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セミョン・デジニョフ

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セミョーン・イワノヴィチ・デジニョフ(シモン・デジネフ、ロシア:Семён Ива́нович Дежнёвマ字まじ表記ひょうき:Semyon (Semion, Simon) Ivanovich Dezhnev (Dezhnyov)、1605ねんごろ - 1673ねん)は、ロシア帝国ていこく探検たんけん[1]1648ねんシベリア東部とうぶへの探検たんけんたいひきい、ユーラシア大陸たいりくひがしはしとなるみさき回航かいこうして、アジアアラスカ陸続りくつづきでないことを発見はっけんした。これは、ヴィトゥス・ベーリング探検たんけんやくいち世紀せいき先立さきだつものであった。

シベリアや北極ほっきょくかい沿岸えんがんでの交易こうえき

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デジニョフの生涯しょうがいについては1638ねんから1671ねんあいだ功績こうせきしかられておらずあきらかでない部分ぶぶんおおいが、17世紀せいき初頭しょとうきたロシアの河港かこうヴェリキイ・ウスチュグ農家のうかまれたと伝記でんき作者さくしゃらは結論けつろんづけている。当時とうじロシアの北部ほくぶまれて野心やしんったポモール人々ひとびと同様どうようかれとみもとめてシベリアにかい、トボリスクエニセイスクはたらき、1638ねんにエニセイスクからさらにひがしヤクーツクかった。ヤクーツクを拠点きょてんとした20年間ねんかんはデジニョフにとってきびしい時期じきであり、先住民せんじゅうみんから毛皮けがわてながら北極圏ほっきょくけん大河たいが流域りゅういきやすみなくたびする生活せいかつおくり、なん先住民せんじゅうみんおそわれた。

1641ねんには15にんひきいてヤナがわ流域りゅういき毛皮けがわあつめてヤクーツクに生還せいかんし、1642ねんにはスタドゥヒン(Семён Ива́нович Стадухин)らとともにインディギルカがわ流域りゅういきぜいとして毛皮けがわてるたびた。3ねんにわたる任務にんむでスタドゥヒンらはヤクーツクにもどったが、デジニョフはそのままインディギルカかわくだ北極ほっきょくかいコリマがわ河口かこういたった。

北極ほっきょくかい航海こうかい

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1647ねん、デジニョフとおなじくきたロシア(現在げんざいアルハンゲリスクしゅうホルモゴルイ出身しゅっしんでヤクーツクを拠点きょてんとする商人しょうにんフェドット・アレクセイエフ(フェドット・アレクシーヴ)・ポポフ(Попов, Федот Алексеевич)は、コリマがわ河口かこうから北極ほっきょく海沿うみぞいにひがしかう航海こうかい組織そしきした。前年ぜんねん1646ねん、イグナチェフ(Семён Ива́нович Игнатьев)という人物じんぶつがコリマがわ河口かわくち周辺しゅうへん航海こうかいおこなセイウチのキバやクジラのヒゲなどの貴重きちょうしなかえっていたため、さらにひがしかいこれらの産品さんぴんかえることを意図いとしていた。このときデジニョフはポポフにさそわれ、鉱夫こうふ先住民せんじゅうみんからのぜいてをおこなうためにポポフの航海こうかい同行どうこうした。かれらの目的もくてきはおそらくはるかひがしアナディリがわだったとかんがえられるが、うみごおりはば航海こうかい途中とちゅうかえすことになった。

デジニョフやポポフはあきらめず、よく1648ねんおな航路こうろ挑戦ちょうせんした。かれらは90にんから105にんほどの探検たんけんたいみ7せきふね分乗ぶんじょうしてアナディリがわ目指めざした。かれらは10週間しゅうかん航海こうかいのちにアナディリがわ河口かこうにたどりいた。これはアジア大陸たいりくひがしはしまわり、リング海りんぐかいかい南北なんぼく通過つうかしたことを意味いみする。フェドット・アレクシーヴの航海こうかい足取あしどりは現在げんざいでも判明はんめいしているが、航海こうかいちゅうのデジニョフの役割やくわり記録きろくのこっていない。デジニョフはアナディリがわさかのぼりアナディルスキー・オストログ(アナディリとりで)をきず地図ちず作製さくせいした。同年どうねん、デジニョフはアジア大陸たいりく先端せんたん北岸ほくがん沿って航海こうかいし、アジアとアラスカのあいだの「アニアン海峡かいきょう」(当時とうじアジア大陸たいりくアメリカ大陸あめりかたいりくあいだにあると想像そうぞうされた海峡かいきょうで、北西ほくせい航路こうろ北東ほくとう航路こうろなどヨーロッパからアジアへの最短さいたん航路こうろ構成こうせいするとかんがえられていた)を発見はっけんしたと記録きろくのこした。かれ海岸かいがん沿いにチュクチ半島はんとう回航かいこうし、古代こだい地図ちず作者さくしゃ想像そうぞうした伝説でんせつの「タビンのみさき」(Tabin Promontorium)の詳細しょうさい記録きろくしている。またチュクチじん("Ostrova zubatykh")のふたつのしま記録きろくしているが、これはリング海りんぐかいかい中央ちゅうおうかぶダイオミード諸島しょとう構成こうせいするふたつのしまかんがえられる。かれはチュクチの人々ひとびと("zubatiye")について、しもくちびるをセイウチのきばのかけらやいしほねかざることを記録きろくしている。一方いっぽうでポポフはこのとしあきアナディリわん沿岸えんがんぼっしている。デジニョフがどのみなともどったかは不明ふめいである。かれ1664ねんにコサック隊長たいちょう称号しょうごうけた。

晩年ばんねん業績ぎょうせきさい発見はっけん

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1670ねん、ヤクーツクの領主りょうしゅボルヤティンスキー公爵こうしゃくはデジニョフにモスクワへかいクロテン毛皮けがわ書類しょるいはこ任務にんむあたえた。デジニョフは1ねん5カ月かげつをかけてモスクワへ到着とうちゃくした。かれ当時とうじ60さいえ、辺境へんきょうでの生活せいかつった古傷ふるきず長年ながねん疲労ひろうのため健康けんこうがいしており、1673ねんにモスクワでぼっした。

これらの探検たんけん報告ほうこくながあいだ公文書こうぶんしょかんうずもれており、19世紀せいきすえさい発見はっけんされた。これをけてロシア地理ちり学会がっかいはユーラシア大陸たいりく東端ひがしばたみさきデジニョフみさき名付なづけるよう請願せいがんおこなった。

デジニョフの生涯しょうがい探検たんけんについてはなおあきらかでない部分ぶぶんおおい。かれ探検たんけん途中とちゅうでアラスカにたっアメリカ大陸あめりかたいりく西端せいたん発見はっけんした可能かのうせいや、そこにとりできずいた可能かのうせいすらもあるが、それをおこなったのはデジニョフよりのちのロシアの探検たんけんとする見方みかたおおい。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ズナメンスキー,S ちょ秋月あきづき俊幸としゆき わけ『ロシアじん日本にっぽん発見はっけんきた太平洋たいへいようにおける航海こうかい地図ちず歴史れきし北海道大学ほっかいどうだいがく図書としょ刊行かんこうかい北大ほくだい選書せんしょ〉、1979ねん8がつ25にちISBN 4-8329-3091-5 

外部がいぶリンク

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