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あおやまろく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

あおやまろく』(へきざんにちろく)は、室町むろまち時代ときよ東福寺とうふくじ僧侶そうりょであったくもいずみ太極たいきょく日記にっき東福寺とうふくじ境内けいだいに「あおやまけいよりどころ」とばれる草庵そうあんがあり、それが名前なまえ由来ゆらいとなっている。みことけいかく文庫ぶんこ写本しゃほんつたわっている。

記述きじゅつ長禄ちょうろく3ねん1459ねん)から応仁おうにん2ねん1468ねん)までおよぶ。ひろしただし元年がんねん文正ふみまさ元年がんねん1466ねん)、応仁おうにん2ねんなどの記述きじゅつ欠落けつらくしているものの、長禄ちょうろく - 応仁おうにん年間ねんかん言及げんきゅうした史料しりょう希少きしょうであり、また筆者ひっしゃ立場たちばじょう寺院じいん運営うんえい僧侶そうりょ仕事しごと生活せいかつかんする記述きじゅつられるため、室町むろまち時代じだい後期こうき検証けんしょうする史料しりょうとして貴重きちょうである。

内容ないよう太極たいきょく生活せいかつ私事しじと、僧侶そうりょとしての渉外しょうがいなどの公務こうむ中心ちゅうしんとなっている。古代こだい名僧めいそう伝記でんき語録ごろく抜粋ばっすいや、教典きょうてんたいする太極たいきょく解釈かいしゃく考証こうしょう絵画かいが書物しょもつ鑑賞かんしょうふくまれているほか覚書おぼえがきにも使つかわれている。

文正ふみまさ応仁おうにんころ紊乱びんらんした世情せじょう活写かっしゃされており、このころ台頭たいとうしてきた足軽あしがるや、下層かそう市民しみんかんする記述きじゅつ豊富ほうふなかでも山城やましろこく木幡きばたさとさとみん活動かつどうや、清水寺きよみずでら勧進かんじんそう民衆みんしゅうほどこした救済きゅうさいかんする記述きじゅつ注目ちゅうもくされている[1]

それぞれの記事きじ末尾まつびに「にちろくうん」としょうして、記事きじ要点ようてん摘出てきしゅつと、太極たいきょく自身じしん記事きじたいする感想かんそうべていることが特徴とくちょうである。記事きじ付属ふぞくする太極たいきょく論評ろんぴょうには『史記しき』をはじめとする古文書こもんじょ影響えいきょうがあったとかんがえられている。

あおやまろくにおける太極たいきょく文体ぶんたいはかなり熟達じゅくたつしており、鮮明せんめい個性こせい独特どくとく雰囲気ふんいきかもしているが、それゆえに晦渋かいじゅうてんおおく、太極たいきょく自身じしん経歴けいれきしょうてんおおいことも、難解なんかいさに拍車はくしゃをかけている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』の「あおやまろく」のこうより。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]