朝鮮半島 ちょうせんはんとう の軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん (MDL。青 あお 太線 ふとせん )とそれを囲 かこ む非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい (DMZ。濃 こ いオレンジ)。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう は1945年 ねん から1950年 ねん までは38度 ど 線 せん によって、1953年 ねん から現在 げんざい までは軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん によって南北 なんぼく に分断 ぶんだん されている。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう 分断 ぶんだん (ちょうせんはんとうぶんだん)では、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における日本 にっぽん の敗北 はいぼく と降伏 ごうぶく に起因 きいん する、朝鮮半島 ちょうせんはんとう が朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく と大韓民国 だいかんみんこく に分断 ぶんだん された現状 げんじょう を解説 かいせつ する。
大戦 たいせん 中 ちゅう 、連合 れんごう 国 こく 首脳 しゅのう は日本 にっぽん が降伏 ごうぶく した後 のち の朝鮮 ちょうせん の将来 しょうらい について検討 けんとう を行 おこな い、朝鮮 ちょうせん は日本 にっぽん の支配 しはい からは解放 かいほう されるが自治 じち の準備 じゅんび が整 ととの ったとみなせるまでは国際 こくさい 的 てき な信託 しんたく 統治 とうち 下 した に置 お かれるとの認識 にんしき に至 いた った[1] :5–17 。大戦 たいせん 末期 まっき 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は、38度 ど 線 せん を境 さかい に朝鮮半島 ちょうせんはんとう を南北 なんぼく に分割 ぶんかつ してそれぞれアメリカとソビエト連邦 れんぽう の占領 せんりょう 地域 ちいき とする案 あん をソ連 それん 側 がわ に提示 ていじ し、ソ連 それん もこの案 あん を受 う け入 い れた[2] 。
当初 とうしょ この分割 ぶんかつ は、あくまで信託 しんたく 統治 とうち に移行 いこう するまでの一時 いちじ 的 てき なものと理解 りかい されていた。
1945年 ねん 12月に開 ひら かれたモスクワ三 さん 国 こく 外相 がいしょう 会議 かいぎ では、朝鮮 ちょうせん 統治 とうち については米 べい ・英 えい ・中 なか ・ソ4か国 こく による最長 さいちょう 5年間 ねんかん の信託 しんたく 統治 とうち とすることで合意 ごうい に至 いた った[3] 。しかしながら、冷戦 れいせん の勃発 ぼっぱつ といった国際 こくさい 的 てき 要因 よういん や信託 しんたく 統治 とうち 反対 はんたい 運動 うんどう など国内 こくない 的 てき 要因 よういん などによって、米 べい ソ間 あいだ で行 おこな われた2年間 ねんかん に亘 わた る信託 しんたく 統治 とうち 移行 いこう 交渉 こうしょう は不発 ふはつ に終 お わり、独立 どくりつ した朝鮮 ちょうせん 人 じん の統一 とういつ 国家 こっか を再興 さいこう するために合意 ごうい された唯一 ゆいいつ の枠組 わくぐ みは事実 じじつ 上 じょう 無効 むこう となった[1] :45–154 。
これにより朝鮮 ちょうせん 問題 もんだい は国連 こくれん に付託 ふたく されることとなったが、1948年 ねん の国連 こくれん 決議 けつぎ はソ連 それん にとって許容 きょよう 可能 かのう なものとはならず、在 ざい 朝鮮 ちょうせん アメリカ陸軍 りくぐん 司令 しれい 部 ぶ 軍 ぐん 政庁 せいちょう 下 した の南部 なんぶ 朝鮮 ちょうせん のみで初代 しょだい 総 そう 選挙 せんきょ が実施 じっし された。
米国 べいこく の支援 しえん を受 う けた李 り 承晩 しょうばん がこの選挙 せんきょ に勝利 しょうり した一方 いっぽう で、ソ連 それん の支配 しはい する北部 ほくぶ 朝鮮 ちょうせん では金 きむ 日成 いるそん が指導 しどう 者 しゃ の地位 ちい を確立 かくりつ した。1948年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、南部 なんぶ では大韓民国 だいかんみんこく (韓国 かんこく )が樹立 じゅりつ 、直後 ちょくご の1948年 ねん 9月 がつ 9日 にち に北部 ほくぶ で朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん )が建国 けんこく された。米国 べいこく は南 みなみ を、ソ連 それん は北 きた を支援 しえん し、南北 なんぼく 両 りょう 政府 せいふ とも朝鮮半島 ちょうせんはんとう 全体 ぜんたい が統治 とうち 地域 ちいき であることを主張 しゅちょう した。
1950年 ねん 6月 がつ 25日 にち 、北朝鮮 きたちょうせん は半島 はんとう を共産党 きょうさんとう 支配 しはい の下 した で再 さい 統一 とういつ しようと試 こころ み、韓国 かんこく へ侵攻 しんこう した。後 のち に朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう と呼 よ ばれるこの戦争 せんそう は1950年 ねん から1953年 ねん まで続 つづ き、1953年 ねん 7月 がつ 27日 にち に朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 休戦 きゅうせん 協定 きょうてい を締結 ていけつ して休戦 きゅうせん したが、半島 はんとう を非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい (DMZ) で分断 ぶんだん した状態 じょうたい は現在 げんざい まで続 つづ いている。
2018年 ねん 4月 がつ 27日 にち に開 ひら かれた南北 なんぼく 首脳 しゅのう 会談 かいだん において、北朝鮮 きたちょうせん の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ 金 きむ 正 ただし 恩 おん と韓国 かんこく 大統領 だいとうりょう 文 ぶん 在 ざい 寅 とら との間 あいだ で朝鮮半島 ちょうせんはんとう の平和 へいわ と繁栄 はんえい 、再 さい 統一 とういつ のための板門店 はんもんてん 宣言 せんげん が採択 さいたく された。同年 どうねん 9月 がつ の南北 なんぼく 首脳 しゅのう 会談 かいだん では、監視 かんし 所 しょ の解体 かいたい や軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ を防 ふせ ぐための緩衝 かんしょう 地帯 ちたい の設置 せっち など、国境 こっきょう 沿 ぞ いの統一 とういつ に向 む けていくつかの行動 こうどう が取 と られた。同年 どうねん 12月 がつ 12日 にち には非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい での監視 かんし 所 しょ 撤去 てっきょ 作業 さぎょう が行 おこな われ「南北 なんぼく 双方 そうほう の兵士 へいし が史上 しじょう 初 はじ めて平和 へいわ 的 てき に軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん (MDL) を越 こ えた」ことが報 ほう じられた[4] [5] [6] 。
歴史 れきし 的 てき 背景 はいけい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい (1910年 ねん - 1945年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1905年 ねん に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が終結 しゅうけつ して大韓 たいかん 帝国 ていこく は日本 にっぽん の保護 ほご 国 こく となり、1910年 ねん に日本 にっぽん に併合 へいごう された(韓国 かんこく 併合 へいごう )。大韓 たいかん 帝国 ていこく 初代 しょだい 皇帝 こうてい 高 こう 宗 はじめ は1907年 ねん に退位 たいい されられた。その後 ご 数 すう 十 じゅう 年 ねん の間 あいだ 、朝鮮 ちょうせん では独立 どくりつ を求 もと める民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ や急進 きゅうしん 派 は などのグループが現 あらわ れたが、見解 けんかい や手法 しゅほう の相違 そうい によりひとつの運動 うんどう としてまとまることはなかった[7] [8] :156–160 。また中国 ちゅうごく (中華民国 ちゅうかみんこく )上海 しゃんはい で結成 けっせい された亡命 ぼうめい 政府 せいふ 的 てき 組織 そしき である大韓民国 だいかんみんこく 臨時 りんじ 政府 せいふ も朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん に広 ひろ く認 みと められるにはいたらなかった[8] :159–160 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 8月 がつ 16日 にち 、京 きょう 城府 じょうふ (現 げん ソウル )の朝鮮 ちょうせん 建国 けんこく 準備 じゅんび 委員 いいん 会 かい で演説 えんぜつ を行 おこな う呂 りょ 運 うん 亨 とおる 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の1943年 ねん 11月に行 おこな われたカイロ会談 かいだん において、米 べい 大統領 だいとうりょう フランクリン・ローズヴェルト 、英 えい 首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル と国民 こくみん 政府 せいふ 主席 しゅせき 蔣介石 せき は、日本 にっぽん は武力 ぶりょく で奪取 だっしゅ ・占領 せんりょう した地域 ちいき をすべて喪失 そうしつ しなければならないことで合意 ごうい した。
会談 かいだん を経 へ て「三 さん 大国 たいこく は朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん の奴隷 どれい 状態 じょうたい に留意 りゅうい し、朝鮮 ちょうせん をやがて自由 じゆう かつ独立 どくりつ のものとする」ことを表明 ひょうめい したカイロ宣言 せんげん が発表 はっぴょう された[9] [10] [11] [12] 。
米国 べいこく はフィリピンをモデルに朝鮮 ちょうせん の信託 しんたく 統治 とうち を構想 こうそう し、1943年 ねん の夏 なつ から秋 あき にかけて主要 しゅよう 連合 れんごう 国 こく と協議 きょうぎ しようとしたが、英国 えいこく はこれを拒絶 きょぜつ し続 つづ けた[13] 。ローズヴェルトは1943年 ねん 11月のテヘラン会談 かいだん と1945年 ねん 2月 がつ のヤルタ会談 かいだん でヨシフ・スターリン に信託 しんたく 統治 とうち 構想 こうそう を持 も ち掛 か けた。スターリンは構想 こうそう に反対 はんたい はしなかったが、信託 しんたく 統治 とうち の期間 きかん は「短 みじか ければ短 みじか いほど望 のぞ ましい」と答 こた えたという[8] :187–188 [14] [15] 。
このテヘラン会談 かいだん とヤルタ会談 かいだん において、スターリンは欧州 おうしゅう での勝利 しょうり の2~3か月 げつ 後 ご に太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん で連合 れんごう 国 こく に加勢 かせい して対 たい 日 にち 参戦 さんせん すると密約 みつやく した[16] 。広島 ひろしま に原爆 げんばく が落 お とされた 2日 にち 後 ご 、長崎 ながさき に原爆 げんばく が落 お とされる前日 ぜんじつ の1945年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、ソ連 それん は日本 にっぽん に対 たい して宣戦 せんせん を布告 ふこく した[17] 。
対 たい 日 にち 戦 せん が始 はじ まると、ソ連 それん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん アレクサンドル・ヴァシレフスキー は朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん に日本 にっぽん への反抗 はんこう を求 もと め「自由 じゆう と独立 どくりつ の旗 はた をソウルに掲 かか げよ」と呼 よ びかけた[18] 。
1945年 ねん 12月連合 れんごう 軍 ぐん の信託 しんたく 統治 とうち に抗議 こうぎ する韓国 かんこく 市民 しみん 。
ソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう は早 はや く、米国 べいこく 政府 せいふ は沖縄 おきなわ にいた米 べい 軍 ぐん 主力 しゅりょく の到着 とうちゃく 前 まえ にソ連 それん が半島 はんとう すべてを占領 せんりょう してしまうことを憂慮 ゆうりょ して、事前 じぜん に米 べい ソの境界 きょうかい 線 せん を設定 せってい しようとした[19] 。1945年 ねん 8月 がつ 10日 とおか 、ディーン・ラスク 大佐 たいさ とチャールズ・ボーンスティール 大佐 たいさ という二人 ふたり の若 わか い将校 しょうこう が米 べい 軍 ぐん の占領 せんりょう 地域 ちいき を確定 かくてい する任務 にんむ に就 つ いた。突然 とつぜん の通知 つうち で何 なん の準備 じゅんび もしていなかった二人 ふたり は、雑誌 ざっし ナショナル ジオグラフィック の壁掛 かべか け地図 ちず を元 もと に30分 ふん ほどで北緯 ほくい 38度 ど で朝鮮半島 ちょうせんはんとう を分割 ぶんかつ する素案 そあん を作成 さくせい した[19] 。これは朝鮮 ちょうせん の国土 こくど をおよそ半分 はんぶん にし、かつ首都 しゅと ソウル をアメリカの支配 しはい 下 か に置 お くものであった。朝鮮 ちょうせん 問題 もんだい の専門 せんもん 家 か には誰 だれ 一人 ひとり 相談 そうだん しなかった。二人 ふたり は40年 ねん 前 まえ 、革命 かくめい 前 まえ のロシア帝国 ていこく と日本 にっぽん が同 おな じ線 せん で朝鮮 ちょうせん 分割 ぶんかつ を協議 きょうぎ していたことすら知 し らなかった。ラスクは後 のち に、もし知 し ってたらまず間違 まちが いなく他 ほか の線 せん を選 えら んでいたと述 の べている[20] [21] 。
この分割 ぶんかつ により朝鮮 ちょうせん の人口 じんこう は南部 なんぶ アメリカ側 がわ で1600万 まん 人 にん 、北部 ほくぶ ソ連 それん 側 がわ では900万 まん 人 にん となった[22] 。ラスクは「米 べい 軍 ぐん が現実 げんじつ 的 てき に到達 とうたつ 可能 かのう な線 せん よりさらに北 きた に分割 ぶんかつ 線 せん を設定 せってい してもそれにソ連 それん が同意 どうい しない場合 ばあい も考 かんが えた、、、我々 われわれ は朝鮮 ちょうせん の首都 しゅと をアメリカ軍 ぐん の管轄 かんかつ 内 ない に含 ふく めることが重要 じゅうよう だと感 かん じていた」と述 の べている。また「直 ただ ちに動員 どういん できる米 べい 軍 ぐん の数 かず が少 すく ないという現実 げんじつ に直面 ちょくめん しており、時間 じかん と距離 きょり の問題 もんだい からソ連 それん 軍 ぐん よりも先 さき に北部 ほくぶ の奥地 おくち まで占領 せんりょう 地域 ちいき を広 ひろ げるのは困難 こんなん であった」ことも指摘 してき している[23] 。
アメリカ側 がわ にとって驚 おどろ きだったことに、ソ連 それん 側 がわ はすんなりとこの分割 ぶんかつ 案 あん を受 う け入 い れた[18] [24] 。
この合意 ごうい 内容 ないよう は、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく に続 つづ いて発令 はつれい された一般 いっぱん 命令 めいれい 第 だい 一 いち 号 ごう (1945年 ねん 8月 がつ 17日 にち 承認 しょうにん )に盛 も り込 こ まれた[24] 。
ソ連 それん 軍 ぐん は8月 がつ 14日 にち までに陸海 りくかい 両面 りょうめん での上陸 じょうりく 作戦 さくせん を開始 かいし し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北東 ほくとう 部 ぶ を制圧 せいあつ して8月 がつ 16日 にち に元山 もとやま を占領 せんりょう [25] 、8月 がつ 24日 にち にソウルに次 つ ぐ半島 はんとう 第 だい 二 に の都市 とし 平壌 ぴょんやん を制圧 せいあつ した[24] 。
日本 にっぽん の最後 さいご の朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく であった陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 阿部 あべ 信行 のぶゆき は1945年 ねん 8月 がつ のはじめ頃 ごろ から権力 けんりょく 移行 いこう 準備 じゅんび のため複数 ふくすう の大物 おおもの 朝鮮 ちょうせん 人 じん と接触 せっしょく した。8月に左派 さは 政治 せいじ 家 か 呂 りょ 運 うん 亨 とおる を委員 いいん 長 ちょう とする朝鮮 ちょうせん 建国 けんこく 準備 じゅんび 委員 いいん 会 かい (CPKI、建 けん 準 じゅん )が発足 ほっそく し、同月 どうげつ 中 ちゅう に朝鮮 ちょうせん 各地 かくち に支部 しぶ がつくられた。1945年 ねん 9月 がつ 6日 にち ソウルで議会 ぎかい が招集 しょうしゅう され、短命 たんめい に終 お わることになる「朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 」の樹立 じゅりつ が宣言 せんげん された[26] [27] 。議会 ぎかい の総意 そうい により、アメリカに亡命 ぼうめい していた保守 ほしゅ 派 は の長老 ちょうろう 、李 り 承晩 しょうばん が主席 しゅせき に指名 しめい された[28] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
分割 ぶんかつ (1945年 ねん 9月 がつ 2日 にち 以降 いこう )[ 編集 へんしゅう ]
ソ連 それん による北朝鮮 きたちょうせん 支配 しはい [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 10月 がつ 14日 にち 、平壌 ぴょんやん で開 ひら かれたソ連 それん 解放 かいほう 軍 ぐん 歓迎 かんげい 平壌 ぴょんやん 市民 しみん 大会 たいかい
大戦 たいせん 末期 まっき 北部 ほくぶ 朝鮮 ちょうせん に侵攻 しんこう したソ連 それん 軍 ぐん は、日本 にっぽん 軍 ぐん からはほとんど抵抗 ていこう を受 う けず、一方 いっぽう で様々 さまざま な朝鮮 ちょうせん 人 じん グループから支援 しえん を受 う けた[29] 。
8月24日 にち に平壌 ぴょんやん 入 い りしたソ連 それん 軍 ぐん は、平壌 ぴょんやん に平 ひら 南 みなみ 人民 じんみん 政治 せいじ 委員 いいん 会 かい を設立 せつりつ し曺晩植 うえ を委員 いいん 長 ちょう に据 す えた[30] 。
ソ連 それん 軍 ぐん はこうした「人民 じんみん 委員 いいん 会 かい 」(ソ連 それん に友好 ゆうこう 的 てき な組織 そしき )の機能 きのう を認 みと めていた。1945年 ねん 9月 がつ 、ソ連 それん 当局 とうきょく は独自 どくじ の通貨 つうか 「赤軍 せきぐん ウォン」を発行 はっこう した[18] 。
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん で多大 ただい な損失 そんしつ を被 こうむ ったソ連 それん には、朝鮮半島 ちょうせんはんとう に完全 かんぜん な衛星 えいせい 国 こく を作 つく るだけの資源 しげん も意思 いし もなかった。このため北部 ほくぶ 朝鮮 ちょうせん は東欧 とうおう 諸国 しょこく に比 くら べてより高 たか いレベルでの自治 じち が許 ゆる される形 かたち となった。
ソ連 それん 政府 せいふ は、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国家 こっか を建設 けんせつ する目的 もくてき で、ソビエト連邦 れんぽう 内 ない に住 す んでいた多 おお くの朝鮮 ちょうせん 人 じん を北部 ほくぶ 朝鮮 ちょうせん に連 つ れてきており、その中 なか にはソ連 それん 共産 きょうさん 党員 とういん も少 すく なからずいた[29] 。
南部 なんぶ 朝鮮 ちょうせん とは異 こと なり、旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん 当局 とうきょく はソ連 それん には事実 じじつ 上 じょう 何 なん の援助 えんじょ もせず、工場 こうじょう や鉱山 こうざん 、公式 こうしき 記録 きろく を破壊 はかい さえした[29] 。
ソ連 それん 占領 せんりょう 期 き 、ソ連 それん 兵 へい は日本人 にっぽんじん と朝鮮 ちょうせん 人 じん の両方 りょうほう に対 たい して広範囲 こうはんい にわたって強姦 ごうかん と略奪 りゃくだつ を行 おこな った。ソ連 それん 兵 へい たちは略奪 りゃくだつ 品 ひん を本国 ほんごく に送 おく ることすら許 ゆる されていた。こうした暴虐 ぼうぎゃく は1946年 ねん 1月 がつ に憲兵 けんぺい 隊 たい が朝鮮 ちょうせん に到着 とうちゃく するまで減 へ ることはなかった[29] 。
1946年 ねん 、ソ連 それん の政治 せいじ 将校 しょうこう テレンティ・シトゥイコフ が行政 ぎょうせい の責任 せきにん 者 しゃ となり、低迷 ていめい する経済 けいざい を立 た て直 なお すためソ連 それん 政府 せいふ に予算 よさん 陳情 ちんじょう を始 はじ めた[18] 。シトゥイコフは大戦 たいせん 末期 まっき に満 まん 洲 しゅう でソ連 それん 軍 ぐん から訓練 くんれん を受 う けていた金 きむ 日成 いるそん を強力 きょうりょく に支援 しえん し、このことが金 きむ 日成 いるそん 台頭 たいとう を決定的 けっていてき なものとした[31] 。1946年 ねん 2月 がつ 、金 きむ 日成 いるそん の下 した で北朝鮮 きたちょうせん 臨時 りんじ 人民 じんみん 委員 いいん 会 かい と呼 よ ばれる北朝鮮 きたちょうせん の臨時 りんじ 政府 せいふ が結成 けっせい された。平壌 ぴょんやん の政府 せいふ 上層 じょうそう 部 ぶ では、新 しん 政府 せいふ における権力 けんりょく の座 ざ を狙 ねら って様々 さまざま な勢力 せいりょく が工作 こうさく を行 おこな い、対立 たいりつ と権力 けんりょく 闘争 とうそう が繰 く り広 ひろ げられた[32] 。
1946年 ねん 12月、シトゥイコフは他 た の2人 ふたり のソ連 それん 将官 しょうかん と共 とも に(朝鮮 ちょうせん 人 じん は同席 どうせき しなかった)その後 ご 行 おこな われた北部 ほくぶ 朝鮮 ちょうせん 議会 ぎかい の選挙 せんきょ 結果 けっか を「調整 ちょうせい 」した。
シトゥイコフらは「政党 せいとう 間 あいだ の議席 ぎせき の正確 せいかく な配分 はいぶん 、女性 じょせい 議員 ぎいん の数 かず 、そしてより広範 こうはん には、議会 ぎかい の正確 せいかく な社会 しゃかい 的 てき 構成 こうせい 」を決定 けってい し、実際 じっさい に誕生 たんじょう した議会 ぎかい はわずかな修正 しゅうせい があったもののほぼシトゥイコフの指示 しじ 通 どお りの構成 こうせい であった[31] [33] 。1948年 ねん に成立 せいりつ した北朝鮮 きたちょうせん 憲法 けんぽう の草案 そうあん にはスターリン自 みずか ら手 しゅ も加 くわ えている[33] 。
1946年 ねん 3月 がつ 、臨時 りんじ 政府 せいふ は抜本 ばっぽん 的 てき な土地 とち 改革 かいかく を実施 じっし した。日本人 にっぽんじん やその協力 きょうりょく 者 しゃ の地主 じぬし の土地 とち を没収 ぼっしゅう して貧 まず しい農民 のうみん に再 さい 分配 ぶんぱい した[32] 。多 おお くの貧 まず しい民間 みんかん 人 じん と農業 のうぎょう 労働 ろうどう 者 しゃ を人民 じんみん 委員 いいん 会 かい の下 した に組織 そしき し、全国 ぜんこく 的 てき な大衆 たいしゅう 運動 うんどう によって旧 きゅう 土地 とち 階級 かいきゅう の支配 しはい を打破 だは した。地主 じぬし たちは、かつて土地 とち を借 か し与 あた えていた貧 まず しい民間 みんかん 人 じん と同 おな じだけの土地 とち しか維持 いじ することができなくなり、土地 とち の分配 ぶんぱい ははるかに平等 びょうどう になった。北朝鮮 きたちょうせん の土地 とち 改革 かいかく は、中国 ちゅうごく やベトナムよりも暴力 ぼうりょく 的 てき ではない方法 ほうほう で達成 たっせい された。アメリカの公式 こうしき 記録 きろく によれば「誰 だれ に聞 き いても村 むら 々の元 もと の指導 しどう 者 しゃ たちは政治 せいじ 勢力 せいりょく として流血 りゅうけつ に訴 うった えることなく排除 はいじょ されたが、彼 かれ らが権力 けんりょく の座 ざ に復帰 ふっき することのないように細心 さいしん の注意 ちゅうい も払 はら われた」という[34] 。農民 のうみん たちはこうした状況 じょうきょう を好意 こうい 的 てき に受 う け止 と めた。多 おお くの親日 しんにち 派 は (日本 にっぽん への協力 きょうりょく 者 しゃ )、地主 じぬし 、キリスト教徒 きりすときょうと が南 みなみ へ逃 のが れ、中 なか には韓国 かんこく の新 しん 政府 せいふ で新 あら たな地位 ちい を得 え たものもいた。米 べい 軍 ぐん 政庁 せいちょう によれば、40万 まん 人 にん の朝鮮 ちょうせん 人 じん が難民 なんみん として南下 なんか した[35] 。
また主要 しゅよう 産業 さんぎょう は国有 こくゆう 化 か された。日本 にっぽん は農業 のうぎょう とサービス業 ぎょう を朝鮮 ちょうせん 南部 なんぶ に、重工業 じゅうこうぎょう を北部 ほくぶ に集中 しゅうちゅう させていたため、経済 けいざい 状況 じょうきょう は南部 なんぶ と同様 どうよう に北部 ほくぶ も厳 きび しいものだった。
ソ連 それん 軍 ぐん は1948年 ねん 12月 がつ 10日 とおか に撤収 てっしゅう した[36] 。
米 べい 軍 ぐん の南朝鮮 みなみちょうせん 占領 せんりょう 統治 とうち [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 9月 がつ 9日 にち 、ソウルで行 おこな われた降伏 ごうぶく 調印 ちょういん 式 しき で、朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ の日本 にっぽん 国旗 こっき が降 お ろされる様子 ようす 。
アメリカ政府 せいふ のソ連 それん の膨張 ぼうちょう への恐 おそ れと、日本 にっぽん 当局 とうきょく からの権力 けんりょく の空白 くうはく に対 たい する警告 けいこく を受 う けて、アメリカ占領 せんりょう 軍 ぐん の出港 しゅっこう 日 び は三 さん 度 ど も前倒 まえだお しされた[8] 。
1945年 ねん 9月 がつ 7日 にち 、米 べい 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ダグラス・マッカーサー は朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん に向 む けて第 だい 一 いち 号 ごう 宣言 せんげん を発 はっ し、38度 ど 線 せん 以南 いなん の朝鮮 ちょうせん における軍政 ぐんせい の実施 じっし と軍政 ぐんせい 期間 きかん 中 ちゅう は公用 こうよう 語 ご を英語 えいご とする旨 むね を布告 ふこく した[37] 。
同日 どうじつ ジョン・リード・ホッジ 中将 ちゅうじょう の軍政 ぐんせい 庁 ちょう 長官 ちょうかん 就任 しゅうにん を発表 はっぴょう 。ホッジ指揮 しき 下 か の米 べい 占領 せんりょう 軍 ぐん は1945年 ねん 9月 がつ 8日 にち に仁川 にがわ (インチョン) に上陸 じょうりく し、在 ざい 朝鮮 ちょうせん アメリカ陸軍 りくぐん 司令 しれい 部 ぶ 軍 ぐん 政庁 せいちょう (USAMGIK)の南朝鮮 みなみちょうせん 軍政 ぐんせい が開始 かいし された。
連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん であったマッカーサーは、ワシントンDCからの明確 めいかく な命令 めいれい や主導 しゅどう がなかったため、1945年 ねん から1948年 ねん まで朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ を担当 たんとう することになった。
統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ や国務省 こくむしょう からはマッカーサーに韓国 かんこく をどのように統治 とうち するかという計画 けいかく や指針 ししん は与 あた えられていなかった。
ホッジはワシントンD.C.ではなく、マッカーサーと東京 とうきょう のGHQ(総 そう 司令 しれい 部 ぶ )に直接 ちょくせつ 報告 ほうこく した。
1945年 ねん から1952年 ねん までのアメリカによる日本 にっぽん 占領 せんりょう が非常 ひじょう に平和 へいわ で安定 あんてい していたのに比 くら べ、米 べい 軍 ぐん による3年間 ねんかん の南朝鮮 みなみちょうせん 占領 せんりょう 統治 とうち (ブラックリスト・フォーティ作戦 さくせん )は混沌 こんとん と波乱 はらん に満 み ちたものだった。
ホッジ指揮 しき 下 か の第 だい 24軍団 ぐんだん (英語 えいご 版 ばん ) は戦闘 せんとう のための訓練 くんれん はされていたが、植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 後 ご の朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ に出現 しゅつげん した多様 たよう な政治 せいじ グループ(親日 しんにち 協力 きょうりょく 者 しゃ 、親 おや ソ共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 、反 はん ソ共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 、右翼 うよく グループ、朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ など)を相手 あいて とするような外交 がいこう や交渉 こうしょう の訓練 くんれん は受 う けていなかった。また1945年 ねん の後半 こうはん の時点 じてん で極東 きょくとう にいた米 べい 軍 ぐん や国務省 こくむしょう の中 なか には、朝鮮 ちょうせん 語 ご を話 はな せるアメリカ人 じん はひとりもいなかった。このため南部 なんぶ 朝鮮 ちょうせん 人 じん の間 あいだ では、実際 じっさい のところ国 くに を動 うご かしているのは朝鮮 ちょうせん 人 じん 通訳 つうやく だというジョークも飛 と び交 か った[38] [39] 。
中国 ちゅうごく で活動 かつどう していた大韓民国 だいかんみんこく 臨時 りんじ 政府 せいふ は通訳 つうやく 3人 にん を含 ふく む代表 だいひょう 団 だん をホッジのもとに送 おく ったが、ホッジはこの代表 だいひょう 団 だん との面会 めんかい を拒否 きょひ した[40] 。さらにホッジは樹立 じゅりつ を宣布 せんぷ して間 あいだ もない朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく とその人民 じんみん 委員 いいん 会 かい を承認 しょうにん することを拒否 きょひ し、12月12日 にち にはこれを非合法 ひごうほう とした[41] 。
1945年 ねん 12月 がつ までに50万 まん 人 にん 以上 いじょう 、1946年 ねん 8月 がつ までに78万 まん 6千 せん 人 にん の日本人 にっぽんじん 民間 みんかん 人 じん 、つまり朝鮮 ちょうせん のほぼすべての産業 さんぎょう における管理 かんり 者 しゃ や技術 ぎじゅつ 者 しゃ の大 だい 多数 たすう が日本 にっぽん へ強制 きょうせい 送還 そうかん させられた。朝鮮 ちょうせん 経済 けいざい は混乱 こんらん して深刻 しんこく な物価 ぶっか 上昇 じょうしょう が起 お こり、1946年 ねん 夏 なつ には配給 はいきゅう と価格 かかく 統制 とうせい が実施 じっし された[3] 。
1946年 ねん 9月 がつ 、数 すう 千 せん 人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ と農民 のうみん が軍事 ぐんじ 政権 せいけん に反対 はんたい して蜂起 ほうき した。この蜂起 ほうき はすぐに鎮圧 ちんあつ され、10月に予定 よてい されていた韓国 かんこく 暫定 ざんてい 立法 りっぽう 議会 ぎかい の選挙 せんきょ を阻止 そし することはできなかった。選挙 せんきょ 違反 いはん の広範 こうはん な疑惑 ぎわく を調査 ちょうさ するため、議会 ぎかい の開会 かいかい は12月に延期 えんき された[3] 。
熱烈 ねつれつ な反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 しゃ であった李 り 承晩 しょうばん は、大韓民国 だいかんみんこく 臨時 りんじ 政府 せいふ の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう を務 つと めた後 のち アメリカで親 しん 韓 かん 派 は のロビイストとして活動 かつどう し、南朝鮮 みなみちょうせん における最 もっと も著名 ちょめい な政治 せいじ 家 か となっていた。李 り 承晩 しょうばん はアメリカ政府 せいふ に対 たい して、信託 しんたく 統治 とうち 交渉 こうしょう を断念 だんねん し朝鮮 ちょうせん 南部 なんぶ に朝鮮 ちょうせん の独立 どくりつ 共和 きょうわ 国 こく を創設 そうせつ するよう圧力 あつりょく をかけた[42] 。1947年 ねん 7月 がつ 19日 にち 、左右 さゆう 合作 がっさく に尽力 じんりょく した最後 さいご の有力 ゆうりょく 政治 せいじ 家 か であった呂 りょ 運 うん 亨 とおる が、北朝鮮 きたちょうせん からの難民 なんみん で民族 みんぞく 主義 しゅぎ 右翼 うよく 団体 だんたい の活動 かつどう 的 てき なメンバーであった19歳 さい の男 おとこ 、韓 かん 智 さとし 根 ね によって暗殺 あんさつ された[43] 。
アメリカ軍 ぐん 政庁 せいちょう と成立 せいりつ したばかりの韓国 かんこく 政府 せいふ に対 たい する左派 さは の反 はん 政府 せいふ 活動 かつどう が、北朝鮮 きたちょうせん が支援 しえん したものも含 ふく めて多発 たはつ したが、やがて鎮圧 ちんあつ され、その後 ご の数 すう 年間 ねんかん で3万 まん 人 にん [44] から10万 まん 人 にん もの人々 ひとびと が殺害 さつがい された。その犠牲 ぎせい 者 しゃ の多 おお くは済州 さいしゅう 島 とう 四 よん ・三 さん 事件 じけん によるものであった[45] 。
米 べい ソ共同 きょうどう 委員 いいん 会 かい [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 12月に開 ひら かれたモスクワ三 さん 国 こく 外相 がいしょう 会議 かいぎ において、連合 れんごう 国 こく は、ソ連 それん 、アメリカ、中華民国 ちゅうかみんこく 、イギリスによる最長 さいちょう 5年間 ねんかん の朝鮮 ちょうせん 信託 しんたく 統治 とうち 案 あん に合意 ごうい した。朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん の多 おお くは即時 そくじ 独立 どくりつ を要求 ようきゅう したが、ソビエト共産党 きょうさんとう と緊密 きんみつ に連携 れんけい していた朝鮮 ちょうせん 共産党 きょうさんとう は信託 しんたく 統治 とうち を支持 しじ した[46] [47] 。歴史 れきし 家 か のフョードル・テルティツキーによれば、1945年 ねん の文書 ぶんしょ を見 み る限 かぎ りソ連 それん 政府 せいふ は当初 とうしょ 朝鮮半島 ちょうせんはんとう を恒久 こうきゅう 的 てき に分割 ぶんかつ する計画 けいかく はなかったという[28] 。
1946年 ねん と1947年 ねん に米 べい ソ共同 きょうどう 委員 いいん 会 かい (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) が開催 かいさい され、統一 とういつ 政権 せいけん に向 む けた取 と り組 く みが行 おこな われたが、冷戦 れいせん による対立 たいりつ の激化 げきか と韓国 かんこく 側 がわ の信託 しんたく 統治 とうち に対 たい する反対 はんたい により協議 きょうぎ が進展 しんてん することはなかった[48] 。1946年 ねん 、ソ連 それん は呂 りょ 運 うん 亨 とおる を統一 とういつ 朝鮮 ちょうせん の指導 しどう 者 しゃ として提案 ていあん したが、アメリカはこれを却下 きゃっか した[28] 。こうした状況 じょうきょう の中 なか 、南北 なんぼく の分裂 ぶんれつ はより深 ふか まっていった。占領 せんりょう 国 こく 間 あいだ の政策 せいさく の違 ちが いは政治 せいじ の二 に 極 きょく 化 か をもたらし、南北 なんぼく 間 あいだ の人口 じんこう 移動 いどう をもたらした[49] 。1946年 ねん 5月 がつ には許可 きょか なく38度 ど 線 せん を越 こ えることが違法 いほう となった[50] 。1947年 ねん 9月 がつ の共同 きょうどう 委員 いいん 会 かい の最終 さいしゅう 会議 かいぎ で、ソ連 それん 代表 だいひょう のシトゥイコフ は、ソ連 それん 軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん 双方 そうほう が撤退 てったい し朝鮮 ちょうせん 人民 じんみん に独自 どくじ の政府 せいふ を樹立 じゅりつ する機会 きかい を与 あた えることを提案 ていあん した。これはアメリカによって拒否 きょひ された[51] 。
国連 こくれん の介入 かいにゅう と個別 こべつ 政府 せいふ の樹立 じゅりつ [ 編集 へんしゅう ]
1946年 ねん 、米 べい ソ共同 きょうどう 委員 いいん 会 かい (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) を支持 しじ するデモを行 おこな う南朝鮮 みなみちょうせん 民衆 みんしゅう 。
1948年 ねん 5月 がつ 10日 とおか に行 おこな われた南朝鮮 みなみちょうせん 初代 しょだい 総 そう 選挙 せんきょ 。
1948年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ からの引継 ひきつぎ 式 しき に臨 のぞ むマッカーサーと李 り 承晩 しょうばん 。
共同 きょうどう 委員 いいん 会 かい による協議 きょうぎ の進展 しんてん が失敗 しっぱい に終 お わったことから、アメリカは1947年 ねん 9月 がつ 、この問題 もんだい を国連 こくれん に上 うえ 呈 てい した。ソ連 それん は国連 こくれん の関与 かんよ に反対 はんたい した[52] 。国連 こくれん は1947年 ねん 11月14日 にち 、自由 じゆう 選挙 せんきょ の実施 じっし 、外国 がいこく 軍 ぐん の撤退 てったい 、国連 こくれん 臨時 りんじ 朝鮮 ちょうせん 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) (UNTCOK)の設置 せっち などを宣言 せんげん した決議 けつぎ を採択 さいたく した。だがソ連 それん は採決 さいけつ 自体 じたい をボイコットし、決議 けつぎ には拘束 こうそく 力 りょく が無 む く国連 こくれん が公正 こうせい な選挙 せんきょ を保証 ほしょう することはできないと主張 しゅちょう した。ソ連 それん の協力 きょうりょく が得 え られなかったため、国連 こくれん が監督 かんとく する選挙 せんきょ は南部 なんぶ のみで実施 じっし することが決定 けってい された[53] [54] 。これは、南北 なんぼく 別個 べっこ での選挙 せんきょ に異議 いぎ を唱 とな えたK・P・S・メノン (英語 えいご 版 ばん ) 委員 いいん 長 ちょう の報告 ほうこく にも反 はん するものであった[55] 。UNTCOK代表 だいひょう 団 だん の中 なか には、南部 なんぶ の状況 じょうきょう が右翼 うよく 候補 こうほ に不当 ふとう に有利 ゆうり であると考 かんが える者 もの もいたが、そうした意見 いけん は顧 かえり みられることはなかった[8] :211–212 。
南北 なんぼく 別々 べつべつ に選挙 せんきょ を行 おこな うという決定 けってい は、当然 とうぜん のことながらそれが恒久 こうきゅう 的 てき な分断 ぶんだん の始 はじ まりに過 す ぎないことを理解 りかい する多 おお くの朝鮮 ちょうせん 人 じん の不興 ふきょう を買 か った。1948年 ねん 2月 がつ にはこの決定 けってい に抗議 こうぎ するゼネラル・ストライキ も行 おこな われた[50] 。4月には国家 こっか の分裂 ぶんれつ に対 たい して済州 さいしゅう 島民 とうみん が蜂起 ほうき し、大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん へと発展 はってん して弾圧 だんあつ される事件 じけん も発生 はっせい した(済州 さいしゅう 島 とう 四 よん ・三 さん 事件 じけん )。韓国 かんこく が独立 どくりつ した1948年 ねん 8月 がつ 以降 いこう 、反乱 はんらん への弾圧 だんあつ が激化 げきか した。暴動 ぼうどう ・反乱 はんらん は1949年 ねん 5月 がつ までには大 だい 部分 ぶぶん が鎮圧 ちんあつ され、2万 まん 5千 せん 人 にん から3万 まん 人 にん が死亡 しぼう し[56] 、村落 そんらく の70%が韓国 かんこく 軍 ぐん によって焼 や き払 はら われた[57] 。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ すると、暴動 ぼうどう は再 ふたた び激化 げきか した[58] 。
1948年 ねん 4月 がつ 、南北 なんぼく 組織 そしき の合同 ごうどう 会議 かいぎ が平壌 ぴょんやん で開催 かいさい された。南朝鮮 みなみちょうせん の政治 せいじ 家 か 金 きむ 九 きゅう と金 きむ 奎植 が会議 かいぎ に出席 しゅっせき し、他 た の政治 せいじ 家 か や政党 せいとう と共 とも に南朝鮮 みなみちょうせん の総 そう 選挙 せんきょ をボイコットした[8] :211,507 [59] 。この会議 かいぎ では統一 とういつ 政府 せいふ の樹立 じゅりつ と外国 がいこく 軍 ぐん の撤退 てったい が求 もと められた[60] 。李 り 承晩 しょうばん とホッジは会議 かいぎ を非難 ひなん した[60] 。金 きむ 九 きゅう は翌年 よくねん 暗殺 あんさつ された[61] 。
1948年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、南朝鮮 みなみちょうせん で初代 しょだい 総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われた。選挙 せんきょ は暴力 ぼうりょく と脅迫 きょうはく の中 なか 、李 り 承晩 しょうばん と敵対 てきたい する勢力 せいりょく が選挙 せんきょ をボイコットする中 なか で行 おこな われた[62] 。8月15日 にち 、「大韓民国 だいかんみんこく 」(通称 つうしょう 韓国 かんこく )は正式 せいしき に米 べい 軍 ぐん 政庁 せいちょう から権力 けんりょく を移譲 いじょう され、李 り 承晩 しょうばん が初代 しょだい 大統領 だいとうりょう となった。米 べい 軍 ぐん 政庁 せいちょう は正式 せいしき に解散 かいさん し、韓国 かんこく 軍 ぐん の訓練 くんれん と支援 しえん を行 おこな うために在 ざい 韓米 かんべい 軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん (英語 えいご 版 ばん ) が設立 せつりつ された。米 べい 軍 ぐん は撤退 てったい を開始 かいし し、1949年 ねん までに撤退 てったい を完了 かんりょう した。一方 いっぽう 、北部 ほくぶ 朝鮮 ちょうせん では9月9日 にち に「朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく 」(北朝鮮 きたちょうせん )が建国 けんこく され、金 きむ 日成 いるそん が首相 しゅしょう の座 ざ に就 つ いた。
1948年 ねん 12月12日 にち 、国連 こくれん 総会 そうかい はUNTCOKの報告 ほうこく 書 しょ を受 う け、大韓民国 だいかんみんこく を「朝鮮 ちょうせん における唯一 ゆいいつ の合法 ごうほう 的 てき な政府 せいふ 」と宣言 せんげん した[63] 。だがUNTCOKの委員 いいん は誰 だれ 一人 ひとり として選挙 せんきょ によって合法 ごうほう 的 てき な国会 こっかい が設立 せつりつ されたと考 かんが えていなかった。委員 いいん 会 かい の代表 だいひょう 者 しゃ を擁 よう するオーストラリア政府 せいふ は、当該 とうがい 選挙 せんきょ について「満足 まんぞく とは程遠 ほどとお い」と表明 ひょうめい している[62] 。
南部 なんぶ では暴動 ぼうどう が続 つづ いていた。1948年 ねん 10月 がつ 、韓国 かんこく 軍 ぐん の一部 いちぶ 連隊 れんたい が済州 さいしゅう 暴動 ぼうどう の鎮圧 ちんあつ を拒否 きょひ して政府 せいふ に反乱 はんらん を起 お こすという麗水 れいすい ・順 じゅん 天 てん 事件 じけん が起 お こった[64] 。1949年 ねん 、李 り 承晩 しょうばん 政府 せいふ は政敵 せいてき を監視 かんし ・再 さい 教育 きょういく するために「保 ほ 道 どう 連盟 れんめい 」という組織 そしき を設立 せつりつ した。だがこの保 ほ 道 どう 連盟 れんめい 加盟 かめい 者 しゃ の大 だい 多数 たすう は、強制 きょうせい 的 てき に加盟 かめい させられた罪 つみ のない農民 のうみん や民間 みんかん 人 じん であった[65] 。その後 ご 保 ほ 道 どう 連盟 れんめい 加盟 かめい 者 しゃ およびその家族 かぞく は朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の開始 かいし 時 じ に韓国 かんこく 政府 せいふ 当局 とうきょく によって処刑 しょけい された(保 ほ 導 しるべ 連盟 れんめい 事件 じけん )。1949年 ねん 12月24日 にち 、韓国 かんこく 軍 ぐん は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 支持 しじ 者 しゃ と疑 うたが われた聞慶 市民 しみん やその家族 かぞく を虐殺 ぎゃくさつ し、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ にその責任 せきにん を押 お し付 つ けた(聞慶虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん )[66] 。
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
千 せん 年 ねん 以上 いじょう 統一 とういつ 状態 じょうたい であった朝鮮半島 ちょうせんはんとう の分断 ぶんだん は、両 りょう 政権 せいけん にとって論争 ろんそう を巻 ま き起 お こすがあくまで一時 いちじ 的 てき なものと見 み なされた。1948年 ねん から内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ する1950年 ねん 6月 がつ 25日 にち までの間 あいだ 、国境 こっきょう 沿 ぞ いでは流血 りゅうけつ を伴 ともな う衝突 しょうとつ が何 なん 度 ど も発生 はっせい した。
1950年 ねん 、北朝鮮 きたちょうせん が韓国 かんこく に侵入 しんにゅう するとこうした衝突 しょうとつ が一気 いっき にエスカレートし、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ の引 ひ き金 がね となった。
朝鮮 ちょうせん 南部 なんぶ を守 まも るため国連 こくれん が介入 かいにゅう し、米国 べいこく 主導 しゅどう の軍 ぐん を派遣 はけん した。国連 こくれん 軍 ぐん が到着 とうちゃく する前 まえ に南部 なんぶ をほぼ占領 せんりょう した朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん )は、自 みずか ら政権 せいけん の下 した で朝鮮 ちょうせん を統一 とういつ しようと目論 もくろ み、産業 さんぎょう の国有 こくゆう 化 か 、土地 とち 改革 かいかく 、人民 じんみん 委員 いいん 会 かい の復活 ふっかつ などを始 はじ めた[67] 。
1951年 ねん 、米 べい 軍機 ぐんき の爆 ばく 撃 げき を受 う ける元山 もとやま 港 こう 。
国連 こくれん の介入 かいにゅう は38度 ど 線 せん の国境 こっきょう 回復 かいふく を想定 そうてい したものだったが、李 り 承晩 しょうばん は北朝鮮 きたちょうせん の攻撃 こうげき によって国境 こっきょう は消滅 しょうめつ したと主張 しゅちょう した。同様 どうよう に国連 こくれん 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ダグラス・マッカーサーも、北朝鮮 きたちょうせん 軍 ぐん を国境 こっきょう の向 む こう側 がわ に追 お い返 かえ すだけでなく、朝鮮 ちょうせん を統一 とういつ するつもりであると述 の べている[68] 。だがアメリカ主導 しゅどう 軍 ぐん による反撃 はんげき 開始 かいし までに、北朝鮮 きたちょうせん は半島 はんとう 南部 なんぶ の90%を制圧 せいあつ していた。北朝鮮 きたちょうせん 軍 ぐん が南 みなみ から追 お い出 だ される中 なか 、韓国 かんこく 軍 ぐん は10月1日 にち に38度 ど 線 せん を越 こ え、その1週間 しゅうかん 後 ご にアメリカ軍 ぐん と他 た の国連 こくれん 軍 ぐん も追従 ついしょう した。これは、アメリカ軍 ぐん が38度 ど 線 せん を越 こ えた場合 ばあい には介入 かいにゅう するとの中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく (中国 ちゅうごく )からの警告 けいこく にもかかわらずであった[69] 。北 きた を占領 せんりょう した韓国 かんこく は、今度 こんど は韓国 かんこく 国家 こっか 警察 けいさつ による強制 きょうせい 的 てき な政治 せいじ 教化 きょうか によって国家 こっか を統一 とういつ しようとした[8] :281–282 。だが米国 べいこく 主導 しゅどう の国連 こくれん 軍 ぐん が北部 ほくぶ に進出 しんしゅつ すると中国 ちゅうごく が反撃 はんげき を開始 かいし し、米 べい ・国連 こくれん 軍 ぐん は南部 なんぶ に追 お い返 かえ された。
処刑 しょけい をおそれ韓国 かんこく 兵 へい に命乞 いのちご いをする中国 ちゅうごく 兵 へい 捕虜 ほりょ 、1951年 ねん 。
1951年 ねん 、前線 ぜんせん は38度 ど 線 せん 付近 ふきん で停滞 ていたい し、双方 そうほう は休戦 きゅうせん を検討 けんとう し始 はじ めた。しかし、李 り 承晩 しょうばん は朝鮮 ちょうせん が自 みずか らの指導 しどう の下 した で統一 とういつ されるまで戦争 せんそう を継続 けいぞく するよう要求 ようきゅう した[70] 。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい は38度 ど 線 せん に基 もと づく休戦 きゅうせん ラインを支持 しじ したが、国連 こくれん は軍事 ぐんじ 的 てき に防衛 ぼうえい 可能 かのう かつ双方 そうほう が保持 ほじ する領土 りょうど に基 もと づく休戦 きゅうせん ラインを支持 しじ した[71] 。アメリカ側 がわ が策定 さくてい した国連 こくれん の立場 たちば は、交渉 こうしょう に至 いた るまでの合意 ごうい とは異 こと なるものであった[72] 。当初 とうしょ アメリカは、前線 ぜんせん よりもはるか北 きた にある平壌 ぴょんやん を通過 つうか する線 せん (39度 ど 線 せん )を提案 ていあん していた[73] 。中国 ちゅうごく と北朝鮮 きたちょうせん は最終 さいしゅう 的 てき に38度 ど 線 せん ではなく軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 上 じょう に国境 こっきょう を設 もう けることに同意 どうい したが、意見 いけん の相違 そうい により交渉 こうしょう プロセスは複雑 ふくざつ かつ長期 ちょうき におよぶものとなった[74] 。
2016年 ねん の夜間 やかん 衛星 えいせい 写真 しゃしん 。南 みなみ の光量 ひかりりょう は北 きた よりも多 おお く、半島 はんとう の分断 ぶんだん は宇宙 うちゅう からも確認 かくにん することができる。
3年間 ねんかん におよぶ戦争 せんそう を経 へ て朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が調印 ちょういん された。両 りょう 陣営 じんえい は、非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい (Korean Demilitarized Zone、DMZ)と呼 よ ばれる幅 はば 4キロメートル(2.5マイル)の緩衝 かんしょう 地帯 ちたい を両国 りょうこく 間 あいだ の軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん (Military Demarcation Line、MDL)上 じょう に設 もう けることで合意 ごうい した。この新 あら たな「国境 こっきょう 」は戦争 せんそう 終了 しゅうりょう 時 じ に双方 そうほう が保持 ほじ していた領土 りょうど を反映 はんえい させたもので、北緯 ほくい 38度 ど 線 せん を斜 なな めに横切 よこぎ っている。なお李 り 承晩 しょうばん は休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の受 う け入 い れを拒否 きょひ し、武力 ぶりょく による祖国 そこく の統一 とういつ を主張 しゅちょう し続 つづ けた[75] 。両 りょう 陣営 じんえい とも半島 はんとう 統一 とういつ を目標 もくひょう に掲 かか げていたが、実際 じっさい にはこの朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう によって朝鮮半島 ちょうせんはんとう の分断 ぶんだん は長期 ちょうき 化 か し、韓国 かんこく と米国 べいこく の間 あいだ に恒久 こうきゅう 的 てき な同盟 どうめい が結 むす ばれ、半島 はんとう 南部 なんぶ に米 べい 軍 ぐん が常駐 じょうちゅう することとなった[76] 。
休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の規定 きてい に従 したが い、1954年 ねん にジュネーヴで開催 かいさい された和平 わへい 会談 かいだん で朝鮮半島 ちょうせんはんとう 問題 もんだい が協議 きょうぎ された。だが多 おお くの関係 かんけい 国 こく の努力 どりょく にもかかわらず、会談 かいだん は朝鮮 ちょうせん の統一 とういつ 宣言 せんげん を出 だ すことなく終了 しゅうりょう した。
1953年 ねん 、休戦 きゅうせん 協定 きょうてい に基 もと づき中立 ちゅうりつ 国 こく 監視 かんし 委員 いいん 会 かい (NNSC)が設立 せつりつ され休戦 きゅうせん 状態 じょうたい を監視 かんし している。設立 せつりつ 以来 いらい スイス[77] とスウェーデン[78] の軍人 ぐんじん がNNSCのメンバーとして軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 付近 ふきん に駐留 ちゅうりゅう している。ポーランドとチェコスロバキアも北朝鮮 きたちょうせん が選 えら んだ中立 ちゅうりつ 国 こく として監視 かんし 委員 いいん 会 かい に加 くわ わったが、これらの国 くに が資本 しほん 主義 しゅぎ を受 う け入 い れた後 のち 北朝鮮 きたちょうせん は両国 りょうこく の監視 かんし 員 いん を追放 ついほう した[79] 。
休戦 きゅうせん 後 ご の両国 りょうこく 関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線上 せんじょう で握手 あくしゅ する金 きむ 正 ただし 恩 おん 委員 いいん 長 ちょう と文 ぶん 在 ざい 寅 とら 大統領 だいとうりょう (右 みぎ )。
戦後 せんご 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう は軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を境 さかい に分断 ぶんだん されたままとなった。南北 なんぼく は依然 いぜん として紛争 ふんそう 状態 じょうたい にあり、対立 たいりつ する政権 せいけん はどちらも自 みずか らが半島 はんとう 全体 ぜんたい の正統 せいとう な政府 せいふ であると主張 しゅちょう している。交渉 こうしょう は散発 さんぱつ 的 てき で統一 とういつ に向 む けた持続 じぞく 的 てき な進展 しんてん には至 いた っていない[80] 。
2018年 ねん 4月 がつ 27日 にち 、北朝鮮 きたちょうせん の金 きむ 正 ただし 恩 おん 朝鮮 ちょうせん 労働党 ろうどうとう 委員 いいん 長 ちょう と韓国 かんこく の文 ぶん 在 ざい 寅 とら 大統領 だいとうりょう が板門店 はんもんてん で首脳 しゅのう 会談 かいだん を行 おこな った。両 りょう 首脳 しゅのう が署名 しょめい した板門店 はんもんてん 宣言 せんげん では、半島 はんとう の統一 とういつ に向 む けた南北 なんぼく 関係 かんけい の改善 かいぜん 、軍事 ぐんじ 的 てき 緊張 きんちょう 状態 じょうたい の緩和 かんわ 、平和 へいわ 体制 たいせい の樹立 じゅりつ を目指 めざ すことなどが宣言 せんげん された[81] [82] 。
2018年 ねん 11月1日 にち 、陸海空 りくかいくう での敵対 てきたい 関係 かんけい の終結 しゅうけつ を確実 かくじつ にするために、DMZ全域 ぜんいき に緩衝 かんしょう 地帯 ちたい が設置 せっち された[83] [84] 。緩衝 かんしょう 地帯 ちたい は韓国 かんこく 西海 さいかい の徳積 とくづみ 島 とう の北側 きたがわ から草島 くさじま 南 みなみ までの135キロ区間 くかん 、東海 とうかい は束 たば 草市 くさいち の北 きた から北朝鮮 きたちょうせん 通 どおり 村 そん 郡 ぐん の南 みなみ まで設定 せってい された[84] [83] 。さらに飛行 ひこう 禁止 きんし 区域 くいき も設定 せってい された[83] [84] 。
^ a b Lee, Jongsoo (2006). The Partition of Korea After World War II: A Global History . New York: Palgrave Macmillan. ISBN 978-1-4039-6982-8
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