即位そくい灌頂

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即位そくい灌頂(そくいかんじょう)とは、11世紀せいきないし13世紀せいきから江戸えど時代じだいにかけて、天皇てんのう即位そくいしきなかおこなわれた密教みっきょう儀式ぎしきで、その内容ないようとされていた。一般いっぱんてきには即位そくいしきまえ摂関せっかんおもじょう人物じんぶつから天皇てんのうたいしてしるししょう真言しんごん伝授でんじゅされる「しるしあかり伝授でんじゅ」とばれる伝授でんじゅ行為こういと、即位そくいしきなか天皇てんのう伝授でんじゅされたしるしあかりむすび、真言しんごんとなえるじつ修行しゅぎょうためあわせて即位そくい灌頂とんでいるが、しるしあかり伝授でんじゅ即位そくい灌頂のじつおさむ明確めいかく区別くべつする研究けんきゅうしゃもある[1]。ここではしるしあかり伝授でんじゅ即位そくい灌頂をあわせて説明せつめいする。

即位そくい灌頂がまれた背景はいけい[編集へんしゅう]

灌頂元来がんらい古代こだいインド国王こくおう即位そくい立太子りったいしさいおこなわれた、灌頂すいばれるみず即位そくいするおう頭上ずじょうそそがれた儀式ぎしきであった。この儀式ぎしきバラモン教ばらもんきょうヴェーダしるされることによって後代こうだいがれ、『ラーマーヤナ』にもラーマおう即位そくいしきかみ々から民衆みんしゅういたるまでおうたいして灌頂をおこない、のち本来ほんらい姿すがたであるヴィシュヌしんもどってったとつたえられている[2]。やがてその灌頂の儀式ぎしき仏教ぶっきょう儀式ぎしきれられ、とく密教みっきょうなかでは伝法でんぼう灌頂など重要じゅうよう儀式ぎしきとされるようになった。

日本にっぽん密教みっきょう伝来でんらいした9世紀せいきに灌頂の儀礼ぎれい開始かいしされ、やがて密教みっきょうの灌頂儀式ぎしき天皇てんのう即位そくいしきれられ、即位そくい灌頂が成立せいりつすることになる。

日本にっぽん密教みっきょうつたえた中国ちゅうごくでは、皇帝こうてい即位そくいしきに灌頂儀式ぎしきおこなわれた形跡けいせきはない。これは日本にっぽん中国ちゅうごくの、君主くんしゅについての概念がいねん起因きいんしているとかんがえられる。中国ちゅうごくでは皇帝こうてい即位そくいしきは、皇帝こうてい臣下しんかとの相互そうご承認しょうにんという色彩しきさいつよいのにたいして、天孫てんそん降臨こうりん神話しんわ日本にっぽんでは、即位そくいしき宗教しゅうきょうてき観念かんねんはい余地よちおおきかったとられる。また、灌頂が古代こだいインドの国王こくおう即位そくい儀式ぎしき源流げんりゅうがあるとはいえ、密教みっきょう教義きょうぎもとづくしるしあかり伝授でんじゅじつおさむからなる即位そくい灌頂は、古代こだいインドでおこなわれていた儀式ぎしきとは思想しそうてきにも内容ないようてきにもことなったものである[3]

平安へいあん時代じだい院政いんせい仏法ぶっぽう興隆こうりゅう王権おうけん興隆こうりゅう直結ちょっけつするという仏教ぶっきょうてき国家こっかかん意識いしきされるようになる。その結果けっか金輪かなわ聖王せいおう十善じゅうぜんきみなどといった仏教ぶっきょうてき名称めいしょう天皇てんのう別称べっしょうとされるようになり、即位そくいしきなかにも即位そくい灌頂のような儀式ぎしきれられるようになったとのせつがある。このような状況じょうきょう王権おうけんふつ授説と研究けんきゅうしゃもいる[4]

また古代こだい以来いらい天皇てんのうおこなってきた神道しんとう儀式ぎしき中世ちゅうせい以降いこう衰退すいたいしていった。たとえばだい嘗会翌年よくねんふるくからおこなわれてきた八十嶋やそじまさい鎌倉かまくら初期しょき以降いこうおこなわれなくなった。そしてだい嘗会自体じたい新嘗祭にいなめさいも、15世紀せいきにはいったん中絶ちゅうぜつする。そのようななか天皇てんのう宗教しゅうきょうてき権威けんいたもあらたな儀式ぎしきとして即位そくい灌頂はまれ、発展はってんしていったとみられる。

なお、タイ王国おうこくにおいても即位そくい儀式ぎしきなかに灌頂がおこなわれているが、これはアユタヤあさ時代じだいに、国王こくおうバラモン教ばらもんきょう由来ゆらいとするヴィシュヌしんシヴァしん同一どういつする「テーワラーチャかみおう思想しそう)」をれたことによる。このため、ラーマ1せい以降いこう現在げんざいチャクリー王朝おうちょう即位そくいしきにおいては仏教ぶっきょうてき儀礼ぎれいもとっているものの、灌頂のみはバラモンそうおこなうことになっている[5]

即位そくい灌頂の実施じっしほう[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂は、即位そくいする天皇てんのう摂関せっかんおもじょう人物じんぶつからしるししょう真言しんごん伝授でんじゅけ(しるしあかり伝授でんじゅ)、それを即位そくいしきなかしゅうする。としての性格せいかくじょう記録きろくがあまりのこっておらず、その内容ないようについてることは困難こんなんであった。しかし近年きんねんじょう保存ほぞんされていた文書ぶんしょ公開こうかいされ、そのなか即位そくい灌頂関連かんれん文書ぶんしょもあり、即位そくい灌頂の実践じっせん方法ほうほうについての研究けんきゅうすすみつつある。

しるししょう伝授でんじゅは、即位そくいしき当日とうじつおこなわれることが基本きほんであったが、しるしあかり伝授でんじゅしゃふくしているなどの事由じゆうがある場合ばあい前日ぜんじつになることもあった。

即位そくい灌頂のさい天皇てんのうむすしるししょう金剛こんごうかい大日如来だいにちにょらいあらわさとしこぶししるしとされる。大日如来だいにちにょらいあらわさとしこぶししるしむすてんについては、本地垂迹ほんじすいじゃくにおいててんあきら大神おおがみ同一どういつされた大日如来だいにちにょらいしるししょうむすぶことによって、即位そくいする天皇てんのう大日如来だいにちにょらい同一どういつし、至高しこう存在そんざいとなる意味いみがあるとされる[6]

真言しんごんは、胎蔵かい大日如来だいにちにょらい真言しんごんないし荼枳あまてん真言しんごんとなえたとされる。なお、真言しんごんとなえるとっても発声はっせいはせず、しんなかとなえた。荼枳あまてん真言しんごんは、後述こうじゅつする真言しんごんけい寺院じいんつたえられている東寺方ひがしてらがた即位そくいほうでももちいられており、即位そくい灌頂との密接みっせつ関連かんれん指摘してきされている。せい関係かんけいふかい荼枳あまてん即位そくい灌頂と関係かんけいがあることについては、網野あみの善彦よしひことなえたようにせい天皇てんのうとのかかわりいにもとめるせつがある[7]

天皇てんのうしるしあかりむすび、真言しんごんとなえるじつおさむについては、かつては即位そくいしきさい天皇てんのう高御座たかみくらまであるいているあいだおこなうとかんがえられていたが、最近さいきん研究けんきゅうでは高御座たかみくら着座ちゃくざしてからおこなわれたとされている。即位そくい灌頂がであったことから、高御座たかみくら天皇てんのう着座ちゃくざした直後ちょくご女官にょかん天皇てんのうかおかげ(さしば)おおっているあいだおこなわれたとられている[8]

上記じょうき江戸えどにおけるじょう即位そくい灌頂についての文書ぶんしょからの分析ぶんせきであるが、室町むろまち時代ときよは、たとえばこう奈良なら天皇てんのう宸記によれば、さんしるし三明さんめい(つまりみっつのしるししょうみっつの真言しんごん)の伝授でんじゅけ、高御座たかみくらすすむまでにだいいちしるししょうむすび、着座ちゃくざだいだいさんしるししょうむす方式ほうしきをとっており[9]即位そくい灌頂の実施じっし方法ほうほう時代じだいによってかなり変遷へんせんがあったものと推定すいていされている。

即位そくい灌頂の歴史れきし[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂の開始かいしについて[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂がいつから開始かいしされたのかということについてはいくつかのせつがある。もっとふるせつでは後三条ごさんじょう天皇てんのうからはじまったとされる。これは大江匡房おおえのまさふさあらわした「後三条ごさんじょういん即位そくい」に、即位そくい後三条ごさんじょう天皇てんのうしゃくたず、大日如来だいにちにょらいしるししょうをしていたとかれていることによる。しかしこの記述きじゅつをもって即位そくい灌頂がおこなわれたとするのには疑問ぎもんとの意見いけんもある[10]

じょうから近年きんねん公表こうひょうされた、即位そくい灌頂にかんする文章ぶんしょう分析ぶんせきから、後深草天皇ごふかくさてんのうから即位そくい灌頂がはじまったとのせつとなえられている。これは二条にじょうやすしどうしるした、即位そくい灌頂しるしあかり伝授でんじゅおこなった人物じんぶつ併記へいきした天皇てんのう系図けいずによると、後深草天皇ごふかくさてんのう即位そくい摂政せっしょうであった一条いちじょうみのるけいから即位そくい灌頂を伝授でんじゅされたとしている[11]

後深草天皇ごふかくさてんのうつづ亀山天皇かめやまてんのうこう宇多天皇うだてんのうについては即位そくい灌頂をおこなったとの資料しりょうのこっていないが、伏見天皇ふしみてんのう即位そくい灌頂をおこなったことについては、伏見天皇ふしみてんのう宸記の記述きじゅつからあきらかであり、伏見天皇ふしみてんのうから即位そくい灌頂が開始かいしされたとする研究けんきゅうしゃもいる[12]伏見天皇ふしみてんのう即位そくい灌頂をおこなったことはたしかであるため、おそくとも13世紀せいき後半こうはんには即位そくい灌頂ははじまったことがわかる。

じょう即位そくい灌頂の開始かいしについて[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂では、おおくの場合ばあいじょう人物じんぶつしるしあかり伝授でんじゅおこなってきたが、即位そくい灌頂の誕生たんじょう経緯けいいからじょうふかかかわっているとのせつがある。

じょう初代しょだい二条にじょうりょうは、ちちである九条くじょう道家どうか不和ふわで、有職故実ゆうそくこじつかんする文書ぶんしょ一切いっさいげなかった。そのため有職故実ゆうそくこじつおもんじる鎌倉かまくら時代じだい当時とうじ状況じょうきょうでは、政治せいじてきおおきなハンディをつことになった[13]

当時とうじ即位そくいしきつづいておこなわれるだい嘗会おこなわれるかみぜんきょうしんでは、天皇てんのう摂関せっかん儀式ぎしき作法さほうについての助言じょげんけ、それにもとづいて儀式ぎしきすすめていたが、伏見天皇ふしみてんのう即位そくい関白かんぱくつとめていたじょうただしは、儀式ぎしき進行しんこうかんする天皇てんのうからのいにこたえられず、苦境くきょうたされることになった。これはじょう有職故実ゆうそくこじつかんするめぼしい書類しょるいがなかったことによる[14]

そのため、じょうちゅうあにであり、天台座主てんだいざしゅつとめた経験けいけんもあるみちげん協力きょうりょくあおぎ、伏見天皇ふしみてんのう即位そくい即位そくい灌頂というあらたなる儀式ぎしきはじめ、じょうかれた苦境くきょうからだっし、五摂家ごせっけ対抗たいこうすることをもくろんだという。これはまた、摂関せっかんだい嘗会でおこなわれるかみぜんきょうしんで、天皇てんのう儀式ぎしきすすかた伝授でんじゅすることが摂関せっかんおおきな存在そんざい意義いぎとなったことをヒントにして、摂関せっかん即位そくいする天皇てんのうたいして儀式ぎしき作法さほう伝授でんじゅする、あらたなる密教みっきょう儀式ぎしきれたことを意味いみしており、即位そくい灌頂は摂関せっかん存在そんざい意義いぎひとつとなっていくことになる[15]

このせつによれば、じょう都合つごうがもとで開始かいしされた即位そくい灌頂であるため、天皇てんのう即位そくいじょう摂関せっかんつとめていない場合ばあい当初とうしょ即位そくい灌頂は基本きほんてきにはおこなわれなかったものと推定すいていする。[16]。ただ、歴代れきだい当主とうしゅ室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ征夷大将軍せいいたいしょうぐんへんいみなけるなど武家ぶけ政権せいけん親密しんみつであったじょうは、室町むろまち時代じだいにおいて摂関せっかんつとめる期間きかん五摂家ごせっけくらべてながかった[17]自然しぜん天皇てんのう即位そくい即位そくい灌頂がおこなわれる機会きかいえ、また、天皇てんのうがわでも権威けんい確立かくりつ手段しゅだんひとつとなる即位そくい灌頂を歓迎かんげいするめんがあり、やがて即位そくいしき即位そくい灌頂が定着ていちゃくしていくことになる。

上記じょうきせつ歴史れきしてきじょう即位そくい灌頂をつとめる機会きかいおおく、即位そくい灌頂がじょう家業かぎょうとして定着ていちゃくしていくことについて説得せっとくりょくがあるせつである。後深草天皇ごふかくさてんのうときには一条いちじょうみのるけいおこなったとされるせつは、さき紹介しょうかいした二条にじょうやすしどう記録きろくにのみえて信憑しんぴょうせい疑問ぎもんのこる。しかもじょうでは、じつけいのち一条いちじょうでは口伝くでん断絶だんぜつし、じょうのみがつたえていることをかえ強調きょうちょうしている。またこう伏見天皇ふしみてんのうとき鷹司たかつかさけんただし即位そくい灌頂をおこなったとされているが、「このときさるる子細しさいこれり」としるされ、じょう以外いがい人物じんぶつ即位そくい灌頂をおこなったことはあくまで例外れいがい不吉ふきつとされている。

即位そくい灌頂と即位そくいほう[編集へんしゅう]

実際じっさい天皇てんのう即位そくいしきさいしてじつおさむした即位そくい灌頂とならんで、天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅうには、天皇てんのう即位そくいしきしゅうするための、即位そくいほうばれるしるしあかり真言しんごんつたえられている。一般いっぱんてき天台宗てんだいしゅう即位そくいほう天台てんだいかた真言宗しんごんしゅう即位そくいほう東寺方ひがしてらがたばれている。天台てんだいかた東寺方ひがしてらがたとも複数ふくすう即位そくいほうつたえられており、それぞれしるしあかり真言しんごんことなる。天台てんだいかた即位そくいほうは、しゅうきよしおう大日如来だいにちにょらいから法華経ほけきょうさづけられたとするきよしおう説話せつわなどの説話せつわをもとに、当初とうしょ高僧こうそう天皇てんのうたいしてしるしあかり伝授でんじゅおこな内容ないようであったのが、その摂関せっかんしるしあかり伝授でんじゅする内容ないようになったとされる[18]一方いっぽう東寺方ひがしてらがた即位そくいほう両部神道りょうぶしんとうなどの影響えいきょうられるとされ、当初とうしょから摂関せっかん天皇てんのう伝授でんじゅする内容ないようであった[19]

即位そくいほうはそのまま実際じっさい即位そくい灌頂にもちいられることはなかったが、即位そくい灌頂の成立せいりつにはすくなからぬ影響えいきょうあたえたとられ、とく東寺方ひがしてらがた即位そくいほう即位そくい灌頂との類似るいじ指摘してきされている。

鎌倉かまくら時代じだい後半こうはんから南北なんぼくあさ時代じだいにかけて、天皇てんのう存在そんざいたがいに不可欠ふかけつであった摂関せっかん寺院じいん勢力せいりょくは、みずからの存続そんぞくをかけて共同きょうどう即位そくい儀礼ぎれいなか即位そくい灌頂をんだものとられる[20]鎌倉かまくら時代じだい後期こうき以降いこう持明院じみょういんみつる大覚寺だいかくじみつるあらそいはやがて南北なんぼくあさ対立たいりつへとすすみ、二人ふたり天皇てんのう対立たいりつするようになった。またおうみつる分裂ぶんれつ影響えいきょうけ、寺院じいん勢力せいりょくなかでも分派ぶんぱすすんだ。そうした分派ぶんぱそれぞれが即位そくいほうし、それら即位そくいほうは、南北なんぼくあさあらそいが終焉しゅうえんしても統一とういつされることなく現在げんざいまでつたえられることになった[21]

二条にじょう良基よしもと活躍かつやくじょう家業かぎょう[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂がじょう家業かぎょうとなっていく過程かていで、足利あしかが義満よしみつ親密しんみつ関係かんけいたもち、南北なんぼくあさ時代じだいよんにわたって摂関せっかんつとめ、おおきな権力けんりょくにぎった二条にじょう良基よしもとちからおおきかったことについては諸説しょせつ一致いっちしている。

二条にじょう良基よしもとかんおう擾乱じょうらんさいして北朝ほくちょう再建さいけん尽力じんりょくした。また三種さんしゅ神器じんぎうえに、ゆずるこくみことのりはっするてんきみ不在ふざいで、やむなく広義こうぎもんいんてんとし、即位そくいにこぎつけた後光ごこうげん天皇てんのう以降いこう北朝ほくちょうが、天皇てんのうとしての正統せいとうせいきずがついた状況じょうきょうにあるなかで、状況じょうきょう改善かいぜん腐心ふしんした。二条にじょう良基よしもと即位そくい灌頂を北朝ほくちょう天皇てんのうあらたな権威けんい源泉げんせんとして、儀式ぎしきとしての整備せいびすすめた。そしてよんにわたり摂関せっかんつとめた二条にじょう良基よしもとは、すうだい天皇てんのう即位そくいしるしあかり伝授でんじゅおこない、即位そくい灌頂の儀礼ぎれいとしての定着ていちゃくにもおおきく貢献こうけんした。その結果けっか即位そくい灌頂がじょう家業かぎょうとなっていく道筋みちすじひらいた。

また、二条にじょう良基よしもとこう円融天皇えんゆうてんのうだい嘗会しんぜんきょうしんさいこう円融天皇えんゆうてんのうしるししょう真言しんごん伝授でんじゅし、天皇てんのう儀式ぎしきちゅうしるししょうむすび、真言しんごんとなえた。神道しんとう儀式ぎしきであるだい嘗会でしるししょうむす真言しんごんとなえたという記録きろくいまのところられないが、即位そくい灌頂が天皇てんのう即位そくいしきばかりではなく、だい嘗会にも関係かんけいがあったことをしめ興味深きょうみぶか記録きろくである。なお、だい嘗会がこう柏原かしわばら天皇てんのう以降いこういったん中絶ちゅうぜつしたことが、記録きろくがない原因げんいんである可能かのうせいがある。いずれにしても宮廷きゅうてい重要じゅうよう儀式ぎしきである即位そくいしきだい嘗会に、二条にじょう良基よしもとふかかかわっていたことがわかる[22]

即位そくい灌頂をめぐる五摂家ごせっけそうろん[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂は天皇てんのう即位そくいしき不可欠ふかけつ儀式ぎしきとして定着ていちゃくするにつれ、しるしあかり伝授でんじゅおもになっていたじょうたいして五摂家ごせっけしるしあかり伝授でんじゅもとめ、しばしばそうろん発生はっせいするようになった。ふるくは1414ねんしょうこう天皇てんのう即位そくいさいして関白かんぱく一条いちじょうけいけん大納言だいなごん二条にじょうもととのあいだそうろんがあったが、しるしあかり伝授でんじゅをめぐる争論そうろん本格ほんかくするのは、じょうしるしあかり伝授でんじゅ定着ていちゃくした江戸えど時代じだいはいってからである。

まず1611ねん後水尾天皇ごみずのおてんのう即位そくいさい二条にじょうあきら近衛このえしんいんとのあいだそうろんとなり、とき征夷大将軍せいいたいしょうぐん であった徳川とくがわ秀忠ひでただ裁定さいていによって二条にじょうあきらしるしあかり伝授でんじゅおこなうことに決定けっていした[23]

つづいて1687ねん東山ひがしやま天皇てんのう即位そくいさいは、ときじょう当主とうしゅ二条にじょうつなたいら当時とうじ、まだ16さいわかさでけん大納言だいなごんであり、しかもちちである二条にじょうひかりたいら死去しきょしたとき二条にじょうつなたいらはまだ3さいで、しるしあかり伝授でんじゅ内容ないようちちからつたえられたかどうか疑念ぎねんたれたことから、おおきなそうろんとなった。二条にじょうにとってさらにわるいことには、1675ねん火災かさいじょう文庫ぶんこ全焼ぜんしょうしており、先祖せんぞ伝来でんらい文章ぶんしょうもほとんどうしなわれてしまっていた。摂政せっしょう一条いちじょうふゆけい左大臣さだいじん近衛このえはじめひろしから、まだ大臣だいじん地位ちいいておらず、ちちからのきちんと伝授でんじゅがなされたかどうかうたがわしいじょうつなたいらではなく、みずからのいえにも伝承でんしょうがあるので、ぜひしるしあかり伝授でんじゅおこないたいとの主張しゅちょうがなされた。結局けっきょくこのときは、れいもと上皇じょうこうがそれぞれのいえせつ確認かくにんしたうえで、かつてみずからがけたしるしあかり伝授でんじゅ二条にじょうつなたいらつたえ、二条にじょうつなへいしるしあかり伝授でんじゅおこなうことになった[24]

1710ねん中御門天皇なかみかどてんのう即位そくいさいは、摂政せっしょう近衛このえひろし右大臣うだいじん二条にじょうつなたいらとのあいだあらそいとなった。当時とうじじょうつなたいら東山ひがしやま天皇てんのう崩御ほうぎょともなふく忌中きちゅうであり、しるしあかり伝授でんじゅおこなうことがあやぶまれており、太閤たいこうであった近衛このえはじめひろしつよ意向いこうもあって近衛このえしるしあかり伝授でんじゅ希望きぼうした。このときもれいもと上皇じょうこう裁定さいていによってじょうつとめることとなり、ふく忌中きちゅう二条にじょうつなたいらわってじょうよしただししるしあかり伝授でんじゅおこなうことになった[25]

1735ねんさくらまち天皇てんのう即位そくいも、関白かんぱくである近衛このえ家久いえひさしるしあかり伝授でんじゅ希望きぼうした。結局けっきょくこのときも中御門なかみかど上皇じょうこう左大臣さだいじんじょうよしただし伝授でんじゅめいじたが、中御門なかみかど上皇じょうこう近衛このえ伝承でんしょう尊重そんちょうすることをみとめた[26]

1739ねんさくらまち天皇てんのうじょうそうはじめたいし、しるしあかり伝授でんじゅじょうおこなつづけるようめいじた。これ以降いこうしるしあかり伝授でんじゅじょうおこなうことが確定かくていし、そうろんはなくなった[27]

即位そくい灌頂の終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい後期こうきになると、国学こくがくさかんになるなどの社会しゃかいうごきに対応たいおうして、仏教ぶっきょう神道しんとうむすびついた神仏しんぶつ習合しゅうごう批判ひはんてき意見いけんられるようになった。そのようななか即位そくいしき仏教ぶっきょう儀礼ぎれいである即位そくい灌頂に非難ひなんあつまるようになった。1847ねん孝明天皇こうめいてんのう即位そくいさいおこなわれた即位そくい灌頂では、おおくの公家くげたちが即位そくいしき即位そくい灌頂をおこなうことに拒否きょひかんしめした[28]。また、即位そくい灌頂の背景はいけいにあった須弥山しゅみせんせつなどの仏教ぶっきょうてき世界せかいかんが、地球ちきゅう球体きゅうたいせつ地動説ちどうせつ万有引力ばんゆういんりょく法則ほうそくなどに代表だいひょうされる西洋せいよう天文学てんもんがく導入どうにゅうによってその正統せいとうせい動揺どうようしていくことになり、やがてそれらは仏教ぶっきょうにおける固有こゆう真理しんりととして位置いちづけられていく一方いっぽうで、社会しゃかい共有きょうゆうする世界せかいかんとしての地位ちいうしなうことになる[29]

1868ねん明治天皇めいじてんのう即位そくいには、即位そくいしき神道しんとう儀礼ぎれい追求ついきゅうされた結果けっか仏教ぶっきょうてき色彩しきさいすべ追放ついほうされ、即位そくい灌頂は廃止はいしされることになった。

即位そくい灌頂の特徴とくちょう[編集へんしゅう]

即位そくい灌頂は儀式ぎしきとして完成かんせいした江戸えど朝廷ちょうていじゅう要事ようじとされた。なんかえされた即位そくいしるしあかり伝授でんじゅについてのそうろんもその重要じゅうようせいあらわれである。そうろん渦中かちゅうにあった天皇てんのう上皇じょうこう、そして摂関せっかん人々ひとびとからその重要じゅうようせいかえ強調きょうちょうされた[30]

即位そくい灌頂を中心ちゅうしんてきになってきたじょうでは江戸えど即位そくい灌頂のまえ鎮守ちんじゅ天神てんじん儀式ぎしき無事ぶじ成功せいこういのり、しるしあかり伝授でんじゅ直前ちょくぜんにはじょうげて潔斎けっさい神事しんじおこなった。即位そくい灌頂は仏教ぶっきょうもとづく儀式ぎしきであるが、じょう神道しんとうしき儀式ぎしき即位そくい灌頂の無事ぶじいのてんは、近世きんせい公家くげ社会しゃかい神仏しんぶつ習合しゅうごう要素ようそがあったことをしめすものである[30]

また、即位そくい灌頂はたとえば西にしヨーロッパでの君主くんしゅ即位そくいおこなわれたぬり儀式ぎしきとの比較ひかくすることができよう。即位そくい灌頂は、じょう中心ちゅうしんとする摂関せっかん人物じんぶつしるししょう真言しんごん伝授でんじゅし、即位そくいする天皇てんのうじつしゅうする。摂関せっかん人物じんぶつしるししょう真言しんごん伝授でんじゅする行為こういは、宗教しゅうきょうてき儀式ぎしきというよりも摂関せっかん家業かぎょうとしての色彩しきさいつよい。即位そくい灌頂の伝授でんじゅじつおさむから聖職せいしょくしゃ排除はいじょされており、このてんが、聖職せいしょくしゃ即位そくいする君主くんしゅたいしておこな儀式ぎしきであるぬりとのちがいである[31]

即位そくい灌頂をおこなうことにより、天皇てんのう大日如来だいにちにょらい同一どういつし、きわめてたか宗教しゅうきょうてき権威けんいることになるが、その過程かてい高僧こうそうなど聖職せいしょくしゃ介在かいざいがないということは、天皇てんのう宗教しゅうきょうかい影響えいきょうりょく排除はいじょされたなかたか宗教しゅうきょうてき権威けんいつことが可能かのうであるとえ、天皇てんのう権威けんい隔絶かくぜつせい意味いみするとされる[6]

もっとも鎌倉かまくら時代じだい室町むろまち時代じだいについては、僧侶そうりょしるしあかり伝授でんじゅおこなったれいがあることが指摘してきされており[32]即位そくい灌頂の成立せいりつからその完成かんせいいた過程かてい解明かいめい期待きたいされる。

歴代れきだいしるしあかり伝授でんじゅしゃ[編集へんしゅう]

天皇てんのう 即位そくいねん しるしあかり伝授でんじゅしゃ 異説いせつ
後深草天皇ごふかくさてんのう 1246ねんひろしもと4ねん 一条いちじょうみのるけい 実施じっしされなかったとのせつあり
伏見天皇ふしみてんのう 1288ねんせいおう元年がんねん じょうただし
こう伏見天皇ふしみてんのう 1298ねんえいひとし6ねん 鷹司たかつかさけんただし じょう兼基かねもと
こう二条天皇にじょうてんのう 1301ねん正安まさやす3ねん じょう兼基かねもと
花園天皇はなぞのてんのう 1308ねんのべけい元年がんねん きゅうじょうきょう じょう道平どうたいら実相院じっそういんぞうもと
後醍醐天皇ごだいごてんのう 1318ねんぶん2ねん じょう道平どうたいら
ひかりげん天皇てんのう 1332ねん元弘もとひろ2ねんせいけい元年がんねん 二条にじょう良基よしもと じょう道平どうたいら
光明こうみょう天皇てんのう 1337ねん南朝なんちょうのべもと2ねん北朝ほくちょうたてたけし4ねん 二条にじょう良基よしもと 入道にゅうどうみことえん親王しんのう
たかしこう天皇てんのう 1349ねん南朝なんちょう正平しょうへい4ねん北朝ほくちょう貞和さだかず5ねん 二条にじょう良基よしもと
後光ごこうげん天皇てんのう 1353ねん南朝なんちょう正平しょうへい8ねん北朝ほくちょう文和ふみかず2ねん 二条にじょう良基よしもと
こう円融天皇えんゆうてんのう 1374ねん南朝なんちょう文中ぶんちゅう3ねん北朝ほくちょうおうやす7ねん じょうりょう みことどう法親王ほうしんのう
こう小松こまつ天皇てんのう 1383ねん南朝なんちょう弘和こうわ3ねん北朝ほくちょうえいいさお3ねん じょう 二条にじょう良基よしもと
しょうこう天皇てんのう 1414ねんおうなが21ねん 一条いちじょうけい こう小松こまつ上皇じょうこう二条にじょうもと
こう花園天皇はなぞのてんのう 1429ねんえいとおる元年がんねん 二条にじょうもと
こう土御門天皇つちみかどてんのう 1465ねんひろしせい6ねん 二条にじょうどおり
こう柏原かしわばら天皇てんのう 1521ねんだいなが元年がんねん じょういんぼう
こう奈良なら天皇てんのう 1534ねん天文てんもん3ねん じょういんぼう
正親町おおぎまち天皇てんのう 1560ねんえいろく3ねん じょうはれりょう 近衛このえ前嗣さきつぐ
こう陽成ようぜい天皇てんのう 1586ねん天正てんしょう14ねん 二条にじょうあきら 豊臣とよとみ秀吉ひでよし
後水尾天皇ごみずのおてんのう 1611ねん慶長けいちょう16ねん 二条にじょうあきら
明正めいせい天皇てんのう 1630ねん寛永かんえい7ねん 二条にじょうやすしどう
こう光明こうみょう天皇てんのう 1643ねん寛永かんえい20ねん 二条にじょうやすしどう
こう西にし天皇てんのう 1656ねんあかりれき2ねん 二条にじょうひかりたいら
れいもと天皇てんのう 1663ねん寛文ひろふみ3ねん 二条にじょうひかりたいら
東山ひがしやま天皇てんのう 1687ねん貞享ていきょう4ねん 二条にじょうつなたいら
中御門天皇なかみかどてんのう 1710ねん宝永ほうえい7ねん じょうよしただし
さくらまち天皇てんのう 1735ねんとおる20ねん じょうよしただし
桃園ももぞの天皇てんのう 1747ねんのべとおる4ねん じょうそうはじめ
こうさくらまち天皇てんのう 1763ねんたかられき13ねん 二条にじょう重良しげよし
こう桃園ももぞの天皇てんのう 1771ねん明和めいわ8ねん 二条にじょう治孝はるたか
ひかりかく天皇てんのう 1780ねん安永やすなが9ねん 二条にじょう治孝はるたか
仁孝天皇にんこうてんのう 1817ねん文化ぶんか14ねん 二条にじょうひとししん
孝明天皇こうめいてんのう 1847ねんひろし4ねん 二条にじょうひとしけい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 上川かみかわ 通夫みちお中世ちゅうせい即位そくい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう」、408ぺーじ
  2. ^ 松本まつもと 郁代いくよ天皇てんのう即位そくい儀式ぎしき神仏しんぶつ』、190~194ぺーじ
  3. ^ 松本まつもと 郁代いくよ中世ちゅうせい即位そくい灌頂と天皇てんのう」、99~101ぺーじ
  4. ^ たいら 雅行まさゆき日本にっぽん中世ちゅうせい社会しゃかい仏教ぶっきょう」、462ぺーじ
  5. ^ 松本まつもと 郁代いくよ天皇てんのう即位そくい儀式ぎしき神仏しんぶつ』、194~200ぺーじ
  6. ^ a b 上川かみかわ 通夫みちお中世ちゅうせい即位そくい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう」、427~429ぺーじ
  7. ^ 上川かみかわ 通夫みちお中世ちゅうせい即位そくい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう」、422~423ぺーじ
  8. ^ 松本まつもと 郁代いくよ中世ちゅうせい即位そくい灌頂と天皇てんのう」、109~111ぺーじ
  9. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、175ぺーじ
  10. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、691ぺーじ
  11. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、691、692ぺーじ
  12. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、151、152ぺーじ
  13. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、153、154ぺーじ
  14. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、148~154ぺーじ
  15. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、151~154ぺーじ
  16. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、154~158ぺーじ
  17. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、170~171ぺーじ
  18. ^ 上川かみかわ 通夫みちお中世ちゅうせい即位そくい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう」、417~423ぺーじ小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」154~158ぺーじ
  19. ^ 松本まつもと 郁代いくよ真言しんごんけい即位そくいほう構成こうせい」、125~126ぺーじ小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」158ぺーじ
  20. ^ 松本まつもと 郁代いくよ真言しんごん密教みっきょうかいにおける帝王ていおう位相いそう」、83~85ぺーじ
  21. ^ 松本まつもと 郁代いくよ真言しんごん密教みっきょうかいにおける帝王ていおう位相いそう」、88~91ぺーじ
  22. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、160~162ぺーじ
  23. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、707、708ぺーじ
  24. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、708~717ぺーじ
  25. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、717~723ぺーじ
  26. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、723~730ぺーじ
  27. ^ 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、736ぺーじ
  28. ^ 山口やまぐち 和夫かずお近世きんせい即位そくい儀礼ぎれいこう」、281ぺーじ
  29. ^ 松本まつもと 郁代いくよ天皇てんのう即位そくい儀式ぎしき神仏しんぶつ』、247~251ぺーじ
  30. ^ a b 山口やまぐち 和夫かずお近世きんせい即位そくい儀礼ぎれいこう」、278ぺーじ
  31. ^ 上川かみかわ 通夫みちお中世ちゅうせい即位そくい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう」、426ぺーじ
  32. ^ 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん」、156~161ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 山口やまぐち 和夫かずお近世きんせい即位そくい儀礼ぎれいこう」、別冊べっさつ文芸ぶんげい編集へんしゅうへん、『天皇てんのうせい - 歴史れきし王権おうけん大嘗祭だいじょうさい』、河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ別冊べっさつ文芸ぶんげい)、1990ねん ISBN 978-4309717531
  • たいら 雅行まさゆき中世ちゅうせい仏教ぶっきょう成立せいりつ展開てんかい」、『日本にっぽん中世ちゅうせい社会しゃかい仏教ぶっきょう』、はなわ書房しょぼう、1992ねん ISBN 4-8273-1091-2
  • 橋本はしもと まさしせん即位そくい灌頂とじょう」、『近世きんせい公家くげ社会しゃかい研究けんきゅう』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん ISBN 978-4642033787
  • 小川おがわ 剛生たけお即位そくい灌頂と摂関せっかん小川おがわ 剛生たけお二条にじょう良基よしもと研究けんきゅう』、笠間かさま書院しょいん笠間かさま叢書そうしょ)、2005ねん ISBN 978-4305103628
  • 松本まつもと 郁代いくよ真言しんごん密教みっきょうかいにおける帝王ていおう位相いそう」、「中世ちゅうせい即位そくい灌頂と天皇てんのう」、「真言しんごんけい即位そくいほう構成こうせい」、松本まつもと中世ちゅうせい王権おうけん即位そくい灌頂 - 聖教せいきょうのなかの歴史れきし叙述じょじゅつ』、もりはなししゃ、2005ねん ISBN 978-4916087607
  • 上川かみかわ 通夫みちお中世ちゅうせい即位そくい儀礼ぎれい仏教ぶっきょう」、上川かみかわ日本にっぽん仏教ぶっきょう形成けいせいろん』、校倉あぜくら書房しょぼう、2007ねん ISBN 978-4751739006
  • 松本まつもと 郁代いくよ天皇てんのう即位そくい儀式ぎしき神仏しんぶつ』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017ねん ISBN 978-4-642-08321-8

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]