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高砂たかさご義勇ぎゆうたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

高砂たかさご義勇ぎゆうたい(たかさごぎゆうたい)とは、太平洋戦争たいへいようせんそう台湾たいわん原住民げんじゅうみんにより編成へんせいされた日本にっぽんぐん部隊ぶたいである。高砂たかさご義勇軍ぎゆうぐんとも。

概要がいよう

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しげるがたなかまえる高砂たかさご義勇ぎゆうたい

フィリピンニューギニアなど密林みつりん地帯ちたい戦場せんじょう投入とうにゅうするために創設そうせつされた。だい1かい当初とうしょ高砂たかさご挺身ていしん報国ほうこくたいとして設立せつりつされ、これが台湾たいわん高砂たかさご義勇ぎゆうたい改称かいしょうされた。けい7にわたって派遣はけんされ、合計ごうけい1まんにん以上いじょう原住民げんじゅうみん[注釈ちゅうしゃく 1]参加さんかしたとかんがえられている。

1945ねんにもだい8かい相当そうとうする高砂たかさご義勇ぎゆうたい編成へんせいされたが、連合れんごう国軍こくぐんによって海路かいろたれたため派遣はけんにはいたらず、台湾たいわん各地かくち警備けいびてられた。隊員たいいん身分みぶん軍人ぐんじんではなく軍属ぐんぞくであり、日本にっぽん陸海りくかいぐん台湾たいわん特別とくべつ志願しがんへいとはべつ存在そんざいである。なお高砂たかさご義勇ぎゆうたい台湾たいわん特別とくべつ志願しがんへいとはべつひらけみなみ勤務きんむたいという組織そしき存在そんざいし、南方なんぽうでの開墾かいこん土木どぼく作業さぎょう従事じゅうじした。

それぞれの義勇ぎゆうたい日本人にっぽんじん台湾たいわん警察官けいさつかん引率いんそつされ、伝統でんとうてき生活せいかつ道具どうぐでもあるしげるがたなびるほかは武装ぶそうせず、本来ほんらい目的もくてき戦地せんちにおける兵站へいたん土木どぼく工事こうじであった。しかし実際じっさいには、だい1かい高砂たかさご義勇ぎゆうたいバターン・コレヒドールせん参加さんかしたのを皮切かわきりに、戦闘せんとうにも投入とうにゅうされた。だい1かい高砂たかさご義勇ぎゆうたい契約けいやく期間きかん満了まんりょうして、高雄たかお地区ちく出身しゅっしんしゃたい残留ざんりゅうして南方なんぽう転戦てんせんしたほかは帰還きかんできたが、だい2かい以降いこう帰還きかん自体じたい困難こんなんとなった。日本にっぽんぐん守勢しゅせいたされてからは、耕作こうさく採取さいしゅ狩猟しゅりょうなどによる食糧しょくりょう調達ちょうたつ尽力じんりょくするほか、陸軍りくぐん中野なかの学校がっこう出身しゅっしんしゃ指揮しきゆうげきたい組織そしきされて、各地かくちゲリラせん実施じっしした。戦病死せんびょうししゃ割合わりあい作戦さくせんともにした日本にっぽん軍人ぐんじんよりもたかかったといわれている。

伝統でんとうてき生活せいかついとな高砂たかさごぞくには地域ちいき部族ぶぞくによって差異さいがあるものの、タイヤルぞく代表だいひょうされる勇敢ゆうかん純朴じゅんぼく性質せいしつや、みみ夜目よめき、素足すあし痕跡こんせきのこさず行動こうどうして、おとよる密林みつりんめぐるとわれるほど身体しんたい能力のうりょくたかさ、指導しどうしゃ指示しじ着実ちゃくじつ遂行すいこうする気風きふう、わずかな食糧しょくりょうでもみな集団しゅうだん意識いしきが、東南とうなんアジアの密林みつりん地帯ちたいにおいて有用ゆうよう戦力せんりょくになると期待きたいされた。一部いちぶ部族ぶぞくには首狩くびが風習ふうしゅうのこるなど、勇敢ゆうかんであること・つよきことは原住民げんじゅうみんって美徳びとくであった。さらに熱帯ねったい地域ちいきでのサバイバル知識ちしきは、優勢ゆうせいべいごうぐんたいする襲撃しゅうげきや、補給ほきゅうたれた状況じょうきょうでの食料しょくりょう調達ちょうたつにもかされた。

高砂たかさご義勇ぎゆうたい関連かんれんした裁判さいばん

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戦後せんご強制きょうせいてき軍事ぐんじ郵便ゆうびん貯金ちょきんあづけさせられせないままとなっている給与きゅうよとうはらもどし(確定かくてい債務さいむ問題もんだい)、戦死せんししゃ靖国神社やすくにじんじゃへの合祀ごうしなどをめぐって生存せいぞんしゃ遺族いぞく一部いちぶ裁判さいばんとう係争けいそうつづけていたが、2005ねん9がつ30にち大阪おおさか高裁こうさい判決はんけつ敗訴はいそ確定かくていした。大阪おおさか高裁こうさいでの判決はんけつは、地元じもと原住民げんじゅうみんメディアも取材しゅざい即日そくじつ台湾たいわんにて放送ほうそうされた。反対はんたいする生存せいぞんしゃ遺族いぞくり、また靖国神社やすくにじんじゃへの参拝さんぱいなどを希望きぼうし、継続けいぞくしている。靖国神社やすくにじんじゃが「いったん合祀ごうしした英霊えいれい分割ぶんかつすること出来できない」と主張しゅちょうするなか、台湾たいわん団結だんけつ連盟れんめい靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい事件じけん反発はんぱつして2005ねん6月14にちには台湾たいわん立法りっぽう委員いいん国会こっかい議員ぎいんこうかねもとうめ(チワスアリ)ら60にん台湾たいわん原住民げんじゅうみん靖国神社やすくにじんじゃおとずれた。これは戦没せんぼつした義勇ぎゆうへいれいもど儀式ぎしきかえわがれい」をおこなためとの説明せつめいではあったが、実際じっさい以前いぜんに「かえわがれい」を靖国神社やすくにじんじゃにて挙行きょこうしており(1かい靖国神社やすくにじんじゃ認可にんかしている)、また参加さんかした60にん台湾たいわん原住民げんじゅうみんへの来日らいにち募集ぼしゅう要項ようこう記載きさいされている日程にっていは、だい部分ぶぶん日本にっぽん観光かんこうめぐりであり、いろいろ議論ぎろんこしている。

今回こんかいこうかねもとうめらの行為こうい台湾たいわん各種かくしゅメディアでおおきく報道ほうどうされ、台湾たいわん内部ないぶでその行為こうい是非ぜひについて議論ぎろんんだ。支持しじしゃ反対はんたいでは、この報道ほうどうについてのかたおおきくことなっている。

  • 支持しじしゃから見方みかた
台湾たいわん原住民げんじゅうみん習慣しゅうかん先祖せんぞ自宅じたくまつ文化ぶんかがあり、自宅じたく先祖せんぞまつらないものは「不孝ふこうしゃ」として、コミュニティ、世間体せけんていから軽蔑けいべつされる文化ぶんかがあった。このような背景はいけいもとで、台湾たいわん原住民げんじゅうみんおよびその台湾たいわん出身しゅっしんきゅう日本にっぽんぐん遺族いぞくつよ意思いしで、「むかいれい招魂しょうこん」の儀式ぎしき挙行きょこうのぞんでいるのに、靖国神社やすくにじんじゃ断固だんことして台湾たいわん遺族いぞく意思いし、そして台湾たいわん文化ぶんか無視むししたてんについては、台湾たいわん一部いちぶメディアはこうきんもとうめおよ遺族いぞくたいして同情どうじょうしめし、また日本にっぽん政府せいふおよ靖国神社やすくにじんじゃ強硬きょうこう対応たいおう批判ひはんてきとらえている。
  • 反対はんたいから見方みかた
各種かくしゅメディアの報道ほうどうではこの運動うんどう台湾たいわんじん意見いけん代表だいひょうするものではないとの批判ひはんてき意見いけんされている。また、「「むかいれい招魂しょうこん」の儀式ぎしき挙行きょこうのぞんでいる」という主張しゅちょうたいして、過去かこに「むかいれい招魂しょうこん儀式ぎしき」を靖国神社やすくにじんじゃがわ許諾きょだくいちであるが挙行きょこうされているため、支持しじしゃ主張しゅちょう一部いちぶたされているはずと靖国神社やすくにじんじゃがわ主張しゅちょうしている。大阪おおさか地裁ちさいへの訴訟そしょうさいにも、台湾たいわん原住民げんじゅうみん本人ほんにん許諾きょだくなしですうひゃくめい名簿めいぼ作成さくせい。しかしその名簿めいぼもと個人こじん確認かくにんおこなった結果けっか、ほとんどは同意どういなしで名簿めいぼされたことが確認かくにんされ名簿めいぼからの抹消まっしょうおこなわれた。

参照さんしょう大日本帝国だいにっぽんていこく英霊えいれい靖国神社やすくにじんじゃ民間みんかん伝承でんしょう

補償ほしょう給与きゅうよ未払みはら問題もんだい

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降伏ごうぶくともな日本にっぽん台湾たいわん放棄ほうきにより日本にっぽん国籍こくせき喪失そうしつした台湾たいわんじんは、日本国にっぽんこく政府せいふによる戦争せんそう被害ひがい補償ほしょう対象たいしょうから除外じょがいされ、もと軍人ぐんじん軍属ぐんぞくやその遺族いぞくたいする障害しょうがい年金ねんきん遺族いぞく年金ねんきん恩給おんきゅう弔慰ちょういきんのみならず、戦争せんそうちゅうはらい給与きゅうよ軍事ぐんじ郵便ゆうびん貯金ちょきん上述じょうじゅつとう支払しはらいも、一切いっさいおこなわれなかった。1952ねん4がつ28にちにちはな平和へいわ条約じょうやくでは、にちたいあいだ財産ざいさん請求せいきゅうけん問題もんだいは「日本国にっぽんこく政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく政府せいふとのあいだ特別とくべつきょく主題しゅだいとする」とさだめられたが、日本にっぽん政府せいふ対応たいおう消極しょうきょくてきで、国民こくみん政府せいふ戦後せんご日本にっぽんから接収せっしゅうした財産ざいさん正当せいとうせいあつかいが議論ぎろんされることを懸念けねんし、くわえてかつての「てき」である台湾たいわんじんもと日本にっぽんへい問題もんだいには関心かんしんだったのだ。結局けっきょくはないがなされないまま日本にっぽん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの国交こっこう樹立じゅりつともなにちたい国交こっこう断絶だんぜつした。日本にっぽんあいし、本土ほんど日本人にっぽんじんおなじように日本にっぽんのために戦地せんちおもむいたにもかかわらず手当てあてけられずにいる台湾たいわんじんもと日本にっぽんへいは、はげしい不満ふまんくやしさのねんいだくこととなった[1][2]

1974ねんすえインドネシアのモロタイとう残留ざんりゅう日本にっぽんへいとして発見はっけんされた台湾たいわんじん中村なかむら輝夫てるお民族みんぞくめい:スニオン、かんめい光輝みつてる)も、台湾たいわん原住民げんじゅうみんアミぞく出身しゅっしん義勇ぎゆう隊員たいいんであった。かれ確認かくにんが、日本にっぽん世論せろんにおいて「高砂たかさご義勇軍ぎゆうぐん」が話題わだいのぼった最初さいしょのきっかけとなった。かれ発見はっけんをきっかけに給与きゅうよはらい補償ほしょうがないことにかんする世論せろん批判ひはんもおき、1987ねん9がつに「台湾たいわん住民じゅうみんである戦没せんぼつしゃ遺族いぞくとうたいする弔慰ちょういきんとうかんする法律ほうりつ」、1988ねん5がつに「特定とくてい弔慰ちょういきんとう支給しきゅう実施じっしかんする法律ほうりつ」がそれぞれ特別とくべつ立法りっぽう成立せいりつし、申請しんせいみとめられた場合ばあいには台湾たいわんじんもと日本にっぽんへい遺族いぞく当事とうじしゃである戦傷せんしょう病者びょうしゃたいし1にんたり200まんえん特定とくてい弔慰ちょういきん支給しきゅうされることとなった[2]

また、軍事ぐんじ郵便ゆうびん貯金ちょきんについては額面がくめんの120ばいにして返却へんきゃくすることがまり、1995ねん支払しはらいが開始かいしされた。一部いちぶもと隊員たいいんったが、戦時せんじちゅうには大金たいきんであった平均へいきん残高ざんだか1000えんを120ばいにしたところで12まんえんにすぎず、物価ぶっか上昇じょうしょう考慮こうりょするとすう年間ねんかん戦闘せんとう対価たいかとしてはあまりに少額しょうがくとして抗議こうぎするもと隊員たいいんもいた[3]。1996ねん6がつに、日本にっぽん大使館たいしかん相当そうとうする台北たいぺい交流こうりゅう協会きょうかいもと隊員たいいん襲撃しゅうげきする事件じけんこった[4][5]

すでおおくのもと兵士へいしはこのっておりのこされた補償ほしょう問題もんだい解決かいけつかいはじめている[2]

高砂たかさご義勇ぎゆうたい慰霊いれい

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がらすらい高砂たかさご義勇ぎゆうたい慰霊いれい。「れいやす故郷こきょう」は登輝とうきによるしょ[6]

台湾たいわんでは戦後せんご台湾たいわん原住民げんじゅうみんしゅううららうめ慰霊いれい建立こんりゅうし、現在げんざい長男ちょうなんの邱克ひらめおいの簡福げん管理かんりしているが、慰霊いれい敷地しきち提供ていきょうしていた台北たいぺい郊外こうがい観光かんこう会社かいしゃが、新型しんがた肺炎はいえん(SARS)流行りゅうこうによる日本人にっぽんじん観光かんこうきゃく激減げきげん倒産とうさんし、維持いじ管理かんり困難こんなんになったことから慰霊いれい撤去てっきょされそうになった[7]。この事態じたい産経新聞さんけいしんぶん(2004ねん7がつ4にちづけ朝刊ちょうかん1めん)に「高砂たかさご義勇ぎゆうへい慰霊いれい撤去てっきょ危機きき」とだいして掲載けいさいされた。

その2006ねん2がつ8にち慰霊いれい移設いせつ完了かんりょうしたが、17にち中国時報ちゅうごくじほうにより日本にっぽん賛美さんびする碑文ひぶんであると報道ほうどうされた[8]ことから反発はんぱつひろがり、敷地しきち提供ていきょうしている台北たいぺいけん政府せいふ慰霊いれい撤去てっきょ命令めいれいした[8][9]地元じもとがわ撤去てっきょ反対はんたい[8]し、24にちには、強制きょうせい撤去てっきょ着手ちゃくしゅしたけん政府せいふ地元じもとがわ衝突しょうとつ発生はっせいした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 当時とうじ先住民せんじゅうみんぞく人口じんこうじゅうすうまんにんであり、わか男性だんせい相当そうとうすう志願しがんしたことになる[1]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 大東だいとう, 和重かずえ (2020-2-25). 台湾たいわん歴史れきし文化ぶんか むっつの時代じだいりなす「美麗びれいとう. 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ. pp. 27-29. ISBN 978-4-12-102581-4. OCLC 1144541122. https://www.worldcat.org/oclc/1144541122 
  2. ^ a b c 権田ごんだ, 猛資たけし (2020ねん11月28にち). “台湾たいわんじんもと日本にっぽんへい戦後せんご補償ほしょう問題もんだい――のこされた人々ひとびとねがいにしんの「解決かいけつ」を”. nippon.com. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんニッポンドットコム. 2021ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ てられた皇軍こうぐん兵士へいしたち
  4. ^ 台湾たいわん現住げんじゅう民族みんぞく日本にっぽん
  5. ^ がらすらい高砂たかさご義勇ぎゆうへい記念きねんにて
  6. ^ がらすらい”. 交通こうつう観光かんこうきょく (2020ねん9がつ28にち). 2021ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  7. ^ [1][リンク]
  8. ^ a b c 義勇ぎゆうたい慰霊いれい撤去てっきょ命令めいれい 台湾たいわん親日しんにち反日はんにち対立たいりつ. 共同通信社きょうどうつうしんしゃ. 47NEWS. (2006ねん2がつ20日はつか). https://web.archive.org/web/20131211081516/http://www.47news.jp/CN/200602/CN2006022001003855.html 2013ねん12月5にち閲覧えつらん 
  9. ^ [2](2006ねん6がつ27にち時点じてんアーカイブ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 陸軍りくぐん中野なかの学校がっこう⑤ゲリラ戦史せんし」 畠山はたけやま清行きよゆきちょ ばんまち書房しょぼう 1973ねん
  • 陸軍りくぐん中野なかの学校がっこう東部とうぶニューギニアゆうげきせん台湾たいわん高砂たかさご義勇ぎゆうへいとの戦勝せんしょうろく」 田中たなか 俊男としおちょ 戦史せんし刊行かんこうかい 1996ねん
  • 証言しょうげん 台湾たいわん高砂たかさご義勇ぎゆうたいはやしえいだいちょ そうふうかん 1998ねん
  • 「ノンフィクションの現場げんばあるく ―台湾たいわん原住民げんじゅうみんぞく日本にっぽん」 柳本やなぎもと通彦みちひこちょ シーエーピー出版しゅっぱん 2006ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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