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カムチャツカ半島はんとう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
カムチャツカ半島はんとう
カムチャツカ半島の位置 地図中央に位置する南北に伸びる半島
座標ざひょう 北緯ほくい57 東経とうけい160 / 北緯ほくい57 東経とうけい160 / 57; 160座標ざひょう: 北緯ほくい57 東経とうけい160 / 北緯ほくい57 東経とうけい160 / 57; 160
面積めんせき 27まん km2
最高さいこう標高ひょうこう 4835 m
最高峰さいこうほう クリュチェフスカヤさん
最大さいだい都市とし ペトロパブロフスク・カムチャツキー
所在しょざい海域かいいき
所属しょぞく大陸たいりくしま ユーラシア大陸たいりく
所属しょぞくこく地域ちいき ロシアの旗 ロシア
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カムチャツカ半島はんとう(カムチャツカはんとう、ロシア: Полуостров Камчатка パルオーストラフ・カムチャートカ、あるいはカムチャッカ)は、ユーラシア大陸たいりく北東ほくとうにある半島はんとうである[1]南南西なんなんせい方向ほうこうびた半島はんとうであり、面積めんせきは37まん平方へいほうキロメートルながやく1200キロメートル最大さいだいはばやく480キロメートルある[1]気候きこう亜寒帯あかんたい気候きこうからツンドラ気候きこう日本にっぽんでは、ふるくはかん察加かむさすかんでいた。現在げんざい全域ぜんいきロシア連邦れんぽう領土りょうどであり、以前いぜん南部なんぶカムチャツカしゅう北部ほくぶコリャーク自治じち管区かんくぞくしていたが、2007ねん7がつりょう地域ちいき合併がっぺいしてカムチャツカ地方ちほうとなった。

地勢ちせい

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みなみ千島ちしま列島れっとううらないもりとう千島ちしま海峡かいきょううらないもり海峡かいきょう、ロシアめいだい1クリル海峡かいきょう)をへだててかいロパトカみさき中央ちゅうおうでは東西とうざいやく450キロメートルあり、北端ほくたんパラポリスキー地峡ちきょうで100キロメートルほどのはばせばまった、南北なんぼくなが紡錘形ぼうすいけいをしている。半島はんとう東側ひがしがわリング海りんぐかいきた太平洋たいへいよう西側にしがわオホーツクかいめんするが、アバチャわんにある州都しゅうとペトロパブロフスク・カムチャツキーはじしゅ要港ようこう東岸とうがん集中しゅうちゅうしている。

半島はんとう東側ひがしがわには、コマンドルスキー諸島しょとうふくアリューシャン列島れっとうきたアメリカ大陸あめりかたいりく北部ほくぶにかけてつらなる。

中央ちゅうおう山脈さんみゃくスレジンヌイ山脈さんみゃく)とひがし山脈さんみゃくEastern Range)が並行へいこうして南北なんぼくはしり、環太平洋かんたいへいよう造山つくりやまたい一部いちぶす。ここ300ねんで50かいものだい爆発ばくはつをしている半島はんとう最高峰さいこうほうクリュチェフスカヤさん(4835メートル)など、おおくの火山かざんかかえている。

カムチャツカ半島はんとう高度こうど分布ぶんぷ地図ちず 半島はんとう中央ちゅうおうひがし円形えんけいしろえがかれている標高ひょうこうたか部分ぶぶん半島はんとう最高峰さいこうほうクリュチェフスカヤさん (4835メートル)。ロパートカみさき南端なんたん)の緯度いど北緯ほくい5052ふんである。

東岸とうがんにはきたからじゅんに、オリュトルスキーわんアナプカわんロシアばんカラギンスキーわんロシアばんカラギンスキーとうカムチャツカがわ河口かこうカムチャツカわんロシアばん、アバチャわん位置いちする。

歴史れきし

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ロシアの領有りょうゆうまで

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当地とうちは、古代こだいから中世ちゅうせいにかけ、とう記録きろくのこ夜叉やしゃこく比定ひていされる北部ほくぶコリャーク文化ぶんか(6 - 17世紀せいき)や東岸とうがんから南部なんぶにかけてのタリヤ文化ぶんか時代じだい[2]て、近世きんせい以降いこう北部ほくぶコリャークじん中部ちゅうぶから南部なんぶにかけてのカムチャダールのほか半島はんとう中央ちゅうおう内陸ないりくエヴェンじんなどがおも住民じゅうみんである。また、南端なんたん千島ちしまアイヌ古来こらいより定着ていちゃくし、漂着ひょうちゃくした和人わじん居住きょじゅう日本にっぽんでは安東あんどう松前まさきはん領有りょうゆうとして認識にんしきされていた。カムチャツカ半島はんとうについて、西洋せいようじん詳細しょうさい情報じょうほうがもたらされはじめたのは17世紀せいきのことである。のち地名ちめい語源ごげんとなったイワン・カムチャートゥイロシアばんセミョン・デジニョフなどのロシア帝国ていこく探検たんけんによって、この地域ちいき情報じょうほうあつめられた。17世紀せいきまつには毛皮けがわがとれるクロテンもとめて進出しんしゅつし、入植にゅうしょく開始かいしされている。

1697ねん、カムチャツカのはるか北部ほくぶチュクチ半島はんとうちかくにあるアナディリ(チュクチめい:カギリン)のアナディールじょうから、ウラジーミル・アトラソフひきいるやく120にん軍勢ぐんぜいがカムチャツカ西岸せいがん南進なんしんし、カムチャダールとの戦闘せんとうこった。1706ねんころにはカムチャツカはロシア帝国ていこくによって占領せんりょうされる。1713ねんころにはやく500めいコサック居住きょじゅうしていた。

ロシア帝国ていこく支配しはい定着ていちゃくたいにち関係かんけい

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上記じょうき、1697ねん元禄げんろく10ねん)のアトラソフによる侵攻しんこうおりかれはカムチャダールの集落しゅうらく大坂おおさか出身しゅっしん伝兵衛でんべえ出会であう。伝兵衛でんべえ商家しょうか息子むすこだったが、商船しょうせん大坂おおさか出帆しゅっぱんして江戸えどかったものの難破なんぱし、漂流ひょうりゅうすえにカムチャツカ半島はんとう漂着ひょうちゃくしたという。アトラゾフは伝兵衛でんべえともない、ロシアの首都しゅとペテルブルク帰還きかんした。伝兵衛でんべえはロシアの文献ぶんけんはじめて登場とうじょうした日本人にっぽんじんであり、日本語にほんご学校がっこう校長こうちょうとして生涯しょうがいえている。

1700ねん元禄げんろく13ねん)、江戸えど幕府ばくふいのちにより松前まさきはんかん察加(カムチャツカ半島はんとう)をふく蝦夷えぞぜんと『松前まさきとうごうちょう』を作成さくせいした。1710ねん宝永ほうえい7ねん)、南部なんぶのサニマ(三右衛門さんえもん)らがカムチャツカ半島はんとう東岸とうがんポロプロヴォエに漂着ひょうちゃく1715ねん正徳まさのり5ねん)、松前まさき藩主はんしゅ幕府ばくふたいし、「じゅうしゅうとうからふとしチュプカ諸島しょとうかん察加(カムチャツカ半島はんとう)」は松前まさきはんりょう報告ほうこく。その1729ねんとおる14ねん)、薩摩さつまゴンザとソウザら17めいった「若潮わかしおまる」が半島はんとう南端なんたんロパートカみさき付近ふきん東岸とうがん漂着ひょうちゃく2人ふたり以外いがいのちにロシアがわ殺害さつがいされたという。かれらも日本語にほんご教師きょうしとなった。

一方いっぽう、カムチャツカ半島はんとう支配しはいしたロシア帝国ていこくした毛皮けがわぜい(ヤサーク)の献納けんのう先住民せんじゅうみんにとって大変たいへん過酷かこくなものであり、1731ねんから1739ねんまでカムチャダールのだい反乱はんらんこったが、ロシアじんじゅうなどの武器ぶき使用しよう反乱はんらん制圧せいあつ。この時期じきデンマーク出身しゅっしんベーリングにより2探検たんけんおこなわれ、1728ねん最初さいしょ探検たんけんアバチャわん発見はっけん1740ねんだい2北東ほくとう探検たんけんたいはアバチャわん拠点きょてんペトロパブロフスク・カムチャツキー)とし、翌年よくねん以降いこうカムチャツカ半島はんとう太平洋たいへいようがん調査ちょうさした。このころ地理ちり学者がくしゃのステファン・クラシェニニコフらもおとずれている。だい2探検たんけんたい別働隊べつどうたい1738ねん日本にっぽんもとぶん3ねん)、西岸せいがんのボリシェレツクから日本にっぽん航路こうろ調査ちょうさおこない、日本にっぽんではもとぶん黒船くろふねとして記録きろくのこっている。1745ねんのべとおる2ねんはる千島ちしま列島れっとうゆたか古丹こたんとう漂着ひょうちゃくした南部なんぶ佐井さいむら多賀たがまる竹内たけうち徳兵衛とくべえら18にん乗組のりくみ)の漂流ひょうりゅうみん10めいが、同年どうねん5がつ徴税ちょうぜいじんスロボーチコフにつかりカムチャツカ半島はんとうおくられ、日本語にほんご学校がっこう教師きょうしにさせられる。

Stepan Krasheninnikov『Account of the Land of Kamchatka』(1755ねん

1771ねん本拠地ほんきょちポリシェレツクで流刑りゅうけいなか政治せいじはんたちの反乱はんらん発生はっせいし、カムチャツカの長官ちょうかんニーロフが殺害さつがいされた。首謀しゅぼうしゃ・はんべんごろう(きたハンガリー出身しゅっしんスロバキアじん捕虜ほりょモーリツ・ベニョヴスキー)がせいピョートルごううば脱出だっしゅつかれらは土佐とさ阿波あわ奄美あまみ寄港きこうしたさいすうつう書簡しょかんのこし、そのなかでロシアの日本にっぽん侵略しんりゃく意図いと蝦夷えぞ蚕食さんしょく危険きけん警告けいこくした。

大黒屋だいこくや光太夫こうだゆう新蔵しんくら伊勢いせこくかみあきらまる漂流ひょうりゅうみんいちぎょうがペテルブルクへかう途中とちゅう1787ねん天明てんめい7ねん)8がつ23にちにカムチャツカ半島はんとうのウスチカムチャツクに到着とうちゃくのち、ニジニカムチャツクに移動いどう1788ねん天明てんめい8ねん)6がつ15にち、6にんはニジニカムチャツクをはなれ、カムチャツカ半島はんとう横断おうだんしてチギーリにき、ここからふねり、オホーツクには8がつ30にち到着とうちゃくやく1ねんカムチャツカに滞在たいざいしており、当時とうじ様子ようすが『きた槎聞りゃく』にしるされている[3]。1787ねん9がつ7にちフランス王国おうこくラ・ペルーズ探検たんけんたいペトロパブロフスク寄港きこう。ここで下船げせんしたのちにシベリアを縦断じゅうだんした通訳つうやくやくジャン・バルテルミ・ド・レセップスは、結果けっかとしてどう探検たんけんたい唯一ゆいいつのフランス帰国きこくしゃとなり、探検たんけんたい記録きろく後世こうせいのこされた。

ペトロパブロフスクに上陸じょうりくするクルーゼンシュテルンいちぎょう(1806ねん

1804ねん文化ぶんか元年がんねん)7がつ2にちペテロパウロフスクにぜんろくわか宮丸みやまる漂流ひょうりゅうみん5めい到着とうちゃく同年どうねん8がつ18にち太夫たゆう兵衛ひょうえふと十郎じゅうろうら4めい使節しせつレザノフともなわれナジェシダごう船長せんちょうスウェーデン貴族きぞく・von Krusenstjerna子孫しそんエストニア出身しゅっしんバルト・ドイツじんであるクルーゼンシュテルン)で帰国きこくいた。ぜんろく1806ねん文化ぶんか3ねんはるまで滞在たいざいした。 一方いっぽう、1804ねんとおる4ねん)7がつ18にちきたせんとうほろむしろとう東浦ひがしうら漂着ひょうちゃくした陸奥みちのくこくふねけいさちまるつぎみぎ衛門えもんら6にんはカムチャツカにわたり、ロパトカみさきから20にちほどの航海こうかいおおきなアイヌの村落そんらくきしばらく滞在たいざい文化ぶんか元年がんねん(1804ねん)9がつ中旬ちゅうじゅん、ペテロパウロフスクに到着とうちゃく滞在たいざいちゅう6にんぜんろく世話せわけたが、文化ぶんか2ねん(1805ねん)6がつ中旬ちゅうじゅん帰国きこくのためペテロパウロフスクを出航しゅっこうして15にちほどでロパトカみさきいたのちほろむしろとうさい上陸じょうりくして択捉島えとろふとう会所かいしょかった。

1811ねん文化ぶんか8ねん)2がつ7にちカムチャツカ半島はんとう摂津せっつこく船籍せんせき歓喜かんきまる久蔵きゅうぞうらが漂着ひょうちゃく1812ねん文化ぶんか9ねん拉致らちされた高田屋たかだや嘉兵衛かへえがペトロパブロフスクに連行れんこうされ、よく1813ねん文化ぶんか10ねん)にディアナごう嘉兵衛かへえたちとともに出航しゅっこうした久蔵きゅうぞうは8がつはこかん送還そうかんされた。同年どうねん薩摩さつまはんおもぶね永寿えいじゅまるはる古丹こたんとう漂着ひょうちゃくした。

きたアメリカ大陸あめりかたいりくカリフォルニアおき英国えいこくふね救助きゅうじょされた小栗おぐり重吉しげよし尾張おわりとくじょうまる漂流ひょうりゅうみんのこり3にんも、帰国きこく途中とちゅうペトロパブロフスクで合流ごうりゅう文化ぶんか13ねん1816ねん)6がつ永寿えいじゅまるとくじょうまる漂流ひょうりゅうみんたちけい6めいがパヴェルごうでペトロパブロフスクを出航しゅっこう帰国きこくとくなでしまおき送還そうかんされた。

また、べい会社かいしゃふねによる送還そうかんでは、1836ねん天保てんぽう7ねん)に三郎さぶろう越後えちごしゃまる漂流ひょうりゅうみん3めい1843ねん天保てんぽう14ねん)には越中えっちゅう長者ちょうじゃまる漂流ひょうりゅうみん6めいがペトロパブロフスクから択捉えとろふ帰国きこくしている。これらロシアせんによる漂流ひょうりゅうみん送還そうかんは、アラスカなどの植民しょくみん経営けいえい必要ひつよう物資ぶっしとく食料しょくりょうなどをるには地理ちりてきちか日本にっぽんとの通商つうしょう必要ひつようかんがえられたためである。

よしみひさし7ねん1854ねん)、加陽かよう豊島としまあつしらによってカムチャツカ半島はんとうふくぜん蝦夷えぞ明記めいきした『改正かいせい蝦夷えぞぜん』が作成さくせいされた。同年どうねんにはクリミア戦争せんそうのため、えいふつ艦隊かんたいがペトロパブロフスク・カムチャツキーに来寇らいこうペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲ほういせんおこなわれた。一方いっぽう日本にっぽんでは同年どうねん海外かいがい渡航とこう失敗しっぱいらわれた長州ちょうしゅうはん吉田よしだ松陰しょういんが『幽囚ゆうしゅうろく』のなか蝦夷えぞ北海道ほっかいどう開拓かいたくうえでの「摸察(カムチャツカ)・隩都(オホーツク)」の奪取だっしゅもとめたが、当時とうじ江戸えど幕府ばくふはその方針ほうしんらず、よく1855ねん安政あんせい2ねん)にはにち和親わしん条約じょうやくがカムチャツカ半島はんとうのロシア領有りょうゆう蝦夷えぞ日本にっぽん領有りょうゆう前提ぜんていとして締結ていけつされた(どう条約じょうやくだい2じょう参照さんしょう)。1868ねん慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん)には明治維新めいじいしんにより江戸えど幕府ばくふからしん政府せいふ政権せいけんがれ、政権せいけん中枢ちゅうすうには吉田よしだ思想しそうてき影響えいきょうけたものもいたが、しん政府せいふもカムチャツカ半島はんとうへの領有りょうゆう主張しゅちょうおこなわず、1875ねん明治めいじ8ねん)の樺太からふと千島ちしま交換こうかん条約じょうやくによってにち国境こっきょうがカムチャツカ半島はんとううらないもりとうあいだうらないもり海峡かいきょうかれることになった。1904ねん明治めいじ37ねん)から1905ねん明治めいじ38ねん)にかけてのにち戦争せんそうでもカムチャツカ半島はんとう戦場せんじょうにならなかったが、講和こうわ条約じょうやくポーツマス条約じょうやく日本にっぽんがカムチャツカ半島はんとう沖合おきあいでの北洋ほくよう漁業ぎょぎょう操業そうぎょうけん獲得かくとくすると、半島はんとう各地かくちには日本にっぽん漁業ぎょぎょう基地きち加工かこうじょうかれるようになった。

ソ連それん時代じだいから新生しんせいロシアへ

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1917ねん大正たいしょう6ねん)、ロシア革命かくめいによってロシア帝国ていこく滅亡めつぼうしてソビエト政権せいけん成立せいりつすると、日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくシベリア出兵しゅっぺいによってロシア極東きょくとう占領せんりょうした。これにたいし、日本にっぽんとの直接ちょくせつ対決たいけつけたいソビエト政権せいけん指導しどうしゃウラジーミル・レーニンアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからもどったアレクサンドル・クラスノシチョーコフ大統領だいとうりょうとする緩衝かんしょう国家こっか極東きょくとう共和きょうわこく」の樹立じゅりつみとめ、1920ねん大正たいしょう9ねん)3がつ建国けんこくにカムチャツカ半島はんとう極東きょくとう共和きょうわこく領土りょうどとした。しかし、カムチャツカ半島はんとうには日本にっぽんぐん侵入しんにゅうせず、同年どうねん12がつにはカムチャツカ半島はんとうソビエト社会しゃかい主義しゅぎロシア共和きょうわこく返還へんかんされ、1922ねんには極東きょくとう共和きょうわこく自体じたい消滅しょうめつしてソビエト連邦れんぽう(ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽうソ連それん)に吸収きゅうしゅうされた。日本にっぽん1925ねん大正たいしょう14ねん)ににち基本きほん条約じょうやく締結ていけつしてソ連それん承認しょうにんし、ソ連それんがわはポーツマス条約じょうやくによる日本にっぽん漁業ぎょぎょう利権りけん承認しょうにんした。ただし、その翌年よくねんである1926ねん大正たいしょう15ねん8がつ10日とおかには、カムチャツカ半島はんとう西岸せいがん沖合おきあい公海こうかいうえにて宝来ほうらいまる略奪りゃくだつ事件じけん発生はっせいしている。そのもカムチャツカ半島はんとうにはソ連それん領内りょうない日本人にっぽんじん状態じょうたいつづいたが、1930年代ねんだい以降いこう日本にっぽん戦争せんそう拡大かくだいして北洋ほくよう漁業ぎょぎょう縮小しゅくしょうすると日本にっぽん漁業ぎょぎょう活動かつどう自然しぜん消滅しょうめつした。1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつだい世界せかい大戦たいせんさい末期まっききたソ連それんたいにち参戦さんせんではペトロパブロフスク・カムチャツキーが出撃しゅつげき拠点きょてんになったほか、うらないもりとうたたかでは半島はんとう南端なんたんのロパートカみさきからうらないもりとう日本にっぽんぐん守備しゅび部隊ぶたいけて海峡かいきょうえの砲撃ほうげき赤軍せきぐんにより実施じっしされた。

冷戦れいせんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくもっとちかソ連それんりょうとして軍事ぐんじ地帯ちたい指定していされ、1990ねんまで外国がいこくじんにゅういき禁止きんしされていた。不凍港ふとうこうで、北西ほくせい太平洋たいへいよう直接ちょくせつられるペトロパブロフスク・カムチャツキーはソ連それん太平洋艦隊たいへいようかんたい重要じゅうよう軍港ぐんこうとなり、周辺しゅうへんには軍事ぐんじ基地きち配置はいちされた。カムチャツカ半島はんとうは、ソ連それん(ロシア)西部せいぶから発射はっしゃされる長距離ちょうきょりミサイル(ICBMきょくちょう音速おんそくミサイル)試験しけん着弾ちゃくだん目標もくひょうとしても使つかわれている[4]

一方いっぽう、カムチャツカ半島はんとう東側ひがしがわ設定せっていされた国際こくさい航空こうくう日本にっぽん、およびソ連それんとは国交こっこうのなかった韓国かんこくからアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく東海岸ひがしかいがん、あるいはアラスカを経由けいゆして西にしヨーロッパ諸国しょこくかうには事実じじつじょう当時とうじ最短さいたんルートとなるきょくけん航路こうろ一部いちぶ[ちゅう 1]利便りべんせい緊張きんちょうあわつルートであった。このなかで、1983ねん9月には航路こうろ設定せっていミスが原因げんいんとされる韓国かんこく大韓航空だいかんこうくう旅客機りょかくきがカムチャツカ半島はんとう上空じょうくうソ連それん領空りょうくう侵犯しんぱんし、最終さいしゅうてきにはサハリンおきソ連それん防空ぼうくうぐん撃墜げきついされる大韓航空だいかんこうくう撃墜げきつい事件じけん発生はっせいした。

しかし、冷戦れいせん終結しゅうけつともなべい関係かんけい改善かいぜんともない1990ねん外国がいこくじんにゅういき解禁かいきんされ、アメリカや日本にっぽんからの国際こくさいチャちゃ便びんぶようになると、漁業ぎょぎょう開発かいはつ火山かざん自然しぜん観光かんこうなどの経済けいざい開放かいほうすすむようになった。軍港ぐんこう機能きのう中心ちゅうしんあらためて閉鎖へいさ都市としとされたアバチャ湾内わんないヴィリュチンスク整備せいびされ、ペトロパブロフスク・カムチャツキーへの外国がいこくじん訪問ほうもん可能かのうとなった。

この政策せいさくにもかかわらず、首都しゅとモスクワからは6000キロメートル以上いじょうはなれたソ連それんやロシアのさい東部とうぶ地域ちいきという行政ぎょうせいじょう理由りゆうくわえ、1952ねんカムチャツカ地震じしんれいとして半島はんとう東岸とうがん沿った千島ちしま・カムチャツカ海溝かいこうこすきょだい地震じしんだい津波つなみ頻発ひんぱつというどう半島はんとう特有とくゆう自然しぜん条件じょうけんかさなって、1991ねんソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい新生しんせいロシア連邦れんぽう混乱こんらんともな人口じんこう流出りゅうしゅつつづいた。2001ねん就任しゅうにんしたウラジーミル・プーチン大統領だいとうりょうによって地域ちいき振興しんこうはかられるようになった。それに先立さきだ1996ねんにはカムチャツカの火山かざんぐん世界せかい遺産いさん自然しぜん遺産いさん)に登録とうろくされ、2007ねんには人口じんこうとくすくない半島はんとう北部ほくぶのコリャーク自治じち管区かんくがカムチャツカしゅう統合とうごうされる行政ぎょうせい再編さいへん実施じっしされ、半島はんとう全域ぜんいきがカムチャツカ地方ちほうぞくすることとなった。

カムチャツカ地方ちほう政府せいふは、この火山かざんぐん観光かんこう資源しげんとしてかしたリゾート施設しせつ「3つの火山かざん」を、ペトロパブロフスク・カムチャツキー南西なんせい整備せいびする計画けいかくすすめている[5]

気候きこう

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宇宙からの眺め。初夏(左)と晩冬(右)。 宇宙からの眺め。初夏(左)と晩冬(右)。
宇宙うちゅうからのながめ。初夏しょか(ひだり)と晩冬ばんとう(みぎ)。

カムチャツカ半島はんとう気候きこう亜寒帯あかんたい気候きこうからツンドラ気候きこう西側にしがわにあるオホーツクかいではふゆ流氷りゅうひょう漂着ひょうちゃくして常時じょうじ凍結とうけつ状態じょうたいとなるが、東側ひがしがわ太平洋たいへいようでは流氷りゅうひょう出現しゅつげん比較的ひかくてきすくなく、温暖おんだんとなる。りょうきし気温きおんとくふゆ顕著けんちょとなり、北緯ほくい59にある西岸せいがんパラナは12月から翌年よくねん2がつにかけての平均へいきん最低さいてい気温きおん氷点下ひょうてんか20下回したまわるのにたいし、北緯ほくい53にある東岸とうがんのペトロパブロフスク・カムチャツキーでは氷点下ひょうてんか10上回うわまわり、1にち平均へいきん気温きおんでもパラナよりやく10あたたかい。これは北緯ほくい43にある日本海にほんかい沿岸えんがん沿海えんかい地方ちほう州都しゅうとウラジオストクよりもたかい。

植物しょくぶつ動物どうぶつ

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かつては固有こゆうしゅであるカムチャッカオオヒグマ生息せいそくしていたが、毛皮けがわ目的もくてき大量たいりょう捕獲ほかくされ、1920ねんまでに絶滅ぜつめつしている[6]

民族みんぞく

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ロシア帝国ていこくによる一連いちれん入植にゅうしょく活動かつどう、ソビエト連邦れんぽうによる軍事ぐんじ基地きち強化きょうかなどをつうじ、ロシアから、あるいは当時とうじソ連それん構成こうせいこくだったウクライナウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく)からの移住いじゅうすすみ、20世紀せいき先住民せんじゅうみんぞく人口じんこう急速きゅうそく低下ていかした。2010ねんのロシア国勢調査こくせいちょうさ結果けっかによると、カムチャツカ地方ちほう民族みんぞく構成こうせいはロシアじんが85.9%、スラヴけい全体ぜんたいでは9わり以上いじょうめ、先住民せんじゅうみんぞくでは最多さいたのコリャークじんが2.3%、イテリメンじんが0.8%にとどまるとされている[7]

その

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日本語にほんごわけにおいて、かつては「カムチャッカ」とかれることもおおかった。「Камчатка」を現代げんだい片仮名かたかな転写てんしゃ一般いっぱんれいらせば「カムチャートカ」または「カムチャトカ」という表記ひょうきになるが、日本語にほんごでは慣習かんしゅうてきな「カムチャツカ」や「カムチャッカ」の定着ていちゃくたかいので現在げんざいでもそのような表記ひょうきもちいられることはすくない。ふるくは「カムサツカ」(かん察加)とかれたこともあった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 東西とうざい冷戦れいせんソ連それん自国じこく領空りょうくう西側にしがわ諸国しょこく民間みんかん航空機こうくうき通過つうかには開放かいほうしておらず(モスクワ経由けいゆ便びんのみの飛行ひこう限定げんていてき許可きょか)、国交こっこうのない韓国かんこくとの便びんいたっては経由けいゆすら不可能ふかのうだった。そのため、ひがしアジア西にしヨーロッパをむす大圏たいけんコースちかシベリア上空じょうくう通過つうかルートは使つかえず、カムチャツカ半島はんとう東方とうほうおきからアラスカにかい、ここからきた極点きょくてん付近ふきん通過つうかする極地きょくちルートか、これ以上いじょう距離きょりながくても東南とうなんアジア中東ちゅうとう経由けいゆする南回みなみまわりルートしか利用りようできなかった。

出典しゅってん

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  1. ^ a b kotobank-カムチャツカ半島はんとう.
  2. ^ 菊池きくち俊彦としひこ『オホーツクの古代こだい平凡社へいぼんしゃしんしゃ
  3. ^ 桂川かつらがわはじめしゅう しる亀井かめいだかこう へんきた槎聞りゃく大黒屋だいこくや光太夫こうだゆうロシア漂流ひょうりゅう岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1993ねん、38-41ぺーじISBN 4-00-334561-4 
  4. ^ 中国ちゅうごく・ロシアが開発かいはつするきょくちょう音速おんそく──アメリカは衛星えいせい探知たんちもう実現じつげんできるか?ニューズウィーク日本にっぽんばんサイト(2020ねん1がつ21にち)2020ねん12月12にち閲覧えつらん
  5. ^ カムチャッカ半島はんとうに「自然しぜんリゾート」地元じもと政府せいふ、コロナにらむ『日経にっけい産業さんぎょう新聞しんぶん』2020ねん12月7にち(グローバルめん
  6. ^ 下川しもかわ耿史 『環境かんきょう年表ねんぴょう 明治めいじ大正たいしょうへん(1868-1926)』p341 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2003ねん11月30日刊にっかん 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20522067
  7. ^ Всероссийская перепись населения 2010 года(ぜんロシア2010ねん国勢調査こくせいちょうさ)(ロシア”. ロシア連邦れんぽう政府せいふ統計とうけいきょく. 2019ねん10がつ6にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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カムチャツカ半島はんとうhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%84%E3%82%AB%E5%8D%8A%E5%B3%B6コトバンクより2022ねん12月29にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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