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ディスクール

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ディスクールフランス語ふらんすご: discours)は、言語げんご文化ぶんか社会しゃかいろんじるさい専門せんもん用語ようごとしては[1]、「かれたこと」や「われたこと」といった、言語げんご表現ひょうげんされた内容ないよう総体そうたい意味いみする概念がいねんである。日本語にほんごでは意訳いやくして言説げんせつ(げんせつ)のかたりてることがおおい。

概要がいよう

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当初とうしょ言語げんごがくにおいてかんがされた概念がいねんであったが、ミシェル・フーコーの『言葉ことばもの』および『考古学こうこがく』をて、哲学てつがく社会しゃかいがくでももちいられるようになった。批評ひひょう用語ようごとしての「ディスクール」はフーコーがたくした意味いみいで使つかわれることがおおく、たんなる言語げんご表現ひょうげんではなく、制度せいど権力けんりょくむすびつき、現実げんじつ反映はんえいするとともに現実げんじつ創造そうぞうする言語げんご表現ひょうげんであり、制度せいどてき権力けんりょくネットワークとされる。

フランス語ふらんすごにおける意味いみ物事ものごとかんがえを言葉ことば説明せつめいすることであり、フランス語ふらんすご普通ふつう名詞めいしとしては「演説えんぜつ」「論述ろんじゅつ」などの意味いみつ。しかし、日本語にほんごにおいて「ディスクール」が使つかわれる場合ばあいは、ミシェル・フーコーてきな「言語げんご表現ひょうげん総体そうたい」を意味いみすることがおおい。

フーコーによれば、言語げんごによってなされた個々ここ表現ひょうげんは「エノンセ」(énoncéげんひょう)とばれ、ディスクールはこのエノンセの総体そうたいである。そしてディスクールは、無意識むいしきのうちに制度せいど権力けんりょく不可分ふかぶんむすびついており、抑圧よくあつ排除はいじょ差別さべつなどといった制度せいどてき権力けんりょく構図こうず内包ないほうしている。また、ディスクール自体じたいおおくの人間にんげんによるげんひょう集合しゅうごうであるために個々ここげんひょうにおける作品さくひんせい著作ちょさくせいといった要素ようそはあまり問題もんだいとされない。これにたいしてユルゲン・ハーバーマスは、「理想りそうてき対話たいわじょうきょう」によって権力けんりょくせいはなすことが可能かのうであるといた。またエドワード・サイードは、「オリエンタリズムかんしては」という限定げんていうえではあるが、ディスクールに著作ちょさく自身じしん特徴とくちょうれると著書ちょしょオリエンタリズム』で主張しゅちょうしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 知恵ちえぞう』 2007年版ねんばん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ミシェル・フーコー しる小林こばやし, 康夫やすお松浦まつうら, 寿ことぶきあきら石田いしだ, えいけい へん『フーコー・コレクション〈1〉狂気きょうき理性りせい筑摩書房ちくましょぼうちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2006ねん5がつISBN 978-4-480-08991-5 
  • 中山なかやまはじめ思考しこう用語ようご辞典じてんきた哲学てつがくのために』筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2007ねん2がつISBN 978-4-4800-9049-2 

関連かんれん項目こうもく

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