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三好みよしきちぼう

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三好みよしきちぼう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん3ねん[1]1534ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう17ねん8がつ15にち[2]または8がつ25にち[1]1612ねん9がつ10日とおかまたは9がつ20日はつか
改名かいめい わたるすけ木下きのしたわたるすけ三好みよしきちぼう三好みよし一路かずみち
別名べつめい 木下きのしたわたるすけ長尾ながお武蔵むさしもりきちぼう[3]三好みよし武蔵むさしもり三好みよし一路かずみち一路いちろ法印ほういんつね閑、犬山いぬやま殿どの
法名ほうみょうにちかい入道にゅうどうごう一路いちろつね
戒名かいみょう けんせいいん殿どの三位法印日海大居士[2]
墓所はかしょ 本圀寺ほんごくじみょうめぐみかいそう墓所はかしょ京都きょうと下京しもぎょう堀川ほりかわ松原まつばらくだる)
官位かんい 武蔵むさしもりさん法印ほういん
主君しゅくん 豊臣とよとみ秀吉ひでよし
氏族しぞく 不明ふめい[一説いっせつに]三輪みわ/長尾ながお[3]木下きのした羽柴はしば[5])→ 三好みよし
父母ちちはは 不明ふめい / [一説いっせつに]三輪みわ宣政のぶまさ[6]
兄弟きょうだい よしぼういもうと大島おおしまちかしたかししつ
つま ともみずりゅういん日秀ひびり
豊臣とよとみ秀次しゅうじ豊臣とよとみ秀勝ひでかつ豊臣とよとみ秀保ひでやす
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三好みよし きちぼう(みよし よしふさ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう豊臣とよとみ一門いちもんしゅ尾張おわり犬山いぬやましろおものち清洲きよすしろおも

通称つうしょうわたるすけひゃく姓名せいめいであったともいうが、立身りっしん受領じゅりょうめい武蔵むさしもり通称つうしょうとしてもちいた。入道にゅうどうして一路いちろ一路いちろつね)とごうし、のち法印ほういん叙任じょにんされたので、さん法印ほういん一路いちろともしょうした。またべつ法名ほうみょうにちうみつたわる[1][2]つまみずりゅういんみょうとし日秀ひびりで、豊臣とよとみ秀次しゅうじ秀勝ひでかつ秀保ひでやすらの実父じっぷである。

生涯しょうがい

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前歴ぜんれき

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せい出自しゅつじなどについてはおおくのせつがあり、実像じつぞうははっきりしていない。

よしぼう自身じしん立身りっしん大和やまとこく三輪みわ子孫しそん三輪みわ次郎じろう兵衛ひょうえ宣政のぶまさ[6]であるとしょうしたというが、出典しゅってんとされる『武功ぶこう夜話やわ』には偽書ぎしょせつがあり、信憑しんぴょうせいには疑義ぎぎたれている。通説つうせつでは、うましか馬丁ばていだったとされ、たんわたるすけ名乗なのっていたとされ、尾張おわりこくうみひがしぐんおつおとむら[7]出身しゅっしんといい[8]うみひがしぐん花正はなまさむらにそのころ三好みよしきちぼうたくあとがあったという[9]小和田こわだ哲男てつお秀吉ひでよしちち木下きのしたわたるみぎ衛門えもんどう程度ていど苗字みょうじたない下層かそう百姓ひゃくしょう身分みぶん階級かいきゅうぞくした人物じんぶつであろうとしている[8]

木下きのした藤吉郎とうきちろう豊臣とよとみ秀吉ひでよし)のあね・とも(日秀ひびりあま)をつまとしたことで、運命うんめいおおきくわっていき、『 祖父そふ物語ものがたり朝日あさひ物語ものがたり)』によれば、えいろく7ねん1564ねん)に織田おだつかえる義弟ぎてい秀吉ひでよし縁者えんじゃであったことから、秀吉ひでよしうま牽として士分しぶんてられた[8]。このころ知多ちたぐん大高おだかむらきょうつした[10]木下きのしたせいあたえられたかみずかしょうしたかで、木下きのしたわたるすけ名乗なのったようであるが、名乗なのはじめた時期じき経緯けいいなどは判然はんぜんとしない。この尾張おわり時代じだい長尾ちょうびせい名乗なのっていたともいう[3]

夫婦ふうふえいろく11ねん1568ねん)に兵衛ひょうえ豊臣とよとみ秀次しゅうじ)を、えいろく12ねん1569ねん)に小吉こよし秀勝ひでかつ)を、天正てんしょう7ねん1579ねん)にたつせんだい秀保ひでやす)をもうけた。

またのち長子ちょうし秀次しゅうじ阿波あわ三好みよし一族いちぞく三好みよし康長やすなが養子ようしとなると、秀次しゅうじ実父じっぷであるよしぼう三好みよしせいしょうした。なお、よしぼういもうとも、三好みよし一族いちぞく大島おおしまちかしたかしとついでいる。

秀次しゅうじ家老がろう

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天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ8にち中国ちゅうごくだいがえ姫路ひめじかえった秀吉ひでよしは、どちらも親族しんぞくである三好みよし武蔵むさしもりよしぼう)と小出こいで播磨はりままもる秀政ひでまさ)の2人ふたり留守居るすいめいじ、もしいちせんやぶれた場合ばあいは、秀吉ひでよしははつま一族いちぞくことごとくを処分しょぶんし、家中いえじゅうはなてと指示しじしていた[11]

天正てんしょう18ねん1590ねん)、秀次しゅうじ改易かいえきされた織田おだ信雄のぶお旧領きゅうりょう尾張おわり伊勢いせ北部ほくぶ5ぐんあたえられてだい大名だいみょうとなると、よしぼうもその配下はいか尾張おわり犬山いぬやましろ10まんせきりょうし、よく天正てんしょう19ねん1591ねん)には犬山いぬやま城主じょうしゅ次子じし豊臣とよとみ秀勝ひでかつわり、よしぼう尾張おわり清洲きよすしろおもとされた[5]

関白かんぱくとなって京都きょうと常駐じょうちゅうした秀次しゅうじ不在ふざいなどは、家老がろう一人ひとりであったよしぼう所領しょりょう統治とうち代行だいこうすることもあったが、その実務じつむ能力のうりょく秀吉ひでよし叔父おじ秀長ひでながおよばないとわれていた実子じっししゅうからてもさらに不足ふそくであったようで、「法印ほういんねん寄付よせつけて、まんおろかなることあるべくこう当座とうざのまにあわせようもう曲事きょくじたるべきこと」という天正てんしょう20ねん(1592ねん)6がつ10にちづけ秀次しゅうじ書状しょじょう現存げんそんしている[12]

それでも『駒井こまい日記にっき』によると、ぶんろく2ねん1593ねん)12月11にち尾張おわりくら入地いりじから1まん2,200せき加増かぞうされたという[5][13]

晩年ばんねん

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3にん男子だんしめぐまれたものの、そのいずれにも次々つぎつぎ先立さきだたれた。ぶんろく元年がんねん(1592ねん)9がつ秀勝ひでかつきょずみとう戦没せんぼつし、ぶんろく4ねん1595ねん)4がつには秀保ひでやす病死びょうし同年どうねん7がつ秀次しゅうじ高野たかのさん切腹せっぷくとなったさいには、よしぼう連座れんざし、所領しょりょうをすべて没収ぼっしゅうされて改易かいえきとなり、四国しこく讃岐さぬきこくながされ、軟禁なんきんされた[5][13]

慶長けいちょう3ねん1598ねん)、秀吉ひでよしをもって赦免しゃめんされ、京都きょうともどった。慶長けいちょう5ねん1600ねん)に本圀寺ほんごくじいちおといん建立こんりゅうし、子供こどもたち、まごたちの菩提ぼだいとむらい、晩年ばんねん法華ほっけ行者ぎょうじゃとなった。

慶長けいちょう17ねん1612ねん)、下野げやこく足利あしかが[13]。『瑞龍寺ずいりゅうじ指出さしで』によると8がつ15にち[2][5]、『東西とうざいれきらん』によると8がつ25にち[1]享年きょうねん79[1]

子孫しそん

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わたるすけは、太閤たいこう義兄ぎけい関白かんぱくちちというだけでなく、きゅうじょうとついだ豊臣とよとみかん祖父そふであり、大正天皇たいしょうてんのう皇后こうごうである貞明皇后ていめいこうごうはその末孫ばっそんにあたる。つまりわたるすけは、昭和しょうわ天皇てんのう先祖せんぞ1人ひとりでもあり、系図けいず辿たどってしめすことができる人物じんぶつなかでは、まれた身分みぶんもっとひく皇室こうしつ先祖せんぞ[14]であるということができる。

登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e 黒川くろかわみちゆう ちょ上村うえむら觀光かんこう へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 黒川くろかわ道祐どうゆう近畿きんきゆうらん稿こうじゅんふうぼう、1910ねん、99ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993803/57 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  2. ^ a b c d 渡辺わたなべ 1919, p. 284
  3. ^ a b c 尾張おわり人物じんぶつこころざしりゃく』は長尾ながお武蔵むさしもりきちぼうとするが、たしかな文書ぶんしょにはてこない。また三輪みわ名乗なのったとするものもある。いずれもたしかな史料しりょうではない[4]
  4. ^ 小和田こわだ 2002, pp. 16–17.
  5. ^ a b c d e 桑田そうでん 1971, p. 46.
  6. ^ a b 近藤こんどう安太郎やすたろう系図けいず研究けんきゅう基礎きそ知識ちしき: 家系かけい日本にっぽん歴史れきし - だい3かん近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1989ねん、1808,1812ぺーじISBN 9784772502672 
  7. ^ 愛知あいちけん海部かいふぐん美和みわまち乙之子おとのこ
  8. ^ a b c 小和田こわだ 2002, p. 15.
  9. ^ 岡田おかだあきら (文園ふみぞの) 野口のぐちみちじき (うめきょ)『国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 尾張おわり名所めいしょ図会ずえ. まき7 うみひがしうみ西郡にしごおり片野かたのあずま四郎しろう、1880ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764886/29 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  10. ^ 小和田こわだ 2002, p. 16.
  11. ^ 徳富とくとみいの一郎いちろう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 豊臣とよとみ時代じだい かぶとへんだい4、みんともしゃ近世きんせい日本にっぽん国民こくみん〉、1935ねん、82ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223724/58 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  12. ^ 小和田こわだ 2002, p. 90.
  13. ^ a b c 高柳たかやなぎ & 松平まつだいら 1981, p. 240.
  14. ^ ただしさん法印ほういんであり、関白かんぱくちちとして、のちには高位こうい高官こうかんぞくする身分みぶんとなっていた。また太閤たいこう秀吉ひでよしどう程度ていど出自しゅつじであったとかんがえられている。

参考さんこう文献ぶんけん

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