出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
この項目では、日本の古代氏族について説明しています。
- 公家(地下家も含む)の家名については「春日家」をご覧ください。
|
春日氏(かすがうじ、かすがし)は、「春日」を氏の名とする氏族。
孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする和珥氏(和珥臣)の支族。姓は臣。和珥氏一族の一部が大和国添上郡の春日に移住し、その地名を姓として名乗る。春日姓を称し始めた時期は明らかでないが、雄略朝以降と考えられている。なお、枕詞として「ハルヒ(春日)のカスガ」[3]というい回しがあり、転じて「かすが」に「春日」の漢字を当てるようになったとされる。
和珥童女君(春日和珥臣深目の娘:雄略妃)、糠君娘(和珥臣日爪の娘:仁賢妃)、荑媛(和珥臣河内の娘:継体妃)と、多数の后妃を輩出し、天皇の外戚として勢力を持った。その後、嫡流は大春日氏を称し、ほかに大宅氏・小野氏・粟田氏・柿本氏の諸氏が分立する。
7世紀初頭になると、春日氏の位置は蘇我氏・阿倍氏・大伴氏の下に置かれるが、古来の名門豪族として朝廷内では重んじられた。天武天皇13年(684年)の八色の姓制定にあたって、52氏が朝臣姓を賜与されたが、大三輪氏に次いで春日氏嫡流の大春日氏が挙げられている。
敏達天皇後裔(春日真人)
[編集]
敏達天皇の皇子・春日皇子の後裔である田部王が、天平勝宝3年(751年)に臣籍降下し春日真人姓を賜与されている。
禰津氏の庶流で、禰津宗直の子・春日小次郎貞親を祖とする。貞親は、奥州合戦で源頼朝に従い、建久元年(1190年)の頼朝上洛の際にも随兵として名が見える。承久の乱では、春日刑部三郎貞幸、春日刑部二郎太郎、春日小三郎が鎌倉幕府方で参戦している。
春日虎綱が百姓春日大隅の子として生まれる。武田信玄に取り立てられ、高坂氏の娘を室にし、高坂弾正と呼ばれた。
- 参考史料
『日本書紀』