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松平まつだいら忠直ただなお

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松平まつだいら 忠直ただなお
松平まつだいら忠直ただなおぞう浄土寺じょうどじくら
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん ぶんろく4ねん6がつ10日とおか1595ねん7がつ16にち
死没しぼつ 慶安けいあん3ねん9がつ10日とおか1650ねん10月5にち
改名かいめい 結城ゆうきせん千代ちよ幼名ようみょう)→松平まつだいら忠直ただなお
別名べつめい 幼名ようみょうちょう吉丸よしまるくにわかまるとも)
ごういちはく
戒名かいみょう 西にしいわおいん殿どのぜん越前えちぜん太守たいしゅげん三位相公相誉蓮友大居士
西にしいわおいん殿どのしょうほまれはちすともいちはくだい居士こじ
墓所はかしょ 大分おおいたけん大分おおいた浄土寺じょうどじ
大分おおいたけん大分おおいた朝日あさひてら
和歌山わかやまけん伊都いとぐん高野たかのまち金剛峯寺こんごうぶじ
東京とうきょう文京ぶんきょう浄土寺じょうどじ
福井ふくいけん鯖江さばえ長久寺ちょうきゅうじ
東京とうきょう品川しながわうみ晏寺
官位かんい したがえよん侍従じじゅう三河みかわまもるみぎ近衛このえけん少将しょうしょう
したがえよんじょうひだり近衛このえけん少将しょうしょうしたがえさん参議さんぎ
ひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう越前えちぜんまもる
主君しゅくん 徳川とくがわ秀忠ひでただ
はん 越前えちぜんこく北庄きたしょうはん藩主はんしゅ
氏族しぞく 結城ゆうき越前えちぜん松平まつへい宗家そうけ
父母ちちはは ちち結城ゆうき秀康ひでやすはは岡山おかやま清涼せいりょういん
兄弟きょうだい 忠直ただなお忠昌ただまさひめ直政なおまさ本多ほんだ吉松きちまつちょくもと直良なおよし、呑栄
つま 正室せいしつかちひめ徳川とくがわ秀忠ひでたださんじょ
光長みつなが寧子やすこ鶴子つるこ女子じょし永見ながみちょうよりゆき永見ながみ長良ながら、閑
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松平まつだいら 忠直ただなお(まつだいら ただなお)は、日本にっぽん江戸えど時代じだい前期ぜんき親藩しんぱん大名だいみょう越前えちぜんこく北庄きたしょうはん藩主はんしゅ官位かんいしたがえさん参議さんぎひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう越前えちぜんまもる

生涯しょうがい

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若年じゃくねん藩主はんしゅ

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ぶんろく4ねん(1595ねん)、摂津せっつ東成ひがしなりぐんなまたましいにて、結城ゆうき秀康ひでやす長男ちょうなんとして誕生たんじょうした。はは中川なかがわ一元いちげんむすめ岡山おかやま清涼せいりょういん[1][2]同母どうぼおとうと松平まつだいら忠昌ただまさ異母弟いぼてい松平まつだいら直政なおまさ松平まつだいらただしもと松平まつだいら直良なおよしがいる。また江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやす祖父そふ、2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ叔父おじ、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ従弟じゅうていたる[3]

慶長けいちょう8ねん1603ねん)、江戸えど参勤さんきんのおりに叔父おじ秀忠ひでただはつ目見まみする。人質ひとじちではあったが秀忠ひでただからはおおいにられ、慶長けいちょう10ねん1605ねん)にかれした元服げんぷくしたがえよん侍従じじゅう三河みかわまもるじょせられ、秀忠ひでただよりへんいみな忠直ただなお名乗なのる。慶長けいちょう11ねん1606ねん)3がつ3にちみぎ近衛このえけん少将しょうしょうにんじられる[4]

慶長けいちょう12ねん1607ねん)、ちちともなって北庄きたしょう68まんせき相続そうぞくしたが、幼少ようしょうのため家老がろう本多ほんだとみただし伊豆いずまもる)・今村いまむらもり(掃部)が領国りょうごく統治とうちたった[5][6]

慶長けいちょう16ねん1611ねん)に祖父そふ家康いえやすれられて上洛じょうらく3がつ20日はつかしたがえよんじょうひだり近衛このえけん少将しょうしょう昇叙しょうじょ、3にち23にち祖父そふとも宮中きゅうちゅう参内さんだいした。9月28にちには秀忠ひでただむすめ従妹じゅうまいたるかちひめ正室せいしつむかえ、れやかな出来事できごとかさなった。しかし一方いっぽうおなじく祖父そふとも上洛じょうらく参内さんだいした3にん年下としした叔父おじである徳川とくがわ義直よしなお徳川とくがわ頼宣よりのぶ徳川とくがわ頼房よりふさ叙任じょにんされる、国元くにもと家臣かしん桜井さくらいたけし兵衛ひょうえてた6月24にちづけ手紙てがみ詳細しょうさい不明ふめい人物じんぶつあづけることを指示しじするなど、忠直ただなお周囲しゅういにはいくつか不穏ふおん出来事できごと胎動たいどうしていた[7][8]

慶長けいちょう17ねん1612ねんふゆ重臣じゅうしんたちの確執かくしつこうじて武力ぶりょく鎮圧ちんあつだい騒動そうどうとなり、関係かんけいしゃ江戸えど召喚しょうかん家康いえやす秀忠ひでただりょう御所ごしょによる直裁ちょくさいによって処分しょぶんされ、重臣じゅうしん今村いまむらもり清水しみず方正ほうせい丹後たんご)は配流はいるとなる一方いっぽうおな重臣じゅうしん本多ほんだとみせいぎゃく越前えちぜん国政こくせい補佐ほさすることをめいじられた。よく慶長けいちょう18ねん1613ねん)4がつには土井どい利勝としかつ越前えちぜんおもむいてふたた処分しょぶんおこなわれ、忠直ただなお母方ははかた伯父おじ中川なかがわ出雲いずもまもる配流はいるされ、5月に秀忠ひでただ命令めいれいとみせい越前えちぜん国政こくせいることとされ、くわえてとみせい従兄弟いとこ本多ほんだしげるじゅう丹下たんげ)をづけ家老がろうとして越前えちぜん付属ふぞくさせた。これは騒動そうどうかさなるのは忠直ただなおがまだわか力量りきりょういたらぬとりょう御所ごしょ判断はんだんしたためである(越前えちぜん騒動そうどう[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2][13]。またこのあいだ慶長けいちょう17ねんれに池田いけだ黒田くろだしょ大名だいみょうとも禁裏きんり仙洞せんとう御所ごしょ普請ふしんめいじられ、このころから徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ家門かもん越前えちぜんいち大名だいみょうとしてあつかわれるようになる[14]

大坂おおさかじん活躍かつやく

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慶長けいちょう19ねん1614ねん4がつ6にち駿府すんぷ家康いえやす拝謁はいえつとみただしなるじゅう補佐ほさけることをあらためてめいじられたが(秀忠ひでただとみただしなるじゅう忠直ただなお後見こうけんやく任命にんめいしたとも)、りょう本多ほんだとのあいだはぎくしゃくしていたとされ、藩主はんしゅとしての権力けんりょく行動こうどう制約せいやくされたことに不満ふまんいたとかんがえられている[15][16]同年どうねんこった大坂おおさかふゆじんでは、軍事ぐんじ越前えちぜんぐんひきいたりょう本多ほんだ統制とうせいされ、越前えちぜんぐん活躍かつやくしょ資料しりょう紹介しょうかいされているが忠直ただなお本人ほんにん活躍かつやくはほとんどられない[17]

12月4にち真田さなだまるたたかでは、前田まえだ利常としつね軍勢ぐんぜいつづいて井伊いい直孝なおたか軍勢ぐんぜい先鋒せんぽうあらそ進撃しんげきするが、田丸たまるこも真田さなだ信繁のぶしげ反撃はんげきい480にん戦死せんししゃ敗北はいぼくわった[14][18][19]よく慶長けいちょう20ねん元和がんわ元年がんねん1615ねん)の大坂おおさかなつじんでも5月6にち八尾やお若江わかえたたか傍観ぼうかんして味方みかたたすけなかったことを家康いえやすから叱責しっせきされた[14][20]よく7にち天王寺てんのうじ岡山おかやまたたかでは汚名おめい返上へんじょうえ、けしてまで前線ぜんせん進軍しんぐん突撃とつげきして信繁のぶしげ軍勢ぐんぜい激戦げきせんひろげた。一時いちじうらくずれをこして忠直ただなおまわりにへいがなだれ混乱こんらんられたが、やがて反撃はんげき真田さなだぐん撃破げきは忠直ただなお鉄砲てっぽうあたま西尾にしおはじめ信繁のぶしげ首級しゅきゅう確保かくほ御宿おんじゅく政友せいゆう忠直ただなお家臣かしん野本のもと右近うこんる、だい坂城さかき一番乗いちばんのりをたすなどの戦功せんこうげた[注釈ちゅうしゃく 3][14][22]

戦後せんご10日とおか二条城にじょうじょうしょ大名だいみょう居並いならなか家康いえやすから天下てんかだいいち勲功くんこうとなえられ、はつはなちゃつぼ高木たかぎ貞宗さだむねさく脇差わきざしあたえられ、秀忠ひでただからもまき谿さく落雁らくがんあたえられた。23にちにはったくびかずを3753と報告ほうこくしょ大名だいみょうなかで1ばん戦果せんかだった。しかし、論功行賞ろんこうこうしょうでは忠直ただなお恩賞おんしょうはこれだけであり、おとうと忠昌ただまさ加増かぞうされたのと対照たいしょうてき自分じぶん加増かぞうかったことに不満ふまんいだき、次第しだい幕府ばくふへの不満ふまんつのらせていった[23][24][25][26]うるう6月19にちしたがえさん参議さんぎ叙任じょにん、7がつ北庄きたしょうもどったが、同年どうねん幕府ばくふ制定せいていした一国一城いっこくいちじょうれい武家ぶけしょ法度はっと軍役ぐんえきれいへの対応たいおう戦後せんご処理しょり越前えちぜん騒動そうどう処理しょりんでいなかったため後回あとまわしにされたとおもわれる[27]。なお、11月29にちかちひめ長男ちょうなんせん千代ちよ松平まつだいら光長みつなが)を出産しゅっさんしている[28]

秀忠ひでただへの不満ふまん度重たびかさなる乱行らんぎょう

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よく元和がんわ2ねん1616ねん)から年下としした叔父おじ義直よしなお頼宣よりのぶ頼房よりふさ秀忠ひでただおもんじられるのとえに、忠直ただなお序列じょれつ彼等かれら下位かい位置付いちづけられるようになった。元旦がんたん江戸城えどじょううちにおける拝賀はいがしき出席しゅっせきしたさいせき頼房よりふさつぎにされたこと、2がつ重病じゅうびょう家康いえやす見舞みまうため駿府すんぷけつけ、4がつ家康いえやすくなるまで駿府すんぷめていたが、秀忠ひでただ家康いえやす対面たいめんするとき義直よしなお頼宣よりのぶ頼房よりふさ一緒いっしょにしたが忠直ただなお同行どうこうさせなかったこと、元和がんわ3ねん1617ねん)に義直よしなお頼宣よりのぶけん中納言ちゅうなごんになり官職かんしょくいたことがげられる。元和がんわ5ねん1619ねん)に秀忠ひでただ上洛じょうらくしたさい8がつ4にち伏見ふしみじょう開催かいさいされた猿楽さるがく席次せきじではしょ大名だいみょう一緒いっしょところすわらされ、義直よしなお頼宣よりのぶ公家くげ一緒いっしょところすわらされた。秀忠ひでただからけたこれらの待遇たいぐう屈辱くつじょくかんつのらせ、加増かぞうかったことへの不満ふまんかさなり、いかりを爆発ばくはつさせたとされる[14][29][30]

このあいだ出来事できごととして、元和がんわ2ねんごろ絵師えし岩佐いわさ又兵衛またべえ興宗寺こうしゅうじだい10せい心願しんがんつうじて京都きょうとから北庄きたしょうまねいたという[31][32]同年どうねん4がつ江戸えどから日光にっこうさん参詣さんけいしたのち中山道なかせんどうとお帰国きこくかちひめとのあいだ2人ふたりむすめもうもと3ねん4がつ3にちかめひめ元和がんわ4ねん1618ねん6月6にちつるひめまれたが、元和がんわ5ねん12月6にち祖母そぼちょうかちいんくなった[28][33]

忠直ただなお次第しだい酒色しゅしょくおぼれるようになっていき、鉄砲てっぽう砲術ほうじゅつへの熱中ねっちゅうかさなり暴虐ぼうぎゃく振舞ふるまった真偽しんぎ不明ふめい逸話いつわ後述こうじゅつ)が後世こうせいつたえられるもととなった。暴虐ぼうぎゃく伝説でんせつ信憑しんぴょうせい疑問ぎもんたれているが、乱行らんぎょう自体じたい事実じじつであり、元和がんわ2ねんに100貫目かんめ遊女ゆうじょしたというはなしイギリス商館しょうかんいんリチャード・ウィッカムカピタン商館しょうかんちょうリチャード・コックスてた手紙てがみかれている。江戸えどへの参勤さんきん途中とちゅうめて越前えちぜんもどったことも周知しゅうち事実じじつとなり、元和がんわ7ねん1621ねん)5がつやまいのために江戸えどへの参勤さんきんができず、その回復かいふくしたために出立しゅったつしたが途中とちゅう関ヶ原せきがはらまりかえしている(名代なだいとしてわずか7さいせん千代ちよ江戸えどかわせた)。幕府ばくふ秀忠ひでただから病状びょうじょうたずねる使者ししゃとして、もと家臣かしん近藤こんどうよう派遣はけんされたが、江戸えど帰還きかんする途中とちゅう落馬らくば事故死じこし間際まぎわおとうと忠直ただなおさけおぼれていた状況じょうきょうつたえたが、秀忠ひでただ病気びょうきということでこと荒立あらだてず様子ようすることにした。しかしもと7ねん西国さいこく大名だいみょうおおくが江戸えど参勤さんきんし、交代こうたい帰国きこくするはずの東国とうごく大名だいみょう江戸えどめられ、元和がんわ8ねん1622ねん)1がつはほとんどの大名だいみょう越年えつねん江戸えど滞在たいざいする不穏ふおん状態じょうたいになった[注釈ちゅうしゃく 4][34][35]

同年どうねん3月21にち秀忠ひでただ命令めいれい越前えちぜん出立しゅったつしたが、このとき関ヶ原せきがはらまりかえした。豊前ぶぜん小倉こくらはんあるじ細川ほそかわ忠利ただとしちち細川ほそかわ忠興ただおきてた書状しょじょうには、忠直ただなお越前えちぜんもどるとこもり、10月8にちかちひめ侍女じじょ2にん殺害さつがいする事件じけんこし、家臣かしんたち面々めんめん相談そうだんしてそれぞれ集団しゅうだんみ、忠直ただなおんでもないもの続出ぞくしゅつしたことをつたえている。『美作みさく津山つやま松平まつへい』では侍女じじょ殺害さつがい事件じけん城中じょうちゅう混乱こんらんあつまった老臣ろうしんたち忠直ただなお居室きょしつ軟禁なんきんなりじゅう江戸えど緊急きんきゅう事態じたいげたとされる。『徳川とくがわ実紀みき』によると小姓こしょうはじめとする家臣かしんとう理由りゆうもなく斬殺ざんさつするなど狂気きょうきちた乱行らんぎょうくすようになったとされ、元和がんわ8ねん12月30にちには家臣かしん永見ながみさだきよし軍勢ぐんぜいけて一族いちぞくごと殺害さつがいしてしまった。秀忠ひでただはこのとし出羽でわ山形やまがたはんあるじ最上もがみよししゅん老中ろうじゅう下野げや宇都宮うつのみやはんあるじ本多ほんだ正純まさずみ改易かいえきしたばかりだったが、忠直ただなお行動こうどうみみにして処分しょぶん決断けつだんせまられた[注釈ちゅうしゃく 5][37][38][39]

隠居いんきょ豊後ぶんご配流はいる

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元和がんわ9ねん1623ねん)、一連いちれん乱行らんぎょうくわえ、忠直ただなお江戸えどへの参勤さんきん拒否きょひしたとった秀忠ひでただ忠直ただなお隠居いんきょ西国さいこくへの移住いじゅう配流はいる)をめいじた。隠居いんきょおうじない場合ばあい軍勢ぐんぜいもっ成敗せいばいするとおどし、出羽でわ久保田くぼたはんあるじ佐竹さたけ義宣よしのぶ加賀かがはんしゅ前田まえだ利常としつね豊後ぶんごおかはんあるじ中川なかがわ久盛ひさもりには出陣しゅつじん用意ようい要請ようせいしている。2がつ22にち江戸えどから越前えちぜん到着とうちゃくしたはは清涼せいりょういんから秀忠ひでただ命令めいれいつたえられた忠直ただなおはは説得せっとくもあって隠居いんきょおうじ、家督かとくせん千代ちよぐことになった。隠居いんきょ出家しゅっけしていちはく名乗なのったが、おいえ存続そんぞくかんがえて主君しゅくん押込おしごめ非常ひじょう手段しゅだんった家臣かしんたち拘束こうそくされていたとのせつもある。3月3にち(または3月15にち)に北庄きたしょうじょう5月2にちまで敦賀つるが滞在たいざい陸路りくろ京都きょうと海路かいろ瀬戸内海せとないかいすすみ、5月12にち(または5月27にち)に竹中たけなか重義しげよし藩主はんしゅつとめる豊後ぶんご府内ふないはん配流はいるうえ謹慎きんしんとなった。移住いじゅうさき大分おおいたぐん萩原はぎはらむら現在げんざい大分おおいたけん大分おおいた萩原はぎはら)で、3月8にち中川なかがわ久盛ひさもり国元くにもと家老がろうてた書状しょじょうによると、もとおかはんりょうだったところ忠直ただなお配流はいる急遽きゅうきょ幕府ばくふげて竹中たけなか重義しげよしわたされた事情じじょうしるされている。こうして忠直ただなお事実じじつじょう改易かいえき北庄きたしょうはんせん千代ちよした存続そんぞくゆるされた[注釈ちゅうしゃく 6][43][44][45][46][47]

豊後ぶんごではまかないりょう5000せき[注釈ちゅうしゃく 7]あたえられ、はじ海沿うみぞいの萩原はぎはらげん萩原天神はぎわらてんじんしゃ境内けいだい小字こあざ屋敷やしき))にんでいた。衣類いるい調度ちょうどひん煙草たばこくすりばこ嗜好しこうひん長持ながもち鉄砲てっぽうなど私物しぶつ越前えちぜんから萩原はぎはらおくられたことを確認かくにんした忠直ただなお受取うけとりじょう現存げんそんしているが、生活せいかつ幕府ばくふから派遣はけんされた目付めつけ豊後ぶんご府内ふない目付めつけ)や重義しげよし家来けらいかんされていた[48][49]。やがて2ねん寛永かんえい2ねん1625ねん)から忠直ただなお移転いてんがり、よく寛永かんえい3ねん1626ねん)に移転いてんさき内陸ないりく津守つもり決定けっていあらたな屋敷やしき普請ふしんなど準備じゅんび期間きかん寛永かんえい4ねん1627ねん11月13にち津守つもり移住いじゅうした[48][50]津守つもりうつったのは、萩原はぎはら海辺うみべにありあら場所ばしょだったからという理由りゆうからだが、うみちか萩原はぎはらでは海路かいろでの逃走とうそうおそれがあったためともわれる[48][51][52][53]

寛永かんえい11ねん1634ねん)2がつ重義しげよし別件べっけんで誅罰・改易かいえきされると、7がつわって府内ふない藩主はんしゅとなった日根野ひねの吉明よしあきあずかりじんとなった。このあいだおかはん府内ふないじょう忠直ただなお警備けいびたったが、忠直ただなお侍女じじょ治療ちりょうたったおかはん医者いしゃ池田いけだ伊豆いず日根野ひねの吉明よしあき忠直ただなお警備けいび交代こうたい接触せっしょく禁止きんしされたのち忠直ただなお家臣かしん文通ぶんつうしていたことが忠直ただなお通報つうほう発覚はっかく幕府ばくふ処断しょだんされる事件じけん発生はっせいしている[54]。このような出来事できごとはあったが、津守つもりでの忠直ただなお寺社じしゃ造営ぞうえい再建さいけん寄進きしん奉納ほうのう家族かぞく延命えんめい息災そくさいねがった祈願きがんしょおく代参だいさんおこない、神仏しんぶつへの帰依きえ家族かぞく安全あんぜんかんがえる余生よせいおくった。津守つもり熊野くまの神社じんじゃ霊山りょうぜんてらゆかりげん八幡宮はちまんぐうにそうした忠直ただなお痕跡こんせきつたえられ、寛永かんえい5ねん1628ねん)に熊野くまの神社じんじゃつて岩佐いわさ又兵衛またべえさく熊野くまの権現ごんげん縁起えんぎ絵巻えまき』を奉納ほうのう寛永かんえい9ねん1632ねん)に熊野くまの神社じんじゃくつわあぶみかぶとみの能面のうめん奉納ほうのうゆかりげん八幡宮はちまんぐう鳥居とりい建立こんりゅう寛永かんえい12ねん1635ねん)に熊野くまの神社じんじゃかね寄進きしんよく寛永かんえい13ねん1636ねん)にはれい山寺やまでら観音堂かんのんどう再建さいけんしてゆかりげん八幡宮はちまんぐう多宝塔たほうとう建立こんりゅう寛永かんえい15ねん1638ねん)の熊野くまの神社じんじゃ本殿ほんでん拝殿はいでん鳥居とりいなどを再建さいけん霊山りょうぜんてら山門さんもん再建さいけんしたことがげられる[55][56]

一方いっぽう忠直ただなおったのち北庄きたしょうはん人事じんじ異動いどうがあり、忠直ただなお配流はいる翌年よくねん寛永かんえい元年がんねん1624ねん)に幕命ばくめいにより、忠昌ただまさはんりょうのうち北庄きたしょうはん50まんせきおよ本多ほんだとみせいふく家臣かしん105継承けいしょうし、高田たかだはんから随従ずいじゅうの300あわせてあらたに北庄きたしょうはん家臣かしんだん形成けいせいした。当初とうしょせん千代ちよすえおもいやった忠昌ただまさ相続そうぞく固辞こじしたが、幕府ばくふせんせんだいたいしてはべつ領地りょうちあたえるとしたため、忠昌ただまさ北庄きたしょうはん家臣かしんだん継承けいしょうすることとなり、せん千代ちよにはあらたに忠昌ただまさったのち越後えちご高田たかだはん25まんせきあたえられ、忠昌ただまさ領地りょうち交換こうかんかたちうつりふうになり、北庄きたしょうはんおおくの家臣かしんだんとも越後えちごうつった[注釈ちゅうしゃく 8][58][59]

慶安けいあん3ねん(1650ねん)9がつ10日とおか卒去そっきょ享年きょうねん56[60]遺体いたい幕府ばくふから検視けんし目的もくてき派遣はけんされた役人やくにん高田たかだはんから派遣はけんされた松平まつだいら光長みつながせん千代ちよ)の家来けらい立会たちあいで確認かくにんされたのち浄土寺じょうどじ火葬かそうされ、遺骨いこつ浄土寺じょうどじ津守つもり高野山こうのやま分骨ぶんこつされた。のこりょう5000せき幕命ばくめい次男じなん永見ながみちょうよりゆきに3000せき三男さんなん永見ながみ長良ながらに2000せき分割ぶんかつ相続そうぞく遺品いひん高田たかだはん家来けらいにより光長みつながおくられ、ちょうよりゆき長良ながら兄弟きょうだいひかりちょうられた[61][62]

人物じんぶつ

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忠直ただなおかんする資料しりょう実像じつぞうしめしたいち資料しりょうきわめてすくなく、藩政はんせいとのかかわりやおもいなどもあきらかになっていないため、のこされた逸話いつわ説話せつわからえがかれた人物じんぶつぞう実像じつぞうとかけはなれている可能かのうせい指摘してきされている。性格せいかくかっておらず、『福井ふくい』では「資性しせい剛毅ごうきちからじんぐ」、『越前えちぜん人物じんぶつこころざし』では「稟性ひんせい剛毅ごうきにして」、『徳川とくがわ実紀みき』では「このきょう忠直ただなおつよしきょうにして」とあり、ちちゆずりの剛直ごうちょく性質せいしつかんがえられているが詳細しょうさい不明ふめい[63]

加増かぞうけんつのらせた不満ふまんさばぐちの1つとして鉄砲てっぽう砲術ほうじゅつ熱中ねっちゅう慶長けいちょう17ねん近江おうみこく彦根ひこねはん藩士はんしさわ村角むらすみみぎ衛門えもんから稲富いなとみりゅう砲術ほうじゅつ伝授でんじゅされ、元和がんわ4ねん家臣かしん中川なかがわ右京うきょう砲術ほうじゅつ伝書でんしょの「ちょく矢倉やぐらまき」をあたえたことが確認かくにんされている一方いっぽうしろから通行人つうこうにんったという真偽しんぎ不明ふめいうわさもある[64][65]。また新井あらい白石はくせきは『はん翰譜』で忠直ただなお恩賞おんしょう不満ふまんからさけおぼれたとしるし、『国事こくじくさむら』「『ぞくかたろう』 - 忠直ただなおきょう乱行らんぎょうこととうによると元和がんわ4ねんごろから暴虐ぼうぎゃく振舞ふるまいをかえすようになり、小山田おやまだ多聞たもんという寵臣ちょうしんめいじて罪人ざいにん拉致らちしてきた領民りょうみん惨殺ざんさつさせては、その様子ようすいちこく御前ごぜんばれたわらわともさけみながらながめてたのしむなどしたというが、こちらも真偽しんぎあきらかでない[66][67]

配流はいるさき豊後ぶんごでも真偽しんぎ不明ふめい暴虐ぼうぎゃく伝説でんせつがあり、萩原はぎはら在住ざいじゅう寛永かんえい元年がんねんくなった侍女じじょらん死出しでのおともしょうして、女中じょちゅう18にんのうち12にん殺害さつがいしたという[48][68]。かたや津守つもり在住ざいじゅう御用ごようつとめた村役人むらやくにんたちしたしくなったというはなしもあり、彼等かれら忠直ただなおくなるまでの23年間ねんかん交流こうりゅうむすび、死後しご忠直ただなお法要ほうようつづけたことが確認かくにんされている。彼等かれらいた年代ねんだい忠直ただなお隠居いんきょ生活せいかつ史料しりょうとなっている[69]

他方たほう忠直ただなお善政ぜんせいたたえる地域ちいきもあり、福井ふくいけん鯖江さばえきゅうとり羽野はの地区ちくではちち事業じぎょういで、きつねたぬき野鳥やちょう住処すみかとして住民じゅうみん旅人たびびとなやみのたねだった原生げんせいりんとり羽野はの農村のうそん開拓かいたく住民じゅうみんから感謝かんしゃされたという。忠直ただなお配流はいるされたのち住民じゅうみんかれとくしたい、八幡やはた神社じんじゃ神体しんたいの1つとしてまつっただけでなく、忠直ただなおくなった2ねんうけたまわおう元年がんねん1652ねん)にとり代表だいひょう九州きゅうしゅうまで出向でむいて忠直ただなお墓参はかまいりをしたのちかえったまも本尊ほんぞんかれれいまつ琵琶びわ神社じんじゃまでてたほどであり、どちらの神社じんじゃ現存げんそんしている[70][71]

岩佐いわさ又兵衛またべえとの関係かんけい

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のべたから3ねん1675ねん)に黒川くろかわ道祐どうゆうした随筆ずいひつとおあおのき』で、福富ふくとみたてという老人ろうじんからの証言しょうげんめた文章ぶんしょうに「越前えちぜん一白いっぱく殿どの忠直ただなおごうかけられこうて」とあり、又兵衛またべえ忠直ただなお面識めんしきがあったことが推定すいていされる。この記事きじげたつじおもんみゆう両者りょうしゃ関係かんけい不明ふめいとしているが、おなじく記事きじ注目ちゅうもくした黒田くろだ日出男ひでお忠直ただなおこのみの御伽草子おとぎぞうしやそれらをもとにした浄瑠璃じょうるり物語ものがたり絵巻えまきえがかせようと又兵衛またべえ京都きょうとから北庄きたしょうまねいたと推定すいていしている。こうしてつくられたのが『又兵衛またべえふう絵巻えまきぐん浄瑠璃じょうるり絵巻えまきぐん)』で、制作せいさく開始かいし時期じき元和がんわ2ねんごろからと推測すいそくされる[31][72][73]

また兵衛ひょうえふう絵巻えまきぐんのうち『山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまき』・『浄瑠璃じょうるり物語ものがたり絵巻えまき』・『堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき』は忠直ただなおからの注文ちゅうもんであったとされ、又兵衛またべえ弟子でしたちを動員どういんして絵巻えまきぐん制作せいさくしたとかんがえられている。ただし『浄瑠璃じょうるり物語ものがたり絵巻えまき』・『堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき』は又兵衛またべえ関与かんよすくないとの見解けんかいもあり、制作せいさく時期じき忠直ただなお配流はいるとされる[74]。これはつじ見解けんかいだが、黒田くろだ異論いろんとなえ、『浄瑠璃じょうるり物語ものがたり絵巻えまき』と『堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき』も忠直ただなお配流はいるまえかれ注文ちゅうもんけて又兵衛またべえ中心ちゅうしんとする工房こうぼう制作せいさくしたとかんがえ、忠直ただなお意向いこうをうかがいながら浄瑠璃じょうるり絵巻えまきぐん制作せいさくしたと推定すいていしている[注釈ちゅうしゃく 9][77]。『小栗おぐり判官ほうがん絵巻えまき』・『村松むらまつ物語ものがたり絵巻えまき』・『熊野くまの権現ごんげん縁起えんぎ絵巻えまき』も浄瑠璃じょうるり絵巻えまきぐんふくまれるが、こちらは画風がふうことなり、又兵衛またべえながれをくむ絵師えしえがいたとかんがえられる[78][79]

黒田くろだ寛永かんえい5ねん2がつ吉日きちじつ忠直ただなお配流はいるさき豊後ぶんご津守つもりで『熊野くまの権現ごんげん縁起えんぎ絵巻えまき』を津守つもり熊野くまの神社じんじゃ奉納ほうのうしたことを指摘してき又兵衛またべえ工房こうぼう依頼いらいして絵巻えまきえがかせ神社じんじゃ奉納ほうのうしたと仮定かていした。制作せいさく年代ねんだい特定とくていおこない、下限かげん寛永かんえい5ねん2がつ吉日きちじつ特定とくてい上限じょうげん同年どうねん初頭しょとう前年ぜんねん寛永かんえい4ねんまつ推定すいていしている。わせて絵巻えまきぐん順番じゅんばん制作せいさく年代ねんだい推定すいてい順番じゅんばんは『堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき残欠ざんけつほん)』、『山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまき』、『浄瑠璃じょうるり物語ものがたり絵巻えまき』、『小栗おぐり判官ほうがん絵巻えまき』、『堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき堀江ほりえまき双紙ぞうし)』、『村松むらまつ物語ものがたり絵巻えまき』、『熊野くまの権現ごんげん縁起えんぎ絵巻えまき』と推測すいそく制作せいさく年代ねんだい上限じょうげん又兵衛またべえ元和がんわ2ねん下限かげん寛永かんえい5ねん2がつ吉日きちじつさだめている[注釈ちゅうしゃく 10][56][84]

又兵衛またべえほか作品さくひん浄瑠璃じょうるり絵巻えまきぐん以外いがいに『きゅう金谷かなや屏風びょうぶ』『さんじゅう六歌仙ろっかせんさつ』『ひと麿まろ貫之つらゆきぞう』が確認かくにんされている[85]。これらは忠直ただなお北庄きたしょう藩主はんしゅだった時期じき制作せいさくされ、忠直ただなお配流はいるされたのち又兵衛またべえ北庄きたしょう福井ふくい)にまり、忠昌ただまさ藩主はんしゅ時代じだいに『池田いけだ屏風びょうぶ』『太平たいへい 本性ほんしょうぼうちから』『和漢わかん故事こじ説話せつわ和漢わかん故事こじ人物じんぶつまき)』などをえがき、寛永かんえい14ねん1637ねん)に江戸えど下向げこうするまで福井ふくい制作せいさくつづけた[86]

官職かんしょく位階いかい履歴りれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 1605ねん慶長けいちょう10ねん)9がつ10日とおかしたがえよん叙位じょい侍従じじゅう任官にんかんし、三河みかわまもる兼任けんにん
  • 1606ねん慶長けいちょう11ねん)3がつ3にちみぎ近衛このえけん少将しょうしょう転任てんにん三河みかわまもる如元。
  • 1607ねん慶長けいちょう12ねんうるう4がつ27にち家督かとく相続そうぞくし、藩主はんしゅとなる。
  • 1611ねん慶長けいちょう16ねん)3がつ20日はつかひだり近衛このえけん少将しょうしょうに遷任(したがえよんじょう)。三河みかわまもる如元。このはる家康いえやす上京じょうきょうともなわれ、義利よしとし義直よしなお)・頼政よりまさ頼宣よりのぶ)とおな忠直ただなお叙任じょにんされた[87]
  • 1615ねん元和がんわ元年がんねんうるう6がつ19にちしたがえさん昇叙しょうじょし、参議さんぎ補任ほにんひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう越前えちぜんまもる兼帯けんたい
  • 月日つきひしょう参議さんぎ辞職じしょくひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう越前えちぜんまもる如元。

系譜けいふ

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へんいみなけた人物じんぶつ

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忠直ただなお時代じだい

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
映画えいが
テレビドラマ
漫画まんが
  • 山田やまだ芳裕よしひろへうげもの』(2017ねん) - 終盤しゅうばん登場とうじょうし、大坂おおさかなつじん窮地きゅうちおちいった岩佐いわさ又兵衛またべえたすける。

墓所はかしょ遺品いひん史跡しせき

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史跡しせき

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墓所はかしょ

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遺品いひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 越前えちぜんくに騒動そうどうことこりてもってのほか騒動そうどうす……」[9]
  2. ^ 越前えちぜん騒動そうどう詳細しょうさいについてはいち資料しりょうがほとんどく、資料しりょう内容ないよう信憑しんぴょうせいうたがわれる代物しろもののため、騒動そうどう実態じったいからなくなっている。きっかけは慶長けいちょう17ねんもりとされる町奉行まちぶぎょう岡部おかべきゅうとみせい久世くぜ但馬たじままもるそれぞれの百姓ひゃくしょうあらそいにあり、それが派閥はばつ抗争こうそう発展はってん主導しゅどうけんにぎったもり忠直ただなお命令めいれいとして但馬たじままもる騒動そうどう責任せきにんらせて切腹せっぷくさせるため、とみせい説得せっとく使者ししゃとして但馬たじままもるした派遣はけんはないが決裂けつれつした直後ちょくごそう攻撃こうげき但馬たじままもる一族いちぞくもろともった。これが家康いえやす秀忠ひでただ上聞じょうぶんたっすると関係かんけいしゃたちは江戸えど召喚しょうかんもり清水しみず方正ほうせい岡部おかべきゅうもり配流はいるされとみせい勝利しょうりわり、中川なかがわ出雲いずもまもる配流はいるされたうえとみただしなるじゅう秀忠ひでただ命令めいれい忠直ただなお補佐ほさをするという結末けつまつまでが騒動そうどう経緯けいいである。しかし江戸えど評定ひょうじょう処分しょぶんなどがかれた資料しりょう後世こうせい編纂へんさんぶつであり、評定ひょうじょう審議しんぎ衆人しゅうじん環視かんしした公開こうかいされたというはなし家康いえやす裁決さいけつには創作そうさくうたがいがあり、現実げんじつ資料しりょう内容ないよう乖離かいりしょうじているのではないかとの指摘してきがある[10][11]。また、忠直ただなおがどの程度ていど騒動そうどう関与かんよしていたかもあきらかでないが、関係かんけいしゃあいだかれ資質ししつ心配しんぱい論議ろんぎされた結果けっかとみただしなるじゅう補佐ほさになったのでないかと推測すいそくされている[12]
  3. ^ このとき忠直ただなお自身じしんくびひとったという。このとき越前えちぜんはんへい勇戦ゆうせんぶりを「かかれかかれ越前えちぜんしゅう、たんだかかれの越前えちぜんしゅう 命知いのちしらずの嬬黒のはた」とんだうたもある[19][21]
  4. ^ 仮病けびょう気鬱きうつだとわれるが、郷土きょうど資料しりょうである『かたろう』にもと6ねん1620ねん)に忠直ただなお発病はつびょうしたという記録きろくがあるため、元和がんわ7ねん参勤さんきんおこなわなかったことは恩賞おんしょうたいする不満ふまんなどではない可能かのうせいもある。
  5. ^ このとし4がつ秀忠ひでただ日光にっこうしゃさんしたが、ふたた参勤さんきん途中とちゅう関ヶ原せきがはらとどまった忠直ただなお警戒けいかいしてか厳重げんじゅう警備けいび体制たいせいられていた。また秀忠ひでただは7がつ下旬げじゅん最上もがみ騒動そうどう裁定さいていくだ最上もがみよししゅん改易かいえき、10月には山形やまがた処理しょり派遣はけんされた本多ほんだ正純まさずみ改易かいえきにした(宇都うと宮城みやぎ釣天井つりてんじょう事件じけん)。よししゅん改易かいえき家中いえじゅう自分じぶん裁定さいていないがしろにしたことへのいかり、正純まさずみかんしては独断どくだん専行せんこうおおいことへの不満ふまん理由りゆうにあったが、正純まさずみ忠直ただなおしょ大名だいみょう結託けったくして内乱ないらんこすのではないかと秀忠ひでただ疑心暗鬼ぎしんあんきおちいった可能かのうせいがっている[36]
  6. ^ げん和年かずとしろく元和がんわ9ねんじょう秀忠ひでただ忠昌ただまさ忠直ただなおあつかいをたずねる場面ばめんかれ、忠昌ただまさ身柄みがら拘束こうそくすなわち主君しゅくん押込おしこめかんがえていることをこたえ、この資料しりょうでは忠昌ただまさはん重臣じゅうしんたちで主君しゅくん押込おしごめひそかに実施じっしすることが両者りょうしゃあいだ暗黙あんもく了解りょうかいとして成立せいりつしていたではないかと推測すいそくされている。忠直ただなお拘束こうそくされた時期じき侍女じじょ殺害さつがい事件じけん老臣ろうしんたち拘束こうそくされたとき、あるいははは会見かいけんした元和がんわ9ねん2がつごろとされている[40]。また敦賀つるが滞在たいざいちゅう忠直ただなおこうあらわてら住職じゅうしょくさん和尚おしょうてた書状しょじょうが2つうあり(4がつ8にちじょう・5月2にちじょう)、5月2にちじょう書状しょじょうには「ただただ地獄じごくとおざからず、それ現在げんざいのくわ(はて)を未来みらい一心いっしんまでにて御座ぎょざこう」と途中とちゅうたまわるのではないかというおそれをしるしている[41][42]
  7. ^ 一説いっせつに1まんせき
  8. ^ 忠昌ただまさにとってこのてんふう倍増ばいぞうだったが、北庄きたしょうはん福井ふくいはん自体じたい領地りょうちが18まんせき削減さくげんされることになった(68まんせき→50まんせき)。そのぶん忠昌ただまさの3にんおとうと直政なおまさちょくもと直良なおよし)となりじゅうなどにあたえられ、直政なおまさちょくもと直良なおよしはそれぞれ越前えちぜん大野おおのはん5まんせき越前えちぜん勝山かつやまはん3まんせき越前えちぜん木本もくほんはん2まん5000せきなりじゅう越前えちぜん丸岡まるおかはん4まん8000せき若狭わかさ小浜おばまはんあるじ京極きょうごくただしだか敦賀つるがぐん2まん2000せき分与ぶんよされた[3][57]
  9. ^ 黒田くろだつじ絵巻えまきぐん注文ちゅうもんぬし解明かいめいをなおざりにしていると批判ひはん注文ちゅうもんぬし忠直ただなおとらえ、5つの観点かんてんから忠直ただなお関与かんよなくしては絵巻えまきぐん出来できないと主張しゅちょうしている(1.絵巻えまき豪華ごうか絢爛けんらん装飾そうしょくせい忠直ただなお財力ざいりょく希望きぼうによる、2.山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまき以外いがい作品さくひんにあるおな場面ばめん反復はんぷく劇的げきてき場面ばめんられるリアルで生々なまなましい表現ひょうげん忠直ただなおもとめた表現ひょうげん、3.とく父母ちちはは主人公しゅじんこう復讐ふくしゅう場面ばめん表現ひょうげんすることをもとめた、4.堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき初期しょきさく残欠ざんけつほん」より山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまき完成かんせいたかいことに注目ちゅうもく残欠ざんけつほん試作しさくないし習作しゅうさく仮定かていし、最初さいしょつくらせた絵巻えまき残欠ざんけつほんつぎ山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまき、5.隠居いんきょ配流はいるされたのち忠直ただなおには次々つぎつぎ絵巻えまき注文ちゅうもん出来できないので、絵巻えまきぐんだい部分ぶぶん配流はいるされた元和がんわ9ねん以前いぜん制作せいさくされた可能かのうせいがある)[75]。また不行跡ふぎょうせき隠居いんきょ配流はいるさせられるまえ忠直ただなお心理しんり状態じょうたい推測すいそくした黒田くろだは、秀忠ひでただかちひめへの不満ふまん絵巻えまきぐん制作せいさくむすびついていたとかんがえ、山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまきのぞ絵巻えまきぐんには夫婦ふうふちぎりとつま貞節ていせつえがかれているてん注目ちゅうもく忠直ただなお出来上できあがった絵巻えまきぐんかちひめ侍女じじょたちにせて、秀忠ひでただそむいておっとである自分じぶんがわつ(貞節ていせつ)ことをもとめて説得せっとくしたと推測すいそくしている(史実しじつではぎゃくかちひめ秀忠ひでただがわ忠直ただなおからはなれた)[76]
  10. ^ 制作せいさく年代ねんだい上限じょうげんしぼみは戸田とだ浩之ひろゆき四辻よつつじ秀紀ひでき澤田さわだ和人かずと深谷ふかやまさる志賀しが太郎たろうらが絵巻えまきぐん研究けんきゅうすすめ、津山つやま松平まつへい伝来でんらいした山中さんちゅう常盤ときわ物語ものがたり絵巻えまき浄瑠璃じょうるり物語ものがたり絵巻えまき堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき残欠ざんけつほん)の詞書ことばがき見返みかえし(きく流水りゅうすい文様もんよう)が村松むらまつ物語ものがたり絵巻えまきおなてん元和がんわ4ねん忠直ただなお家臣かしん中川なかがわ右京うきょうあたえた稲富いなとみりゅう砲術ほうじゅつ伝書でんしょ見返みかえしにもきく流水りゅうすい文様もんよう使用しようされていることから、4つの絵巻えまきぐん制作せいさく年代ねんだい元和がんわ年間ねんかんしぼられ、注文ちゅうもんぬし忠直ただなおである可能かのうせいつよまった[80]さら黒田くろだ小栗ささぐり判官ほうがん絵巻えまき堀江ほりえ物語ものがたり絵巻えまき堀江ほりえまき双紙ぞうし)・熊野くまの権現ごんげん縁起えんぎ絵巻えまき忠直ただなお注文ちゅうもんしたと推測すいそく深谷ふかや津山つやま松平まつへい伝来でんらい愛山あいざん文庫ぶんこ津山つやま郷土きょうど博物館はくぶつかん)から4つの絵巻えまきぐん詞書ことばがき写本しゃほん多数たすう発見はっけんしたことにれ、絵巻えまきぐん津山つやま松平まつへい伝来でんらいしており、のちに流出りゅうしゅつした小栗おぐり判官ほうがん絵巻えまき池田いけだちょうじゅんわた皇室こうしつ献上けんじょうされたとする仮説かせつとなえた[81]のこ堀江ほりえまき双紙ぞうし熊野くまの権現ごんげん縁起えんぎ絵巻えまき詞書ことばがき筆跡ひっせきが5つの絵巻えまきぐんきわめてていることを発見はっけん筆者ひっしゃ忠直ただなお周辺しゅうへんにいる人物じんぶつ特定とくてい忠直ただなお注文ちゅうもんぬしせつ補強ほきょうした[82]。ちなみに、絵巻えまきぐん忠直ただなお配流はいるさき豊後ぶんごまで持参じさんくなるまでっていたと黒田くろだ推測すいそく死後しご忠直ただなお息子むすこ光長みつながもとはこばれ、子孫しそんである津山つやま松平まつへい保管ほかんつづけたとしている[83]
  11. ^ 系図けいず纂要などの系図けいずには記載きさいされていない。

出典しゅってん

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  91. ^ 有名ゆうめい茶道具ちゃどうぐに「はつはな茶入ちゃいれ」があるが、これによく名前なまえの「はつはなちゃつぼ」があって、ほんっているものは逸話いつわなど混乱こんらんしているようにおもう。どちらがどちらの逸話いつわなのかはっきりりたいレファレンス協同きょうどうデータベース

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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