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巫女ふじょまい

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神楽かぐら巫女ふじょ稚児ちご

巫女ふじょまい(みこまい・神子かみこまい)とは、巫女ふじょによってわれる神楽かぐらまいひとつ。巫女ふじょ神楽かぐら(みこかぐら)・八乙女やおとめまい(やおとめまい)とも。

概要がいよう

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古代こだい日本にっぽんにおいて、祭祀さいしつかさど巫女ふじょ自身じしんうえかみりるというかみがかり儀式ぎしきのためにおこなわれたまいがもととなり、それが様式ようしきして祈祷きとう奉納ほうのうまいとなった。前者ぜんしゃ(「かみがかりけい」)においては古来こらいかみがかりや託宣たくせん儀式ぎしき形式けいしきのっとってまわってはまわかえすという動作どうさかえしながらうことなどでそのきよめてからそのかみくだすという、そのたいのこすところもあるが、現在げんざいでは優雅ゆうが神楽かぐらにあわせたまい優美ゆうびさをおもんじた後者こうしゃ(「八乙女やおとめけい」)がほとんどである。千早ちはや水干すいかんはかましろ足袋たびよそおいにつつんだ巫女ふじょ太鼓たいこふえどう拍子ひょうしなどの囃子はやしにあわせてすずおうぎさささかきぬさなどだいとなるものにした巫女ふじょおどる。また、関東かんとう地方ちほう一部いちぶなどでは巫女ふじょ仮面かめんめる場合ばあいもある。処女しょじょ巫女ふじょ八乙女やおとめ)としてまいつとめるれいおおいが、近年きんねんでは神職しんしょく妻女さいじょ老女ろうじょ場合ばあいもある[1]

歴史れきし

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巫女ふじょまい原点げんてんは、くだかみみこ(こうしんふ)によるかみがかりの儀式ぎしきにあったといわれている。ものにした巫女ふじょがまずきよめるためのまいい、つづいてみぎまわひだりまわりと順逆じゅんぎゃく双方そうほう交互こうごまわりながらう。やがてその旋回せんかい運動うんどうはげしくなり、しだいに巫女ふじょ一種いっしゅトランス状態じょうたい突入とつにゅうしてかみがかり(憑依ひょうい)、跳躍ちょうやくするにいたって、神託しんたくくだすことになる。まいという言葉ことばはこの旋舞のうごきが語源ごげんであり、跳躍ちょうやくおもとするおどりもここからまれたとされる。中国ちゅうごくみこまい基本きほんしめした『八卦はっけまい』には「陰陽いんようもっ綱紀こうきす」とあり、舞踏ぶとう動作どうさ陰陽いんよう意味いみするひだり旋とみぎばん必須ひっすとすることがしるされている。それは太極たいきょく表現ひょうげんする天地てんちがいまだわかれる以前いぜん陰陽いんようこんしか姿すがたしめしているとされる。

古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき』において天岩屋戸あまのいわやどまえったとされるてん鈿女いのち故事こじにその原型げんけいられ、その子孫しそんとされた「猨女くん」の女性じょせいたち代々だいだい神祇官じんぎかん女官にょかんとして神楽かぐら奉納ほうのうしたとされている。平安へいあん時代じだい宮廷きゅうていわれたとされる「猨女」・「みこ」(『さだかん儀式ぎしき』)はいずれも巫女ふじょまいであったと推定すいていされている。『拾遺しゅういしゅう』によれば、920ねん延喜えんぎ20ねん)に奈良なら春日大社かすがたいしゃで「八乙女やおとめ」とばれる巫女ふじょたちによる神楽かぐらわれたと記録きろくされている。平安へいあん時代じだい末期まっき藤原明衡ふじわらのあきひらちょである『しん猿楽さるがく』には、巫女ふじょ必要ひつような4要素ようそとして「うらなかみゆうよせくちよせ」がげられており、かれ実際じっさい目撃もくげきしたという巫女ふじょかみゆう神楽かぐら)はまさしくかみあそ仙人せんにんのようだったと、しるしている。また、すこ時代じだいぞくする『梁塵りょうじんしょう』にある「すずはさや藤太とうた巫女ふじょ」にもすずちながらおど巫女ふじょ登場とうじょうする。

中世ちゅうせい以後いご各地かくち有力ゆうりょく神社じんじゃでは巫女ふじょまい恒例こうれいとなった。当時とうじ巫女ふじょまい旧来きゅうらいかみがかりてき要素ようそくわえて依頼いらいしゃ現世げんせい利益りえき追求ついきゅうするための祈願きがんあわせて目的もくてきとしていたとされている。また、地方ちほうでは修験しゅげんしゃ巫女ふじょむすびついて祈祷きとう鎮魂ちんこん目的もくてきとする民間みんかん習俗しゅうぞく色彩しきさい巫女ふじょまいおこなわれるようになった。現在げんざいでも、祈祷きとう祈願きがん自体じたい神楽かぐら、あるいは「神楽かぐらげる」としょうするれいがあるのも、このことがもとであるとかんがえられる。

中世ちゅうせい巫女ふじょまいかんするおおくの史料しりょうのこされている備前びぜんこく岡山おかやまけん一宮いちのみや吉備津きびつ彦神しゃれいでは、1342ねんかんひさし元年がんねん/興国こうこく3ねん作成さくせいの『一宮いちのみやしゃほう』によれば、12めい巫女ふじょからなる「神子みこ」があり、一宮いちのみや行事ぎょうじ以外いがいでもむら々のまねきにおうじて神楽かぐらい、ぎゃくむら々の巫女ふじょ一宮いちのみやことがあった。だが、1471ねん文明ぶんめい3ねん)に作成さくせいされた「そう社家しゃけしゃそうちゅう神前しんぜん祈念きねんこととう注文ちゅうもん」によれば、巫女ふじょにもみや神子みこから選抜せんばつされるいち神子みこ一般いっぱんみや神子みこ村方むらかた神子みこ分類ぶんるいされ、いち神子みこのみが本社ほんしゃ神楽かぐら無言むごんうことがゆるされ(託宣たくせんなどの禁止きんし)、みや神子みこ祈祷きとうのみをゆるされ、うらない・託宣たくせん湯立ゆだてわき殿どのみや神子みこ以外いがいものおこなうことなどがさだめられて、神事しんじたずさわるものと託宣たくせんなどをおこなうものが分離ぶんりされるようになった。

ところが、江戸えど時代じだい後期こうき勃興ぼっこうした国学こくがくなかには、神霊しんれい憑依ひょういなどの霊的れいてき現象げんしょう淫祠いんし邪教じゃきょうとして否定ひていてきとらえる学説がくせつあらわれるようになり、そのような民間みんかん習俗しゅうぞくむすびつきやすい巫女ふじょそのものにたいしても否定ひていてきうごきがはじめた[2]明治維新めいじいしんむかえ、国学こくがくてき神道しんとうかんもと神社じんじゃ祭祀さいし制度せいど抜本ばっぽんてき見直みなおしがされたが、1873ねん明治めいじ6ねん)には神霊しんれい憑依ひょういなどによって託宣たくせん行為こういきょうしょうによって全面ぜんめんてき禁止きんしされた。これは巫女ふじょ禁断きんだんれい通称つうしょうされる[3]

禁止きんし措置そちによって神社じんじゃ常駐じょうちゅうせずに民間みんかん祈祷きとうおこなっていた巫女ふじょ全面ぜんめんてき廃業はいぎょうとなったが、なかには神社じんじゃまることによって活動かつどうつづけるものもいた。春日大社かすがたいしゃ富田とみた光美てるみらが、巫女ふじょ神道しんとうにおける重要じゅうようせいとなえて巫女ふじょまい存続そんぞくうったえると同時どうじ同社どうしゃゆかりの「八乙女やおとめ」によるまいをより洗練せんれんさせて芸術げいじゅつせいたかめることによって巫女ふじょおよ巫女ふじょまい復興ふっこうくしたのである。これが今日きょうられるような巫女ふじょまいになっていくのであるが、依然いぜんとして「かみがかり」の系統けいとういだふるかたち巫女ふじょまいのこしている神社じんじゃわずかながら存在そんざいしている[4]。その一方いっぽうで、島根しまねけん松江まつえ太神おおがしゃのように男性だんせい神職しんしょく女装じょそうしてひめめんけて巫女ふじょまいおど神社じんじゃ存在そんざいしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 神道しんとう辞典じてん』「巫女ふじょまい」の項目こうもく(P566)
  2. ^ たとえば、寛文ひろふみ年間ねんかん以後いご吉田よしだ神道しんとう影響えいきょうによって巫女ふじょまいはいする神社じんじゃあらわれたのがそのれいである。
  3. ^ s:あずさみこ市子いちこなみ祈祷きとうとう所業しょぎょう禁止きんしけん
  4. ^ 柳田やなぎだ國男くにおの『巫女ふじょこう』によれば、湯立ゆだて神事しんじ密接みっせつなつながりがのこされている巫女ふじょまいとして、新潟にいがたけん弥彦やひこ神社じんじゃ島根しまねけん美保みほ神社じんじゃ巫女ふじょまいげている。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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