この記事 きじ は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "イデオロギー" – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年 ねん 8月 がつ )
この記事 きじ の内容 ないよう の信頼 しんらい 性 せい について検証 けんしょう が求 もと められています 。 確認 かくにん のための文献 ぶんけん や情報 じょうほう 源 げん をご存 ぞん じの方 ほう はご提示 ていじ ください。出典 しゅってん を明記 めいき し 、記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい を高 たか めるためにご協力 きょうりょく をお願 ねが いします。議論 ぎろん はノート を参照 さんしょう してください。(2014年 ねん 4月 がつ )
イデオロギー (独 どく : Ideologie , 英 えい : ideology )とは、観念 かんねん (idea) と思想 しそう (logos) を組 く み合 あ わせた言葉 ことば であり[1] 観念 かんねん 形態 けいたい である。思想 しそう 形態 けいたい とも呼 よ ばれる。文脈 ぶんみゃく によりその意味 いみ するところは異 こと なり、主 おも に以下 いか のような意味 いみ で使用 しよう される。意味 いみ 内容 ないよう の詳細 しょうさい については定義 ていぎ と特徴 とくちょう を参照 さんしょう 。
通常 つうじょう は政治 せいじ や宗教 しゅうきょう における観念 かんねん を指 さ しており、政治 せいじ 的 てき 意味 いみ や宗教 しゅうきょう 的 てき 意味 いみ が含 ふく まれている。
世界 せかい 観 かん のような物事 ものごと に対 たい する包括 ほうかつ 的 てき な観念 かんねん 。
日常 にちじょう 生活 せいかつ における哲学 てつがく 的 てき 根拠 こんきょ 。ただ日常 にちじょう 的 てき な文脈 ぶんみゃく で用 もち いる場合 ばあい 、「イデオロギー的 てき である」という定義 ていぎ はある事柄 ことがら への認識 にんしき に対 たい して事実 じじつ を歪 ゆが めるような虚偽 きょぎ あるいは欺瞞 ぎまん を含 ふく んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価 ひょうか を含 ふく むこともある。
主 おも に社会 しゃかい 科学 かがく の用法 ようほう として、社会 しゃかい に支配 しはい 的 てき な集団 しゅうだん によって提示 ていじ される観念 かんねん 。
デステュット・ド・トラシー
イデオロギーという用語 ようご は初 はじ め、観念 かんねん の起源 きげん が先天的 せんてんてき なものか後天的 こうてんてき なものかを中心 ちゅうしん 的 てき な問題 もんだい とする学 がく の名 な であった。この用法 ようほう はデステュット・ド・トラシー (英語 えいご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (Destutt de Tracy)『観念 かんねん 学 がく 原論 げんろん 』(1804-1815)に見 み られる。
彼 かれ に代表 だいひょう される活動 かつどう 家 か 達 たち はイデオローグ (idéologue)と呼 よ ばれ、1789年 ねん のフランス大 だい 革命 かくめい 以降 いこう 、怪 あや しげなものとして見 み られていたアンシャン・レジーム時代 じだい の思想 しそう のなかで啓蒙 けいもう 主義 しゅぎ 的 てき な自由 じゆう 主義 しゅぎ を復興 ふっこう させようとし、革命 かくめい 期 き から帝政 ていせい にかけてフランスリベラル学派 がくは の創始 そうし 者 しゃ 、指導 しどう 的 てき 立場 たちば となった。こうした国家 こっか の在 あ り方 かた を決 き めるイデオロギーを政治 せいじ イデオロギー と呼 よ ぶ。
当初 とうしょ は人間 にんげん の観念 かんねん に関 かん する科学 かがく 的 てき な研究 けんきゅう 方法 ほうほう を指 さ していたが、やがてその対象 たいしょう となる観念 かんねん の体系 たいけい そのものをいうようになった。
20世紀 せいき は政治 せいじ イデオロギー の対立 たいりつ による世界 せかい 的 てき な戦争 せんそう が数多 かずおお く発生 はっせい した。特 とく に冷戦 れいせん は自由 じゆう 主義 しゅぎ ・資本 しほん 主義 しゅぎ と社会 しゃかい 主義 しゅぎ ・共産 きょうさん 主義 しゅぎ の対立 たいりつ 構造 こうぞう が極端 きょくたん に顕 あらわ れた事例 じれい である。21世紀 せいき に入 はい ってから国際 こくさい 協調 きょうちょう の進展 しんてん によって世界 せかい 的 てき な戦争 せんそう は沈静 ちんせい 化 か したものの、中国 ちゅうごく や北朝鮮 きたちょうせん 等 ひとし の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 くに とその他 た 自由 じゆう 主義 しゅぎ 国 くに の対立 たいりつ 構造 こうぞう は存続 そんぞく している。また、経済 けいざい においても、新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ の弊害 へいがい から修正 しゅうせい 資本 しほん 主義 しゅぎ が注目 ちゅうもく され、両者 りょうしゃ の間 あいだ で対立 たいりつ が起 お きるなど、イデオロギーの対立 たいりつ が起 お こっている。
定義 ていぎ と特徴 とくちょう [ 編集 へんしゅう ]
イデオロギーの定義 ていぎ は曖昧 あいまい で、また歴史 れきし 上 じょう その定義 ていぎ は一様 いちよう でない。イデオロギーの定義 ていぎ には認識 にんしき 論 ろん を含 ふく むもの、社会 しゃかい 学 がく 的 てき なものがあり、互 たが いに矛盾 むじゅん している。しかし、それぞれが有意義 ゆういぎ な意味 いみ を多数 たすう もっている。そのためディスクール や同一 どういつ 化 か 思考 しこう などの類似 るいじ 概念 がいねん と置 お き換 か え可能 かのう ではない。以下 いか イデオロギーの定義 ていぎ の重要 じゅうよう な意味 いみ 内容 ないよう について、主 おも に認識 にんしき 論 ろん や社会 しゃかい 学 がく 的 てき 成果 せいか をもとに解説 かいせつ する。
大正 たいしょう デモクラシーの政治 せいじ 的 てき イデオロギーともいえる天皇 てんのう 機関 きかん 説 せつ を述 の べた美濃部 みのべ 達吉 たつきち
イデオロギーは世界 せかい 観 かん である 。しかしイデオロギーは開 ひら かれた世界 せかい 観 かん であり、対立 たいりつ 的 てき な世界 せかい 観 かん の一部 いちぶ を取 と り込 こ んでいることがある。イデオロギーは何 なん らかの政治 せいじ 的 てき 主張 しゅちょう を含 ふく み、社会 しゃかい 的 てき な利害 りがい に動機 どうき づけられており、特定 とくてい の社会 しゃかい 集団 しゅうだん や社会 しゃかい 階級 かいきゅう に固有 こゆう の観念 かんねん である。にも関 かか わらずイデオロギーは主張 しゅちょう を正当 せいとう 化 か するために自己 じこ をしばしば普遍 ふへん 化 か したりする。またほかのイデオロギーに迎合 げいごう したり、それを従属 じゅうぞく させたりする。イデオロギーは極 きわ めて政治 せいじ 的 てき である 。
同時 どうじ にイデオロギーは偏 かたよ った考 かんが え方 かた であり、何 なん らかの先入観 せんにゅうかん を含 ふく む 。イデオロギー的 てき な見方 みかた をしている人 ひと は何 なん らかの事実 じじつ を歪曲 わいきょく して見 み ており、その主張 しゅちょう には虚偽 きょぎ や欺瞞 ぎまん を含 ふく んでいることがある。イデオロギーは非合理 ひごうり 的 てき な信念 しんねん を含 ふく んでいるが、巧妙 こうみょう にそれを隠蔽 いんぺい していることが多 おお い。また事実 じじつ 関係 かんけい や社会 しゃかい 状況 じょうきょう の一部 いちぶ を偽 いつわ り、自己 じこ に都合 つごう のいいように改変 かいへん していることがある。
イデオロギーは闘争 とうそう 的 てき な観念 かんねん である 。イデオロギーは何 なん らかの立場 たちば を社会 しゃかい において主張 しゅちょう 、拡大 かくだい しようとする。また実際 じっさい ある政治 せいじ 理念 りねん が違 ちが う立場 たちば に立 た つ政治 せいじ 理念 りねん を批判 ひはん する場合 ばあい 、相手 あいて の政治 せいじ 理念 りねん が「イデオロギー的 てき である」と指摘 してき することがおこなわれる。イデオロギーはその意味 いみ においても何 なん らかの価値 かち 観 かん 対立 たいりつ を前提 ぜんてい としている。またあるひとがある種 しゅ の政治 せいじ 理念 りねん を「イデオロギー」として定義 ていぎ している場合 ばあい 、そのひとはその政治 せいじ 理念 りねん とは異 こと なった立場 たちば に立 た っていることが多 おお い。
ある政治 せいじ 理念 りねん がイデオロギーであるかそうでないかは多 おお くの場合 ばあい 、理念 りねん の内容 ないよう それ自体 じたい よりもその理念 りねん が拡大 かくだい しようとしている立場 たちば やその理念 りねん の社会 しゃかい 状況 じょうきょう に対 たい する評価 ひょうか の仕方 しかた によって判断 はんだん される 。大抵 たいてい の政治 せいじ 理念 りねん はイデオロギーになりうる。またある政治 せいじ 理念 りねん に「イデオロギー的 てき である」という評価 ひょうか を加 くわ えた場合 ばあい 、それはその政治 せいじ 理念 りねん がある種 しゅ の問題 もんだい 解決 かいけつ において本質 ほんしつ を誤 あやま った見方 みかた をしていることを示 しめ す。日本 にっぽん において戦前 せんぜん はリベラルな思想 しそう とされ、リベラリストから支持 しじ されていた天皇 てんのう 機関 きかん 説 せつ は、戦後 せんご 天皇 てんのう 主権 しゅけん を認 みと めるその立場 たちば が同 おな じリベラリストの側 がわ から保守 ほしゅ 主義 しゅぎ を擁護 ようご するイデオロギーであると批判 ひはん された。戦前 せんぜん は天皇 てんのう 主権 しゅけん であることは当 あ たり前 まえ であったから、国体 こくたい 論 ろん や軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ といったイデオロギーに対抗 たいこう する上 じょう で天皇 てんのう 機関 きかん 説 せつ は正当 せいとう でリベラルな思考 しこう 様式 ようしき であるとされたが、戦後 せんご 天皇 てんのう 主権 しゅけん が自明 じめい のものでなくなったとき、天皇 てんのう 主権 しゅけん を前提 ぜんてい とする天皇 てんのう 機関 きかん 説 せつ によって天皇 てんのう 制 せい を擁護 ようご することはイデオロギー的 てき 行為 こうい とされたのである。以上 いじょう のことから、イデオロギーは表面 ひょうめん 上 じょう 中立 ちゅうりつ 的 てき な政治 せいじ 理念 りねん を装 よそお っていることがあるが、実際 じっさい は政治 せいじ 理念 りねん それ自体 じたい とは別個 べっこ に隠蔽 いんぺい された政治 せいじ 目的 もくてき を持 も っていることがある。イデオロギーは政治 せいじ 理念 りねん と政治 せいじ 目的 もくてき が何 なん らかの形 かたち において結合 けつごう したもの ということができる。中立 ちゅうりつ 的 てき な政治 せいじ 理念 りねん とイデオロギーはこの限 かぎ りにおいて明確 めいかく に区別 くべつ される。また何 なに がイデオロギーか何 なに がイデオロギーでないかは立場 たちば や時代 じだい 状況 じょうきょう により一定 いってい ではない 。
マルクス主義 まるくすしゅぎ による定義 ていぎ [ 編集 へんしゅう ]
階級 かいきゅう 闘争 とうそう とイデオロギー研究 けんきゅう を結 むす びつけたマルクス
以下 いか はイデオロギーの定義 ていぎ で代表 だいひょう 的 てき なものと考 かんが えられるマルクス の定義 ていぎ をあげる。
マルクス主義 まるくすしゅぎ におけるイデオロギーとは、観念 かんねん そのものではなく、生産 せいさん 様式 ようしき などの社会 しゃかい 的 てき な下部 かぶ 構造 こうぞう との関係 かんけい 性 せい においてとらえられる上部 じょうぶ 構造 こうぞう としての観念 かんねん を意味 いみ している。マルクスは最初 さいしょ 、ヘーゲル とその後継 こうけい 者 しゃ たちによって示 しめ された観念 かんねん の諸 しょ 形態 けいたい について、社会 しゃかい 的 てき な基盤 きばん から発 はっ しながらあたかも普遍 ふへん 的 てき な正当 せいとう 性 せい を持 も つかのようにふるまう、と批判 ひはん したことからイデオロギーの階級 かいきゅう 性 せい について論 ろん じるようになる。
マルクス=エンゲルス 共著 きょうちょ 『ドイツ・イデオロギー』(1845年 ねん )においてはじめてイデオロギーという用語 ようご が登場 とうじょう し、階級 かいきゅう 社会 しゃかい におけるイデオロギーの党派 とうは 性 せい が分析 ぶんせき された。すなわち、階級 かいきゅう 社会 しゃかい では特定 とくてい の階級 かいきゅう が利益 りえき を得 え るための特定 とくてい のイデオロギーが優勢 ゆうせい になり、上部 じょうぶ 構造 こうぞう と下部 かぶ 構造 こうぞう の相互 そうご 作用 さよう が生 しょう じて、必然 ひつぜん 的 てき に自 みずか らを正当 せいとう 化 か するというのである。マルクスはイデオロギーのこのような性質 せいしつ を虚偽 きょぎ 意識 いしき としてのイデオロギー と呼 よ び、階級 かいきゅう 的 てき な利害 りがい に基 もと づいて支配 しはい 体制 たいせい を強化 きょうか するものであると考 かんが えた。
この分析 ぶんせき に従 したが えば、階級 かいきゅう 制度 せいど は必 かなら ずイデオロギーを伴 ともな うものであるから、イデオロギーを批判 ひはん することは階級 かいきゅう 闘争 とうそう の中 なか で最 もっと も重要 じゅうよう な活動 かつどう である。
その一方 いっぽう で、旧 きゅう ソ連 それん には、軍隊 ぐんたい にはイデオロギー担当 たんとう 将校 しょうこう 、議会 ぎかい にはイデオロギー担当 たんとう 議員 ぎいん が配置 はいち されていた。
科学 かがく 技術 ぎじゅつ とイデオロギーの関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
イデオロギーを含 ふく む政治 せいじ 行為 こうい が科学 かがく 技術 ぎじゅつ の目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい にしたがうと述 の べたハーバーマス
ユルゲン・ハーバーマス は、現代 げんだい 社会 しゃかい では科学 かがく 技術 ぎじゅつ が個人 こじん の思想 しそう とは関係 かんけい なく客観 きゃっかん 的 てき に体系 たいけい 化 か されており、目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい において科学 かがく 技術 ぎじゅつ の体系 たいけい は絶対 ぜったい 的 てき な根拠 こんきょ を持 も っているとした。ゆえにあらゆる政治 せいじ 行為 こうい の価値 かち はまず目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい において科学 かがく 的 てき あるいは技術 ぎじゅつ 的 てき に正当 せいとう なものであるかどうかの判断 はんだん 抜 ぬ きには成立 せいりつ せず、イデオロギーが何 なん らかの制度 せいど を社会 しゃかい に確立 かくりつ するときに目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい に合致 がっち しているかどうかということは大 おお きな影響 えいきょう を持 も つとされた。ときにはこのような目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい がそれ自体 じたい で支配 しはい 的 てき な観念 かんねん となり、人間 にんげん 疎外 そがい をもたらすと指摘 してき した。すなわちこのような目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい が支配 しはい 的 てき な社会 しゃかい では、文化 ぶんか 的 てき な人間 にんげん 性 せい は否定 ひてい され、人間 にんげん 行動 こうどう は目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい に適合 てきごう 的 てき なように物象 ぶっしょう 化 か されていくと警告 けいこく したのである。これは後述 こうじゅつ のシュミットに通 つう じる考 かんが え方 かた である。
しかし一方 いっぽう でトーマス・クーン のパラダイム 理論 りろん が示唆 しさ するように、歴史 れきし 的 てき には科学 かがく 理論 りろん も技術 ぎじゅつ 的 てき に十分 じゅうぶん 検証 けんしょう 可能 かのう でないときは、必 かなら ずしも目的 もくてき 合理 ごうり 的 てき でない、思想 しそう 的 てき な理論 りろん 信仰 しんこう によって主流 しゅりゅう な科学 かがく 理論 りろん —したがって科学 かがく の方向 ほうこう 性 せい も— が決定 けってい されてきたということが指摘 してき されている。
このような見方 みかた に従 したが えば、歴史 れきし 的 てき には科学 かがく とイデオロギー(と呼 よ びうるような思想 しそう 信条 しんじょう )の間 あいだ に相補 そうほ 的 てき 関係 かんけい が成 な り立 た ってきたということもできる。たとえば天動説 てんどうせつ はキリスト教 きりすときょう 信仰 しんこう と密接 みっせつ に結 むす びついていたし、地動説 ちどうせつ についても太陽 たいよう 崇拝 すうはい であるヘルメース 信仰 しんこう との関連 かんれん 性 せい を指摘 してき する説 せつ がある。技術 ぎじゅつ 的 てき な進歩 しんぽ によって地動説 ちどうせつ の正 ただ しさが裏付 うらづ けられたが、技術 ぎじゅつ 的 てき に完全 かんぜん な検証 けんしょう が不可能 ふかのう な段階 だんかい では、どちらの説 せつ をとるかは思想 しそう 信条 しんじょう によって判断 はんだん されたという見方 みかた である。実際 じっさい にダーウィン の進化 しんか 論 ろん を否定 ひてい して、聖書 せいしょ 的 てき な創造 そうぞう 論 ろん を学校 がっこう で教 おし えるべきという運動 うんどう がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で広汎 こうはん に存在 そんざい するが、これは進化 しんか 論 ろん が技術 ぎじゅつ 的 てき には必 かなら ずしも完全 かんぜん に検証 けんしょう されているわけでなく、たとえばパウル・カンメラー によるサンショウウオやサンバガエル、ユウレイボヤの実験 じっけん [注 ちゅう 1] のように、現在 げんざい のダーウィン的 てき な進化 しんか 論 ろん で説明 せつめい がつかないとされる実験 じっけん 結果 けっか が報告 ほうこく されていたり、宇宙 うちゅう 物理 ぶつり 学 がく や心理 しんり 学 がく の立場 たちば からダーウィン的 てき な進化 しんか 論 ろん と対立 たいりつ するような目的 もくてき 論 ろん 的 てき な見解 けんかい (サイバネティクス によるコンプトン効果 こうか の説明 せつめい [注 ちゅう 2] や心理 しんり 学 がく 的 てき な目的 もくてき 論 ろん など)が提示 ていじ されていることによる。もちろんこれらの事実 じじつ はダーウィンの進化 しんか 論 ろん に懐疑 かいぎ を促 うなが す事実 じじつ であっても、創造 そうぞう 論 ろん を積極 せっきょく 的 てき に支持 しじ するような内容 ないよう ではない。とはいえ、科学 かがく 理論 りろん に対 たい して技術 ぎじゅつ 的 てき に検証 けんしょう 不可能 ふかのう である場合 ばあい 、思想 しそう 信条 しんじょう により科学 かがく 理論 りろん が選択 せんたく されうることは、多 おお くの科学 かがく 史家 しか が認 みと めるところである。
したがってあらゆるイデオロギーが科学 かがく 技術 ぎじゅつ のような、客観 きゃっかん 的 てき な目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい の上 うえ に成 な り立 た っているならば、その次元 じげん での正当 せいとう 性 せい を論 ろん じることによってイデオロギー的 てき 政治 せいじ 行為 こうい と正 ただ しい政治 せいじ 行為 こうい の間 あいだ に判別 はんべつ が可能 かのう であると考 かんが えられる。目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい において明 あき らかに欺瞞 ぎまん を含 ふく む政治 せいじ 行為 こうい が、正当 せいとう な政治 せいじ 行為 こうい であるわけはないから、社会 しゃかい 的 てき なコミュニケーションのレベルでのイデオロギーの摘出 てきしゅつ には十分 じゅうぶん 効果 こうか を期待 きたい できる分析 ぶんせき であるといえる。
このような見方 みかた の欠点 けってん は、イデオロギーが目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい に則 のっと った社会 しゃかい 的 てき なコミュニケーションの場 ば のみで成 な り立 た っているかという点 てん に盲目 もうもく なことである。上述 じょうじゅつ したように、イデオロギーの核心 かくしん をなす信条 しんじょう や信仰 しんこう は目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい とはほとんど関係 かんけい ないから、イデオロギー的 てき 政治 せいじ 理念 りねん が目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい に則 のっと った政治 せいじ 行為 こうい を主張 しゅちょう するということも成 な り立 た つため、このようなイデオロギーの分析 ぶんせき にはあまり有効 ゆうこう ではない。
また技術 ぎじゅつ 的 てき 発展 はってん によってイデオロギー的 てき な観念 かんねん 支配 しはい から脱却 だっきゃく できるかという問題 もんだい がある。
1933年 ねん にナチスに入党 にゅうとう したカール・シュミット は、右派 うは 的 てき なイデオロギーを持 も っていた[2] 。シュミットは、ハーバーマスが目的 もくてき 合理 ごうり 性 せい と呼 よ んだような、技術 ぎじゅつ を中立 ちゅうりつ 的 てき で、したがって中性 ちゅうせい 的 てき であると見 み なす考 かんが え方 かた を技術 ぎじゅつ 信仰 しんこう と呼 よ んで非難 ひなん している。技術 ぎじゅつ 信仰 しんこう の立場 たちば に立 た つと、中立 ちゅうりつ で中性 ちゅうせい 的 てき な技術 ぎじゅつ の進歩 しんぽ により、あらゆる思想 しそう 的 てき な対立 たいりつ は解消 かいしょう されていくとされる。シュミットによれば、このような技術 ぎじゅつ は中立 ちゅうりつ 的 てき であるがゆえに、さまざまな政治 せいじ 理念 りねん に武器 ぶき として奉仕 ほうし することができる。
シモーヌ・ヴェイユ は技術 ぎじゅつ のもたらす生産 せいさん 性 せい の発展 はってん が必 かなら ずしも約束 やくそく されたものではないこと、ある種 しゅ の濫費 らんぴ 形態 けいたい が排除 はいじょ されても別 べつ の濫費 らんぴ 形態 けいたい が生 しょう じてくることを指摘 してき している。ヴェイユは具体 ぐたい 例 れい としてエネルギー源 げん をあげ、石油 せきゆ や石炭 せきたん が枯渇 こかつ した場合 ばあい 、代替 だいたい されると予想 よそう されるエネルギー源 げん が生産 せいさん 性 せい において石油 せきゆ や石炭 せきたん に勝 か っているというようなことは簡単 かんたん に予想 よそう されず、社会 しゃかい がエネルギー的 てき に優 すぐ れた方向 ほうこう へ進化 しんか し続 つづ けるということを疑問 ぎもん 視 し している。社会 しゃかい の生産 せいさん 力 りょく の発展 はってん が抑圧 よくあつ を必然 ひつぜん 的 てき に解消 かいしょう する —なぜならマルクスによれば階級 かいきゅう 社会 しゃかい が消滅 しょうめつ すればイデオロギー的 てき 抑圧 よくあつ なるものは存在 そんざい しなくなるから— というマルクスの見方 みかた にも否定 ひてい 的 てき である。またヴェイユは抑圧 よくあつ を批判 ひはん しているはずのマルクス・レーニン主義 しゅぎ が抑圧 よくあつ を生 う み出 だ していることを指摘 してき し、このことは抑圧 よくあつ がどのような政治 せいじ 体制 たいせい のもとであれ存在 そんざい していることを表 あらわ しているとした。したがって社会 しゃかい 発展 はってん がどんなに進 すす んでも抑圧 よくあつ は存在 そんざい し、その抑圧 よくあつ の根拠 こんきょ となるイデオロギーは常 つね に存在 そんざい することになる。ヴェイユによれば抑圧 よくあつ の形態 けいたい に対 たい し常 つね に注意 ちゅうい を払 はら い、研究 けんきゅう を怠 おこた らないことでイデオロギーの潜在 せんざい を明 あき らかにしていくべきだと述 の べている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
日本 にっぽん におけるイデオロギー研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん におけるイデオロギー研究 けんきゅう の先駆 せんく としては幸徳 こうとく 秋水 しゅうすい の『廿 にじゅう 世紀 せいき 之 の 怪物 かいぶつ 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 』が注目 ちゅうもく される。この著作 ちょさく において幸徳 こうとく は、当時 とうじ の政府 せいふ の膨張 ぼうちょう 政策 せいさく を愛国 あいこく 主義 しゅぎ と軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ の産物 さんぶつ であると分析 ぶんせき し、おもに道徳 どうとく 的 てき 立場 たちば から批判 ひはん している。当時 とうじ の膨張 ぼうちょう 主義 しゅぎ が非合理 ひごうり な野性 やせい に発 はっ していること、国家 こっか 生存 せいぞん の原因 げんいん を領土 りょうど の広狭 こうきょう であると偽 いつわ っていること、挙国一致 きょこくいっち の名 な のもとに政治 せいじ 闘争 とうそう を封殺 ふうさつ していることなど、そのイデオロギー的 てき 性格 せいかく を指摘 してき している。
大正 たいしょう 期 き の哲学 てつがく 者 しゃ である左右田 そうだ 喜一郎 きいちろう は『文化 ぶんか 価値 かち と極限 きょくげん 概念 がいねん 』のなかで当時 とうじ の官僚 かんりょう 的 てき な政府 せいふ の哲学 てつがく を宗教 しゅうきょう 的 てき 非合理 ひごうり 的 てき であると批判 ひはん し、あらゆる文化 ぶんか 価値 かち を同等 どうとう に尊重 そんちょう する文化 ぶんか 主義 しゅぎ ・人格 じんかく 主義 しゅぎ を主張 しゅちょう した。すなわち日本 にっぽん の独自 どくじ 性 せい という欺瞞 ぎまん を掲 かか げ、学問 がくもん ・政治 せいじ の自由 じゆう を抑圧 よくあつ している藩閥 はんばつ 政府 せいふ イデオロギーに対 たい して大正 たいしょう デモクラシー を擁護 ようご した。しかし同時 どうじ にプロレタリア 独裁 どくさい を掲 かか げる「社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」を階級 かいきゅう 主義 しゅぎ 的 てき な「限 かぎ られたる民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」と定義 ていぎ し、イデオロギー的 てき に抑圧 よくあつ した[注 ちゅう 3] 。
戸坂 とさか 潤 じゅん は『日本 にっぽん イデオロギー論 ろん 』を著 あらわ し、日本 にっぽん におけるイデオロギー批判 ひはん を初 はじ めて体系 たいけい 的 てき にまとめあげた。日本 にっぽん の特権 とっけん 階級 かいきゅう のイデオロギーを哲学 てつがく 的 てき 観念論 かんねんろん にあるとし、その社会 しゃかい 的 てき 適用 てきよう を通 つう じて復古 ふっこ 主義 しゅぎ 的 てき な日本 にっぽん 主義 しゅぎ が出現 しゅつげん し、ファシズム 的 てき 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ と結 むす びついて日本 にっぽん イデオロギーが形成 けいせい 、発展 はってん してきたとする。また自由 じゆう 主義 しゅぎ 思想 しそう がたやすく日本 にっぽん 主義 しゅぎ に転化 てんか しやすいという点 てん を指摘 してき し、自由 じゆう 主義 しゅぎ を中間 ちゅうかん 的 てき な勢力 せいりょく とみる当時 とうじ の風潮 ふうちょう を偽 いつわ りであるとした。彼 かれ はイデオロギーを客観 きゃっかん 的 てき 現実 げんじつ (すなわち下部 かぶ 構造 こうぞう )の歪曲 わいきょく された模写 もしゃ であり、独自 どくじ に発展 はってん 法則 ほうそく をもつと指摘 してき している。
丸山 まるやま 眞男 まさお は『日本 にっぽん の思想 しそう 』のなかで、日本 にっぽん 社会 しゃかい においては伝統 でんとう 的 てき にイデオロギー批判 ひはん が理論 りろん 的 てき ・政治 せいじ 的 てき 立場 たちば でおこなわれることがなく、現実 げんじつ 肯定 こうてい という形 かたち で既成 きせい の支配 しはい 体制 たいせい への追従 ついしょう が繰 く り返 かえ されてきたと述 の べた。この現実 げんじつ 肯定 こうてい という形 かたち である種 しゅ の理論 りろん を無 む 価値 かち 化 か することを丸山 まるやま は「実感 じっかん 信仰 しんこう 」とよび、西洋 せいよう の「理論 りろん 信仰 しんこう 」と対置 たいち させているが、これは論理 ろんり より感覚 かんかく を重視 じゅうし するという意味 いみ での単 たん なる感覚 かんかく 主義 しゅぎ ではない。「実感 じっかん 信仰 しんこう 」は事実 じじつ 主義 しゅぎ や伝統 でんとう 主義 しゅぎ を含 ふく み、「理論 りろん 信仰 しんこう 」は科学 かがく 主義 しゅぎ あるいは理論 りろん 主義 しゅぎ 的 てき な立場 たちば を念頭 ねんとう に置 お いていると考 かんが えられる。
藤田 ふじた 省三 しょうぞう は『天皇 てんのう 制 せい 国家 こっか の支配 しはい 原理 げんり 』において、天皇 てんのう 制 せい を支 ささ えたイデオロギーとしてヨーロッパ的 てき な社会 しゃかい 有 ゆう 機体 きたい 説 せつ と東洋 とうよう 的 てき な儒教 じゅきょう 政治 せいじ 論 ろん が矛盾 むじゅん しながら結合 けつごう した「家族 かぞく 国家 こっか 論 ろん 」を措定 そてい した。この「家族 かぞく 国家 こっか 」は内面 ないめん 的 てき には政治 せいじ ・学問 がくもん の分野 ぶんや において官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 的 てき 立場 たちば を徹底 てってい させ、外面 がいめん 的 てき には「家 いえ 」の拡大 かくだい という形 かたち での膨張 ぼうちょう 主義 しゅぎ を伴 ともな うとされた。またこのような「家族 かぞく 国家 こっか 論 ろん 」は天皇 てんのう 制 せい 国家 こっか を家 いえ と同質 どうしつ に自然 しぜん 的 てき なものと見 み なす非 ひ 政治 せいじ 的 てき な本質 ほんしつ を持 も っており、このことによって天皇 てんのう 制 せい それ自体 じたい は日本 にっぽん 社会 しゃかい のあらゆる利害 りがい を中和 ちゅうわ する象徴 しょうちょう としてイデオロギー的 てき に祭 まつ り上 あ げられたと説 と いている。
現代 げんだい への課題 かだい [ 編集 へんしゅう ]
冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ 後 ご 、イデオロギーの終焉 しゅうえん を説 と く声 こえ が強 つよ まっている。社会 しゃかい 民主 みんしゅ 的 てき な中道 ちゅうどう ・福祉 ふくし 政党 せいとう が世界 せかい の大勢 おおぜい を占 し め、かつてのようなイデオロギーをふりかざすことなく職業 しょくぎょう 的 てき ・専門 せんもん 的 てき な政治 せいじ 家 か ・官僚 かんりょう によって純粋 じゅんすい に生活 せいかつ 向上 こうじょう が図 はか られる世界 せかい に向 む かっているのが現代 げんだい である、という分析 ぶんせき である。また思想 しそう の面 めん からは主 おも に構造 こうぞう 主義 しゅぎ 者 しゃ によってイデオロギーはディスクールに還元 かんげん 可能 かのう であるとされた。
しかし、これらの事実 じじつ はイデオロギーの終焉 しゅうえん を必 かなら ずしも意味 いみ しない。以下 いか 代表 だいひょう 的 てき なイデオロギー終焉 しゅうえん 論 ろん について簡単 かんたん な内容 ないよう を記 しる すとともに、その問題 もんだい 点 てん を指摘 してき する。
マルクス主義 まるくすしゅぎ 的 てき な見方 みかた の限界 げんかい [ 編集 へんしゅう ]
資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい はその経済 けいざい 論理 ろんり をすべての階級 かいきゅう に及 およ ぼし、同化 どうか 吸収 きゅうしゅう 的 てき に階級 かいきゅう 社会 しゃかい を消滅 しょうめつ させたと説 と かれた。ゆえにこのような社会 しゃかい では階級 かいきゅう 闘争 とうそう は終結 しゅうけつ し、それに伴 ともな って深刻 しんこく なイデオロギー的 てき 対立 たいりつ は解消 かいしょう したとされた。
しかしマルクスの見方 みかた には大 おお きな欠陥 けっかん がある。階級 かいきゅう 的 てき な利害 りがい がイデオロギー的 てき であることはもちろんであるが、イデオロギー自身 じしん は必 かなら ずしも階級 かいきゅう 的 てき な利害 りがい を必要 ひつよう としない。つまりイデオロギーは何 なん らかの階級 かいきゅう 制度 せいど や階級 かいきゅう 闘争 とうそう を前提 ぜんてい としない。前述 ぜんじゅつ のヴェイユの立場 たちば からも階級 かいきゅう 社会 しゃかい が解消 かいしょう されてもイデオロギー的 てき 抑圧 よくあつ がなお存在 そんざい するであろうことはおそらく確実 かくじつ であると思 おも われる。そもそも社会 しゃかい を階級 かいきゅう 闘争 とうそう 的 てき にみる見方 みかた でさえ、社会 しゃかい 的 てき 抑圧 よくあつ の形態 けいたい を偽 いつわ っているという意味 いみ でイデオロギー的 てき であるといえる。
構造 こうぞう 主義 しゅぎ によるイデオロギー終焉 しゅうえん 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
またフーコー ら構造 こうぞう 主義 しゅぎ の哲学 てつがく では制度 せいど や権力 けんりょく に結 むす びつく言語 げんご 表現 ひょうげん としてのディスクールによってイデオロギーは置 お き換 か え可能 かのう だとされた。彼 かれ らは実際 じっさい 生活 せいかつ 上 じょう あらゆる言語 げんご は意識 いしき 的 てき にしろ無 む 意識 いしき 的 てき にしろ権力 けんりょく や政治 せいじ と結 むす びついていない言語 げんご はないし、またあらゆる言語 げんご は政治 せいじ 的 てき になりうることを主張 しゅちょう し、そのような言語 げんご ないし言語 げんご 的 てき コミュニケーションをディスクールと名付 なづ けた。
構造 こうぞう 主義 しゅぎ 者 しゃ のディスクールに対 たい しては定義 ていぎ でも記述 きじゅつ したように、イデオロギーはただ政治 せいじ 的 てき なだけではない。なんらか固有 こゆう の見方 みかた 、世界 せかい 観 かん を含 ふく み排他 はいた 的 てき である。意味 いみ 的 てき に中立 ちゅうりつ 的 てき なディスクールとは代替 だいたい 不可能 ふかのう であり、イデオロギーはディスクールに還元 かんげん できない固有 こゆう の意味 いみ を持 も つ。
経済 けいざい 学 がく におけるイデオロギー終焉 しゅうえん 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
さらに冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 後 ご 、国際 こくさい 経済 けいざい における資本 しほん 主義 しゅぎ の影響 えいきょう 力 りょく が完全 かんぜん なものとなったため、意識 いしき 的 てき に資本 しほん 主義 しゅぎ の根本 こんぽん システムを改変 かいへん することは事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう なものとなっており、無条件 むじょうけん で受 う け入 い れざるを得 え ないものとなっている。全 すべ ての経済 けいざい ・社会 しゃかい 上 じょう の問題 もんだい は資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 全体 ぜんたい の一 いち 問題 もんだい とされ、イデオロギーを介在 かいざい させずに技術 ぎじゅつ 的 てき に解決 かいけつ 可能 かのう とされる。たとえば南北 なんぼく 格差 かくさ 問題 もんだい や紛争 ふんそう 問題 もんだい を経済 けいざい 上 じょう の利害 りがい に還元 かんげん し、市場 いちば 経済 けいざい の範囲 はんい 内 ない でさまざまな調整 ちょうせい をすることによって解決 かいけつ 可能 かのう だとする見方 みかた である。この立場 たちば では資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 経済 けいざい 原理 げんり をすべての人 ひと が受 う け入 い れている以上 いじょう 、イデオロギー闘争 とうそう のような根本 こんぽん 的 てき な思想 しそう 対立 たいりつ はありえないと主張 しゅちょう された。
しかし民族 みんぞく 的 てき な問題 もんだい や宗教 しゅうきょう 的 てき な問題 もんだい がしばしば国際 こくさい 紛争 ふんそう に発展 はってん することを見 み ても明 あき らかなように、たとえ資本 しほん 主義 しゅぎ の原則 げんそく を全 すべ ての人 ひと が認 みと めたとしてもイデオロギー対立 たいりつ は存在 そんざい しうる。イデオロギーの根本 こんぽん は信条 しんじょう や信念 しんねん 、あるいは党派 とうは 的 てき 利害 りがい であって、経済 けいざい 原理 げんり や社会 しゃかい 問題 もんだい から出発 しゅっぱつ してその思想 しそう を形成 けいせい するのではない。
多元 たげん 主義 しゅぎ 的 てき 立場 たちば からのイデオロギー終焉 しゅうえん 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
エルサレム ユダヤ教 きょう 、キリスト教 きりすときょう 、イスラム教 いすらむきょう の聖地 せいち であるこの都市 とし は、古代 こだい の時代 じだい から民族 みんぞく 問題 もんだい 、宗教 しゅうきょう 問題 もんだい などのイデオロギー闘争 とうそう にさらされてきた。エルサレムを巡 めぐ る問題 もんだい はいまなお解決 かいけつ されていない
最後 さいご に現代 げんだい のような価値 かち の多様 たよう 化 か を認 みと めている時代 じだい 状況 じょうきょう においてはイデオロギーは相対 そうたい 的 てき に合理 ごうり 化 か して眺 なが めることが可能 かのう で、政治 せいじ 的 てき 正当 せいとう 性 せい の根拠 こんきょ は不毛 ふもう な観念論 かんねんろん 争 そう ではなく現実 げんじつ 生活 せいかつ に即 そく した実利 じつり にあるという主張 しゅちょう がある。現代 げんだい の知識 ちしき 人 じん は自己 じこ のイデオロギーを諧謔 かいぎゃく 的 てき に意識 いしき 化 か することで偽 いつわ りの信念 しんねん を見抜 みぬ くことができ、それが行動 こうどう に結 むす びつくことはないと説 と かれた。
これに対 たい しては主 おも に二 ふた つの観点 かんてん から誤 あやま りを指摘 してき することが出来 でき る。まずイデオロギーは語 かた られていることだけにあるのではなく、行動 こうどう や社会 しゃかい 状況 じょうきょう にも含 ふく まれている 。つまりイデオロギーは人々 ひとびと がどう考 かんが えるかという問題 もんだい ではなく、現 げん にある社会 しゃかい 状況 じょうきょう に刷 す り込 こ まれ事実 じじつ 関係 かんけい を偽 いつわ っていることがあり、イデオロギー的 てき 信条 しんじょう を実際 じっさい は信奉 しんぽう していないのにもかかわらず、イデオロギーに奉仕 ほうし していることがある。たとえばある種 しゅ のイデオロギーを掲 かか げた政策 せいさく にそのイデオロギー性 せい を認識 にんしき しつつも実利 じつり を優先 ゆうせん して迎合 げいごう することはイデオロギー的 てき 目的 もくてき に奉仕 ほうし していることであり、イデオロギーから自由 じゆう になっているとは言 い えない。また実利 じつり を最 さい 優先 ゆうせん するこのような考 かんが え方 かた それ自体 じたい がイデオロギー的 てき である 。実利 じつり や観念 かんねん 、社会 しゃかい 状況 じょうきょう 、経済 けいざい 原理 げんり などはそれぞれ別 べつ 次元 じげん の問題 もんだい である。たとえばイデオロギーの含 ふく む世界 せかい 観 かん 、倫理 りんり 観 かん は現実 げんじつ 生活 せいかつ の実利 じつり とは関係 かんけい ない場合 ばあい が多 おお いし、実利 じつり を優先 ゆうせん するかそれとも他 た の何 なん らかの観念 かんねん を優先 ゆうせん するかは個人 こじん のイデオロギー的 てき な問題 もんだい である。イデオロギーが価値 かち の多様 たよう 化 か の中 なか でほかの何 なん らかの価値 かち の間 あいだ に埋没 まいぼつ するという主張 しゅちょう は正 ただ しい見方 みかた ではないといえる。
現代 げんだい の国際 こくさい 情勢 じょうせい を鑑 かんが みても民族 みんぞく 紛争 ふんそう などが激化 げきか しており、戦争 せんそう や紛争 ふんそう の問題 もんだい 点 てん を明 あき らかにするためにイデオロギー的 てき 背景 はいけい を明 あき らかにすることは有意義 ゆういぎ であると考 かんが えられる。現代 げんだい 社会 しゃかい のイデオロギーはより複雑 ふくざつ で感知 かんち しがたいものとなっていると考 かんが えられているため、時代 じだい に即 そく したイデオロギー分析 ぶんせき が必要 ひつよう とされている。
1801年 ねん - デステュット・ド・トラシー『観念 かんねん 学 がく 要理 ようり 大綱 たいこう 』
1841年 ねん - ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教 きょう の本質 ほんしつ 』
1844年 ねん - カール・マルクス『経済 けいざい 学 がく ・哲学 てつがく 草稿 そうこう 』
1846年 ねん - カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』
1867年 ねん - カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『資本 しほん 論 ろん 』
1895年 ねん - エミール・デュルケム『社会 しゃかい 学 がく 的 てき 方法 ほうほう の規準 きじゅん 』
1916年 ねん - ヴィルフレッド・パレート『社会 しゃかい 学 がく 大綱 たいこう 』
1922年 ねん - ジェルジ・ルカーチ『歴史 れきし と階級 かいきゅう 意識 いしき 』
1929年 ねん - カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』、V・N・ヴォロシノフ『マルクス主義 まるくすしゅぎ と言語 げんご 哲学 てつがく 』
1947年 ねん - テオドール・アドルノ、マックス・ホルクハイマー『啓蒙 けいもう の弁証法 べんしょうほう 』
1975年 ねん - ミシェル・ペシュ『言語 げんご 、意味 いみ 論 ろん 、イデオロギー』
1979年 ねん - ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』
^ カンメラーの実験 じっけん についてはアーサー・ケストラー の『サンバガエルの謎 なぞ 』による。しかし、実験 じっけん 結果 けっか を捏造 ねつぞう であるとする見方 みかた も根強 ねづよ い。
^ コリン・ウィルソン の『オカルト』によると、1969年 ねん ロンドンのインペリアル・カレッジで開 ひら かれた国際 こくさい サイバネティクス会議 かいぎ において、デイヴィッド・フォスターが物理 ぶつり 学 がく 的 てき 発見 はっけん の哲学 てつがく 的 てき 意味 いみ について講演 こうえん した中 なか でコンプトン効果 こうか に言及 げんきゅう したという。
^ 左右田 そうだ のいう「社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 一般 いっぱん を指 さ すものと考 かんが えられ、今日 きょう 的 てき に言 い えば共産 きょうさん 主義 しゅぎ の語感 ごかん に近 ちか い。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2014年 ねん 4月 がつ )
上記 じょうき 参考 さんこう 文献 ぶんけん 以外 いがい のイデオロギーを扱 あつか った文献 ぶんけん [ 編集 へんしゅう ]
日本語 にほんご に翻訳 ほんやく されているもの[ 編集 へんしゅう ]
海外 かいがい の文献 ぶんけん [ 編集 へんしゅう ]
マーティン・セリガー『イデオロギーと政治 せいじ 』(Martin Seliger,Ideology and Politics ,1977)