松平 忠直(まつだいら ただなお)は、日本の江戸時代前期の親藩大名。越前国北庄藩藩主。官位は従三位参議、左近衛権中将、越前守。
文禄4年(1595年)、摂津東成郡生魂にて、結城秀康の長男として誕生した。母は中川一元の娘岡山(清涼院)。同母弟に松平忠昌、異母弟に松平直政・松平直基・松平直良がいる。また江戸幕府初代将軍徳川家康は祖父、2代将軍徳川秀忠は叔父、3代将軍徳川家光は従弟に当たる。
慶長8年(1603年)、江戸参勤のおりに叔父秀忠に初御目見する。人質ではあったが秀忠からは大いに気に入られ、慶長10年(1605年)に彼の下で元服し従四位下侍従・三河守に叙せられ、秀忠より偏諱を受け忠直と名乗る。慶長11年(1606年)3月3日、右近衛権少将に任じられる。
慶長12年(1607年)、父の死に伴って北庄68万石を相続したが、幼少のため家老の本多富正(伊豆守)・今村盛次(掃部)が領国統治に当たった。
慶長16年(1611年)に祖父家康に連れられて上洛、3月20日に従四位上左近衛権少将へ昇叙、3日後の23日に祖父と共に宮中へ参内した。9月28日には秀忠の娘で従妹に当たる勝姫を正室に迎え、晴れやかな出来事が重なった。しかし一方、同じく祖父と共に上洛・参内した3人の年下の叔父である徳川義直・徳川頼宣・徳川頼房も叙任される、国元の家臣桜井武兵衛へ宛てた6月24日付の手紙で詳細不明の人物を預けることを指示するなど、忠直の周囲にはいくつか不穏な出来事も胎動していた。
慶長17年(1612年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、関係者は江戸へ召喚、家康・秀忠の両御所による直裁によって処分され、重臣の今村盛次・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長18年(1613年)4月には土井利勝が越前へ赴いて再び処分が行われ、忠直の母方の伯父の中川出雲守も配流され、5月に秀忠の命令で富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の従兄弟の本多成重(丹下)を付家老として越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)[注釈 1][注釈 2]。またこの間、慶長17年暮れに池田氏・黒田氏ら諸大名と共に禁裏・仙洞御所の普請を命じられ、この頃から徳川将軍家の家門の越前家は一大名として扱われるようになる。
慶長19年(1614年)4月6日に駿府の家康に拝謁、富正・成重の補佐を受けることを改めて命じられたが(秀忠が富正・成重を忠直の後見役に任命したとも)、両本多との間はぎくしゃくしていたとされ、藩主としての権力・行動を制約されたことに不満を抱いたと考えられている。同年に起こった大坂冬の陣では、軍事も越前軍を率いた両本多に統制され、越前軍の活躍は諸資料に紹介されているが忠直本人の活躍はほとんど見られない。
12月4日の真田丸の戦いでは、前田利常の軍勢に続いて井伊直孝の軍勢と先鋒を争い進撃するが、真田丸に籠る真田信繁の反撃に遭い480人の戦死者を出す敗北に終わった。翌慶長20年(元和元年・1615年)の大坂夏の陣でも5月6日の八尾・若江の戦いで傍観して味方を助けなかったことを家康から叱責された。翌7日の天王寺・岡山の戦いでは汚名返上に燃え、抜け駆けしてまで前線に進軍、突撃して来た信繁の軍勢と激戦を繰り広げた。一時は裏崩れを起こして忠直の周りに兵がなだれ込む混乱も見られたが、やがて反撃に出て真田軍を撃破、忠直の鉄砲頭西尾宗次が信繁を討ち取り首級を確保、御宿政友も忠直の家臣野本右近が討ち取る、大坂城に攻め入り一番乗りを果たすなどの戦功を挙げた[注釈 3]。
戦後の10日に二条城で諸大名が居並ぶ中で家康から天下第一の勲功を褒め称えられ、初花の茶壺と高木貞宗作の脇差を与えられ、秀忠からも牧谿作の落雁の絵が与えられた。23日には討ち取った首の数を3753と報告、諸大名の中で1番の戦果だった。しかし、論功行賞では忠直の恩賞はこれだけであり、弟の忠昌が加増されたのと対照的に自分に加増が無かったことに不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。閏6月19日に従三位参議に叙任、7月に北庄へ戻ったが、同年に幕府が制定した一国一城令・武家諸法度・軍役令への対応や戦後処理は越前騒動の処理が済んでいなかったため後回しにされたと思われる。なお、11月29日に勝姫が長男仙千代(後の松平光長)を出産している。
秀忠への不満と度重なる乱行
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翌元和2年(1616年)から年下の叔父義直・頼宣・頼房が秀忠に重んじられるのと引き換えに、忠直は序列を彼等の下位に位置付けられるようになった。元旦の江戸城内における拝賀式に出席した際に席を頼房の次にされたこと、2月に重病の家康を見舞うため駿府へ駆けつけ、4月に家康が亡くなるまで駿府に詰めていたが、秀忠が家康と対面する時に義直・頼宣・頼房と一緒にしたが忠直は同行させなかったこと、元和3年(1617年)に義直・頼宣が権中納言になり官職に差が付いたことが挙げられる。元和5年(1619年)に秀忠が上洛した際、8月4日に伏見城で開催された猿楽の席次では諸大名と一緒の所に座らされ、義直・頼宣は公家と一緒の所に座らされた。秀忠から受けたこれらの待遇に屈辱感を募らせ、加増が無かったことへの不満も重なり、怒りを爆発させたとされる。
この間の出来事として、元和2年頃に絵師岩佐又兵衛を興宗寺第10世心願を通じて京都から北庄へ招いたという。同年4月に江戸から日光山へ参詣した後に中山道を通り帰国、勝姫との間に2人の娘を儲け元和3年4月3日に亀姫、元和4年(1618年)6月6日に鶴姫が生まれたが、元和5年12月6日に祖母長勝院が亡くなった。
忠直は次第に酒色に溺れるようになっていき、鉄砲・砲術への熱中も重なり暴虐に振舞った真偽不明の逸話(後述)が後世に伝えられる元となった。暴虐伝説は信憑性に疑問が持たれているが、乱行自体は事実であり、元和2年に100貫目で遊女を身請したという話がイギリス商館員リチャード・ウィッカムがカピタン(商館長)リチャード・コックスへ宛てた手紙で書かれている。江戸への参勤を途中で止めて越前へ戻ったことも周知の事実となり、元和7年(1621年)5月、病のために江戸への参勤ができず、その後回復したために出立したが途中で関ヶ原に留まり引き返している(名代としてわずか7歳の仙千代を江戸へ向かわせた)。幕府の秀忠から病状を尋ねる使者として、元家臣の近藤用可が派遣されたが、江戸へ帰還する途中で落馬事故死、死ぬ間際に弟へ忠直が酒に溺れていた状況を伝えたが、秀忠は病気ということで事を荒立てず様子を見ることにした。しかし元和7年は西国大名の多くが江戸へ参勤し、交代で帰国するはずの東国大名も江戸に留められ、元和8年(1622年)1月はほとんどの大名が越年で江戸に滞在する不穏な状態になった[注釈 4]。
同年3月21日に秀忠の命令で越前を出立したが、この時も関ヶ原に留まり引き返した。豊前小倉藩主細川忠利が父の細川忠興に宛てた書状には、忠直は越前へ戻ると引き籠り、10月8日に勝姫の侍女2人を殺害する事件を起こし、家臣達は面々で相談してそれぞれ集団を組み、忠直が呼んでも来ない者が続出したことを伝えている。『美作津山松平家譜』では侍女殺害事件で城中は混乱、集まった老臣達は忠直を居室に軟禁、成重が江戸に緊急事態を告げたとされる。『徳川実紀』によると小姓を始めとする家臣等を理由もなく斬殺するなど狂気に満ちた乱行を尽くすようになったとされ、元和8年12月30日には家臣の永見貞澄に軍勢を差し向けて一族ごと殺害してしまった。秀忠はこの年に出羽山形藩主最上義俊や老中の下野宇都宮藩主本多正純を改易したばかりだったが、忠直の行動を耳にして処分の決断を迫られた[注釈 5]。
元和9年(1623年)、一連の乱行に加え、忠直が江戸への参勤を拒否したと受け取った秀忠は忠直に隠居と西国への移住(配流)を命じた。隠居に応じない場合は軍勢を以て成敗すると脅し、出羽久保田藩主佐竹義宣や加賀藩主前田利常、豊後岡藩主中川久盛には出陣の用意を要請している。2月22日に江戸から越前に到着した母清涼院から秀忠の命令を伝えられた忠直は母の説得もあって隠居に応じ、家督は仙千代が継ぐことになった。隠居後は出家して一伯と名乗ったが、お家存続を考えて主君押込の非常手段に踏み切った家臣達に拘束されていたとの説もある。3月3日(または3月15日)に北庄城を出て5月2日まで敦賀に滞在、陸路京都を経て海路瀬戸内海を進み、5月12日(または5月27日)に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩へ配流の上、謹慎となった。移住先は大分郡萩原村(現在の大分県大分市萩原)で、3月8日に中川久盛が国元の家老へ宛てた書状によると、元は岡藩領だった所を忠直配流で急遽幕府が取り上げて竹中重義に引き渡された事情が記されている。こうして忠直は事実上改易、北庄藩は仙千代の下で存続を許された[注釈 6]。
豊後では賄料5000石[注釈 7]を与えられ、初め海沿いの萩原(現・萩原天神社境内(小字御屋敷))に住んでいた。衣類・調度品・煙草や薬箱の嗜好品、長持・鉄砲など私物が越前から萩原へ送られたことを確認した忠直の受取状が現存しているが、生活は幕府から派遣された目付(豊後府内目付)や重義の家来に監視されていた。やがて2年後の寛永2年(1625年)から忠直の移転が持ち上がり、翌寛永3年(1626年)に移転先は内陸の津守に決定、新たな屋敷の普請など準備期間を経て寛永4年(1627年)11月13日に津守へ移住した。津守に移ったのは、萩原が海辺にあり荒い場所だったからという理由からだが、海に近い萩原では海路での逃走の恐れがあったためとも言われる[51][52][53]。
寛永11年(1634年)2月に重義が別件で誅罰・改易されると、7月に代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となった。この間岡藩が府内城と忠直の警備に当たったが、忠直の侍女の治療に当たった岡藩の医者池田伊豆が日根野吉明の忠直警備交代で接触を禁止された後も忠直の家臣と文通していたことが忠直の通報で発覚、幕府に処断される事件が発生している。このような出来事はあったが、津守での忠直は寺社造営と再建・寄進・奉納や家族の延命息災を願った祈願書を送る代参を行い、神仏への帰依と家族の安全を考える余生を送った。津守の熊野神社・霊山寺・由原八幡宮にそうした忠直の痕跡が伝えられ、寛永5年(1628年)に熊野神社へ伝岩佐又兵衛作『熊野権現縁起絵巻』を奉納、寛永9年(1632年)に熊野神社へ轡・鐙・兜蓑・能面を奉納し由原八幡宮の鳥居を建立、寛永12年(1635年)に熊野神社へ鐘を寄進、翌寛永13年(1636年)には霊山寺の観音堂を再建して由原八幡宮の多宝塔も建立、寛永15年(1638年)の熊野神社本殿・拝殿・鳥居などを再建、霊山寺の山門も再建したことが挙げられる。
一方、忠直が去った後の北庄藩に人事異動があり、忠直配流の翌年の寛永元年(1624年)に幕命により、忠昌が藩領のうち北庄藩50万石及び本多富正を含む家臣105騎を継承し、高田藩から随従の300騎を併せて新たに北庄藩の家臣団を形成した。当初仙千代の行く末を思いやった忠昌は相続を固辞したが、幕府は仙千代に対しては別に領地を与えるとしたため、忠昌は北庄藩と家臣団を継承することとなり、仙千代には新たに忠昌が去った後の越後高田藩25万石が与えられ、忠昌と領地交換の形で移封になり、北庄藩の多くの家臣団と共に越後へ移った[注釈 8]。
慶安3年(1650年)9月10日に卒去、享年56。遺体は幕府から検視目的で派遣された役人と高田藩から派遣された松平光長(仙千代)の家来立会いで確認された後、浄土寺で火葬され、遺骨は浄土寺・津守・高野山へ分骨された。遺領5000石は幕命で次男永見長頼に3000石、三男永見長良に2000石に分割相続、遺品は高田藩の家来により光長へ送られ、長頼・長良兄弟も光長に引き取られた。
忠直に関する資料や実像を示した一次資料は極めて少なく、藩政との関わりや思いなども明らかになっていないため、残された逸話・説話から描かれた人物像は実像とかけ離れている可能性が指摘されている。性格も分かっておらず、『福井市史』では「資性剛毅、力人に過ぐ」、『越前人物志』では「稟性剛毅にして」、『徳川実紀』では「この卿(忠直)剛強にして」とあり、父譲りの剛直な性質と考えられているが詳細は不明。
加増の件で募らせた不満の捌け口の1つとして鉄砲・砲術に熱中、慶長17年に近江国彦根藩藩士・澤村角右衛門から稲富流砲術を伝授され、元和4年に家臣の中川右京へ砲術伝書の「直矢倉之巻」を与えたことが確認されている一方、城の櫓から通行人を撃ったという真偽不明の噂もある。また新井白石は『藩翰譜』で忠直は恩賞の不満から酒に溺れたと記し、『国事叢記』「『続片聾記』 - 忠直卿御乱行之事」等によると元和4年頃から暴虐な振舞いを繰り返すようになり、小山田多聞という寵臣に命じて罪人や拉致してきた領民を惨殺させては、その様子を一国御前と呼ばれた妾と共に酒を飲みながら眺めて楽しむなどしたというが、こちらも真偽は明らかでない。
配流先の豊後でも真偽不明の暴虐伝説があり、萩原在住期の寛永元年に亡くなった侍女お蘭の死出のお供と称して、女中18人のうち12人を殺害したという。かたや津守在住期に御用を務めた村役人達と親しくなったという話もあり、彼等は忠直が亡くなるまでの23年間に交流を結び、死後も忠直の法要を続けたことが確認されている。彼等が書いた年代記は忠直の隠居生活を知る史料となっている。
他方で忠直の善政を称える地域もあり、福井県鯖江市の旧鳥羽野地区では父の事業を引き継いで、狐・狸・野鳥の住処として住民や旅人の悩みの種だった原生林の鳥羽野を農村に開拓、住民から感謝されたという。忠直が配流された後も住民は彼の徳を慕い、八幡神社に御神体の1つとして祀っただけでなく、忠直が亡くなった2年後の承応元年(1652年)に鳥羽の代表が九州まで出向いて忠直の墓参りをした後、持ち帰った守り本尊と彼の霊を祀る琵琶神社まで建てたほどであり、どちらの神社も現存している。
延宝3年(1675年)に黒川道祐が出した随筆『遠碧軒記』で、福富立意という老人からの証言を書き留めた文章に「越前一白殿(忠直の号)御目かけられ候て」とあり、又兵衛が忠直と面識があったことが推定される。この記事を取り上げた辻惟雄は両者の関係は不明としているが、同じく記事に注目した黒田日出男は忠直が好みの御伽草子やそれらを元にした浄瑠璃物語を絵巻に描かせようと又兵衛を京都から北庄へ招いたと推定している。こうして作られたのが『又兵衛風絵巻群(古浄瑠璃絵巻群)』で、制作開始時期は元和2年頃からと推測される。
又兵衛風絵巻群のうち『山中常盤物語絵巻』・『浄瑠璃物語絵巻』・『堀江物語絵巻』は忠直からの注文であったとされ、又兵衛は弟子たちを動員して絵巻群を制作したと考えられている。ただし『浄瑠璃物語絵巻』・『堀江物語絵巻』は又兵衛の関与が少ないとの見解もあり、制作時期も忠直配流後とされる。これは辻の見解だが、黒田は異論を唱え、『浄瑠璃物語絵巻』と『堀江物語絵巻』も忠直配流前に彼の注文を受けて又兵衛を中心とする工房が制作したと考え、忠直の意向をうかがいながら古浄瑠璃絵巻群を制作したと推定している[注釈 9]。『小栗判官絵巻』・『村松物語絵巻』・『熊野権現縁起絵巻』も古浄瑠璃絵巻群に含まれるが、こちらは画風が異なり、又兵衛の流れをくむ絵師が描いたと考えられる。
黒田は寛永5年2月吉日に忠直が配流先の豊後津守で『熊野権現縁起絵巻』を津守熊野神社へ奉納したことを指摘、又兵衛工房に依頼して絵巻を描かせ神社へ奉納したと仮定した。制作年代の特定も行い、下限を寛永5年2月吉日に特定、上限は同年初頭か前年の寛永4年末と推定している。合わせて絵巻群の順番と制作年代も推定、順番は『堀江物語絵巻(残欠本)』、『山中常盤物語絵巻』、『浄瑠璃物語絵巻』、『小栗判官絵巻』、『堀江物語絵巻(堀江巻双紙)』、『村松物語絵巻』、『熊野権現縁起絵巻』と推測、制作年代の上限は又兵衛が来た元和2年、下限は寛永5年2月吉日に定めている[注釈 10]。
又兵衛の他の作品は古浄瑠璃絵巻群以外に『旧金谷屏風』『三十六歌仙画冊』『人麿・貫之像』が確認されている。これらは忠直が北庄藩主だった時期に制作され、忠直が配流された後も又兵衛は北庄(福井)に留まり、忠昌が藩主の時代に『池田屏風』『太平記 本性房振力図』『和漢故事説話図(和漢故事人物図巻)』などを描き、寛永14年(1637年)に江戸へ下向するまで福井で制作を続けた。
※日付=旧暦
- 1605年(慶長10年)9月10日、従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
- 1606年(慶長11年)3月3日、右近衛権少将に転任。三河守如元。
- 1607年(慶長12年)閏4月27日、家督相続し、藩主となる。
- 1611年(慶長16年)3月20日、左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元。この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。
- 1615年(元和元年)閏6月19日、従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
- 月日不詳、参議辞職。左近衛権中将・越前守如元。
忠直時代
- 小説
- 映画
- テレビドラマ
- 漫画
- 山田芳裕『へうげもの』(2017年) - 終盤に登場し、大坂夏の陣で窮地に陥った岩佐又兵衛を助ける。
- ^ 「越前の国に騒動の事起こりて以ての外に騒動す……」
- ^ 越前騒動の詳細については一次資料がほとんど無く、他の資料は内容に信憑性が疑われる代物のため、騒動の実態が分からなくなっている。きっかけは慶長17年に盛次派とされる町奉行岡部自休と富正派の久世但馬守それぞれの百姓の争いにあり、それが派閥抗争に発展、主導権を握った盛次は忠直の命令として但馬守に騒動の責任を取らせて切腹させるため、富正を説得の使者として但馬守の下へ派遣、話し合いが決裂した直後に総攻撃に出て但馬守を一族もろとも討ち取った。これが家康・秀忠の上聞に達すると関係者たちは江戸へ召喚、盛次・清水方正・岡部自休ら盛次派は配流され富正の勝利に終わり、中川出雲守も配流された上で富正・成重が秀忠の命令で忠直の補佐をするという結末までが騒動の経緯である。しかし江戸の評定や処分などが書かれた資料は後世の編纂物であり、評定・審議が衆人環視の下で公開されたという話や家康の裁決には創作の疑いがあり、現実と資料の内容に乖離が生じているのではないかとの指摘がある。また、忠直がどの程度騒動に関与していたかも明らかでないが、関係者の間で彼の資質を心配し論議された結果が富正・成重の補佐になったのでないかと推測されている。
- ^ この時、忠直自身も首を一つ取ったという。この時の越前藩兵の勇戦ぶりを「かかれかかれ越前衆、たんだかかれの越前衆 命知らずの嬬黒の旗」と詠んだ歌もある。
- ^ 仮病や気鬱だと言われるが、郷土資料である『片聾記』に元和6年(1620年)に忠直が発病したという記録があるため、元和7年の参勤を行わなかったことは恩賞に対する不満などではない可能性もある。
- ^ この年4月に秀忠は日光社参したが、再び参勤途中で関ヶ原に留まった忠直を警戒してか厳重な警備体制が取られていた。また秀忠は7月下旬に最上騒動の裁定を下し最上義俊を改易、10月には山形へ処理に派遣された本多正純も改易にした(宇都宮城釣天井事件)。義俊の改易は家中が自分の裁定を蔑ろにしたことへの怒り、正純に関しては独断専行が多いことへの不満が理由にあったが、正純が忠直や諸大名と結託して内乱を起こすのではないかと秀忠が疑心暗鬼に陥った可能性も上がっている。
- ^ 『元和年録』元和9年条で秀忠が忠昌に忠直の取り扱いを尋ねる場面が書かれ、忠昌は身柄拘束すなわち主君押込も考えていることを答え、この資料では忠昌か藩の重臣たちで主君押込を密かに実施することが両者の間で暗黙の了解として成立していたではないかと推測されている。忠直が拘束された時期は侍女殺害事件で老臣達に拘束された時、あるいは母と会見した元和9年2月頃とされている。また敦賀滞在中に忠直が孝顕寺住職の三陽和尚へ宛てた書状が2通あり(4月8日条・5月2日条)、5月2日条の書状には「ただただ地獄遠からず、それ現在のくわ(果)を見て未来を知る一心までにて御座候」と途中で死を賜るのではないかという恐れを記している。
- ^ 一説に1万石。
- ^ 忠昌にとってこの転封は倍増だったが、北庄藩(福井藩)自体は領地が18万石削減されることになった(68万石→50万石)。その分は忠昌の3人の弟(直政・直基・直良)と成重などに与えられ、直政・直基・直良はそれぞれ越前大野藩5万石・越前勝山藩3万石・越前木本藩2万5000石、成重は越前丸岡藩4万8000石、若狭小浜藩主京極忠高は敦賀郡2万2000石を分与された。
- ^ 黒田は辻が絵巻群の注文主の解明をなおざりにしていると批判、注文主を忠直と捉え、5つの観点から忠直の関与なくしては絵巻群が出来ないと主張している(1.絵巻の豪華絢爛な装飾性は忠直の財力と希望による、2.山中常盤物語絵巻以外の作品にある同じ場面の反復・劇的場面に見られるリアルで生々しい表現は忠直が求めた表現、3.特に父母の死と主人公の復讐場面を表現することを求めた、4.堀江物語絵巻の初期作「残欠本」より山中常盤物語絵巻が完成度が高いことに注目、残欠本を試作ないし習作と仮定し、最初に作らせた絵巻が残欠本で次が山中常盤物語絵巻、5.隠居・配流された後の忠直には次々と絵巻注文が出来ないので、絵巻群の大部分は配流された元和9年以前に制作された可能性がある)。また不行跡で隠居・配流させられる前の忠直の心理状態を推測した黒田は、秀忠や勝姫への不満が絵巻群制作と結びついていたと考え、山中常盤物語絵巻を除く絵巻群には夫婦の契りと妻の貞節が描かれている点に注目、忠直は出来上がった絵巻群を勝姫と侍女たちに見せて、秀忠に背いて夫である自分の側に立つ(貞節)ことを求めて説得したと推測している(史実では逆に勝姫は秀忠の側に立ち忠直から離れた)。
- ^ 制作年代の上限の絞り込みは戸田浩之、四辻秀紀、澤田和人、深谷大、志賀太郎らが絵巻群の研究で進め、津山松平家に伝来した山中常盤物語絵巻・浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻(残欠本)の詞書・見返し(菊に流水文様)が村松物語絵巻と同じ点、元和4年に忠直が家臣の中川右京に与えた稲富流砲術の伝書の見返しにも菊に流水文様が使用されていることから、4つの絵巻群制作年代は元和年間に絞られ、注文主が忠直である可能性が強まった。更に黒田は小栗判官絵巻・堀江物語絵巻(堀江巻双紙)・熊野権現縁起絵巻も忠直が注文したと推測、深谷が津山松平家伝来の愛山文庫(津山郷土博物館)から4つの絵巻群の詞書の写本を多数発見したことに触れ、絵巻群も津山松平家に伝来しており、のちに流出した小栗判官絵巻が池田長準の手に渡り皇室へ献上されたとする仮説を唱えた。残る堀江巻双紙・熊野権現縁起絵巻も詞書の筆跡が5つの絵巻群と極めて似ていることを発見、筆者は忠直の周辺にいる人物と特定、忠直注文主説を補強した。ちなみに、絵巻群は忠直が配流先の豊後まで持参、亡くなるまで持っていたと黒田は推測、死後は忠直の息子光長の許に運ばれ、子孫である津山松平家が保管し続けたとしている。
- ^ 系図纂要などの系図には記載されていない。
越前松平家福井藩2 代藩主 (1607 年 - 1623 年) |
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北荘藩 |
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福井藩 |
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