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(り、Lĭ)とは、中国ちゅうごく哲学てつがく概念がいねん本来ほんらい文字もじ自身じしんから、璞(あらたま)をみがいてうつくしい模様もようすことを意味いみする。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「ける」「すじをつける」といった意味いみ派生はせいする。もと動詞どうしとして使つかわれたが、つぎに「地理ちり」「肌理きめ(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物じぶつのすじ意味いみするようになる。それが抽象ちゅうしょうされ、秩序ちつじょ理法りほう道理どうりなどの使つかわれるようになった。

中国ちゅうごく哲学てつがくにおける「[編集へんしゅう]

」のかたり孔子こうし言行げんこうろくとされる『論語ろんご』や道家みちや古典こてん老子ろうし』にはみえず、『孟子もうし』にはわずかに「条理じょうり」のかたりがみえるのみであるが、戦国せんごく時代じだい後期こうきにはいってからの『そう』(道家どうか)・『荀子』(儒家じゅか)・『韓非子かんぴし』(法家ほうか)などでは多数たすう確認かくにんされている[1]

ぼく道家みちや法家ほうかの「[編集へんしゅう]

ぼく』では、道徳どうとくてき規範きはん使つかわれた。『そう』では自然しぜん理法りほうとしてのがあらわれ、てんむすびついて天理てんりとなったり、「みち」と並列へいれつてき使つかわれ、「みち」が包括ほうかつてき概念がいねんであるのにたいし、「」は個別こべつてき概念がいねんである。『韓非子かんぴし』では「みち」を「ほう」として展開てんかいするとともに、みちとの関係かんけい規定きていした。そこでは、個物こぶつ特殊とくしゅ原理げんりであることが明確めいかくにされている[1]

儒家じゅかの「[編集へんしゅう]

観念かんねん前漢ぜんかんだい思想しそうしょ淮南ワイナン』においてふかめられた一方いっぽう戦国せんごく時代じだい以降いこうかんだいまでに道家どうか影響えいきょうけた儒家じゅか文献ぶんけん[注釈ちゅうしゃく 1]のなかで「窮理きゅうりつきせい」のせつがつくられて、後代こうだいおおきな影響えいきょうをおよぼした[1]

せつ(りきせつ、Lĭ qì shuō)では、「」は事物じぶつ法則ほうそくせいをあらわす概念がいねんで、「」も事物じぶつかたちづくり事物じぶつ生命せいめいあたえるガスじょう物質ぶっしつかんがえられた。ほどは、現象げんしょうする世界せかいおくに、それを秩序ちつじょづける存在そんざい措定そていして、これをび、これを究明きゅうめいすること(窮理きゅうり(きゅうり))が学問がくもん要諦ようたいだとした。

朱子学しゅしがくほどしゅがく)においては、一物いちもつ一理いちりがあり、これを「いちふんこと」としょうした[1]朱子学しゅしがく始祖しそしゅ朱子しゅし)によれば、形而上けいじじょうのもの、形而下けいじかのものであってまったくべつぶつであるが、たがいに単独たんどく存在そんざいすることができず、両者りょうしゃは「不離ふりざつ」の関係かんけいであるとする。また、運動うんどうせいをもち、無為むいであり、運動うんどうって秩序ちつじょあたえるとする。

陽明学ようめいがく始祖しそとしてられるあきらだいおう陽明ようめいは、「条理じょうり運用うんよう」という一体いったいかん表明ひょうめいしている。

仏教ぶっきょうにおける「[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょうにおけるは、道理どうり義理ぎり条理じょうり意味いみし、おさめる、ただすなどの意味いみもちいる。かんやく仏典ぶってんでは、思想しそうてき重要じゅうよう概念がいねんあらわ意味いみで「」という言葉ことばもちいられない。

しかし、中国ちゅうごく仏教ぶっきょうしゃたちは、あずますすむささえ(しとん、314ねん - 366ねん)をはじめとし、かんやく仏典ぶってん解釈かいしゃくし、さらに独自どくじ教理きょうり体系たいけいきずいていくさいに、この中国ちゅうごく伝統でんとう思想しそう重要じゅうよう概念がいねん重用じゅうようした。その場合ばあい、「」は普遍ふへんてき抽象ちゅうしょうてき真理しんりすことがおおく、とくこと(個別こべつてき具体ぐたいてき事象じしょう)とたいになると、現象げんしょう背後はいごにあって現象げんしょう現象げんしょうたらしめている理法りほう意味いみする。

とくとうだいさかんであった華厳けごん(けごん)教学きょうがくでは、「」はもっと重要じゅうよう術語じゅつごである。は「こと」と対比的たいひてき使つかわれ、理事りじ無礙むげ(むげ)は、普遍ふへんてき理法りほう個別こべつてき事象じしょうとが一体いったい不可分ふかぶんで、矛盾むじゅんなく調和ちょうわしていることなどといわれ、教学きょうがく特徴とくちょうしめ言葉ことばとなっている。

仏教ぶっきょうでは、現実げんじつ世界せかいをどのように認識にんしきするかということがもっとも大切たいせつなことであり、その現実げんじつ現実げんじつのままに認識にんしきすることをことい、それを理論りろんづけたり言葉ことばせることをう。その意味いみで、仏典ぶってんはすべてであり、釈迦しゃかがさとった内容ないようは「こと」である。その意味いみで、「不立文字ふりゅうもんじ」はこと内容ないよう言葉ことばにできないことを説明せつめいしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ そのような儒家じゅか文献ぶんけんとしては、『らく』の天理てんりにんよくろん、『えきけいせつでんなどがかかげられる。

参照さんしょう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 大島おおしま(2004)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]