朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝鮮半島ちょうせんはんとう軍事ぐんじ境界きょうかいせん(MDL。あお太線ふとせん)とそれをかこ武装ぶそう地帯ちたい(DMZ。いオレンジ)。
朝鮮半島ちょうせんはんとうは1945ねんから1950ねんまでは38せんによって、1953ねんから現在げんざいまでは軍事ぐんじ境界きょうかいせんによって南北なんぼく分断ぶんだんされている。
朝鮮歷史
朝鮮ちょうせん歴史れきし
考古学こうこがく 朝鮮ちょうせん旧石器時代きゅうせっきじだい朝鮮ちょうせんばん
櫛目くしめぶん土器どき時代じだい 8000 BC-1500 BC
無文むもん土器どき時代じだい 1500 BC-300 BC
伝説でんせつ だんくん朝鮮ちょうせん
朝鮮ちょうせん 朝鮮ちょうせん
つばめ
たつこく まもる朝鮮ちょうせん
げんさんこく たつかん わきまえかん かんよんぐん
うまかん おびかたぐん らくなみぐん

さんこく 伽耶かや
42-
562
百済くだら
高句麗こうくり
しん
南北なんぼくこく とうくまとく安東あんどうみやこまもる
統一とういつしん
にわとりりん州都しゅうととく
676-892
安東あんどうみやこまもる

668-756
渤海
698
-926
こうさんこく しん
-935
のち
百済くだら

892
-936
こう高句麗こうくり
901
-918
りょう おんなしん
統一とういつ
王朝おうちょう
こううらら 918- きむ
もとりょうぎょうしょう
あずまやすしそうしろふけ
元朝がんちょう
こううらら 1356-1392
朝鮮ちょうせん 1392-1897
大韓たいかん帝国ていこく 1897-1910
近代きんだい 日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせん 1910-1945
現代げんだい 朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこく 1945
連合れんごうぐん軍政ぐんせい 1945-1948
アメリカ占領せんりょう ソビエト占領せんりょう
北朝鮮きたちょうせん人民じんみん委員いいんかい
大韓民国だいかんみんこく
1948-
朝鮮ちょうせん民主みんしゅ主義しゅぎ
人民じんみん共和きょうわこく

1948-
Portal:朝鮮ちょうせん

朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだん(ちょうせんはんとうぶんだん)では、だい世界せかい大戦たいせんにおける日本にっぽん敗北はいぼく降伏ごうぶく起因きいんする、朝鮮半島ちょうせんはんとう朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく大韓民国だいかんみんこく分断ぶんだんされた現状げんじょう解説かいせつする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

大戦たいせんちゅう連合れんごうこく首脳しゅのう日本にっぽん降伏ごうぶくしたのち朝鮮ちょうせん将来しょうらいについて検討けんとうおこない、朝鮮ちょうせん日本にっぽん支配しはいからは解放かいほうされるが自治じち準備じゅんびととのったとみなせるまでは国際こくさいてき信託しんたく統治とうちしたかれるとの認識にんしきいたった[1]:5–17大戦たいせん末期まっきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは、38せんさかい朝鮮半島ちょうせんはんとう南北なんぼく分割ぶんかつしてそれぞれアメリカとソビエト連邦れんぽう占領せんりょう地域ちいきとするあんソ連それんがわ提示ていじし、ソ連それんもこのあんれた[2]

当初とうしょこの分割ぶんかつは、あくまで信託しんたく統治とうち移行いこうするまでの一時いちじてきなものと理解りかいされていた。 1945ねん12月にひらかれたモスクワさんこく外相がいしょう会議かいぎでは、朝鮮ちょうせん統治とうちについてはべいえいなか・ソ4かこくによる最長さいちょう5年間ねんかん信託しんたく統治とうちとすることで合意ごういいたった[3]。しかしながら、冷戦れいせん勃発ぼっぱつといった国際こくさいてき要因よういん信託しんたく統治とうち反対はんたい運動うんどうなど国内こくないてき要因よういんなどによって、べいあいだおこなわれた2年間ねんかんわた信託しんたく統治とうち移行いこう交渉こうしょう不発ふはつわり、独立どくりつした朝鮮ちょうせんじん統一とういつ国家こっか再興さいこうするために合意ごういされた唯一ゆいいつ枠組わくぐみは事実じじつじょう無効むこうとなった[1]:45–154。 これにより朝鮮ちょうせん問題もんだい国連こくれん付託ふたくされることとなったが、1948ねん国連こくれん決議けつぎソ連それんにとって許容きょよう可能かのうなものとはならず、ざい朝鮮ちょうせんアメリカ陸軍りくぐん司令しれいぐん政庁せいちょうした南部なんぶ朝鮮ちょうせんのみで初代しょだいそう選挙せんきょ実施じっしされた。 米国べいこく支援しえんけた承晩しょうばんがこの選挙せんきょ勝利しょうりした一方いっぽうで、ソ連それん支配しはいする北部ほくぶ朝鮮ちょうせんではきむ日成いるそん指導しどうしゃ地位ちい確立かくりつした。1948ねん8がつ15にち南部なんぶでは大韓民国だいかんみんこく韓国かんこく)が樹立じゅりつ直後ちょくごの1948ねん9がつ9にち北部ほくぶ朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)が建国けんこくされた。米国べいこくみなみを、ソ連それんきた支援しえんし、南北なんぼくりょう政府せいふとも朝鮮半島ちょうせんはんとう全体ぜんたい統治とうち地域ちいきであることを主張しゅちょうした。

1950ねん6がつ25にち北朝鮮きたちょうせん半島はんとう共産党きょうさんとう支配しはいしたさい統一とういつしようとこころみ、韓国かんこく侵攻しんこうした。のち朝鮮ちょうせん戦争せんそうばれるこの戦争せんそうは1950ねんから1953ねんまでつづき、1953ねん7がつ27にち朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつして休戦きゅうせんしたが、半島はんとう武装ぶそう地帯ちたい (DMZ) で分断ぶんだんした状態じょうたい現在げんざいまでつづいている。

2018ねん4がつ27にちひらかれた南北なんぼく首脳しゅのう会談かいだんにおいて、北朝鮮きたちょうせん最高さいこう指導しどうしゃきむただしおん韓国かんこく大統領だいとうりょうぶんざいとらとのあいだ朝鮮半島ちょうせんはんとう平和へいわ繁栄はんえいさい統一とういつのための板門店はんもんてん宣言せんげん採択さいたくされた。同年どうねん9がつ南北なんぼく首脳しゅのう会談かいだんでは、監視かんししょ解体かいたい軍事ぐんじ衝突しょうとつふせぐための緩衝かんしょう地帯ちたい設置せっちなど、国境こっきょう沿いの統一とういつけていくつかの行動こうどうられた。同年どうねん12がつ12にちには武装ぶそう地帯ちたいでの監視かんししょ撤去てっきょ作業さぎょうおこなわれ「南北なんぼく双方そうほう兵士へいし史上しじょうはじめて平和へいわてき軍事ぐんじ境界きょうかいせん (MDL) をえた」ことがほうじられた[4][5][6]

歴史れきしてき背景はいけい[編集へんしゅう]

日本にっぽん統治とうち時代じだい(1910ねん - 1945ねん[編集へんしゅう]

1905ねんにち戦争せんそう終結しゅうけつして大韓たいかん帝国ていこく日本にっぽん保護ほごこくとなり、1910ねん日本にっぽん併合へいごうされた(韓国かんこく併合へいごう)。大韓たいかん帝国ていこく初代しょだい皇帝こうていこうはじめは1907ねん退位たいいされられた。そのすうじゅうねんあいだ朝鮮ちょうせんでは独立どくりつもとめる民族みんぞく主義しゅぎしゃ急進きゅうしんなどのグループがあらわれたが、見解けんかい手法しゅほう相違そういによりひとつの運動うんどうとしてまとまることはなかった[7][8]:156–160。また中国ちゅうごく中華民国ちゅうかみんこく上海しゃんはい結成けっせいされた亡命ぼうめい政府せいふてき組織そしきである大韓民国だいかんみんこく臨時りんじ政府せいふ朝鮮ちょうせん人民じんみんひろみとめられるにはいたらなかった[8]:159–160

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1945ねん8がつ16にちきょう城府じょうふげんソウル)の朝鮮ちょうせん建国けんこく準備じゅんび委員いいんかい演説えんぜつおこなりょうんとおる

だい世界せかい大戦たいせんちゅうの1943ねん11月におこなわれたカイロ会談かいだんにおいて、べい大統領だいとうりょうフランクリン・ローズヴェルトえい首相しゅしょうウィンストン・チャーチル国民こくみん政府せいふ主席しゅせき蔣介せきは、日本にっぽん武力ぶりょく奪取だっしゅ占領せんりょうした地域ちいきをすべて喪失そうしつしなければならないことで合意ごういした。 会談かいだんて「さん大国たいこく朝鮮ちょうせん人民じんみん奴隷どれい状態じょうたい留意りゅういし、朝鮮ちょうせんをやがて自由じゆうかつ独立どくりつのものとする」ことを表明ひょうめいしたカイロ宣言せんげん発表はっぴょうされた[9][10][11][12]米国べいこくはフィリピンをモデルに朝鮮ちょうせん信託しんたく統治とうち構想こうそうし、1943ねんなつからあきにかけて主要しゅよう連合れんごうこく協議きょうぎしようとしたが、英国えいこくはこれを拒絶きょぜつつづけた[13]。ローズヴェルトは1943ねん11月のテヘラン会談かいだんと1945ねん2がつヤルタ会談かいだんヨシフ・スターリン信託しんたく統治とうち構想こうそうけた。スターリンは構想こうそう反対はんたいはしなかったが、信託しんたく統治とうち期間きかんは「みじかければみじかいほどのぞましい」とこたえたという[8]:187–188[14][15]

このテヘラン会談かいだんとヤルタ会談かいだんにおいて、スターリンは欧州おうしゅうでの勝利しょうりの2~3かげつ太平洋たいへいよう戦線せんせん連合れんごうこく加勢かせいしてたいにち参戦さんせんすると密約みつやくした[16]広島ひろしま原爆げんばくとされた2にち長崎ながさき原爆げんばくとされる前日ぜんじつの1945ねん8がつ8にちソ連それん日本にっぽんたいして宣戦せんせん布告ふこくした[17]たいにちせんはじまると、ソ連それんぐん司令しれいかんアレクサンドル・ヴァシレフスキー朝鮮ちょうせん人民じんみん日本にっぽんへの反抗はんこうもとめ「自由じゆう独立どくりつはたをソウルにかかげよ」とびかけた[18]

1945ねん12月連合れんごうぐん信託しんたく統治とうち抗議こうぎする韓国かんこく市民しみん

ソ連それんぐん侵攻しんこうはやく、米国べいこく政府せいふ沖縄おきなわにいたべいぐん主力しゅりょく到着とうちゃくまえソ連それん半島はんとうすべてを占領せんりょうしてしまうことを憂慮ゆうりょして、事前じぜんべいソの境界きょうかいせん設定せっていしようとした[19]。1945ねん8がつ10日とおかディーン・ラスク大佐たいさチャールズ・ボーンスティール大佐たいさという二人ふたりわか将校しょうこうべいぐん占領せんりょう地域ちいき確定かくていする任務にんむいた。突然とつぜん通知つうちなん準備じゅんびもしていなかった二人ふたりは、雑誌ざっしナショナル ジオグラフィック壁掛かべか地図ちずもとに30ふんほどで北緯ほくい38朝鮮半島ちょうせんはんとう分割ぶんかつする素案そあん作成さくせいした[19]。これは朝鮮ちょうせん国土こくどをおよそ半分はんぶんにし、かつ首都しゅとソウルをアメリカの支配しはいくものであった。朝鮮ちょうせん問題もんだい専門せんもんにはだれ一人ひとり相談そうだんしなかった。二人ふたりは40ねんまえ革命かくめいまえロシア帝国ていこく日本にっぽんおなせん朝鮮ちょうせん分割ぶんかつ協議きょうぎしていたことすららなかった。ラスクはのちに、もしってたらまず間違まちがいなくほかせんえらんでいたとべている[20][21]。 この分割ぶんかつにより朝鮮ちょうせん人口じんこう南部なんぶアメリカがわで1600まんにん北部ほくぶソ連それんがわでは900まんにんとなった[22]。ラスクは「べいぐん現実げんじつてき到達とうたつ可能かのうせんよりさらにきた分割ぶんかつせん設定せっていしてもそれにソ連それん同意どういしない場合ばあいかんがえた、、、我々われわれ朝鮮ちょうせん首都しゅとをアメリカぐん管轄かんかつないふくめることが重要じゅうようだとかんじていた」とべている。また「ただちに動員どういんできるべいぐんかずすくないという現実げんじつ直面ちょくめんしており、時間じかん距離きょり問題もんだいからソ連それんぐんよりもさき北部ほくぶ奥地おくちまで占領せんりょう地域ちいきひろげるのは困難こんなんであった」ことも指摘してきしている[23]。 アメリカがわにとっておどろきだったことに、ソ連それんがわはすんなりとこの分割ぶんかつあんれた[18][24]。 この合意ごうい内容ないようは、日本にっぽん降伏ごうぶくつづいて発令はつれいされた一般いっぱん命令めいれいだいいちごう(1945ねん8がつ17にち承認しょうにん)にまれた[24]

ソ連それんぐんは8がつ14にちまでに陸海りくかい両面りょうめんでの上陸じょうりく作戦さくせん開始かいしし、朝鮮半島ちょうせんはんとう北東ほくとう制圧せいあつして8がつ16にち元山もとやま占領せんりょう[25]、8がつ24にちにソウルに半島はんとうだい都市とし平壌ぴょんやん制圧せいあつした[24]

日本にっぽん最後さいご朝鮮ちょうせん総督そうとくであった陸軍りくぐん大将たいしょう阿部あべ信行のぶゆきは1945ねん8がつのはじめごろから権力けんりょく移行いこう準備じゅんびのため複数ふくすう大物おおもの朝鮮ちょうせんじん接触せっしょくした。8月に左派さは政治せいじりょうんとおる委員いいんちょうとする朝鮮ちょうせん建国けんこく準備じゅんび委員いいんかい(CPKI、けんじゅん)が発足ほっそくし、同月どうげつちゅう朝鮮ちょうせん各地かくち支部しぶがつくられた。1945ねん9がつ6にちソウルで議会ぎかい招集しょうしゅうされ、短命たんめいわることになる「朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこく」の樹立じゅりつ宣言せんげんされた[26][27]議会ぎかい総意そういにより、アメリカに亡命ぼうめいしていた保守ほしゅ長老ちょうろう承晩しょうばん主席しゅせき指名しめいされた[28]

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

分割ぶんかつ(1945ねん9がつ2にち以降いこう[編集へんしゅう]

ソ連それんによる北朝鮮きたちょうせん支配しはい[編集へんしゅう]

1945ねん10がつ14にち平壌ぴょんやんひらかれたソ連それん解放かいほうぐん歓迎かんげい平壌ぴょんやん市民しみん大会たいかい

大戦たいせん末期まっき北部ほくぶ朝鮮ちょうせん侵攻しんこうしたソ連それんぐんは、日本にっぽんぐんからはほとんど抵抗ていこうけず、一方いっぽう様々さまざま朝鮮ちょうせんじんグループから支援しえんけた[29]。 8月24にち平壌ぴょんやんりしたソ連それんぐんは、平壌ぴょんやんひらみなみ人民じんみん政治せいじ委員いいんかい設立せつりつ曺晩うえ委員いいんちょうえた[30]ソ連それんぐんはこうした「人民じんみん委員いいんかい」(ソ連それん友好ゆうこうてき組織そしき)の機能きのうみとめていた。1945ねん9がつソ連それん当局とうきょく独自どくじ通貨つうか赤軍せきぐんウォン」を発行はっこうした[18]

だい大戦たいせん多大ただい損失そんしつこうむったソ連それんには、朝鮮半島ちょうせんはんとう完全かんぜん衛星えいせいこくつくるだけの資源しげん意思いしもなかった。このため北部ほくぶ朝鮮ちょうせん東欧とうおう諸国しょこくくらべてよりたかいレベルでの自治じちゆるされるかたちとなった。 ソ連それん政府せいふは、社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか建設けんせつする目的もくてきで、ソビエト連邦れんぽうないんでいたおおくの朝鮮ちょうせんじん北部ほくぶ朝鮮ちょうせんれてきており、そのなかにはソ連それん共産きょうさん党員とういんすくなからずいた[29]南部なんぶ朝鮮ちょうせんとはことなり、きゅう日本にっぽんぐん当局とうきょくソ連それんには事実じじつじょうなん援助えんじょもせず、工場こうじょう鉱山こうざん公式こうしき記録きろく破壊はかいさえした[29]

ソ連それん占領せんりょうソ連それんへい日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん両方りょうほうたいして広範囲こうはんいにわたって強姦ごうかん略奪りゃくだつおこなった。ソ連それんへいたちは略奪りゃくだつひん本国ほんごくおくることすらゆるされていた。こうした暴虐ぼうぎゃくは1946ねん1がつ憲兵けんぺいたい朝鮮ちょうせん到着とうちゃくするまでることはなかった[29]

1946ねんソ連それん政治せいじ将校しょうこうテレンティ・シトゥイコフ行政ぎょうせい責任せきにんしゃとなり、低迷ていめいする経済けいざいなおすためソ連それん政府せいふ予算よさん陳情ちんじょうはじめた[18]。シトゥイコフは大戦たいせん末期まっきまんしゅうソ連それんぐんから訓練くんれんけていたきむ日成いるそん強力きょうりょく支援しえんし、このことがきむ日成いるそん台頭たいとう決定的けっていてきなものとした[31]。1946ねん2がつきむ日成いるそんした北朝鮮きたちょうせん臨時りんじ人民じんみん委員いいんかいばれる北朝鮮きたちょうせん臨時りんじ政府せいふ結成けっせいされた。平壌ぴょんやん政府せいふ上層じょうそうでは、しん政府せいふにおける権力けんりょくねらって様々さまざま勢力せいりょく工作こうさくおこない、対立たいりつ権力けんりょく闘争とうそうひろげられた[32]

1946ねん12月、シトゥイコフは2人ふたりソ連それん将官しょうかんともに(朝鮮ちょうせんじん同席どうせきしなかった)そのおこなわれた北部ほくぶ朝鮮ちょうせん議会ぎかい選挙せんきょ結果けっかを「調整ちょうせい」した。 シトゥイコフらは「政党せいとうあいだ議席ぎせき正確せいかく配分はいぶん女性じょせい議員ぎいんかず、そしてより広範こうはんには、議会ぎかい正確せいかく社会しゃかいてき構成こうせい」を決定けっていし、実際じっさい誕生たんじょうした議会ぎかいはわずかな修正しゅうせいがあったもののほぼシトゥイコフの指示しじどおりの構成こうせいであった[31][33]。1948ねん成立せいりつした北朝鮮きたちょうせん憲法けんぽう草案そうあんにはスターリンみずかしゅくわえている[33]

1946ねん3がつ臨時りんじ政府せいふ抜本ばっぽんてき土地とち改革かいかく実施じっしした。日本人にっぽんじんやその協力きょうりょくしゃ地主じぬし土地とち没収ぼっしゅうしてまずしい農民のうみんさい分配ぶんぱいした[32]おおくのまずしい民間みんかんじん農業のうぎょう労働ろうどうしゃ人民じんみん委員いいんかいした組織そしきし、全国ぜんこくてき大衆たいしゅう運動うんどうによってきゅう土地とち階級かいきゅう支配しはい打破だはした。地主じぬしたちは、かつて土地とちあたえていたまずしい民間みんかんじんおなじだけの土地とちしか維持いじすることができなくなり、土地とち分配ぶんぱいははるかに平等びょうどうになった。北朝鮮きたちょうせん土地とち改革かいかくは、中国ちゅうごくやベトナムよりも暴力ぼうりょくてきではない方法ほうほう達成たっせいされた。アメリカの公式こうしき記録きろくによれば「だれいてもむら々のもと指導しどうしゃたちは政治せいじ勢力せいりょくとして流血りゅうけつうったえることなく排除はいじょされたが、かれらが権力けんりょく復帰ふっきすることのないように細心さいしん注意ちゅういはらわれた」という[34]農民のうみんたちはこうした状況じょうきょう好意こういてきめた。おおくの親日しんにち日本にっぽんへの協力きょうりょくしゃ)、地主じぬしキリスト教徒きりすときょうとみなみのがれ、なかには韓国かんこくしん政府せいふあらたな地位ちいたものもいた。べいぐん政庁せいちょうによれば、40まんにん朝鮮ちょうせんじん難民なんみんとして南下なんかした[35]

また主要しゅよう産業さんぎょう国有こくゆうされた。日本にっぽん農業のうぎょうとサービスぎょう朝鮮ちょうせん南部なんぶに、重工業じゅうこうぎょう北部ほくぶ集中しゅうちゅうさせていたため、経済けいざい状況じょうきょう南部なんぶ同様どうよう北部ほくぶきびしいものだった。 ソ連それんぐんは1948ねん12がつ10日とおか撤収てっしゅうした[36]

べいぐん南朝鮮みなみちょうせん占領せんりょう統治とうち[編集へんしゅう]

1945ねん9がつ9にち、ソウルでおこなわれた降伏ごうぶく調印ちょういんしきで、朝鮮ちょうせん総督そうとく日本にっぽん国旗こっきろされる様子ようす

アメリカ政府せいふソ連それん膨張ぼうちょうへのおそれと、日本にっぽん当局とうきょくからの権力けんりょく空白くうはくたいする警告けいこくけて、アメリカ占領せんりょうぐん出港しゅっこうさん前倒まえだおしされた[8]。 1945ねん9がつ7にちべい最高さいこう司令しれいかんダグラス・マッカーサー朝鮮ちょうせん人民じんみんけてだいいちごう宣言せんげんはっし、38せん以南いなん朝鮮ちょうせんにおける軍政ぐんせい実施じっし軍政ぐんせい期間きかんちゅう公用こうよう英語えいごとするむね布告ふこくした[37]同日どうじつジョン・リード・ホッジ中将ちゅうじょう軍政ぐんせいちょう長官ちょうかん就任しゅうにん発表はっぴょう。ホッジ指揮しきべい占領せんりょうぐんは1945ねん9がつ8にち仁川にがわ(インチョン)上陸じょうりくし、ざい朝鮮ちょうせんアメリカ陸軍りくぐん司令しれいぐん政庁せいちょう(USAMGIK)の南朝鮮みなみちょうせん軍政ぐんせい開始かいしされた。

連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんであったマッカーサーは、ワシントンDCからの明確めいかく命令めいれい主導しゅどうがなかったため、1945ねんから1948ねんまで朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ担当たんとうすることになった。 統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶ国務省こくむしょうからはマッカーサーに韓国かんこくをどのように統治とうちするかという計画けいかく指針ししんあたえられていなかった。 ホッジはワシントンD.C.ではなく、マッカーサーと東京とうきょうのGHQ(そう司令しれい)に直接ちょくせつ報告ほうこくした。 1945ねんから1952ねんまでのアメリカによる日本にっぽん占領せんりょう非常ひじょう平和へいわ安定あんていしていたのにくらべ、べいぐんによる3年間ねんかん南朝鮮みなみちょうせん占領せんりょう統治とうち(ブラックリスト・フォーティ作戦さくせん)は混沌こんとん波乱はらんちたものだった。 ホッジ指揮しきだい24軍団ぐんだん英語えいごばん戦闘せんとうのための訓練くんれんはされていたが、植民しょくみん支配しはい朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ出現しゅつげんした多様たよう政治せいじグループ(親日しんにち協力きょうりょくしゃおや共産きょうさん主義しゅぎしゃはん共産きょうさん主義しゅぎしゃ右翼うよくグループ、朝鮮ちょうせん民族みんぞく主義しゅぎしゃなど)を相手あいてとするような外交がいこう交渉こうしょう訓練くんれんけていなかった。また1945ねん後半こうはん時点じてん極東きょくとうにいたべいぐん国務省こくむしょうなかには、朝鮮ちょうせんはなせるアメリカじんはひとりもいなかった。このため南部なんぶ朝鮮ちょうせんじんあいだでは、実際じっさいのところくにうごかしているのは朝鮮ちょうせんじん通訳つうやくだというジョークもった[38][39]

中国ちゅうごく活動かつどうしていた大韓民国だいかんみんこく臨時りんじ政府せいふ通訳つうやく3にんふく代表だいひょうだんをホッジのもとにおくったが、ホッジはこの代表だいひょうだんとの面会めんかい拒否きょひした[40]。さらにホッジは樹立じゅりつ宣布せんぷしてあいだもない朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこくとその人民じんみん委員いいんかい承認しょうにんすることを拒否きょひし、12月12にちにはこれを非合法ひごうほうとした[41]

1945ねん12がつまでに50まんにん以上いじょう、1946ねん8がつまでに78まん6せんにん日本人にっぽんじん民間みんかんじん、つまり朝鮮ちょうせんのほぼすべての産業さんぎょうにおける管理かんりしゃ技術ぎじゅつしゃだい多数たすう日本にっぽん強制きょうせい送還そうかんさせられた。朝鮮ちょうせん経済けいざい混乱こんらんして深刻しんこく物価ぶっか上昇じょうしょうこり、1946ねんなつには配給はいきゅう価格かかく統制とうせい実施じっしされた[3]

1946ねん9がつすうせんにん労働ろうどうしゃ農民のうみん軍事ぐんじ政権せいけん反対はんたいして蜂起ほうきした。この蜂起ほうきはすぐに鎮圧ちんあつされ、10月に予定よていされていた韓国かんこく暫定ざんてい立法りっぽう議会ぎかい選挙せんきょ阻止そしすることはできなかった。選挙せんきょ違反いはん広範こうはん疑惑ぎわく調査ちょうさするため、議会ぎかい開会かいかいは12月に延期えんきされた[3]

熱烈ねつれつ反共はんきょう主義しゅぎしゃであった承晩しょうばんは、大韓民国だいかんみんこく臨時りんじ政府せいふ初代しょだい大統領だいとうりょうつとめたのちアメリカでしんかんのロビイストとして活動かつどうし、南朝鮮みなみちょうせんにおけるもっと著名ちょめい政治せいじとなっていた。承晩しょうばんはアメリカ政府せいふたいして、信託しんたく統治とうち交渉こうしょう断念だんねん朝鮮ちょうせん南部なんぶ朝鮮ちょうせん独立どくりつ共和きょうわこく創設そうせつするよう圧力あつりょくをかけた[42]。1947ねん7がつ19にち左右さゆう合作がっさく尽力じんりょくした最後さいご有力ゆうりょく政治せいじであったりょうんとおるが、北朝鮮きたちょうせんからの難民なんみん民族みんぞく主義しゅぎ右翼うよく団体だんたい活動かつどうてきなメンバーであった19さいおとこかんさとしによって暗殺あんさつされた[43]

アメリカぐん政庁せいちょう成立せいりつしたばかりの韓国かんこく政府せいふたいする左派さははん政府せいふ活動かつどうが、北朝鮮きたちょうせん支援しえんしたものもふくめて多発たはつしたが、やがて鎮圧ちんあつされ、そのすう年間ねんかんで3まんにん[44]から10まんにんもの人々ひとびと殺害さつがいされた。その犠牲ぎせいしゃおおくは済州さいしゅうとうよんさん事件じけんによるものであった[45]

べい共同きょうどう委員いいんかい[編集へんしゅう]

1945ねん12月にひらかれたモスクワさんこく外相がいしょう会議かいぎにおいて、連合れんごうこくは、ソ連それん、アメリカ、中華民国ちゅうかみんこく、イギリスによる最長さいちょう5年間ねんかん朝鮮ちょうせん信託しんたく統治とうちあん合意ごういした。朝鮮ちょうせん人民じんみんおおくは即時そくじ独立どくりつ要求ようきゅうしたが、ソビエト共産党きょうさんとう緊密きんみつ連携れんけいしていた朝鮮ちょうせん共産党きょうさんとう信託しんたく統治とうち支持しじした[46][47]歴史れきしのフョードル・テルティツキーによれば、1945ねん文書ぶんしょかぎソ連それん政府せいふ当初とうしょ朝鮮半島ちょうせんはんとう恒久こうきゅうてき分割ぶんかつする計画けいかくはなかったという[28]

1946ねんと1947ねんべい共同きょうどう委員いいんかい朝鮮ちょうせんばん開催かいさいされ、統一とういつ政権せいけんけたみがおこなわれたが、冷戦れいせんによる対立たいりつ激化げきか韓国かんこくがわ信託しんたく統治とうちたいする反対はんたいにより協議きょうぎ進展しんてんすることはなかった[48]。1946ねんソ連それんりょうんとおる統一とういつ朝鮮ちょうせん指導しどうしゃとして提案ていあんしたが、アメリカはこれを却下きゃっかした[28]。こうした状況じょうきょうなか南北なんぼく分裂ぶんれつはよりふかまっていった。占領せんりょうこくあいだ政策せいさくちがいは政治せいじきょくをもたらし、南北なんぼくあいだ人口じんこう移動いどうをもたらした[49]。1946ねん5がつには許可きょかなく38せんえることが違法いほうとなった[50]。1947ねん9がつ共同きょうどう委員いいんかい最終さいしゅう会議かいぎで、ソ連それん代表だいひょうシトゥイコフは、ソ連それんぐんとアメリカぐん双方そうほう撤退てったい朝鮮ちょうせん人民じんみん独自どくじ政府せいふ樹立じゅりつする機会きかいあたえることを提案ていあんした。これはアメリカによって拒否きょひされた[51]

国連こくれん介入かいにゅう個別こべつ政府せいふ樹立じゅりつ[編集へんしゅう]

1946ねんべい共同きょうどう委員いいんかい朝鮮ちょうせんばん支持しじするデモをおこな南朝鮮みなみちょうせん民衆みんしゅう
1948ねん5がつ10日とおかおこなわれた南朝鮮みなみちょうせん初代しょだいそう選挙せんきょ
1948ねん8がつ15にち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいからの引継ひきつぎしきのぞむマッカーサーと承晩しょうばん

共同きょうどう委員いいんかいによる協議きょうぎ進展しんてん失敗しっぱいわったことから、アメリカは1947ねん9がつ、この問題もんだい国連こくれんうえていした。ソ連それん国連こくれん関与かんよ反対はんたいした[52]国連こくれんは1947ねん11月14にち自由じゆう選挙せんきょ実施じっし外国がいこくぐん撤退てったい国連こくれん臨時りんじ朝鮮ちょうせん委員いいんかい英語えいごばん(UNTCOK)の設置せっちなどを宣言せんげんした決議けつぎ採択さいたくした。だがソ連それん採決さいけつ自体じたいをボイコットし、決議けつぎには拘束こうそくりょく国連こくれん公正こうせい選挙せんきょ保証ほしょうすることはできないと主張しゅちょうした。ソ連それん協力きょうりょくられなかったため、国連こくれん監督かんとくする選挙せんきょ南部なんぶのみで実施じっしすることが決定けっていされた[53][54]。これは、南北なんぼく別個べっこでの選挙せんきょ異議いぎとなえたK・P・S・メノン英語えいごばん委員いいんちょう報告ほうこくにもはんするものであった[55]。UNTCOK代表だいひょうだんなかには、南部なんぶ状況じょうきょう右翼うよく候補こうほ不当ふとう有利ゆうりであるとかんがえるものもいたが、そうした意見いけんかえりみられることはなかった[8]:211–212

南北なんぼく別々べつべつ選挙せんきょおこなうという決定けっていは、当然とうぜんのことながらそれが恒久こうきゅうてき分断ぶんだんはじまりにぎないことを理解りかいするおおくの朝鮮ちょうせんじん不興ふきょうった。1948ねん2がつにはこの決定けってい抗議こうぎするゼネラル・ストライキおこなわれた[50]。4月には国家こっか分裂ぶんれつたいして済州さいしゅう島民とうみん蜂起ほうきし、だい規模きぼ反乱はんらんへと発展はってんして弾圧だんあつされる事件じけん発生はっせいした(済州さいしゅうとうよんさん事件じけん)。韓国かんこく独立どくりつした1948ねん8がつ以降いこう反乱はんらんへの弾圧だんあつ激化げきかした。暴動ぼうどう反乱はんらんは1949ねん5がつまでにはだい部分ぶぶん鎮圧ちんあつされ、2まん5せんにんから3まんにん死亡しぼう[56]村落そんらくの70%が韓国かんこくぐんによってはらわれた[57]朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、暴動ぼうどうふたた激化げきかした[58]

1948ねん4がつ南北なんぼく組織そしき合同ごうどう会議かいぎ平壌ぴょんやん開催かいさいされた。南朝鮮みなみちょうせん政治せいじきむきゅうきむ奎植会議かいぎ出席しゅっせきし、政治せいじ政党せいとうとも南朝鮮みなみちょうせんそう選挙せんきょをボイコットした[8]:211,507[59]。この会議かいぎでは統一とういつ政府せいふ樹立じゅりつ外国がいこくぐん撤退てったいもとめられた[60]承晩しょうばんとホッジは会議かいぎ非難ひなんした[60]きむきゅう翌年よくねん暗殺あんさつされた[61]

1948ねん5がつ10日とおか南朝鮮みなみちょうせん初代しょだいそう選挙せんきょおこなわれた。選挙せんきょ暴力ぼうりょく脅迫きょうはくなか承晩しょうばん敵対てきたいする勢力せいりょく選挙せんきょをボイコットするなかおこなわれた[62]。8月15にち、「大韓民国だいかんみんこく」(通称つうしょう 韓国かんこく)は正式せいしきべいぐん政庁せいちょうから権力けんりょく移譲いじょうされ、承晩しょうばん初代しょだい大統領だいとうりょうとなった。べいぐん政庁せいちょう正式せいしき解散かいさんし、韓国かんこくぐん訓練くんれん支援しえんおこなうためにざい韓米かんべい軍事ぐんじ顧問こもんだん英語えいごばん設立せつりつされた。べいぐん撤退てったい開始かいしし、1949ねんまでに撤退てったい完了かんりょうした。一方いっぽう北部ほくぶ朝鮮ちょうせんでは9月9にちに「朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく」(北朝鮮きたちょうせん)が建国けんこくされ、きむ日成いるそん首相しゅしょういた。

1948ねん12月12にち国連こくれん総会そうかいはUNTCOKの報告ほうこくしょけ、大韓民国だいかんみんこくを「朝鮮ちょうせんにおける唯一ゆいいつ合法ごうほうてき政府せいふ」と宣言せんげんした[63]。だがUNTCOKの委員いいんだれ一人ひとりとして選挙せんきょによって合法ごうほうてき国会こっかい設立せつりつされたとかんがえていなかった。委員いいんかい代表だいひょうしゃようするオーストラリア政府せいふは、当該とうがい選挙せんきょについて「満足まんぞくとは程遠ほどとおい」と表明ひょうめいしている[62]

南部なんぶでは暴動ぼうどうつづいていた。1948ねん10がつ韓国かんこくぐん一部いちぶ連隊れんたい済州さいしゅう暴動ぼうどう鎮圧ちんあつ拒否きょひして政府せいふ反乱はんらんこすという麗水れいすいじゅんてん事件じけんこった[64]。1949ねん承晩しょうばん政府せいふ政敵せいてき監視かんしさい教育きょういくするために「どう連盟れんめい」という組織そしき設立せつりつした。だがこのどう連盟れんめい加盟かめいしゃだい多数たすうは、強制きょうせいてき加盟かめいさせられたつみのない農民のうみん民間みんかんじんであった[65]。そのどう連盟れんめい加盟かめいしゃおよびその家族かぞく朝鮮ちょうせん戦争せんそう開始かいし韓国かんこく政府せいふ当局とうきょくによって処刑しょけいされた(しるべ連盟れんめい事件じけん)。1949ねん12月24にち韓国かんこくぐん共産きょうさん主義しゅぎ支持しじしゃうたがわれた聞慶市民しみんやその家族かぞく虐殺ぎゃくさつし、共産きょうさん主義しゅぎしゃにその責任せきにんけた(聞慶虐殺ぎゃくさつ事件じけん[66]

朝鮮ちょうせん戦争せんそう[編集へんしゅう]

せんねん以上いじょう統一とういつ状態じょうたいであった朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだんは、りょう政権せいけんにとって論争ろんそうこすがあくまで一時いちじてきなものとなされた。1948ねんから内戦ないせん勃発ぼっぱつする1950ねん6がつ25にちまでのあいだ国境こっきょう沿いでは流血りゅうけつともな衝突しょうとつなん発生はっせいした。 1950ねん北朝鮮きたちょうせん韓国かんこく侵入しんにゅうするとこうした衝突しょうとつ一気いっきにエスカレートし、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつがねとなった。 朝鮮ちょうせん南部なんぶまもるため国連こくれん介入かいにゅうし、米国べいこく主導しゅどうぐん派遣はけんした。国連こくれんぐん到着とうちゃくするまえ南部なんぶをほぼ占領せんりょうした朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)は、みずか政権せいけんした朝鮮ちょうせん統一とういつしようと目論もくろみ、産業さんぎょう国有こくゆう土地とち改革かいかく人民じんみん委員いいんかい復活ふっかつなどをはじめた[67]

1951ねんべい軍機ぐんきばくげきける元山もとやまこう

国連こくれん介入かいにゅうは38せん国境こっきょう回復かいふく想定そうていしたものだったが、承晩しょうばん北朝鮮きたちょうせん攻撃こうげきによって国境こっきょう消滅しょうめつしたと主張しゅちょうした。同様どうよう国連こくれんぐん最高さいこう司令しれいかんダグラス・マッカーサーも、北朝鮮きたちょうせんぐん国境こっきょうこうがわかえすだけでなく、朝鮮ちょうせん統一とういつするつもりであるとべている[68]。だがアメリカ主導しゅどうぐんによる反撃はんげき開始かいしまでに、北朝鮮きたちょうせん半島はんとう南部なんぶの90%を制圧せいあつしていた。北朝鮮きたちょうせんぐんみなみからされるなか韓国かんこくぐんは10月1にちに38せんえ、その1週間しゅうかんにアメリカぐん国連こくれんぐん追従ついしょうした。これは、アメリカぐんが38せんえた場合ばあいには介入かいにゅうするとの中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく)からの警告けいこくにもかかわらずであった[69]きた占領せんりょうした韓国かんこくは、今度こんど韓国かんこく国家こっか警察けいさつによる強制きょうせいてき政治せいじ教化きょうかによって国家こっか統一とういつしようとした[8]:281–282。だが米国べいこく主導しゅどう国連こくれんぐん北部ほくぶ進出しんしゅつすると中国ちゅうごく反撃はんげき開始かいしし、べい国連こくれんぐん南部なんぶかえされた。

処刑しょけいをおそれ韓国かんこくへい命乞いのちごいをする中国ちゅうごくへい捕虜ほりょ、1951ねん

1951ねん前線ぜんせんは38せん付近ふきん停滞ていたいし、双方そうほう休戦きゅうせん検討けんとうはじめた。しかし、承晩しょうばん朝鮮ちょうせんみずからの指導しどうした統一とういつされるまで戦争せんそう継続けいぞくするよう要求ようきゅうした[70]共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえいは38せんもとづく休戦きゅうせんラインを支持しじしたが、国連こくれん軍事ぐんじてき防衛ぼうえい可能かのうかつ双方そうほう保持ほじする領土りょうどもとづく休戦きゅうせんラインを支持しじした[71]。アメリカがわ策定さくていした国連こくれん立場たちばは、交渉こうしょういたるまでの合意ごういとはことなるものであった[72]当初とうしょアメリカは、前線ぜんせんよりもはるかきたにある平壌ぴょんやん通過つうかするせん(39せん)を提案ていあんしていた[73]中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん最終さいしゅうてきに38せんではなく軍事ぐんじ境界きょうかいせんじょう国境こっきょうもうけることに同意どういしたが、意見いけん相違そういにより交渉こうしょうプロセスは複雑ふくざつかつ長期ちょうきにおよぶものとなった[74]

休戦きゅうせん[編集へんしゅう]

2016ねん夜間やかん衛星えいせい写真しゃしんみなみ光量ひかりりょうきたよりもおおく、半島はんとう分断ぶんだん宇宙うちゅうからも確認かくにんすることができる。

3年間ねんかんにおよぶ戦争せんそう朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん協定きょうてい調印ちょういんされた。りょう陣営じんえいは、武装ぶそう地帯ちたい(Korean Demilitarized Zone、DMZ)とばれるはば4キロメートル(2.5マイル)の緩衝かんしょう地帯ちたい両国りょうこくあいだ軍事ぐんじ境界きょうかいせん(Military Demarcation Line、MDL)じょうもうけることで合意ごういした。このあらたな「国境こっきょう」は戦争せんそう終了しゅうりょう双方そうほう保持ほじしていた領土りょうど反映はんえいさせたもので、北緯ほくい38せんななめに横切よこぎっている。なお承晩しょうばん休戦きゅうせん協定きょうていれを拒否きょひし、武力ぶりょくによる祖国そこく統一とういつ主張しゅちょうつづけた[75]りょう陣営じんえいとも半島はんとう統一とういつ目標もくひょうかかげていたが、実際じっさいにはこの朝鮮ちょうせん戦争せんそうによって朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだん長期ちょうきし、韓国かんこく米国べいこくあいだ恒久こうきゅうてき同盟どうめいむすばれ、半島はんとう南部なんぶべいぐん常駐じょうちゅうすることとなった[76]

休戦きゅうせん協定きょうてい規定きていしたがい、1954ねんにジュネーヴで開催かいさいされた和平わへい会談かいだん朝鮮半島ちょうせんはんとう問題もんだい協議きょうぎされた。だがおおくの関係かんけいこく努力どりょくにもかかわらず、会談かいだん朝鮮ちょうせん統一とういつ宣言せんげんすことなく終了しゅうりょうした。

1953ねん休戦きゅうせん協定きょうていもとづき中立ちゅうりつこく監視かんし委員いいんかい(NNSC)が設立せつりつされ休戦きゅうせん状態じょうたい監視かんししている。設立せつりつ以来いらいスイス[77]とスウェーデン[78]軍人ぐんじんがNNSCのメンバーとして軍事ぐんじ境界きょうかいせん付近ふきん駐留ちゅうりゅうしている。ポーランドとチェコスロバキアも北朝鮮きたちょうせんえらんだ中立ちゅうりつこくとして監視かんし委員いいんかいくわわったが、これらのくに資本しほん主義しゅぎれたのち北朝鮮きたちょうせん両国りょうこく監視かんしいん追放ついほうした[79]

休戦きゅうせん両国りょうこく関係かんけい[編集へんしゅう]

軍事ぐんじ境界きょうかい線上せんじょう握手あくしゅするきむただしおん委員いいんちょうぶんざいとら大統領だいとうりょうみぎ)。

戦後せんご朝鮮半島ちょうせんはんとう軍事ぐんじ境界きょうかいせんさかい分断ぶんだんされたままとなった。南北なんぼく依然いぜんとして紛争ふんそう状態じょうたいにあり、対立たいりつする政権せいけんはどちらもみずからが半島はんとう全体ぜんたい正統せいとう政府せいふであると主張しゅちょうしている。交渉こうしょう散発さんぱつてき統一とういつけた持続じぞくてき進展しんてんにはいたっていない[80]

2018ねん4がつ27にち北朝鮮きたちょうせんきむただしおん朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう委員いいんちょう韓国かんこくぶんざいとら大統領だいとうりょう板門店はんもんてん首脳しゅのう会談かいだんおこなった。りょう首脳しゅのう署名しょめいした板門店はんもんてん宣言せんげんでは、半島はんとう統一とういつけた南北なんぼく関係かんけい改善かいぜん軍事ぐんじてき緊張きんちょう状態じょうたい緩和かんわ平和へいわ体制たいせい樹立じゅりつ目指めざすことなどが宣言せんげんされた[81][82]

2018ねん11月1にち陸海空りくかいくうでの敵対てきたい関係かんけい終結しゅうけつ確実かくじつにするために、DMZ全域ぜんいき緩衝かんしょう地帯ちたい設置せっちされた[83][84]緩衝かんしょう地帯ちたい韓国かんこく西海さいかい徳積とくづみとう北側きたがわから草島くさじまみなみまでの135キロ区間くかん東海とうかいたば草市くさいちきたから北朝鮮きたちょうせんどおりそんぐんみなみまで設定せっていされた[84][83]。さらに飛行ひこう禁止きんし区域くいき設定せっていされた[83][84]

大衆たいしゅう文化ぶんか[編集へんしゅう]

歴史れきしドラマ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Lee, Jongsoo (2006). The Partition of Korea After World War II: A Global History. New York: Palgrave Macmillan. ISBN 978-1-4039-6982-8 
  2. ^ National Geographic, Korea, and the 38th Parallel” (英語えいご). National Geographic (2013ねん8がつ5にち). 2021ねん5がつ15にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c George M. McCune (March 1947). “Korea: The First Year of Liberation”. Pacific Affairs (University of British Columbia) 20 (1): 3–17. doi:10.2307/2752411. JSTOR 2752411. https://www.jstor.org/stable/2752411 2022ねん1がつ5にち閲覧えつらん. 
  4. ^ Troops cross North-South Korea Demilitarized Zone in peace for 1st time ever”. Cbsnews.com. 2018ねん12月30にち閲覧えつらん
  5. ^ North and South Korean soldiers enter each other's territory”. The Economic Times. 2018ねん12月16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん12月30にち閲覧えつらん
  6. ^ 動画どうが韓国かんこく北朝鮮きたちょうせん武装ぶそう地帯ちたい監視かんししょ撤去てっきょ相互そうご検証けんしょう開始かいし」『AFP通信つうしん』、2018ねん12月13にち2023ねん7がつ27にち閲覧えつらん
  7. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. pp. 31–37. ISBN 978-0-415-23749-9 
  8. ^ a b c d e f g Cumings, Bruce (2005). Korea's Place in the Sun: A Modern History. New York: W. W. Norton & Company. ISBN 978-0-393-32702-1 
  9. ^ 小此木おこのぎ (2009), p.2
  10. ^ ウィキソース出典 カイロ宣言せんげん』。ウィキソースより閲覧えつらん 
  11. ^ “Cairo Communique, December 1, 1943”. Japan National Diet Library. (1943ねん12月1にち). オリジナルの2010ねん12月6にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101206020831/http://www.ndl.go.jp/constitution/e/shiryo/01/002_46/002_46tx.html 2012ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん 
  12. ^ Savada, Andrea Matles; Shaw, William, eds (1990). “World War II and Korea”. South Korea: A Country Study. GPO. Washington, DC: Library of Congress. オリジナルの2011-06-29時点じてんにおけるアーカイブ。. http://countrystudies.us/south-korea/8.htm 2006ねん5がつ16にち閲覧えつらん 
  13. ^ 小此木おこのぎ (2009), pp.11-14
  14. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. p. 20. ISBN 978-0-691-11847-5 
  15. ^ 小此木おこのぎ (2009), p.24
  16. ^ 新城しんじょう (2023), p.226
  17. ^ Walker, J Samuel (1997). Prompt and Utter Destruction: Truman and the Use of Atomic Bombs Against Japan. Chapel Hill: The University of North Carolina Press. p. 82. ISBN 978-0-8078-2361-3. https://archive.org/details/promptutterdestr00walk 
  18. ^ a b c d Tertitskiy, Fyodor (2018ねん11月6にち). “How Kim Il Sung became North Korea's Great Leader”. NK News. オリジナルの2018ねん11月15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181115195059/https://www.nknews.org/2018/11/how-kim-il-sung-became-north-koreas-great-leader 2018ねん11月15にち閲覧えつらん 
  19. ^ a b 新城しんじょう (2023), p.229
  20. ^ Oberdorfer, Don; Carlin, Robert (2014). The Two Koreas: A Contemporary History. Basic Books. p. 5. ISBN 9780465031238 
  21. ^ Seth, Michael J. (2010-10-16). A History of Korea: From Antiquity to the Present. Rowman & Littlefield Publishers (2010発行はっこう). p. 306. ISBN 9780742567177. オリジナルの2016-01-01時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160101084332/https://books.google.com/books?id=WJtMGXyGlUEC 2015ねん11月16にち閲覧えつらん 
  22. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. p. 53. ISBN 978-0-415-23749-9 
  23. ^ Goulden, Joseph C (1983). Korea: the Untold Story of the War. New York: McGraw-Hill. p. 17. ISBN 978-0070235809 
  24. ^ a b c Hyung Gu Lynn (2007). Bipolar Orders: The Two Koreas since 1989. Zed Books. p. 18 
  25. ^ Seth, Michael J. (2010). A Concise History of Modern Korea: From the Late Nineteenth Century to the Present. Hawaìi studies on Korea. Rowman & Littlefield. p. 86. ISBN 9780742567139. オリジナルの2016-05-19時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160519014155/https://books.google.com/books?id=uJHyoC2Pt60C 2015ねん11月16にち閲覧えつらん 
  26. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. pp. 53–57. ISBN 978-0-415-23749-9 
  27. ^ Robinson, Michael E (2007). Korea's Twentieth-Century Odyssey. Honolulu: University of Hawaii Press. pp. 105–106. ISBN 978-0-8248-3174-5. https://archive.org/details/koreastwentieth00robi/page/105 
  28. ^ a b c Tertitskiy, Fyodor (2018ねん8がつ8にち). “Why Soviet plans for Austria-style unification in Korea did not become a reality”. NK News. オリジナルの2018ねん11月15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181115195117/https://www.nknews.org/2018/08/why-russian-plans-for-austria-style-unification-in-korea-did-not-become-a-reality 2018ねん11月15にち閲覧えつらん 
  29. ^ a b c d Cumings, Bruce. “The North Wind: The Origins of the Korean War”. 2023ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  30. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. pp. 54–55. ISBN 978-0-415-23749-9 
  31. ^ a b Lankov, Andrei (2013-04-10). The Real North Korea: Life and Politics in the Failed Stalinist Utopia. Oxford University Press. p. 7 
  32. ^ a b Robinson, Michael E (2007). Korea's Twentieth-Century Odyssey. Honolulu: University of Hawaii Press. p. 106. ISBN 978-0-8248-3174-5. https://archive.org/details/koreastwentieth00robi 
  33. ^ a b ランコフ (2015), p.14
  34. ^ Cumings, Bruce (1981). The Origins of the Korean War: Liberation and the Emergence of Separate Regimes, 1945–1947. Princeton University Press. ISBN 0-691-09383-0 
  35. ^ Millet, Allan R. (2005). The War for Korea: 1945–1950. p. 59 
  36. ^ Gbosoe, Gbingba T. (September 2006). Modernization of Japan. iUniverse (2006発行はっこう). p. 212. ISBN 9780595411900. オリジナルの28 April 2016時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160428033822/https://books.google.com/books?id=qfnP-Za9FwEC 2015ねん10がつ6にち閲覧えつらん. "Although Soviet occupation forces were withdrawn on December 10, 1948, [...] the Soviets had maintained ties with the Democratic People's Republic of Korea [...]" 
  37. ^ Foreign Relations of the United States: Diplomatic Papers, 1945, The British Commonwealth, The Far East, Volume VI - Office of the Historian”. history.state.gov. 2022ねん6がつ23にち閲覧えつらん
  38. ^ Reports of General MacArthur: MacArthur in Japan: The Occupation: Military Phase: Volume 1 Supplement. Chapter III. https://history.army.mil/books/wwii/MacArthur%20Reports/MacArthur%20V1%20Sup/ch3.htm 2021ねん3がつ26にち閲覧えつらん 
  39. ^ CHAPTER II:The House Divided”. history.army.mil. 2021ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  40. ^ Hart-Landsberg, Martin (1998). Korea: Division, Reunification, & U.S. Foreign Policy. Monthly Review Press. pp. 71–77. https://archive.org/details/korea00mart 
  41. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. p. 57. ISBN 978-0-415-23749-9 
  42. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. pp. 49, 55–57. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  43. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. p. 65. ISBN 978-0-415-23749-9 
  44. ^ Millet, Arthur (2005). The War for Korea, 1945–1950 
  45. ^ Halliday, Jon; Cumings, Bruce (1988). Korea: The Unknown War. Viking Press. ISBN 0-670-81903-4 
  46. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. p. 59. ISBN 978-0-415-23749-9 
  47. ^ Bluth, Christoph (2008). Korea. Cambridge: Polity Press. p. 12. ISBN 978-07456-3357-2 
  48. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. pp. 59–60, 65. ISBN 978-0-415-23749-9 
  49. ^ Robinson, Michael E (2007). Korea's Twentieth-Century Odyssey. Honolulu: University of Hawaii Press. pp. 108–109. ISBN 978-0-8248-3174-5. https://archive.org/details/koreastwentieth00robi/page/108 
  50. ^ a b Hyung Gu Lynn (2007). Bipolar Orders: The Two Koreas since 1989. Zed Books. p. 20 
  51. ^ Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Melbourne: Hardie Grant. p. 43. ISBN 978-1-74379-393-0 
  52. ^ Lone, Stewart; McCormack, Gavan (1993). Korea since 1850. Melbourne: Longman Cheshire. pp. 100–101 
  53. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. p. 66. ISBN 978-0-415-23749-9 
  54. ^ Jager, Sheila Miyoshi (2013). Brothers at War – The Unending Conflict in Korea. London: Profile Books. p. 47. ISBN 978-1-84668-067-0 
  55. ^ Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Melbourne: Hardie Grant. p. 45. ISBN 978-1-74379-393-0 
  56. ^ Kim, Hun Joon (2014). The Massacre at Mt. Halla: Sixty Years of Truth Seeking in South Korea. Cornell University Press. pp. 13–41. ISBN 9780801452390 
  57. ^ “Ghosts of Cheju”. Newsweek. (2000ねん6がつ19にち). オリジナルの2011ねん6がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110615112530/http://www.newsweek.com/2000/06/18/ghosts-of-cheju.html 2012ねん9がつ2にち閲覧えつらん 
  58. ^ Robinson, Michael E (2007). Korea's Twentieth-Century Odyssey. Honolulu: University of Hawaii Press. pp. 112. ISBN 978-0-8248-3174-5. https://archive.org/details/koreastwentieth00robi/page/112 
  59. ^ Jager, Sheila Miyoshi (2013). Brothers at War – The Unending Conflict in Korea. London: Profile Books. pp. 47–48. ISBN 978-1-84668-067-0 
  60. ^ a b Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Melbourne: Hardie Grant. p. 46. ISBN 978-1-74379-393-0 
  61. ^ Jager, Sheila Miyoshi (2013). Brothers at War – The Unending Conflict in Korea. London: Profile Books. pp. 48, 496. ISBN 978-1-84668-067-0 
  62. ^ a b Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Melbourne: Hardie Grant. p. 47. ISBN 978-1-74379-393-0 
  63. ^ Buzo, Adrian (2002). The Making of Modern Korea. London: Routledge. p. 67. ISBN 978-0-415-23749-9 
  64. ^ 439 civilians confirmed dead in Yeosu-Suncheon Uprising of 1948 New report by the Truth Commission places blame on Syngman Rhee and the Defense Ministry, advises government apology”. The Hankyoreh (2009ねん1がつ8にち). 2011ねん5がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  65. ^ “Gov't Killed 3,400 Civilians During War”. The Korea Times. (2009ねん3がつ2にち). オリジナルの2012ねん10がつ4にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121004181846/http://www.koreatimes.co.kr/www/news/nation/2009/03/117_40555.html 2014ねん10がつ19にち閲覧えつらん 
  66. ^ (朝鮮ちょうせん)OhmyNews. (2009ねん2がつ17にち). オリジナルの2011ねん5がつ3にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110503211146/http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001070694+2012ねん9がつ2にち閲覧えつらん 
  67. ^ Lone, Stewart; McCormack, Gavan (1993). Korea since 1850. Melbourne: Longman Cheshire. p. 112 
  68. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. pp. 87–88. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  69. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. p. 89. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  70. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. p. 141. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  71. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. pp. 139, 180. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  72. ^ Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Hardie Grant Books. pp. 187–188 
  73. ^ Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Hardie Grant Books. p. 188 
  74. ^ Pembroke, Michael (2018). Korea: Where the American Century Began. Hardie Grant Books. pp. 188–189 
  75. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. pp. 189–193. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  76. ^ Stueck, William W. (2002). Rethinking the Korean War: A New Diplomatic and Strategic History. Princeton, NJ: Princeton University Press. pp. 188–189. ISBN 978-0-691-11847-5. https://archive.org/details/rethinkingkorean0000stue 
  77. ^ NNSC in Korea”. スイスぐん. 2011ねん8がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  78. ^ Korea”. スウェーデンぐん. 2010ねん8がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  79. ^ Winchester, Simon (2015). Pacific: The Ocean of the Future. William Collins. p. 185 
  80. ^ Feffer, John (2005ねん6がつ9にち). “Korea's slow-motion reunification”. Boston Globe. オリジナルの2007ねん8がつ23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070823170140/http://www.boston.com/news/globe/editorial_opinion/oped/articles/2005/06/09/koreas_slow_motion_reunification/ 2007ねん8がつ13にち閲覧えつらん 
  81. ^ ウィキソース出典 朝鮮半島ちょうせんはんとう平和へいわ繁栄はんえい統一とういつのための板門店はんもんてん宣言せんげん』。ウィキソースより閲覧えつらん 
  82. ^ Taylor, Adam (2018ねん4がつ27にち). “The full text of North and South Korea's agreement, annotated”. 2018ねん6がつ12にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  83. ^ a b c 이치동 (2018ねん11月1にち). “Koreas halt all 'hostile' military acts near border”. Yonhap News Agency. 2019ねん2がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  84. ^ a b c Two Koreas end military drills, begin operation of no-fly zone near MDL: MND - NK News - North Korea News” (2018ねん10がつ31にち). 2019ねん3がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん2がつ28にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]