(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中村孝也 - Wikipedia コンテンツにスキップ

中村なかむら孝也たかや

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
中村なかむら孝也たかや

中村なかむら 孝也たかや(なかむら こうや、1885ねん明治めいじ18ねん1がつ2にち - 1970ねん昭和しょうわ45ねん2がつ5にち)は、大正たいしょう昭和しょうわ日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅせんもん日本にっぽん近世きんせい文学ぶんがく博士はかせ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1926ねん)。群馬ぐんまけん出身しゅっしん

略伝りゃくでん[編集へんしゅう]

1885ねん明治めいじ18ねん)1がつ群馬ぐんまけん高崎たかさきまれる。ちち士族しぞく小学校しょうがっこう教員きょういん中村なかむら勝弥かつやはは小学校しょうがっこう嘱託しょくたく教員きょういん中村なかむらとく。「孝也たかや」のは、『こうけい』を典拠てんきょとした。幼少ようしょうころから漢籍かんせき造詣ぞうけいふかかったちちより漢学かんがくまなび、5さいときはは勤務きんむする神戸こうべ尋常じんじょう小学校しょうがっこう見学けんがくとして通学つうがく以後いご複数ふくすう学校がっこう転校てんこうするも、いずれも抜群ばつぐん成績せいせき進級しんきゅうした。1899ねん明治めいじ32ねん)、14さいとき小学校しょうがっこうじゅん教員きょういん検定けんてい試験しけん合格ごうかく桐生きりゅうみなみ尋常じんじょう小学校しょうがっこう教員きょういんとなった。

群馬ぐんまけん師範しはん学校がっこう東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこうたあと、1909ねん明治めいじ42ねん)、東京とうきょう京橋きょうばし明石あかし尋常じんじょう小学校しょうがっこう就職しゅうしょく。そのかたわらで東京とうきょう外国がいこく学校がっこう夜学やがく)に入学にゅうがくドイツ専攻せんこうし、1912ねん明治めいじ45ねん)に修了しゅうりょうしている。

1910ねん明治めいじ43ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくし学科がっか入学にゅうがく勉学べんがくはげみ、特待とくたいせいえらばれる一方いっぽう明治めいじ中学校ちゅうがっこう講師こうし家庭かてい教師きょうしなどでいそがしい毎日まいにちごした。1913ねん大正たいしょう2ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくし学科がっか卒業そつぎょう卒業そつぎょうしきさい恩賜おんし銀時計ぎんどけいける。大学だいがく卒業そつぎょうただちに大学院だいがくいん進学しんがく大学院だいがくいんでは指導しどう教官きょうかん三上みかみさんのもとで、江戸えど時代じだい文化ぶんか専攻せんこうした。大学院だいがくいん在学ざいがくちゅう文科ぶんか大学だいがく卒業そつぎょう論文ろんぶんをまとめた『江戸えど幕府ばくふ鎖国さこくろん』や、一般いっぱんけにあらわした『源九郎義経げんくろうよしつね』を出版しゅっぱん。また、指導しどう教官きょうかん三上みかみさんからもすうおおくの仕事しごとあたえられ、静岡しずおか教育きょういくかいから委嘱いしょくされた徳川とくがわ家康いえやす伝記でんきあずまあきらおおやけでん編纂へんさんや、徳川とくがわさんひゃくねんさい記念きねん事業じぎょう研究けんきゅうしゃ委嘱いしょくされた。これが後年こうねん発表はっぴょうする『徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ研究けんきゅう』の基礎きそとなった。

1918ねん大正たいしょう7ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく大学院だいがくいん修了しゅうりょうしたのち、第一高等学校だいちこうとうがっこう日本女子大学にほんじょしだいがくなどで教鞭きょうべんをふるう一方いっぽう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ入学にゅうがく経済けいざいがくまなんだ。そして、1924ねん大正たいしょう13ねん)に文学ぶんがく博士はかせ学位がくい請求せいきゅう論文ろんぶんである「元禄げんろくおよとおる時代じだいにおける経済けいざい思想しそう研究けんきゅう」を東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく提出ていしゅつ美濃紙みのがみ原稿げんこう2500まい大著たいちょであった。その、1926ねん大正たいしょう15ねん)に文学ぶんがく博士はかせ学位がくい取得しゅとく[1][2]中村なかむら学位がくい論文ろんぶん合格ごうかくらせを、当時とうじ史料しりょう編纂へんさんかけ事務じむ主任しゅにん東京帝大とうきょうていだい教授きょうじゅであったつじ善之助ぜんのすけからいた。その一方いっぽうで、1924ねんには、月刊げっかん歴史れきし趣味しゅみ』の刊行かんこうをはじめ、その主幹しゅかんとなってぜんさつ執筆しっぴつ担当たんとう太平洋戦争たいへいようせんそう激化げきかしてかみ配給はいきゅう停止ていしされる1944ねん昭和しょうわ19ねん)までつづけた。

1925ねん大正たいしょう14ねん)に史料しりょう編纂へんさんかんとなり、1926ねんには東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく助教授じょきょうじゅ兼任けんにん本官ほんかん史料しりょう編纂へんさんかんであったため、講座こうざ担当たんとうはなかった。1935ねん昭和しょうわ10ねん)に東大とうだい組織そしき改変かいへんにより東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく助教授じょきょうじゅけん史料しりょう編纂へんさんかんとなり、文学部ぶんがくぶ勤務きんむおもとなった。そして、1938ねん昭和しょうわ13ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん国史こくしがくだい講座こうざ担当たんとうし、江戸えど時代じだい近世きんせい社会しゃかいこうじた。

中村なかむら教授きょうじゅ昇任しょうにんしたとき、東大とうだい国史こくし学科がっか平泉ひらいずみきよし主任しゅにん教授きょうじゅであった。平泉ひらいずみが「しゅひかりかい」や私塾しじゅく青々あおあおじゅくで、いわゆる皇国こうこく史観しかんいていたが、中村なかむらはこうした平泉ひらいずみ行動こうどう一線いっせんかくし、国史こくしがく研究けんきゅうしつにもあしけないほどであった。平泉ひらいずみ反発はんぱつする学生がくせい中村なかむらのもとにあつまり、1940ねん昭和しょうわ15ねん)には中村なかむらかい代表だいひょうとする「国民こくみん生活せいかつ研究けんきゅうかい」という研究けんきゅうかい結成けっせいされた。

太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつした1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ中村なかむら東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ依願いがん退官たいかんした。中村なかむらは、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく退官たいかん大学だいがく教員きょういんとして教壇きょうだんつことを希望きぼうしていたが、GHQにより教員きょういん適格てきかくしゃ判定はんていされてしまった。そのときの心境しんきょうを「中村なかむら孝也たかや昨日きのうもっ死去しきょした」と日記にっきつづっている。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)に教職きょうしょく追放ついほう解除かいじょとなってからは、明治大学めいじだいがく教壇きょうだんち、いっぽうでは徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ蒐集しゅうしゅう調査ちょうさすすめた(1957ねん昭和しょうわ32ねん)には文部省もんぶしょう研究けんきゅう成果せいか刊行かんこう補助ほじょきん支給しきゅうをうける)。その成果せいか大著たいちょ徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ研究けんきゅう』にまとめられ、これは戦国せんごく大名だいみょう発給はっきゅう文書ぶんしょかんする研究けんきゅう先駆せんくとして評価ひょうかされており、1962ねん昭和しょうわ37ねん)には日本学士院にほんがくしいんしょうけた。

明治大学めいじだいがく退職たいしょくの1960ねん昭和しょうわ35ねん)に、雑誌ざっし歴史れきし趣味しゅみ』をとし4かい季刊きかんとして復活ふっかつ。1968ねん昭和しょうわ43ねん)までつづけられた。またよく1969ねん昭和しょうわ44ねん)からは雑誌ざっしせいえん』を創刊そうかんして文章ぶんしょうつづけていたが、5ごう編集へんしゅうえた 1970ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ5にちのう梗塞こうそくのため東京とうきょう文京ぶんきょう自宅じたくにて死去しきょ享年きょうねん85さい[3]

りゃく年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

受賞じゅしょうれき叙勲じょくんれき[編集へんしゅう]

  • 1961ねん昭和しょうわ36ねん)、紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん)、著書ちょしょ徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ研究けんきゅう』により、日本学士院にほんがくしいんしょう受賞じゅしょう

主要しゅよう著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 江戸えど幕府ばくふ鎖国さこく史論しろん 奉公ほうこうかい、1914
  • 英俊えいしゅんでん だい1かん 源九郎義経げんくろうよしつね だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい、1914
  • あずまあきらおおやけでん さんひゃくさい記念きねん 静岡しずおか教育きょういくかい、1915
  • こころざしきく 文集ぶんしゅう だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい、1915
  • 日本にっぽん近世きんせい ぜん3かん 育英いくえい書院しょいん、1916-1918
  • 元禄げんろく時代じだいかん 啓成よしなりしゃ、1919
  • ちゅう牟田むた倉之助くらのすけつて 1919
  • 元禄げんろくとおる時代じだいける経済けいざい思想しそう研究けんきゅう 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1922
  • 稿本こうほん国民こくみん文化ぶんか概論がいろん 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1922
  • 楠公なんこうれいさん 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1927
  • 大礼たいれい神国しんこく思想しそう 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1928
  • 国史こくしじゅうろくこう 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1933
  • 弘法大師こうぼうだいしつて 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1934
  • たてたけし中興ちゅうこう回顧かいこ しょうはなしゃ、1934
  • 国史こくし教育きょういくろん あきらはなしゃ、1934
  • 現代げんだい思想しそう歴史れきしてき批判ひはん 青年せいねん教育きょういく普及ふきゅうかい、1935
  • おくせい一位橘朝臣正成公伝 大楠公だいなんこうろくひゃくねん大祭たいさい奉賛ほうさんかい、1935
  • 国防こくぼう日本にっぽん精神せいしん 埼玉さいたまけん国防こくぼうかい、1935
  • 北畠きたばたけ顕家あきいえきょう たてたけしおおとりぎょう奉賛ほうさんさい北畠きたばたけ顕家あきいえきょうろくひゃくねんさい全国ぜんこく奉賛ほうさんかい、1938
  • 日本にっぽん精神せいしん叢書そうしょ だい60 だい日本にっぽん水戸みと教学きょうがく 教学きょうがくきょく、1941
  • 日本にっぽん近世きんせい性格せいかく まんさとかく、1941
  • はじめこく精神せいしん だい日本にっぽん教化きょうか図書としょ、1941
  • 藤田ふじた東湖とうこ じんしょかん、1942 (維新いしん勤皇きんのう遺文いぶん選書せんしょ)
  • ささえ講談社こうだんしゃ、1942
  • にちはな明治維新めいじいしん 東京とうきょうどう、1942
  • 白石しらいし徂徠そらい春台しゅんだい 万里ばんりかく、1942
  • 国史こくしはな 千草ちぐさまき(近代きんだい) さんがく書房しょぼう、1944
  • 国史こくしはな きくまき(現代げんだい) さんがく書房しょぼう、1944
  • たてたけし中興ちゅうこう時代じだい人々ひとびと 有朋ありともどう、1944
  • 野間のま清治きよじでん 野間のま清治きよじ伝記でんき編纂へんさんかい、1944
  • 新国にいくに史観しかん だい1-10 雄山閣ゆうざんかく、1947-1949
  • 日本にっぽんしんこう 近世きんせい近代きんだいへん 国民こくみん学芸がくげいしゃ、1948
  • 国史こくしがく 広文ひろふみしゃ、1949
  • 徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ研究けんきゅう ぜん4かん 日本にっぽん学術がくじゅつ振興しんこうかい 1958-1961
  • 徳川とくがわ 家康いえやす中心ちゅうしん至文しぶんどう、1961 日本にっぽん歴史れきし新書しんしょ
  • 徳川とくがわ家康いえやすおおやけでん 東照宮とうしょうぐう社務しゃむしょ、1965
  • 家康いえやすぞく 講談社こうだんしゃ、1965
  • 千姫せんひめ 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1965 (千姫せんひめシリーズ 1)
  • 千姫せんひめ真実しんじつでん 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1966 (千姫せんひめシリーズ 2)
  • 淀殿よどどの秀頼ひでより 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1966 (千姫せんひめシリーズ 3)
  • 日本にっぽん人物じんぶつぞう だい5かん筑摩書房ちくましょぼう、1967「徳川とくがわ家康いえやす
  • 和菓子わがし系譜けいふ あわ交新しゃ、1967
  • 牡丹ぼたんよし 歌集かしゅう 国民こくみん文化ぶんか研究けんきゅうかい、1967
  • 家康いえやすしん武将ぶしょうへん 人物じんぶつ往来おうらいしゃ、1968
  • 家康いえやす政治せいじ経済けいざいしん雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん、1978

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 中村なかむら孝也たかや年譜ねんぷ」(『徳川とくがわ家康いえやす文書ぶんしょ研究けんきゅう所収しょしゅう
  • 中田なかたえきじき中村なかむら孝也たかや」(『20世紀せいき歴史れきしたち』(5)所収しょしゅうかたなすい書房しょぼう 2006ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい4097ごう大正たいしょう15ねん4がつ23にち、p.594
  2. ^ 書誌しょし事項じこう(CiNii Dissertations)”. 国立こくりつ情報じょうほうがく研究所けんきゅうじょ. 2017ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ 訃報ふほうらん 中村なかむら孝也たかやもと東大とうだい教授きょうじゅ歴史れきし学者がくしゃ)『朝日新聞あさひしんぶん』1970ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ5にち夕刊ゆうかん 3はん 11めん