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世界せかいかん

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世界せかいかん(せかいかん、どく: Weltanschauungえい: worldview)とは、世界せかい一体いったいてき意味いみづける見方みかた[1]一般いっぱんに、人生じんせいかんよりひろ範囲はんい包含ほうがん[1]たんなる知的ちてき理解りかいにとどまらず、より情意じょういてき評価ひょうかふくむものであり[1]情意じょういてきめん主体しゅたいてき契機けいき重要じゅうようされる[2]

現代げんだい日本にっぽんでは、漫画まんがアニメテレビゲームなどフィクション作品さくひん舞台ぶたいとなる世界せかい設定せっていという意味いみ誤用ごようされることがおおいが、ひとによってはフィクション作品さくひん世界せかいそのもの、あるいは作風さくふう雰囲気ふんいきといった意味いみ使つか場合ばあいもある。

概説がいせつ[編集へんしゅう]

世界せかいかんとは、世界せかい意味いみうもので、たとえば「この世界せかいわたしにとってどんな意味いみがあるのか」「この世界せかいわたしはどのような役割やくわりたしてゆくことが期待きたいされているのか」「世界せかいなか人間にんげんはいかなる役割やくわりたせば意味いみがあるのか」などのいにこたえようとするものである。したがって、世界せかいかんとは、世界せかいたいする態度たいどおよびその表明ひょうめいであるとみなすこともでき、人生じんせいかん実際じっさいかたむすびついている。さらに「世界せかいかん」を背景はいけいにして、「理想りそう」や「ぜん」などの意志いしてき側面そくめん行動こうどう原則げんそくなど実践じっせん指針ししんあたえられる。

世界せかいかん哲学てつがくかぎらず、神話しんわ宗教しゅうきょう文学ぶんがく美術びじゅつなどの領域りょういきでも見出みいだされる[3]。たとえば伝承でんしょう年中ねんじゅう行事ぎょうじ祭礼さいれい口承こうしょう文学ぶんがく絵画かいがなどにもあらわれる。具体ぐたいてきれいげると、たとえばアイヌ民族みんぞく特有とくゆう世界せかいかんユーカラウエペケレなどの口承こうしょう文芸ぶんげいにもあらわれているのである。世界せかいかん歴史れきしてき形成けいせいされてきたものであり、また、個人こじん個人こじん人生じんせいにおいても転換てんかん契機けいきゆうしている。社会しゃかいにおいても統合とうごう対立たいりつ選択せんたく分裂ぶんれつなどの多様たよう諸相しょそうふくんでおり、世界せかいかんそのものも歴史れきしをもつものである。

なお、「世界せかいかん」のかたり最初さいしょ用例ようれいは、近代きんだい哲学てつがくにおいてドイツ観念論かんねんろん大成たいせいしゃとされるイマヌエル・カントが『判断はんだんりょく批判ひはん』(1790ねん)のなか使用しようした用語ようご "De-Weltanschauung.ogg Weltanschauung[ヘルプ/ファイル]"(ドイツ)の訳語やくごえい: worldview, ふつ: Weltanschauung: Мировоззрение)であった。したがって以下いか近代きんだい哲学てつがくにおける世界せかいかん念頭ねんとうにおきつつ解説かいせつする。なおドイツWeltanschauung世界せかいかん)という言葉ことば学問がくもんてき用語ようごとして頻用ひんようされるようになったのは20世紀せいきはじめのことである[3]

オイケン説明せつめいでは、世界せかい科学かがくてき把握はあくえたものであるので、科学かがくによって世界せかいかん構成こうせいする(つくりあげる)ことは不可能ふかのうである[4]情意じょういてきめん不可欠ふかけつなのである。ヤスパースつぎのように説明せつめいした。「我々われわれ世界せかいかんとき、それは主体しゅたいてきには体験たいけんちから信条しんじょうとして、客体かくたいてきには対象たいしょうてき形成けいせいされた世界せかいとして、さまざまなちから理念りねん、いずれにしても人間にんげん究極きゅうきょくかつ全体ぜんたいてきなものを意味いみをする。[4]

分類ぶんるい[編集へんしゅう]

情意じょういてきめん重要じゅうようなわけなので)楽天らくてん主義しゅぎ厭世えんせい主義しゅぎ宿命しゅくめいろん宗教しゅうきょうてき世界せかいかん道徳どうとくてき世界せかいかんといった立場たちば分類ぶんるい)をげることができる[1]

ギリシアまと」 / 「キリスト教きりすときょうまと」と分類ぶんるいする研究けんきゅうしゃもいる。「アポロまと」 / 「ディオニュソスまと」と分類ぶんるいする研究けんきゅうしゃもいる[4]

歴史れきし歴史れきしがく)をかぎに、「古代こだいまと」「中世ちゅうせいまと」「近代きんだいまと」と分類ぶんるいするひともいる[4]。(20世紀せいきでは)「ブルジョアまと」/「プロレタリアまと」と分類ぶんるいされることもおおかった[4]。また、形而上学けいじじょうがく基準きじゅんにして「観念論かんねんろんまと」「唯物ゆいぶつろんまと」「一元いちげんまと」「二元にげんまと」「多元たげんまと」などと分類ぶんるいされることもある[4]民俗みんぞくがくもちいて、かく民族みんぞく文化ぶんかごとに分類ぶんるいする、ということもおこなわれている[4]。つまり、どのような学問がくもん論点ろんてん基準きじゅんなどとしてすか、ということで様々さまざま分類ぶんるいのしかたがあるわけである。

その用法ようほう[編集へんしゅう]

日本にっぽんポストモダン文芸ぶんげい評論ひょうろんにおいては、ライトノベルなどのフィクションなかでの世界せかい設定せっているいなどをすために「世界せかいかん」という言葉ことばが(従来じゅうらい哲学てつがくてき学問がくもんてき用法ようほうとはすこことなったニュアンスで)しばしばもちいられるようになっている。これについては「文芸ぶんげい評論ひょうろんのなかでの世界せかいかん」として最後さいごべる。

哲学てつがく世界せかいかん[編集へんしゅう]

世界せかいかんがく[編集へんしゅう]

Weltanschauungslehre世界せかいかんがく)が先駆せんくてきあらわれたものとしては、(一応いちおうは)ライプニッツのモナドロジーげられる[3]。ただし、概説がいせつですでにべたように、ドイツWeltanschauung世界せかいかん)という言葉ことば学問がくもんてき用語ようごとして頻用ひんようされるようになったのは20世紀せいきはじめのことである[3]

ディルタイは「世界せかいかん究極きゅうきょく根源こんげんせいきること、人生じんせい生命せいめい)である」とした[4]。そして、「世界せかいかんがさまざまであるのはなま歴史れきしてき相対そうたいてきにあらわれていることによるのだ」として、ひとつの共通きょうつうなま根差ねざしていてもたがいに矛盾むじゅんする世界せかいかん複数ふくすう並存へいそんすることは可能かのうであり、せい立場たちばにまでさかのぼることによって歴史れきしじょう様々さまざま世界せかいかん内的ないてき構造こうぞう類型るいけい理解りかいする、という役割やくわり哲学てつがくにはある、とした[4]通常つうじょう、「世界せかいかんがく」とうと、このディルタイのった意味いみもちいられる[5]

ゴンペルツは、形而上学けいじじょうがく認識にんしきろん総合そうごうする学問がくもんてき体系たいけい想定そうていしそれを「世界せかいかんがく」とんだ[4]

哲学てつがくてき世界せかいかん定義ていぎ[編集へんしゅう]

世界せかいかんつぎのようないにこたえようとする。

  • この世界せかい意味いみなにか?
  • 世界せかいはどのようにはじまり、どこへくのか?
  • 人間にんげんさだめ・運命うんめいはあるのか? 人間にんげん自由じゆうはあるのか?
  • 世界せかい本性ほんしょう本質ほんしつとはなんで、それはどんな意味いみがあるのか?
  • 自然しぜんとは?ちょう自然しぜんとは?
  • 世間せけんとはなにか?
  • 自分じぶんとはなになのか?
  • 死後しごどうなるか?
  • ひと世界せかいからめぐみをいただいているのか? それとも「労働ろうどう」しているのか?
  • ひとひとはどうしてあらそう?戦争せんそうとはなにか?
  • ぜんとはなにか?

[よう出典しゅってん]世界せかいかんは、その現実げんじつをみることからみちびきだされる認識にんしきろんふくむ。世界せかいかん批判ひはんはもうひとつの世界せかいかんによっておこなわれる。したがって近代きんだい以降いこう哲学てつがくてき物事ものごと理解りかいには必然ひつぜんてき世界せかいかんともなうとされ、現代げんだいにおいても哲学てつがく論争ろんそうおも世界せかいかん対立たいりつというかたちでおこなわれている。

哲学てつがくてき世界せかいかん成立せいりつ過程かてい[編集へんしゅう]

世界せかいかん人間にんげん絶対ぜったいてき他者たしゃである自然しぜん社会しゃかい媒介ばいかいするものである。また、自然しぜん社会しゃかいたいするあらゆる価値かち判断はんだんだいなりしょうなり特定とくてい世界せかいかん背景はいけいにしている。以下いかこのような世界せかいかん哲学てつがくてき成立せいりつしていく過程かてい記述きじゅつする。

個人こじん世界せかいされたアトム[よう曖昧あいまい回避かいひ]てき存在そんざいとみるならば、世界せかい個人こじんにとって絶対ぜったいてき他者たしゃである[よう出典しゅってん]個人こじんとおなじくアトムてき存在そんざいであるべつ個人こじんとの関係かんけいせいでさえ、世界せかいおな絶対ぜったい他者たしゃてき関係かんけいせいをもつ。この意味いみでわれわれはつね他者たしゃとの関係かんけいせいというかぎりにおいて世界せかい評価ひょうかすることになる[よう出典しゅってん]世界せかい絶対ぜったいてき他者たしゃであるならば、われわれにとって世界せかいとの完全かんぜん同一どういつ不可能ふかのうである。これは世界せかい理解りかい一定いってい限界げんかいみとめることであり、不可知論ふかちろんともなう。世界せかいかんとはこのような不可知論ふかちろんてき立場たちば最終さいしゅうてきには解決かいけつされえない個人こじん世界せかいとの自他じたせい解決かいけつするために措定そていされた、人間にんげん意識いしきレベルにおいての世界せかいなんらかの投影とうえいぞうである[よう出典しゅってん]世界せかいかんがしばしば擬人ぎじんふくんでいることもこのためである。」

世界せかいかん個人こじんにとって他者たしゃである世界せかい属性ぞくせいっているが、客観きゃっかんてき存在そんざいとしての世界せかいとは異質いしつであり、その意味いみにおいて個人こじんない存在そんざいしている。絶対ぜったいてき他者たしゃである世界せかいがわかられば、個人こじん従属じゅうぞくしている観念かんねんである。客観きゃっかんてき存在そんざいである世界せかい普遍ふへんてき存在そんざいするとかんがえられるのに、世界せかいかんをめぐって論争ろんそう対立たいりつがおこるのはこのためである。

近代きんだい哲学てつがくにおける世界せかいかん成立せいりつ[編集へんしゅう]

つぎ近代きんだい哲学てつがくにおける歴史れきしてき経緯けいいについてべる。

18世紀せいき全盛ぜんせいむかえた啓蒙けいもう主義しゅぎ理性りせいによって、まんにん公平こうへいみとめる世界せかい根本こんぽんてき原理げんりかんがえることが可能かのうであるとした。このかんがかたは、なにか絶対ぜったいてき真理しんり(たとえば宗教しゅうきょう)によりかからずにわれわれ自身じしん自立じりつして思考しこうすることができるということを保証ほしょうした。啓蒙けいもう主義しゅぎ自然しぜん科学かがくてき成果せいかもとづいたものであり、社会しゃかい科学かがく哲学てつがく分野ぶんやでもこのような根本こんぽん原理げんり理性りせいによってあきらかにすることは有意義ゆういぎであるとされた。このような理性りせい万能ばんのう主義しゅぎ立場たちばにたてば、理性りせいそのものは普遍ふへん不変ふへんでありまんにん共通きょうつうであるからあやまりようがなく、われわれがなにかについてことなる見解けんかいっているとすれば、それは認識にんしきちがいによるものであるという結論けつろんにゆきつく。啓蒙けいもう主義しゅぎ主流しゅりゅうイギリス経験けいけんろんであり、根本こんぽんてき認識にんしきろん立場たちば重要じゅうようされたのも以上いじょう理由りゆうによる[よう出典しゅってん]

しかし、イギリス経験けいけんろんはこの認識にんしきろんふかめていった結果けっか観察かんさつしゃである個人こじん絶対ぜったいてき他者たしゃである世界せかいをありのままに認識にんしきすることが不可能ふかのうであるということをみとめざるをなくなった。無限むげんてき存在そんざいである世界せかいたいして個人こじんはつねに有限ゆうげんてきであるから、理性りせいがたとえ無限むげん可能かのうせいっていたとしても、個人こじん有限ゆうげんである以上いじょう理性りせいはある段階だんかい時間じかんてき空間くうかんてき世界せかいとははなされてしまうのである。常識じょうしきてきえば、われわれは江戸えど時代じだいきることはできないし、いま日本にっぽんにいるわれわれが同時どうじにアメリカに存在そんざいすることはできない。このかぎりにおいて個人こじん世界せかいあいだには永遠えいえんなる断絶だんぜつ存在そんざいするのである。

[よう出典しゅってん]啓蒙けいもう主義しゅぎ以前いぜんであればこのような問題もんだい世界せかいたいして絶対ぜったいてき真理しんり主張しゅちょうする宗教しゅうきょうによりかかることによって解決かいけつ可能かのうであったかもしれない。だが啓蒙けいもう主義しゅぎはすでに宗教しゅうきょう科学かがく世界せかいから追放ついほうしてしまったのである。近代きんだい哲学てつがくがこの宗教しゅうきょうわる代弁だいべんしゃとしてもってきたのが世界せかいかんであったといえる。このような世界せかいかん近代きんだい哲学てつがく理性りせい以上いじょうにラディカルな姿勢しせいをもちこむ一方いっぽう世界せかいかん対立たいりつという厄介やっかい問題もんだいをもたらした。近代きんだい哲学てつがく問題もんだい所在しょざい世界せかいかんおおきく依存いぞんしてしまったために、世界せかいかん対立たいりつがしばしば哲学てつがく本質ほんしつ問題もんだいとされている。この意味いみ啓蒙けいもう主義しゅぎにおける理性りせいのような普遍ふへんてき価値かちを、近代きんだい以降いこう哲学てつがくうしなってしまったとかんがえられる。

哲学てつがくてき世界せかいかん諸相しょそう[編集へんしゅう]

ここでは代表だいひょうてき世界せかいかん適宜てきぎ分類ぶんるいしながら概観がいかんし、その特質とくしつあきらかにする。

原理げんり性格せいかくによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

唯物ゆいぶつろん[編集へんしゅう]

唯物ゆいぶつろんとは世界せかい根本こんぽんてき原理げんりなんらかの物質ぶっしつてき性格せいかくつとするかんがかた

弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろん
それまでの唯物ゆいぶつろん機械きかいろんてきであったのとは対照たいしょうてき弁証法べんしょうほうてき、そしてヘーゲルらの弁証法べんしょうほう観念論かんねんろんてきであったのにたいして唯物ゆいぶつろんてきであるのがその特徴とくちょう1840年代ねんだいマルクスエンゲルス提唱ていしょうレーニンらが発展はってん物質ぶっしつてき存在そんざい世界せかい根本こんぽん原理げんりとし、その優位ゆういせいかんがかた
機械きかいろんてき唯物ゆいぶつろん
形而上学けいじじょうがくてき思考しこう方法ほうほうをとる弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろん弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろん相対そうたいする。ラ・メトリーの『人間にんげん機械きかいろん』が有名ゆうめいドルバックなどもこれにふくまれる。

観念論かんねんろん唯心ゆいしんろん[編集へんしゅう]

世界せかい根本こんぽんてき原理げんりなんらかの精神せいしんてき性格せいかくつとするかんがかた唯心ゆいしんろんはしばしば観念論かんねんろん同義どうぎとされるが、観念論かんねんろん狭義きょうぎにおいてはどくろんをさすこともある。

狭義きょうぎ観念論かんねんろん(⇔じつねんろん
外界がいかい一切いっさい否定ひていし、純粋じゅんすい観念かんねんそのものを根本こんぽん原理げんりとするかんがかたどくろんバークリーシュテルナーなどがこの立場たちば分類ぶんるいされる。
素朴そぼく実在じつざいろん
外界がいかい意識いしきから独立どくりつ存在そんざいしており、なおかつ感覚かんかく知覚ちかくとおして意識いしきてき知覚ちかくされる現象げんしょうすなわ外界がいかいであり、それは実在じつざい現実げんじつ)の忠実ちゅうじつ模写もしゃ反映はんえいであると做す立場たちば
現象げんしょうろん (phenomenalism)
もの自体じたい認識にんしき断念だんねんし、感覚かんかく知覚ちかくとおして体験たいけんされた現象げんしょうのみで満足まんぞくするか、あるいは現象げんしょう背後はいご(にあるであろう)もの自体じたい存在そんざい否定ひていし、意識いしきあたえられた事象じしょうすなわちここでは現象げんしょう)のみに実在じつざいみとめる立場たちば無論むろん一元いちげんてきただ現象げんしょうろん
さきけんろん (transcendentalism)
カントや、しんカント批判ひはん主義しゅぎ哲学てつがくをこうぶ。あらゆる感覚かんかく先立さきだ根本こんぽん原理げんり精神せいしんがわ存在そんざいすると主張しゅちょうする立場たちば。またちょう感覚かんかくてき認識にんしき主張しゅちょうするエマーソンヘーゲルもこれにふくまれる。超越ちょうえつろんさきけん主義しゅぎ

ダイナミズムてき一元論いちげんろん[編集へんしゅう]

モナドろん (monadology)
物質ぶっしつ原理げんり精神せいしん原理げんり統合とうごうしたひとつの原理げんりとしてモナドを主張しゅちょうする。ライプニッツ主張しゅちょうした。
原子げんしろん (atomism)
哲学てつがくてき原子げんしろんなんらかのアトムてき粒子りゅうし想定そうていし、その離合りごう集散しゅうさんによってあらゆる世界せかいてき事象じしょう表現ひょうげんされるとした。デモクリトスなどが有名ゆうめい
そののダイナミズム (dynamism)
そのほかにも、世界せかい根本こんぽん原理げんり可能かのうりょくやあるしゅ運動うんどう法則ほうそくにあるとし、これが物質ぶっしつ運動うんどう存在そんざいなどすべてを統括とうかつする唯一ゆいいつ原理げんりであるというかんがかた古来こらいめずらしいものではない。アリストテレスがとくに有名ゆうめい

様態ようたい構造こうぞうによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

ゆう機体きたいろんてき世界せかいかん目的もくてきろんてき世界せかいかんとも)
世界せかい全体ぜんたいものとみる世界せかいかんアリストテレス以来いらい伝統でんとうをもつ。古来こらい中国ちゅうごくやインドなどでも支配しはいてき世界せかいかんであり、一般いっぱんてき農耕のうこう社会しゃかいにおいて有力ゆうりょく世界せかいかんである。
機械きかいろんてき世界せかいかん
世界せかい等質とうしつ部品ぶひんわせとみる世界せかいかんルネ・デカルトにより定式ていしきされて世界せかい各地かくち波及はきゅうした。

方法ほうほうろんによる分類ぶんるい[編集へんしゅう]

以上いじょう原理げんり性格せいかくてき側面そくめんによる分類ぶんるい以外いがいに、原理げんり研究けんきゅう態度たいどによる分類ぶんるい可能かのうである。

経験けいけんろん帰納きのうほう
世界せかい根本こんぽん原理げんり事象じしょう分析ぶんせきてき研究けんきゅうによって経験けいけんてき把握はあくすることが出来できるというかんがかた。おもに実験じっけん主義しゅぎ科学かがく主義しゅぎ立場たちばる。ベーコンロックバークリーなどのイギリス経験けいけんろん代表だいひょうてき
合理ごうりろん演繹えんえきほう
単純たんじゅん明快めいかい基礎きそ原理げんり設定せっていし、そこから理論りろん構築こうちくてき根本こんぽん原理げんり把握はあくすることが出来できるというかんがかた数学すうがくてき理論りろん主義しゅぎ道徳どうとく主義しゅぎ立場たちばをとる。デカルトライプニッツウォルフ有名ゆうめい

東洋とうよう思想しそうにおける世界せかいかん[編集へんしゅう]

ただ一神教いっしんきょう宗教しゅうきょう思想しそうてき統一とういつされていた西洋せいよう社会しゃかい世界せかいかんとはことなり、東洋とうよう思想しそうにおいては一定いってい歴史れきしてき段階だんかいって変質へんしつしていく世界せかいかん提示ていじされていることがおおく、そのため原理げんり自体じたい歴史れきしてき流動的りゅうどうてきであるとされ、原理げんりてき世界せかいぞうえがすことはそれほど主要しゅよう哲学てつがくてき問題もんだいとはされず、しばしば実用じつようめん重視じゅうしされた。とはいえ東洋とうよう思想しそう独自どくじ世界せかいかんをもっているため、それを記述きじゅつする。

古代こだい中国ちゅうごく哲学てつがくにおける世界せかいかん
中国ちゅうごくにおいては戦国せんごく時代じだい諸子しょしひゃくいえばれる多様たよう思想家しそうか輩出はいしゅつし、さまざまなかんがかた主張しゅちょうした。中国ちゅうごく思想しそうにおける論理ろんり学派がくはとして有名ゆうめい名家めいかめい真理しんりせい主張しゅちょうした。かれらによれば「しろうま」とは「しろ」と「うま」であり、「しろ」という観念かんねんと「うま」という観念かんねんこそ真理しんりであるとする観念論かんねんろんとなえた(白馬しろうまうま)。このような名家めいか主張しゅちょうたいして、法家ほうかでは実際じっさいてき物質ぶっしつてきな「」と「」を一致いっちさせることが真理しんりであると主張しゅちょうし、儒家じゅか教化きょうか主義しゅぎてき立場たちばから「」に真理しんりもとめた。また陰陽いんようは「かげ」と「」の調和ちょうわ対立たいりつによる世界せかいかん主張しゅちょうした。かん時代じだい皇帝こうてい支配しはい徹底てっていされ儒学じゅがく国教こっきょうてき位置いちをしめるようになると儒教じゅきょう実際じっさい主義しゅぎがますます支配しはいてきとなった。天変地異てんぺんちい実際じっさい皇帝こうてい施策しさく影響えいきょうしあうということがしんじられ、自然しぜん現象げんしょうがしばしば政治せいじてき論議ろんぎされた。しかし同時どうじ儒教じゅきょうのこのような実際じっさい主義しゅぎ陰陽いんよう思想しそう法家ほうかてき立場たちば実際じっさいめんから尊重そんちょうするものでもあり、名家めいかのようなめい主義しゅぎはやくに没落ぼつらくしたが、儒教じゅきょう知識ちしきじん主義しゅぎてき書誌しょし尊重そんちょう風潮ふうちょうとともにこれらの思想しそう維持いじされたり儒教じゅきょうへの吸収きゅうしゅうがされたりした。これは儒教じゅきょう思想しそう基本きほんてきには多神教たしんきょう立場たちばっていたことにもよる。また儒教じゅきょうはその復古ふっこ主義しゅぎてき性格せいかくからだいたいにおいて歴史れきし主義しゅぎてき世界せかいかんっていた。
二元論にげんろん
きたそうみなみそうだい中国ちゅうごく流行りゅうこうした二元論にげんろんてき世界せかいかん実際じっさいにはのほうに優位ゆういせいみとめており、厳密げんみつ二元論にげんろんではない。そのため中国ちゅうごくでは一般いっぱんてき理学りがくそうあきら理学りがく)とびならわされている。みなみそうしゅ朱子しゅし)が有名ゆうめい仏教ぶっきょう道教どうきょう影響えいきょうのもとに陰陽いんよう二元論にげんろんから発達はったつするかたちで成立せいりつした。陰陽いんよう二元論にげんろんにおいては実在じつざい)はその陰陽いんよう影響えいきょうもとづくものであるから、基本きほんてき哲学てつがくてき問題もんだい完結かんけつしていた。しかし二元論にげんろん世界せかい絶対ぜったい法則ほうそくである実在じつざい)の筋道すじみちであるみち陰陽いんよう規定きていするという立場たちば主張しゅちょうした。しかしこのみちとはそのものにはっしているものであるから、現象げんしょうてきとらえるならば、本質ほんしつ設定せっていすることになる。しゅ熹はこの立場たちば徹底てっていし、物質ぶっしつてき実在じつざいそのものよりも上位じょうい一種いっしゅ法則ほうそくてき存在そんざいとして設定せっていしたため、実在じつざいそのものよりもむしろ観念かんねんてき存在そんざいとなり、観念論かんねんろんてき傾向けいこうつよめられた。
一元論いちげんろん
あきらだい中国ちゅうごくおう陽明ようめい中心ちゅうしんとなって提唱ていしょうした一元論いちげんろんてき世界せかいかん尊重そんちょうする立場たちば朱子学しゅしがくわらないが、「しん」そのものがとする唯心ゆいしんてき主張しゅちょう(「こころそく」)を展開てんかいし、朱子学しゅしがく知識ちしき優位ゆうい原理げんり主義しゅぎてきであるのを批判ひはんして実践じっせん主義しゅぎとなえた。「知行ちぎょう合一ごういつ」、つまり行動こうどう知識ちしき一体いったいせい主張しゅちょうした。中国ちゅうごくでは前述ぜんじゅつ理学りがくたいして心学しんがくばれるが、のちにどくろんてき立場たちばつよ急進きゅうしんし、政治せいじてき弾圧だんあつされた。

イスラームにおける世界せかいかん[編集へんしゅう]

イスラーム哲学てつがくにおける世界せかいかん
イスラーム哲学てつがくにおいてはクルアーン(コーラン)に「真理しんりかみおろたまうところ」と明記めいきされているため、それ自体じたいうたがうものはまず存在そんざいしなかった。しかしギリシャてき自由じゆう意志いし問題もんだいがイスラームにはいってくると、アッラーフ(アッラー)の真理しんり表現ひょうげんをめぐって論争ろんそうがおこなわれた。自由じゆう意志いし保証ほしょうする理性りせいがアッラーフの本質ほんしつであるとし、これを尊重そんちょうするムアタズィラアッバースあさ時代じだい最盛さいせいむかえるが、悟性ごせいによる素朴そぼく実感じっかんにアッラーフの真理しんり見出みいだガザーリー出現しゅつげんするにおよんで、哲学てつがくてき世界せかいかん論争ろんそうには一応いちおう決着けっちゃくをみた。かれ以後いごのイスラーム哲学てつがく神秘しんぴ主義しゅぎてき傾向けいこうつよめていく。
イスラームきょうにおける世界せかいかん
一神教いっしんきょうのなかでもとく徹底てっていしており、後述こうじゅつする神学しんがくてき世界せかいかんしるした世界せかいかん支配しはいてきである。なお、イスラームに特有とくゆう世界せかいかんとしてキリスト教徒きりすときょうとやユダヤ教徒きょうとを「けいてんみん」とするかんがえがある。これは、イスラームが年代ねんだいてきあたらしい「わか宗教しゅうきょう」であることに起因きいんする。そこではムハンマド最後さいごにして最大さいだい預言よげんしゃとして位置いちづけられ、『旧約きゅうやく聖書せいしょ』『新約しんやく聖書せいしょ』は預言よげんしゃ(モーセやイエスなど)がかみからの啓示けいじしるされた「けいてん」とみるのである。

神学しんがくてき世界せかいかん[編集へんしゅう]

一神教いっしんきょう(monotheism)
イスラム教いすらむきょうやユダヤきょうのように、ひとつのかみみとめてこれを信仰しんこうする宗教しゅうきょう一般いっぱんによくある見解けんかいは、これを唯一ゆいいつの「かみてき存在そんざい」のみをみとめるものとするものである。これはあきらかな誤解ごかいである。その証拠しょうこ旧約きゅうやく聖書せいしょける創造そうぞうかみエロヒム複数ふくすうがたであるし、イスラム教いすらむきょうにおいても天使てんし信仰しんこう対象たいしょうとなっている。一神教いっしんきょうとは唯一ゆいいつかみゆえうえでは「ひとつのかみ」という表現ひょうげんもちいた)しかみとめない宗教しゅうきょうではなく、くまでかみ表象ひょうしょうにおいていちという概念がいねんもっと重要じゅうよう意味いみつ(あるいはきわめて密接みっせつむすびついている)場合ばあいす。
多神教たしんきょう(polytheism)
一神教いっしんきょうとはちが複数ふくすうかみ々を同時どうじ崇拝すうはいする宗教しゅうきょうをさす。原始げんしてきしょ宗教しゅうきょう古代こだい宗教しゅうきょうおおくはこれにぞくする。自然しぜん現象げんしょう人格じんかくしたものや、人間にんげん生活せいかつ様々さまざま局面きょくめん投影とうえいした独自どくじ性格せいかくかたち姿すがたをもつかみ々にたいする信仰しんこう
汎神論はんしんろん(pantheism)
かみ世界せかい同一どういつする立場たちば一神教いっしんきょう多神教たしんきょう物質ぶっしつ原理げんり精神せいしん原理げんり二元にげんてきであるのにたいして、これはきわめて一元いちげんてきである。いずれにせよ多神教たしんきょうよりもさらにおおくのかみみとめる立場たちばとして理解りかいしてはならない。古代こだいにおいては『ウパニシャッド』やソクラテス以前いぜんのギリシャ思想しそう近代きんだいはいるとスピノザゲーテシェリングなどの思考しこうにはこの立場たちばられる。
ひろししんろん(panpsychism)
すべての存在そんざいしんみとめる立場たちば物質ぶっしつ原理げんり精神せいしんてき実体じったい統合とうごうしたライプニッツのモナドろんなども必然ひつぜんてきにこれにふくまれる。ホワイトヘッド世界せかい神化しんかせつもそのひとつのれいとしてみとめることが出来できる。ものかつろん

その対立たいりつする世界せかいかん[編集へんしゅう]

文芸ぶんげい評論ひょうろんのなかでの世界せかいかん[編集へんしゅう]

民族みんぞくがくなどでもちいられる本来ほんらいの「世界せかいかん」とはことなる用法ようほうとして[6]日本にっぽん出版しゅっぱん業界ぎょうかいにおいて漫画まんがやライトノベルを対象たいしょうとする、ポストモダンの文芸ぶんげい評論ひょうろんにおける用語ようごとしての「世界せかいかん」がある[注釈ちゅうしゃく 1]本来ほんらい意味いみからてんじて、「フィクションにおける世界せかい設定せってい」の意味いみもちいられる[7]大塚おおつか英志えいじあずまひろしらはとくにライトノベルを「キャラクター小説しょうせつ」とび、「世界せかいかん」をふくメタフィクションてき要素ようそ比重ひじゅうをおくものとしてとらえ、既存きそん文学ぶんがくとは一線いっせんかくすものと規定きていしている(ただし、言葉ことばただしい用法ようほうからすれば完全かんぜん誤用ごようである。「世界せかいかん」はあくまでも「存在そんざいする世界せかい人間にんげんがどうるか」であり、「おも世界せかいしたがえ人間にんげん」なのだから、「作者さくしゃ世界せかいかん」「作品さくひん世界せかいかん」と言葉ことば本来ほんらい成立せいりつしない)。

この場合ばあい世界せかいかんとは、フィクションの世界せかい登場とうじょう人物じんぶつが、その物語ものがたりなか世界せかいをどのようにて、めているかという設定せっていのことである[8]現実げんじつ世界せかい直接的ちょくせつてき影響えいきょうおよぼそうというものではないため、哲学てつがくてきには世界せかいかんという範疇はんちゅうにはおさめられない。哲学てつがくてき世界せかいかんとは、哲学てつがくてき世界せかいかん諸相しょそうべた哲学てつがくてき根本こんぽん衝動しょうどうもの現実げんじつ把握はあくしようとつとめるときにるものであり、世界せかいたいして規定きていてきはたらきかけるものだからである。しかしながら、大塚おおつか英志えいじによれば、現実げんじつ世界せかいとイコールではないにしても作品さくひん世界せかい現実げんじつ世界せかいいちめん表象ひょうしょうしているとかんがえられ、作品さくひん世界せかいとおして間接かんせつてき現実げんじつ世界せかい評価ひょうかすることは有意義ゆういぎであるという。読者どくしゃ物語ものがたり世界せかい根差ねざした価値かちかん登場とうじょう人物じんぶつ視点してんつうじ、物語ものがたり世界せかいることになるのである[8]

この「世界せかいかん」には以下いかのような特徴とくちょうてき性格せいかくをあげることが出来できる。

  • 登場とうじょう人物じんぶつ設定せってい動作どうさにあるしゅ法則ほうそくせい規定きていする。
  • 作品さくひんない用語ようご仮想かそう言語げんごふくむ)やその用法ようほう規定きていする。
  • 作品さくひんないにおける舞台ぶたい背景はいけい時代じだい背景はいけい歴史れきしにあるしゅ法則ほうそくせい規定きていする。
  • ストーリーせい法則ほうそくせい規定きていする(具体ぐたいれいとしては水戸黄門みとこうもんでは黄門こうもんさま事件じけん解決かいけつかなら印籠いんろう使つかうことなど)。
  • 上記じょうき以外いがい作品さくひん世界せかい設定せってい全般ぜんぱん規定きていする。

この意味いみにおける世界せかいかん作品さくひん単体たんたい世界せかい設定せっていにとどまらず、続編ぞくへん作品さくひん派生はせい作品さくひんなどの作品さくひん世界せかい設定せってい継承けいしょうされ、またそれを保証ほしょうするものである。同時どうじ作者さくしゃ設定せっていした世界せかい設定せっていをこえて、その作品さくひん読者どくしゃ派生はせいした作品さくひんすべてと世界せかい設定せってい共有きょうゆうすることができ、このような世界せかいかんとおして作品さくひんかかわるあらゆるひとがその構築こうちく発展はってん参加さんかしていくことができるというかんがえを大塚おおつかしめしている。

大塚おおつかによれば、以前いぜんたんに「設定せってい」とばれていたものを「世界せかいかん」といいかえるようないいまわしをみみにするようになったのは1980年代ねんだいなかごろで、アニメ業界ぎょうかいから漫画まんが業界ぎょうかいまれる一方いっぽう、こうした設定せってい出版しゅっぱんぶつとしてあつかテーブルトークRPG日本にっぽんまれる過程かていひろまったのではないかとべている[6]

現在げんざい(2020年代ねんだい)は時期じきてきにすでにポストモダン以降いこうであるが、「世界せかいかん」という言葉ことばつづ上記じょうきのような意味いみもちいられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 大塚おおつか英志えいじによれば、「『世界せかいかん』とはキャラクターの世界せかいの『かんほうである」と定義ていぎされる(大塚おおつか 2003, p. 220)。あずまひろしによれば、「物語ものがたり様式ようしき規定きていするジャンルてき規範きはん意識いしき」の「下位かいにあるだつジャンルてきあるいはメタジャンルてきなデータベース」(ひがし 2007, p. 48)のひとつで、「ジャンルを横断おうだんして共有きょうゆうされる」「世界せかい設定せってい」(ひがし 2007, p. 31)のことである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

実際じっさい本文ほんぶんちゅう出典しゅってんとして使用しようしている箇所かしょ明示めいじしている文献ぶんけんしめす。

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]