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氏姓しせい制度せいど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

氏姓しせい制度せいど(しせいせいど)とは、古代こだい日本にっぽんにおいて、中央ちゅうおう貴族きぞく、ついで地方ちほう豪族ごうぞくが、国家こっかヤマト王権おうけん)にたいする貢献こうけん朝廷ちょうてい政治せいじじょうめる地位ちいおうじて、朝廷ちょうていより(ウヂ)せい(カバネ)とを授与じゅよされ、その特権とっけんてき地位ちい世襲せしゅうした制度せいど。「氏姓しせいせい(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「せい」を音読おんどくして「氏姓しせい(しせい)」ともいう。

大化たいか改新かいしんののち、律令りつりょう国家こっか形成けいせいおよぶと、戸籍こせきせいによって、氏姓しせいはかつての部民ぶみん(べみん)、つまり一般いっぱん民衆みんしゅうにまで拡大かくだいされ、すべての階層かいそう国家こっか身分みぶん表示ひょうじするものとなった。氏姓しせいゆうしないものは、天皇てんのう皇族こうぞく奴婢ぬひ(ぬひ)のみとなった。

氏姓しせい

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ヤマト王権おうけんにおいては全体ぜんたい統合とうごうする大王だいおうした有力ゆうりょく豪族ごうぞくたちが(ウヂ)として奉仕ほうし王権おうけん構成こうせいした。古代こだいにおける(ウヂ)とはそれをたばねる有力ゆうりょく血縁けつえん集団しゅうだん家系かけい中心ちゅうしんとして、その周縁しゅうえん血縁けつえん血縁けつえん様々さまざまいえふくまれる同族どうぞくだんあるいはその連合体れんごうたいである[1]。この同族どうぞくだん構成こうせいいんは(とく中心ちゅうしんてき家系かけいにおいて)実際じっさい血縁けつえん関係かんけいにある場合ばあいおおいが例外れいがいふくみ、また内部ないぶにおいて身分みぶん内包ないほうする。また、中心ちゅうしんてき家系かけいはヤマト王権おうけんなんらかの政治せいじてき関係かんけいゆうするのが原則げんそくであり、ヤマト王権おうけんとの関係かんけいによってもたらされる政治せいじてき権力けんりょく内部ないぶ統制とうせい外部がいぶへの拡大かくだい重要じゅうよう意義いぎった[1][2]。このため日本にっぽん古代こだいのウヂはたんなる自然しぜん発生はっせいてき血族けつぞく集団しゅうだんとしての氏族しぞく(Clan)とはことなり、ヤマト王権おうけん自体じたい密接みっせつむすびついて成立せいりつしていた政治せいじてき集団しゅうだんまたは政治せいじてき組織そしきであるとされている[3][4]成立せいりつ自然しぜん発生はっせいてきなものでなく政治せいじてき関係かんけいせいによるものであることは、氏名しめいがしばしばつかまつたてまつすべき職掌しょくしょうあらわし(つまりは天皇てんのうあいだ君臣くんしん関係かんけい前提ぜんていとし)、氏姓しせい制度せいどてきさだまったのち王権おうけんがわ氏姓しせいたまものあずか変更へんこうする権能けんのう保持ほじしたことにもあらわれている[5]

氏名しめい(ウジの名前なまえ)は地名ちめいによるもの(蘇我そが葛城かつらぎ吉備きびうえなど)と職掌しょくしょうによるもの(物部ものべ大伴おおともちゅうしんなど)に大別たいべつされ、しん(オミ)、れん(ムラジ)、みやつこ(ミヤツコ)などのようなせいカバネ)をびた。こうした氏姓しせい(ウヂとカバネ)をつことはヤマト王権おうけん政事せいじ(マツリゴト)になんらかのかたち関与かんよしていることをしめしていた[3]

氏姓しせい制度せいど成立せいりつ

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原始げんし共同きょうどうたいにおいては、氏族しぞく部族ぶぞく社会しゃかい単位たんいとなった。

氏姓しせい制度せいど成立せいりつ時期じきは、5 - 6世紀せいきをさかのぼらない。同族どうぞくのなかの特定とくていものが、しんれんともづくり国造くにのみやつこひゃくはちじゅう(ももあまりやそのとも)、けんぬしなどの地位ちいをあたえられ、それにおうずる氏姓しせいたまわったところに特色とくしょくがある。かくせい以下いかのごとくである。

しん(おみ)
葛城かつらぎ平群へぐりきょぜい春日かすが蘇我そがのように、ヤマト(奈良盆地ならぼんち周辺しゅうへん)の地名ちめいとし、かつては大王だいおういえなら立場たちばにあり、ヤマト王権おうけんにおいても最高さいこう地位ちいめた豪族ごうぞくである。
れん(むらじ)
大伴おおとも物部ものべちゅうしん土師はじのように、ヤマト王権おうけんでの職務しょくむとし、大王だいおう従属じゅうぞくするかんじんとしての立場たちばにあり、ヤマト王権おうけん成立せいりつ重要じゅうよう役割やくわりをはたした豪族ごうぞくである。
ともづくり(とものみやつこ)
れんともかさなりうが、おもにそのもとでヤマト王権おうけん各部かくぶ分掌ぶんしょうした豪族ごうぞくである。弓削ゆげしゅう(やずめ)、服部はっとりいぬよう(いぬかい)、うすまい(つきしね)、倭文しず(しとり)などのはたひがしかん西にしあや(かわちのふみ)などの代表だいひょうてき帰化きかじんたちあたえられたがある。れんみやつこ(みやつこ)、ただし(あたい)、おおやけ(きみ)などのせいしょうした。
ひゃくはちじゅう(ももあまりやそのとも)
さらにその下位かいにあり、(べ)を直接ちょくせつ指揮しきするおおくのとも(とも)をさす。くび(おびと)、ふみ(ふひと)、村主むらぬし(すくり)、かち(すくり)などのせい(カバネ)をしょうした。
国造くにのみやつこ(くにのみやつこ)
代表だいひょうてき地方ちほう豪族ごうぞくをさし、いちめんではヤマト王権おうけん地方ちほうかんみこまれ、また在地ざいち部民ぶみんひきいる地方ちほうてきともづくり地位ちいにあるものもあった。国造くにのみやつこには、くん(きみ)、ただし(あたい)のせいおおく、なかにはしん(おみ)をしょうするものもあった。
けんぬし(あがたぬし)
これよりふるく、かつしょう範囲はんい族長ぞくちょうをさすものとおもわれる。いずれも地名ちめいとする。

このように、氏姓しせい制度せいどとは、れんともづくりばんひゃくはちじゅう)という、大王だいおうのもとでヤマト王権おうけん構成こうせいし、職務しょくむ分掌ぶんしょう世襲せしゅうする、いわゆる「まけめい」(なおいのうじ)を主体しゅたいとしてまれた。そののち、しんのように、元々もともと大王だいおうとならぶ地位ちいにあった豪族ごうぞくにもおよんだ。

部民ぶみんせい

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氏姓しせい元来がんらいはヤマト王権おうけん構成こうせいするしんれんともづくり国造くにのみやつこなどの支配しはい階級かいきゅうしょうしたものである(大王だいおうとその一族いちぞくのぞく)。しかし、6世紀せいきには一般いっぱんみんにもおよんだ。これらの一般いっぱんみんは、朝廷ちょうていすなわち、大王だいおうだいきさき(おおきさき)などの后妃こうひ皇子おうじらのみや、さらにしんれんらの豪族ごうぞく領有りょうゆう支配しはいされていた。そのため、一般いっぱんみんなかから、朝廷ちょうてい出仕しゅっしして、職務しょくむしな(しなべ)、大王だいおうめいみやごう名代なだいだいたむろくら耕作こうさくみんである田部たなべなどが必然ひつぜんてきまれた。かれらは先進せんしんてき部民ぶみん共同きょうどうたいなか単位たんい編成へんせいされ、6世紀せいきにはせきちょう登載とうさいされて、正式せいしき氏姓しせいをもった。

これにたいし、地方ちほう豪族ごうぞく支配しはいにあったみん(かきべ)は、在地ざいち族長ぞくちょうかいして、共同きょうどうたいのまま(べ)に編入へんにゅうし、族長ぞくちょうをへてみつぎおさめさせるかたちのものがおおかった。そのため、地方ちほう豪族ごうぞく支配しはいにあった一般いっぱんみんにまで6世紀せいき段階だんかい氏姓しせいおよんでいたかどうかはさだかではない。

律令りつりょう国家こっかによる再編さいへん

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大化たいか改新かいしんにより、氏姓しせい制度せいどによるしんれんともづくり国造くにのみやつこ律令りつりょう国家こっか官僚かんりょう再編さいへんし、部民ぶみん公民こうみんとして、一律いちりつ国家こっかのもとに帰属きぞくさせた。

甲子きのえねせん

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664ねん天智天皇てんぢてんのう3ねん)に、「甲子きのえね(かつし)のせん」がはっせられた。これは、大化たいか以来いらい官位かんいあらため、まさる(おおうじ)、しょう(こうじ)、ともづくり(とものみやつこうじ)をさだめ、それぞれのじょう(うじのかみ)と、それにぞくするじん(うじびと)の範囲はんい明確めいかくにしようとするものであった。つまり、官位かんい改定かいていによって、だいにしきまさる)・小錦こにしきしょう)、つまり律令りつりょうよん以上いじょう位置いちづけられるじょうをもつさだめたものであり、これによって朝廷ちょうていない官位かんい制度せいど全国ぜんこく氏姓しせい制度せいどとを連動れんどうさせようとした。さらにこのようなじょうぞくするじん父系ふけいによる直系ちょっけい親族しんぞくかぎることとし、従来じゅうらい父系ふけいあるいは母系ぼけい原理げんりによる漠然ばくぜんとした範囲はんい限定げんていすることとした。これにより、物部ものべ弓削ゆげ(もののべゆげ)、阿倍あべ布勢ふせ(あべのふせ)、蘇我そが石川いしかわ(そがのいしかわ)などのふくせいは、これ以後いご原則げんそくとして消滅しょうめつすることとなる。

はちしょくせい

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684ねん天武天皇てんむてんのう13ねん)に、「はちしょくせい」が制定せいていされた。その目的もくてきは、上位じょういの4せい、つまり真人まさと朝臣あそん宿禰すくねすんさだめることである。真人しんじんは、つぎたい天皇てんのうよりかぞえて5せい以内いない世代せだいあたえられたといわれ、皇子おうじ諸王しょおうにつぐすめらぎおや氏族しぞく特定とくていしたので、飛鳥あすかきよしはられい官位かんい皇子おうじ諸王しょおう貴族きぞくしょしん)とで区別くべつしたことと共通きょうつうする。したがって、貴族きぞくせいとしては、朝臣あそん宿禰すくねすんの3つである。以上いじょうが「甲子きのえねせん」のだいしょうともづくり発展形はってんけいであり、そのあいだにさらに氏族しぞく再編さいへんすすめられ、朝臣あそん52宿禰すくね50すん11おさめられた。

大宝たいほうれい701ねん)で、貴族きぞくさん以上いじょうよん官位かんいにともなう特権とっけん明確めいかくにされた。これに対応たいおうする氏姓しせい一応いちおう完成かんせいされた。地方ちほう豪族ごうぞくについても、702ねん大宝たいほう2ねん)、諸国しょこく国造くにのみやつこ氏姓しせい政府せいふ登録とうろくすることによって、中央ちゅうおう豪族ごうぞく同様どうよう対応たいおうがなされたものとされる。

公民こうみんあつかいと浸透しんとう

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一般いっぱん公民こうみんについては、670ねん天智天皇てんぢてんのう9ねん)の庚午こうごねんせき690ねんもちすべ天皇てんのう4ねん)のかのえとらねんせきによって、すべて戸籍こせき登載とうさいされることとなり、せいおもとする氏姓しせい制度せいど完成かんせいされることとなった。しかしながら、現存げんそんする702ねん大宝たいほうねんせきに、氏姓しせい記入きにゅうされていないもの国造くにのみやつこぞくけんぬしぞくなどとしるされたものがかなり存在そんざいするため、このとき、まだせいものぞくせいもの多数たすういたことがうかがえる。

757ねん天平てんぴょうたから元年がんねん)、戸籍こせきせいものぞくせいものとをそのまましるすことをやめることとした。これは地方ちほう豪族ごうぞく配下はいか百姓ひゃくしょうには、

  1. 所属しょぞくさだまらずせいのままのもの
  2. 国造くにのみやつこけんぬし共同きょうどうたいぞくすることをしめすことによってぞくせい仮称かしょうさせたもの
  3. せいあたえられていないあたらしい帰化きかじん

存在そんざいしていたことをしめしている。そして、これ以後いご、このようなものたちには正式せいしき氏姓しせいあたえられるようになった。

8 - 9世紀せいきにおいてあらためたまものせいがさかんにおこなわれているのは、はちしょくせいにおいて、上級じょうきゅう氏姓しせいにもれた下級かきゅう身分みぶんものや、これらの農民のうみんおも対象たいしょうとしたものである。その順位じゅんいは、せい下級かきゅうとし、みやつこおおやけふみかち村主むらぬしかかわとう(ひと)、れん身分みぶんがっていく。これは、天武てんむちょうにおいてじょう相当そうとうするはちしょくせい改姓かいせいするぜん段階だんかいとして、まずれんへの改姓かいせいおこなわれ、このれん小錦こにしき以上いじょう基点きてんとして、すん以上いじょうの4つのせいあらためられたことと同様どうよう対応たいおうである。

じょうであるすん以上いじょうについても、補足ほそくてき氏姓しせい変更へんこうおこなわれている。において春日しゅんじつよりだい春日しゅんじつちゅうしんより大中おおなかしんへの変更へんこう、また宿禰すくねからだい宿禰すくねへの変更へんこうおこなわれるなどしたため、氏姓しせいせいは、全般ぜんぱんてきに、より緻密ちみつ浸透しんとうすることになった。

これらの全般ぜんぱんてき特徴とくちょうとして、まず首位しゅい昇叙しょうじょがあり、ついでそれにつらなる直系ちょっけい親族しんぞくのみにたい氏姓しせい変更へんこうおこなわれるといった順序じゅんじょにより同族どうぞくなかから有力ゆうりょくもの抽出ちゅうしゅつされるというてんにある。このあらためたまものせい認可にんかする権限けんげん天皇てんのうにあった。

氏姓しせいせい崩壊ほうかい

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9世紀せいきに、摂関せっかん政治せいじにより藤原ふじわら朝臣あそんもっと有力ゆうりょくとなった。また、桓武かんむ天皇てんのうよりひら朝臣あそん清和せいわ天皇てんのうなどからみなもと朝臣あそん氏姓しせい(ウヂ・カバネ)がまれたように、もろ皇子おうじ氏姓しせいをあたえる臣籍しんせき降下こうかさかんにおこなわれるようになった。これらのため、律令りつりょうてき氏姓しせい制度せいどは、人材じんざい登用とうよう制度せいどとしてはほとんど有効ゆうこう機能きのうしなくなった。

一方いっぽう律令りつりょうてき戸籍こせき制度せいど次第しだいおこなわれなくなり、10世紀せいきには、地方ちほう豪族ごうぞく実力じつりょくたくわえたものは、有力ゆうりょく貴族きぞく家人かじんとなり、その氏姓しせいおかすようにさえなり、いわゆるおかせめいかりかげ(ぼうめいかいん)の現象げんしょう一般いっぱんした。そのため、天下てんか氏姓しせいは、みなもとひらたふじたちばなか、きの菅原すがわら大江おおえ中原なかはら坂上さかがみ賀茂かも小野おのおもんみむね清原きよはらなどに集中しゅうちゅうされるようになった。これは家業かぎょう成立せいりつによって、特定とくてい家柄いえがら固定こていされるようになったためでもある。たとえば、越前えちぜん敦賀つるが熱田あつただい宮司ぐうじらが藤原ふじわらから養子ようしむかえて「藤原ふじわら朝臣あそん」を名乗なのったり、それらの女子じょしをめとり母系ぼけいによって「藤原ふじわら朝臣あそん」その氏姓しせいしょうしたれいもある。武士ぶしもまた、地頭じとうとして、本家ほんけ領家りょうけ氏姓しせいおかし、おな氏姓しせい名乗なのものえた。ここにおいて、同姓どうせいあいだでも、さらにぞくめいかつ必要ひつようにせまられ、貴族きぞくでは家名かめい武士ぶしでは名字みょうじしょうずるのである。

(あざな)・苗字みょうじ名字みょうじ

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一方いっぽう氏姓しせいのほかに、同時どうじ発達はったつしたのが(あざな)である。仮名かめい(けみよう)、呼名よびな(よびな)ともいわれ、一種いっしゅわたししょうであった。すでに『日本にっぽん霊異れいい』に、紀伊きいこくかたなぐん人文じんぶんすん(ふみのいみき)を、上田うえだ三郎さぶろうしょうしたれいがある。上田うえだは、かたなぐん上田邑かみたのむら地名ちめい三郎さぶろう三男さんなんである。

氏姓しせいってわることになる苗字みょうじ名字みょうじ)は、このように一部分いちぶぶんとして発生はっせいし、さらにから分離ぶんり独立どくりつしたものとされる。苗字みょうじ12世紀せいき以後いご氏姓しせいおなじようにもちいられているが、初期しょき苗字みょうじは、居住きょじゅう領地りょうち所有しょゆうあらわすために土地とちめい自分じぶんにしたため、所領しょりょうかれたりべつ土地とち所領しょりょううつるなどして父子ふし兄弟きょうだい苗字みょうじことにしている場合ばあいおおかった。とく中世ちゅうせいでは戦乱せんらんうたてふうなどにより所領しょりょうまぐるしくわり、苗字みょうじ一族いちぞくあらわ機能きのううすかった。しかし戦乱せんらん身分みぶん住居じゅうきょ安定あんていしてくると、苗字みょうじ家名かめい一族いちぞく名前なまえ意味いみするようになり、他国たこくうつっても一族いちぞく苗字みょうじ変更へんこうされないようになった。

今日きょうてき意味いみでのせい(セイ)の特徴とくちょうは、基本きほんてきにはこの苗字みょうじ名字みょうじ)から発生はっせいしている。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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