜546年 ねん 頃 ごろ )とピタゴラス (紀元前 きげんぜん 582〜507年 ねん 頃 ごろ )が始 はじ めたと考 かんが えられる。影響 えいきょう 範囲 はんい について異論 いろん はあるものの、彼 かれ らはエジプト 、メソポタミア 、および恐 おそ らくインド の知識 ちしき に影響 えいきょう を受 う けた。伝説 でんせつ では、ピタゴラスはエジプトに旅行 りょこう し、数学 すうがく 、幾何 きか 学 がく 、および天文学 てんもんがく をエジプトの指導 しどう 者 しゃ から学 まな んだと言 い われている。
タレスは、幾何 きか 学 がく を使用 しよう して、ピラミッドの高 たか さや岸 きし から船 ふね までの距離 きょり を計算 けいさん する等 ひとし の問題 もんだい を解決 かいけつ した。ピタゴラスの定理 ていり について、ピタゴラス以前 いぜん からその主張 しゅちょう には長 なが い歴史 れきし があるものの、定理 ていり に最初 さいしょ の証明 しょうめい を与 あた えたのが彼 かれ であるとの名声 めいせい をもつ[33] 。エウクレイデス (ユークリッド)によるピタゴラスの論評 ろんぴょう において、プロクロスはピタゴラスが彼 かれ の名 な を冠 かん する定理 ていり を述 の べ、幾何 きか 学 がく 的 てき でなく代数 だいすう 学 がく 的 てき にピタゴラス数 すう を構成 こうせい したと述 の べている。アカデメイア は、「幾何 きか 学 がく に精通 せいつう しない者 もの はここに入 はい るべからず」とのモットーを持 も っていた。
ピタゴラス学派 がくは は無理 むり 数 すう の存在 そんざい を発見 はっけん した。エウドクソス (紀元前 きげんぜん 408〜355年 ねん 頃 ごろ )は、現在 げんざい の積分 せきぶん 法 ほう の先駆 せんく である、取 と り尽 つ くし法 ほう を開発 かいはつ した。アリストテレス (紀元前 きげんぜん 384〜233年 ねん 頃 ごろ )は最初 さいしょ に論理 ろんり 学 がく の法 ほう を書 か いた。エウクレイデス は今日 きょう の数学 すうがく でも使用 しよう される形式 けいしき である、定義 ていぎ 、原理 げんり 、定理 ていり 、証明 しょうめい の最 もっと も初期 しょき の例 れい である。彼 かれ はまた円錐 えんすい 曲線 きょくせん の研究 けんきゅう も行 おこな った。彼 かれ の本 ほん 、『ユークリッド原論 げんろん 』は、20世紀 せいき の中頃 なかごろ まで、西洋 せいよう で教育 きょういく を受 う けたものすべてに知 し られていた[33] 。ピタゴラスの定理 ていり などの幾何 きか 学 がく のよく知 し られた定理 ていり に加 くわ えて、『ユークリッド原論 げんろん 』には2の平方根 へいほうこん が無理 むり 数 すう であることや素数 そすう が無限 むげん に存在 そんざい することの証明 しょうめい が記述 きじゅつ されている。素数 そすう の発見 はっけん にはエラトステネスの篩 ふるい (紀元前 きげんぜん 230年 ねん 頃 ごろ )が使用 しよう された。
ギリシア数学 すうがく の、あるいは全 ぜん 時代 じだい の最 もっと も偉大 いだい な数学 すうがく 者 しゃ は、シラクサ のアルキメデス (紀元前 きげんぜん 287〜212年 ねん )であると言 い われている。プルタルコスによると、75歳 さい のとき、地面 じめん に数式 すうしき を書 か いている最中 さいちゅう にローマ の軍人 ぐんじん に槍 やり で刺 さ されたとされている。古代 こだい ローマは純粋 じゅんすい 数学 すうがく への関心 かんしん の証拠 しょうこ をほとんど残 のこ していない。
中世 ちゅうせい 以降 いこう のヨーロッパ数学 すうがく の発展 はってん [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい ヨーロッパの数学 すうがく への関心 かんしん は、現代 げんだい の数学 すうがく 者 しゃ と全 まった く異 こと なる動機 どうき にもよっていた。その1つは、数学 すうがく による自然 しぜん の記述 きじゅつ を通 つう じて宗教 しゅうきょう 的 てき な理解 りかい が促進 そくしん されるという信念 しんねん であり、プラトン の『ティマイオス 』および聖書 せいしょ の『知恵 ちえ の書 しょ 』11章 しょう 20節 せつ [35] によって幾度 いくど も正当 せいとう 化 か された。
中世 ちゅうせい 初期 しょき (西暦 せいれき 500〜1100年 ねん 頃 ごろ )[ 編集 へんしゅう ]
ボエティウス は、算術 さんじゅつ 、幾何 きか 学 がく 、天文学 てんもんがく 、音楽 おんがく を示 しめ す用語 ようご 『四 よん 学科 がっか 』を作 つく り、カリキュラムに数学 すうがく を加 くわ えた。彼 かれ は、ニコマコス (Nicomachus ) の『算術 さんじゅつ 入門 にゅうもん 』の意訳 いやく で、またギリシア文献 ぶんけん に由来 ゆらい する『算術 さんじゅつ 教程 きょうてい (De institutione arithmetica )』、エウクレイデス のユークリッド原論 げんろん の抄録 しょうろく 集 しゅう を著 あらわ した。彼 かれ の著作 ちょさく は、実用 じつよう 的 てき というよりむしろ理論 りろん 的 てき であり、ギリシアとイスラムの数学 すうがく 文献 ぶんけん の回復 かいふく まで、数学 すうがく 研究 けんきゅう の基礎 きそ であった[36] [37] 。
ヨーロッパ数学 すうがく の復活 ふっかつ (西暦 せいれき 1,100〜1,400年 ねん 頃 ごろ )[ 編集 へんしゅう ]
12世紀 せいき に、ヨーロッパの学者 がくしゃ はアラビア語 ご 科学 かがく 文献 ぶんけん を求 もと めてスペインとシチリア島 とう に旅行 りょこう した。これにはチェスターのロバート によりラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく されたフワーリズミー の『ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ』、バースのアデラード 、カリンツィアのヘルマン (Herman of Carinthia ) 、クレモナのジェラルド により様々 さまざま な版 はん が翻訳 ほんやく されたエウクレイデスのユークリッド原論 げんろん の完全 かんぜん な書 しょ が含 ふく まれる[38] [39] 。
これらの新 あたら しい文献 ぶんけん は数学 すうがく の復活 ふっかつ をもたらした。レオナルド・フィボナッチ は1202年 ねん に『算盤 そろばん の書 しょ 』 (Liber Abaci ) を著 あらわ し[注 ちゅう 2] 、エラトステネス の時代 じだい から1,000年 ねん 以上 いじょう を経 へ て、ヨーロッパの最初 さいしょ の重要 じゅうよう な数学 すうがく をもたらした。この数学 すうがく 書 しょ はヨーロッパにインド・アラビア数字 すうじ を導入 どうにゅう し、他 た の多 おお くの数学 すうがく 問題 もんだい が議論 ぎろん された。14世紀 せいき には、幅広 はばひろ い問題 もんだい を研究 けんきゅう するための新 あら たな数学 すうがく の観念 かんねん の発展 はってん が見 み られた[40] 。数学 すうがく の発展 はってん に貢献 こうけん した重要 じゅうよう な分野 ぶんや は、軌跡 きせき の動 うご きの分析 ぶんせき に関 かん するものであった。
トーマス・ブラッドワーディン (Thomas Bradwardine ) は、力 ちから (F)が抵抗 ていこう (R)に対 たい して幾何 きか 学 がく 的 てき 比例 ひれい で増加 ぞうか するように、速度 そくど (V)が算術 さんじゅつ 的 てき 比率 ひりつ で増加 ぞうか することを主張 しゅちょう した。ブラッドワーディンはこれを特定 とくてい の例 れい の一連 いちれん で示 しめ し、対数 たいすう はまだ発想 はっそう されていなかったが、彼 かれ の結論 けつろん を時代 じだい 錯誤 さくご 的 てき に次 つぎ のように表 あらわ すことができる:V = log F / R [41] 。ブラッドワーディンの解析 かいせき はアル=キンディー とヴィラノバのアーノルド (Arnaldus de Villa Nova ) の数学 すうがく 的 てき 手法 しゅほう を複 ふく 合 ごう 薬 やく の種類 しゅるい を異 こと なる物理 ぶつり 的 てき 問題 もんだい に定量 ていりょう 化 か するために移 うつ しかえた例 れい である[42] 。
14世紀 せいき のオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく マートン・カレッジ の1人 ひとり 、ヘイツベリーのウィリアムは、微分 びぶん 法 ほう と極限 きょくげん の概念 がいねん を欠 か きながら、ある瞬間 しゅんかん の速度 そくど を『もし ……与 あた えられた瞬間 しゅんかん に動 うご く速度 そくど が同 おな じ度合 どあ いで均一 きんいつ に動 うご くならば、[物体 ぶったい が]描 えが くであろう 軌道 きどう により』測定 そくてい することを提案 ていあん した[41] 。
ヘイツベリーらは、均一 きんいつ に動作 どうさ を加速 かそく する物体 ぶったい が移動 いどう する距離 きょり (現代 げんだい では積分 せきぶん 法 ほう で解決 かいけつ できる)を数学 すうがく 的 てき に測定 そくてい し、『均一 きんいつ に[速度 そくど の]増分 ぞうぶん を加速 かそく または減速 げんそく する物体 ぶったい が、与 あた えられた時間 じかん で移動 いどう する[距離 きょり ]は、平均 へいきん の[速度 そくど の]度合 どあ いで同 おな じ時間 じかん の間 あいだ 継続 けいぞく して動作 どうさ するものと完全 かんぜん に等 ひと しい』と述 の べた[41] 。
パリ大学 だいがく のニコル・オレーム とイタリア人 じん のカサーリのジョバンニはそれぞれ、この関係 かんけい を図示 ずし し、一定 いってい の加速 かそく を描 えが く線 せん の下 した の領域 りょういき が、総 そう 移動 いどう 距離 きょり を示 しめ すことを主張 しゅちょう した[41] 。後 のち にエウクレイデスの『原論 げんろん 』の数学 すうがく 的 てき 解説 かいせつ 書 しょ で、オレームはより詳細 しょうさい な全体 ぜんたい 的 てき 分析 ぶんせき を行 おこな い、物体 ぶったい は各々 おのおの の継続 けいぞく した増分 ぞうぶん の時間 じかん で奇数 きすう として増加 ぞうか する特性 とくせい の増分 ぞうぶん を得 え ることを論証 ろんしょう した。エウクレイデスは(一定 いってい 量 りょう 以下 いか のすべての)奇数 きすう の和 わ は平方 へいほう 数 すう になることを証明 しょうめい したため、物体 ぶったい の増分 ぞうぶん で得 え る特性 とくせい の総計 そうけい は時間 じかん の二乗 にじょう で増加 ぞうか する[43] 。
近代 きんだい ヨーロッパ数学 すうがく (西暦 せいれき 1400〜1600年 ねん 頃 ごろ )[ 編集 へんしゅう ]
ルネサンス 初期 しょき のヨーロッパでは、数学 すうがく はまだローマ数字 すうじ を使用 しよう した扱 あつか いにくい記法 きほう に制限 せいげん され、記号 きごう を使用 しよう せずに単語 たんご で関係 かんけい を説明 せつめい していた:プラス記号 きごう 、等号 とうごう 、未知数 みちすう を示 しめ す
x
{\displaystyle x}
は使 つか われなかった[30] 。
16世紀 せいき 末 まつ までに、特 とく にレギオモンタヌス (1436年 ねん -1476年 ねん )とフランソワ・ビエト (1540年 ねん -1603年 ねん )の貢献 こうけん により、数学 すうがく は現在 げんざい 使用 しよう される記法 きほう と相違 そうい の少 すく ないインド・アラビア数字 すうじ を使用 しよう して記述 きじゅつ されるようになった。
16世紀 せいき のヨーロッパの数学 すうがく 者 しゃ は、今日 きょう 知 し られているように、他 た の世界 せかい に先例 せんれい の無 な い進歩 しんぽ を始 はじ めた。その最初 さいしょ は三 さん 次 じ 関数 かんすう の一般 いっぱん 解法 かいほう であり、一般 いっぱん に1510年 ねん 頃 ごろ のシピオーネ・デル・フェッロ の功績 こうせき とされているが、最初 さいしょ の出版 しゅっぱん はニュルンベルク のヨハネス・ペトレイアスによるジェロラモ・カルダーノ の『偉大 いだい なる術 じゅつ 』であり、これにはカルダーノの弟子 でし ルドヴィコ・フェラーリ による四 よん 次 じ 方程式 ほうていしき の一般 いっぱん 解法 かいほう も含 ふく まれていた。
この時点 じてん から、数学 すうがく の発展 はってん は迅速 じんそく となり、同 どう 時代 じだい の自然 しぜん 科学 かがく における進歩 しんぽ に貢献 こうけん した。この進歩 しんぽ は印刷 いんさつ の発展 はってん に大 おお いに支援 しえん された。最初 さいしょ に出版 しゅっぱん された数学 すうがく の本 ほん は1472年 ねん のゲオルク・プールバッハ の『惑星 わくせい の新 しん 理論 りろん 』であり、商業 しょうぎょう 算術 さんじゅつ の本 ほん である1478年 ねん の『トレヴィーゾ算術 さんじゅつ 書 しょ 』が続 つづ き、最初 さいしょ の数学 すうがく 書 しょ であるエウクレイデス のユークリッド原論 げんろん は1482年 ねん にラトドルトにより出版 しゅっぱん された。
航行 こうこう の要求 ようきゅう と広範囲 こうはんい に及 およ ぶ正確 せいかく な地図 ちず の必要 ひつよう 性 せい の増加 ぞうか を動機 どうき とし、三角 さんかく 法 ほう が数学 すうがく の主要 しゅよう な部門 ぶもん となった。ピティスクス (Bartholomaeus Pitiscus ) がこの語 かたり を、1595年 ねん に出版 しゅっぱん した『三角 さんかく 法 ほう 』(Trigonometria ) で最初 さいしょ に使用 しよう した。レギオモンタヌスの正弦 せいげん および余弦 よげん の表 ひょう は1533年 ねん に出版 しゅっぱん された[44] 。
アイザック・ニュートン
17世紀 せいき には、ヨーロッパ全体 ぜんたい で数学 すうがく 的 てき および科学 かがく 的 てき 概念 がいねん の空前 くうぜん の爆発 ばくはつ 的 てき 発展 はってん が見 み られた。書簡 しょかん によって、あるいはこのころ確立 かくりつ された印刷 いんさつ 技術 ぎじゅつ によって新 あたら しいアイデアは迅速 じんそく に広 ひろ まり、他 た の学者 がくしゃ からの批判 ひはん や拡張 かくちょう の試 こころ みなど数学 すうがく 者 しゃ 間 あいだ の交流 こうりゅう によって学問 がくもん の進展 しんてん が盛 さか んになった。17世紀 せいき のヨーロッパ数 すう 学会 がっかい における数学 すうがく 者 しゃ 間 あいだ の交流 こうりゅう においてマラン・メルセンヌ を中心 ちゅうしん とした定期 ていき 的 てき な集 あつ まりと書簡 しょかん の交流 こうりゅう は大 おお きな役割 やくわり を果 は たしている。
イタリア人 じん のガリレオ・ガリレイ は、オランダからの輸入 ゆにゅう をもとにした望遠鏡 ぼうえんきょう を使用 しよう して、木星 もくせい の衛星 えいせい が軌道 きどう を描 えが くことを観測 かんそく した。ティコ・ブラーエ は、惑星 わくせい の天空 てんくう 中 ちゅう における位置 いち を記述 きじゅつ する膨大 ぼうだい な量 りょう の数値 すうち データを収集 しゅうしゅう した。彼 かれ の助手 じょしゅ であるドイツ人 じん のヨハネス・ケプラー はこのデータで研究 けんきゅう を始 はじ めたが、スコットランドのジョン・ネイピア は、ケプラーの計算 けいさん を助 す けようとする試 こころ みもあって、歴史 れきし 上 じょう 最初 さいしょ に自然 しぜん 対数 たいすう の研究 けんきゅう を行 おこな った。ケプラーは惑星 わくせい 運動 うんどう の数学 すうがく 的 てき 規則 きそく をケプラーの法則 ほうそく として定式 ていしき 化 か することに成功 せいこう した。
フランス人 じん の数学 すうがく 者 しゃ ピエール・ド・フェルマー と哲学 てつがく 者 しゃ でもあるルネ・デカルト によって解析 かいせき 幾何 きか 学 がく が開発 かいはつ され、惑星 わくせい の軌道 きどう を直交 ちょっこう 座標 ざひょう 系 けい において描 えが きとらえることができるようになった。多 おお くの数学 すうがく 者 しゃ によるそれまでの研究 けんきゅう に立脚 りっきゃく し、イングランドのアイザック・ニュートン はケプラーの法則 ほうそく を説明 せつめい する物理 ぶつり 法則 ほうそく を発見 はっけん し、現在 げんざい の微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく として知 し られる概念 がいねん を寄 よ せ集 あつ めた。これとは独立 どくりつ に、ドイツではゴットフリート・ライプニッツ が微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく および現在 げんざい でも使用 しよう される微分 びぶん 積分 せきぶん の記法 きほう のほとんどを発明 はつめい した。この時代 じだい に科学 かがく と数学 すうがく は国境 こっきょう を越 こ えた営 いとな みとなり、すぐに全 ぜん 世界 せかい に広 ひろ まった[33] 。
天文学 てんもんがく の研究 けんきゅう への数学 すうがく の応用 おうよう に加 くわ え、フェルマーとブレーズ・パスカル の交流 こうりゅう により、応用 おうよう 数学 すうがく が新 あら たな領域 りょういき に拡大 かくだい を始 はじ めた。パスカルとフェルマーはギャンブルのゲームに関 かん する議論 ぎろん で、確率 かくりつ 論 ろん と対応 たいおう する組合 くみあわ せ数学 すうがく の研究 けんきゅう の土台 どだい を築 きず いた。パスカルは、成功 せいこう の確 かく 率 りつ がわずかであっても報酬 ほうしゅう の期待 きたい 値 ち が無限 むげん であるような確率 かくりつ 論 ろん 的 てき 設定 せってい の存在 そんざい を根拠 こんきょ に、人生 じんせい を宗教 しゅうきょう に捧 ささ げることの正当 せいとう 性 せい を論証 ろんしょう しようと試 こころ みた。ある意味 いみ で、これは18世紀 せいき から19世紀 せいき における功利 こうり 主義 しゅぎ の発展 はってん の前兆 ぜんちょう であったともいえる。
17世紀 せいき のヨーロッパの大学 だいがく の教授 きょうじゅ は哲学 てつがく 者 しゃ が主 おも であり、数学 すうがく 者 しゃ たちの多 おお くは王立 おうりつ 協会 きょうかい などの君主 くんしゅ たちによって設立 せつりつ されたアカデミーに関係 かんけい していた。
レオンハルト・オイラー
上 うえ で見 み たように、自然 しぜん 数 すう 1、2、3、… に関 かん する知識 ちしき は現存 げんそん するどんな文書 ぶんしょ よりも古 ふる い石板 せきばん に残 のこ されている。メソポタミア、エジプト、インド、中国 ちゅうごく など最古 さいこ の文明 ぶんめい は、算術 さんじゅつ を知 し っていた。
現代 げんだい 数学 すうがく の様々 さまざま な数 すう 体系 たいけい の発展 はってん について可能 かのう な考察 こうさつ として、古 ふる い数 かず で行 おこな われた演算 えんざん に関 かん する質問 しつもん に答 こた えるために新 あたら しい数 かず が研究 けんきゅう ・調査 ちょうさ されてきた、というものが挙 あ げられる。有史 ゆうし 以前 いぜん にすでに「3を掛 か けられ、答 こた えが1になる数 かず は?」という問 と いにこたえるものとして、分数 ぶんすう が用 もち いられた。また、インドと中国 ちゅうごく 、はるか遅 おそ くにドイツで、「大 おお きな数 かず を小 ちい さな数 かず から引 ひ いたときの答 こた えは?」という問 と いの答 こたえ として負 まけ の数 かず が開発 かいはつ された。ほかに挙 あ げられる自然 しぜん な質問 しつもん は:「2の平方根 へいほうこん はどんな種類 しゅるい の数 かず か?」 ギリシア人 じん はそれが分数 ぶんすう でないことを知 し っており、この質問 しつもん は連分数 れんぶんすう の理論 りろん の発展 はってん に動機 どうき を与 あた えたともいえる。しかし、よりよい回答 かいとう はジョン・ネイピア (1550年 ねん -1617年 ねん )が開発 かいはつ し、後 のち にシモン・ステヴィン (Simon Stevin ) が完成 かんせい した小数 しょうすう の発明 はつめい でもたらされた。小数 しょうすう 、および極限 きょくげん の観念 かんねん を予期 よき した概念 がいねん を使用 しよう して、ネイピアは新 あたら しい定数 ていすう を研究 けんきゅう し、これをレオンハルト・オイラー (1707年 ねん -1783年 ねん )はネイピア数 すう e と命名 めいめい した。
17世紀 せいき に創始 そうし された微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく はオイラーをはじめとする18世紀 せいき の数学 すうがく 者 しゃ たちによってさらに発展 はってん させられた。オイラーによって書 か かれた3冊 さつ の解析 かいせき 学 がく の教科書 きょうかしょ やダランベールとオイラーの間 あいだ で議論 ぎろん された波動 はどう 方程式 ほうていしき の考察 こうさつ によって、17世紀 せいき の幾何 きか 学 がく 的 てき な変 へん 分 ぶん についての微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく の体系 たいけい はより抽象 ちゅうしょう 的 てき な、1変数 へんすう ないし多 た 変数 へんすう の関数 かんすう によって与 あた えられる解析 かいせき 的 てき な対象 たいしょう の研究 けんきゅう へと変貌 へんぼう していった。
18世紀 せいき の確率 かくりつ 論 ろん はヤコブ・ベルヌーイ 、ド・モアブル 、トーマス・ベイズ 、ピエール=シモン・ラプラス らの手 て によって、解析 かいせき 学 がく の成果 せいか を取 と り込 こ み発展 はってん させられた。この時代 じだい の成果 せいか に蓋然的 がいぜんてき 確実 かくじつ 性 せい (ベルヌーイ)、確 かく 率 りつ 評価 ひょうか 精度 せいど の理論 りろん (ド・モアブル)、統計 とうけい 的 てき 推定 すいてい (ベイズ、ラプラス)などがある。
3つの幾何 きか 学 がく における共通 きょうつう 垂線 すいせん を持 も つ直線 ちょくせん のふるまい
19世紀 せいき の間 あいだ に、数学 すうがく は更 さら に抽象 ちゅうしょう 的 てき になった。19世紀 せいき は最高 さいこう の数学 すうがく 者 しゃ の一人 ひとり と数 かぞ えられるカール・フリードリヒ・ガウス (1777年 ねん -1855年 ねん )の時代 じだい でもある。自然 しぜん 科学 かがく への多数 たすう の貢献 こうけん を別 べつ にしても、純粋 じゅんすい 数学 すうがく において彼 かれ は複素 ふくそ 解析 かいせき 学 まなべ 、幾何 きか 学 がく 、および級数 きゅうすう の収束 しゅうそく について革新 かくしん 的 てき な業績 ぎょうせき を残 のこ した。彼 かれ は代数 だいすう 学 がく の基本 きほん 定理 ていり と平方 へいほう 剰余 じょうよ の相互 そうご 法則 ほうそく に、最初 さいしょ の満足 まんぞく できる証明 しょうめい を与 あた えた。
19世紀 せいき にはユークリッド幾何 きか 学 がく の平行 へいこう 線 せん 公理 こうり が成立 せいりつ しないような非 ひ ユークリッド幾何 きか 学 がく の2つの形式 けいしき が発見 はっけん された。ロシア人数 にんずう 学者 がくしゃ のニコライ・ロバチェフスキー と彼 かれ のライバルであるハンガリー人数 にんずう 学者 がくしゃ のボーヤイ・ヤーノシュ は、独立 どくりつ に平行 へいこう 線 せん の一意 いちい 性 せい が成立 せいりつ しないような双 そう 曲 きょく 幾何 きか 学 がく を発見 はっけん した。この幾何 きか 学 がく においては三角形 さんかっけい の内角 ないかく の和 わ は180度 ど 未満 みまん である。楕円 だえん 幾何 きか 学 がく は19世紀 せいき 後期 こうき に、ドイツ人数 にんずう 学者 がくしゃ のベルンハルト・リーマン によって開発 かいはつ されたが、ここでは平行 へいこう 線 せん は存在 そんざい せず、この幾何 きか 学 がく では三角形 さんかっけい の内角 ないかく の和 わ は180度 ど を超過 ちょうか する。リーマンはまた、3つの形式 けいしき の幾何 きか 学 がく を統一 とういつ して膨大 ぼうだい に普遍 ふへん 化 か するリーマン幾何 きか 学 がく を開発 かいはつ し、曲線 きょくせん と表面 ひょうめん の概念 がいねん を普遍 ふへん 化 か した多様 たよう 体 たい の概念 がいねん を定義 ていぎ した。
19世紀 せいき はまた、新 あら たな抽象 ちゅうしょう 代 だい 数学 すうがく の始 はじ まりの時代 じだい でもあった。ウィリアム・ローワン・ハミルトン によって非 ひ 可 か 換 かわ 代数 だいすう の概念 がいねん が発展 はってん させられたし、一方 いっぽう でイギリスの数学 すうがく 者 しゃ ジョージ・ブール によってブール論理 ろんり が開発 かいはつ された。ブール論理 ろんり は0と1の二 ふた つの数 かず からなる体系 たいけい であり、今日 きょう の計算 けいさん 機 き 科学 かがく において重要 じゅうよう な応用 おうよう を持 も っている。
数学 すうがく における新 あら たな傾向 けいこう に加 くわ えて、過去 かこ の数学 すうがく 、特 とく に微分 びぶん 積分 せきぶん 学 がく について、オーギュスタン=ルイ・コーシー とカール・ワイエルシュトラス 、ベルンハルト・リーマン らによってより強固 きょうこ な基礎 きそ 理論 りろん が与 あた えられた。
また、数学 すうがく の限界 げんかい が初 はじ めて探求 たんきゅう された。ノルウェー人 じん のニールス・アーベル とフランス人 じん のエヴァリスト・ガロア は、五 ご 次 じ 以上 いじょう の代数 だいすう 方程式 ほうていしき には一般 いっぱん 的 てき な代数 だいすう 的 てき 解法 かいほう が無 な いことを証明 しょうめい した。他 た の19世紀 せいき の数学 すうがく 者 しゃ はこの証明 しょうめい を応用 おうよう して、定規 じょうぎ とコンパスのみで任意 にんい の角度 かくど を三 さん 等分 とうぶん できないこと、与 あた えられた立方体 りっぽうたい の2倍 ばい の体積 たいせき を持 も つ立方体 りっぽうたい を構成 こうせい できないこと、与 あた えられた円 えん の面積 めんせき と等 ひと しい正方形 せいほうけい を構成 こうせい することができないことを証明 しょうめい した。古代 こだい ギリシャ時代 じだい 以来 いらい の多 おお くの数学 すうがく 者 しゃ によるこれらの問題 もんだい を解 と こうとする試 こころ みはついえることになった。
アーベルとガロアによる様々 さまざま な多項式 たこうしき 解法 かいほう の研究 けんきゅう は、群論 ぐんろん および抽象 ちゅうしょう 代 だい 数学 すうがく の関連 かんれん 分野 ぶんや の更 さら なる発展 はってん の土台 どだい を築 きず いた。20世紀 せいき の物理 ぶつり 学者 がくしゃ と科学 かがく 者 しゃ は、群論 ぐんろん を対称 たいしょう 性 せい を研究 けんきゅう する理想 りそう 的 てき な枠組 わくぐ みとみなした。
19世紀 せいき の終 お わりに向 む かって、ゲオルク・カントール は集合 しゅうごう 論 ろん を確立 かくりつ し、異 こと なる数学 すうがく 分野 ぶんや での共通 きょうつう 言語 げんご をあたえた。無限 むげん 集合 しゅうごう の導入 どうにゅう は数学 すうがく 基礎 きそ 論 ろん における論争 ろんそう を引 ひ き起 お こした。
19世紀 せいき には最初 さいしょ の数学 すうがく の学会 がっかい の設立 せつりつ が見 み られた。1865年 ねん にロンドン数 すう 学会 がっかい 、1872年 ねん にフランス数 すう 学会 がっかい 、1884年 ねん にパレルモ数 すう 学会 がっかい 、1883年 ねん にエディンバラ数 すう 学会 がっかい 、1888年 ねん にアメリカ数 すう 学会 がっかい が設立 せつりつ された。前 ぜん 世紀 せいき の数学 すうがく 者 しゃ たちがアカデミーに属 ぞく していたのとは異 こと なり、19世紀 せいき の数学 すうがく 者 しゃ たちはおもにエコール・ポリテクニーク などの高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん に属 ぞく して活動 かつどう するようになった。また、この時代 じだい の数学 すうがく 的 てき な成果 せいか はクレレによって創刊 そうかん された Journal für die reine und angewandte Mathematik をはじめとする学術 がくじゅつ 誌 し において発表 はっぴょう されるようになった。
四 よん 色 しょく 定理 ていり を示 しめ す図 ず
20世紀 せいき 以前 いぜん は、世界中 せかいじゅう のいかなるときも、創造 そうぞう 的 てき な数学 すうがく 者 しゃ はほんのわずかであった。ほとんどの場合 ばあい 、数学 すうがく 者 しゃ はネイピアのように富裕 ふゆう 層 そう に属 ぞく していたか、またはガウスのように裕福 ゆうふく な支援 しえん 者 しゃ を持 も っていた。フーリエのように大学 だいがく 教授 きょうじゅ で生計 せいけい を得 え るものはほとんどおらず、地位 ちい を得 え ることができなかったニールス・ヘンリック・アーベル は、栄養 えいよう 不良 ふりょう と結核 けっかく により貧困 ひんこん の下 した 26歳 さい で世 よ を去 さ った。20世紀 せいき になって、数学 すうがく 者 しゃ という職業 しょくぎょう が社会 しゃかい の中 なか で占 し める位置 いち は前 まえ より遥 はる かに大 おお きなものとなった。毎年 まいとし 、何 なん 百 ひゃく もの新 あたら しい数学 すうがく 博士 はかせ 号 ごう が与 あた えられ、教職 きょうしょく と産業 さんぎょう の両方 りょうほう で仕事 しごと があった。数学 すうがく の発展 はってん は幾何級数 きかきゅうすう 的 てき に増加 ぞうか した。あまりにも多 おお くの新 あら たな開発 かいはつ があり、最 もっと も意味 いみ 深 ふか いいくつかに言及 げんきゅう し概観 がいかん する。
1900年 ねん に、ダフィット・ヒルベルト は国際 こくさい 数 すう 学者 がくしゃ 会議 かいぎ においてヒルベルトの23の問題 もんだい を提示 ていじ した。この問題 もんだい は、数学 すうがく の多 おお くの領域 りょういき にまたがり、20世紀 せいき の数学 すうがく の多 おお くに対 たい する関心 かんしん の的 まと となった。今日 きょう 、10の問題 もんだい が解決 かいけつ され、7つが部分 ぶぶん 的 てき に解決 かいけつ され、2つが未解決 みかいけつ である。残 のこ る4つについては定式 ていしき 化 か が曖昧 あいまい なため解決 かいけつ か未解決 みかいけつ かを述 の べることは不可能 ふかのう である。
1910年代 ねんだい 、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン (1887年 ねん -1920年 ねん )は、3,000を超 こ える定理 ていり を開発 かいはつ した。これには高度 こうど 合成 ごうせい 数 すう の固有 こゆう 性 せい 、整数 せいすう 分割 ぶんかつ とその漸 すすむ 化 か 解析 かいせき 、擬 なずらえ テータ関数 かんすう (Ramanujan theta function ) が含 ふく まれる。彼 かれ はまた、ガンマ関数 かんすう 、モジュラー形式 けいしき 、 発散 はっさん 級数 きゅうすう 、超 ちょう 幾何級数 きかきゅうすう 、および素数 そすう 定理 ていり の大 おお きな進展 しんてん と発見 はっけん を行 おこな った。
1930年代 ねんだい 以降 いこう 、フランスの数学 すうがく 者 しゃ たちによって結成 けっせい された「ブルバキ」グループは、ニコラ・ブルバキ という偽名 ぎめい の下 した に一連 いちれん の教科書 きょうかしょ を出版 しゅっぱん し、集合 しゅうごう 論 ろん に基 もと づいて様々 さまざま な数学 すうがく の分野 ぶんや を統一 とういつ 的 てき に記述 きじゅつ しようと試 こころ みた。彼 かれ らの広範 こうはん な分野 ぶんや に渡 わた る著作 ちょさく のスタイルは、数学 すうがく 教育 きょういく のあり方 かた にも影響 えいきょう を与 あた え、論争 ろんそう の的 まと となった[45] 。
1931年 ねん に、クルト・ゲーデル は、数理 すうり 論理 ろんり 学 がく における形式 けいしき 的 てき 体系 たいけい の限界 げんかい を述 の べる2つのゲーデルの不完全性 ふかんぜんせい 定理 ていり を発表 はっぴょう した。これによってダフィット・ヒルベルトが夢 ゆめ みた、基礎 きそ 論 ろん に基 もと づく全 すべ ての数学 すうがく 体系 たいけい の矛盾 むじゅん のない記述 きじゅつ を求 もと める試 こころ みは死亡 しぼう 宣告 せんこく を受 う けることになった。また、ゲーデルとポール・コーエン によって、連続 れんぞく 体 たい 仮説 かせつ がツェルメロ・フレンケルの公理系 こうりけい (Zermelo–Fraenkel set theory ) からは証明 しょうめい も反証 はんしょう もできないことが示 しめ された。
過去 かこ の有名 ゆうめい な予想 よそう のうちいくつかは、20世紀 せいき になって開発 かいはつ されたより強力 きょうりょく な技法 ぎほう によって解決 かいけつ されることになった。ヴォルフガング・ハーケン とケネス・アッペルは、1976年 ねん にコンピュータ を使用 しよう して四 よん 色 しょく 定理 ていり を証明 しょうめい した。 アンドリュー・ワイルズ は数 すう 年 ねん にわたる独力 どくりょく の研究 けんきゅう で、1995年 ねん にフェルマーの最終 さいしゅう 定理 ていり を証明 しょうめい した。また、20世紀 せいき になって数学 すうがく の共同 きょうどう 研究 けんきゅう はかつてない規模 きぼ で行 おこな われるようになった。有限 ゆうげん 単純 たんじゅん 群 ぐん の分類 ぶんるい (Classification of finite simple groups ) の理論 りろん は1955年 ねん から1983年 ねん の間 あいだ に発行 はっこう された、約 やく 100人 にん の執筆 しっぴつ による500余 あま りの雑誌 ざっし 記事 きじ からなるが、その総体 そうたい は何 なん 万 まん ページにもわたる。
数理 すうり 論 ろん 理学 りがく 、位相 いそう 幾何 きか 学 がく 、カオス理論 りろん 、ゲーム理論 りろん のような全 まった く新 あたら しい数学 すうがく の分野 ぶんや が、数学 すうがく 的 てき 手法 しゅほう で回答 かいとう できる質問 しつもん の種類 しゅるい を変化 へんか させた。20世紀 せいき の終 お わりまでに、数学 すうがく は芸術 げいじゅつ の域 いき にさえ達 たっ した。フラクタル 幾何 きか は、それまで見 み たことのないような美 うつく しいフラクタルアート を与 あた える。
21世紀 せいき 初期 しょき 、多 おお くの教育 きょういく 者 しゃ が新 あら たな貧困 ひんこん 層 そう の数学 すうがく 的 てき ・科学 かがく 的 てき 無 む 教養 きょうよう に関 かん する心配 しんぱい を述 の べている[46] 。一方 いっぽう で、数学 すうがく 、科学 かがく 、工学 こうがく 、および科学 かがく 技術 ぎじゅつ が相互 そうご に知識 ちしき 、情報 じょうほう を作 つく り上 あ げ、古代 こだい 哲学 てつがく 者 しゃ が夢 ゆめ にも見 み なかった繁栄 はんえい がもたらされている。
2003年 ねん に、グリゴリー・ペレルマン がミレニアム懸賞 けんしょう 問題 もんだい の一 ひと つであるポアンカレ予想 よそう を証明 しょうめい した。
2007年 ねん 3月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に、北米 ほくべい と欧州 おうしゅう 中 ちゅう の研究 けんきゅう 者 しゃ チームがコンピュータネットワーク を使用 しよう して、E 8 (E₈ ) (248次元 じげん の例外 れいがい 型 がた 単純 たんじゅん リー環 たまき )の指標 しひょう 表 ひょう を決定 けってい した[47] 。この E 8 の理解 りかい がどのように応用 おうよう できるかはまだ正確 せいかく に知 し られていないが、この発見 はっけん は現代 げんだい 数学 すうがく のチームワークと計算 けいさん 機 き 科学 かがく 双方 そうほう の大 おお きな業績 ぎょうせき である。
2009年 ねん 、 ゴ・バオ・チャウ により、ラングランズ・プログラム の基本 きほん 補題 ほだい に数学 すうがく 的 てき 証明 しょうめい が与 あた えられた[48] 。
2013年 ねん 、テレンス・タオ が素数 そすう が極端 きょくたん に偏 かたよ ることなく分布 ぶんぷ することに関 かん する素数 そすう の新 しん 定理 ていり 発見 はっけん [49] [50] [51] 。
2019年 ねん 、 ルイス・モーデル が提唱 ていしょう した「3つの立法 りっぽう 数 すう を足 た し引 び きすること により、1~100の数 かず をすべてつくれるか」という問題 もんだい で、最後 さいご まで残 のこ っていた42が世界中 せかいじゅう のコンピュータ50万 まん 台 だい をつなぐグリッド・コンピューティング で発見 はっけん される[52] 。
2019年 ねん 12月、テレンス・タオが「コラッツの問題 もんだい 」について偏 へん 微分 びぶん 方程式 ほうていしき を用 もち いて、「ほとんどすべての正 せい の整数 せいすう において正 ただ しい」とする論文 ろんぶん を発表 はっぴょう した[53] 。
数学 すうがく において観 み られる多 おお くの傾向 けいこう がある、最 もっと も注目 ちゅうもく されるのは、次 つぎ のことである:分野 ぶんや が永続 えいぞく 的 てき に巨大 きょだい 化 か し、コンピュータが永続 えいぞく 的 てき に大 おお いに重要 じゅうよう に、そして強力 きょうりょく になる、生命 せいめい 情報 じょうほう 科学 かがく への数学 すうがく の応用 おうよう は急速 きゅうそく に拡大 かくだい している、そしてコンピュータによって促進 そくしん された、科学 かがく と産業 さんぎょう での生 う まれたデータの量 りょう は、爆発 ばくはつ 的 てき に拡大 かくだい している[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ いわゆる「ホーナーの近似 きんじ 解法 かいほう 」のこと
^ 1254年 ねん に改訂 かいてい 版 ばん が出 で た。
^ Henahan, Sean (2002年 ねん ). “Art Prehistory ”. Science Updates . The National Health Museum. 2006年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん 。
^ An old mathematical object
^ Mathematics in (central) Africa before colonization [リンク切 き れ ]
^ Kellermeier, John (2003年 ねん ). “How Menstruation Created Mathematics ”. Ethnomathematics . Tacoma Community College. 2006年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん 。 [リンク切 き れ ]
^ Williams, Scott W. (2005年 ねん ). “The Oledet Mathematical Object is in Swaziland ”. MATHEMATICIANS OF THE AFRICAN DIASPORA . SUNY Buffalo mathematics department. 2006年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Williams, Scott W. (2005年 ねん ). “An Old Mathematical Object ”. MATHEMATICIANS OF THE AFRICAN DIASPORA . SUNY Buffalo mathematics department. 2006年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Thom, Alexander and Archie Thom, "The metrology and geometry of Megalithic Man", pp 132-151 in C.L.N. Ruggles, ed., Records in Stone: Papers in memory of Alexander Thom , (Cambridge: Cambridge Univ. Pr., 1988) ISBN 0-521-33381-4
^ Pearce, Ian G. (2002年 ねん ). “Early Indian culture - Indus civilisation ”. Indian Mathematics: Redressing the balance . School of Mathematical and Computational Sciences University of St Andrews. 2006年 ねん 5月 がつ 6日 にち 閲覧 えつらん 。 [リンク切 き れ ]
^ http://www.saxakali.com/COLOR_ASP/chinamh1.htm [リンク切 き れ ]
^ The use of the decimal system [リンク切 き れ ]
^ a b 銭 ぜに 宝 たから 琮 編 へん 、川原 かわはら 秀 しげる 城 しろ 訳 やく 『中国 ちゅうごく 数学 すうがく 史 し 』みすず書房 しょぼう 、1990年 ねん 。ISBN 4-622-04083-2 。
^ Sir Thomas L. Heath, A Manual of Greek Mathematics , Dover, 1963, p 1, 「数学 すうがく に関 かん しては、ギリシア人 じん による貢献 こうけん が最 もっと も本質 ほんしつ 的 てき であろう。ギリシア人 じん によって初 はじ めて数学 すうがく が科学 かがく として確立 かくりつ された。」
^ Duncan J. Melville (2003). Third Millennium Chronology , Third Millennium Mathematics . en:St. Lawrence University . [リンク切 き れ ]
^ Aaboe, Asger (1998). Episodes from the Early History of Mathematics . New York: Random House. pp. 30-31
^ a b ヴィクター J. カッツ 著 ちょ 、中根 なかね 美知代 みちよ 、上野 うえの 健 けん 爾 しか ほか 訳 やく 『数学 すうがく の歴史 れきし 』共立 きょうりつ 出版 しゅっぱん 、東京 とうきょう 、2005年 ねん 。ISBN 4-320-01765-X 。
^ Rhind Papyrus
^ http://mathpages.com/home/rhind.htm 参照 さんしょう [リンク切 き れ ]
^ http://mathpages.com/home/rhind.htm [リンク切 き れ ]
^ Egyptian Papyri
^ Egyptian Algebra - Mathematicians of the African Diaspora
^ http://www.hum.ku.dk/cni/papcoll/high008.html [リンク切 き れ ]
^ AAMS - Australian Academy of Medicine and Surgery [リンク切 き れ ]
^ Egyptian Mathematical Papyri - Mathematicians of the African Diaspora
^ The History of Algebra Archived 2014年 ねん 10月 がつ 9日 にち , at the Wayback Machine .. Louisiana State University .
^ F. Woepcke (1853). Extrait du Fakhri, traité d'Algèbre par Abou Bekr Mohammed Ben Alhacan Alkarkhi . Paris .
^ Victor J. Katz (1995). "Ideas of Calculus in Islam and India", Mathematics Magazine 68 (3), p. 163-174.
^ Syed, M. H. (2005). Islam and Science . Anmol Publications PVT. LTD.. pp. 71. ISBN 8-1261-1345-6
^ Arabic mathematics : forgotten brilliance?
^ 4: Mathematics in the service of religion: I. Vedas and Vedangas [リンク切 き れ ]
^ a b Jeff Miller. “Earliest Uses of Various Mathematical Symbols ” (英語 えいご ). 2008年 ねん 9月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。 [リンク切 き れ ]
^ 林 はやし 澐 (1990). "新版 しんぱん 《金文 きんぶん 編 へん 》正文 せいぶん 部分 ぶぶん 釈 しゃく 字 じ 商 しょう 榷". 中国 ちゅうごく 古 こ 文字 もじ 学会 がっかい 第 だい 八 はち 届 とどけ 年会 ねんかい 論文 ろんぶん .
^ 黄 き 徳 とく 寛 ひろし (2007), 古 こ 文字 もじ 譜 ふ 系 けい 疏証 , 北京 ぺきん : 商務 しょうむ 印 しるし 書 しょ 館 かん , pp. 2774–2775, ISBN 978-7-100-05471-3
^ a b c d Eves, Howard (1990). An Introduction to the History of Mathematics . Saunders. ISBN 0-03-029558-0
^ Martin Bernal, "Animadversions on the Origins of Western Science", pp. 72-83 in Michael H. Shank, ed., The Scientific Enterprise in Antiquity and the Middle Ages , (Chicago: Univ. of Chicago Pr.) 2000, on mathematical proofs see p. 75.
^ The Bible, Authorized Version King James, Wisdom of Solomon 11:20 "... thou hast ordered all things in measure and number and weight."
^ Caldwell, John (1981) "The De Institutione Arithmetica and the De Institutione Musica ", pp. 135-154 in Margaret Gibson, ed., Boethius: His Life, Thought, and Influence, (Oxford: Basil Blackwell).
^ Folkerts, Menso, "Boethius" Geometrie II , (Wiesbaden: Franz Steiner Verlag, 1970).
^ Marie-Thérèse d'Alverny, "Translations and Translators", pp. 421-462 in Robert L. Benson and Giles Constable, Renaissance and Renewal in the Twelfth Century , (Cambridge: Harvard Univ. Pr., 1982)
^ Guy Beaujouan, The Transformation of the Quadrivium", pp. 463-487 in Robert L. Benson and Giles Constable, Renaissance and Renewal in the Twelfth Century , (Cambridge: Harvard Univ. Pr., 1982)
^ Grant, Edward and John E. Murdoch (1987), eds., Mathematics and its applications to science and natural philosophy in the Middle Ages, (Cambridge: Cambridge University Press) ISBN 0-521-32260-X .
^ a b c d Clagett, Marshall (1961). The Science of Mechanics in the Middle Ages . Madison: Univ. of Wisconsin Press
^ Murdoch, John E. (1969) "Mathesis in Philosophiam Scholasticam Introducta: The Rise and Development of the Application of Mathematics in Fourteenth Century Philosophy and Theology", pp. 215-254 in Arts libéraux et philosophie au Moyen Âge (Montréal: Institut d'Études Médiévales), at pp. 224-227.
^ Nicole Oresme, "Questions on the Geometry of Euclid" Q. 14, pp. 560-5 in Marshall Clagett, ed., Nicole Oresme and the Medieval Geometry of Qualities and Motions, (Madison: Univ. of Wisconsin Pr., 1968).
^ Grattan-Guinness, Ivor (1997). The Rainbow of Mathematics: A History of the Mathematical Sciences . W.W. Norton. ISBN 0-393-32030-8
^ Maurice Mashaal, Bourbaki: A Secret Society of Mathematicians , American Mathematical Society, 2006, ISBN 0-8218-3967-5 , ISBN 978-0821839676 .
^ Estela A. Gavosto, Steven G. Krantz, William McCallum, Editors, Contemporary Issues in Mathematics Education , Cambridge University Press, 1999, ISBN 0-521-65471-8
^ Elizabeth A. Thompson, MIT News Office, Math research team maps E8 http://web.mit.edu/newsoffice/2007/e8.html
^ Laumon, G.; Ngô, B. C. (2004), Le lemme fondamental pour les groupes unitaires , arXiv :math/0404454
^ “素数 そすう の新 しん 定理 ていり 発見 はっけん 極端 きょくたん な偏 かたよ りなく分布 ぶんぷ 米 べい 英 えい 数学 すうがく 者 しゃ 「夢 ゆめ のような成果 せいか 」” . スポーツニッポン . (2014年 ねん 2月 がつ 26日 にち ). http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/02/26/kiji/K20140226007668140.html 2014年 ねん 12月6日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “素数 そすう の間隔 かんかく で新 しん 定理 ていり 発見 はっけん 極端 きょくたん な偏 かたよ りなく分布 ぶんぷ 、米 べい 英 えい 数 すう 学者 がくしゃ ”. 47NEWS . (2014年 ねん 2月 がつ 26日 にち )
^ “素数 そすう の間隔 かんかく で新 しん 定理 ていり 発見 はっけん 極端 きょくたん な偏 かたよ りなく分布 ぶんぷ 、米 べい 英 えい 数 すう 学者 がくしゃ ”. 琉球新報 りゅうきゅうしんぽう . (2014年 ねん 2月 がつ 26日 にち )
^ “60年 ねん 解 と けなかった数学 すうがく の難題 なんだい 世界中 せかいじゅう のPCつなぎ解決 かいけつ ”. 朝日新聞 あさひしんぶん デジタル . 朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ (2019年 ねん 10月 がつ 24日 にち ). 2020年 ねん 4月 がつ 3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『Almost all orbits of the Collatz map attain almost bounded values』Terence Tao
A.アーボー 著 ちょ 、中村 なかむら 幸四郎 こうしろう 訳 やく 『古代 こだい の数学 すうがく 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、東京 とうきょう 、1971年 ねん 。
C. B. ボイヤー 著 ちょ 、加賀 かが 美 よし 鉄雄 てつお 、浦野 うらの 由 ゆかり 有 ゆう 訳 やく 『数学 すうがく の歴史 れきし 』 1-5巻 かん 、朝倉書店 あさくらしょてん 、東京 とうきょう 、1983-1985。
フロリアン・カジョリ 著 しる 、小倉 おぐら 金之助 きんのすけ 訳 わけ 『初等 しょとう 数学 すうがく 史 し 』 〈上 うえ 〉〈下 した 〉、共立 きょうりつ 出版 しゅっぱん 、東京 とうきょう 、1978年 ねん 。
ポール・ホフマン 著 ちょ 、平石 ひらいし 律子 りつこ 訳 やく 『放浪 ほうろう の天才 てんさい 数 すう 学者 がくしゃ エルデシュ』草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、東京 とうきょう 、2000年 ねん 。ISBN 4-7942-0950-9 。
Grattan-Guinness, Ivor (2003). Companion Encyclopedia of the History and Philosophy of the Mathematical Sciences . The Johns Hopkins University Press. ISBN 0-8018-7397-5
ファン・デル・ヴェルデン 著 ちょ 、加藤 かとう 文 ぶん 元 もと 、鈴木 すずき 亮太 りょうた 郎 ろう 訳 やく 『古代 こだい 文明 ぶんめい の数学 すうがく 』日本 にっぽん 評論 ひょうろん 社 しゃ 、東京 とうきょう 、2006年 ねん 。ISBN 4-535-78350-0 。
O'Connor, John J. and Robertson, Edmund F. The MacTutor History of Mathematics Archive .(en:MacTutor History of Mathematics archive も参照 さんしょう 。) このウェブサイトは、数学 すうがく の概念 がいねん に関 かん する伝記 でんき 、年表 ねんぴょう と歴史 れきし 記事 きじ を含 ふく んでいる。スコットランド セント・アンドルーズ大学 だいがく 数学 すうがく ・統計 とうけい 学部 がくぶ 。(または、歴史 れきし トピックのアルファベット順 じゅん リスト参照 さんしょう 。)
Stigler, Stephen M. (1990). The History of Statistics: The Measurement of Uncertainty before 1900 . Belknap Press. ISBN 0-674-40341-X
E.T.ベル 著 ちょ 、田中 たなか 勇 いさむ 、銀 ぎん 林 はやし 浩 ひろし 訳 やく 『数学 すうがく をつくった人 ひと びと』 1-4巻 かん 、東京 とうきょう 図書 としょ 、1962-1963。
Gillings, Richard J. (1972). Mathematics in the time of the pharaohs . Cambridge, MA: M.I.T. Press
Heath, Sir Thomas (1981). A History of Greek Mathematics . Dover. ISBN 0-486-24073-8
K.メニンガー 著 ちょ 、内 うち 林 はやし 政夫 まさお 訳 やく 『図説 ずせつ 数 すう の文化 ぶんか 史 し : 世界 せかい の数字 すうじ と計算 けいさん 法 ほう 』八坂 やさか 書房 しょぼう 、東京 とうきょう 、2001年 ねん 。ISBN 4-89694-471-2 。
Burton, David M. The History of Mathematics: An Introduction . McGraw Hill: 1997.
ヴィクター J. カッツ 著 ちょ 、中根 なかね 美知代 みちよ 、上野 うえの 健 けん 爾 しか ほか 訳 やく 『数学 すうがく の歴史 れきし 』共立 きょうりつ 出版 しゅっぱん 、東京 とうきょう 、2005年 ねん 。ISBN 4-320-01765-X 。
Kline, Morris (1972). 'Mathematical Thought from Ancient to Modern Times . New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-501496-0
ニコラ ブルバキ 著 ちょ 、村田 むらた 全 あきら 、杉浦 すぎうら 光夫 みつお 、清水 しみず 達雄 たつお 訳 やく 『ブルバキ数学 すうがく 史 し 』 上下 じょうげ 、筑摩書房 ちくましょぼう 、東京 とうきょう 、2006年 ねん 。
「東西 とうざい 数学 すうがく 史 し 」三上 みかみ 義夫 よしお (東西 とうざい 数学 すうがく 史 し 輓近 ばんきん 高等 こうとう 数学 すうがく 講座 こうざ 共立社 きょうりつしゃ )[1]
ジョージ・G・ジョーゼフ 著 しる 、垣 かき 田高 たこう 夫 おっと 、大町 おおまち 比佐 ひさ 栄 さかえ 訳 やく 『非 ひ ヨーロッパ起源 きげん の数学 すうがく 』講談社 こうだんしゃ 、東京 とうきょう 、1996年 ねん 。ISBN 4-06-257120-X 。
佐々木 ささき 力 つとむ :「数学 すうがく 史 し 」,岩波書店 いわなみしょてん 、2010年 ねん 3月 がつ 5日 にち 。ISBN 978-4000055338
Eleanor Robson, Jacqueline Stedall, 斎藤 さいとう 憲 けん (訳 わけ ),三浦 みうら 伸夫 のぶお (訳 わけ ):「Oxford 数学 すうがく 史 し 」、共立 きょうりつ 出版 しゅっぱん 、2014年 ねん 5月 がつ 23日 にち 。ISBN 978-4320110885
中村 なかむら 滋 しげる , 室井 むろい 和男 かずお :「数学 すうがく 史 し ―数学 すうがく 5000年 ねん の歩 あゆ み―」、共立 きょうりつ 出版 しゅっぱん 、2014年 ねん 11月22日 にち 。ISBN 978-4320110953
土倉 つちくら 保 たもつ (著 ちょ 編 へん ):「新 しん 解説 かいせつ ・和算 わさん 公式 こうしき 集 しゅう 算法 さんぽう 助 すけ 術 じゅつ 」、朝倉書店 あさくらしょてん 、2014年 ねん 11月25日 にち 。ISBN 978-4254111446
ウィキメディア・コモンズには、
数学 すうがく 史 し に
関連 かんれん するカテゴリがあります。
数学 すうがく の歴史 れきし ・文化 ぶんか に関連 かんれん する日本語 にほんご サイト[ 編集 へんしゅう ]