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皇后こうごう

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后妃こうひから転送てんそう

皇后こうごう(こうごう、えい: Empress)、おうきさき(おうごう、えい: Queen)は、皇帝こうてい天皇てんのう国王こくおう正妃せいひ正妻せいさい)、およびその人物じんぶつあたえられる称号しょうごう[1][2]

一夫多妻いっぷたさいせいのもとでは、天皇てんのう皇帝こうてい国王こくおう複数ふくすうつまのうちさい上位じょういものとなる。

中国ちゅうごく皇后こうごう

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概念がいねん

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中国ちゅうごくにおける君主くんしゅごうは、いんしゅう時代じだいは「おう」、はただい以降いこうは「皇帝こうてい」であるが、それ以前いぜんふる称号しょうごうとして「きさき」が存在そんざいした。おう皇帝こうてい君主くんしゅごう変遷へんせんしてきさきはそれに称号しょうごうとされた。おう皇帝こうてい存在そんざいおう皇帝こうてい正妃せいひないし母親ははおやであることから、皇帝こうてい正妃せいひ皇后こうごう皇帝こうてい母親ははおや皇太后こうたいごうしょうするようになった。

語意ごいからは、皇帝こうていが「てん」の権威けんいもとづく称号しょうごうであるのにたいし、皇后こうごうきさきというように「」にもとづく称号しょうごうである[3]

名称めいしょう呼称こしょう

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正式せいしき敬称けいしょう殿下でんか皇后こうごう住居じゅうきょから中宮なかみやちょうあきみやはじかみぼうなどの別称べっしょうもある。口頭こうとう言語げんごについて、むすめむすめ敬称けいしょう使用しようされている。自称じしょう謙称けんしょう)は小童こわっぱしょうきみ皇帝こうてい皇后こうごうたいし、あずさわらわわらわ愛称あいしょうもちいたという。

正式せいしきめいについて、日本にっぽん皇室こうしつには、そもそもせいがなく、名字みょうじ当然とうぜんないが、中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょう君主くんしゅせいち、皇后こうごうには原則げんそくとして異姓いせいものがなった。中国ちゅうごく皇后こうごうしたがって、皇后こうごう出身しゅっしん一族いちぞくせいばれ、とうあさだい3だい皇帝こうていであるこうはじめ2人ふたり皇后こうごうたけあきら後述こうじゅつする、たけあまね女帝にょてい武則たけのりてん)は皇后こうごう時代じだいは「たけ皇后こうごう」が正式せいしきめいであった。また、皇后こうごう諡号しごうぶこともおおい。

文化ぶんか

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いにしえからの礼服れいふくは翟衣であり、ふか青色あおいろ衣裳いしょうである。キンケイをふくとり文様もんようはいされた。れいかんむりじゅうはな樹冠じゅかんとう以前いぜん)、およびおおとりかんむりそう以降いこう)で、それぞれ皇帝こうてい礼服れいふくである冕服れいかんむりであるじゅう冕冠対応たいおうしている。皇帝こうていみことのりが「聖旨せいし」とばれているのにたいして、皇后こうごうみことのりは「懿旨」とばれている。死亡しぼうあらわ敬語けいご皇帝こうていどうじ、「くずし」としょうされている。崩御ほうぎょは「りょう」にほうむられる。皇帝こうていごうそうするのが通例つうれいである。

陰陽いんようぎょうせつではおとこおんなかげとされ、それぞれの頂点ちょうてん皇帝こうてい皇后こうごうがいるということになった。そのため、皇帝こうてい三公みつきみきゅうきょう以下いか官僚かんりょう組織そしきようするのと同様どうよう後宮こうきゅう制度せいどにおいて皇后こうごうさん夫人ふじんきゅう嬪、じゅうななせいはちじゅういちつまの3ばいずつ増加ぞうかするヒエラルキーようしていた。

歴史れきし

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成人せいじんした皇帝こうていには即位そくいまえに嫡妻がいるのが普通ふつうで、その嫡妻は基本きほんてき皇后こうごうとしててられる。ただしがわくらいまることもある(もとたいらくん懿安かく皇后こうごうなど)。ようみかど即位そくいした場合ばあいに嫡妻が存在そんざいしなくなると、お候補こうほ後宮こうきゅうむかえられ、結婚けっこん立后りっこう同時どうじった。その結婚けっこんは「だいこん」とばれる(こうあきらあつし皇后こうごうなど)。

皇帝こうてい前妻ぜんさいとの生別せいべつ死別しべつみやがいから後妻ごさいあたらしくむかえたれい慈聖こうけんじ皇后こうごうなど)もあるが、既存きそんがわから皇后こうごう昇格しょうかくするのが主流しゅりゅうであった。また、あたらしい皇后こうごうむかえなかった(つまり継妻けいさいたなかった)皇帝こうていおおく、とうげんむねれいにとると、げんむねおう皇后こうごうはいしたのちも、ちょうであるたけめぐみ、あるいはもう一人ひとりちょうである楊貴妃ようきひ皇后こうごう昇格しょうかくさせなかった。

中国ちゅうごくしょ王朝おうちょうでは、実権じっけんにぎった皇帝こうてい自分じぶん気持きもちで立后りっこうする。格式かくしきたかいえまれから選抜せんばつされて皇后こうごうになることもおおいが、身分みぶんひく女性じょせい皇帝こうてい寵愛ちょうあいされれば、皇后こうごうになる可能かのうせいもある。庶民しょみん以下いか人間にんげんにしては、芸妓げいぎ奴隷どれい流民りゅうみん出身しゅっしん女性じょせい皇后こうごういたこともすうれいある(ちょう飛燕ひえんはんよしかみ閔敬皇后こうごうなど)。初婚しょこんでないれいもあり、おう皇后こうごう前夫ぜんふ一般人いっぱんじん男性だんせい)、あきらけんじあきら皇后こうごう前夫ぜんふ一般人いっぱんじん男性だんせい)、武則たけのりてんもと先帝せんていがわ)、ひつじけんじようもと他国たこく皇后こうごう)などすうめい再婚さいこん皇后こうごうとなった。

かんぞく王朝おうちょう皇后こうごう定員ていいんは1めいであった。民族みんぞく王朝おうちょうには複数ふくすう皇后こうごう存在そんざいしているれいがある。きたあまねせんみかどには同時どうじに5にん皇后こうごうがいて、りょうむねにも同時どうじ2人ふたり皇后こうごうがいる(皇后こうごうふところぶししょう皇后こうごう)。

おっとみかど崩御ほうぎょした場合ばあい世代せだい実子じっし庶子しょし養子ようしおい)にあたる皇帝こうてい即位そくいすれば、皇太后こうたいごうになった。しかしどう世代せだい皇帝こうてい即位そくいした場合ばあい皇太后こうたいごうになるのではなく、先帝せんてい皇后こうごうとして尊号そんごうあたえられた(孝章たかあき皇后こうごうこうせいなつ皇后こうごうなど)。

また、正式せいしき皇后こうごうとしててられたわけではないが、皇后こうごうおくされたれいもある。礼法れいほうじょう地位ちい一般いっぱんてき正式せいしき皇后こうごうよりひくい。皇后こうごう追贈ついぞうできる対象たいしょうは、皇帝こうてい即位そくいまえくなった嫡妻、皇帝こうてい生母せいぼ皇帝こうてい正妻せいさいかく相当そうとうする別格べっかく待遇たいぐうけているちょう後宮こうきゅうのことを仕切しきっていたなど)である。

最初さいしょ皇后こうごう前漢ぜんかん劉邦りゅうほうきさきりょである。最後さいご皇后こうごうあいしんさとし溥儀ふぎきさき婉容である。皇后こうごう最長さいちょう在位ざいいあきらまんれきみかどきさきおうあねである(42ねんと42にち)。最短さいたん在位ざいいきよしかん熙帝きさきこう懿仁皇后こうごうである(1にち)。さい長寿ちょうじゅ皇后こうごう前漢ぜんかんもとみかどきさき王政おうせいくんである(84さい)。

日本にっぽん皇后こうごう

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現代げんだいにおける概要がいよう

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日本の旗 日本にっぽん
皇后こうごう
在位ざいいちゅう皇后こうごう
だい126だい皇后こうごう
雅子まさこ

2019ねんれい元年がんねん5月1にちより
詳細しょうさい
敬称けいしょう 陛下へいか
初代しょだい 光明皇后こうみょうこうごう
成立せいりつ 729ねん(天平てんぺい元年がんねん
宮殿きゅうでん 皇居こうきょ
東京とうきょう千代田ちよだ
ウェブサイト 宮内庁くないちょう
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称号しょうごう皇后こうごう
敬称けいしょう 陛下へいか
Her Majesty the Empress[4]
Her Imperial Majesty(H.I.M.)

皇室こうしつ典範てんぱんさだめられた敬称けいしょうは「陛下へいか」(だい23じょう)。現代げんだいのテレビや新聞しんぶんとうマスメディア報道ほうどう機関きかん書籍しょせき政府せいふ機関きかんなどでは、正式せいしき敬称けいしょうをつけた「皇后こうごう陛下へいか(こうごうへいか)」とともに「皇后こうごうさま(こうごうさま)」という表記ひょうきられる。

また、歌会うたかいはじめでは「皇后こうごうみや御歌おうた(きさいのみやのみうた)」と大和言葉やまとことばの「皇后こうごうみや(きさいのみや)」が使つかわれる。

また、マスメディアによる報道ほうどう政府せいふ機関きかんとうではおっと配偶はいぐうしゃ)である天皇てんのうとともに「天皇てんのう皇后こうごうりょう陛下へいか」(てんのうこうごうりょうへいか)、またはたんに「りょう陛下へいか」(りょうへいか)という呼称こしょうもちいるのが慣例かんれいとなっている。

立后りっこう(りつごう)には皇室こうしつ会議かいぎることが必要ひつようである(だい10じょう)が、すでに皇嗣こうし親王しんのうまたは王妃おうひ)である場合ばあいおっとみかど親王しんのうまたはおう)の即位そくいともなって皇后こうごうとなる。内廷ないてい皇族こうぞくぞくする。

摂政せっしょう国事こくじ行為こうい臨時りんじ代行だいこう皇室こうしつ会議かいぎ議員ぎいん就任しゅうにんけんみとめられている。

崩御ほうぎょりょうほうむられる(だい27じょう)。貞明皇后ていめいこうごう大正天皇たいしょうてんのうきさき以降いこう皇后こうごうまたは皇太后こうたいごう崩御ほうぎょしたさいには、「◯◯皇后こうごう」と追号ついごうされるのが慣例かんれいとなっている[注釈ちゅうしゃく 1]

式典しきてん儀式ぎしきにおいては、つね天皇てんのう左側ひだりがわかってみぎ)に位置いちする。古来こらいかって右側みぎがわ上位じょういであったが、近代きんだいになって、西洋せいようしきかって左側ひだりがわ上位じょういあらためられたことによる。このならじゅんは、3月3にちもも節句せっく(ひなまつり)におけるひな人形にんぎょうかざかたにも影響えいきょうあたえている。

皇后こうごうつとめのひとつとして、きん現代げんだいにおいて代表だいひょうてき公務こうむである日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ名誉めいよ総裁そうさいしょくほかに、養蚕ようさんげられる。『日本書紀にほんしょき』にも、皇后こうごう養蚕ようさんおこなったという記述きじゅつがあり、近代きんだい現代げんだい皇室こうしつにおいて昭憲皇太后しょうけんこうたいごう明治天皇めいじてんのうきさき)によって復活ふっかつさせた。以後いご貞明皇后ていめいこうごう大正天皇たいしょうてんのうきさき)、こうじゅん皇后こうごう昭和しょうわ天皇てんのうきさき)、美智子みちこだい125だい天皇てんのう明仁あきひときさき)、雅子まさこだい126だい天皇てんのうとくひとしきさき)と、近代きんだいから現代げんだいいたるまで歴代れきだい皇后こうごうがれている[5]。1914ねん大正たいしょう3ねん以降いこう紅葉山もみじやま養蚕ようさんしょにておこなわれている。

語源ごげん

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古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき』にしたがえば、ふるくは大王だいおう妻妾さいしょうを「キサキ」(きさき)とび、そのうちで最高さいこうにあるものを「オオキサキ」(歴史れきしてき仮名遣かなづかいで「オホキサキ」)とび、たんなる「キサキ」であるほか妻妾さいしょう区別くべつした。『古事記こじき』では「だいきさき」、『日本書紀にほんしょき』では「皇后こうごう」の漢字かんじてている。「キサキ」の語源ごげんについては“きみこうせつ、“きみまえせつなどのほかおおくのせつ[6]があるもののこれといった有力ゆうりょくせついまのところない。平安へいあん時代じだい中宮なかみや皇后こうごうした。

後世こうせい「きさき」が皇后こうごう意味いみあらわすようになり、皇后こうごう皇后こうごうみやきさきみや(きさいのみや)、いちきさき(いちのきさき)んだ。これにちなみ、皇后こうごうははとする皇子おうじおんなきさきはらはら(きさいばら)という。別称べっしょう唐名とうみょう)としてちょうあきみやあきみや(あきのみや・しゅうきゅう)、あるいはかんだいれいをもってはじかみぼう(しょぼう)はじかみにわ(しょうてい)はじかみかこえ(しょうい)としょうした。和名わみょうでは八雲やくもしょうこう拾遺しゅうい和歌集わかしゅうにみえる「むらさきくも」などがある。「おうごう」ともんだ。そのにはむらさきみや(むらさきのみや)、きたみやきたかた(きたのかた)などがある

きゅうげん皇室こうしつ典範てんぱんのもとでの敬称けいしょうは「陛下へいか」であるが、大宝たいほう律令りつりょうのもとでの敬称けいしょうは「殿下でんか」であった。また、正式せいしきには「太皇太后たいこうたいこうみや」「皇太后こうたいごうみや」とともに「皇后こうごうみや」とばれ、総称そうしょうして三后さんこう(さんごう)という。三后さんこう天皇てんのうじゅんずる存在そんざいとされたため、さらにそれにじゅんずる存在そんざい、つまり天皇てんのう三后さんこうのぞ皇族こうぞく最高さいこうとして、「じゅんきさき」(またはじゅんさんみや)という待遇たいぐう称号しょうごうまれた。

歴代れきだい皇后こうごう

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歴史れきし

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古代こだい

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光明皇后こうみょうこうごう菊池きくちちぎりがつ

皇后こうごう」という称号しょうごう明文めいぶん規定きていされたのは、大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい以後いごであり、天平てんぺい元年がんねん729ねん)にだい45だい聖武天皇しょうむてんのうつまである藤原ふじわら安宿やすやどひめ最初さいしょ皇后こうごうとなった(光明皇后こうみょうこうごう)。ただし『日本書紀にほんしょき』が初代しょだい神武じんむ天皇てんのう正妃せいひひめ蹈鞴たたら五十鈴いすずひめいのち(ヒメタタライスズヒメ)以後いごすべての「オオキサキ」にたいしても「皇后こうごう」のてたことから、光明皇后こうみょうこうごうよりもまえ天皇てんのう正妃せいひも「皇后こうごう」と慣行かんこうがある。

大宝たいほう律令りつりょう皇后こうごうになれる資格しかく規定きていした条文じょうぶんはないが、皇后こうごうよりいちだん下位かいつま天皇てんのう配偶はいぐうしゃ)である資格しかくが「よんひん以上いじょう内親王ないしんのう」と規定きていされていることから、「皇后こうごう当然とうぜん内親王ないしんのうでなければなれないもの」と観念かんねんされていたとするかんがかたがある。『日本書紀にほんしょき』においても、仁徳天皇にんとくてんのうの「皇后こうごういわひめ唯一ゆいいつ例外れいがいとして「皇后こうごう」のちちすべかみまたは天皇てんのう皇族こうぞくである。(ただし、いわひめ血筋ちすじうえではこうもと天皇てんのう男系だんけいらいまごであり、ぎゃくほそひめいのち春日しゅんじつむすめにはそのような記述きじゅつい。)、古代こだいエジプトファラオ家系かけい近親きんしんこんによって継承けいしょうされたこと同様どうように、古代こだいにおいて皇后こうごう内親王ないしんのう限定げんていされたことは、天皇てんのう母系ぼけいつうじて人臣じんしんこんじることが、天皇てんのう神聖しんせいさをうすれさせる行為こういであるとかんがえられたからであろう。しかし、『日本書紀にほんしょき』の記事きじには後世こうせいにおける天皇てんのう生母せいぼたいする顕彰けんしょうによっておくられた「皇后こうごうごう存在そんざいするとのかんがえがある。8世紀せいきに、光明皇后こうみょうこうごういわひめれい先例せんれいとして皇后こうごう冊立さくりつされてから、このような制約せいやくはなくなり、むしろ皇族こうぞくよりも藤原ふじわらのほうが皇后こうごう出身しゅっしん氏族しぞくとしておおられるようになった。

また、皇后こうごうおっと天皇てんのう崩御ほうぎょしてしん天皇てんのう即位そくいしてもかなら皇太后こうたいごうとなるとはかぎらず、そのまま皇后こうごうにとどまるれいすくなくない。

初婚しょこんでないれいもあり、伊香いかしょくなぞいのちちゅういそ皇女おうじょたから女王じょおう女性じょせい天皇てんのうすめらぎごく天皇てんのう)の3めいは、いずれも元々もともとべつ天皇てんのう皇族こうぞくであり、いずれもがあった。

ぎゃくひめ蹈鞴たたら五十鈴いすずひめいのちあなあいだじん皇女おうじょ藤原ふじわら多子おいごの3めいは、おっと天皇てんのう崩御ほうぎょべつ天皇てんのう皇族こうぞく再縁さいえんし、なかでもあなあいだじん皇女おうじょもうけた。

延喜えんぎ23ねん(923ねん)、醍醐天皇だいごてんのう藤原ふじわら穏子皇后こうごう冊立さくりつしたとき、皇后こうごうみやしょくではなく中宮ちゅうぐうしょく設置せっちされて穏子に付置ふちされることになった。中宮ちゅうぐうしょく皇后こうごう付置ふちされた最初さいしょれいである。このときはじめて、皇后こうごう呼称こしょうとして「中宮なかみや」がもちいられることになった。

本来ほんらい皇后こうごう定員ていいんは1めいであったが、えい2ねん990ねん)、一条天皇いちじょうてんのう藤原ふじわら定子さだこ皇后こうごう冊立さくりつするにあたり、すでに円融天皇えんゆうてんのうすで退位たいいして太上天皇だじょうてんのう)の皇后こうごう中宮ちゅうぐう)として藤原ふじわら遵子在位ざいいしていたにかかわらず、先帝せんてい皇后こうごう今上きんじょう皇后こうごう併存へいそんしうるものとして、2人ふたり皇后こうごう並立へいりつ強行きょうこうされて以来いらい皇后こうごう同時どうじ2人ふたりまで冊立さくりつすることができるようになった。両者りょうしゃ区別くべつするため、遵子には中宮ちゅうぐうしょくから皇后こうごうみやしょく付置ふちして遵子を「皇后こうごうみや」としょうし、定子さだこには中宮ちゅうぐうしょく付置ふちして定子さだこを「中宮ちゅうぐう」としょうした。さらに長保ながほ2ねん1000ねん)、藤原ふじわら彰子あきこ皇后こうごうとされるにおよんで1人ひとり天皇てんのう同時どうじ2人ふたり皇后こうごうてることができるれいひらかれた。このときは定子さだこを「皇后こうごうみや」とあらため、彰子あきこを「中宮ちゅうぐう」とした。「皇后こうごうみや」も「中宮ちゅうぐう」もともに皇后こうごうであり、たがいに優劣ゆうれつはないが、「中宮ちゅうぐう」のほうが実質じっしつてき天皇てんのう正妻せいさいとしての地位ちいめているれいおおい。

後冷泉天皇ごれいぜいてんのうにはすで中宮ちゅうぐう章子あきこ内親王ないしんのう皇后こうごう藤原ふじわら寛子ひろこがいたが、れき4ねん1068ねんさら藤原ふじわら歓子立后りっこうされることになり、中宮なかみや章子あきこ皇太后こうたいごう皇后こうごう寛子ひろこ中宮ちゅうぐうとされ、歓子は皇后こうごうとされた。章子あきこ皇太后こうたいごう皇后こうごうともいうべき立場たちばになり、わずか2にち後冷泉天皇ごれいぜいてんのう崩御ほうぎょしたものの、この3日間にちかんだけ1人ひとり天皇てんのう同時どうじに3にん皇后こうごうてた唯一ゆいいつれいとなった。なお、皇后こうごうみやから中宮ちゅうぐうとなったのは、寛子ひろこただ一人ひとりである。

その皇后こうごうのありかた次第しだい多様たようした。天皇てんのうははがすでに死去しきょしている場合ばあい、または生母せいぼ身分みぶんひくすぎる場合ばあいなどに、ははしてじゅんははさだめることがおこなわれた。そのはつれいは、寛治かんじ5ねん1091ねん)に堀河ほりかわ天皇てんのうじゅんははとなった媞子内親王ないしんのうであるが、彼女かのじょ同時どうじ皇后こうごうとされたことから、天皇てんのうつまではない女性じょせい皇后こうごうてられるれいひらかれた。このような皇后こうごうを、学術がくじゅつてきには「つまきさき皇后こうごう」とび、あわせて11れいある。宮内庁くないちょう行政ぎょうせい用語ようごでは「尊称そんしょう皇后こうごう」とんでいる。媞子は「中宮ちゅうぐう」であったが、そのつまきさき皇后こうごうはすべて「皇后こうごうみや」であった。のちには、じゅんはは経歴けいれきがなくても、たん未婚みこん内親王ないしんのう優遇ゆうぐうする目的もくてきで「皇后こうごうみや」の称号しょうごうあたえられたれいしょうじた。じゅんはは尊称そんしょう皇后こうごうなか唯一ゆいいつ姈子内親王ないしんのうはのちに入内じゅだいした。また、ながうけたまわ3ねん1134ねん)には、鳥羽天皇とばてんのう譲位じょういして上皇じょうこうとなったあとに入内じゅだいさせたつまである藤原ふじわら泰子やすこを、てん正妻せいさいであることを明示めいじする目的もくてき皇后こうごう皇后こうごうみや)にてた。さらに鳥羽とばは、永治えいじ元年がんねん1141ねん)、同年どうねん即位そくいした自分じぶん末子まっし近衛天皇このえてんのう生母せいぼ藤原ふじわら得子とくこを、天皇てんのう生母せいぼであることを根拠こんきょ皇后こうごう皇后こうごうみや)にてている。そのほか、死後しご皇后こうごう追贈ついぞうされたものが3めいいる。

中世ちゅうせい近世きんせい

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南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう元弘もとひろ3ねん1333ねん)に後醍醐天皇ごだいごてんのう皇后こうごう中宮ちゅうぐう)にてられた珣子内親王ないしんのう最後さいごとして(長慶天皇ちょうけいてんのう建徳けんとく2ねん1371ねん以降いこう中宮ちゅうぐうてたが、詳細しょうさい不明ふめい)、皇后こうごう冊立さくりつ途絶とだえた。またどう時期じきから女御にょうご入内じゅだいおこなわれなくなったため、天皇てんのうが嫡妻をつことがない時期じきつづいた[7]天正てんしょう14ねん1583ねん)、近衛このえぜんひさむすめぜん豊臣とよとみ秀吉ひでよし養女ようじょとしてこう陽成ようぜい天皇てんのう入内じゅだいして女御にょうごとなり、天皇てんのうが嫡妻をつことが復活ふっかつした[7]江戸えど時代じだいでは平安へいあん時代じだいのように天皇てんのう同時どうじ2人ふたり以上いじょうの嫡妻をつことはなく、基本きほんてき女御にょうごがその地位ちいにあった[7]。また天皇てんのうが嫡妻との死別しべつあらたな嫡妻をむかえるのもいちれいのみである[7]中宮ちゅうぐう再興さいこうされるのは、寛永かんえい元年がんねん1624ねん冊立さくりつ後水尾天皇ごみずのおてんのう中宮ちゅうぐうみなもと和子かずこときであり、近世きんせいつうじて中宮ちゅうぐう皇后こうごう没後ぼつご追贈ついぞうふくめて5れいしかない[8]

近代きんだい現代げんだい

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関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさいしゃ慰問いもんする貞明皇后ていめいこうごう
1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ15にち
養蚕ようさんするこうじゅん皇后こうごう
1955ねん昭和しょうわ30ねん)6がつ

明治めいじ元年がんねん旧暦きゅうれき1868ねん新暦しんれき1869ねん)に皇后こうごう中宮ちゅうぐう)となった明治天皇めいじてんのう一条いちじょう美子よしこ昭憲皇太后しょうけんこうたいごう五摂家ごせっけひと一条いちじょう出身しゅっしん)が翌年よくねんに「皇后こうごうみや」とされて以来いらい、「中宮ちゅうぐう」の称号しょうごうえ、明治めいじ22ねん1889ねん)のきゅう皇室こうしつ典範てんぱん制定せいていで、皇后こうごう定員ていいんが1めいとなるとともに、正式せいしきに「中宮ちゅうぐう」の称号しょうごう廃止はいしされ、皇后こうごう統一とういつされた。じゅんはは制度せいど廃止はいしされた。また、皇族こうぞく父親ちちおやたない皇后こうごうが、皇族こうぞく身分みぶん認定にんていされたのもこのとき以来いらいのものである。

なお、皇后こうごう皇太后こうたいごう太皇太后たいこうたいこうの3つの序列じょれつは、大宝たいほう律令りつりょうでは1.太皇太后たいこうたいこう、2.皇太后こうたいごう、3.皇后こうごうじゅんさだめられていたが、1910ねん皇族こうぞくれい明治めいじ43ねん皇室こうしつれいだい2ごう制定せいていによって1.皇后こうごう、2.太皇太后たいこうたいこう、3.皇太后こうたいごうじゅんあらためられ、諡号しごう追号ついごうには生前せいぜんびていたのうち最高さいこうのものである「皇后こうごう」をつけることになった。

明治めいじ19ねん(1886ねん)1がつ昭憲皇太后しょうけんこうたいごうによる「婦女ふじょふくせい思召おぼしめししょ」の布告ふこくによって、洋服ようふく着用ちゃくよう奨励しょうれいされ、宮中きゅうちゅうにおいても日常にちじょうから洋服ようふく着用ちゃくようすることとなった。

このため、だい世界せかい大戦たいせん以前いぜん皇后こうごう和服わふく着物きもの姿すがた写真しゃしん公開こうかいされることはなかった。

ただし、久邇くに宮家みやけ出身しゅっしんこうじゅん皇后こうごうは、和服わふく所有しょゆうしており、私的してき写真しゃしん撮影さつえいされていた。大戦たいせんちゅうには、倹約けんやく奨励しょうれいから「宮中きゅうちゅうふく」が考案こうあんされるが、実際じっさいには皇后こうごうしか着用ちゃくようしなかったため「皇后こうごうふく」の異称いしょうもある。

敗戦はいせん占領せんりょう終了しゅうりょう日本にっぽん主権しゅけん回復かいふくむかえた昭和しょうわ27ねん1952ねん4がつ28にち日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく発効はっこう)になって、こうじゅん皇后こうごうはじめて和服わふく訪問ほうもん)を着用ちゃくようしておおやけあらわれた。以後いご今日きょういたるまで、日本にっぽん伝統でんとう衣装いしょうとして皇后こうごうおよびその女性じょせい皇族こうぞく親王しんのう内親王ないしんのう女王じょおう)が和服わふく着用ちゃくようする機会きかいおおい。

日本にっぽん中国ちゅうごく以外いがい皇后こうごう

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皇后こうごう」の称号しょうごうはもともと、中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょうかかげた政治せいじてき世界せかいかんしたでの世界せかい全体ぜんたい支配しはいしゃ天子てんし皇帝こうてい)の正妃せいひ呼称こしょうであった。したがって、漢字かんじ文化ぶんかけん国家こっかにおいては、最高さいこう君主くんしゅ称号しょうごう皇帝こうていあるいはそれと同等どうとうなものである場合ばあい皇后こうごう存在そんざいすることになる。「おう」(国王こくおうぐんおうなど)は、皇帝こうていしたいち地域ちいきいち民族みんぞく君主くんしゅであるにとどまる存在そんざいであった。

漢字かんじ文化ぶんかけん以外いがい国家こっかであっても、いち地域ちいきいち民族みんぞく君主くんしゅであるにとどまるおう上位じょうい位置いちし、複数ふくすう地域ちいき民族みんぞく支配しはいする君主くんしゅ存在そんざいする場合ばあい、このような君主くんしゅを、日本語にほんごで「皇帝こうてい」とやく慣習かんしゅうがある。これにともなって「皇帝こうてい」とやくされる称号しょうごう君主くんしゅつま称号しょうごうも「皇后こうごう」とやくされる。

皇帝こうてい皇后こうごう訳語やくご

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マ帝国まていこく君主くんしゅ称号しょうごうひとつである Imperator は、通常つうじょう皇帝こうてい」とやくされ、また Caesar という家名かめい君主くんしゅ称号しょうごうとなって、東西とうざいマ帝国まていこく歴史れきし継承けいしょうする社会しゃかいかみきよしマ帝国まていこくドイツ帝国ていこくオーストリア帝国ていこくのカイザー、ロシア帝国ていこくツァーリなど)の統治とうちしゃ君主くんしゅ称号しょうごうとして使つかわれ、これも「皇帝こうてい」とやくされる。サーサーンあさペルシアパフラヴィーあさイランの「諸王しょおうおうシャーハンシャー)」、オスマン帝国ていこくの「スルタン」あるいは「パーディシャー」、きたアフリカエチオピアの「諸王しょおうおうネグサ・ナガスト)」、インドムガル帝国ていこくの「パーディシャー」、みなみアメリカインカ帝国ていこくの「サパ・インカ」なども「皇帝こうてい」とやくされる。これらの君主くんしゅ一夫一婦いっぷいっぷせい婚姻こんいん形態けいたいっていれば、つま称号しょうごうは「皇后こうごう」となるはずであるが、実際じっさいには、世間せけん通用つうようしている通称つうしょう研究けんきゅうしゃによる慣用かんようなどが優先ゆうせんし、一様いちようではない。

西欧せいおうキリスト教きりすときょう社会しゃかいなどの一夫一婦いっぷいっぷせい世界せかいでは、皇帝こうていつま正式せいしきには一人ひとりしか存在そんざいせず「皇后こうごう」または「すめらぎ」とやくされることが一般いっぱんてきである。いちれいとしてひがしマ帝国まていこく皇帝こうていユスティニアヌス1せいつまテオドラがある。彼女かのじょ地位ちいは「皇后こうごう」または「すめらぎ」とやくされる。

皇后こうごう女帝にょてい

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ヨーロッパ諸国しょこく言語げんごでは、日本語にほんごの「皇后こうごう」にたる称号しょうごうは「皇帝こうてい」とやくされる称号しょうごう女性じょせいがたなのが一般いっぱんてきである(というより、ほとんどの君主くんしゅ称号しょうごう爵位しゃくいがそうである)。この場合ばあい称号しょうごうだけでは、たん皇帝こうていつまであるのか、みずからが帝位ていいにある女性じょせい皇帝こうていであるのかは、区別くべつできない。日本語にほんごやく場合ばあいは、前者ぜんしゃは「皇后こうごう」、後者こうしゃは「女帝にょてい」とやくける必要ひつようがある。上記じょうきのテオドラはあくまでも「皇后こうごう」である。

ロシア帝国ていこくエカチェリーナ2せいは、もとは皇帝こうていピョートル3せいつまであり、そのクーデターによりみずか帝位ていいについたものであるから、どう一人物いちじんぶつであり、ロシアでの称号しょうごうおな単語たんごでありながら、即位そくい以前いぜん以後いごとで「皇后こうごう」と「女帝にょてい」の使つかけがおこなわれている。また神聖しんせいローマ皇帝こうていフランツ1せいマリア・テレジア本来ほんらい皇后こうごう」であるが、これは女性じょせい神聖しんせいローマ皇帝こうてい継承けいしょうしゃ資格しかくいための措置そちであり、ハプスブルク支配しはい領域りょういきにおいては、彼女かのじょオーストリア大公たいこうハンガリーおうボヘミアおうねる君主くんしゅであり、フランツ1せい君主くんしゅ配偶はいぐうしゃぎない。そのため日本語にほんごでも「女帝にょてい」とあらわされることがおおい。

英語えいごけんでも、とく上記じょうき区別くべつするかたりがある。統治とうちけん英語えいご: empress女性じょせい皇帝こうてい) を英語えいご: empress regnant君臨くんりんする女性じょせい皇帝こうてい女帝にょてい)とび、統治とうちけんのある男性だんせい皇帝こうてい配偶はいぐうしゃ英語えいご: empress consortである女性じょせい皇帝こうてい皇后こうごう)とぶ。いちれいとして、英語えいごけんでは推古天皇すいこてんのうは empress regnant である。

歌人かじん皇后こうごう 

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日本にっぽん皇后こうごうはしばしばすぐれた歌人かじんでもあり、サロンを形成けいせいして学芸がくげい振興しんこうした。以下いかは、歌人かじんとして活躍かつやくした故人こじんのみべる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 昭憲皇太后しょうけんこうたいごうについては事情じじょうにより「皇太后こうたいごう」と追号ついごうされている。詳細しょうさいは「昭憲皇太后しょうけんこうたいごう#追号ついごうについて」を参照さんしょう

出典しゅってん

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  1. ^ 新村しんむら 2008, p. 936.
  2. ^ 松村まつむらほか 2006, p. 844.
  3. ^ 鶴間つるま和幸かずゆき『ファーストエンペラーの遺産いさん はたかん帝国ていこく講談社こうだんしゃ中国ちゅうごく歴史れきし〉、2004ねん11月、275ぺーじISBN 4-06-274053-2 
  4. ^ 宮内庁くないちょう公式こうしきサイト 英語えいごばん
  5. ^ この段落だんらく出典しゅってんかいこ-皇室こうしつのご養蚕ようさん古代こだいきれにちふつきぬ交流こうりゅうてん開催かいさいについて 2014ねん平成へいせい26ねん)、宮内庁くないちょう - 2016ねん1がつ6にち閲覧えつらん
    皇后こうごう陛下へいかのご養蚕ようさん』 - 政府せいふインターネットテレビ公開こうかい平成へいせい26ねん(2014ねん)2がつ14にち - 2019ねん5がつ28にち閲覧えつらん
    2019ねん平成へいせい31ねん)4がつ29にち放送ほうそうNHKドキュメンタリー『皇后こうごうよんだいおもいはえて~』」(NHK BSプレミアム)
  6. ^ 折口おりぐち信夫しのぶは“みずおんなせつとなえたがキサキの語源ごげんとしてとなえたわけではない。
  7. ^ a b c d 久保くぼ 2009, p. 5.
  8. ^ 久保くぼ 2009, p. 6.
  9. ^ Snorql for Japan Search すべ天皇てんのう
  10. ^ Snorql for Japan Search 藤原ふじわら定子さだこ
  11. ^ Snorql for Japan Search 藤原ふじわら彰子あきこ
  12. ^ Snorql for Japan Search 藤原ふじわら妍子
  13. ^ Snorql for Japan Search 永福門院えいふくもんいん
  14. ^ Snorql for Japan Search 京極きょうごくいん

参照さんしょう文献ぶんけん

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文献ぶんけん資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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