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菊池きくちちぎりがつ

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菊池きくちちぎりがつ

菊池きくち ちぎりがつ(きくち けいげつ、1879ねん11月14にち - 1955ねん9月9にち)は、明治めいじ後期こうきから昭和しょうわ中期ちゅうきにかけての日本にっぽんいえ本名ほんみょう菊池きくち旧姓きゅうせい細野ほそのかんなんじ

明治めいじ時代じだい[編集へんしゅう]

ちと少年しょうねん時代じだい[編集へんしゅう]

1879ねん明治めいじ12ねん)11月14にち長野ながのけん下高井しもたかいぐん中野なかのまち現在げんざい中野なかの)で素封そほう細野ほその勝太郎かつたろう・はつ夫妻ふさい次男じなんとしてまれる。少年しょうねん時代じだいからえがくことをこのみ、1892ねん明治めいじ25ねん)、13さい山ノ内やまのうちまちしぶ温泉おんせん在住ざいじゅう南画なんがいえ児玉こだまはててい入門にゅうもん、「ちぎりがつ」のごうあたえられる。小学校しょうがっこう高等こうとう卒業そつぎょう呉服ごふく製糸せいし工場こうじょうまち役場やくば勤務きんむし、そのかたわら中野なかのまち滞在たいざいちゅうであった高島たかしまゆきまつ私淑ししゅく。やがて画家がかとしてつことへのおもいががたいものとなり、1896ねん明治めいじ29ねん)、いもうと結婚式けっこんしきのどさくさにまぎれて同郷どうきょう友人ゆうじん町田まちだきょくこうとともに[1] 故郷こきょう出奔しゅっぽん京都きょうと南画なんが内海うつみよしどう入門にゅうもん。しかし、二人ふたりはその画風がふうれることができずにいた。これをさっしてかにんりょく性格せいかく見抜みぬいたよしどうは、ちぎりがつ京都きょうと日本にっぽん画家がか菊池きくち芳文よしふみ紹介しょうかいよく1897ねん明治めいじ30ねん)に、18さいでのその門下もんかくわわった。ちなみに町田まちだきょくこう寺崎てらさき廣業こうぎょう門下もんかとなった。

菊池きくちちぎりがつ」として[編集へんしゅう]

菊池きくち芳文よしふみ幸野ゆきの楳嶺門下もんか同門どうもん竹内たけうち栖鳳せいほう谷口たにぐちかおり都路みやこじはなとともに「門下もんか四天王してんのう」ともばれた、京都きょうと画壇がだん正統せいとう四条しじょうほう会得えとくしていた画家がかである。かれのもとで研鑽けんさんみ、入門にゅうもん翌年よくねんの1898ねん明治めいじ31ねん)にはだい4かい新古しんこ美術びじゅつひんてんで『文殊もんじゅ』が一等いっとうしょう、さらにその翌年よくねんにはだい2かい絵画かいが共進きょうしんかいてん出品しゅっぴんした『ちゅう決死けっし』も一等いっとうしょうとなる。その毎年まいとし受賞じゅしょうかさね、1906ねん明治めいじ39ねん)27さい芳文よしふみむすめ・アキと結婚けっこん菊池きくち婿養子むこようしとなり、以後いご菊池きくちせい名乗なのった。夫妻ふさいあいだに1908ねん明治めいじ41ねん)にまれた長男ちょうなん菊池きくち一雄かずおながじて彫刻ちょうこくいえ、1911ねん明治めいじ44ねん)にまれた次男じなん菊池きくちたかし日本にっぽん画家がかとなった。創設そうせつされたばかりの文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい文展ぶんてんでも、1908ねんだい2かいてんで『名士めいしちょうそう』がとうしょう翌年よくねんだい3かいてんで『悪童あくどうわらわ』が3とうしょう、その翌年よくねんだい4かいてんでは『きょうとう』でとうしょう受賞じゅしょうどうさくは1911ねんローマ開催かいさいされた万国ばんこく芸術げいじゅつ博覧はくらんかいにも出品しゅっぴん。またこのとしには京都きょうと市立しりつ絵画かいが専門せんもん学校がっこう助教諭じょきょうゆとなった。

名士めいしちょうそう」1908ねん 右側みぎがわ
名士めいしちょうそう」1908ねん 左側ひだりがわ
悪者わるものわらわ」1909ねん
きょうとう」1910ねん

大正たいしょう時代じだい[編集へんしゅう]

画風がふう確立かくりつ目指めざして[編集へんしゅう]

大正たいしょうはいると、それまでの歴史れきしじょう故事こじ取材しゅざいした作品さくひんにかわって、身辺しんぺん風物ふうぶつ題材だいざいとした作品さくひん主流しゅりゅうめるようになり、1913ねん大正たいしょう2ねん)の『鉄漿蜻蛉おはぐろとんぼ』(おはぐろとんぼ)、1914ねん大正たいしょう3ねん)の『ゆふべ』、『おうな』、1916ねん大正たいしょう5ねん)の『花野はなの』などがされた。おなねん文展ぶんてん永久えいきゅう鑑査かんさ作家さっか翌年よくねんには絵画かいが専門せんもん学校がっこう助教授じょきょうじゅ昇進しょうしんしている。1918ねん大正たいしょう7ねん)にであり、義父ぎふでもある芳文よしふみ死去しきょすると、後継こうけいしゃとして「菊池きくちじゅく」の主宰しゅさいしゃとなり、同年どうねんには絵画かいが専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ、さらに文展ぶんてん審査しんさいんにも就任しゅうにんした。文展ぶんてん翌年よくねんみかどてん改組かいそされたのちも、つづいて審査しんさ委員いいんをつとめている。このように、画壇がだんでの地位ちい着実ちゃくじつたかめていきながらも、1920ねん大正たいしょう9ねん)の『少女しょうじょ』では、それ以前いぜん作品さくひんられなかった鮮烈せんれつ色彩しきさい不気味ぶきみなまでに生々なまなましい写実しゃじつてき表現ひょうげんられ、師匠ししょうからいだ四条しじょう伝統でんとう墨守ぼくしゅするだけでなく、それをまえたうえであたらしい独自どくじ画風がふう確立かくりつしようとする姿勢しせいうかがえる。

ちぎりがつ」1918ねん
少女しょうじょ」1920ねん

ヨーロッパ留学りゅうがく[編集へんしゅう]

1922ねん大正たいしょう11ねん)、京都きょうとから美学びがくしゃ中井なかい宗太郎そうたろう画家がか入江いりえなみこうとともにヨーロッパへの視察しさつ出張しゅっちょう派遣はけんされた。1ねんほどにおよんだ欧州おうしゅう滞在たいざいあいだフランスイタリア中心ちゅうしん各地かくち訪問ほうもんとくルネサンスフレスコ肖像しょうぞうふか感銘かんめいけ、チマブーエジョットのいくつもの作品さくひん模写もしゃした。こうした経験けいけんによって古典こてんてき作品さくひん偉大いだいさや価値かちさい認識にんしきし、帰国きこく仏教ぶっきょう美術びじゅつ大和絵やまとえ浮世絵うきよえしょさく研究けんきゅうし、収集しゅうしゅうした。こうした行動こうどう成果せいかは1924ねん大正たいしょう13ねん)の『たておんな』や、翌年よくねんの『春風しゅんぷうはらい絃』となって結実けつじつ前者ぜんしゃでは奈良なら時代じだい絵画かいがからの影響えいきょう後者こうしゃでは浮世絵うきよえからのそれが、それぞれフレスコ調ちょう晴朗せいろう色彩しきさい融和ゆうわしている。こうした作風さくふうは1928ねん昭和しょうわ3ねん)の『南波なんばあきらあいだ』(はいはてろま)で到達とうたつてんたっしたとみなされている。この作品さくひん完成かんせいには同年どうねん沖縄おきなわ旅行りょこうけた感銘かんめいおおきくかかわっている。なおこの作品さくひんは1986ねん昭和しょうわ61ねん)4がつ発行はっこうされた「切手きって趣味しゅみ週間しゅうかん記念きねん切手きって図柄ずがらとして採用さいようされている。

たておんな」1924ねん

昭和しょうわ時代じだい[編集へんしゅう]

しろ描画びょうがえが[編集へんしゅう]

昭和しょうわはいるころからは、こうした傾向けいこう作品さくひん並行へいこうして、均一きんいつでクールなせん抑制よくせいされたひかえめな色彩しきさいによるしろ描画びょうがふうしょさくされるようになり、作品さくひんふたつの系統けいとうみとめられるようになる。こうした路線ろせん最初さいしょは1927ねん昭和しょうわ2ねん)の『敦盛あつもり』で、1930ねん昭和しょうわ5ねん)の『婦女ふじょ』、翌年よくねんの『朱唇しゅしん』、さらにその翌年よくねんの『少女しょうじょ』がそれにつづき、1933ねん昭和しょうわ8ねん)の『涅歯』(はぐろめ)で完成かんせいいきたっしたとかんがえられている。ちぎりがつはこの前年ぜんねんの1932ねん昭和しょうわ7ねん)には京都きょうと市立しりつ絵画かいが専門せんもん学校がっこう京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ工芸こうげい学校がっこう両校りょうこう校長こうちょうとなったが、この1933ねんにはそれらのしょく退しりぞいて絵画かいが専門せんもん学校がっこう専任せんにん教授きょうじゅとなった。またこのころにはわか女性じょせい姿すがたがしばしば画題がだいとなった。なかでも特筆とくひつすべきは、その当時とうじ風俗ふうぞくのっとってえがかれた、1934ねん昭和しょうわ9ねん)の『散策さんさく』であろう。こうした作品さくひん誕生たんじょうにはどう時期じき息子むすこ一雄かずお結婚けっこんおおきく影響えいきょうしているかんがえられる。また同年どうねん12がつ3にちには帝室ていしつ技芸ぎげいいんとなった[2]

大戦たいせんちゅう創作そうさく活動かつどう[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)には絵画かいが専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ退官たいかん、その翌年よくねんには帝国ていこく芸術げいじゅついん会員かいいんとなったが、この前後ぜんご時期じきから当時とうじ日本にっぽんめぐ情勢じょうせい反映はんえいしてか、倶利伽羅峠くりからとうげたたか取材しゅざいした1935ねん昭和しょうわ10ねん)の『松明たいまつうし』、戦場せんじょうでの武士ぶし同士どうし交流こうりゅうえがいた。 1937ねん昭和しょうわ12ねん)、このとしからはじまったしん文展ぶんてん審査しんさいん就任しゅうにん[3]。 1938ねん昭和しょうわ13ねん)の『交歓こうかん』などといった、たたかえ(いくさ)を題材だいざいとした作品さくひん目立めだつようになる。とくに1941ねん昭和しょうわ16ねん)の日米にちべい開戦かいせん以降いこうは、日本にっぽん画家がかほう国会こっかいによる軍用ぐんよう献納けんのうてんや、帝国ていこく芸術げいじゅついん会員かいいんによる戦艦せんかん献納けんのうてんなどといった展覧てんらんかい作品さくひん出品しゅっぴんし、地位ちい名声めいせいのある画家がかとして、戦争せんそうつうじて戦時せんじにおける銃後じゅうご志気しき高揚こうよう協力きょうりょくした。1943ねん昭和しょうわ18ねん)の『小楠公しょうなんこうおとうとけい』(しょうなんこう おととえ)も、皇室こうしつたいする忠誠ちゅうせいしんと、てき果敢かかんたたかつよ意志いしをあらわす偶像ぐうぞうといわれていた武将ぶしょう楠木くすのき正成まさしげ二人ふたり息子むすこ姿すがたえがいている。

光明皇后こうみょうこうごう」1944ねん

戦後せんご晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)の終戦しゅうせんは、同年どうねんの『富士ふじ出現しゅつげん』を最後さいごとしてだい規模きぼ作品さくひん制作せいさくからはとおざかった。やはり同年どうねんさくである『小堀こぼりとおしゅう』は水墨すいぼくふう洒脱しゃだつ軽妙けいみょうせるもので、菊池きくちあらたな境地きょうちひらいたことをしめす。以後いごはこうした小品しょうひん創作そうさく中心ちゅうしんとなったが、その背景はいけいには、持病じびょう高血圧こうけつあつしょう悪化あっかによる体調たいちょう不良ふりょうもあった。1947ねん昭和しょうわ22ねん)に日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん、1950ねん昭和しょうわ25ねん)には京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、1954ねん昭和しょうわ29ねん)には京都きょうと名誉めいよ市民しみんとなり[4]同年どうねんには平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう壁画へきが模写もしゃ指導しどうにあたった。その翌年よくねんの1955ねん昭和しょうわ30ねん)9がつ9にちのうふさがせんにより自宅じたく死去しきょ、75さいぼつ絶筆ぜっぴつは『源氏物語げんじものがたり挿図そうず』。京都きょうと美術館びじゅつかん市民しみんそういとなまれ、翌年よくねんには京都きょうと東京とうきょう遺作いさくてん開催かいさいされた。

おも作品さくひん[編集へんしゅう]

作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 出品しゅっぴん展覧てんらんかい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
福原ふくはら故事こじ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 155.0x84.0 中野なかの教育きょういく委員いいんかい 1899ねん明治めいじ32ねん
垓下別離べつり 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 226.0x145.0 中野なかの教育きょういく委員いいんかい 1901ねん明治めいじ34ねん だい7かい新古しんこ美術びじゅつひんてん
くるま匿童訣別けつべつ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 168.5x114.0 常楽寺じょうらくじ 1901ねん明治めいじ34ねん
寂光じゃっこういん 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 219.0x145.0 長野ながの県立けんりつ美術館びじゅつかん 1902ねん明治めいじ35ねん だい8かい新古しんこ美術びじゅつひんてん
落花らっか 絹本けんぽんちょしょく ろくきょくいちせき 153.0x334.0 水野みずの美術館びじゅつかん 1904ねん明治めいじ37ねん だい9かい新古しんこ美術びじゅつひんてん
きょうつま 京都きょうと学校がっこう歴史れきし博物館はくぶつかん 1907ねん明治めいじ40ねんごろ 明倫めいりん小学校しょうがっこう現在げんざい京都きょうと芸術げいじゅつセンターきゅうぞう[5]
名士めいしちょうそう 絹本けんぽんちょしょく きょく一双いっそう 167.0x187.0(かく 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1908ねん明治めいじ41ねん だい2かい文展ぶんてん
悪者わるものわらわ 絹本けんぽんちょしょく ろくきょくいちせき 158.0x360.0 個人こじん 1909ねん明治めいじ42ねん だい3かい文展ぶんてん
きょうとう 絹本けんぽんちょしょく きょく一双いっそう 161.0x174.0(かく 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1910ねん明治めいじ43ねん だい4かい文展ぶんてん
てつすすむ蜻蛉とんぼ 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 158.0x359.0(かく 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1913ねん大正たいしょう2ねん だい7かい文展ぶんてん
ゆふべ 絹本けんぽんちょしょく きょく一双いっそう 157.5x172.0(かく 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1914ねん大正たいしょう3ねん だい8かい文展ぶんてんとうしょう
おうな春寒しゅんかん 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 140.0x70.0 長野ながの県立けんりつ美術館びじゅつかん 1914ねん大正たいしょう3ねん 大正たいしょう博覧はくらんかい
蓮華れんげ 絹本けんぽんちょしょく ろくきょく一双いっそう 173.6x377.2(かく 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1917ねん大正たいしょう6ねん だい11かい文展ぶんてん
ゆういたり 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 216.0x101.5 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1918ねん大正たいしょう7ねん だい12かい文展ぶんてん
少女しょうじょ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 157.0x101.5 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1920ねん大正たいしょう9ねん だい2かいみかどてん
づる 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 190.0x114.2 平安へいあん神宮じんぐう 1921ねん大正たいしょう10ねん だい2かいみかどてん
たておんな 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 154.5x170.5 長野ながの県立けんりつ美術館びじゅつかん 1924ねん大正たいしょう13ねん だい5かいみかどてん
けいせい 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 182.0x118.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1926ねん大正たいしょう15ねん だい2かい菊池きくちじゅくてん
赤童子あかどうじ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 235.0x118.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1926ねん大正たいしょう15ねん だい7かいみかどてん
敦盛あつもり 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 198.0x86.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1927ねん昭和しょうわ2ねん だい3かい菊池きくちじゅくてん
南波なんばあきらあいだ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 224.0x176.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1928ねん昭和しょうわ3ねん だい9かいみかどてん
さくら かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい 1ぶく 171.0x94.5 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1929ねん昭和しょうわ4ねん だい5かい菊池きくちじゅくてん
朱唇しゅしん 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 112.5x88.2 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1931ねん昭和しょうわ6ねん だい7かい菊池きくちじゅくてん
少女しょうじょ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 118.5x145.5 京都きょうと美術館びじゅつかん 1932ねん昭和しょうわ7ねん だい8かい菊池きくちじゅくてん
少女しょうじょ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 118.5x145.5 京都きょうと美術館びじゅつかん 1932ねん昭和しょうわ7ねん だい8かい菊池きくちじゅくてん
友禅ゆうぜん少女しょうじょ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 152.0x88.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1933ねん昭和しょうわ8ねん だい9かい菊池きくちじゅくてん
涅歯 かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい がくそう1めん 152.0x88.0 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1933ねん昭和しょうわ8ねん だい4かいなな絃会てん
早苗さなえ かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい がくそう1めん 170.0x75.5 京都きょうと美術館びじゅつかん 1934ねん昭和しょうわ9ねん だい5かいなな絃会てん
散策さんさく 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 173.0x173.5 京都きょうと美術館びじゅつかん 1934ねん昭和しょうわ9ねん だい15かいみかどてん
むぎ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 196.0x111.7 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1937ねん昭和しょうわ12ねん だい1かいしん文展ぶんてん
あさ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 149.8x72.1 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1937ねん昭和しょうわ12ねん だい3かい珊々かいてん
交歓こうかん かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい がくそう1めん 220.5x145.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1938ねん昭和しょうわ13ねん だい2かいしん文展ぶんてん
ちゅう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 150.0x72.0 個人こじん 1939ねん昭和しょうわ14ねん だい10かいなな絃会てん
きく 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 64.0x73.3 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1942ねん昭和しょうわ17ねん 献納けんのうてん
むらさき かみほんちょしょく ろくきょくいちせき 170.0x378.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1942ねん昭和しょうわ17ねん だい7かい京都きょうとてん
北政所きたのまんどころ 絹本けんぽんちょしょく がくそう1めん 185.5x112.0 大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかん 1943ねん昭和しょうわ18ねん 関西かんさい邦画ほうがてん
小楠公しょうなんこうおとうとけい かみほんちょしょく がくそう1めん 172.0x113.0 京都きょうと美術館びじゅつかん 1943ねん昭和しょうわ18ねん だい8かい京都きょうとてん
光明皇后こうみょうこうごう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 142.0x57.5 長野ながの県立けんりつ美術館びじゅつかん 1944ねん昭和しょうわ19ねん 日本にっぽん文化ぶんか顕揚けんようてん
被衣かずき 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 57.5x67.8 個人こじん 1947ねん昭和しょうわ22ねん かた交会てん

画集がしゅう[編集へんしゅう]

  • 菊池きくちちぎりがつ画集がしゅう 菊池きくち一雄かずおへん 美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1956
  • 菊池きくちちぎりがつ画集がしゅう 今泉いまいずみ篤男あつおほか編集へんしゅう もとめりゅうどう 1982

展覧てんらんかい図録ずろく[編集へんしゅう]

  • 菊池きくちちぎりがつ遺作いさくてん東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん(1956ねん
  • 菊池きくちちぎりがつ名作めいさくてん 信州しんしゅうんだ巨星きょせい信濃しなの美術館びじゅつかん(1969ねん
  • 菊池きくちちぎりがつてん京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんへん 京都新聞社きょうとしんぶんしゃ(1982ねん
  • 菊池きくちちぎりがつてん佐野さの美術館びじゅつかん(1988ねん
  • 菊池きくちちぎりがつとその系譜けいふ京都きょうと美術館びじゅつかん京都新聞社きょうとしんぶんしゃ(1999ねん
  • 菊池きくちちぎりがつてん 信州しんしゅうんだ京都きょうと画壇がだんきらめき 没後ぼつご50ねん記念きねん長野ながのけん信濃しなの美術館びじゅつかんへん(2006ねん
  • 菊池きくちちぎりがつてん 生誕せいたん130ねん記念きねん富山とやまけん水墨すいぼく美術館びじゅつかん三重みえ県立けんりつ美術館びじゅつかんほか(2009~2010ねん
  • 菊池きくちちぎりがつてん 没後ぼつご60ねん笠岡かさおか市立しりつちくたかし美術館びじゅつかん(2015ねん

脚註きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 雑誌ざっし中央ちゅうおう美術びじゅつ大正たいしょう5ねん12がつごう
  2. ^ 官報かんぽうだい2378ごう昭和しょうわ9ねん12月4にち
  3. ^ 審査しんさいんかおぶれ内定ないてい東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ12ねん7がつ27にち)『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp665 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ 京都きょうと京都きょうと名誉めいよ市民しみん 菊池きくちかんなんじ菊池きくちちぎりがつ
  5. ^ 教訓きょうくんつたえる「きょうつま」」京都きょうと学校がっこう歴史れきし博物館はくぶつかんへんまなびやタイムスリップ 近代きんだい京都きょうと学校がっこう美術びじゅつ京都きょうと新聞しんぶん出版しゅっぱんセンター、2016ねん10がつ31にち、pp.94-96、ISBN 978-4-7638-0690-1

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 菊池きくちちぎりがつとその系譜けいふ塩川しおかわ京子きょうこちょ展覧てんらんかい図録ずろく菊池きくちちぎりがつとその系譜けいふ所収しょしゅう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]