大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく
الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الاشتراكية العظمىا
国 くに の標語 ひょうご : وحدة ، حرية ، اشتراكية (アラビア語 ご ) 統一 とういつ 、自由 じゆう 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国歌 こっか : الله أكبر (アラビア語 ご ) アッラーフは偉大 いだい なり
大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく の位置 いち
大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく (アラビア語 ご : الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى )は、かつて北 きた アフリカ のリビア に存在 そんざい した共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか である。首都 しゅと をトリポリ に置 お き、行政 ぎょうせい 機関 きかん の一部 いちぶ をシルテ に置 お いていた。1969年 ねん から1977年 ねん までのリビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく も合 あ わせて記述 きじゅつ する。
アフリカ世界 せかい と地中海 ちちゅうかい 世界 せかい とアラブ世界 せかい の一員 いちいん であり、アフリカ連合 れんごう とアラブ連盟 れんめい 、アラブ・マグレブ連合 れんごう にも加盟 かめい していた。
2011年 ねん 2月 がつ 17日 にち 、ベンガジ を根拠地 こんきょち とする勢力 せいりょく リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい との間 あいだ で内戦 ないせん が始 はじ まり(2011年 ねん リビア内戦 ないせん )、2011年 ねん 8月 がつ 23日 にち に首都 しゅと トリポリが評議 ひょうぎ 会 かい 軍 ぐん の攻勢 こうせい によって陥落 かんらく し、ムアンマル・アル=カッザーフィー も殺害 さつがい されたことで滅亡 めつぼう した。
正式 せいしき 名称 めいしょう は、アラビア語 ご : الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى (ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : al-Jamāhīrīya al-‘Arabīya al-Lībīya al-Sha‘bīya al-Ishtirākīya al-‘Uẓmā アル=ジャマーヒーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=リービーヤ・アッ=シャアビーヤ・アル=イシュティラーキーヤ・アル=ウズマー)。通称 つうしょう は、ليبيا(Lībiyā リービヤー)。
公式 こうしき の英語 えいご 表記 ひょうき は、Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya 。Great がついたのは1986年 ねん のことである。通称 つうしょう は、Libya 。
ジャマーヒリーヤ とは最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐 たいさ )による造語 ぞうご で、「大衆 たいしゅう による共同 きょうどう 体制 たいせい 」といったような意味 いみ を持 も つ。
日本語 にほんご の表記 ひょうき では、大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく 。また、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん リビア・アラブ国 こく と訳 やく す場合 ばあい もある。後者 こうしゃ の名称 めいしょう は2004年 ねん まで用 もち いられたが、CIA Factbook の名称 めいしょう 変更 へんこう に伴 ともな い、日本 にっぽん (外務省 がいむしょう ウェブサイト等 とう )でも正式 せいしき 国名 こくめい として前者 ぜんしゃ の名称 めいしょう が採用 さいよう された(ただし、同 おな じ外務省 がいむしょう による表記 ひょうき であっても各種 かくしゅ の条約 じょうやく ・協定 きょうてい の和訳 わやく 文中 ぶんちゅう ではその後 ご も後者 こうしゃ の名称 めいしょう が用 もち いられていた)。
1969年 ねん - 1977年 ねん :リビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく
1977年 ねん - 2004年 ねん :社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん リビア・アラブ国 こく
2004年 ねん - 2011年 ねん :大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく
1951年 ねん にキレナイカ 、トリポリタニア 、フェッザーン の3州 しゅう による連合 れんごう 王国 おうこく として独立 どくりつ したリビア連合 れんごう 王国 おうこく (1963年 ねん に連邦 れんぽう 制 せい が廃止 はいし され、リビア王国 おうこく へ)の国王 こくおう でサヌーシー教団 きょうだん の指導 しどう 者 しゃ だったイドリース1世 せい を、1969年 ねん 9月1日 にち 、ナセル 主義 しゅぎ 者 しゃ だった27歳 さい の大尉 たいい ムアンマル・アル=カッザーフィー と同志 どうし の青年 せいねん 将校 しょうこう たちがクーデター で追放 ついほう して、リビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ 。なお、トルコ に滞在 たいざい 中 ちゅう だった国王 こくおう イドリースは退位 たいい し、共和 きょうわ 国 こく の最高 さいこう 政治 せいじ 機関 きかん である「革命 かくめい 指導 しどう 評議 ひょうぎ 会 かい 」を率 ひき いるカッザーフィーが事実 じじつ 上 じょう の元首 げんしゅ となった。
1973年 ねん より、カッザーフィーはイスラーム主義 しゅぎ や社会 しゃかい 主義 しゅぎ やナセル主義 しゅぎ に基 もと づく国家 こっか を建設 けんせつ を目指 めざ した「文化 ぶんか 革命 かくめい 」を開始 かいし し、「ジャマーヒリーヤ 」という独自 どくじ の直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい の推進 すいしん 、全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ の設置 せっち 、『緑 みどり の書 しょ 』の執筆 しっぴつ などを進 すす めていった。1977年 ねん 3月2日 にち には全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ が「人民 じんみん 主権 しゅけん 確立 かくりつ 宣言 せんげん (英語 えいご 版 ばん ) 」を行 おこな い、リビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく は廃止 はいし され「社会 しゃかい 主義 しゅぎ リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国 こく 」(1986年 ねん に「大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく 」と改称 かいしょう )へと移行 いこう した。以後 いご は1980年 ねん にかけて行政 ぎょうせい 機構 きこう や経済 けいざい システムの変革 へんかく が行 おこな われ、共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい の一 いち 党 とう 独裁 どくさい 政党 せいとう であるアラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連合 れんごう のほか、革命 かくめい 指導 しどう 評議 ひょうぎ 会 かい 、行政 ぎょうせい 機関 きかん 、内閣 ないかく 、元首 げんしゅ 、憲法 けんぽう 、私有 しゆう 経済 けいざい などが廃止 はいし ・解体 かいたい されていった。
対外 たいがい 的 てき にはソ連 それん に接近 せっきん して援助 えんじょ を受 う けた。1970年代 ねんだい から1990年代 ねんだい まで数々 かずかず のテロ を支援 しえん したため、アメリカ やイギリス などの欧米 おうべい 諸国 しょこく と敵対 てきたい した。1985年 ねん に発生 はっせい した西 にし ヨーロッパ での一連 いちれん のテロ事件 じけん により経済 けいざい 制裁 せいさい を受 う け、1986年 ねん にはアメリカ軍 ぐん によって空爆 くうばく (リビア爆 ばく 撃 げき )されたが、その報復 ほうふく として1988年 ねん にパンナム機 き を爆破 ばくは (パンアメリカン航空 こうくう 103便 びん 爆破 ばくは 事件 じけん )した。このため、アメリカからはテロ支援 しえん 国家 こっか に指定 してい された。
このような好戦 こうせん 的 てき な外交 がいこう 姿勢 しせい や、相次 あいつ ぐ政府 せいふ 主導 しゅどう のテロにより、1992年 ねん にリビアは国連 こくれん によって経済 けいざい 制裁 せいさい を受 う け、1999年 ねん に経済 けいざい 制裁 せいさい が解除 かいじょ されるまで経済 けいざい の衰退 すいたい が進 すす んだ。
2001年 ねん の同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん 以降 いこう は一転 いってん してアメリカと協調 きょうちょう 路線 ろせん をとるようになり、2006年 ねん 5月15日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく はリビアとの国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を発表 はっぴょう し、リビアはテロ支援 しえん 国家 こっか 指定 してい から解除 かいじょ された。
一方 いっぽう 、成果 せいか を出 だ せない親 おや アラブ外交 がいこう から親 おや アフリカ外交 がいこう へとシフトし、アフリカ合衆国 がっしゅうこく 構想 こうそう を掲 かか げ、アフリカ連合 れんごう 内 うち で主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ろうとした。
2009年 ねん 、国連 こくれん 総会 そうかい とアフリカ連合 れんごう で、2010年 ねん にアラブ連盟 れんめい で議長 ぎちょう 国 こく を務 つと めた[ 1] 。
2010年 ねん 末 すえ より周辺 しゅうへん 国 こく にてアラブ革命 かくめい が発生 はっせい したが、2011年 ねん 1月 がつ 21日 にち に三菱 みつびし 東京 とうきょう UFJ銀行 ぎんこう が「カダフィ大佐 たいさ による統治 とうち 体制 たいせい に揺 ゆ らぎは見 み られない」「リスクがさらに高 たか まるというところには至 いた っていない」とリビアやエジプト への波及 はきゅう を否定 ひてい するレポート[ 2] を出 だ すなど、大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく の体制 たいせい は依然 いぜん 磐石 ばんじゃく とする見方 みかた もあり多 おお くの日本人 にっぽんじん も現地 げんち 駐在 ちゅうざい を続 つづ けていた。
しかし2011年 ねん 2月 がつ 、カッザーフィーの辞職 じしょく を求 もと める非常 ひじょう に小規模 しょうきぼ な反 はん 政府 せいふ デモが発生 はっせい [ 3] 。各地 かくち で武装 ぶそう 蜂起 ほうき した反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 勢力 せいりょく (後 ご のリビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい )に対 たい して、革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ カッザーフィーやその二男 じなん で人民 じんみん 社会 しゃかい 指導 しどう 部 ぶ 総合 そうごう 調整 ちょうせい 官 かん サイフ・アル・イスラームが直々 じきじき にメディアに出演 しゅつえん して反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 勢力 せいりょく の鎮圧 ちんあつ を唱 とな えるに至 いた った。この結果 けっか 、リビア軍 ぐん やアフリカ諸国 しょこく などからの外国 がいこく 人 じん 傭兵 ようへい 部隊 ぶたい によって首都 しゅと を含 ふく む各地 かくち の反 はん 体制 たいせい 派 は への重火器 じゅうかき 攻撃 こうげき が実施 じっし され、リビアはこれ以後 いご 約 やく 半年 はんとし の間 あいだ 、内戦 ないせん 状態 じょうたい に陥 おちい った。
当初 とうしょ は反 はん 体制 たいせい 派 は が優勢 ゆうせい だったものの、反 はん 体制 たいせい 派 は が主 おも に傭兵 ようへい で構成 こうせい されていたのと、民衆 みんしゅう の支持 しじ が得 え られていなかったことから、徐々 じょじょ に政権 せいけん 側 がわ が反転 はんてん 攻勢 こうせい をかけ、一時 いちじ は反 はん 体制 たいせい 派 は の拠点 きょてん だったベンガジ 進攻 しんこう 寸前 すんぜん にまで至 いた った。しかし、NATO(北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう )を中心 ちゅうしん とした欧米 おうべい 諸国 しょこく やアラブ諸国 しょこく が反 はん 体制 たいせい 派 は を軍事 ぐんじ 的 てき に支援 しえん したことで劣勢 れっせい は回避 かいひ され、しばらくこう着 ちゃく 状態 じょうたい が続 つづ いた後 のち 、ミスラタ を攻 せ めていた政権 せいけん 側 がわ が撤退 てったい して以降 いこう 、反 はん 体制 たいせい 側 がわ が勢 いきお いを盛 も り返 かえ し、8月 がつ 23日 にち に首都 しゅと のトリポリ が陥落 かんらく したため、40年 ねん 以上 いじょう 続 つづ いたカッザーフィー政権 せいけん (大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく )は事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい 。カッザーフィー派 は はトリポリ陥落 かんらく 後 ご も拠点 きょてん をスルト (シルテ)に移 うつ し、リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい との戦闘 せんとう を継続 けいぞく していたが、10月 がつ 20日 はつか に最後 さいご の拠点 きょてん スルトが陥落 かんらく し、カッザーフィー自身 じしん も死亡 しぼう したことにより大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく は名実 めいじつ 共 ども に終焉 しゅうえん した。23日 にち には、リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい が全土 ぜんど 解放 かいほう 宣言 せんげん を行 おこな い、半年 はんとし 間 あいだ 続 つづ いた内戦 ないせん は終結 しゅうけつ したが[ 4] 、その後 ご 再 ふたた び2014年 ねん リビア内戦 ないせん を招 まね くことになる。
これ以降 いこう は「リビア 」を参照 さんしょう 。
1977年 ねん 以後 いご の大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく は人民 じんみん 主権 しゅけん に基 もと づく直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい を宣言 せんげん し、ジャマーヒリーヤ と呼 よ ばれる独特 どくとく の政体 せいたい をとる国家 こっか であった。成文 せいぶん 憲法 けんぽう は存在 そんざい せず、1977年 ねん に制定 せいてい された人民 じんみん 主権 しゅけん 確立 かくりつ 宣言 せんげん が、その機能 きのう を果 は たした。またイスラム法 ほう も、主要 しゅよう な法 ほう の源 みなもと とされていた。
1969年 ねん 以来 いらい 、アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連合 れんごう による一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい が敷 し かれていたが、1977年 ねん をもって同 どう 党 とう は解散 かいさん し、党 とう の権能 けんのう はそのまま国家 こっか 機関 きかん へと移行 いこう した。以来 いらい 、政党 せいとう は存在 そんざい しなかった。
大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく は直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい を標榜 ひょうぼう する国 くに で、建前 たてまえ 上 じょう 国民 こくみん の代表 だいひょう からなる議会 ぎかい は存在 そんざい しないが、事実 じじつ 上 じょう それに代 か わる仕組 しく みとして全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ (General People's Congress)が置 お かれていた。議員 ぎいん は内閣 ないかく に相当 そうとう する全国 ぜんこく 人民 じんみん 委員 いいん 会 かい 各 かく 書記 しょき (大臣 だいじん )のほか、各 かく マハッラ(町 まち )、シャアビーア(県 けん )、学校 がっこう や職場 しょくば などに置 お かれている人民 じんみん 委員 いいん 会 かい などから法律 ほうりつ で役職 やくしょく 指定 してい されており、2006年 ねん 時点 じてん で1000名 めい 前後 ぜんこう 。法律 ほうりつ 上 じょう 、リビアに元首 げんしゅ は存在 そんざい しないが、外国 がいこく 大使 たいし の信任 しんにん 状 じょう の接受 せつじゅ は全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ 書記 しょき が行 おこな う事 こと と定 さだ められており、同 どう 書記 しょき が事務 じむ 的 てき には元首 げんしゅ 代行 だいこう の役割 やくわり を担 にな っていた。なお、基礎 きそ 人民 じんみん 会議 かいぎ には、原則 げんそく 18歳 さい 以上 いじょう の全 ぜん 成人 せいじん の参加 さんか が義務 ぎむ づけられており、年 とし 数 すう 回 かい の会期 かいき 中 ちゅう は市内 しない の商店 しょうてん も閉店 へいてん を余儀 よぎ なくされたが、実際 じっさい に会議 かいぎ に参加 さんか するのは政権 せいけん に忠実 ちゅうじつ な一部 いちぶ 国民 こくみん に限 かぎ られ、そこでの討議 とうぎ 内容 ないよう もあらかじめ定 さだ められ不規則 ふきそく 発言 はつげん は許 ゆる されなかった。
内閣 ないかく に相当 そうとう する全国 ぜんこく 人民 じんみん 委員 いいん 会 かい のメンバーは、全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ において選出 せんしゅつ され、首相 しゅしょう に相当 そうとう する役職 やくしょく は全国 ぜんこく 人民 じんみん 委員 いいん 会 かい 書記 しょき だった。
最高 さいこう 司法 しほう 機関 きかん は最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ で、その下 した に高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ 、第 だい 一 いち 審 しん 裁判所 さいばんしょ が存在 そんざい した。また、国 くに の治安 ちあん に関 かん する事案 じあん を扱 あつか う特別 とくべつ 裁判所 さいばんしょ として人民 じんみん 裁判所 さいばんしょ が置 お かれていたが、後 のち に廃止 はいし された。なお、多 おお くのイスラム国家 こっか 同様 どうよう 死刑 しけい 制度 せいど があった。
国内外 こくないがい には、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 政権 せいけん 確立 かくりつ を目指 めざ すリビア民主 みんしゅ 運動 うんどう やリビア国民 こくみん 連盟 れんめい 、カッザーフィー政権 せいけん 打倒 だとう そのものを目的 もくてき とするリビア救済 きゅうさい 国民 こくみん 戦線 せんせん 、そして過激 かげき 派 は テロ組織 そしき イスラム殉教者 じゅんきょうしゃ 運動 うんどう まで、さまざまな目的 もくてき をもつ反 はん 政府 せいふ 組織 そしき があった。反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく 結集 けっしゅう の動 うご きもロンドン を中心 ちゅうしん に見 み られたが、王 おう 党派 とうは (イドリス国王 こくおう の弟 おとうと の孫 まご が王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ )からイスラム過激 かげき 派 は 、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 派 は まで思惑 おもわく は様々 さまざま であり、内戦 ないせん 勃発 ぼっぱつ まで長 なが らく反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく の影響 えいきょう 力 りょく は限定 げんてい 的 てき とみられてきた。
ムアンマル・アル=カッザーフィー
直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい であるジャマーヒリーヤの建前 たてまえ の上 うえ からはリビアには国家 こっか 元首 げんしゅ は存在 そんざい しないことになっていた。1969年 ねん 9月 がつ 1日 にち の革命 かくめい 以来 いらい 革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ の称号 しょうごう を持 も つムアンマル・アル=カッザーフィーが事実 じじつ 上 じょう の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ であり、なおかつ国政 こくせい の実権 じっけん を握 にぎ っていた。ただし、公的 こうてき な役職 やくしょく には1970年代 ねんだい 半 なか ばから就 つ いていないことから全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ などの公 おおやけ の会議 かいぎ には出席 しゅっせき せず、会議 かいぎ 後 ご 、会議 かいぎ 出席 しゅっせき 者 しゃ の「要請 ようせい 」を受 う ける形 かたち で国民 こくみん への「助言 じょげん 」として事実 じじつ 上 じょう の施政 しせい 方針 ほうしん 演説 えんぜつ を行 おこな った。カッザーフィーは1990年代 ねんだい 、パンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん の容疑 ようぎ 者 しゃ 引 ひ き渡 わた し問題 もんだい で当時 とうじ の国連 こくれん のコフィー・アナン 事務 じむ 総長 そうちょう と会談 かいだん した際 さい 、「私 わたし は大統領 だいとうりょう でも首相 しゅしょう でもないので、(容疑 ようぎ 者 しゃ 2人 にん を)引 ひ き渡 わた す権限 けんげん がない」と発言 はつげん した。
なお、「革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ 」であるカッザーフィーは、各国 かっこく のマスコミ などでは一般 いっぱん 的 てき にカダフィ大佐 たいさ と呼 よ ばれており、事実 じじつ 上 じょう の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ が「大佐 たいさ 」であることに違和感 いわかん を持 も つ向 む きもあった。カッザーフィーが「大佐 たいさ 」と呼 よ ばれている理由 りゆう については諸説 しょせつ がある(ムアンマル・アル=カッザーフィー#名称 めいしょう 表記 ひょうき の項 こう を参照 さんしょう )。
日本 にっぽん 国 こく の天皇 てんのう とカッザーフィーが慶事 けいじ 等 とう で祝電 しゅくでん ・答電 とうでん を送 おく り合 あ う場合 ばあい 、日本語 にほんご では「リビア国 こく 革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ カダフィ閣下 かっか 」と表記 ひょうき された。
2009年 ねん 10月 、カッザーフィーの次男 じなん のサイフ・アル・イスラームが「人民 じんみん 社会 しゃかい 指導 しどう 部 ぶ 総合 そうごう 調整 ちょうせい 官 かん 」に任命 にんめい され、有力 ゆうりょく な後継 こうけい 者 しゃ となった。
陸海空 りくかいくう 三軍 さんぐん がある。2011年 ねん の騒乱 そうらん に際 さい しては、アフリカ 諸国 しょこく からの傭兵 ようへい が注目 ちゅうもく された[ 5] 。
1986年 ねん から1987年 ねん にかけてチャド内戦 ないせん に介入 かいにゅう したが、トヨタ戦争 せんそう でチャドに敗 やぶ れた。
2011年 ねん リビア内戦 ないせん では、反 はん 体制 たいせい 派 は リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい の武装 ぶそう 勢力 せいりょく やNATO など反 はん カダフィ勢力 せいりょく を相手 あいて に戦闘 せんとう を行 おこな ったが、カダフィ政権 せいけん 崩壊 ほうかい によりリビア軍 ぐん は一旦 いったん 消滅 しょうめつ した。その後 ご 、リビア暫定 ざんてい 政権 せいけん により、正規 せいき 軍 ぐん が再編 さいへん される。
軍 ぐん 種 しゅ :武装 ぶそう 人民 じんみん 軍 ぐん (陸軍 りくぐん )、海軍 かいぐん 、防空 ぼうくう 軍 ぐん (空軍 くうぐん 部隊 ぶたい を含 ふく む)
最年少 さいねんしょう の兵士 へいし は、17歳 さい 。
軍事 ぐんじ 費 ひ は、13億 おく ドル。GDP比 ひ は、3.9%。
リビア海軍 かいぐん 艦艇 かんてい 一覧 いちらん
もともと核兵器 かくへいき の開発 かいはつ 疑惑 ぎわく があったが、アメリカおよびイギリスとの9ヶ月 かげつ にわたる秘密 ひみつ 交渉 こうしょう の後 のち 、2003年 ねん 12月に核兵器 かくへいき など大量 たいりょう 破壊 はかい 兵器 へいき 開発 かいはつ をしていた事実 じじつ を認 みと め、即時 そくじ かつ無条件 むじょうけん の廃棄 はいき を表明 ひょうめい 、IAEA の査察 ささつ も受 う け入 い れ、核兵器 かくへいき を全廃 ぜんぱい した。これ以降 いこう 、アメリカとの半年 はんとし 後 ご の国交 こっこう 回復 かいふく など各国 かっこく との関係 かんけい 改善 かいぜん が進 すす み、2006年 ねん にテロ支援 しえん 国家 こっか 指定 してい が解除 かいじょ された。これは核 かく 放棄 ほうき の見返 みかえ りを得 え る先例 せんれい (リビア方式 ほうしき と呼 よ ばれる)となったが、その後 ご NATOのリビア介入 かいにゅう での武力 ぶりょく 行使 こうし を招 まね いた。リビアが核兵器 かくへいき を保有 ほゆう していたらNATOのリビア空爆 くうばく などの武力 ぶりょく 行使 こうし は極 きわ めて困難 こんなん であった(但 ただ し、リビアが核兵器 かくへいき 開発 かいはつ を放棄 ほうき した2003年 ねん の段階 だんかい で核兵器 かくへいき の保有 ほゆう には程遠 ほどとお く、仮 かり に2003年 ねん 以降 いこう も核兵器 かくへいき 開発 かいはつ を継続 けいぞく していたとしても、NATOがリビア内戦 ないせん に介入 かいにゅう した2011年 ねん までに核兵器 かくへいき 保有 ほゆう を実現 じつげん し、十分 じゅうぶん な抑止 よくし 力 りょく とするのは不可能 ふかのう であったと考 かんが えられる)。
在外 ざいがい 公館 こうかん は大使館 たいしかん という名称 めいしょう を使 つか わず、人民 じんみん 事務所 じむしょ と称 しょう していたが、アラブ圏 けん におかれるものは「関係 かんけい 局 きょく (Relations Bureau)」との名称 めいしょう が用 もち いられていた。日本 にっぽん 駐在 ちゅうざい の人民 じんみん 事務所 じむしょ の長 ちょう としては長 なが らく「代理 だいり 書記 しょき 」(臨時 りんじ 代理 だいり 大使 たいし 相当 そうとう 。信任 しんにん 状 じょう 捧呈 ほうてい なし)が派遣 はけん されていたが、2004年 ねん 4月 がつ に「書記 しょき 」(特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 相当 そうとう 。皇居 こうきょ での信任 しんにん 状 じょう 捧呈 ほうてい あり)が派遣 はけん された。
2007年 ねん 11月 、リビアはアラビア語 ご 併記 へいき のないパスポート 所持 しょじ 者 しゃ の入国 にゅうこく を拒否 きょひ すると各国 かっこく に伝 つた えた。そのため、リビアに入国 にゅうこく するためには、あらかじめパスポートにアラビア語 ご 併記 へいき の手続 てつづ きをしておく必要 ひつよう が生 しょう じた(入国 にゅうこく には1人 ひとり 当 あ たり1000ドルの保証 ほしょう 金 きん が必要 ひつよう )。
2009年 ねん に、第 だい 64回 かい 国連 こくれん 総会 そうかい 議長 ぎちょう 国 こく とアフリカ連合 れんごう 議長 ぎちょう 国 こく を務 つと めた。同年 どうねん 、カダフィが国連 こくれん 総会 そうかい で演説 えんぜつ し、国連 こくれん 改革 かいかく を提唱 ていしょう した。2010年 ねん にはアラブ連盟 れんめい 議長 ぎちょう 国 こく を務 つと めた[ 1] 。
対 たい 欧米 おうべい 関係 かんけい ・テロ支援 しえん 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく はかつて反 はん 欧米 おうべい 、反 はん イスラエル のアラブ最強 さいきょう 硬派 こうは の国家 こっか であった。1970年代 ねんだい や1980年代 ねんだい には欧米 おうべい やイスラエルで数々 かずかず のテロを引 ひ き起 お こした(或 ある いは過激 かげき 派 は のテロの支援 しえん をしてきた)。このため欧米 おうべい などから「テロ国家 こっか 」と非難 ひなん され、テロ支援 しえん 国家 こっか にも指定 してい された上 うえ 、また核兵器 かくへいき の開発 かいはつ も秘密裏 ひみつり に進 すす めていた。
1984年 ねん にはロンドン のリビア大使館 たいしかん 員 いん が路上 ろじょう で反 はん 政府 せいふ デモを行 おこな っていたリビア人 じん に大使館 たいしかん 内 ない から銃 じゅう を発射 はっしゃ し、デモの警備 けいび を行 おこな っていたスコットランドヤード の警察官 けいさつかん イヴォンヌ・フレッチャーが死亡 しぼう した。その後 ご イギリスはリビアとの国交 こっこう を断絶 だんぜつ した。1985年 ねん 6月14日 にち にはトランス・ワールド航空 こうくう 機 き がハイジャック に遭 あ い人質 ひとじち が殺害 さつがい され(トランス・ワールド航空 こうくう 847便 びん テロ事件 じけん )、同年 どうねん 10月7日 にち にはイタリア の客船 きゃくせん をリビア人 じん がシージャック しユダヤ系 けい アメリカ人 じん 人質 ひとじち 1名 めい を殺害 さつがい (アキレ・ラウロ号 ごう 事件 じけん )、同年 どうねん 12月27日 にち には、ローマ国際 こくさい 空港 くうこう とウィーン国際 こくさい 空港 くうこう で同時 どうじ に銃 じゅう 乱射 らんしゃ や手榴弾 しゅりゅうだん 投擲 とうてき によるテロ事件 じけん が起 お きた(ローマ空港 くうこう ・ウィーン空港 くうこう 同時 どうじ テロ事件 じけん )。
さらに1986年 ねん 4月 がつ にもトランス・ワールド航空機 こうくうき が爆破 ばくは テロに遭 あ い(トランス・ワールド航空 こうくう 840便 びん テロ事件 じけん )、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく はこれらの一連 いちれん のテロがリビアの政府 せいふ の支援 しえん のもと行 おこな われていたと断定 だんてい し、4月 がつ 15日 にち にシドラ湾 わん に展開 てんかい した空母 くうぼ 戦闘 せんとう 群 ぐん からリビアの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ カッザーフィーを狙 ねら って空爆 くうばく (リビア爆 ばく 撃 げき )を実施 じっし している。この爆 ばく 撃 げき の報復 ほうふく の一 ひと つとしてリビアが引 ひ き起 お こした1988年 ねん のパンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん では国際 こくさい 連合 れんごう に経済 けいざい 制裁 せいさい を課 か せられてしまうなど国際 こくさい 社会 しゃかい から完全 かんぜん に孤立 こりつ 化 か した。
しかし2000年代 ねんだい に入 はい って態度 たいど が軟化 なんか し、2003年 ねん には核 かく 開発 かいはつ を全面 ぜんめん 放棄 ほうき 、パンアメリカン航空機 こうくうき 爆破 ばくは 事件 じけん の容疑 ようぎ 者 しゃ 引渡 ひきわた しや犠牲 ぎせい 者 しゃ への補償 ほしょう にも、国 くに として事件 じけん への関与 かんよ を認 みと めてはいないが、一部 いちぶ のリビア人 じん 公務員 こうむいん が起 お こした事件 じけん で遺憾 いかん に思 おも うと応 おう じた結果 けっか 、国連 こくれん の経済 けいざい 制裁 せいさい は解除 かいじょ され、欧米 おうべい との関係 かんけい 改善 かいぜん も進 すす んだ。この様 よう な動 うご きの中 なか でアメリカはリビアを「テロ支援 しえん 国家 こっか 」指定 してい から外 はず し、その後 ご 2006年 ねん 5月15日 にち にアメリカはリビアとの国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を発表 はっぴょう した。
1972年 ねん から1977年 ねん にかけてはエジプト、シリア と共 とも にアラブ統一 とういつ 国家 こっか を目指 めざ してアラブ共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう を結成 けっせい したが、具体 ぐたい 的 てき な合邦 がっぽう の合意 ごうい には達 たっ せず、国旗 こっき や国 くに 章 しょう などの統合 とうごう にとどまり、1977年 ねん 11月のエジプト大統領 だいとうりょう アンワル・アッ=サーダート のイスラエル訪問 ほうもん をきっかけに解体 かいたい した。
1974年 ねん 1月 がつ にはチュニジア と共同 きょうどう で合邦 がっぽう を宣言 せんげん し、アラブ・イスラム共和 きょうわ 国 こく (チュニジア・リビア連合 れんごう )の成立 せいりつ を宣言 せんげん したが、この連合 れんごう は即座 そくざ に消滅 しょうめつ した。この後 のち チュニジアとの関係 かんけい は悪化 あっか した。1980年 ねん にチュニジアで40人 にん 以上 いじょう の死者 ししゃ を出 だ したガフサ事件 じけん (1980年 ねん ) (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) はリビアが黒幕 くろまく だったといわれている。1985年 ねん にはチュニジア国境 こっきょう に軍隊 ぐんたい を集結 しゅうけつ し、チュニジアを威嚇 いかく した。
1965年 ねん から1979年 ねん まで続 つづ いた南隣 みなみどなり のチャド での内戦 ないせん (チャド内戦 ないせん (1965年 ねん –1979年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) )にはリビアも介入 かいにゅう し、1973年 ねん にはリビア・チャドの国境 こっきょう 沿 ぞ いの帯状 おびじょう の地域 ちいき であるアオゾウ地帯 ちたい にリビア軍 ぐん が侵入 しんにゅう して占領 せんりょう した。1978年 ねん にはイッセン・ハブレ をリビア軍 ぐん が支援 しえん しハブレ派 は がチャド北部 ほくぶ を制圧 せいあつ 。これ以後 いご リビア軍 ぐん はチャドに展開 てんかい し、チャド政府 せいふ 軍 ぐん や各 かく 軍事 ぐんじ 勢力 せいりょく と戦闘 せんとう に入 はい った(チャド・リビア紛争 ふんそう )。しかし紛争 ふんそう 末期 まっき の1987年 ねん 、トヨタ戦争 せんそう でリビア軍 ぐん はチャド政府 せいふ 軍 ぐん に敗北 はいぼく し多大 ただい な損害 そんがい を受 う け、停戦 ていせん の上 うえ リビアはチャド領内 りょうない から撤退 てったい した。
2000年代 ねんだい 以降 いこう はアフリカ連合 れんごう の活動 かつどう に積極 せっきょく 的 てき に参加 さんか し、アフリカ合衆国 がっしゅうこく 構想 こうそう や汎 ひろし アフリカ主義 しゅぎ を擁護 ようご するなど、リビア外交 がいこう の重点 じゅうてん が「アラブ」から「アフリカ」に移 うつ りつつあると見 み る向 む きもあった。
リビア内戦 ないせん と国連 こくれん ・日本 にっぽん ・欧米 おうべい の反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
2011年 ねん 3月 がつ 、2011年 ねん リビア内戦 ないせん に伴 ともな い、国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい において「一般 いっぱん 市民 しみん に対 たい して現在 げんざい 行 おこな われている広範 こうはん かつ組織 そしき 的 てき な攻撃 こうげき 」や「リビア当局 とうきょく による傭兵 ようへい の継続 けいぞく 的 てき 使用 しよう 」など「リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤにおける事態 じたい 」は「国際 こくさい の平和 へいわ および安全 あんぜん に対 たい する脅威 きょうい を構成 こうせい すると認定 にんてい 」され、決議 けつぎ 第 だい 1970号 ごう および1973号 ごう が採択 さいたく され[ 6] 事態 じたい を抑止 よくし するための飛行 ひこう 禁止 きんし 区域 くいき が設定 せってい された。
これを受 う けて日本 にっぽん 国 こく 外務 がいむ 大臣 だいじん も[ 7] 談話 だんわ を発表 はっぴょう した。
その後 ご 決議 けつぎ の内容 ないよう とは関係 かんけい 無 な く、仏 ふつ 英 えい 米 べい 軍 ぐん がリビアへ侵攻 しんこう 、巡航 じゅんこう ミサイル と航空機 こうくうき からの爆 ばく 弾 だん 投下 とうか による爆 ばく 撃 げき を行 おこな った。これによる一般 いっぱん 市民 しみん の犠牲 ぎせい 数 すう は2011年 ねん 3月 がつ 28日 にち 現在 げんざい で最低 さいてい 死者 ししゃ 109名 めい 以上 いじょう 、負傷 ふしょう 者 しゃ 1300名 めい 以上 いじょう に上 のぼ り、700名 めい 以上 いじょう が死亡 しぼう したとの情報 じょうほう もある[ 8] 。2011年 ねん 4月 がつ 1日 にち 、仏 ふつ 英 えい 米 べい 軍 ぐん は反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく に属 ぞく するリビア人 じん に対 たい して爆 ばく 撃 げき を行 おこな い、少 すく なくとも13名 めい が死亡 しぼう した、負傷 ふしょう 者 しゃ 数 すう は不明 ふめい 。4月1日 にち から4月 がつ 10日 とおか にかけての米 べい 仏 ふつ 英軍 えいぐん の爆撃 ばくげき により、アズダビヤやブレガなどでリビア国民 こくみん 200人 にん ほどが死亡 しぼう した。
リビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく の国旗 こっき (1969年 ねん -1972年 ねん )
1972年 ねん -1977年 ねん の国旗 こっき
1977年 ねん -2011年 ねん の国旗 こっき
リビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく の国 くに 章 あきら (1970年 ねん -1972年 ねん )
アラブ共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう の国 くに 章 あきら (1972-1977)
1972年 ねん -1977年 ねん の国 くに 章 あきら
1977年 ねん -2011年 ねん の国 くに 章 あきら
大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく の国旗 こっき は緑 みどり 一色 いっしょく と非常 ひじょう に簡素 かんそ だった。この国旗 こっき の以前 いぜん はエジプトと共通 きょうつう の国旗 こっき を使用 しよう していた(アラブ共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう )が、エジプトがリビアの敵対 てきたい 国 こく であったイスラエル と国交 こっこう 樹立 じゅりつ すると、国家 こっか 指導 しどう 者 しゃ であったカッザーフィーは怒 いか り狂 くる って即刻 そっこく エジプトとの断交 だんこう を決断 けつだん し、同時 どうじ に国旗 こっき を変 か えるため部下 ぶか に代 か わりの国旗 こっき をデザインするよう命 めい じたが、あまりにも時間 じかん が足 た りなかったために緑 みどり 一色 いっしょく (イスラム教 いすらむきょう の色 いろ )という簡素 かんそ なデザインになってしまったという。