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数学史 - Wikipedia コンテンツにスキップ

数学すうがく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ最古さいこ数学すうがく文書ぶんしょひとつとしてられる。

数学すうがく(すうがくし、英語えいご:history of mathematics)とは、数学すうがく歴史れきしのことである。だいいちには、数学すうがくじょう発見はっけん起源きげんについての研究けんきゅうであり、副次的ふくじてき興味きょうみとして、過去かこ数学すうがくにおいてどのような手法しゅほう一般いっぱんてきであったかや、どのような記号きごう使つかわれたかなども調しらべられている。

概要がいよう

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数学すうがくは、文明ぶんめいこる以前いぜんさかのぼって説明せつめいすることができる。そこには、狩猟しゅりょう採集さいしゅう、また生活せいかつ維持いじするために必要ひつようだった計数けいすう概念がいねんなどがふくまれる。また、文明ぶんめい成立せいりつ各地かくち様々さまざま水準すいじゅん数学すうがく発展はってんおこるが、やがて文明ぶんめい交流こうりゅうによって現代げんだい数学すうがくつながっていく。

原始時代げんしじだいから古代こだい数学すうがくてき概念がいねん

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かず概念がいねん計数けいすう

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有史ゆうしよりはるふる時代じだい線画せんがにも、数学すうがく知識ちしきや、天体てんたい観測かんそくもとづいたはかときほうがあったことをしめすものがある。生物せいぶつ学者がくしゃによるれいでは、みなみアフリカの砂岩さがん洞窟どうくつなかに、幾何きかがくてき模様もよういろどられたせんこく発見はっけんされ、紀元前きげんぜん7まんねんごろ[1]のものと推定すいていされている。ほかにも、アフリカフランス発見はっけんされている紀元前きげんぜん3まん5せん~2まんねんごろ[2]先史せんし時代じだい遺物いぶつなかに、時間じかん表現ひょうげんしようとした形跡けいせきがある[3]

古代こだい記数きすうほうは、女性じょせい生理せいり記録きろくするために必要ひつようとされたという証拠しょうこがある。また、28~30のキズがついたいしほねが、複数ふくすうつかるという事例じれいがある。さらに、ハンターたちはししぐんについて考慮こうりょするさいには、「1」「2」「多数たすう」、さらに「」や「れい(れい、ゼロ)」の概念がいねん使つかっていたということもかっている。整数せいすう実数じっすうといったすう集合しゅうごう要素ようそひとつとしてれい見出みいだしたとはえないものの、れい概念がいねんはこの時期じきからすでにあったということもできる[4][5]

算術さんじゅつ幾何きかがくはじまり

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イシャンゴのほねといわれる遺物いぶつが、ナイルがわ源流げんりゅう地域ちいきコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく北東ほくとう)で発見はっけんされており、紀元前きげんぜん2まんねんごろのものと推測すいそくされている。このほね表現ひょうげんしている内容ないよう[6]は、最初さいしょ素数そすうれつや、古代こだいエジプトかけざんであるとかんがえられている。また、紀元前きげんぜん5000年代ねんだいエジプトさき王朝おうちょう時代じだいのエジプトじん幾何きかがくてき空間くうかんてきデザインの絵画かいが表現ひょうげんのこしている。紀元前きげんぜん3000年代ねんだい以降いこうイングランドスコットランドにおける巨石きょせき記念きねんぶつには、えん楕円だえん、ピタゴラスすう、などの数学すうがくてき概念がいねんまれているとの指摘してきがある[7]

古代こだいインド数学すうがくられている最古さいこ史料しりょうは、紀元前きげんぜん3000~2600ねんごろの、きたインドおよびパキスタン位置いちしたインダス文明ぶんめいハラッパー文化ぶんか)にある。 ハラッパー文化ぶんか十進法じっしんほう使つかった重量じゅうりょう距離きょり計量けいりょうほう発達はったつさせ、おどろくほど精密せいみつ数学すうがくてき比率ひりつ寸法すんぽうをもったレンガをつくっていた。また、みち完全かんぜん直角ちょっかくをなして敷設ふせつされている。かれらがもちいたデザインには立方体りっぽうたいたるがた円錐えんすい円柱えんちゅうなどをふく幾何きかがくてき形態けいたいや、同心どうしんあるいは交錯こうさくするえん三角形さんかっけいなどの意匠いしょうがある。発見はっけんされた数学すうがく用具ようぐには、じゅうしん目盛めもりきざまれ、こまかく精細せいさい目盛めもりのいた正確せいかく定規じょうぎや、地平ちへい座標ざひょうにおける角度かくどを40あるいは360ほうはかるためにもちいられたかいのコンパス、天球てんきゅうを8ないし12ふんして計測けいそくするためのかいせい計測けいそく航法こうほうのためにほし位置いち計測けいそくする計測けいそくなどがある。インダス文字もじはまだ解読かいどくされていないため、ハラッパーの文字もじによる数学すうがくについてはほとんどわかっていない。考古学こうこがくてき証拠しょうこによれば、この文明ぶんめいは、8を基数きすうとする記数きすうほう使つかっており、円周えんしゅうりつπぱいっていたとのせつがある[8]中国ちゅうごくいん王朝おうちょう時代じだい紀元前きげんぜん1600ねんごろ~1046ねん)には、現在げんざい使つかわれるかん数字すうじ初期しょきのものが、亀甲きっこうられている[9][10]しゅう王朝おうちょう時代じだいにすでにもちいられていたさん籌(さんちゅう)記法きほうたけぼうならべてかずあらわした方法ほうほううつしたものだが、これは位取くらいど記数きすうほう歴史れきしじょうもっとふるあらわれだとなすことができる。たとえば「123」を(たてきで)あらわ場合ばあい以下いかのようにする。まず「1」をあらわ数字すうじく。つぎに「100」をあらわ数字すうじく。つぎに「2」をあらわ数字すうじく。つぎに「10」をあらわ数字すうじく。そして「3」をあらわ数字すうじく(ようするに「いちひゃくじゅうさん」とく)。これは、算盤そろばんでの計算けいさん可能かのうにした。算盤そろばん発明はつめいされた時期じき不明ふめいだが、西暦せいれき190ねんごろりゅうによりかれた『きゅうしょう算術さんじゅつ』の注釈ちゅうしゃくなか記述きじゅつ存在そんざいする[11]

法則ほうそくせい発見はっけん

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近代きんだいにおいては知識ちしきぜん世界せかい拡散かくさんしたが、それ以前いぜん時代じだいでは、数学すうがくじょう発見はっけんについての記録きろくがあるのはかぎられた地域ちいきのみである。発見はっけんされているふる数学すうがく文書ぶんしょとして、

などがある。これらの文書ぶんしょはすべてピタゴラスすうについてべており、ピタゴラスの定理ていり内容ないようもっとはやもっとひろまった数学すうがく法則ほうそくひとつであるとなせる。これらのれいは、ピタゴラスすうのうちのいくつかのいを調しらべたり、その法則ほうそくせい注目ちゅうもくしているにぎない。普遍ふへんせい仮定かていする定理ていり証明しょうめいされたしんなる命題めいだい)という概念がいねんは、ギリシア文明ぶんめい以降いこうられるようになる。

古代こだいから中世ちゅうせいにおける数学すうがく発展はってん

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概要がいよう

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エジプトおよびバビロニア数学すうがくは、古代こだいギリシアにおいてさらに発展はってんした。古代こだいギリシアの数学すうがくは、手法しゅほう内容ないよう両方りょうほう革新かくしんしたというてんで、非常ひじょう重要じゅうようであるとかんがえられている[12]。これら古代こだい文明ぶんめい発展はってんした数学すうがくは、イスラム数学すうがくでさらにおおきく発展はってんした。おおくのギリシアとアラビア数学すうがく文献ぶんけん中世ちゅうせいのヨーロッパでラテン語らてんご翻訳ほんやくされ、さらに発展はってんした。

紀元前きげんぜんにも数学すうがく文化ぶんか地域ちいきあいだ相互そうご作用さよう証拠しょうこはいくつもられるが、古代こだい中世ちゅうせい数学すうがく特徴とくちょうは、だい発展はってんのちしばしばなに世紀せいきもの停滞ていたいきたり、地域ちいきごとに特色とくしょくって発展はってんしていることである。文化ぶんか交流こうりゅう蓄積ちくせきし、14世紀せいきにイタリアでのルネサンスやヨーロッパのだい航海こうかい時代じだいはじまると、数学すうがくじょうしん発見はっけん科学かがくじょう発見はっけん顕著けんちょ相互そうご作用さようちながら進歩しんぽつづけるようになった。この傾向けいこう現代げんだいまでつづいている。本節ほんぶしでは、地域ちいきごとに特色とくしょくって発展はってんした初期しょき数学すうがく発展はってんについてべる。

中東ちゅうとうでの数学すうがく発展はってん

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メソポタミア

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バビロニア数学すうがくは、初期しょきシュメールひとからヘレニズム初期しょきメソポタミア現代げんだいイラク)の人々ひとびと数学すうがくしめす。バビロンが研究けんきゅう場所ばしょ中心ちゅうしんてき役割やくわりたし、ヘレニズム時代じだいえたことからバビロニア数学すうがくばれた。この時点じてんから、バビロニア数学すうがくはギリシアおよびエジプト数学すうがく融合ゆうごうし、ヘレニズム数学すうがくをもたらした。そのイスラム帝国ていこくのもと、イラク/メソポタミア、とくバグダード再度さいどイスラム数学すうがく研究けんきゅう重要じゅうよう中心ちゅうしんとなった。

散在さんざいした文献ぶんけんしかのこされていないエジプト数学すうがく対照たいしょうてきに、バビロニア数学すうがくは1850ねん以降いこうされた400以上いじょう粘土ねんどばんることができる。粘土ねんどばん湿しめっているあいだ楔形文字くさびがたもじかれ、がまくか日光にっこうねっしてかたくする。これらのいくつかは、宿題しゅくだい採点さいてんしたものとおもわれる。

数学すうがく記述きじゅつされたもっとふる証拠しょうこは、メソポタミア最古さいこ文明ぶんめいおこした古代こだいシュメールじんまでさかのぼる。シュメールじんは、紀元前きげんぜん3000ねんからふくあいてき測定そくていシステムを開発かいはつした。紀元前きげんぜん2500ねんごろ以降いこう、シュメールじん粘土ねんどばん乗算じょうざんひょうき、幾何きかがく学習がくしゅう除算じょざん問題もんだい利用りようした。バビロニア文字もじ最古さいこ形跡けいせきもまた、この時代じだいにさかのぼる[13]

復元ふくげんされた粘土ねんどばんだい部分ぶぶん紀元前きげんぜん1800〜1600ねん時代じだいであり、分数ぶんすう代数だいすうおよびさん方程式ほうていしき、およびピタゴラスすう概念がいねんあつかわれている(プリンプトン322参照さんしょう[14]粘土ねんどばんにはまた、乗算じょうざんひょう三角さんかくほうひょうおよびいち方程式ほうていしき解法かいほうふくまれている。バビロニアの粘土ねんどばんYBC 7289は、2の平方根へいほうこん小数点しょうすうてんだい5まで正確せいかく近似きんじしている。円周えんしゅうりつとして、実際じっさいてき計算けいさんのためにはしばしば 3 がもちいられていた[15]が、22/7 などのより精確せいかく近似きんじられていた。(円周えんしゅうりつ歴史れきし参照さんしょうのこと)

バビロニア数学すうがくは、ろく十進法じっしんほう(60をそことする)の位取くらいど記数きすうほう記述きじゅつしていた。ここから、現在げんざい1ふんが60びょう、1あいだが60ふん、およびえんが360 (60 × 6) の用法ようほう由来ゆらいしている。60にはおおくの約数やくすうがあるという事実じじつにより、バビロニア数学すうがく進歩しんぽ促進そくしんされた。また、エジプト、ギリシア、ローマ数学すうがくことなり、バビロニア数学すうがくただしい位取くらいど記数きすうほうち、ひだりれつかれる数字すうじが、十進法じっしんほうよりおおきなしめす、しかしながら、小数点しょうすうてん相当そうとうするものがけているため、数字すうじによって実際じっさいあらわされている数値すうちはしばしば文脈ぶんみゃくから推論すいろんしなければならなかった。

エジプト

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エジプト数学すうがくは、エジプトかれた数学すうがくしめす。ヘレニズム時代じだいから、エジプトじん学者がくしゃ記述きじゅつ言語げんごとしてギリシアはエジプトわり、この時点じてんからエジプト数学すうがくはギリシアおよびバビロニア数学すうがく融合ゆうごうヘレニズム数学すうがくとなった。 エジプトでの数学すうがく研究けんきゅうのちに、イスラム帝国ていこくのもとイスラム数学すうがく一部いちぶとしてつづき、アラビアがエジプトじん学者がくしゃ記述きじゅつ言語げんごとなった。

いままで発見はっけんされた最古さいこ数学すうがく文書ぶんしょは、エジプトちゅう王国おうこく紀元前きげんぜん2000〜1800ねんのパピルスである、モスクワ数学すうがくパピルスである。古代こだい数学すうがく文書ぶんしょ同様どうように、今日きょうでいう「単語たんご問題もんだい」または「文章ぶんしょう問題もんだい」からなり、あきらかに娯楽ごらく目的もくてきとしたものであった。注目ちゅうもくするべきものには、きりあたまたい体積たいせきもとめるための方法ほうほうあらわしている以下いかのようなものがある:「ピラミッドを切断せつだんし、たかさ6、底辺ていへん4、上辺うわべ2である。4を二乗にじょうすると16。4をばいにすると8。2を二乗にじょうすると4。16と8、および4をくわえると28。6の3ぶんの1をるので2かい。28を2かいるので56。結果けっかは56。ただしい結果けっかである。

リンド・パピルス紀元前きげんぜん1650ねんごろ)は、もうひとつの主要しゅようなエジプト数学すうがくのテキストであり、整数せいすうろん幾何きかがくのマニュアルになっている[16]。また、乗算じょうざん除算じょざん、および単位たんい分数ぶんすう公式こうしき解法かいほう[17]や、合成ごうせいすう素数そすう整数せいすうろん幾何きかがく、と調和ちょうわ平均へいきんエラトステネスのふるい完全かんぜんすう(とくに、6かんする記述きじゅつ)について一定いってい数学すうがくてき知識ちしきられていたことの証拠しょうこもえられている[18]。また、簡単かんたんいち方程式ほうていしき解法かいほうしめされており[19]等差とうさ数列すうれつ幾何級数きかきゅうすうあつかっている[20]

また、リンド・パピルスでは、1パーセント未満みまん誤差ごさ円周えんしゅうりつ近似きんじ方法ほうほうや 、えんせき問題もんだいへの過去かこみがべられ、さらにせっ関数かんすう一種いっしゅについて、られているかぎり最古さいこ使用しようれいいだすことができる。これらの知見ちけん解析かいせき幾何きかがくかかわる基礎きそてき体系たいけいがこの時代じだい確立かくりつされていたことをしめしている。

さらに、ペルリン・パピルス(紀元前きげんぜん1300ねんごろ)は、古代こだいエジプトじん簡単かんたん連立れんりつ方程式ほうていしき解法かいほうっていたことをしめしている[21][22][23]

イスラム数学すうがく西暦せいれき800〜1500ねんごろ

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フワーリズミー

イスラム帝国ていこくは、中東ちゅうとう中央ちゅうおうアジアきたアフリカイベリア半島はんとう、および8世紀せいきインド一部いちぶにわたって成立せいりつし、数学すうがく重要じゅうよう貢献こうけんたした。ほとんどのイスラムの数学すうがくしょアラビアかれたが、すべてをアラブじんいたのではない。ヘレニズムにおけるギリシア同様どうように、アラビア当時とうじのイスラム世界中せかいじゅうのアラブじん以外いがい学者がくしゃはアラビア使用しようした。重要じゅうようなイスラム数学すうがくしゃにはペルシアじんもいる。

フワーリズミーは、9世紀せいきバグダードのペルシア人数にんずう学者がくしゃ天文学てんもんがくしゃであり、インド・アラビア数字すうじおよび方程式ほうていしき解法かいほうかんする重要じゅうようほんあらわした。かれ著作ちょさく西暦せいれき825ねんごろかれた『インドのかず計算けいさんほう』は、アラブ人数にんずう学者がくしゃアル=キンディーとも作成さくせいされ、インド数学すうがくインド・アラビア数字すうじ西洋せいようひろめるたすけとなった。「アルゴリズム」のかたりは、かれラテン語らてんご、「Algoritmi」に由来ゆらいし、「代数だいすうがく (algebra) はかれ著作ちょさく名称めいしょう『ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ』(約分やくぶんけしやく計算けいさんしょ)に由来ゆらいする。フワーリズミーは、古代こだい代数だいすうてき手法しゅほう保存ほぞんとこの分野ぶんやへの独自どくじ貢献こうけんより、「代数だいすうちち」とばれている[24]代数だいすうがくさらなる発展はってんは、アル=カラジ (Al-Karaji西暦せいれき953〜1029ねん)の論文ろんぶん『アル・ファフリー』で、未知数みちすう整数せいすうべきじょう整数せいすう包含ほうがんする方法ほうほうろん拡張かくちょうした。10世紀せいきに、アブル・ウワファディオファントス著作ちょさくをアラビア翻訳ほんやくし、正接せいせつ関数かんすう進展しんてんさせた。

数学すうがくてき帰納きのうほうもちいている最初さいしょ数学すうがくてき証明しょうめいは、西暦せいれき1000ねんごろアル=カラジ著作ちょさくあらわれ、こう定理ていりパスカルの三角形さんかっけい積分せきぶん立方りっぽうすう合計ごうけい証明しょうめい使つかわれた[15]数学すうがく歴史れきしのF. Woepcke[25]は、アル=カラジを「最初さいしょ代数だいすうてき微分びぶん積分せきぶんがく理論りろん導入どうにゅうしたもの」として賞賛しょうさんした。イブン・アル=ハイサムは、じゅう平方へいほうすう公式こうしき推論すいろんした最初さいしょ数学すうがくしゃであり、帰納きのうほう使用しようして、任意にんい整数せいすうべきじょうたいする一般いっぱん公式こうしき決定けっていする方法ほうほう開発かいはつし、それが積分せきぶんほう発展はってん基礎きそとなった[26]

ウマル・ハイヤームは12世紀せいき詩人しじん数学すうがくしゃで、『ユークリッドにおける困難こんなんかんする議論ぎろん』でユークリッド原論げんろん不備ふびとく平行へいこうせん公理こうりについてべ、その結果けっか解析かいせき幾何きかがくおよびユークリッド幾何きかがく基礎きそきずいた。また、さん関数かんすう一般いっぱんてき幾何きかがくてき解法かいほう考案こうあんした。かれはまた、暦法れきほう改正かいせい非常ひじょうおおきな影響えいきょうあたえた。13世紀せいきのペルシア人数にんずう学者がくしゃナスィールッディーン・トゥースィーは、球面きゅうめん三角さんかくほう進展しんてんさせた。かれはまた、エウクレイデス平行へいこうせん公理こうりかんする有力ゆうりょくしょあらわした。15世紀せいきアル=カーシーは、円周えんしゅうりつ小数点しょうすうてん16けたまで計算けいさんした。カーシーはまた、n計算けいさんするアルゴリズムをち、それはすう世紀せいきパオロ・ルフィニおよびホーナーによる手法しゅほう特殊とくしゅれいであった。特筆とくひつすべきイスラム数学すうがくしゃには、イブン・ヤフヤ・アル=マグリービー・アル=サマウアル (Ibn Yahyā al-Maghribī al-Samaw'alサービト・イブン=クッラアブ・カミル (Abū Kāmil Shujā ibn Aslamアブー・サフル・アル=クーヒーがいる。

この時代じだいのイスラム数学すうがくしゃ成果せいかには、代数だいすうがくアルゴリズム発展はってんフワーリズミー参照さんしょう)、球面きゅうめん三角さんかくほう発展はってん[27]アラビア数字すうじへの小数点しょうすうてん追加ついか正弦せいげんのぞ現在げんざい三角さんかく関数かんすうのすべての発見はっけんキンディーによる暗号あんごう解読かいどく頻度ひんど分析ぶんせき導入どうにゅうアル=カラジによる微分びぶん積分せきぶんがく導入どうにゅう数学すうがくてき帰納きのうほうによる証明しょうめいイブン・アル=ハイサムによる解析かいせき幾何きかがく初期しょき無限むげんしょう一般いっぱん公式こうしき積分せきぶんほう発展はってんウマル・ハイヤームによる代数だいすう幾何きかがく開始かいしナスィールッディーン・トゥースィーによるユークリッド幾何きかがく平行へいこうせん公理こうりへの最初さいしょ反証はんしょうユークリッド幾何きかがく最初さいしょこころみ、その代数だいすうがく算術さんじゅつ微分びぶん積分せきぶんがく暗号あんごう理論りろん幾何きかがくかずろん、および三角さんかくほうにおける多大ただい進歩しんぽがあった。

オスマン帝国ていこく(15世紀せいき〜)の時代じだいに、イスラム数学すうがく停滞ていたいした。これは、ローマじんがヘレニズムを征服せいふくしたときの数学すうがく停滞ていたい類似るいじしている。

ジョン・J・オコナーとエドモンド・F・ロバートソンは『マックチューター数学すうがくアーカイブ』でべた:

最近さいきん研究けんきゅうによって、現代げんだい人間にんげんがアラビア・イスラーム数学すうがくからけた恩恵おんけいについてあらたな姿すがたえてきた。これまでは16、17、18世紀せいきのヨーロッパの数学すうがくしゃによるとされてきたあざやかなしん概念がいねんが、じつはそれよりさらに4世紀せいきほどまえのアラビア・イスラームの数学すうがくしゃによってされていたことが判明はんめいした。今日きょう研究けんきゅうされている数学すうがくのスタイルはおおくのてんで、ギリシアじん数学すうがくよりも、アラビア・イスラームの数学すうがくにずっとちかいのである。 — J. J. O'Connor and E. F. Robertson、Arabic mathematics : forgotten brilliance? JOC/EFR November 1999 - "The MacTutor History of Mathematics archive"[28]

インドでの数学すうがく発展はってん

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初期しょきのインド数学すうがく

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ヴェーダ数学すうがくうつわ時代じだい初期しょきはじまり、『シャタパタ・ブラーフマナ』(紀元前きげんぜん9世紀せいきごろ)で円周えんしゅうりつ小数点しょうすうてんだい2まで概算がいさんしていた[29]。『シュルバ・スートラ』(紀元前きげんぜん800〜500ねんごろ)は幾何きかがくテキストであり、無理むりすう素数そすう帰一きいつさん立方根りっぽうこん使用しようし、2の平方根へいほうこん小数点しょうすうてんだい5まで計算けいさんし、えんせき問題もんだい方法ほうほうろんあたえ、線型せんけい方程式ほうていしき方程式ほうていしきき、ピタゴラスすう理論りろん代数だいすうてき展開てんかいと、ピタゴラスの定理ていり記述きじゅつおよび数値すうちてき証明しょうめいあたえられている。

パーニニ紀元前きげんぜん5世紀せいきごろ)はサンスクリット文法ぶんぽう規則きそく定式ていしきした。パーニニの記法きほうは、現在げんざい数学すうがくてき表記ひょうき同様どうようであり、メタ規則きそく変換へんかんおよび再帰さいき洗練せんれんされ、その文法ぶんぽう規則きそくチューリングマシン同等どうとう計算けいさん能力のうりょくっていた。ピンガラ (Pingala(およそ紀元前きげんぜん3〜1ねん)は、韻律いんりつ論文ろんぶん二進法にしんほう類似るいじする仕組しくみを使用しようした。かれ拍子ひょうし組合くみあいわせろんは、こう定理ていり類似るいじする。ピンガラの作品さくひんはまた、フィボナッチすう基本きほんてき概念がいねんmātrāmeruばれた)をふくむ。ブラーフミー文字もじは、すくなくとも紀元前きげんぜん4世紀せいきマウリヤあさ以降いこう発達はったつし、最近さいきん考古学こうこがく証拠しょうこ紀元前きげんぜん600ねん時代じだいもどされた。ブラーフミー数字すうじ紀元前きげんぜん3世紀せいきである。

紀元前きげんぜん400ねんから西暦せいれき200ねんあいだジャイナきょう数学すうがくしゃ数学すうがく唯一ゆいいつ目的もくてきのために研究けんきゅうはじめた。かれらは最初さいしょ超越ちょうえつすう集合しゅうごうろん対数たいすう、および添字そえじさん方程式ほうていしきよん方程式ほうていしきれつ数列すうれつ順列じゅんれつ組合くみあわせ二乗にじょう平方根へいほうこん導出どうしゅつ有限ゆうげんおよび無限むげんべきじょうについて、基本きほん法則ほうそく発展はってんさせた。紀元前きげんぜん200ねんから西暦せいれき200ねんあいだかれたバクシャーリー写本しゃほんには、最大さいだい5つの未知数みちすうふく線型せんけい方程式ほうていしきかい方程式ほうていしきかい算術さんじゅつ数列すうれつおよび幾何きか数列すうれつ複数ふくすう数列すうれつ不定ふてい方程式ほうていしき連立れんりつ方程式ほうていしき、および0まけかず記述きじゅつされた[30]無理むりすう正確せいかく計算けいさん発見はっけんでき、100まんからすくなくとも小数点しょうすうてん11平方根へいほうこん計算けいさんふくまれている。

中世ちゅうせいインド数学すうがく西暦せいれき400〜1600ねんごろ

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アリヤバータ

『スーリヤ・シッダーンタ』 (Surya Siddhanta西暦せいれき400ねんごろ)は三角さんかく関数かんすう正弦せいげん余弦よげんぎゃく正弦せいげん関数かんすう導入どうにゅうし、天体てんたい実際じっさいうごき、そらなかでの実際じっさい位置いち決定けっていする法則ほうそく基礎きそきずいた。この文書ぶんしょでは、よりふるくの文書ぶんしょうつしで、天体てんたい時間じかん周期しゅうきべられ、365.2563627日間にちかん恒星こうせいねん対応たいおうし、現在げんざい公称こうしょうである365.25636305日間にちかんより1.4びょうながいだけである。この文書ぶんしょは、中世ちゅうせいにアラビアラテン語らてんご翻訳ほんやくされた。

アリヤバータは、西暦せいれき499ねんせい関数かんすう (en:Versine, 1 - cos θしーた) を導入どうにゅうし、正弦せいげん最初さいしょ三角さんかくほうひょう作成さくせいし、代数だいすうがく無限むげんしょう微分びぶん方程式ほうていしき解法かいほうアルゴリズム開発かいはつし、現代げんだい同等どうとう手法しゅほうにより線型せんけい方程式ほうていしきかいもとめ、また万有引力ばんゆういんりょく地動説ちどうせつもとづく正確せいかく天文学てんもんがく計算けいさんおこなった。かれ著作ちょさく『アーリヤバティーヤ』 (Aryabhatiyaは、アラビア翻訳ほんやくが8世紀せいきに、ラテン語らてんご翻訳ほんやくが13世紀せいきおこなわれた。かれはまた、円周えんしゅうりつ小数点しょうすうてん以下いかだい4の3.1416まで計算けいさんした。の14世紀せいきに、サンガマグラーマのマーダヴァは、円周えんしゅうりつ小数点しょうすうてん以下いかだい11まで計算けいさんした。

7世紀せいきに、ブラーマグプタブラーマグプタの定理ていりブラーマグプタの平方へいほう恒等こうとうしきブラーマグプタの公式こうしきさだめ、『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』ではじめて、明快めいかい0空位くういおよび数字すうじ両方りょうほうとして使用しようし、インド・アラビア数字すうじ説明せつめいした。このインド数学すうがくしょ西暦せいれき770ねんごろ)の翻訳ほんやくから、イスラム数学すうがくしゃ数字すうじ体系たいけい導入どうにゅうし、アラビア数字すうじ採用さいようした。イスラム学者がくしゃはこの数字すうじ体系たいけい知識ちしきを12世紀せいきまでにヨーロッパにつたえ、世界中せかいじゅうきゅう数字すうじ体系たいけいえている。10世紀せいきに、ピンガラの著書ちょしょについてのハラユーダ (Halayudha論評ろんぴょうには、フィボナッチすうパスカルの三角形さんかっけい研究けんきゅうふくまれ、行列ぎょうれつ計算けいさん記述きじゅつされた。

12世紀せいきに、バースカラ2せいは、しるべ関数かんすう微分びぶん係数けいすう微分びぶんほう概念がいねんともに、微分びぶんがくかんがえだした。かれはまた、ロルの定理ていり平均へいきん定理ていり特殊とくしゅ場合ばあい)をべ、ペル方程式ほうていしき研究けんきゅうし、正弦せいげん関数かんすうしるべ関数かんすう調査ちょうさした。14世紀せいきから、マーダヴァとケーララ学派がくは数学すうがくしゃは、この概念がいねん発展はってんさせた。かれらは、解析かいせきがく浮動ふどう小数点しょうすうてんすう微分びぶん積分せきぶんがく基礎きそから総合そうごうてき開発かいはつおこなった。これには、平均へいきん定理ていり限界げんかいてん積分せきぶん曲線きょくせんした領域りょういきとその不定ふてい積分せきぶんまたは積分せきぶん収束しゅうそく判定はんてい線型せんけい方程式ほうていしきくための反復はんぷくほう、および無限むげん級数きゅうすうべき級数きゅうすうテイラー級数きゅうすう三角さんかく級数きゅうすうふくまれる。16世紀せいきに、ジャヤスタデーヴァ (Jyeṣṭhadevaがケーララ学派がくはによる発展はってん定理ていりおおくを『ユクティバーサ』 (Yuktibhasa統合とうごうした。これは、世界せかいはつ微分びぶんがく教科書きょうかしょであり、積分せきぶんほう概念がいねんもまた導入どうにゅうした。インドでの数学すうがく進歩しんぽは、16世紀せいき後半こうはん政治せいじてき混乱こんらんのため停滞ていたいした。

中国ちゅうごくでの数学すうがく発展はってん

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きゅうしょう算術さんじゅつ

中国ちゅうごくでは古代こだいからさん(さんちゅう)とばれるちいさなたけなどをもちいた計算けいさんおこなわれていた。この計算けいさん方法ほうほうでは、さん籌によってあらわしたいちからきゅうまでの基数きすう位取くらいどしきならべることで様々さまざまかずあらわした。これをもちいて、加減乗除かげんじょうじょから求根きゅうこん方程式ほうていしきくにいたるまで様々さまざま算術さんじゅつあつかわれ、中国ちゅうごく数学すうがくはこの計算けいさんじゅつした発展はってんした。なお漢字かんじの「さん」は、おとあらわす「」と意味いみしめす(さん籌を暗示あんじさせる)「たけ」とをわせた形声けいせい文字もじである[31][32]

紀元前きげんぜん212ねんに、はた始皇帝しこうていはた国外こくがい書物しょもつをすべてやすことをめいじた。この命令めいれい完全かんぜん遂行すいこうされることはなかったが、結果けっかとして古代こだい中国ちゅうごく数学すうがくかんしてはわずかしかられていない。しゅう紀元前きげんぜん1046ねん〜)以降いこう焚書ふんしょまぬかれた最古さいこ数学すうがくしょは『えきけい』であり、哲学てつがく数学すうがく、および神秘しんぴてき目的もくてきで、8しゅ3くみ三重みえ)および64しゅ6くみろくじゅう)が使用しようされる。各組かくくみ分割ぶんかつした、または直線ちょくせん構成こうせいされ、それぞれかげ女性じょせい男性だんせい」とばれる。(ろくじゅうよん参照さんしょう

中国ちゅうごく幾何きかがく現存げんそんするもっとふる書物しょもつは、紀元前きげんぜん330ねんごろぼく哲学てつがく原理げんりで、ぼく紀元前きげんぜん470〜390ねん)の後継こうけいしゃにより編纂へんさんされた。『ぼくけい』は、物理ぶつり化学かがくかんする様々さまざま分野ぶんや記述きじゅつし、数学すうがくについてわずかながらしめした。

焚書ふんしょのちかん紀元前きげんぜん202ねん西暦せいれき220ねん)は、現在げんざいうしなわれた書物しょもつ拡張かくちょうしたと推定すいていされる数学すうがくしょした。もっと重要じゅうよう書物しょもつは『きゅうしょう算術さんじゅつ』であり、全編ぜんぺん完成かんせいしたのはおそくとも西暦せいれき179ねんだとされている。しかし、一部いちぶべつ書名しょめいしたにそれ以前いぜんから存在そんざいした。この数学すうがくしょは、そのとおここのつ、すなわち方田ほうだあわまいおとろえぶんしょうひろしょういさおひとし輸・みつる不足ふそくぽうほど・勾股のしょうけて、農業のうぎょう商業しょうぎょう幾何きかがく工学こうがく測量そくりょうかんする246問題もんだい構成こうせいされ、特別とくべつ直角ちょっかく三角形さんかっけいおよび円周えんしゅうりつ要素ようそふくんでいる。また、体積たいせきにおけるカバリエリの定理ていりを、西洋せいようカバリエリ提案ていあんする1,000ねん以上いじょうまえ使用しようしていた。ピタゴラスのピタゴラスの定理ていり数学すうがくてき証明しょうめい、およびガウスの消去しょうきょほう数式すうしきふくまれている。ほうほど連立れんりつ方程式ほうていしきのこと)のしょうでは、えきかずそんかずあらわせいさんさんというあかくろさん籌の区別くべつもちいて連立れんりつ方程式ほうていしきき、正負せいふ計算けいさん法則ほうそくまでもべている。このしょ中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんではなが時期じきにわたって重要じゅうよう数学すうがく教科書きょうかしょひとつとしてあつかわれた。このしょ研究けんきゅうとしては西暦せいれき3世紀せいきりゅうによる論評ろんぴょう問題もんだい解法かいほう数学すうがくてき考察こうさつおこなわれた。

さらに、かん天文学てんもんがくしゃ発明はつめいであるちょう西暦せいれき78〜139ねん)の数学すうがくしょには円周えんしゅうりつ公式こうしきがあり、りゅう徽の計算けいさんことなっていた。ちょう衡は、球体きゅうたい体積たいせきもとめるために円周えんしゅうりつ公式こうしき使用しようした。また、数学すうがくしゃ音楽おんがく理論りろんきょうぼう紀元前きげんぜん78〜37ねん)は、ピタゴラスコンマもちいて53の完全かんぜんが31オクターヴにほぼひとしいことをべた。これはのちに、ドイツのニコラス・メルカトルが17世紀せいき53平均へいきんりつ発見はっけんするまで、正確せいかく計算けいさんされることはなかった。

ちょう西暦せいれき78〜139ねん

南北なんぼくあさ時代じだいおき(5世紀せいき)は、円周えんしゅうりつ小数点しょうすうてん以下いかだい7まで計算けいさんした。これは以後いご1,000年間ねんかんもっと正確せいかくであった。

かんつづとう開始かいしそうわりまでのやく1,000年間ねんかん、ヨーロッパの数学すうがく存在そんざいしない時代じだいに、中国ちゅうごく数学すうがく繁栄はんえいした。官僚かんりょう登用とうよう試験しけんである科挙かきょにおいても数学すうがく科目かもくふくまれ、初期しょき中国ちゅうごくおも数学すうがく業績ぎょうせきあつめた『さんけいじゅうしょ』が教科書きょうかしょとして推奨すいしょうされた。

中国ちゅうごく最初さいしょ開発かいはつされ、のち西洋せいようおおられるものに、まけかずこう定理ていり線型せんけい方程式ほうていしき解決かいけつするための行列ぎょうれつ手法しゅほう、および中国ちゅうごく剰余じょうよ定理ていりがある。中国ちゅうごくではまた、ヨーロッパでられるまえに、パスカルの三角形さんかっけい帰一きいつさん開発かいはつされた。この時代じだいおおいに発展はってんした算法さんぽう天元てんげんじゅつがある。これはさん籌をもちいた代数だいすう問題もんだい解法かいほうであって、問題もんだいあたえられた条件じょうけんから計算けいさんほどこして、等式とうしきからいちげんすう方程式ほうていしきつく算法さんぽうである。しゅすぐるはこれをよっつの未知数みちすうまで拡張かくちょうさせて高次こうじよんもと連立れんりつ方程式ほうていしき解法かいほう四元よつもとじゅつつくった。また、方程式ほうていしき自体じたいくために、天元てんげんじゅつとともに、一般いっぱん次数じすうにおける方程式ほうていしき近似きんじ解法かいほうひらき方術ほうじゅつ[ちゅう 1]発展はってんした。この天元てんげんじゅつおもとした中国ちゅうごく算法さんぽう江戸えど時代じだい日本にっぽんつたわり、和算わさん発展はってんおおきな要因よういんとなった。おきしゅすぐるほかに、とうそう時代じだい重要じゅうよう人物じんぶつとして、いちぎょう沈括賈憲はたきゅういたるがいる。科学かがくしゃの沈括は、微分びぶん積分せきぶんがく三角さんかくほう度量衡どりょうこうがく (Metrology順列じゅんれつかんする問題もんだい使用しようして、特定とくてい戦闘せんとう陣形じんけい使用しようできる地勢ちせい空間くうかんや、兵糧ひょうろうりょうたいして継続けいぞく可能かのう軍事ぐんじ作戦さくせん期間きかん計算けいさんした。

中国ちゅうごくではまた、方陣ほうじんとしてられる複雑ふくざつ結合けつごう図表ずひょうふるくからべられ、楊輝 (Yang Hui西暦せいれき1238〜1298ねん)によって完成かんせいされた。

その17世紀せいき初年しょねんにおいては、中国ちゅうごく資本しほん主義しゅぎがめばえ、商業しょうぎょう算術さんじゅつ発展はってんしてそろばんもちいた珠算しゅざん普及ふきゅうし、初等しょとうてき実用じつよう数学すうがく重要じゅうようされた。よって高度こうど数学すうがく研究けんきゅうおおきく減少げんしょうし、くわえて丁度ちょうどこのときに、マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 瑪竇)ら宣教師せんきょうしたちにより西洋せいよう数学すうがく伝来でんらいし、中国ちゅうごく数学すうがく西洋せいよう科学かがくととってわられ、衰退すいたい一途いっとくこととなった。

古代こだい中国ちゅうごく数学すうがく方法ほうほうがインドにつたえられたという直接ちょくせつ記録きろくはないものの、インド数学すうがくにおけるいくつかの方法ほうほう古代こだい中国ちゅうごくのそれに類似るいじしており、なんらかの伝播でんぱがあったことを示唆しさしている。6世紀せいきごろにおけるインド数学すうがくにおける位取くらいど記数きすうほう導入どうにゅう影響えいきょうあたえているとの見方みかたしめしている。そのほかにインド数学すうがくにおける分数ぶんすう記法きほう比例ひれい問題もんだい解法かいほうなどの算法さんぽう円周えんしゅうりつ表示ひょうじ 3927/1250 などに中国ちゅうごく数学すうがくとの類似るいじ一致いっちられる。インドをつうじたイスラムけんへの中国ちゅうごく数学すうがく伝播でんぱほかに、もと西進せいしんによる中国ちゅうごく暦法れきほうがイスラムけんつたえられた。さらに、アル・カーシーによる「算術さんじゅつかぎ」(1427ねん)のなかおこなわれている算法さんぽうのいくつかはそうもと時代じだい中国ちゅうごく発展はってんさせられたものと一致いっちしている[11]。とはいえ、ヨーロッパの数学すうがくルネサンスあいださかえたのちでさえ、重要じゅうよう中国ちゅうごく数学すうがく成果せいか衰退すいたいするなか、ヨーロッパと中国ちゅうごく数学すうがくそうじて別個べっこ流儀りゅうぎであった。のちにマテオ・リッチのようなイエズスかい宣教師せんきょうしが16世紀せいきから18世紀せいきにかけて2つの文化ぶんかあいだ数学すうがく思想しそう交流こうりゅうさせた。

ギリシアおよびヘレニズム数学すうがく紀元前きげんぜん550ねん西暦せいれき300ねんごろ

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サモスのピタゴラス

ギリシア数学すうがく紀元前きげんぜん6世紀せいきごろから西暦せいれき450ねんあいだギリシアかれた数学すうがくしめ[33]。ギリシア人数にんずう学者がくしゃひがし地中海ちちゅうかい全体ぜんたい、イタリアからきたアフリカにひろがる都市としんでいたが、これらの地域ちいき文化ぶんか言語げんごむすびつけられていた。ギリシアの数学すうがくは、ヘレニズム数学すうがくともばれる。

ミレトスタレス

ギリシア数学すうがくは、以前いぜん文化ぶんか発達はったつした数学すうがくくらべてはるかに洗練せんれんされたものであった。ギリシア以前いぜん数学すうがくは、すべて帰納的きのうてき推論すいろんしめしている。すなわち、かえした観測かんそく経験けいけんそく証明しょうめいした。ギリシア数学すうがくは、対照たいしょうてきに、演繹えんえきほう使用しようした。ギリシアじんは、定義ていぎおよび原理げんりから結論けつろん論理ろんり使用しようした[34]

ギリシア数学すうがくタレス紀元前きげんぜん624〜546ねんごろ)とピタゴラス紀元前きげんぜん582〜507ねんごろ)がはじめたとかんがえられる。影響えいきょう範囲はんいについて異論いろんはあるものの、かれらはエジプトメソポタミア、およびおそらくインド知識ちしき影響えいきょうけた。伝説でんせつでは、ピタゴラスはエジプトに旅行りょこうし、数学すうがく幾何きかがく、および天文学てんもんがくをエジプトの指導しどうしゃからまなんだとわれている。

タレスは、幾何きかがく使用しようして、ピラミッドのたかさやきしからふねまでの距離きょり計算けいさんするひとし問題もんだい解決かいけつした。ピタゴラスの定理ていりについて、ピタゴラス以前いぜんからその主張しゅちょうにはなが歴史れきしがあるものの、定理ていり最初さいしょ証明しょうめいあたえたのがかれであるとの名声めいせいをもつ[33]エウクレイデス(ユークリッド)によるピタゴラスの論評ろんぴょうにおいて、プロクロスはピタゴラスがかれかんする定理ていりべ、幾何きかがくてきでなく代数だいすうがくてきにピタゴラスすう構成こうせいしたとべている。アカデメイアは、「幾何きかがく精通せいつうしないものはここにはいるべからず」とのモットーをっていた。

ピタゴラス学派がくは無理むりすう存在そんざい発見はっけんした。エウドクソス紀元前きげんぜん408〜355ねんごろ)は、現在げんざい積分せきぶんほう先駆せんくである、くしほう開発かいはつした。アリストテレス紀元前きげんぜん384〜233ねんごろ)は最初さいしょ論理ろんりがくほういた。エウクレイデス今日きょう数学すうがくでも使用しようされる形式けいしきである、定義ていぎ原理げんり定理ていり証明しょうめいもっと初期しょきれいである。かれはまた円錐えんすい曲線きょくせん研究けんきゅうおこなった。かれほん、『ユークリッド原論げんろん』は、20世紀せいき中頃なかごろまで、西洋せいよう教育きょういくけたものすべてにられていた[33]ピタゴラスの定理ていりなどの幾何きかがくのよくられた定理ていりくわえて、『ユークリッド原論げんろん』には2の平方根へいほうこん無理むりすうであることや素数そすう無限むげん存在そんざいすることの証明しょうめい記述きじゅつされている。素数そすう発見はっけんにはエラトステネスのふるい紀元前きげんぜん230ねんごろ)が使用しようされた。

ギリシア数学すうがくの、あるいはぜん時代じだいもっと偉大いだい数学すうがくしゃは、シラクサアルキメデス紀元前きげんぜん287〜212ねん)であるとわれている。プルタルコスによると、75さいのとき、地面じめん数式すうしきいている最中さいちゅうローマ軍人ぐんじんやりされたとされている。古代こだいローマは純粋じゅんすい数学すうがくへの関心かんしん証拠しょうこをほとんどのこしていない。

中世ちゅうせい以降いこうのヨーロッパ数学すうがく発展はってん

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中世ちゅうせいヨーロッパの数学すうがくへの関心かんしんは、現代げんだい数学すうがくしゃまったことなる動機どうきにもよっていた。その1つは、数学すうがくによる自然しぜん記述きじゅつつうじて宗教しゅうきょうてき理解りかい促進そくしんされるという信念しんねんであり、プラトンの『ティマイオス』および聖書せいしょの『知恵ちえしょ』11しょう20せつ[35]によって幾度いくど正当せいとうされた。

中世ちゅうせい初期しょき西暦せいれき500〜1100ねんごろ

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ボエティウスは、算術さんじゅつ幾何きかがく天文学てんもんがく音楽おんがくしめ用語ようごよん学科がっか』をつくり、カリキュラムに数学すうがくくわえた。かれは、ニコマコス (Nicomachusの『算術さんじゅつ入門にゅうもん』の意訳いやくで、またギリシア文献ぶんけん由来ゆらいする『算術さんじゅつ教程きょうていDe institutione arithmetica)』、エウクレイデスユークリッド原論げんろん抄録しょうろくしゅうあらわした。かれ著作ちょさくは、実用じつようてきというよりむしろ理論りろんてきであり、ギリシアとイスラムの数学すうがく文献ぶんけん回復かいふくまで、数学すうがく研究けんきゅう基礎きそであった[36][37]

ヨーロッパ数学すうがく復活ふっかつ西暦せいれき1,100〜1,400ねんごろ

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12世紀せいきに、ヨーロッパの学者がくしゃはアラビア科学かがく文献ぶんけんもとめてスペインとシチリアとう旅行りょこうした。これにはチェスターのロバートによりラテン語らてんご翻訳ほんやくされたフワーリズミーの『ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ』、バースのアデラードカリンツィアのヘルマン (Herman of Carinthiaクレモナのジェラルドにより様々さまざまはん翻訳ほんやくされたエウクレイデスのユークリッド原論げんろん完全かんぜんしょふくまれる[38][39]

これらのあたらしい文献ぶんけん数学すうがく復活ふっかつをもたらした。レオナルド・フィボナッチは1202ねんに『算盤そろばんしょ (Liber Abaciあらわ[ちゅう 2]エラトステネス時代じだいから1,000ねん以上いじょうて、ヨーロッパの最初さいしょ重要じゅうよう数学すうがくをもたらした。この数学すうがくしょはヨーロッパにインド・アラビア数字すうじ導入どうにゅうし、おおくの数学すうがく問題もんだい議論ぎろんされた。14世紀せいきには、幅広はばひろ問題もんだい研究けんきゅうするためのあらたな数学すうがく観念かんねん発展はってんられた[40]数学すうがく発展はってん貢献こうけんした重要じゅうよう分野ぶんやは、軌跡きせきうごきの分析ぶんせきかんするものであった。

トーマス・ブラッドワーディン (Thomas Bradwardineは、ちから(F)が抵抗ていこう(R)にたいして幾何きかがくてき比例ひれい増加ぞうかするように、速度そくど(V)が算術さんじゅつてき比率ひりつ増加ぞうかすることを主張しゅちょうした。ブラッドワーディンはこれを特定とくていれい一連いちれんしめし、対数たいすうはまだ発想はっそうされていなかったが、かれ結論けつろん時代じだい錯誤さくごてきつぎのようにあらわすことができる:V = log F/R[41]。ブラッドワーディンの解析かいせきアル=キンディーヴィラノバのアーノルド (Arnaldus de Villa Nova数学すうがくてき手法しゅほうふくごうやく種類しゅるいことなる物理ぶつりてき問題もんだい定量ていりょうするためにうつしかえたれいである[42]

14世紀せいきオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくマートン・カレッジ1人ひとり、ヘイツベリーのウィリアムは、微分びぶんほう極限きょくげん概念がいねんきながら、ある瞬間しゅんかん速度そくどを『もし……あたえられた瞬間しゅんかんうご速度そくどおな度合どあいで均一きんいつうごくならば、[物体ぶったいが]えがであろう軌道きどうにより』測定そくていすることを提案ていあんした[41]

ヘイツベリーらは、均一きんいつ動作どうさ加速かそくする物体ぶったい移動いどうする距離きょり現代げんだいでは積分せきぶんほう解決かいけつできる)を数学すうがくてき測定そくていし、『均一きんいつに[速度そくどの]増分ぞうぶん加速かそくまたは減速げんそくする物体ぶったいが、あたえられた時間じかん移動いどうする[距離きょり]は、平均へいきんの[速度そくどの]度合どあいでおな時間じかんあいだ継続けいぞくして動作どうさするものと完全かんぜんひとしい』とべた[41]

パリ大学だいがくニコル・オレームとイタリアじんのカサーリのジョバンニはそれぞれ、この関係かんけい図示ずしし、一定いってい加速かそくえがせんした領域りょういきが、そう移動いどう距離きょりしめすことを主張しゅちょうした[41]のちにエウクレイデスの『原論げんろん』の数学すうがくてき解説かいせつしょで、オレームはより詳細しょうさい全体ぜんたいてき分析ぶんせきおこない、物体ぶったい各々おのおの継続けいぞくした増分ぞうぶん時間じかん奇数きすうとして増加ぞうかする特性とくせい増分ぞうぶんることを論証ろんしょうした。エウクレイデスは(一定いっていりょう以下いかのすべての)奇数きすう平方へいほうすうになることを証明しょうめいしたため、物体ぶったい増分ぞうぶん特性とくせい総計そうけい時間じかん二乗にじょう増加ぞうかする[43]

近代きんだいヨーロッパ数学すうがく西暦せいれき1400〜1600ねんごろ

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ルネサンス初期しょきのヨーロッパでは、数学すうがくはまだローマ数字すうじ使用しようしたあつかいにくい記法きほう制限せいげんされ、記号きごう使用しようせずに単語たんご関係かんけい説明せつめいしていた:プラス記号きごう等号とうごう未知数みちすうしめ使つかわれなかった[30]

16世紀せいきまつまでに、とくレギオモンタヌス(1436ねん-1476ねん)とフランソワ・ビエト(1540ねん-1603ねん)の貢献こうけんにより、数学すうがく現在げんざい使用しようされる記法きほう相違そういすくないインド・アラビア数字すうじ使用しようして記述きじゅつされるようになった。

16世紀せいきのヨーロッパの数学すうがくしゃは、今日きょうられているように、世界せかい先例せんれい進歩しんぽはじめた。その最初さいしょさん関数かんすう一般いっぱん解法かいほうであり、一般いっぱんに1510ねんごろシピオーネ・デル・フェッロ功績こうせきとされているが、最初さいしょ出版しゅっぱんニュルンベルクのヨハネス・ペトレイアスによるジェロラモ・カルダーノの『偉大いだいなるじゅつ』であり、これにはカルダーノの弟子でしルドヴィコ・フェラーリによるよん方程式ほうていしき一般いっぱん解法かいほうふくまれていた。

この時点じてんから、数学すうがく発展はってん迅速じんそくとなり、どう時代じだい自然しぜん科学かがくにおける進歩しんぽ貢献こうけんした。この進歩しんぽ印刷いんさつ発展はってんおおいに支援しえんされた。最初さいしょ出版しゅっぱんされた数学すうがくほんは1472ねんゲオルク・プールバッハの『惑星わくせいしん理論りろん』であり、商業しょうぎょう算術さんじゅつほんである1478ねんの『トレヴィーゾ算術さんじゅつしょ』がつづき、最初さいしょ数学すうがくしょであるエウクレイデスのユークリッド原論げんろんは1482ねんにラトドルトにより出版しゅっぱんされた。

航行こうこう要求ようきゅう広範囲こうはんいおよ正確せいかく地図ちず必要ひつようせい増加ぞうか動機どうきとし、三角さんかくほう数学すうがく主要しゅよう部門ぶもんとなった。ピティスクス (Bartholomaeus Pitiscusがこのかたりを、1595ねん出版しゅっぱんした『三角さんかくほう』(Trigonometria) で最初さいしょ使用しようした。レギオモンタヌスの正弦せいげんおよび余弦よげんひょうは1533ねん出版しゅっぱんされた[44]

17世紀せいき

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アイザック・ニュートン

17世紀せいきには、ヨーロッパ全体ぜんたい数学すうがくてきおよび科学かがくてき概念がいねん空前くうぜん爆発ばくはつてき発展はってんられた。書簡しょかんによって、あるいはこのころ確立かくりつされた印刷いんさつ技術ぎじゅつによってあたらしいアイデアは迅速じんそくひろまり、学者がくしゃからの批判ひはん拡張かくちょうこころみなど数学すうがくしゃあいだ交流こうりゅうによって学問がくもん進展しんてんさかんになった。17世紀せいきのヨーロッパすう学会がっかいにおける数学すうがくしゃあいだ交流こうりゅうにおいてマラン・メルセンヌ中心ちゅうしんとした定期ていきてきあつまりと書簡しょかん交流こうりゅうおおきな役割やくわりたしている。

イタリアじんガリレオ・ガリレイは、オランダからの輸入ゆにゅうをもとにした望遠鏡ぼうえんきょう使用しようして、木星もくせい衛星えいせい軌道きどうえがくことを観測かんそくした。ティコ・ブラーエは、惑星わくせい天空てんくうちゅうにおける位置いち記述きじゅつする膨大ぼうだいりょう数値すうちデータを収集しゅうしゅうした。かれ助手じょしゅであるドイツじんヨハネス・ケプラーはこのデータで研究けんきゅうはじめたが、スコットランドのジョン・ネイピアは、ケプラーの計算けいさんけようとするこころみもあって、歴史れきしじょう最初さいしょ自然しぜん対数たいすう研究けんきゅうおこなった。ケプラーは惑星わくせい運動うんどう数学すうがくてき規則きそくケプラーの法則ほうそくとして定式ていしきすることに成功せいこうした。

フランスじん数学すうがくしゃピエール・ド・フェルマー哲学てつがくしゃでもあるルネ・デカルトによって解析かいせき幾何きかがく開発かいはつされ、惑星わくせい軌道きどう直交ちょっこう座標ざひょうけいにおいてえがきとらえることができるようになった。おおくの数学すうがくしゃによるそれまでの研究けんきゅう立脚りっきゃくし、イングランドのアイザック・ニュートンケプラーの法則ほうそく説明せつめいする物理ぶつり法則ほうそく発見はっけんし、現在げんざい微分びぶん積分せきぶんがくとしてられる概念がいねんあつめた。これとは独立どくりつに、ドイツではゴットフリート・ライプニッツ微分びぶん積分せきぶんがくおよび現在げんざいでも使用しようされる微分びぶん積分せきぶん記法きほうのほとんどを発明はつめいした。この時代じだい科学かがく数学すうがく国境こっきょうえたいとなみとなり、すぐにぜん世界せかいひろまった[33]

天文学てんもんがく研究けんきゅうへの数学すうがく応用おうようくわえ、フェルマーとブレーズ・パスカル交流こうりゅうにより、応用おうよう数学すうがくあらたな領域りょういき拡大かくだいはじめた。パスカルとフェルマーはギャンブルのゲームにかんする議論ぎろんで、確率かくりつろん対応たいおうする組合くみあわ数学すうがく研究けんきゅう土台どだいきずいた。パスカルは、成功せいこうかくりつがわずかであっても報酬ほうしゅう期待きたい無限むげんであるような確率かくりつろんてき設定せってい存在そんざい根拠こんきょに、人生じんせい宗教しゅうきょうささげることの正当せいとうせい論証ろんしょうしようとこころみた。ある意味いみで、これは18世紀せいきから19世紀せいきにおける功利こうり主義しゅぎ発展はってん前兆ぜんちょうであったともいえる。

17世紀せいきのヨーロッパの大学だいがく教授きょうじゅ哲学てつがくしゃおもであり、数学すうがくしゃたちのおおくは王立おうりつ協会きょうかいなどの君主くんしゅたちによって設立せつりつされたアカデミーに関係かんけいしていた。

18世紀せいき

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レオンハルト・オイラー

うえたように、自然しぜんすう 1、2、3、… にかんする知識ちしき現存げんそんするどんな文書ぶんしょよりもふる石板せきばんのこされている。メソポタミア、エジプト、インド、中国ちゅうごくなど最古さいこ文明ぶんめいは、算術さんじゅつっていた。

現代げんだい数学すうがく様々さまざますう体系たいけい発展はってんについて可能かのう考察こうさつとして、ふるかずおこなわれた演算えんざんかんする質問しつもんこたえるためにあたらしいかず研究けんきゅう調査ちょうさされてきた、というものがげられる。有史ゆうし以前いぜんにすでに「3をけられ、こたえが1になるかずは?」といういにこたえるものとして、分数ぶんすうもちいられた。また、インドと中国ちゅうごく、はるかおそくにドイツで、「おおきなかずちいさなかずからいたときのこたえは?」といういのこたえとしてまけかず開発かいはつされた。ほかにげられる自然しぜん質問しつもんは:「2の平方根へいほうこんはどんな種類しゅるいかずか?」 ギリシアじんはそれが分数ぶんすうでないことをっており、この質問しつもん連分数れんぶんすう理論りろん発展はってん動機どうきあたえたともいえる。しかし、よりよい回答かいとうジョン・ネイピア(1550ねん-1617ねん)が開発かいはつし、のちシモン・ステヴィン (Simon Stevin完成かんせいした小数しょうすう発明はつめいでもたらされた。小数しょうすう、および極限きょくげん観念かんねん予期よきした概念がいねん使用しようして、ネイピアはあたらしい定数ていすう研究けんきゅうし、これをレオンハルト・オイラー(1707ねん-1783ねん)はネイピアすう e 命名めいめいした。

17世紀せいき創始そうしされた微分びぶん積分せきぶんがくはオイラーをはじめとする18世紀せいき数学すうがくしゃたちによってさらに発展はってんさせられた。オイラーによってかれた3さつ解析かいせきがく教科書きょうかしょやダランベールとオイラーのあいだ議論ぎろんされた波動はどう方程式ほうていしき考察こうさつによって、17世紀せいき幾何きかがくてきへんぶんについての微分びぶん積分せきぶんがく体系たいけいはより抽象ちゅうしょうてきな、1変数へんすうないし変数へんすう関数かんすうによってあたえられる解析かいせきてき対象たいしょう研究けんきゅうへと変貌へんぼうしていった。

18世紀せいき確率かくりつろんヤコブ・ベルヌーイド・モアブルトーマス・ベイズピエール=シモン・ラプラスらのによって、解析かいせきがく成果せいか発展はってんさせられた。この時代じだい成果せいか蓋然的がいぜんてき確実かくじつせい(ベルヌーイ)、かくりつ評価ひょうか精度せいど理論りろん(ド・モアブル)、統計とうけいてき推定すいてい(ベイズ、ラプラス)などがある。

19世紀せいき

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3つの幾何きかがくにおける共通きょうつう垂線すいせん直線ちょくせんのふるまい

19世紀せいきあいだに、数学すうがくさら抽象ちゅうしょうてきになった。19世紀せいき最高さいこう数学すうがくしゃ一人ひとりかぞえられるカール・フリードリヒ・ガウス(1777ねん-1855ねん)の時代じだいでもある。自然しぜん科学かがくへの多数たすう貢献こうけんべつにしても、純粋じゅんすい数学すうがくにおいてかれ複素ふくそ解析かいせきまなべ幾何きかがく、および級数きゅうすう収束しゅうそくについて革新かくしんてき業績ぎょうせきのこした。かれ代数だいすうがく基本きほん定理ていり平方へいほう剰余じょうよ相互そうご法則ほうそくに、最初さいしょ満足まんぞくできる証明しょうめいあたえた。

19世紀せいきにはユークリッド幾何きかがく平行へいこうせん公理こうり成立せいりつしないようなユークリッド幾何きかがくの2つの形式けいしき発見はっけんされた。ロシア人数にんずう学者がくしゃニコライ・ロバチェフスキーかれのライバルであるハンガリー人数にんずう学者がくしゃボーヤイ・ヤーノシュは、独立どくりつ平行へいこうせん一意いちいせい成立せいりつしないようなそうきょく幾何きかがく発見はっけんした。この幾何きかがくにおいては三角形さんかっけい内角ないかくは180未満みまんである。楕円だえん幾何きかがくは19世紀せいき後期こうきに、ドイツ人数にんずう学者がくしゃベルンハルト・リーマンによって開発かいはつされたが、ここでは平行へいこうせん存在そんざいせず、この幾何きかがくでは三角形さんかっけい内角ないかくは180超過ちょうかする。リーマンはまた、3つの形式けいしき幾何きかがく統一とういつして膨大ぼうだい普遍ふへんするリーマン幾何きかがく開発かいはつし、曲線きょくせん表面ひょうめん概念がいねん普遍ふへんした多様たようたい概念がいねん定義ていぎした。

19世紀せいきはまた、あらたな抽象ちゅうしょうだい数学すうがくはじまりの時代じだいでもあった。ウィリアム・ローワン・ハミルトンによってかわ代数だいすう概念がいねん発展はってんさせられたし、一方いっぽうでイギリスの数学すうがくしゃジョージ・ブールによってブール論理ろんり開発かいはつされた。ブール論理ろんりは0と1のふたつのかずからなる体系たいけいであり、今日きょう計算けいさん科学かがくにおいて重要じゅうよう応用おうようっている。

数学すうがくにおけるあらたな傾向けいこうくわえて、過去かこ数学すうがくとく微分びぶん積分せきぶんがくについて、オーギュスタン=ルイ・コーシーカール・ワイエルシュトラスベルンハルト・リーマンらによってより強固きょうこ基礎きそ理論りろんあたえられた。

また、数学すうがく限界げんかいはじめて探求たんきゅうされた。ノルウェーじんニールス・アーベルとフランスじんエヴァリスト・ガロアは、以上いじょう代数だいすう方程式ほうていしきには一般いっぱんてき代数だいすうてき解法かいほういことを証明しょうめいした。の19世紀せいき数学すうがくしゃはこの証明しょうめい応用おうようして、定規じょうぎとコンパスのみで任意にんい角度かくどさん等分とうぶんできないこと、あたえられた立方体りっぽうたいの2ばい体積たいせき立方体りっぽうたい構成こうせいできないこと、あたえられたえん面積めんせきひとしい正方形せいほうけい構成こうせいすることができないことを証明しょうめいした。古代こだいギリシャ時代じだい以来いらいおおくの数学すうがくしゃによるこれらの問題もんだいこうとするこころみはついえることになった。

アーベルとガロアによる様々さまざま多項式たこうしき解法かいほう研究けんきゅうは、群論ぐんろんおよび抽象ちゅうしょうだい数学すうがく関連かんれん分野ぶんやさらなる発展はってん土台どだいきずいた。20世紀せいき物理ぶつり学者がくしゃ科学かがくしゃは、群論ぐんろん対称たいしょうせい研究けんきゅうする理想りそうてき枠組わくぐみとみなした。

19世紀せいきわりにかって、ゲオルク・カントール集合しゅうごうろん確立かくりつし、ことなる数学すうがく分野ぶんやでの共通きょうつう言語げんごをあたえた。無限むげん集合しゅうごう導入どうにゅう数学すうがく基礎きそろんにおける論争ろんそうこした。

19世紀せいきには最初さいしょ数学すうがく学会がっかい設立せつりつられた。1865ねんロンドンすう学会がっかい、1872ねんフランスすう学会がっかい、1884ねんパレルモすう学会がっかい、1883ねんエディンバラすう学会がっかい、1888ねんアメリカすう学会がっかい設立せつりつされた。ぜん世紀せいき数学すうがくしゃたちがアカデミーにぞくしていたのとはことなり、19世紀せいき数学すうがくしゃたちはおもにエコール・ポリテクニークなどの高等こうとう教育きょういく機関きかんぞくして活動かつどうするようになった。また、この時代じだい数学すうがくてき成果せいかはクレレによって創刊そうかんされた Journal für die reine und angewandte Mathematik をはじめとする学術がくじゅつにおいて発表はっぴょうされるようになった。

20世紀せいき

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よんしょく定理ていりしめ

20世紀せいき以前いぜんは、世界中せかいじゅうのいかなるときも、創造そうぞうてき数学すうがくしゃはほんのわずかであった。ほとんどの場合ばあい数学すうがくしゃはネイピアのように富裕ふゆうそうぞくしていたか、またはガウスのように裕福ゆうふく支援しえんしゃっていた。フーリエのように大学だいがく教授きょうじゅ生計せいけいるものはほとんどおらず、地位ちいることができなかったニールス・ヘンリック・アーベルは、栄養えいよう不良ふりょう結核けっかくにより貧困ひんこんした26さいった。20世紀せいきになって、数学すうがくしゃという職業しょくぎょう社会しゃかいなかめる位置いちまえよりはるかにおおきなものとなった。毎年まいとしなんひゃくものあたらしい数学すうがく博士はかせごうあたえられ、教職きょうしょく産業さんぎょう両方りょうほう仕事しごとがあった。数学すうがく発展はってん幾何級数きかきゅうすうてき増加ぞうかした。あまりにもおおくのあらたな開発かいはつがあり、もっと意味いみふかいいくつかに言及げんきゅう概観がいかんする。

1900ねんに、ダフィット・ヒルベルト国際こくさいすう学者がくしゃ会議かいぎにおいてヒルベルトの23の問題もんだい提示ていじした。この問題もんだいは、数学すうがくおおくの領域りょういきにまたがり、20世紀せいき数学すうがくおおくにたいする関心かんしんまととなった。今日きょう、10の問題もんだい解決かいけつされ、7つが部分ぶぶんてき解決かいけつされ、2つが未解決みかいけつである。のこる4つについては定式ていしき曖昧あいまいなため解決かいけつ未解決みかいけつかをべることは不可能ふかのうである。

1910年代ねんだいシュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887ねん-1920ねん)は、3,000をえる定理ていり開発かいはつした。これには高度こうど合成ごうせいすう固有こゆうせい整数せいすう分割ぶんかつとそのすすむ解析かいせきなずらえテータ関数かんすう (Ramanujan theta functionふくまれる。かれはまた、ガンマ関数かんすうモジュラー形式けいしき発散はっさん級数きゅうすうちょう幾何級数きかきゅうすう、および素数そすう定理ていりおおきな進展しんてん発見はっけんおこなった。

1930年代ねんだい以降いこう、フランスの数学すうがくしゃたちによって結成けっせいされた「ブルバキ」グループは、ニコラ・ブルバキという偽名ぎめいした一連いちれん教科書きょうかしょ出版しゅっぱんし、集合しゅうごうろんもとづいて様々さまざま数学すうがく分野ぶんや統一とういつてき記述きじゅつしようとこころみた。かれらの広範こうはん分野ぶんやわた著作ちょさくのスタイルは、数学すうがく教育きょういくのありかたにも影響えいきょうあたえ、論争ろんそうまととなった[45]

1931ねんに、クルト・ゲーデルは、数理すうり論理ろんりがくにおける形式けいしきてき体系たいけい限界げんかいべる2つのゲーデルの不完全性ふかんぜんせい定理ていり発表はっぴょうした。これによってダフィット・ヒルベルトがゆめみた、基礎きそろんもとづくすべての数学すうがく体系たいけい矛盾むじゅんのない記述きじゅつもとめるこころみは死亡しぼう宣告せんこくけることになった。また、ゲーデルとポール・コーエンによって、連続れんぞくたい仮説かせつツェルメロ・フレンケルの公理系こうりけい (Zermelo–Fraenkel set theoryからは証明しょうめい反証はんしょうもできないことがしめされた。

過去かこ有名ゆうめい予想よそうのうちいくつかは、20世紀せいきになって開発かいはつされたより強力きょうりょく技法ぎほうによって解決かいけつされることになった。ヴォルフガング・ハーケンとケネス・アッペルは、1976ねんコンピュータ使用しようしてよんしょく定理ていり証明しょうめいした。 アンドリュー・ワイルズすうねんにわたる独力どくりょく研究けんきゅうで、1995ねんフェルマーの最終さいしゅう定理ていり証明しょうめいした。また、20世紀せいきになって数学すうがく共同きょうどう研究けんきゅうはかつてない規模きぼおこなわれるようになった。有限ゆうげん単純たんじゅんぐん分類ぶんるい (Classification of finite simple groups理論りろんは1955ねんから1983ねんあいだ発行はっこうされた、やく100にん執筆しっぴつによる500あまりの雑誌ざっし記事きじからなるが、その総体そうたいなんまんページにもわたる。

数理すうりろん理学りがく位相いそう幾何きかがくカオス理論りろんゲーム理論りろんのようなまったあたらしい数学すうがく分野ぶんやが、数学すうがくてき手法しゅほう回答かいとうできる質問しつもん種類しゅるい変化へんかさせた。20世紀せいきわりまでに、数学すうがく芸術げいじゅついきにさえたっした。フラクタル幾何きかは、それまでたことのないようなうつくしいフラクタルアートあたえる。

21世紀せいき

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21世紀せいき初期しょきおおくの教育きょういくしゃあらたな貧困ひんこんそう数学すうがくてき科学かがくてき教養きょうようかんする心配しんぱいべている[46]一方いっぽうで、数学すうがく科学かがく工学こうがく、および科学かがく技術ぎじゅつ相互そうご知識ちしき情報じょうほうつくげ、古代こだい哲学てつがくしゃゆめにもなかった繁栄はんえいがもたらされている。

2003ねんに、グリゴリー・ペレルマンミレニアム懸賞けんしょう問題もんだいひとつであるポアンカレ予想よそう証明しょうめいした。

2007ねん3がつ中旬ちゅうじゅんに、北米ほくべい欧州おうしゅうちゅう研究けんきゅうしゃチームがコンピュータネットワーク使用しようして、E8 (E₈(248次元じげん例外れいがいがた単純たんじゅんリーたまき)の指標しひょうひょう決定けっていした[47]。この E8理解りかいがどのように応用おうようできるかはまだ正確せいかくられていないが、この発見はっけん現代げんだい数学すうがくのチームワークと計算けいさん科学かがく双方そうほうおおきな業績ぎょうせきである。

2009ねんゴ・バオ・チャウにより、ラングランズ・プログラム基本きほん補題ほだい数学すうがくてき証明しょうめいあたえられた[48]

2013ねんテレンス・タオ素数そすう極端きょくたんかたよることなく分布ぶんぷすることにかんする素数そすうしん定理ていり発見はっけん[49][50][51]

2019ねんルイス・モーデル提唱ていしょうした「3つの立法りっぽうすうきすることにより、1~100のかずをすべてつくれるか」という問題もんだいで、最後さいごまでのこっていた42が世界中せかいじゅうのコンピュータ50まんだいをつなぐグリッド・コンピューティング発見はっけんされる[52]

2019ねん12月、テレンス・タオが「コラッツの問題もんだい」についてへん微分びぶん方程式ほうていしきもちいて、「ほとんどすべてのせい整数せいすうにおいてただしい」とする論文ろんぶん発表はっぴょうした[53]

未来みらい

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数学すうがくにおいてられるおおくの傾向けいこうがある、もっと注目ちゅうもくされるのは、つぎのことである:分野ぶんや永続えいぞくてき巨大きょだいし、コンピュータが永続えいぞくてきおおいに重要じゅうように、そして強力きょうりょくになる、生命せいめい情報じょうほう科学かがくへの数学すうがく応用おうよう急速きゅうそく拡大かくだいしている、そしてコンピュータによって促進そくしんされた、科学かがく産業さんぎょうでのまれたデータのりょうは、爆発ばくはつてき拡大かくだいしている[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ いわゆる「ホーナーの近似きんじ解法かいほう」のこと
  2. ^ 1254ねん改訂かいていばんた。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • Eleanor Robson, Jacqueline Stedall, 斎藤さいとうけん(わけ),三浦みうら伸夫のぶお(わけ):「Oxford 数学すうがく」、共立きょうりつ出版しゅっぱん、2014ねん5がつ23にちISBN 978-4320110885
  • 中村なかむらしげる, 室井むろい和男かずお:「数学すうがく数学すうがく5000ねんあゆみ―」、共立きょうりつ出版しゅっぱん、2014ねん11月22にちISBN 978-4320110953
  • 土倉つちくらたもつ(ちょへん):「しん解説かいせつ和算わさん公式こうしきしゅう 算法さんぽうすけじゅつ」、朝倉書店あさくらしょてん、2014ねん11月25にちISBN 978-4254111446

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • MacTutor History of Mathematics archive(John J. O'Connor and Edmund F. Robertson;セント・アンドルーズ大学だいがく
    すうおおくの歴史れきしてきおよび現代げんだい数学すうがくしゃ詳細しょうさい伝記でんき数学すうがくにおける有名ゆうめい変遷へんせんおよび様々さまざま論題ろんだいふくむ、受賞じゅしょうウェブサイト。
  • History of Mathematics Home Page(David E. Joyce;クラーク大学だいがく
    数学すうがく様々さまざま論題ろんだいかんする記事きじ広範こうはん文献ぶんけん目録もくろく
  • The History of Mathematics(David R. Wilkins;ダブリン大学だいがくトリニティ・カレッジ)
    17世紀せいきから19世紀せいきあいだ数学すうがくかんする資料しりょう所蔵しょぞうする。
  • History of Mathematics(サイモンフレーザー大学だいがく
  • Mathematics Pages (Jeff Miller)
    数学すうがく使用しようされる記号きごう用語ようごられている最初さいしょ使用しようかんする情報じょうほうふくみ、数学すうがくしゃ表現ひょうげんする切手きって収集しゅうしゅうする。 [リンク]
  • Biographies of Women Mathematicians(Larry Riddle;アグネス・スコット大学だいがく
  • Mathematicians of the African Diaspora(Scott W. Williams;ニューヨーク州立しゅうりつ大学だいがくバッファローこう
  • Fred Rickey's History of Mathematics Page [リンク]
  • A Bibliography of Collected Works and Correspondence of Mathematicians(Steven W. Rockey;コーネル大学だいがく図書館としょかん[リンク]

学会がっかい

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リンクしゅう・ウェブディレクトリ

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数学すうがく歴史れきし文化ぶんか関連かんれんする日本語にほんごサイト

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