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だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく
الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الاشتراكية العظمىا
リビア王国
アラブ共和国連邦
1969ねん - 2011ねん リビア国民評議会
リビアの国旗 リビアの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: وحدة ، حرية ، اشتراكية(アラビア
統一とういつ自由じゆう社会しゃかい主義しゅぎ
国歌こっか: الله أكبر(アラビア
アッラーフは偉大いだいなり
リビアの位置
だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく位置いち
公用こうよう アラビア
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょう
首都しゅと トリポリ
最高さいこう指導しどうしゃおよ革命かくめい指導しどうしゃ
1969ねん - 2011ねんムアンマル・アル=カッザーフィー
全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎ書記しょきちょう
1977ねん - 1979ねん ムアンマル・アル=カッザーフィー
2010ねん - 2011ねんムハンマド・アブー・アル=カーシム・アル=ズワイ
全国ぜんこく人民じんみん委員いいんかい書記しょきちょう
1977ねん - 1979ねんアブドゥルアーティー・アル=オベイディー英語えいごばん
2006ねん - 2011ねんバグダーディ・アル=マフムーディ
面積めんせき
2008ねん1,760,000km²
人口じんこう
2010ねん6,550,000にん
変遷へんせん
王政おうせい廃止はいしリビア・アラブ共和きょうわこく成立せいりつ 1969ねん9がつ1にち
だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく移行いこう1977ねん
内戦ないせん勃発ぼっぱつ2011ねん2がつ15にち
政権せいけん崩壊ほうかい2011ねん8がつ23にち
カダフィ死亡しぼう2011ねん10がつ20日はつか
全土ぜんど開放かいほう宣言せんげん内戦ないせん終結しゅうけつ2011ねん10がつ23にち
通貨つうかリビア・ディナール
時間じかんたいUTC +2
現在げんざいリビアの旗 リビア
リビア歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。
リビアの先史せんし時代じだい英語えいごばん

リビア ポータル

だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこくアラビア: الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى‎)は、かつてきたアフリカリビア存在そんざいした共和きょうわせい国家こっかである。首都しゅとトリポリき、行政ぎょうせい機関きかん一部いちぶシルテいていた。1969ねんから1977ねんまでのリビア・アラブ共和きょうわこくわせて記述きじゅつする。

アフリカ世界せかい地中海ちちゅうかい世界せかいアラブ世界せかい一員いちいんであり、アフリカ連合れんごうアラブ連盟れんめいアラブ・マグレブ連合れんごうにも加盟かめいしていた。

2011ねん2がつ17にちベンガジ根拠地こんきょちとする勢力せいりょくリビア国民こくみん評議ひょうぎかいとのあいだ内戦ないせんはじまり(2011ねんリビア内戦ないせん)、2011ねん8がつ23にち首都しゅとトリポリが評議ひょうぎかいぐん攻勢こうせいによって陥落かんらくし、ムアンマル・アル=カッザーフィー殺害さつがいされたことで滅亡めつぼうした。

国名こくめい

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正式せいしき名称めいしょうは、アラビア: الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى‎(ラテン文字もじ転写てんしゃ : al-Jamāhīrīya al-‘Arabīya al-Lībīya al-Sha‘bīya al-Ishtirākīya al-‘Uẓmā アル=ジャマーヒーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=リービーヤ・アッ=シャアビーヤ・アル=イシュティラーキーヤ・アル=ウズマー)。通称つうしょうは、ليبيا(Lībiyā リービヤー)。

公式こうしき英語えいご表記ひょうきは、Great Socialist People's Libyan Arab JamahiriyaGreat がついたのは1986ねんのことである。通称つうしょうは、Libya

ジャマーヒリーヤとは最高さいこう指導しどうしゃムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐たいさ)による造語ぞうごで、「大衆たいしゅうによる共同きょうどう体制たいせい」といったような意味いみつ。

日本語にほんご表記ひょうきでは、だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく。また、社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんリビア・アラブこくやく場合ばあいもある。後者こうしゃ名称めいしょうは2004ねんまでもちいられたが、CIA Factbook名称めいしょう変更へんこうともない、日本にっぽん外務省がいむしょうウェブサイトとう)でも正式せいしき国名こくめいとして前者ぜんしゃ名称めいしょう採用さいようされた(ただし、おな外務省がいむしょうによる表記ひょうきであっても各種かくしゅ条約じょうやく協定きょうてい和訳わやく文中ぶんちゅうではその後者こうしゃ名称めいしょうもちいられていた)。

  • 1969ねん - 1977ねん:リビア・アラブ共和きょうわこく
  • 1977ねん - 2004ねん社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんリビア・アラブこく
  • 2004ねん - 2011ねんだいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく

歴史れきし

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1951ねんキレナイカトリポリタニアフェッザーンの3しゅうによる連合れんごう王国おうこくとして独立どくりつしたリビア連合れんごう王国おうこく1963ねん連邦れんぽうせい廃止はいしされ、リビア王国おうこくへ)の国王こくおうサヌーシー教団きょうだん指導しどうしゃだったイドリース1せいを、1969ねん9月1にちナセル主義しゅぎしゃだった27さい大尉たいいムアンマル・アル=カッザーフィー同志どうし青年せいねん将校しょうこうたちがクーデター追放ついほうして、リビア・アラブ共和きょうわこく成立せいりつ。なお、トルコ滞在たいざいちゅうだった国王こくおうイドリースは退位たいいし、共和きょうわこく最高さいこう政治せいじ機関きかんである「革命かくめい指導しどう評議ひょうぎかい」をひきいるカッザーフィーが事実じじつじょう元首げんしゅとなった。

1973ねんより、カッザーフィーはイスラーム主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎやナセル主義しゅぎもとづく国家こっか建設けんせつ目指めざした「文化ぶんか革命かくめい」を開始かいしし、「ジャマーヒリーヤ」という独自どくじ直接ちょくせつ民主みんしゅせい推進すいしん全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎ設置せっち、『みどりしょ』の執筆しっぴつなどをすすめていった。1977ねん3月2にちには全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎが「人民じんみん主権しゅけん確立かくりつ宣言せんげん英語えいごばん」をおこない、リビア・アラブ共和きょうわこく廃止はいしされ「社会しゃかい主義しゅぎリビア・アラブ・ジャマーヒリーヤこく」(1986ねんに「だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく」と改称かいしょう)へと移行いこうした。以後いご1980ねんにかけて行政ぎょうせい機構きこう経済けいざいシステムの変革へんかくおこなわれ、共和きょうわこく時代じだいいちとう独裁どくさい政党せいとうであるアラブ社会しゃかい主義しゅぎ連合れんごうのほか、革命かくめい指導しどう評議ひょうぎかい行政ぎょうせい機関きかん内閣ないかく元首げんしゅ憲法けんぽう私有しゆう経済けいざいなどが廃止はいし解体かいたいされていった。

対外たいがいてきにはソ連それん接近せっきんして援助えんじょけた。1970年代ねんだいから1990年代ねんだいまで数々かずかずテロ支援しえんしたため、アメリカイギリスなどの欧米おうべい諸国しょこく敵対てきたいした。1985ねん発生はっせいした西にしヨーロッパでの一連いちれんのテロ事件じけんにより経済けいざい制裁せいさいけ、1986ねんにはアメリカぐんによって空爆くうばくリビアばくげき)されたが、その報復ほうふくとして1988ねんにパンナム爆破ばくはパンアメリカン航空こうくう103便びん爆破ばくは事件じけん)した。このため、アメリカからはテロ支援しえん国家こっか指定していされた。

このような好戦こうせんてき外交がいこう姿勢しせいや、相次あいつ政府せいふ主導しゅどうのテロにより、1992ねんにリビアは国連こくれんによって経済けいざい制裁せいさいけ、1999ねん経済けいざい制裁せいさい解除かいじょされるまで経済けいざい衰退すいたいすすんだ。

2001ねん同時どうじ多発たはつテロ事件じけん以降いこう一転いってんしてアメリカと協調きょうちょう路線ろせんをとるようになり、2006ねん5月15にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはリビアとの国交こっこう正常せいじょう発表はっぴょうし、リビアはテロ支援しえん国家こっか指定していから解除かいじょされた。

一方いっぽう成果せいかせないおやアラブ外交がいこうからおやアフリカ外交がいこうへとシフトし、アフリカ合衆国がっしゅうこく構想こうそうかかげ、アフリカ連合れんごううち主導しゅどうけんにぎろうとした。

2009ねん国連こくれん総会そうかいとアフリカ連合れんごうで、2010ねんにアラブ連盟れんめい議長ぎちょうこくつとめた[1]

2010ねんすえより周辺しゅうへんこくにてアラブ革命かくめい発生はっせいしたが、2011ねん1がつ21にち三菱みつびし東京とうきょうUFJ銀行ぎんこうが「カダフィ大佐たいさによる統治とうち体制たいせいらぎはられない」「リスクがさらにたかまるというところにはいたっていない」とリビアやエジプトへの波及はきゅう否定ひていするレポート[2]すなど、だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく体制たいせい依然いぜん磐石ばんじゃくとする見方みかたもありおおくの日本人にっぽんじん現地げんち駐在ちゅうざいつづけていた。

しかし2011ねん2がつ、カッザーフィーの辞職じしょくもとめる非常ひじょう小規模しょうきぼはん政府せいふデモが発生はっせい[3]各地かくち武装ぶそう蜂起ほうきしたはん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょくリビア国民こくみん評議ひょうぎかい)にたいして、革命かくめい指導しどうしゃカッザーフィーやその二男じなん人民じんみん社会しゃかい指導しどう総合そうごう調整ちょうせいかんサイフ・アル・イスラームが直々じきじきにメディアに出演しゅつえんしてはん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょく鎮圧ちんあつとなえるにいたった。この結果けっかリビアぐんやアフリカ諸国しょこくなどからの外国がいこくじん傭兵ようへい部隊ぶたいによって首都しゅとふく各地かくちはん体制たいせいへの重火器じゅうかき攻撃こうげき実施じっしされ、リビアはこれ以後いごやく半年はんとしあいだ内戦ないせん状態じょうたいおちいった。

当初とうしょはん体制たいせい優勢ゆうせいだったものの、はん体制たいせいおも傭兵ようへい構成こうせいされていたのと、民衆みんしゅう支持しじられていなかったことから、徐々じょじょ政権せいけんがわ反転はんてん攻勢こうせいをかけ、一時いちじはん体制たいせい拠点きょてんだったベンガジ進攻しんこう寸前すんぜんにまでいたった。しかし、NATO(北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう)を中心ちゅうしんとした欧米おうべい諸国しょこくやアラブ諸国しょこくはん体制たいせい軍事ぐんじてき支援しえんしたことで劣勢れっせい回避かいひされ、しばらくこうちゃく状態じょうたいつづいたのちミスラタめていた政権せいけんがわ撤退てったいして以降いこうはん体制たいせいがわいきおいをかえし、8がつ23にち首都しゅとトリポリ陥落かんらくしたため、40ねん以上いじょうつづいたカッザーフィー政権せいけんだいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく)は事実じじつじょう崩壊ほうかい。カッザーフィーはトリポリ陥落かんらく拠点きょてんスルト(シルテ)にうつし、リビア国民こくみん評議ひょうぎかいとの戦闘せんとう継続けいぞくしていたが、10がつ20日はつか最後さいご拠点きょてんスルトが陥落かんらくし、カッザーフィー自身じしん死亡しぼうしたことによりだいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく名実めいじつども終焉しゅうえんした。23にちには、リビア国民こくみん評議ひょうぎかい全土ぜんど解放かいほう宣言せんげんおこない、半年はんとしあいだつづいた内戦ないせん終結しゅうけつしたが[4]、そのふたた2014ねんリビア内戦ないせんまねくことになる。

これ以降いこうは「リビア」を参照さんしょう

政治せいじ

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1977ねん以後いごだいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく人民じんみん主権しゅけんもとづく直接ちょくせつ民主みんしゅせい宣言せんげんし、ジャマーヒリーヤばれる独特どくとく政体せいたいをとる国家こっかであった。成文せいぶん憲法けんぽう存在そんざいせず、1977ねん制定せいていされた人民じんみん主権しゅけん確立かくりつ宣言せんげんが、その機能きのうたした。またイスラムほうも、主要しゅようほうみなもととされていた。

1969ねん以来いらい、アラブ社会しゃかい主義しゅぎ連合れんごうによるいちとう独裁どくさい体制たいせいかれていたが、1977ねんをもってどうとう解散かいさんし、とう権能けんのうはそのまま国家こっか機関きかんへと移行いこうした。以来いらい政党せいとう存在そんざいしなかった。

だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく直接ちょくせつ民主みんしゅせい標榜ひょうぼうするくにで、建前たてまえじょう国民こくみん代表だいひょうからなる議会ぎかい存在そんざいしないが、事実じじつじょうそれにわる仕組しくみとして全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎ(General People's Congress)がかれていた。議員ぎいん内閣ないかく相当そうとうする全国ぜんこく人民じんみん委員いいんかいかく書記しょき大臣だいじん)のほか、かくマハッラ(まち)、シャアビーア(けん)、学校がっこう職場しょくばなどにかれている人民じんみん委員いいんかいなどから法律ほうりつ役職やくしょく指定していされており、2006ねん時点じてんで1000めい前後ぜんこう法律ほうりつじょう、リビアに元首げんしゅ存在そんざいしないが、外国がいこく大使たいし信任しんにんじょう接受せつじゅ全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎ書記しょきおこなことさだめられており、どう書記しょき事務じむてきには元首げんしゅ代行だいこう役割やくわりになっていた。なお、基礎きそ人民じんみん会議かいぎには、原則げんそく18さい以上いじょうぜん成人せいじん参加さんか義務ぎむづけられており、としすうかい会期かいきちゅう市内しない商店しょうてん閉店へいてん余儀よぎなくされたが、実際じっさい会議かいぎ参加さんかするのは政権せいけん忠実ちゅうじつ一部いちぶ国民こくみんかぎられ、そこでの討議とうぎ内容ないようもあらかじめさだめられ不規則ふきそく発言はつげんゆるされなかった。

内閣ないかく相当そうとうする全国ぜんこく人民じんみん委員いいんかいのメンバーは、全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎにおいて選出せんしゅつされ、首相しゅしょう相当そうとうする役職やくしょく全国ぜんこく人民じんみん委員いいんかい書記しょきだった。

最高さいこう司法しほう機関きかん最高さいこう裁判所さいばんしょで、そのした高等こうとう裁判所さいばんしょだいいちしん裁判所さいばんしょ存在そんざいした。また、くに治安ちあんかんする事案じあんあつか特別とくべつ裁判所さいばんしょとして人民じんみん裁判所さいばんしょかれていたが、のち廃止はいしされた。なお、おおくのイスラム国家こっか同様どうよう死刑しけい制度せいどがあった。

国内外こくないがいには、民主みんしゅ主義しゅぎ政権せいけん確立かくりつ目指めざリビア民主みんしゅ運動うんどうリビア国民こくみん連盟れんめい、カッザーフィー政権せいけん打倒だとうそのものを目的もくてきとするリビア救済きゅうさい国民こくみん戦線せんせん、そして過激かげきテロ組織そしきイスラム殉教者じゅんきょうしゃ運動うんどうまで、さまざまな目的もくてきをもつはん政府せいふ組織そしきがあった。はん政府せいふ勢力せいりょく結集けっしゅううごきもロンドン中心ちゅうしんられたが、おう党派とうは(イドリス国王こくおうおとうとまご王位おうい継承けいしょうしゃ)からイスラム過激かげき民主みんしゅ主義しゅぎまで思惑おもわく様々さまざまであり、内戦ないせん勃発ぼっぱつまでながらくはん政府せいふ勢力せいりょく影響えいきょうりょく限定げんていてきとみられてきた。

最高さいこう指導しどうしゃ

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ムアンマル・アル=カッザーフィー

直接ちょくせつ民主みんしゅせいであるジャマーヒリーヤの建前たてまえうえからはリビアには国家こっか元首げんしゅ存在そんざいしないことになっていた。1969ねん9がつ1にち革命かくめい以来いらい革命かくめい指導しどうしゃ称号しょうごうつムアンマル・アル=カッザーフィーが事実じじつじょう最高さいこう指導しどうしゃであり、なおかつ国政こくせい実権じっけんにぎっていた。ただし、公的こうてき役職やくしょくには1970年代ねんだいなかばからいていないことから全国ぜんこく人民じんみん会議かいぎなどのおおやけ会議かいぎには出席しゅっせきせず、会議かいぎ会議かいぎ出席しゅっせきしゃの「要請ようせい」をけるかたち国民こくみんへの「助言じょげん」として事実じじつじょう施政しせい方針ほうしん演説えんぜつおこなった。カッザーフィーは1990年代ねんだい、パンナム爆破ばくは事件じけん容疑ようぎしゃわた問題もんだい当時とうじ国連こくれんコフィー・アナン事務じむ総長そうちょう会談かいだんしたさい、「わたし大統領だいとうりょうでも首相しゅしょうでもないので、(容疑ようぎしゃ2にんを)わた権限けんげんがない」と発言はつげんした。

なお、「革命かくめい指導しどうしゃ」であるカッザーフィーは、各国かっこくマスコミなどでは一般いっぱんてきカダフィ大佐たいさばれており、事実じじつじょう最高さいこう指導しどうしゃが「大佐たいさ」であることに違和感いわかんきもあった。カッザーフィーが「大佐たいさ」とばれている理由りゆうについては諸説しょせつがある(ムアンマル・アル=カッザーフィー#名称めいしょう表記ひょうきこう参照さんしょう)。

日本にっぽんこく天皇てんのうとカッザーフィーが慶事けいじとう祝電しゅくでん答電とうでんおく場合ばあい日本語にほんごでは「リビアこく革命かくめい指導しどうしゃカダフィ閣下かっか」と表記ひょうきされた。

2009ねん10月、カッザーフィーの次男じなんのサイフ・アル・イスラームが「人民じんみん社会しゃかい指導しどう総合そうごう調整ちょうせいかん」に任命にんめいされ、有力ゆうりょく後継こうけいしゃとなった。

軍事ぐんじ

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陸海空りくかいくう三軍さんぐんがある。2011ねん騒乱そうらんさいしては、アフリカ諸国しょこくからの傭兵ようへい注目ちゅうもくされた[5]。 1986ねんから1987ねんにかけてチャド内戦ないせん介入かいにゅうしたが、トヨタ戦争せんそうでチャドにやぶれた。

2011ねんリビア内戦ないせんでは、はん体制たいせいリビア国民こくみん評議ひょうぎかい武装ぶそう勢力せいりょくNATOなどはんカダフィ勢力せいりょく相手あいて戦闘せんとうおこなったが、カダフィ政権せいけん崩壊ほうかいによりリビアぐん一旦いったん消滅しょうめつした。その、リビア暫定ざんてい政権せいけんにより、正規せいきぐん再編さいへんされる。

  • ぐんしゅ武装ぶそう人民じんみんぐん陸軍りくぐん)、海軍かいぐん防空ぼうくうぐん空軍くうぐん部隊ぶたいふくむ)
  • 最年少さいねんしょう兵士へいしは、17さい
  • 軍事ぐんじは、13おくドル。GDPは、3.9%。
  • リビア海軍かいぐん艦艇かんてい一覧いちらん

かく開発かいはつ

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もともと核兵器かくへいき開発かいはつ疑惑ぎわくがあったが、アメリカおよびイギリスとの9ヶ月かげつにわたる秘密ひみつ交渉こうしょうのち2003ねん12月に核兵器かくへいきなど大量たいりょう破壊はかい兵器へいき開発かいはつをしていた事実じじつみとめ、即時そくじかつ無条件むじょうけん廃棄はいき表明ひょうめいIAEA査察ささつれ、核兵器かくへいき全廃ぜんぱいした。これ以降いこう、アメリカとの半年はんとし国交こっこう回復かいふくなど各国かっこくとの関係かんけい改善かいぜんすすみ、2006ねんテロ支援しえん国家こっか指定してい解除かいじょされた。これはかく放棄ほうき見返みかえりを先例せんれいリビア方式ほうしきばれる)となったが、そのNATOのリビア介入かいにゅうでの武力ぶりょく行使こうしまねいた。リビアが核兵器かくへいき保有ほゆうしていたらNATOのリビア空爆くうばくなどの武力ぶりょく行使こうしきわめて困難こんなんであった(ただし、リビアが核兵器かくへいき開発かいはつ放棄ほうきした2003ねん段階だんかい核兵器かくへいき保有ほゆうには程遠ほどとおく、かりに2003ねん以降いこう核兵器かくへいき開発かいはつ継続けいぞくしていたとしても、NATOがリビア内戦ないせん介入かいにゅうした2011ねんまでに核兵器かくへいき保有ほゆう実現じつげんし、十分じゅうぶん抑止よくしりょくとするのは不可能ふかのうであったとかんがえられる)。

国際こくさい関係かんけい

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在外ざいがい公館こうかん大使館たいしかんという名称めいしょう使つかわず、人民じんみん事務所じむしょしょうしていたが、アラブけんにおかれるものは「関係かんけいきょく (Relations Bureau)」との名称めいしょうもちいられていた。日本にっぽん駐在ちゅうざい人民じんみん事務所じむしょちょうとしてはながらく「代理だいり書記しょき」(臨時りんじ代理だいり大使たいし相当そうとう信任しんにんじょう捧呈ほうていなし)が派遣はけんされていたが、2004ねん4がつに「書記しょき」(特命とくめい全権ぜんけん大使たいし相当そうとう皇居こうきょでの信任しんにんじょう捧呈ほうていあり)が派遣はけんされた。

2007ねん11月、リビアはアラビア併記へいきのないパスポート所持しょじしゃ入国にゅうこく拒否きょひすると各国かっこくつたえた。そのため、リビアに入国にゅうこくするためには、あらかじめパスポートにアラビア併記へいき手続てつづきをしておく必要ひつようしょうじた(入国にゅうこくには1人ひとりたり1000ドルの保証ほしょうきん必要ひつよう)。

国際こくさい機関きかんとの関係かんけい

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2009ねんに、だい64かい国連こくれん総会そうかい議長ぎちょうこくアフリカ連合れんごう議長ぎちょうこくつとめた。同年どうねん、カダフィが国連こくれん総会そうかい演説えんぜつし、国連こくれん改革かいかく提唱ていしょうした。2010ねんにはアラブ連盟れんめい議長ぎちょうこくつとめた[1]

たい欧米おうべい関係かんけい・テロ支援しえん問題もんだい

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だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこくはかつてはん欧米おうべいはんイスラエルのアラブ最強さいきょう硬派こうは国家こっかであった。1970年代ねんだい1980年代ねんだいには欧米おうべいやイスラエルで数々かずかずのテロをこした(あるいは過激かげきのテロの支援しえんをしてきた)。このため欧米おうべいなどから「テロ国家こっか」と非難ひなんされ、テロ支援しえん国家こっかにも指定していされたうえ、また核兵器かくへいき開発かいはつ秘密裏ひみつりすすめていた。

1984ねんにはロンドンのリビア大使館たいしかんいん路上ろじょうはん政府せいふデモをおこなっていたリビアじん大使館たいしかんないからじゅう発射はっしゃし、デモの警備けいびおこなっていたスコットランドヤード警察官けいさつかんイヴォンヌ・フレッチャーが死亡しぼうした。そのイギリスはリビアとの国交こっこう断絶だんぜつした。1985ねん6月14にちにはトランス・ワールド航空こうくうハイジャック人質ひとじち殺害さつがいされ(トランス・ワールド航空こうくう847便びんテロ事件じけん)、同年どうねん10月7にちにはイタリア客船きゃくせんをリビアじんシージャックしユダヤけいアメリカじん人質ひとじち1めい殺害さつがいアキレ・ラウロごう事件じけん)、同年どうねん12月27にちには、ローマ国際こくさい空港くうこうウィーン国際こくさい空港くうこう同時どうじじゅう乱射らんしゃ手榴弾しゅりゅうだん投擲とうてきによるテロ事件じけんきた(ローマ空港くうこう・ウィーン空港くうこう同時どうじテロ事件じけん)。

さらに1986ねん4がつにもトランス・ワールド航空機こうくうき爆破ばくはテロにい(トランス・ワールド航空こうくう840便びんテロ事件じけん)、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはこれらの一連いちれんのテロがリビアの政府せいふ支援しえんのもとおこなわれていたと断定だんていし、4がつ15にちにシドラわん展開てんかいした空母くうぼ戦闘せんとうぐんからリビアの最高さいこう指導しどうしゃカッザーフィーをねらって空爆くうばくリビアばくげき)を実施じっししている。このばくげき報復ほうふくひとつとしてリビアがこした1988ねんパンナム爆破ばくは事件じけんでは国際こくさい連合れんごう経済けいざい制裁せいさいせられてしまうなど国際こくさい社会しゃかいから完全かんぜん孤立こりつした。

しかし2000年代ねんだいはいって態度たいど軟化なんかし、2003ねんにはかく開発かいはつ全面ぜんめん放棄ほうきパンアメリカン航空機こうくうき爆破ばくは事件じけん容疑ようぎしゃ引渡ひきわたしや犠牲ぎせいしゃへの補償ほしょうにも、くにとして事件じけんへの関与かんよみとめてはいないが、一部いちぶのリビアじん公務員こうむいんこした事件じけん遺憾いかんおもうとおうじた結果けっか国連こくれん経済けいざい制裁せいさい解除かいじょされ、欧米おうべいとの関係かんけい改善かいぜんすすんだ。このよううごきのなかでアメリカはリビアを「テロ支援しえん国家こっか指定していからはずし、その2006ねん5月15にちにアメリカはリビアとの国交こっこう正常せいじょう発表はっぴょうした。

アラブ・アフリカ諸国しょこく関係かんけい

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1972ねんから1977ねんにかけてはエジプト、シリアともにアラブ統一とういつ国家こっか目指めざしてアラブ共和きょうわこく連邦れんぽう結成けっせいしたが、具体ぐたいてき合邦がっぽう合意ごういにはたっせず、国旗こっきくにしょうなどの統合とうごうにとどまり、1977ねん11月のエジプト大統領だいとうりょうアンワル・アッ=サーダートのイスラエル訪問ほうもんをきっかけに解体かいたいした。

1974ねん1がつにはチュニジア共同きょうどう合邦がっぽう宣言せんげんし、アラブ・イスラム共和きょうわこく(チュニジア・リビア連合れんごう)の成立せいりつ宣言せんげんしたが、この連合れんごう即座そくざ消滅しょうめつした。こののちチュニジアとの関係かんけい悪化あっかした。1980ねんにチュニジアで40にん以上いじょう死者ししゃしたガフサ事件じけん (1980ねん)フランス語ふらんすごばんはリビアが黒幕くろまくだったといわれている。1985ねんにはチュニジア国境こっきょう軍隊ぐんたい集結しゅうけつし、チュニジアを威嚇いかくした。

1965ねんから1979ねんまでつづいた南隣みなみどなりチャドでの内戦ないせんチャド内戦ないせん (1965ねん–1979ねん)英語えいごばん)にはリビアも介入かいにゅうし、1973ねんにはリビア・チャドの国境こっきょう沿いの帯状おびじょう地域ちいきであるアオゾウ地帯ちたいにリビアぐん侵入しんにゅうして占領せんりょうした。1978ねんにはイッセン・ハブレをリビアぐん支援しえんしハブレがチャド北部ほくぶ制圧せいあつ。これ以後いごリビアぐんはチャドに展開てんかいし、チャド政府せいふぐんかく軍事ぐんじ勢力せいりょく戦闘せんとうはいった(チャド・リビア紛争ふんそう)。しかし紛争ふんそう末期まっき1987ねんトヨタ戦争せんそうでリビアぐんはチャド政府せいふぐん敗北はいぼく多大ただい損害そんがいけ、停戦ていせんうえリビアはチャド領内りょうないから撤退てったいした。

2000年代ねんだい以降いこうアフリカ連合れんごう活動かつどう積極せっきょくてき参加さんかし、アフリカ合衆国がっしゅうこく構想こうそうひろしアフリカ主義しゅぎ擁護ようごするなど、リビア外交がいこう重点じゅうてんが「アラブ」から「アフリカ」にうつりつつあるときもあった。

リビア内戦ないせん国連こくれん日本にっぽん欧米おうべい反応はんのう

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2011ねん3がつ2011ねんリビア内戦ないせんともない、国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいにおいて「一般いっぱん市民しみんたいして現在げんざいおこなわれている広範こうはんかつ組織そしきてき攻撃こうげき」や「リビア当局とうきょくによる傭兵ようへい継続けいぞくてき使用しよう」など「リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤにおける事態じたい」は「国際こくさい平和へいわおよび安全あんぜんたいする脅威きょうい構成こうせいすると認定にんてい」され、決議けつぎだい1970ごうおよび1973ごう採択さいたくされ[6]事態じたい抑止よくしするための飛行ひこう禁止きんし区域くいき設定せっていされた。

これをけて日本にっぽんこく外務がいむ大臣だいじん[7]談話だんわ発表はっぴょうした。

その決議けつぎ内容ないようとは関係かんけいく、ふつえいべいぐんがリビアへ侵攻しんこう巡航じゅんこうミサイル航空機こうくうきからのばくだん投下とうかによるばくげきおこなった。これによる一般いっぱん市民しみん犠牲ぎせいすうは2011ねん3がつ28にち現在げんざい最低さいてい死者ししゃ109めい以上いじょう負傷ふしょうしゃ1300めい以上いじょうのぼり、700めい以上いじょう死亡しぼうしたとの情報じょうほうもある[8]。2011ねん4がつ1にちふつえいべいぐんはん政府せいふ勢力せいりょくぞくするリビアじんたいしてばくげきおこない、すくなくとも13めい死亡しぼうした、負傷ふしょうしゃすう不明ふめい。4月1にちから4がつ10日とおかにかけてのべいふつ英軍えいぐん爆撃ばくげきにより、アズダビヤやブレガなどでリビア国民こくみん200にんほどが死亡しぼうした。

くに象徴しょうちょう

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リビア・アラブ共和きょうわこく国旗こっき(1969ねん-1972ねん
1972ねん-1977ねん国旗こっき
1977ねん-2011ねん国旗こっき
リビア・アラブ共和きょうわこくくにあきら(1970ねん-1972ねん
アラブ共和きょうわこく連邦れんぽうくにあきら(1972-1977)
1972ねん-1977ねんくにあきら
1977ねん-2011ねんくにあきら

国旗こっき

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だいリビア・アラブ社会しゃかい主義しゅぎ人民じんみんジャマーヒリーヤこく国旗こっきみどり一色いっしょく非常ひじょう簡素かんそだった。この国旗こっき以前いぜんはエジプトと共通きょうつう国旗こっき使用しようしていた(アラブ共和きょうわこく連邦れんぽう)が、エジプトがリビアの敵対てきたいこくであったイスラエル国交こっこう樹立じゅりつすると、国家こっか指導しどうしゃであったカッザーフィーはいかくるって即刻そっこくエジプトとの断交だんこう決断けつだんし、同時どうじ国旗こっきえるため部下ぶかわりの国旗こっきをデザインするようめいじたが、あまりにも時間じかんりなかったためにみどり一色いっしょくイスラム教いすらむきょういろ)という簡素かんそなデザインになってしまったという。

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ a b https://web.archive.org/web/20110523163149/http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/libya/data.html
  2. ^ チュニジアの騒乱そうらん周辺しゅうへんこく波及はきゅうするのか BTMU Focus London 本多ほんだ克幸かつゆきより引用いんよう
  3. ^ 報道ほうどうされた映像えいぞうはすべてはん政府せいふ関係かんけいしゃすうにんがカメラのまえおおうものであった
  4. ^ “リビアの全土ぜんど解放かいほう宣言せんげん 国民こくみん評議ひょうぎかい. 朝日新聞あさひしんぶん. (2011ねん10がつ24にち). http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201110230484.html 2011ねん10がつ24にち閲覧えつらん 
  5. ^ アーカイブされたコピー”. 2011ねん2がつ26にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん2がつ25にち閲覧えつらん
  6. ^ http://www.unic.or.jp/security_co/res/res1973.htm
  7. ^ 依然いぜんとしてリビア当局とうきょくによる国民こくみんたいするいちじるしい暴力ぼうりょく継続けいぞくしていることをつよ非難ひなんするとともに,おおくの死傷ししょうしゃていることをつよ懸念けねん」し、「ムアンマル・アル・カダフィ革命かくめい指導しどうしゃをはじめリビア当局とうきょくが,リビア国民こくみんたいする暴力ぼうりょくをただちに停止ていしするようつよもとめ」、「今般こんぱん決議けつぎは,リビア当局とうきょくたいする国際こくさい社会しゃかい明確めいかくかつつよいメッセージであり,日本にっぽん政府せいふは,リビア当局とうきょく決議けつぎをただちに遵守じゅんしゅすることをつよもとめ」るとの[1]
  8. ^ AFP通信つうしんが24にち、ミスラタの医師いしはなしとしてつたえたところによると、18にち以降いこうで109にん死亡しぼう、1300にん以上いじょう負傷ふしょうしたという。(2011ねん3がつ25にち0927ふん 読売新聞よみうりしんぶん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 福井ふくい英一郎えいいちろう へん『アフリカI』朝倉書店あさくらしょてん東京とうきょう世界せかい地理ちり9〉、2002ねん9がつISBN 4-254-16539-0 
  • 宮治みやじ一雄かずお『アフリカ現代げんだいV』(2000ねん4がつだい2はん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ東京とうきょう世界せかい現代げんだい17〉。ISBN 4-634-42170-4 

関連かんれん項目こうもく

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