ルイス・B・プラー

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ルイス・B・プラー
Lewis Burwell Puller
"チェスティ"・プラー少将しょうしょう
渾名あだな 「チェスティ」(Chesty)
生誕せいたん (1898-06-26) 1898ねん6月26にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくバージニアしゅう ウェストポイント英語えいごばん
死没しぼつ 1971ねん10月11にち(1971-10-11)(73さい
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくバージニアしゅうハンプトン
所属しょぞく組織そしき アメリカ海兵かいへいたい
ぐんれき 1918ねん - 1955ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 中将ちゅうじょう(Lieutenant General)
墓所はかしょ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくバージニアしゅうクライスト・チャーチ英語えいごばん・クライストチャーチ教区きょうく墓地ぼち
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ルイス・バーウェル・"チェスティ"・プラー(Lewis Burwell "Chesty" Puller, 1898ねん6月26にち - 1971ねん10月11にち)は、アメリカの海兵かいへい隊員たいいん長年ながねんわたアメリカ海兵かいへいたい将校しょうこうとして勤務きんむし、すうおおくの勲章くんしょうとう受章じゅしょうした。最終さいしゅう階級かいきゅう海兵かいへいたい中将ちゅうじょう

若年じゃくねん[編集へんしゅう]

1898ねん、バージニアしゅうウェストポイントにて、ちちマシューとははマーサのもとにせいける。ちち食品しょくひん雑貨ざっかてん(grocer)をいとなんでいたが、ルイスが10さいになるころ死去しきょしている。プラーは年老としおいた南北戦争なんぼくせんそう復員ふくいんへいらのはなしきながらそだち、とりわけみなみぐんトーマス・"ストーンウォール"・ジャクソン将軍しょうぐん逸話いつわしんかれていたという。1916ねんにはべいぼく国境こっきょう戦争せんそう英語えいごばんたたかため陸軍りくぐん志願しがんしようとしたものの、わかすぎるうえ保護ほごしゃたる母親ははおや許可きょかもなかったのでみとめられなかった[1]

翌年よくねんバージニア州立しゅうりつ軍事ぐんじ学校がっこう英語えいごばん入校にゅうこうする。しかし1918ねん8がつだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると中退ちゅうたいし、このおりに「じゅうのあるところにかねば!」(go where the guns are!)といいのこしたという[2]かれベローウッドのたたか英語えいごばんにおけるだい5海兵かいへい連隊れんたい英語えいごばん活躍かつやく触発しょくはつされ海兵かいへいたい志願しがん基礎きそ訓練くんれんためにサウスカロライナしゅうパリスアイランド志願しがんへい訓練くんれんしょ英語えいごばんおくられた[1]

結局けっきょくだいいち世界せかい大戦たいせんちゅう実戦じっせん経験けいけんすることはなかったが、海兵かいへいたい拡大かくだいすすめられるなかで、プラーは訓練くんれんえた直後ちょくごから下士官かしかん学校がっこう、さらに士官しかん候補こうほせい学校がっこう英語えいごばんすすむことになる。1919ねん6がつ16にちには士官しかん候補こうほせい学校がっこう卒業そつぎょう予備よびやく少尉しょうい階級かいきゅうるが、終戦しゅうせんともな軍縮ぐんしゅくにより海兵かいへいたい総員そういん73,000めいから将校しょうこう1,100めい下士官かしかんへい27,400めいまで規模きぼ縮小しゅくしょうすることとなり[3]、プラーも10日とおかには活性かっせい(inactive status)に指定していされ、階級かいきゅう伍長ごちょう(corporal)にあらためられた[1]

せんあいだ[編集へんしゅう]

ルイス・プラー少尉しょういひだりから2番目ばんめ)、ウィリアム・"アイアンマン"・リー軍曹ぐんそうひだりから3番目ばんめ)、ニカラグアへいら(りょうはし)。1931ねん撮影さつえい

その、プラー伍長ごちょう米国べいこく占領せんりょうのハイチ英語えいごばん派遣はけんされ、ハイチ憲兵けんぺいたい(Gendarmerie d'Haiti)に中尉ちゅうい(lieutenant)として出向しゅっこうした[4]以後いごの5年間ねんかんかれはん政府せいふ組織そしきカコ(Caco)の鎮圧ちんあつに40かい以上いじょう参加さんかし、また将校しょうこうへの復帰ふっきを2申請しんせいしている。1922ねん、プラーはアレクサンダー・ヴァンデグリフト少佐しょうさ副官ふっかん任命にんめいされる。べい本土ほんどもどったのちの1924ねん3がつ6にち少尉しょうい認識にんしき番号ばんごう英語えいごばん03158)として将校しょうこう復帰ふっきする。バージニアしゅうノーフォークの海兵かいへいたい基地きち、バージニアしゅうクアンティコの基本きほんじゅつ学校がっこう英語えいごばんだい10海兵かいへい砲兵ほうへい連隊れんたい英語えいごばんなどに勤務きんむした。1926ねん7がつから真珠湾しんじゅわん海兵かいへいたい基地きち勤務きんむ、1928ねんにはカリフォルニアしゅうサンティアゴにうつる。

プラー中尉ちゅうい後列こうれつ中央ちゅうおう)とニカラグア国家こっか警備けいびたい将兵しょうへい

1928ねん12月よりニカラグア国家こっか警備けいびたい英語えいごばん出向しゅっこう。1930ねん8がつ19にち治安ちあん作戦さくせんにおける戦功せんこうから1つ海軍かいぐんじゅうあきら受章じゅしょう。1931ねん7がつべい本土ほんどもどり、ジョージアしゅうフォート・ベニングにて中隊ちゅうたい勤務きんむ士官しかん課程かてい(Company Officers Course)を修了しゅうりょう。1932ねん9がつ20日はつかから10がつ1にちまでふたたびニカラグア国家こっか警備けいびたい勤務きんむし、この最中さいちゅうに2つ海軍かいぐんじゅうあきら受章じゅしょうしている。

ニカラグア勤務きんむえたのち、プラーは中華民国ちゅうかみんこく北平きたひら現在げんざい北京ぺきん)にある米国べいこく公使館こうしかんづけ分遣ぶんけんたいうつり、ざい中華民国ちゅうかみんこく海兵かいへいたい英語えいごばん(China Marines)の指揮しきかんつとめた。そのアジア艦隊かんたい英語えいごばんじゅうじゅんオーガスタ艦長かんちょうチェスター・ニミッツ大佐たいさ)に勤務きんむし、1936ねん6がつにはべい本土ほんどもどって基本きほんじゅつ学校がっこう教官きょうかんつとめた。

1939ねん5がつからじゅうじゅんオーガスタづけ分遣ぶんけんたいもどって指揮しきかんつとめる。1940ねん5がつには上海しゃんはい下船げせんだい4海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたい英語えいごばん副長ふくちょう任命にんめいされ、のちにはどう大隊だいたいだい隊長たいちょうつとめた。1941ねん8がつ28にち、プラー少佐しょうさべい本土ほんどもどされ、ノースカロライナしゅうニューリバー兵舎へいしゃ現在げんざいキャンプ・レジューン)に駐屯ちゅうとんするだい1海兵かいへい師団しだんだい7海兵かいへい連隊れんたいだい1大隊だいたい英語えいごばんにてだい隊長たいちょうつとめた[5]

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

チェスティ・プラー(1942ねん9がつ、ガダルカナルにて)

太平洋戦争たいへいようせんそうはじまると、だい7海兵かいへい連隊れんたい新設しんせつだい3海兵かいへい旅団りょだん中核ちゅうかく部隊ぶたいの1つとして配置はいちされ、1942ねん5がつ8にちには守備しゅびたいとしてサモアに派遣はけんされた。1942ねん9がつ4にち旅団りょだん編成へんせいからはなれただい7海兵かいへい連隊れんたいガダルカナルとう展開てんかいしていただい1海兵かいへい師団しだんのもとにさい配置はいちされた。

ガダルカナルとう到着とうちゃくまもなく、プラーひきいるだい1大隊だいたいマタニカウがわたたか英語えいごばんとしてられる激戦げきせん参加さんかした。このたたかいの最中さいちゅう、プラーのとっさの機転きてんにより3つの中隊ちゅうたい壊滅かいめつまぬかれている。かれ中隊ちゅうたい日本にっぽんぐんだい部隊ぶたいによって完全かんぜん包囲ほういされていた。プラーは海岸かいがんはしり、おきにいる駆逐くちくかんモンセン英語えいごばん合図あいずおくって支援しえん砲撃ほうげきおこなわせ、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい部下ぶか海兵かいへい隊員たいいんらを救助きゅうじょわるまでその指揮しきつづけた。このさい舟艇しゅうてい部隊ぶたい指揮しきかんつとめていた沿岸えんがん警備けいびたいいんダグラス・アルバート・マンロー英語えいごばん上等じょうとう信号しんごうしゅ海兵かいへい隊員たいいんらの搭乗とうじょうした舟艇しゅうていまもため戦死せんししており、かれ史上しじょう唯一ゆいいつ名誉めいよ勲章くんしょう受章じゅしょうしゃたる沿岸えんがん警備けいび隊員たいいんとなった。プラーはこの戦功せんこうにより、Vデバイス英語えいごばんづけどう星章せいしょう受章じゅしょうしている。

そのヘンダーソン飛行場ひこうじょうたたか英語えいごばんとしてられるたたかいのなかで、プラーは3つ海軍かいぐんじゅうあきら受章じゅしょうしている。当時とうじ飛行場ひこうじょう守備しゅびたっていた主要しゅよう歩兵ほへい部隊ぶたいはプラーひきいるだい1大隊だいたいべい陸軍りくぐんだい164歩兵ほへい連隊れんたいだい3大隊だいたいの2部隊ぶたいであり、かれらは連隊れんたい規模きぼ日本にっぽんぐん部隊ぶたいによる攻撃こうげきけていた。戦闘せんとうは1942ねん10がつ24にち深夜しんやから25にちにかけての3あいだおこなわれ、りょう大隊だいたいからは70めい死傷ししょうしゃたものの、日本にっぽんがわは1400めい以上いじょう戦死せんししゃして撤退てったいし、飛行場ひこうじょう防衛ぼうえい成功せいこうした。プラーはこのたたかいにより名誉めいよ勲章くんしょう授与じゅよ推薦すいせんけている。11月9にち負傷ふしょうする。

その、プラーはだい7海兵かいへい連隊れんたい英語えいごばん連隊れんたいちょう就任しゅうにんした。このしょくにあった1943ねん12月26にちから1944ねん2がつ1にちまでのあいだかれグロスターみさきへの上陸じょうりく参加さんかして4つ海軍かいぐんじゅうあきら受章じゅしょうしている。またおな期間きかんにはだい3大隊だいたいだい5大隊だいたいだい隊長たいちょうつとめ、機関きかんじゅう迫撃はくげきほうによるはげしい攻撃こうげきけながらも厳重げんじゅう要塞ようさいされた日本にっぽんぐん陣地じんち攻略こうりゃく成功せいこうしている。1944ねん2がつ1にち大佐たいさ昇進しょうしんするとともだい1海兵かいへい連隊れんたい連隊れんたいちょう就任しゅうにん。プラーひきいるだい1海兵かいへい連隊れんたいは1944ねん9がつから10がつにかけておこなわれたペリリューのたたか参加さんかし、このさいに1つレジオン・オブ・メリット勲章くんしょう受章じゅしょうしている。また、このたたかいでだい1海兵かいへい連隊れんたいやく3,000にん将兵しょうへいのうち死傷ししょうしゃ1,748めいした[6]

1944ねんなつごろ、プラーのおとうとだい4海兵かいへい連隊れんたい英語えいごばんちょうつとめていたサミュエル・D・プラーがグアムにててき狙撃そげきしゅ狙撃そげきされ戦死せんしする[7]

1944ねん11月、べい本土ほんどもどりキャンプ・レジューン基地きち歩兵ほへい訓練くんれん連隊れんたい(Infantry Training Regiment)の副長ふくちょうとなり、その2週間しゅうかんには連隊れんたいちょうとなっている。終戦しゅうせん、プラーはニューオーリンズだい8予備よびやく管区かんく(8th Reserve District)や真珠湾しんじゅわん海兵かいへいたい兵舎へいしゃ司令しれいかんつとめた。

だい世界せかい大戦たいせんちゅうけられた「チェスティ」(Chesty)という愛称あいしょうは、元々もともとむねひろい・おおきい」といった意味いみだが、てんじて「威張いば」、「自惚うぬぼ」といった意味いみつ。本来ほんらい、これはかれ公然こうぜんしめした豪胆ごうたんかつ喧嘩けんかきな性格せいかくたいしてわれた言葉ことばだったのだが、かれもとたたかった海兵かいへい隊員たいいんあいだでは、「バナナ戦争せんそう従軍じゅうぐんにナタで肋骨あばらぼねはたられ、いまかれむねにはおおきな鉄製てつせい胸郭きょうかくはいっているからだ」というあやまった解釈かいしゃくがまことしやかにかたられていた。あるいは、「戦場せんじょうてはなん大声おおごえ命令めいれいさけんでいたためむねすじきたえられたことによる」とも解釈かいしゃくされ、「だい1師団しだん無線むせん不要ふようだ。チェスティがさけんだ命令めいれいなんマイルさきにだってこえる」とかたものもいた[8]

朝鮮ちょうせん戦争せんそう[編集へんしゅう]

海兵かいへいたい創立そうりつ記念きねんいわい、軍刀ぐんとうでケーキをるプラー大佐たいさ(1950ねん11月10にち
仁川にがわ上陸じょうりく直後ちょくご最前線さいぜんせん視察しさつおこなうプラー大佐たいさみぎ

朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつ、プラーはだい1海兵かいへい連隊れんたい連隊れんたいちょう復帰ふっきした。かれは1950ねん9がつ15にち仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせん参加さんかし、ぎん星章せいしょう受章じゅしょうした[9]。また9がつ15にちから11月2にちまでの戦功せんこうたいし2つのレジオン・オブ・メリット勲章くんしょう授与じゅよされ、9月29にちから12月5にちまでの戦功せんこうたいして陸軍りくぐんより殊勲しゅくんじゅうあきら授与じゅよされている。また12月5にちから10日とおかまでの長津ながつたたかにおける戦功せんこうから、5つ海軍かいぐんじゅうあきら受章じゅしょうした。このたたかいの最中さいちゅうかれは「我々われわれはここしばらくてきさがつづけていた。そして、ようやくやつらをつけた。我々われわれ包囲ほういされた。これではなし簡単かんたんになった」("We've been looking for the enemy for some time now. We've finally found him. We're surrounded. That simplifies things.")という有名ゆうめい言葉ことばのこしている[10]

1951ねん1がつ、プラーはじゅんしょう昇進しょうしんするとともだい1海兵かいへい師団しだんふく師団しだんちょう(assistant division commander, ADC)に就任しゅうにんした。2月24にち戦死せんししただい9軍団ぐんだん英語えいごばんちょうブライアント・ムーア英語えいごばん陸軍りくぐん少将しょうしょう代行だいこうめいじられ、プラーの上官じょうかんである師団しだんちょうオリヴァー・P・スミス英語えいごばん少将しょうしょう師団しだんはなれる。スミスがだい9軍団ぐんだんちょう代行だいこうつとめた3がつあいだ、プラーは師団しだんちょう代行だいこうだい1海兵かいへい師団しだん指揮しきった。1951ねん5がつ20日はつか任務にんむ完了かんりょうしてべい本土ほんどもど[11]。その、1952ねん1がつにはカリフォルニアしゅうキャンプ・ペンドルトンにてだい3海兵かいへい師団しだんちょう、2がつからはどうふく師団しだんちょうつとめた。そのはカリフォルニアしゅうコロナド英語えいごばんにて太平洋たいへいよう訓練くんれん部隊ぶたい(Troop Training Unit Pacific)の指揮しきった。

朝鮮ちょうせん戦争せんそう[編集へんしゅう]

1954ねん7がつ、ノースカロライナしゅうキャンプ・レジューンに駐屯ちゅうとんするだい2海兵かいへい師団しだん師団しだんちょう就任しゅうにん。1955ねん2がつ、キャンプ・レジューン基地きちふく司令しれいかん就任しゅうにん。このあいだ少将しょうしょう中将ちゅうじょう昇進しょうしんかさねている。その脳卒中のうそっちゅうくるしむようになり[12]、1955ねん11月1にち海兵かいへいたい退役たいえきした[13]以後いご、1971ねん10がつ11にち死去しきょするまでバージニアしゅうらした。

家族かぞく親類しんるい[編集へんしゅう]

自宅じたくまえにてつまともに(1970ねんごろ

プラーの息子むすこルイス・バーウェル・プラー・ジュニア英語えいごばん海兵かいへい隊員たいいんとなり、のちベトナム戦争せんそう参加さんかした。ルイスはだい1海兵かいへい連隊れんたいだい2大隊だいたい英語えいごばん一員いちいんとして戦地せんち派遣はけんされていたが、地雷じらいにより両足りょうあし一部いちぶうしなった。病院びょういんけつけたプラー将軍しょうぐんは、わりてた息子むすこ姿すがたくずれたという[14]

ウィリアム・デブニー英語えいごばんはプラーの義理ぎり息子むすこである。デブニーもバージニア州立しゅうりつ軍事ぐんじ学校がっこう卒業そつぎょう海兵かいへい隊員たいいんとなり、1968ねん1がつ21にちから4がつ14にちまでだい26海兵かいへい連隊れんたいだい3大隊だいたい小銃しょうじゅう中隊ちゅうたいちょうとしてベトナムに派遣はけんされた。このしょくにあるあいだ、デブニーはケサン戦闘せんとう基地きち英語えいごばん防衛ぼうえいじょうきわめて重要じゅうよう前哨ぜんしょう陣地じんちである881S高地こうちまもるために77日間にちかん籠城ろうじょうせんたたかった。ケサンのたたかのち、デブニーは海軍かいぐんじゅうあきら推薦すいせんされるものの推薦すいせんじょうがヘリコプターの墜落ついらく事故じこうしなわれたため授与じゅよおこなわれなかった。2005ねん4がつ15にち、バージニア州立しゅうりつ軍事ぐんじ学校がっこうにてデブニーにたいする海軍かいぐんじゅうあきら授与じゅよ式典しきてんあらためておこなわれた。

また、プラーは陸軍りくぐん英雄えいゆうとしてそのられるジョージ・パットン将軍しょうぐんとおいいとこにあたる[15]

受章じゅしょう[編集へんしゅう]

プラーはアメリカ軍人ぐんじんとして受章じゅしょうしうる勲章くんしょうのうち、2番目ばんめ高級こうきゅうなものを6受章じゅしょうしている。すなわち、5つの海軍かいぐんじゅうあきらと、1つの陸軍りくぐん殊勲しゅくんじゅうあきらである。アメリカぐん歴史れきしにおいて、海軍かいぐんじゅうあきらを5受章じゅしょうした将校しょうこうもと潜水せんすい艦隊かんたい司令しれいロイ・ダベンポート英語えいごばん提督ていとくとプラーの2人ふたりのみである。

プラーはアメリカ軍人ぐんじんとして以下いか勲章くんしょうとう受章じゅしょうした。

Gold star
Gold star
Gold star
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V
Gold star
V
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Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
Silver star
1だん 海軍かいぐんじゅうあきら[16] 殊勲しゅくんじゅうあきら ぎん星章せいしょう
2だん レジオン・オブ・メリットあきら[17] どう星章せいしょう[18] エア・メダル[19] 名誉めいよ戦傷せんしょうあきら
3だん 大統領だいとうりょう殊勲しゅくん部隊ぶたいあきら英語えいごばん[20] 海兵かいへいたい善行ぜんこうあきら英語えいごばん[21] 海兵かいへいたい遠征えんせいメダル英語えいごばん[21] だいいち世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょう記念きねんあきら[22]
4だん ハイチ戦線せんせん記念きねん記章きしょう英語えいごばん ニカラグア戦線せんせん記念きねん記章きしょう英語えいごばん 中国ちゅうごく従軍じゅうぐん記章きしょう英語えいごばん アメリカ防衛ぼうえい従軍じゅうぐん記章きしょう[23]
5だん アメリカ従軍じゅうぐん記章きしょう アジア・太平洋たいへいよう戦線せんせん記念きねん記章きしょう英語えいごばん[24] だい世界せかい大戦たいせん戦勝せんしょう記念きねんあきら 国土こくど防衛ぼうえい従軍じゅうぐんあきら
6だん 朝鮮ちょうせん戦争せんそう従軍じゅうぐん記章きしょう英語えいごばん[25] 軍功ぐんこうあきら(ハイチ) 大統領だいとうりょう殊勲しゅくんあきら(ニカラグア) 殊勲しゅくんじゅうあきら(ニカラグア)
7だん 武功ぶこう勲章くんしょう韓国かんこく) くも麾勲あきら英語えいごばん中華民国ちゅうかみんこく 大韓民国だいかんみんこく大統領だいとうりょう部隊ぶたい表彰ひょうしょう英語えいごばん韓国かんこく 国連こくれんメダル朝鮮ちょうせん戦争せんそうあきら英語えいごばん国連こくれん

プラーのにちなむ事物じぶつとう[編集へんしゅう]

伝説でんせつ海兵かいへい隊員たいいん[編集へんしゅう]

チェスティ・プラーの存在そんざいは、現在げんざいでもアメリカ海兵かいへいたいにおける一種いっしゅ伝説でんせつとして様々さまざまかたちかたがれている。そのなかには史実しじつだけではなく、いくらか誇張こちょうされたものもふくまれる。

海兵かいへい隊員たいいんのブートキャンプにおいて、いちにちわりの挨拶あいさつには「Good night, Chesty Puller, wherever you are!」(おやすみなさい、チェスティ・プラー。あなたがどこにいようとも!)[28]という文句もんくがしばしば使つかわれ、また訓練くんれんちゅうはげましの言葉ことばとしても「Chesty Puller never quit!」(チェスティ・プラーはあきらめない!)という文句もんく使つかわれるという。

海兵かいへいたい新兵しんぺい訓練くんれんOCS英語えいごばんでは、ミリタリーケイデンスとして「It was good for Chesty Puller/And it's good enough for me」(チェスティ・プラーによし、おれにもっとよし)、「Tell Chesty Puller I did my best.」(おれはよくやったとチェスティ・プラーにつたえてくれよ)という言葉ことばうたわれる。新兵しんぺい訓練くんれんにも「Chesty Puller was a good Marine and a good Marine was he.」(チェスティ・プラーは海兵かいへい海兵かいへいはチェスティ・プラー)というものがある。こうしたうたなかでは、チェスティ・プラーは海兵かいへい隊員たいいん団結だんけつしん象徴しょうちょうとして登場とうじょうする。

訓練くんれん一環いっかんとしておこなわれる懸垂けんすいでは、「do one for Chesty!」(チェスティのために1かい)というごえ使つかわれる。

生前せいぜんのプラーは海兵かいへいたいにおける労働ろうどう環境かんきょう改善かいぜんにもんでいたためおおくの下士官かしかんへいあいされていた。プラーはまた、よりすぐれた装備そうび規律きりつ導入どうにゅうこころみていた。かれ欠礼けつれいたいする懲罰ちょうばつとして部下ぶか下士官かしかんに100かい敬礼けいれいめいじた少尉しょうい出会であったとき、その少尉しょういたいしてつぎのようにった。

きみかれに100かい敬礼けいれいめいじたことはじつただしいよ、少尉しょうい。だがね、敬礼けいれいけた将校しょうこうかなら答礼とうれいしなければならないこともきみっているはずだ。さあ、かれ答礼とうれいしたまえ。わたしかぞえてやろう。[29][30]

ハワイ勤務きんむ武器ぶき点検てんけんおりあやまって屋内おくない.45口径こうけいピストル暴発ぼうはつさせる事故じここったさいかれみずからに100ドルの罰金ばっきんしたが、部下ぶか罰金ばっきんは20ドルのみだった[31]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Wise, James E.; Scott Baron (2007). Navy Cross: extraordinary heroism in Iraq, Afghanistan, and other conflicts. Naval Institute Press. p. 256. ISBN 978-1-59114-945-3 
  2. ^ Wilson, Diann W. (2008). Dogged Determination: Life Experiences and the USMC Bulldog Copyright. iUniverse. p. 98. ISBN 978-0-59545-358-0 
  3. ^ Hoffman 2001, p. 21
  4. ^ Davis 1991
  5. ^ "The History of the 7th Marines". 7th Marines. 2007ねん7がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2006ねん6がつ30にち閲覧えつらん
  6. ^ Giaffo, Lou (2013). Gooch's Marines. Dorrance Publishing Company, Incorporated. p. 132. ISBN 9781434933997. https://books.google.co.jp/books?id=mXcTGInloHkC&redir_esc=y&hl=ja 
  7. ^ Keene, R. R. (2004ねん). “Wake up and die, Marine!” (Reprinted by www.military.com). Leatherneck Magazine. 2014ねん6がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ Chesty Puller”. Marine Corps Association & Foundation. 2018ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  9. ^ SecNavInst 1650.1H, 8/22/2006, Silver Star Medal.
  10. ^ Russ (1998). Breakout. p. 230 
  11. ^ Hoffman 2001, p. 604
  12. ^ Hoffman 2001, p. 660
  13. ^ Hoffman 2001, p. 688
  14. ^ Puller, Lewis B. Jr. (1991). Fortunate Son: The Healing of a Vietnam Vet. New York: Grove Weidenfeld. p. 162. ISBN 0-8021-1218-8.
  15. ^ Hoffman 2001, p. 656
  16. ^ 4じゅう5/16インチ金星かなぼしあきら英語えいごばんづけ
  17. ^ Vデバイス英語えいごばん、5/16インチ金星かなぼしあきらづけ
  18. ^ Vデバイスづけ
  19. ^ 2じゅう5/16インチ金星かなぼしあきらづけ
  20. ^ 4じゅう3/16インチどう星章せいしょう英語えいごばんづけ
  21. ^ a b 3/16インチどう星章せいしょうづけ
  22. ^ 西にしインドあきら(West Indies clasp)づけ
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  24. ^ 4じゅう3/16インチどう星章せいしょうづけ
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  27. ^ James Marconi (2012ねん1がつ5にち). “Navy Names First Three Mobile Landing Platform Ships”. Military Sealift Command Public Affairs. United States Navy. 2013ねん2がつ19にち閲覧えつらん
  28. ^ Davis 1991, p. 6
  29. ^ Davis 1991, pp. 100–101
  30. ^ Cossey, B. Keith (2006ねん1がつ). "The Virtue of Unabashed Awkwardness in Military Leadership and Everyday Life". COMBAT Magazine. 4 (1). ISSN 1542-1546. 2006ねん11月26にち閲覧えつらん
  31. ^ Marine Corps Social Media. “Ultimate Marine (Puller Vs Butler)”. Marines Blog Official Blog of the United States Marine Corps. United States Marine Corps. 2013ねん7がつ31にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん5がつ12にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • Davis, Burke (1991ねん) [1962]. Marine! The Life of Chesty Puller. Bantam Books. ISBN 0-553-27182-2
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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]