ルイス・バーウェル・"チェスティ"・プラー (Lewis Burwell "Chesty" Puller, 1898年 ねん 6月26日 にち - 1971年 ねん 10月11日 にち )は、アメリカの海兵 かいへい 隊員 たいいん 。長年 ながねん に渡 わた りアメリカ海兵 かいへい 隊 たい の将校 しょうこう として勤務 きんむ し、数 すう 多 おお くの勲章 くんしょう 等 とう を受章 じゅしょう した。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は海兵 かいへい 隊 たい 中将 ちゅうじょう 。
1898年 ねん 、バージニア州 しゅう ウェストポイントにて、父 ちち マシューと母 はは マーサのもとに生 せい を受 う ける。父 ちち は食品 しょくひん 雑貨 ざっか 店 てん (grocer)を営 いとな んでいたが、ルイスが10歳 さい になる頃 ころ に死去 しきょ している。プラーは年老 としお いた南北戦争 なんぼくせんそう 復員 ふくいん 兵 へい らの話 はなし を聞 き きながら育 そだ ち、とりわけ南 みなみ 軍 ぐん のトーマス・"ストーンウォール"・ジャクソン 将軍 しょうぐん の逸話 いつわ に心 しん を惹 ひ かれていたという。1916年 ねん には米 べい 墨 ぼく 国境 こっきょう 戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) で戦 たたか う為 ため に陸軍 りくぐん に志願 しがん しようとしたものの、若 わか すぎる上 うえ に保護 ほご 者 しゃ たる母親 ははおや の許可 きょか もなかったので認 みと められなかった[1] 。
翌年 よくねん 、バージニア州立 しゅうりつ 軍事 ぐんじ 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) に入校 にゅうこう する。しかし1918年 ねん 8月 がつ に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると中退 ちゅうたい し、この折 おり に「銃 じゅう のあるところに行 い かねば!」(go where the guns are!)とい残 いのこ したという[2] 。彼 かれ はベローウッドの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) における第 だい 5海兵 かいへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) の活躍 かつやく に触発 しょくはつ され海兵 かいへい 隊 たい を志願 しがん 、基礎 きそ 訓練 くんれん の為 ため にサウスカロライナ州 しゅう のパリスアイランド志願 しがん 兵 へい 訓練 くんれん 所 しょ (英語 えいご 版 ばん ) に送 おく られた[1] 。
結局 けっきょく 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に実戦 じっせん を経験 けいけん することはなかったが、海兵 かいへい 隊 たい の拡大 かくだい が進 すす められる中 なか で、プラーは訓練 くんれん を終 お えた直後 ちょくご から下士官 かしかん 学校 がっこう 、さらに士官 しかん 候補 こうほ 生 せい 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) へ進 すす むことになる。1919年 ねん 6月 がつ 16日 にち には士官 しかん 候補 こうほ 生 せい 学校 がっこう を卒業 そつぎょう し予備 よび 役 やく 少尉 しょうい の階級 かいきゅう を得 え るが、終戦 しゅうせん に伴 ともな う軍縮 ぐんしゅく により海兵 かいへい 隊 たい は総員 そういん 73,000名 めい から将校 しょうこう 1,100名 めい 下士官 かしかん 兵 へい 27,400名 めい まで規模 きぼ を縮小 しゅくしょう することとなり[3] 、プラーも10日 とおか 後 ご には非 ひ 活性 かっせい (inactive status)に指定 してい され、階級 かいきゅう は伍長 ごちょう (corporal)に改 あらた められた[1] 。
ルイス・プラー少尉 しょうい (左 ひだり から2番目 ばんめ )、ウィリアム・"アイアンマン"・リー軍曹 ぐんそう (左 ひだり から3番目 ばんめ )、ニカラグア兵 へい ら(両 りょう 端 はし )。1931年 ねん 撮影 さつえい
その後 ご 、プラー伍長 ごちょう は米国 べいこく 占領 せんりょう 下 か のハイチ(英語 えいご 版 ばん ) に派遣 はけん され、ハイチ憲兵 けんぺい 隊 たい (Gendarmerie d'Haiti)に中尉 ちゅうい (lieutenant)として出向 しゅっこう した[4] 。以後 いご の5年間 ねんかん 、彼 かれ は反 はん 政府 せいふ 組織 そしき カコ(Caco)の鎮圧 ちんあつ に40回 かい 以上 いじょう 参加 さんか し、また将校 しょうこう への復帰 ふっき を2度 ど 申請 しんせい している。1922年 ねん 、プラーはアレクサンダー・ヴァンデグリフト 少佐 しょうさ の副官 ふっかん に任命 にんめい される。米 べい 本土 ほんど に戻 もど った後 のち の1924年 ねん 3月 がつ 6日 にち 、少尉 しょうい (認識 にんしき 番号 ばんごう (英語 えいご 版 ばん ) 03158)として将校 しょうこう に復帰 ふっき する。バージニア州 しゅう ノーフォークの海兵 かいへい 隊 たい 基地 きち 、バージニア州 しゅう クアンティコの基本 きほん 術 じゅつ 科 か 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) 、第 だい 10海兵 かいへい 砲兵 ほうへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) などに勤務 きんむ した。1926年 ねん 7月 がつ から真珠湾 しんじゅわん の海兵 かいへい 隊 たい 基地 きち に勤務 きんむ 、1928年 ねん にはカリフォルニア州 しゅう サンティアゴに移 うつ る。
プラー中尉 ちゅうい (後列 こうれつ 中央 ちゅうおう )とニカラグア国家 こっか 警備 けいび 隊 たい の将兵 しょうへい 。
1928年 ねん 12月よりニカラグア国家 こっか 警備 けいび 隊 たい (英語 えいご 版 ばん ) に出向 しゅっこう 。1930年 ねん 8月 がつ 19日 にち 、治安 ちあん 作戦 さくせん における戦功 せんこう から1つ目 め の海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう 。1931年 ねん 7月 がつ に米 べい 本土 ほんど に戻 もど り、ジョージア州 しゅう フォート・ベニング にて中隊 ちゅうたい 勤務 きんむ 士官 しかん 課程 かてい (Company Officers Course)を修了 しゅうりょう 。1932年 ねん 9月 がつ 20日 はつか から10月 がつ 1日 にち まで再 ふたた びニカラグア国家 こっか 警備 けいび 隊 たい に勤務 きんむ し、この最中 さいちゅう に2つ目 め の海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう している。
ニカラグア勤務 きんむ を終 お えた後 のち 、プラーは中華民国 ちゅうかみんこく の北平 きたひら (現在 げんざい の北京 ぺきん )にある米国 べいこく 公使館 こうしかん 付 づけ 分遣 ぶんけん 隊 たい に移 うつ り、在 ざい 中華民国 ちゅうかみんこく 海兵 かいへい 隊 たい (英語 えいご 版 ばん ) (China Marines)の指揮 しき 官 かん を務 つと めた。その後 ご 、アジア艦隊 かんたい (英語 えいご 版 ばん ) の重 じゅう 巡 じゅん オーガスタ (艦長 かんちょう :チェスター・ニミッツ 大佐 たいさ )に勤務 きんむ し、1936年 ねん 6月 がつ には米 べい 本土 ほんど に戻 もど って基本 きほん 術 じゅつ 科 か 学校 がっこう の教官 きょうかん を務 つと めた。
1939年 ねん 5月 がつ から重 じゅう 巡 じゅん オーガスタ付 づけ 分遣 ぶんけん 隊 たい に戻 もど って指揮 しき 官 かん を務 つと める。1940年 ねん 5月 がつ には上海 しゃんはい で下船 げせん し第 だい 4海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい (英語 えいご 版 ばん ) の副長 ふくちょう に任命 にんめい され、後 のち には同 どう 大隊 だいたい の大 だい 隊長 たいちょう も務 つと めた。1941年 ねん 8月 がつ 28日 にち 、プラー少佐 しょうさ は米 べい 本土 ほんど に呼 よ び戻 もど され、ノースカロライナ州 しゅう ニューリバー兵舎 へいしゃ (現在 げんざい のキャンプ・レジューン )に駐屯 ちゅうとん する第 だい 1海兵 かいへい 師団 しだん 第 だい 7海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい (英語 えいご 版 ばん ) にて大 だい 隊長 たいちょう を務 つと めた[5] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
チェスティ・プラー(1942年 ねん 9月 がつ 、ガダルカナルにて)
太平洋戦争 たいへいようせんそう が始 はじ まると、第 だい 7海兵 かいへい 連隊 れんたい は新設 しんせつ の第 だい 3海兵 かいへい 旅団 りょだん に中核 ちゅうかく 部隊 ぶたい の1つとして配置 はいち され、1942年 ねん 5月 がつ 8日 にち には守備 しゅび 隊 たい としてサモアに派遣 はけん された。1942年 ねん 9月 がつ 4日 にち 、旅団 りょだん の編成 へんせい から離 はな れた第 だい 7海兵 かいへい 連隊 れんたい はガダルカナル島 とう に展開 てんかい していた第 だい 1海兵 かいへい 師団 しだん のもとに再 さい 配置 はいち された。
ガダルカナル島 とう 到着 とうちゃく 後 ご まもなく、プラー率 ひき いる第 だい 1大隊 だいたい はマタニカウ川 がわ の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られる激戦 げきせん に参加 さんか した。この戦 たたか いの最中 さいちゅう 、プラーのとっさの機転 きてん により3つの中隊 ちゅうたい が壊滅 かいめつ を免 まぬか れている。彼 かれ の中隊 ちゅうたい は日本 にっぽん 軍 ぐん の大 だい 部隊 ぶたい によって完全 かんぜん に包囲 ほうい されていた。プラーは海岸 かいがん に走 はし り、沖 おき にいる駆逐 くちく 艦 かん モンセン (英語 えいご 版 ばん ) に合図 あいず を送 おく って支援 しえん 砲撃 ほうげき を行 おこな わせ、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい が部下 ぶか の海兵 かいへい 隊員 たいいん らを救助 きゅうじょ し終 お わるまでその場 ば で指揮 しき を執 と り続 つづ けた。この際 さい 、舟艇 しゅうてい 部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん を務 つと めていた沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい 員 いん のダグラス・アルバート・マンロー (英語 えいご 版 ばん ) 上等 じょうとう 信号 しんごう 手 しゅ が海兵 かいへい 隊員 たいいん らの搭乗 とうじょう した舟艇 しゅうてい を守 まも る為 ため に戦死 せんし しており、彼 かれ は史上 しじょう 唯一 ゆいいつ の名誉 めいよ 勲章 くんしょう 受章 じゅしょう 者 しゃ たる沿岸 えんがん 警備 けいび 隊員 たいいん となった。プラーはこの戦功 せんこう により、Vデバイス (英語 えいご 版 ばん ) 付 づけ 銅 どう 星章 せいしょう を受章 じゅしょう している。
その後 ご 、ヘンダーソン飛行場 ひこうじょう の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られる戦 たたか いの中 なか で、プラーは3つ目 め の海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう している。当時 とうじ 、飛行場 ひこうじょう の守備 しゅび に当 あ たっていた主要 しゅよう な歩兵 ほへい 部隊 ぶたい はプラー率 ひき いる第 だい 1大隊 だいたい と米 べい 陸軍 りくぐん 第 だい 164歩兵 ほへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい の2部隊 ぶたい であり、彼 かれ らは連隊 れんたい 規模 きぼ の日本 にっぽん 軍 ぐん 部隊 ぶたい による攻撃 こうげき を受 う けていた。戦闘 せんとう は1942年 ねん 10月 がつ 24日 にち 深夜 しんや から25日 にち にかけての3時 じ 間 あいだ に行 おこな われ、両 りょう 大隊 だいたい からは70名 めい の死傷 ししょう 者 しゃ が出 で たものの、日本 にっぽん 側 がわ は1400名 めい 以上 いじょう の戦死 せんし 者 しゃ を出 だ して撤退 てったい し、飛行場 ひこうじょう の防衛 ぼうえい に成功 せいこう した。プラーはこの戦 たたか いにより名誉 めいよ 勲章 くんしょう 授与 じゅよ の推薦 すいせん を受 う けている。11月9日 にち 、負傷 ふしょう する。
その後 ご 、プラーは第 だい 7海兵 かいへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) の連隊 れんたい 長 ちょう に就任 しゅうにん した。この職 しょく にあった1943年 ねん 12月26日 にち から1944年 ねん 2月 がつ 1日 にち までの間 あいだ 、彼 かれ はグロスター岬 みさき への上陸 じょうりく に参加 さんか して4つ目 め の海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう している。また同 おな じ期間 きかん には第 だい 3大隊 だいたい や第 だい 5大隊 だいたい の大 だい 隊長 たいちょう も務 つと め、機関 きかん 銃 じゅう と迫撃 はくげき 砲 ほう による激 はげ しい攻撃 こうげき を受 う けながらも厳重 げんじゅう に要塞 ようさい 化 か された日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち の攻略 こうりゃく に成功 せいこう している。1944年 ねん 2月 がつ 1日 にち 、大佐 たいさ に昇進 しょうしん すると共 とも に第 だい 1海兵 かいへい 連隊 れんたい の連隊 れんたい 長 ちょう に就任 しゅうにん 。プラー率 ひき いる第 だい 1海兵 かいへい 連隊 れんたい は1944年 ねん 9月 がつ から10月 がつ にかけて行 おこな われたペリリューの戦 たたか い に参加 さんか し、この際 さい に1つ目 め のレジオン・オブ・メリット勲章 くんしょう を受章 じゅしょう している。また、この戦 たたか いで第 だい 1海兵 かいへい 連隊 れんたい は約 やく 3,000人 にん の将兵 しょうへい のうち死傷 ししょう 者 しゃ 1,748名 めい を出 だ した[6] 。
1944年 ねん 夏 なつ 頃 ごろ 、プラーの弟 おとうと で第 だい 4海兵 かいへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) 長 ちょう を務 つと めていたサミュエル・D・プラーがグアムにて敵 てき 狙撃 そげき 手 しゅ に狙撃 そげき され戦死 せんし する[7] 。
1944年 ねん 11月、米 べい 本土 ほんど に戻 もど りキャンプ・レジューン基地 きち の歩兵 ほへい 訓練 くんれん 連隊 れんたい (Infantry Training Regiment)の副長 ふくちょう となり、その2週間 しゅうかん 後 ご には連隊 れんたい 長 ちょう となっている。終戦 しゅうせん 後 ご 、プラーはニューオーリンズ の第 だい 8予備 よび 役 やく 管区 かんく (8th Reserve District)や真珠湾 しんじゅわん 海兵 かいへい 隊 たい 兵舎 へいしゃ の司令 しれい 官 かん を務 つと めた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に付 つ けられた「チェスティ」(Chesty)という愛称 あいしょう は、元々 もともと 「胸 むね の広 ひろ い・大 おお きい」といった意味 いみ だが、転 てん じて「威張 いば り屋 や 」、「自惚 うぬぼ れ屋 や 」といった意味 いみ も持 も つ。本来 ほんらい 、これは彼 かれ が公然 こうぜん と示 しめ した豪胆 ごうたん かつ喧嘩 けんか 好 す きな性格 せいかく に対 たい して言 い われた言葉 ことば だったのだが、彼 かれ の元 もと で戦 たたか った海兵 かいへい 隊員 たいいん の間 あいだ では、「バナナ戦争 せんそう 従軍 じゅうぐん 時 じ にナタで肋骨 あばらぼね を叩 はた き割 わ られ、今 いま や彼 かれ の胸 むね には大 おお きな鉄製 てつせい の胸郭 きょうかく が入 はい っているからだ」という誤 あやま った解釈 かいしゃく がまことしやかに語 かた られていた。あるいは、「戦場 せんじょう に出 で ては何 なん 度 ど も大声 おおごえ で命令 めいれい を叫 さけ んでいたため胸 むね 筋 すじ が鍛 きた えられたことによる」とも解釈 かいしゃく され、「我 わ が第 だい 1師団 しだん に無線 むせん は不要 ふよう だ。チェスティが叫 さけ んだ命令 めいれい は何 なん マイル先 さき にだって聞 き こえる」と語 かた る者 もの もいた[8] 。
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
海兵 かいへい 隊 たい 創立 そうりつ 記念 きねん 日 び を祝 いわ い、軍刀 ぐんとう でケーキを切 き るプラー大佐 たいさ (1950年 ねん 11月10日 にち )
仁川 にがわ 上陸 じょうりく 直後 ちょくご 、最前線 さいぜんせん の視察 しさつ を行 おこな うプラー大佐 たいさ (右 みぎ )
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ 時 じ 、プラーは第 だい 1海兵 かいへい 連隊 れんたい の連隊 れんたい 長 ちょう に復帰 ふっき した。彼 かれ は1950年 ねん 9月 がつ 15日 にち の仁川 にがわ 上陸 じょうりく 作戦 さくせん に参加 さんか し、銀 ぎん 星章 せいしょう を受章 じゅしょう した[9] 。また9月 がつ 15日 にち から11月2日 にち までの戦功 せんこう に対 たい し2つ目 め のレジオン・オブ・メリット勲章 くんしょう を授与 じゅよ され、9月29日 にち から12月5日 にち までの戦功 せんこう に対 たい して陸軍 りくぐん より殊勲 しゅくん 十 じゅう 字 じ 章 あきら が授与 じゅよ されている。また12月5日 にち から10日 とおか までの長津 ながつ 湖 こ の戦 たたか い における戦功 せんこう から、5つ目 め の海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう した。この戦 たたか いの最中 さいちゅう 、彼 かれ は「我々 われわれ はここしばらく敵 てき を探 さが し続 つづ けていた。そして、ようやく奴 やつ らを見 み つけた。我々 われわれ は包囲 ほうい された。これで話 はなし が簡単 かんたん になった」("We've been looking for the enemy for some time now. We've finally found him. We're surrounded. That simplifies things.")という有名 ゆうめい な言葉 ことば を残 のこ している[10] 。
1951年 ねん 1月 がつ 、プラーは准 じゅん 将 しょう に昇進 しょうしん すると共 とも に第 だい 1海兵 かいへい 師団 しだん の副 ふく 師団 しだん 長 ちょう (assistant division commander, ADC)に就任 しゅうにん した。2月24日 にち 、戦死 せんし した第 だい 9軍団 ぐんだん (英語 えいご 版 ばん ) 長 ちょう のブライアント・ムーア (英語 えいご 版 ばん ) 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう の代行 だいこう を命 めい じられ、プラーの上官 じょうかん である師団 しだん 長 ちょう オリヴァー・P・スミス (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう が師団 しだん を離 はな れる。スミスが第 だい 9軍団 ぐんだん 長 ちょう 代行 だいこう を務 つと めた3月 がつ の間 あいだ 、プラーは師団 しだん 長 ちょう を代行 だいこう し第 だい 1海兵 かいへい 師団 しだん の指揮 しき を執 と った。1951年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 、任務 にんむ を完了 かんりょう して米 べい 本土 ほんど に戻 もど る[11] 。その後 ご 、1952年 ねん 1月 がつ にはカリフォルニア州 しゅう キャンプ・ペンドルトンにて第 だい 3海兵 かいへい 師団 しだん 長 ちょう 、2月 がつ からは同 どう 副 ふく 師団 しだん 長 ちょう を務 つと めた。その後 ご はカリフォルニア州 しゅう コロナド (英語 えいご 版 ばん ) にて太平洋 たいへいよう 訓練 くんれん 部隊 ぶたい (Troop Training Unit Pacific)の指揮 しき を執 と った。
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1954年 ねん 7月 がつ 、ノースカロライナ州 しゅう キャンプ・レジューンに駐屯 ちゅうとん する第 だい 2海兵 かいへい 師団 しだん の師団 しだん 長 ちょう に就任 しゅうにん 。1955年 ねん 2月 がつ 、キャンプ・レジューン基地 きち 副 ふく 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん 。この間 あいだ に少将 しょうしょう 、中将 ちゅうじょう と昇進 しょうしん を重 かさ ねている。その後 ご 、脳卒中 のうそっちゅう に苦 くる しむようになり[12] 、1955年 ねん 11月1日 にち に海兵 かいへい 隊 たい を退役 たいえき した[13] 。以後 いご 、1971年 ねん 10月 がつ 11日 にち に死去 しきょ するまでバージニア州 しゅう に暮 く らした。
自宅 じたく 前 まえ にて妻 つま と共 とも に(1970年 ねん 頃 ごろ )
プラーの息子 むすこ ルイス・バーウェル・プラー・ジュニア (英語 えいご 版 ばん ) も海兵 かいへい 隊員 たいいん となり、後 のち にベトナム戦争 せんそう に参加 さんか した。ルイスは第 だい 1海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 2大隊 だいたい (英語 えいご 版 ばん ) の一員 いちいん として戦地 せんち へ派遣 はけん されていたが、地雷 じらい により両足 りょうあし と手 て の一部 いちぶ を失 うしな った。病院 びょういん に駆 か けつけたプラー将軍 しょうぐん は、変 か わり果 は てた息子 むすこ の姿 すがた を見 み て泣 な き崩 くず れたという[14] 。
ウィリアム・デブニー (英語 えいご 版 ばん ) はプラーの義理 ぎり の息子 むすこ である。デブニーもバージニア州立 しゅうりつ 軍事 ぐんじ 学校 がっこう を卒業 そつぎょう 後 ご に海兵 かいへい 隊員 たいいん となり、1968年 ねん 1月 がつ 21日 にち から4月 がつ 14日 にち まで第 だい 26海兵 かいへい 連隊 れんたい 第 だい 3大隊 だいたい の小銃 しょうじゅう 中隊 ちゅうたい 長 ちょう としてベトナムに派遣 はけん された。この職 しょく にある間 あいだ 、デブニーはケサン戦闘 せんとう 基地 きち (英語 えいご 版 ばん ) の防衛 ぼうえい 上 じょう 極 きわ めて重要 じゅうよう な前哨 ぜんしょう 陣地 じんち である881S高地 こうち の守 まも るために77日間 にちかん の籠城 ろうじょう 戦 せん を戦 たたか った。ケサンの戦 たたか い の後 のち 、デブニーは海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら に推薦 すいせん されるものの推薦 すいせん 状 じょう がヘリコプターの墜落 ついらく 事故 じこ で失 うしな われた為 ため に授与 じゅよ は行 おこな われなかった。2005年 ねん 4月 がつ 15日 にち 、バージニア州立 しゅうりつ 軍事 ぐんじ 学校 がっこう にてデブニーに対 たい する海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら の授与 じゅよ 式典 しきてん が改 あらた めて行 おこな われた。
また、プラーは陸軍 りくぐん の英雄 えいゆう としてその名 な を知 し られるジョージ・パットン 将軍 しょうぐん の遠 とお いいとこにあたる[15] 。
プラーはアメリカ軍人 ぐんじん として受章 じゅしょう しうる勲章 くんしょう のうち、2番目 ばんめ に高級 こうきゅう なものを6度 ど 受章 じゅしょう している。すなわち、5つの海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら と、1つの陸軍 りくぐん 殊勲 しゅくん 十 じゅう 字 じ 章 あきら である。アメリカ軍 ぐん の歴史 れきし において、海軍 かいぐん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を5度 ど 受章 じゅしょう した将校 しょうこう は元 もと 潜水 せんすい 艦隊 かんたい 司令 しれい のロイ・ダベンポート (英語 えいご 版 ばん ) 提督 ていとく とプラーの2人 ふたり のみである。
プラーはアメリカ軍人 ぐんじん として以下 いか の勲章 くんしょう 等 とう を受章 じゅしょう した。
プラーの名 な にちなむ事物 じぶつ 等 とう [ 編集 へんしゅう ]
伝説 でんせつ の海兵 かいへい 隊員 たいいん [ 編集 へんしゅう ]
チェスティ・プラーの存在 そんざい は、現在 げんざい でもアメリカ海兵 かいへい 隊 たい における一種 いっしゅ の伝説 でんせつ として様々 さまざま な形 かたち で語 かた り継 つ がれている。その中 なか には史実 しじつ だけではなく、いくらか誇張 こちょう されたものも含 ふく まれる。
海兵 かいへい 隊員 たいいん のブートキャンプにおいて、一 いち 日 にち の終 お わりの挨拶 あいさつ には「Good night, Chesty Puller, wherever you are!」(おやすみなさい、チェスティ・プラー。あなたがどこにいようとも!)[28] という文句 もんく がしばしば使 つか われ、また訓練 くんれん 中 ちゅう の励 はげ ましの言葉 ことば としても「Chesty Puller never quit!」(チェスティ・プラーは諦 あきら めない!)という文句 もんく が使 つか われるという。
海兵 かいへい 隊 たい の新兵 しんぺい 訓練 くんれん やOCS (英語 えいご 版 ばん ) では、ミリタリーケイデンス として「It was good for Chesty Puller/And it's good enough for me」(チェスティ・プラーによし、おれにもっとよし)、「Tell Chesty Puller I did my best.」(おれはよくやったとチェスティ・プラーに伝 つた えてくれよ)という言葉 ことば が歌 うた われる。新兵 しんぺい の訓練 くんれん 歌 か にも「Chesty Puller was a good Marine and a good Marine was he.」(チェスティ・プラーは良 よ い海兵 かいへい 、良 よ い海兵 かいへい はチェスティ・プラー)というものがある。こうした歌 うた の中 なか では、チェスティ・プラーは海兵 かいへい 隊員 たいいん の団結 だんけつ 心 しん の象徴 しょうちょう として登場 とうじょう する。
訓練 くんれん の一環 いっかん として行 おこな われる懸垂 けんすい では、「do one for Chesty!」(チェスティの為 ため に1回 かい )という掛 か け声 ごえ が使 つか われる。
生前 せいぜん のプラーは海兵 かいへい 隊 たい における労働 ろうどう 環境 かんきょう の改善 かいぜん にも取 と り組 く んでいた為 ため 、多 おお くの下士官 かしかん 兵 へい に愛 あい されていた。プラーはまた、より優 すぐ れた装備 そうび や規律 きりつ の導入 どうにゅう も試 こころ みていた。彼 かれ は欠礼 けつれい に対 たい する懲罰 ちょうばつ として部下 ぶか の下士官 かしかん に100回 かい の敬礼 けいれい を命 めい じた少尉 しょうい に出会 であ った時 とき 、その少尉 しょうい に対 たい して次 つぎ のように言 い った。
「君 きみ が彼 かれ に100回 かい の敬礼 けいれい を命 めい じたことは実 じつ に正 ただ しいよ、少尉 しょうい 。だがね、敬礼 けいれい を受 う けた将校 しょうこう は必 かなら ず答礼 とうれい しなければならないことも君 きみ は知 し っているはずだ。さあ、彼 かれ に答礼 とうれい したまえ。私 わたし が数 かぞ えてやろう。[29] [30] 」
ハワイ勤務 きんむ 時 じ の武器 ぶき 点検 てんけん の折 おり 、誤 あやま って屋内 おくない で.45口径 こうけい ピストル を暴発 ぼうはつ させる事故 じこ が起 お こった際 さい 、彼 かれ は自 みずか らに100ドルの罰金 ばっきん を課 か したが、部下 ぶか の罰金 ばっきん は20ドルのみだった[31] 。
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