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フリードリヒ・シェリング

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング
Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling
シェリングの肖像しょうぞう
生誕せいたん (1775-01-27) 1775ねん1がつ27にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこくヴュルテンベルク
死没しぼつ (1854-08-20) 1854ねん8がつ20日はつか(79さいぼつ
スイスの旗 スイス・バート・ラガーツ
時代じだい 19世紀せいき哲学てつがく
地域ちいき 西洋せいよう哲学てつがく
学派がくは ドイツ観念論かんねんろん、ポスト・カント主義しゅぎ超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん客観きゃっかんてき観念論かんねんろん1800ねん以降いこう)、イエナ・ロマン科学かがくにおけるロマン主義しゅぎ、Naturphilosophie(ドイツにおける自然しぜん哲学てつがく
研究けんきゅう分野ぶんや 自然しぜん哲学てつがく(Naturphilosophie)、自然しぜん科学かがく美学びがく形而上学けいじじょうがく認識にんしきろん宗教しゅうきょう哲学てつがく
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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775ねん1がつ27にち - 1854ねん8がつ20日はつか)は、ドイツ哲学てつがくしゃである。フィヒテヘーゲルなどとともにドイツ観念論かんねんろん代表だいひょうする哲学てつがくしゃのひとり。

生涯しょうがい

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ヴュルテンベルク公国こうこく現在げんざいバーデン=ヴュルテンベルクしゅうレーオンベルク誕生たんじょうちちルター神学しんがくしゃ東洋とうよう学者がくしゃ教育きょういくしゃであり、シュヴァーベン敬虔けいけん主義しゅぎ支持しじしゃだった。シェリングは家庭かてい知的ちてきまた宗教しゅうきょうてき雰囲気ふんいきつよ影響えいきょうされてそだち、早熟そうじゅく天才てんさいぶりをみせる。シュトゥットガルト近郊きんこうニュルティンゲンラテン語らてんご学校がっこう、さらにテュービンゲンいち区域くいきであるベーベンハウゼン学校がっこうまなんだシェリングは、10代前半ぜんはんギリシアラテン語らてんごヘブライつうじた。

1790ねん、テュービンゲン神学校しんがっこうテュービンゲン大学だいがく付属ふぞく機関きかん)に特例とくれいにより15さい入学にゅうがくゆるされた(規定きていでは20さいから入学にゅうがく)。どう神学校しんがっこうには2ねんまえかれより5さい年上としうえヘーゲルヘルダーリン入学にゅうがくしており、シェリングはりょうにん同室どうしつになった。かれらは、フランス革命かくめい熱狂ねっきょうし、カント代表だいひょうされるあたらしい時代じだい哲学てつがく関心かんしんしめし、進歩しんぽ自由じゆう渇望かつぼうし、そして牧師ぼくしにはならず、思想しそうあるいは文学ぶんがくみちすすんでいく。そしてこの時期じきのシェリングがとく傾倒けいとうしたのは、フィヒテであり、またスピノザであった。卒業そつぎょう家庭かてい教師きょうしをしながら『あく起源きげんについて』(1792ねん)『神話しんわについて』(1793ねん)などの哲学てつがく著述ちょじゅつつづけていた。

1796ねんライプツィヒ大学だいがく自然しぜんがく講義こうぎ聴講ちょうこうはじめる。1798ねん同年どうねんあらわした『世界せかいれいについて』がゲーテみとめられたことがきっかけとなり、イェーナ大学だいがく助教授じょきょうじゅ就任しゅうにんする。1799ねんにはフィヒテがイェーナ大学だいがく辞職じしょくし、シェリングは哲学てつがくせい教授きょうじゅとなった。1800ねん、ヘーゲルをイェーナ大学だいがくわたし講師こうしとして推挙すいきょした。

1802ねんシュレーゲルつまであるカロリーネとの恋愛れんあい事件じけんこし、さらにイェーナで保守ほしゅ対立たいりつした。1803ねん、シュレーゲルと協議きょうぎ離婚りこんしたカロリーネをともなってヴュルツブルク結婚けっこんし、ヴュルツブルク大学だいがく移籍いせきした。1806ねんにはさらにミュンヘン移住いじゅう、バイエルン科学かがくアカデミー総裁そうさい就任しゅうにんした。

ミュンヘンで『人間にんげんてき自由じゆう本質ほんしつ』を執筆しっぴつちゅうだった1809ねんつまカロリーネが療養りょうようさきマウルブロン死去しきょ。シェリングはその1813ねん、ゲーテの紹介しょうかいでパウリーネ・ゴッターと再婚さいこんした。

1820ねんエアランゲン大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅとなり、さらに1827ねんミュンヘン大学だいがく創立そうりつともな哲学てつがく教授きょうじゅ就任しゅうにん。この時期じき、シェリングはバイエルンおう太子たいしマクシミリアン家庭かてい教師きょうしつとめ、国政こくせいにも参画さんかくした。のちにその功績こうせきをもって貴族きぞくじょされた。

1841ねんベルリン大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅ。1845ねんどう教授きょうじゅしょく辞任じにんした。ベルリン大学だいがくより引退いんたいしたのち、シェリングは以後いご公開こうかい講義こうぎおこなわなくなった。

1854ねん8がつ20日はつか療養りょうようかけたスイスバート・ラガーツやまい悪化あっかさせ、家族かぞく見守みまもられて生涯しょうがいえた。

思想しそう

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時期じき区分くぶん

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シェリング思想しそう時期じき区分くぶんには諸説しょせつあるが、『人間にんげんてき自由じゆう本質ほんしつ』(1809ねん以下いか自由じゆうろん』とりゃくす)以降いこう中期ちゅうきまたは後期こうき思想しそうとみなし、それまでの時期じき前期ぜんき思想しそうぶのが一般いっぱんてきである。前期ぜんき思想しそうは、さらに自然しぜん哲学てつがく(1797ねんから1800ねんごろまで)と同一どういつ哲学てつがく(1800ねんごろから1809ねんまで)に細分さいぶんされることがおおい。中期ちゅうき思想しそうという区分くぶんてる場合ばあいには、『自由じゆうろん』『世界せかいしょ世代せだい』(1813ねん)の時期じき中期ちゅうき、『神話しんわ哲学てつがく』『啓示けいじ哲学てつがく』を後期こうきとする。また論者ろんしゃによっては『自由じゆうろん』を独立どくりつした時期じきとみなすものもある。

後年こうねん、1830年代ねんだいのシェリング自身じしん自分じぶん前期ぜんき哲学てつがく消極しょうきょく哲学てつがく後期こうき哲学てつがく積極せっきょく哲学てつがくび、ヘーゲルら哲学てつがくしゃ消極しょうきょく哲学てつがくにのみたずさわっているとみなしている。かれによれば消極しょうきょく哲学てつがくは "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態じたいであるか」についてこたえていない。そしてかれ後期こうきいとなみこそ、後者こうしゃいにこたえる哲学てつがくであるとしている。

シェリングは、終始しゅうし一貫いっかんした特長とくちょうをもった思想家しそうかだったのか、それともクーノー・フィッシャーが「プロテウス・シェリング」とひょうしたように、一貫いっかんしたかくをもたず変転へんてんする思想家しそうかだったのかは、哲学てつがく史上しじょうシェリングが注目ちゅうもくされるようになって、えず問題もんだいとされてきた。19世紀せいき後半こうはんから20世紀せいき前半ぜんはんにおける、しんカント主義しゅぎならびにしんヘーゲル主義しゅぎ哲学てつがく史観しかんにおいてはその変転へんてん強調きょうちょうされることがおおかった。一方いっぽう、1956ねん以降いこうのシェリング研究けんきゅうは、むしろかれ思想しそうかく一定いってい関心かんしん問題もんだい意識いしきがあり、そのどうみちかれ思想しそうぜん展開てんかいかんがえる傾向けいこうしめしている。

後者こうしゃ主張しゅちょうによれば、シェリングの思想しそう古代こだいてきなものへの関心かんしん理性りせいてきなものへの志向しこう、そして両者りょうしゃ緊張きんちょう差異さい高次こうじ同一どういつせいささえられているという確信かくしんによって特徴付とくちょうづけられている。

前期ぜんき( - 1809ねん

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最初さいしょ

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前期ぜんきシェリングにおおきな影響えいきょうおよぼした思想家しそうかとして、プラトン、カント、フィヒテ、スピノザ、ライプニッツげられる。カントの影響えいきょうについては議論ぎろんがあり、フィヒテをかいした影響えいきょうをより重視じゅうしする論者ろんしゃと、カントからの直接ちょくせつ影響えいきょうをより重視じゅうしする論者ろんしゃかれる。

ルター正統せいとう神学しんがく牙城がじょうであったテュービンゲン神学校しんがっこうで、シェリングは、友人ゆうじんヘルダーリンやヘーゲルとともに、むしろ政治せいじおよび思想しそうじょう進歩しんぽてき動向どうこう共感きょうかんし、神学しんがくからはとおざかり哲学てつがくへと転向てんこうする。神学校しんがっこう監視かんしもとで、当時とうじ進行しんこうちゅうだったフランス革命かくめいに、またカントやフィヒテといったあたらしい哲学てつがく動向どうこうかれらは刺激しげきされ、ときにはその言動げんどうについて学校がっこうがわから指導しどうけることすらあった。神学校しんがっこう在学ざいがくちゅうのシェリングの著作ちょさく修士しゅうし論文ろんぶんあく起源きげんについて』(1792ねん)、『神話しんわについて』(1793ねん)にもかれ正統せいとうてき志向しこうあらわれている。

神学校しんがっこう卒業そつぎょう、シェリングはつづけに著作ちょさく刊行かんこうし、注目ちゅうもくあつめる。この時期じきシェリングはフィヒテの知識ちしきがくり、フィヒテの紹介しょうかいしゃとして文壇ぶんだん登場とうじょうした。1794ねん以降いこう雑誌ざっしに『哲学てつがくしょ形式けいしき』(1794ねん)、『自我じがについて』(1795ねん)、『哲学てつがくてき書簡しょかん』などの論文ろんぶん発表はっぴょうするシェリングは、フィヒテからも公衆こうしゅうからも、フィヒテの忠実ちゅうじつ紹介しょうかいしゃ支持しじしゃおもわれていた。

自然しぜん哲学てつがく

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しかしすでにこのころから、シェリングはスピノザやライプニッツにも関心かんしんしめし、フィヒテとは独自どくじ路線ろせんあゆみだしつつあった。「ぼくはスピノザ主義しゅぎしゃになった」と宣言せんげんするヘーゲルあて書簡しょかんはよくられている。また、フィヒテが生涯しょうがいつうじて、哲学てつがく対象たいしょうとしての自然しぜん関心かんしんをもたなかった一方いっぽう、シェリングの場合ばあいかれはやくからしたしんでいた古代こだい哲学てつがく、とりわけプラトンの自然しぜんかんが、その思想しそう展開てんかいおおきく寄与きよしたことが、『ティマイオス草稿そうこう』(1794ねん)などからうかがえる。1796ねんから1798ねん、シェリングはライプツィヒ滞在たいざいし、どう大学だいがく講義こうぎ聴講ちょうこうし、当時とうじはまだ「自然しぜんがく」「自然しぜん哲学てつがく」などとばれていた当時とうじ自然しぜん科学かがくせっした。生物せいぶつがく化学かがく物理ぶつりがくについて当時とうじ最新さいしん知見ちけん経験けいけん刺激しげきされたシェリングは、『イデーン』(1797ねん)をはじめとして自然しぜん形而上学けいじじょうがくてき根拠こんきょけについての著作ちょさく精力せいりょくてき発表はっぴょうする。ここでシェリングの自然しぜん哲学てつがく中心ちゅうしん概念がいねんとなるのがゆう機体きたいである。当時とうじ急速きゅうそくしつつあった生化学せいかがくじょう知見ちけんは、デカルト以来いらい機械きかいろんてき自然しぜんかん対抗たいこうするゆう機体きたいてき自然しぜん観念かんねん注目ちゅうもくあつめていた。シェリングはゆう機体きたい自然しぜん最高さいこう形態けいたいとみなし、それをモデルとして、力学りきがくとうふくめた自然しぜんぜん現象げんしょう動的どうてき過程かていとして把握はあくする図式ずしき提起ていきしようとした。ここでシェリングのゆう機体きたい理解りかいおおきく寄与きよしたとおもわれるのはライプニッツで、『イデーン』には『たんろん』への言及げんきゅうおおくなされている。

また神学校しんがっこう卒業そつぎょうはなばなれになった仲間なかまとシェリングは、相互そうご思想しそうてき影響えいきょうおよぼしあっていた。かれらは文通ぶんつうわし、おたがいの仕事しごと進展しんてんあたらしい着想ちゃくそうつたった。そのような思想しそうてき交流こうりゅうのひとつの産物さんぶつとしてられるのが、1795ねんから1796ねんのある時点じてんにヘーゲルの筆記ひっきされた執筆しっぴつしゃ不明ふめい草稿そうこう通称つうしょうドイツ観念論かんねんろん最古さいこ体系たいけい計画けいかく』である。この草稿そうこうてくる概念がいねんのうち「あたらしい神話しんわ」はシェリングの大著たいちょ超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん体系たいけい』(1800ねん)でも登場とうじょうし、またどういち哲学てつがくにはシェリング芸術げいじゅつ哲学てつがく基本きほんてき概念がいねんのひとつとなる。

どういち哲学てつがく

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1801ねん研究けんきゅうしゃによっては1800ねんに、シェリング哲学てつがくあらたな時期じきがはじまる。差別さべつ同一どういつせい (Identität) を原理げんりとし、絶対ぜったいしゃ自己じこ展開てんかい叙述じょじゅつがくとして遂行すいこうされる哲学てつがく、いわゆる「どういち哲学てつがく」である。

ところで研究けんきゅうしゃによってはどういち哲学てつがく端緒たんしょ分類ぶんるいされる『超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん体系たいけい』は、フィヒテとシェリングのあいだに、重大じゅうだい亀裂きれつしょうじせしめるにいたった。もともとフィヒテはシェリングの自然しぜん哲学てつがくへの関心かんしん好意こういてきにはめていなかったのであるが、いまやシェリングは自然しぜん哲学てつがく超越ちょうえつろんてき哲学てつがく併置へいちする。そのようなシェリングにたいし、自然しぜんわれとみなししたがって哲学てつがく対象たいしょうとは原理げんりてきにみなさないフィヒテは、シェリングにあてた書簡しょかんなどでシェリングの哲学てつがく理解りかい危惧きぐ表明ひょうめいした。自著じちょわたし哲学てつがく体系たいけい叙述じょじゅつ』(1801ねん)にフィヒテがくわえた批判ひはん契機けいきに、シェリングのほうでも次第しだいにフィヒテと自己じことの哲学てつがくてき差異さい自覚じかくし、両者りょうしゃ完全かんぜん決裂けつれつする。フィヒテの転居てんきょにはじまったふたりの文通ぶんつうは1801ねんをもってみ、シェリングは対話たいわへんブルーノ』(1802ねん)などの公刊こうかん著作ちょさくあんにフィヒテを批判ひはんした。1806ねんにはシェリングは名指なざしでフィヒテを批判ひはんするようになる。

どういち哲学てつがくにも、シェリングは自然しぜん哲学てつがくかんする著作ちょさくつづけたが、それにくわえて、芸術げいじゅつについての哲学てつがくてき思索しさく集中しゅうちゅうてきになされた。すでに『超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん体系たいけい』で、芸術げいじゅつ超越ちょうえつろんてき哲学てつがく系列けいれつ終極しゅうきょく位置いちづけられ、「哲学てつがくしんのまた永遠えいえん証書しょうしょであり機関きかん」とばれている。『ブルーノ』『学問がくもんろんだい14こう』(1802/1803ねんなつ講義こうぎ)『芸術げいじゅつ哲学てつがく』(1802/1803ねんふゆ講義こうぎ)では、この立場たちばが、どういち哲学てつがく理論りろんてき前提ぜんていうえあらためて展開てんかいされてくる。観念かんねんてきなものの系列けいれつにおいて、主観しゅかんてきまなべ客観きゃっかんてき行為こういたいし、芸術げいじゅつ観念かんねんてきなものの絶対ぜったいてきなポテンツとして、「芸術げいじゅつ宇宙うちゅうにおいてぜん展示てんじする」。このような芸術げいじゅつは、実在じつざいてき自然しぜんたいしては観念かんねんてき自然しぜんぞうとして優越ゆうえつせいたもちつつ併置へいちされ、また絶対ぜったいてき哲学てつがくたいしてはたいぞうとしてその完成かんせい姿すがたしめせあたえる、いわば人間にんげん最高さいこう精神せいしんてき所産しょさんかつ生産せいさん活動かつどうとして理解りかいされる。そのような最高さいこう芸術げいじゅつは、ただ自然しぜん十分じゅうぶん把握はあくからのみ可能かのうであるとシェリングはかんがえ、古代こだいじんがもっていたそして近代きんだいじんにとってはうしなわれている神話しんわわるものとして(シェリングはここで神話しんわ理想りそうてき姿すがたをギリシア神話しんわのうちに見出みいだす)、まだされていない「あたらしい神話しんわ」を要請ようせいする。ここでのあたらしい神話しんわ内実ないじつには諸説しょせつがあるが、山口やまぐち和子かずこは、教訓きょうくんとしての自然しぜん哲学てつがくにその可能かのうせいをみており、またシェリングが自身じしんそのような自然しぜん哲学てつがく完成かんせいさせる意欲いよくをもっていたとしている(山口やまぐち和子かずこ未完みかん神話しんわあきらよう書房しょぼう)。

どういちへの移行いこう有限ゆうげんせい導出どうしゅつ根拠こんきょをめぐって

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1800ねん、シェリングは、友人ゆうじんヘーゲルがわたし講師こうしとしてイェーナ大学だいがくおしえるよう推挙すいきょした。1800ねんはまた、ヘーゲルの著書ちょしょ『フィヒテ哲学てつがくとシェリング哲学てつがく差異さい』が刊行かんこうされたとしでもあった。シェリングは『ブルーノ』のなかで、ヘーゲルの就職しゅうしょく論文ろんぶん天体てんたい運動うんどうろん』を全面ぜんめんてき借用しゃくようしている。またにんは1802ねんから共同きょうどう雑誌ざっし哲学てつがく批判ひはん雑誌ざっし』を刊行かんこうした。この雑誌ざっしおも自然しぜん哲学てつがくあつかい、1803ねん、シェリングがイェーナから転居てんきょしたことをけに廃刊はいかんになった。シェリングとヘーゲルの協力きょうりょく関係かんけいは、このころをもってわったとかんがえられている。

カロリーネと結婚けっこんした1804ねんは、シェリングにとって私生活しせいかつだけではなく、哲学てつがくじょう転機てんきとしともなった。エッシェンマイヤーに「差別さべつ有限ゆうげんせいはどのようにして差別さべつから導出どうしゅつされるのか」と批判ひはんされたシェリングは、そのいにこたえる必要ひつようかんじ、『哲学てつがく宗教しゅうきょう』(1804ねん)をあらわした。そこではかれふる関心かんしん、「あく起源きげん問題もんだい」がふたたげられており、有限ゆうげんせい生起せいきは、本来ほんらい同一どういつであるもののくずおれ落 (Abfall) によるとされた(なお、この著作ちょさく自体じたい構想こうそうは1802ねんにはすでにあり、本来ほんらいは『ブルーノ』のだい2として構想こうそうされていた。しかしシェリングとしてはなるべくはやくこの問題もんだいろんじることを必要ひつようかんじ、著作ちょさく対話たいわへんとしてではなく散文さんぶん論文ろんぶん発表はっぴょうした)。しかしなぜくずおれ落がこるのか、そのことはここでは十全じゅうぜんにはろんじられていない(ほん著作ちょさくのこの欠点けってんツェルトナーらによって指摘してきされている)。この問題もんだいは、1809ねんの『自由じゆうろん』でふたたおおきくげられることになる。

バイエルン王立おうりつアカデミーの総裁そうさいとして、シェリングは、1807ねん講演こうえん造形ぞうけい芸術げいじゅつ自然しぜんへの関係かんけい』をおこなった。この講演こうえんで、シェリングはどういち哲学てつがく立脚りっきゃくし、当時とうじさかんだったヴィンケルマンしん古典こてん主義しゅぎてき美術びじゅつかん一定いってい価値かちみとめながら、しかし自然しぜんであれ古代こだい芸術げいじゅつであり、外的がいてきな「んだ形態けいたい」ではなく、そこに形態けいたいとしてあらわれてくる精神せいしんそのもの、「きた自然しぜん」を把握はあくし、表現ひょうげんするべきであるといた。これは同地どうちでは非常ひじょう好評こうひょうはくしたが、しかしこの講演こうえん内容ないよう入手にゅうしゅしたヘーゲルはA・W・シュレーゲル書簡しょかん皮肉ひにくまじえた痛烈つうれつ批判ひはんおこなった。少年しょうねん時代じだいからの二人ふたり友情ゆうじょうはいまやわりにちかづいていた。

おなじ1807ねん刊行かんこうされたヘーゲルの『精神せいしん現象げんしょうがく』でシェリングのどういち哲学てつがく批判ひはんされた。シェリングにおいて絶対ぜったいしゃ同一どういつせいにあるとして直観ちょっかんによって把握はあくされるが、ヘーゲルはその媒介ばいかいせいによる把握はあく妥当だとうせい批判ひはんし、むしろ概念がいねんによる哲学てつがく主張しゅちょうした。研究けんきゅうしゃによってはここで批判ひはんされているのは、シェリングではなくその追随ついずいしゃであるシェリング主義しゅぎしゃであるとする(ヘーゲルも同様どうよう釈明しゃくめいをシェリングあて書簡しょかんおこなっている)が、「ピストルからずどんと直観ちょっかん」「すべてのうしくろりつぶす闇夜やみよ」などの表現ひょうげんがシェリングとその直観ちょっかん概念がいねんむすびつけられており、シェリングはこれを非常ひじょう心外しんがいかんじた。これをもってテュービンゲン以来いらい両者りょうしゃ友情ゆうじょう終焉しゅうえんし、以後いごヘーゲルはシェリングにとってもっとも重要じゅうよう論敵ろんてきのひとりとなった。

なか後期こうき(1809ねん - )

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1809ねん出版しゅっぱんされた『人間にんげんてき自由じゆう本質ほんしつ』は、シェリングの思想しそうおおきな転換てんかんてんとみなされている。

シェリングはこの著作ちょさく人間にんげんてき自由じゆう根拠こんきょい、あくへの積極せっきょくてき可能かのうせい人間にんげんのうちにみる。シェリングによれば、人間にんげんあくおこな自由じゆうをもっている、それが人間にんげんてき自由じゆう本質ほんしつであり、もって人間にんげんをすべての存在そんざいしゃ頂点ちょうてんにおいている。これはキリスト教きりすときょうまた西洋せいよう思想しそうにおける「あくをしない自由じゆう」としての自由じゆう把握はあくとはせい反対はんたいにある。そのような自由じゆう人間にんげん可能かのうである根拠こんきょとして、シェリングはかみ存在そんざい様態ようたいについてかんがえる(かみはここで人間にんげん存在そんざい根拠こんきょならない)。かみのうちには、かみ部分ぶぶんであってかみそのものではない「かみのうちの自然しぜん」があり、かみ自身じしん対立たいりつしている。みずからをかくざそうとするかみのうちの自然しぜんは、みずからをあらわそうとするかみ自身じしんにとっての「根底こんてい」(Grund) であって、まれようとする憧憬どうけいかくれようとするちからとのふたつの方向ほうこうせいかみのうちにそうあらそう。かみは、自身じしんのうちなるこの対立たいりつみずか克服こくふくし、あいをもってこれをおおう。かくしてかみとその造物ぞうぶつあらわる。そして造物ぞうぶつ頂点ちょうてんである人間にんげんのなかに、このもくらむ対立たいりつ自由じゆう可能かのうせいとしてふたたあらわれてくるのである。

ここでシェリングは、かれがそれまで積極せっきょくてき肯定こうていしてこなかったかみ人格じんかくせいつよ主張しゅちょうしている。また、いまやシェリングにとって、必然ひつぜんせい自由じゆう対立たいりつは、どういちにおいてそうであったように、たんに絶対ぜったいしゃにおいて、したがって本質ほんしつにおいては無差別むさべつである観念かんねんてき対立たいりつとはいわれていない。実在じつざいするもののうちにたしかに対立たいりつはあって、その対立たいりつ可能かのうにするとそのありよう、さらにはそのような対立たいりつえるものの可能かのうせいが、いまや問題もんだいとされてくるのである。

自由じゆうろん』は、シェリングがフリードリヒ・クリストフ・エーティンガーおよびカトリック神学しんがくしゃフランツ・フォン・バーダーかいしてったヤーコプ・ベーメ思想しそうおおきく影響えいきょうされているといわれる。『自由じゆうろん』の術語じゅつごかみのうちの自然しぜん」「根底こんてい」「そこそこなし)」はベーメの用語ようごほう由来ゆらいする。シェリングは神秘しんぴ思想しそうには比較的ひかくてき好意こういてきで、すでにどういち哲学てつがくからしんプラトン主義しゅぎとの近親きんしんせい指摘してきされている(『ブルーノ』など)。また1812ねん発表はっぴょう対話たいわへん『クラーラ』では、エマヌエル・スヴェーデンボリ思想しそう好意こういてき紹介しょうかいしている。しかしシェリングはあくまでも神秘しんぴ主義しゅぎぜん肯定こうていしているのではなく、悟性ごせいてき論弁ろんべんてき理性りせい主義しゅぎ把握はあくできないぜん理性りせいてきないし非合理ひごうりなものを神秘しんぴ思想家しそうか保持ほじしていることを評価ひょうかし、しかし同時どうじに、そのような表現ひょうげん自体じたい哲学てつがく立場たちばからみて限界げんかいがあるとかんがえていた。

シェリングは『世界せかいしょ世代せだい』(未完みかん)をはじめとする刊行かんこう草稿そうこう著述ちょじゅつつとめるとともに、いくつかの講義こうぎおこなっている。シュトゥットガルトわたし講義こうぎ、エアランゲン講義こうぎなどは、この時期じきのシェリングの体系たいけいじょう重要じゅうよう意義いぎをもつ。この時期じき、シェリングは『自由じゆうろん』の思想しそう発展はってんさせ、かみそのものの生成せいせい自己じこ展開てんかい歴史れきしとしての世界せかい叙述じょじゅつという壮大そうだい構想こうそうんでいた。『世界せかいしょ世代せだい』は世界せかい歴史れきしをその原理げんりであるかみ歴史れきしとして「かみになるまえかみ」である「プリウス」(Prius) からこすこころみであり、過去かこ現在げんざい未来みらいさん構成こうせいからなる予定よていであったが、実際じっさいかれたのは過去かこへんだけであった。過去かこへん草稿そうこう複数ふくすうあることが現在げんざいられている。いわば挫折ざせつしたこの構想こうそうは、しかし後期こうき哲学てつがくの『神話しんわ哲学てつがく』『啓示けいじ哲学てつがく』へとつながっていく。 

1841ねんに、ヘーゲルの死後しご空席くうせきとなったベルリン大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅとして招聘しょうへいされ、同地どうちで『啓示けいじ哲学てつがくとうこうじた。シェリングは保守ほしゅてき思想家しそうかかんがえられており、ヘーゲル主義しゅぎしゃによる急進きゅうしんてき思想しそうたいするいわば防壁ぼうへきとなることをプロイセン王家おうけ期待きたいしていたとかんがえられている。しかし思想しそうかいでは実証じっしょう科学かがく隆盛りゅうせいかい、ヘーゲル主義しゅぎ哲学てつがくひろまっていた当時とうじのベルリンの思想しそうかいに、シェリングは実質じっしつてき影響えいきょうあたえなかった。かれの『啓示けいじ哲学てつがく』をフリードリヒ・エンゲルスセーレン・キェルケゴール聴講ちょうこうしていたことがられているが、二人ふたりとも、ちがった観点かんてんから失望しつぼう表明ひょうめいしている。キェルケゴールの失望しつぼうかんしては、キェルケゴールが関心かんしんをもっていたのは人間にんげん実存じつぞんであるが、シェリングの関心かんしんかみ実存じつぞんにのみあった、ともひょうされる。

シェリングの後期こうき思想しそうは、どう時代じだいじんにはほとんど理解りかいしゃをもたず、ベルリンのかれ講義こうぎにはほとんど聴講ちょうこうしゃがいなかった。その後期こうき思想しそう評価ひょうかされるのは、ほぼ100ねんたねばならない。

テキスト

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主要しゅよう著作ちょさく

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  • あく起源きげんについて』(1792ねん
  • 神話しんわについて』(1793ねん
  • 哲学てつがくしょ形式けいしき』(1794ねん
  • 自我じがについて』(1795ねん
  • 自然しぜん哲学てつがくについてのしょ考案こうあん』(1797ねん
  • 世界せかいれいについて』(1797ねん
  • 超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん体系たいけい』(1800ねん
  • わたし哲学てつがく体系たいけい叙述じょじゅつ』(1801ねん
  • 『ブルーノ』(1802ねん
  • 芸術げいじゅつ哲学てつがく』(1802 - 1803ねん講義こうぎ
  • 哲学てつがく宗教しゅうきょう』(1804ねん
  • ぜん哲学てつがく、とりわけ自然しぜん哲学てつがく体系たいけい』(1804ねん遺稿いこう
  • 造形ぞうけい芸術げいじゅつ自然しぜんへの関係かんけい』(1807ねん講演こうえん
  • 人間にんげんてき自由じゆう本質ほんしつについて』(1809ねん
  • 世界せかいしょ世代せだい』(1811ねん遺稿いこうにいくつか改稿かいこうされたはんがある)
  • 『クラーラ』(1812ねん
  • 『サモトラケのかみ々について』(1815ねん講演こうえん
  • 神話しんわ哲学てつがく』(1842ねん講義こうぎ
  • 啓示けいじ哲学てつがく』(1854ねん講義こうぎ

刊行かんこうじょうきょう

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シェリングの著作ちょさくちゅう生前せいぜん刊行かんこうされたのは、1809ねんの『自由じゆうろん』が最後さいご死後しごに、著述ちょじゅつ一部いちぶ息子むすこK.A.シェリングにより編集へんしゅうされ、コッタ書店しょてんより全集ぜんしゅうとして出版しゅっぱんされた。これは生前せいぜん刊行かんこうされた著作ちょさく一部いちぶ講義こうぎろくからなっていた。

この息子むすこばん全集ぜんしゅう」を、20世紀せいきなかば、シュレーターがさい編集へんしゅうし、配列はいれつえたうえでファクシミリばん出版しゅっぱんした。さらにこれにもとづき一部いちぶ収録しゅうろくするかたちでシェリングの著作ちょさくしゅうがズーアカンプ文庫ぶんこから出版しゅっぱんされた。

20世紀せいき後半こうはんになり「全集ぜんしゅう」に収録しゅうろくされていなかった『世界せかいしょ世代せだい』などの草稿そうこうが、単行本たんこうぼんかたち出版しゅっぱんされた。

現在げんざい、バイエルンアカデミー監修かんしゅう企画きかくにより、著作ちょさく書簡しょかん草稿そうこうとうからなる決定けっていばん全集ぜんしゅうが、長期間ちょうきかんかけ刊行かんこうちゅうである。ほん全集ぜんしゅう出版しゅっぱん計画けいかくから、刊行かんこう予定よていとされた重要じゅうよう草稿そうこう(『ティマイオス草稿そうこう』など)は、単行本たんこうぼんかたち出版しゅっぱんされ、またきゅう東独とうどくがわ所蔵しょぞうされていたベルリン時代じだい草稿そうこう整理せいりも、統一とういつ以降いこうの1990年代ねんだいより積極せっきょくてきすすんでいる。

おも日本語にほんごやく

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1920年代ねんだいから個別こべつ著作ちょさく翻訳ほんやくされ、どういちから自由じゆうろんまで著作ちょさく大半たいはん訳書やくしょがある。

網羅もうらした全集ぜんしゅうとう出版しゅっぱんはされていなかったが、どういちから後期こうき通観つうかんする下記かき刊行かんこうちゅう

ぜん5かんぜん7さつ予定よていだったが、上記じょうき版元はんもと変更へんこう新版しんぱんぜん7さつ改訂かいてい再刊さいかん
  • 高橋たかはし昌久まさひさわけ『サモトラキのかみ々』「マテーシス古典こてん翻訳ほんやくシリーズ」きょうみどりしゃ、2024ねん

文献ぶんけん情報じょうほう

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  • 高橋たかはし明彦あきひこシェリングにおける分裂ぶんれつ」『Stufe』だい4ごう上智大学じょうちだいがく大学院だいがくいんSTUFE刊行かんこう委員いいんかい、1984ねん10がつ、33-48ぺーじISSN 02852551NAID 120005879697 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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