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佐藤さとうしげる

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さとう しげひこ

佐藤さとう しげる
生誕せいたん (1887-09-24) 1887ねん9月24にち
福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ
死没しぼつ (1935-04-16) 1935ねん4がつ16にち(47さいぼつ
東京とうきょう
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 第一高等学校だいちこうとうがっこう京都きょうと帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう神学しんがくしゃ
職業しょくぎょう 牧師ぼくし神学校しんがっこう教師きょうし
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佐藤さとう しげる(さとう しげひこ、1887ねん9月24にち - 1935ねん4がつ16にち)は、日本にっぽん牧師ぼくし神学校しんがっこう教師きょうし日本にっぽんにおけるマルティン・ルター研究けんきゅう開拓かいたくしゃである。

来歴らいれき

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初期しょき

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1887ねん(明治めいじ20ねん)福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつまれる。1907ねん(明治めいじ40ねん)に第一高等学校だいちこうとうがっこう入学にゅうがくする。

キリスト教きりすときょう入信にゅうしん

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同年どうねんキリスト教きりすときょう入信にゅうしんして、組合くみあい教会きょうかい指導しどうしゃ海老名えびな弾正だんじょうから本郷ほんごう教会きょうかい洗礼せんれいける。1910ねん(明治めいじ43ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく入学にゅうがくするが、同年どうねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく転校てんこうする。1913ねん(大正たいしょう2ねん)、京都きょうとみかどだい卒業そつぎょう東京帝大とうきょうていだい大学院だいがくいんでルターの研究けんきゅうはじめた。大学院だいがくいん時代じだいは、日本基督教会にほんきりすときょうかい神学校しんがっこう東京とうきょう神学しんがくしゃでもまなび、富士見町ふじみちょう教会きょうかいまきかいする植村うえむら正久まさひさ師事しじした。また、どう教会きょうかい青年せいねん学生がくせい指導しどうたった[1]

長老ちょうろう牧師ぼくし時代じだい

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1918ねん(大正たいしょう7ねん)に結婚けっこんして、しんしゅう日本基督教会にほんきりすときょうかい牧師ぼくしとして赴任ふにんした。1920ねん(大正たいしょう9ねん)に熊本くまもと日本にっぽん基督教きりすときょうかい転任てんにん同時どうじ九州学院きゅうしゅうがくいん神学しんがく講師こうし就任しゅうにんした。

ルーテル時代じだい

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1922ねん(大正たいしょう11ねん)よりドイツにわたり、1924ねん(大正たいしょう13ねん)までテュービンゲン大学だいがくベルリン大学だいがくカール・ホルカール・ハイム師事しじしルターを研究けんきゅうした。帰国きこく、「ルッター研究けんきゅうかい」を創立そうりつして、月刊げっかん『ルッター研究けんきゅう』を発行はっこうする。また、ルーテル教会きょうかい移籍いせきする[2]

1925ねん(大正たいしょう14ねん)に九州学院きゅうしゅうがくいん神学しんがく東京とうきょう移転いてんして日本にっぽんルーテル神学しんがく専門せんもん学校がっこうになったとき東京とうきょううつり、同校どうこう歴史れきし神学しんがく教授きょうじゅとしてルター神学しんがく研究けんきゅうし、日本にっぽんにおけるルター研究けんきゅう草分くさわけになった。1933ねんに『ローマしょこうかいあらわれしルッターの根本こんぽん思想しそう』を京都きょうとみかどだい提出ていしゅつして、文学ぶんがく博士はかせ学位がくい[2]。ホルの影響えいきょうつよけているといわれる。1935ねん(昭和しょうわ10ねん)に胃癌いがん死去しきょ墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん(11-1-19)

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 鍋谷なべたに、pp.464-465
  2. ^ a b ヴィスロフ、p.42

外部がいぶリンク

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