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超越ちょうえつろん哲学てつがく

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超越ちょうえつろん哲学てつがく(ちょうえつろんてつがく、どく: Transzendentalphilosophie, えい: transcendental philosophy)とは、カント中心ちゅうしんとし、フィヒテシェリングなどにもられる哲学てつがくたいする態度たいど超越ちょうえつろんてき哲学てつがく(ちょうえつろんてきてつがく)ともわれる。ふるくは、さきけん哲学てつがく先験的せんけんてき哲学てつがくという用語ようご使つかわれていたが、アプリオリ(a priori)の訳語やくごあたえられる「先天的せんてんてき」という表現ひょうげんまぎらわしいため、現在げんざいではられない。なお、Transzendentalに「超越ちょうえつろんてき」という訳語やくご最初さいしょ提案ていあんしたのは、九鬼くき周造しゅうぞうであるといわれている。なお、カントに限定げんていしていえば、批判ひはん哲学てつがく(kritische Philosophie)としている内容ないようはほぼおなじであるとってい。

認識にんしきろんてき分類ぶんるいでは、超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん先験的せんけんてき観念論かんねんろん超越ちょうえつろんてき主観しゅかん主義しゅぎどく: Transzendentaler Idealismus, えい: transcendental idealism)というくくりにれられたりもする[1]

概要がいよう

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カントによれば、哲学てつがくとは「すべての哲学てつがくてき認識にんしきのシステム」であり、超越ちょうえつろんてきとは、先天的せんてんてきとはことなり「如何いかにして我々われわれ先天的せんてんてき認識にんしき可能かのうであるのかその可能かのうせい根拠こんきょについての認識にんしき」のことであり、超越ちょうえつろん哲学てつがくはまさにこうした根拠こんきょ哲学てつがくであるとっている。

ちなみに、「Transzendence=超越ちょうえつ」から派生はせいした形容詞けいようしは、「Transzendental=超越ちょうえつろんてき」と「Transzendent=超越ちょうえつてき」の種類しゅるいがあり、混同こんどうしやすいが、意味合いみあいはなるものである。

超越ちょうえつろんてき認識にんしきとは、われわれが一般いっぱん対象たいしょう認識にんしきする仕方しかたかんする一切いっさい認識にんしき意味いみし、超越ちょうえつてき原則げんそくとは、制限せいげんえることをめいじるような原則げんそく意味いみする。

なおおな語源ごげんtresから派生はせいし、ラテン語らてんごのtrans(える)とpasser(とおりすぎる)に分解ぶんかいできる英語えいごにtrespass(侵犯しんぱんする)がある。

用語ようご解説かいせつ歴史れきしてき経緯けいい

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超越ちょうえつろんてき」(どく:Transzendental、えい:transcendental)という語彙ごいは、「超越ちょうえつてき」(どく:Transzendent、えい:transcendent)とのたいかんがえると、かりやすくなる。

  • 超越ちょうえつてき」(どく:Transzendent、えい:transcendent) - 「超越ちょうえつろんてき」(どく:Transzendental、えい:transcendental)

西洋せいよう哲学てつがくにおいては、古代こだいギリシャピタゴラス教団きょうだんエレアそうじて「イタリア学派がくは」)・プラトン以来いらい本質ほんしつ存在そんざい真実しんじつ存在そんざいは、知覚ちかく経験けいけん対象たいしょうとはならない、それらをえたもの、すなわち「超越ちょうえつてき」なものであるというかんがかたが、主流しゅりゅう一角いっかくめてきた。

(もちろん、「この摂理せつり人智じんちえる、かみ々のみぞる」といった発想はっそう自体じたいは、(地域ちいき同様どうように)哲学てつがく登場とうじょう以前いぜん神話しんわ時代じだいから脈々みゃくみゃく継承けいしょうされてきた発想はっそうである。)

これらの哲学てつがくしゃたちは、こうした知覚ちかく経験けいけんえた「超越ちょうえつてき」な実在じつざいには、理性りせい論理ろんり数学すうがくなどによってのみ接近せっきん到達とうたつできるとかんがえていた。

こうした古代こだいギリシャ特有とくゆうの「理性りせい主義しゅぎ」「論理ろんり主義しゅぎてき発想はっそう作法さほうは、キリストきょう文化ぶんかとの混交こんこう融合ゆうごうによって、中世ちゅうせい神学しんがくスコラがく)へとがれ、さらには近代きんだい哲学てつがく大陸たいりく合理ごうりろんにも継承けいしょうされるが、そもそも根拠こんきょとなる「理性りせい自体じたい規定きてい曖昧あいまいなため、そこでされる認識にんしき内容ないようは「独断どくだんろん」のそしりをまぬかれないものであった。また他方たほうで、経験けいけん依拠いきょするイギリス経験けいけんろんにおいては、はしから経験けいけんえた「超越ちょうえつてき」な実在じつざいについての認識にんしきなど期待きたいできるはずもなく、ヒューム懐疑かいぎろんいたってそれは決定的けっていてきなものとなった。

こうした状況じょうきょうたりにしたカントは、「理性りせい自体じたい吟味ぎんみ批判ひはん」をつうじて、「人間にんげん適正てきせい理性りせいてき認識にんしきは、どこまで可能かのうなのか」「人間にんげん理性りせいは、経験けいけんえた(先験的せんけんてきな)「超越ちょうえつてき実在じつざい(すなわちもの自体じたい)と、どのようにかかわるべきなのか、かかわりるのか」についての、境界きょうかい策定さくてい基準きじゅん設定せってい(メタ規定きてい)をおこなうことで、「超越ちょうえつてき」なものにたいする考察こうさつ関与かんよ(すなわち形而上学けいじじょうがく)の余地よちを、適正てきせいかたち復興ふっこうしようとこころみた。これがカントの「批判ひはん哲学てつがく」であり、「超越ちょうえつろん哲学てつがく」(さきけん哲学てつがく)である。

したがって、ここでいう「超越ちょうえつろんまと」(どく:Transzendental、えい:transcendental)哲学てつがくという表現ひょうげんは、

  • 経験けいけんえた(先験的せんけんてきな)「超越ちょうえつてき実在じつざい(すなわちもの自体じたい)- にまつわる適正てきせい理性りせい関与かんよ (- の境界きょうかい策定さくてい基準きじゅん設定せってい(メタ規定きてい)) - についての事前じぜんてき/先行せんこうてき/自覚じかくてき

哲学てつがくということであり、「超越ちょうえつ(についての)前提ぜんていろんまと」「超越ちょうえつ(についての)メタろんまととうともいいかえることができる。

類似るいじてき用法ようほう

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なお、こうした「XXまと」と「XXろんまと」という語彙ごい使つかけは、たとえば、マルティン・ハイデッガーの『存在そんざい時間じかんとうにおける、

  • 存在そんざいてき」(どく:Ontisch、えい:ontic) - 「存在そんざいろんてき」(どく:Ontologische、えい:ontological)
  • 実存じつぞんてき」(どく:Existenziell、えい:existent) - 「実存じつぞんろんてき」(どく:Existenzial、えい:existential)

のように、カントののちにもがれた。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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