(Translated by https://www.hiragana.jp/)
古式競馬 (日本) - Wikipedia コンテンツにスキップ

古式こしき競馬けいば (日本にっぽん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
賀茂かも競馬けいばえがいた

この項目こうもくでは、競馬けいば(くらべうま・きおいうま・きそいうま)、またはこまきおい(こまくらべ)ともばれる、日本にっぽん古式こしき競馬けいばについて記述きじゅつする。競馬けいばとは、うまはしらせてそのうま走行そうこう速度そくどや、騎手きしゅ乗馬じょうば技術ぎじゅつ作法さほうきそ競技きょうぎであり、神事しんじとしても存在そんざいする。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』によれば、天武天皇てんむてんのう8ねん679ねん)の記事きじりょう駿足しゅんそく鑑賞かんしょうするために実際じっさいうまはしくらべをおこなったとする記事きじ存在そんざいしており、そのころには存在そんざいしていた。ただし、こうした鑑賞かんしょう行事ぎょうじまつりかいさいはしうま(はしりうま)として別個べっこ発展はってんげ、これとはべつうまはやさと馬術ばじゅつきそ宮中きゅうちゅう行事ぎょうじとして、毎年まいとし5月5にちふしかいさいして6にちまでの2日間にちかんかけて騎射きしゃ(うまゆみ)とともにおこなわれるようになった。

開催かいさい場所ばしょ

[編集へんしゅう]

奈良なら時代じだい平城ひらじろみやみなみえん(なんえん)、平安へいあん時代じだいでは武徳たけのり殿どのうまらち殿どの(うまきどの)/馬場ばば殿どのともう)でおこなわれた。

平安へいあん中期ちゅうきにもなると、行宮あんぐう離宮りきゅう公卿くぎょう邸宅ていたく神社じんじゃ境内けいだいなどで臨時りんじ競馬けいばおこなわれることもあった。もっとも、うま飼育しいくには本来ほんらい軍事ぐんじてき要素ようそふくまれていたために、臣下しんかがみだりにおこなうことが出来できず、実際じっさいには摂関せっかんかそれにるいする公卿くぎょうのみの特権とっけんであった。藤原ふじわら道長みちなが私的してき競馬けいば度々たびたび開催かいさいして藤原ふじわらみのるより非難ひなんびている[1]寛弘かんこう元年がんねん1004ねん)に花山はなやま法皇ほうおう行幸ぎょうこう名目めいもく自邸じてい競馬けいばおこなって以来いらい一条天皇いちじょうてんのう三条さんじょう天皇てんのう行幸ぎょうこうなどを口実こうじつにして競馬けいば開催かいさいし、親王しんのう公卿くぎょうたちには当日とうじつはしらせるうま提供ていきょうさせるなど、自己じこ権威けんいづけにもちいた。その後継こうけいしゃである藤原ふじわら頼通よりみちまん寿ことぶき元年がんねん1024ねん)にこういんもよおした競馬けいばは、『栄花物語えいがものがたり』の「こまくらべの行幸ぎょうこう」や『こまきおい行幸ぎょうこう絵巻えまき』にえがかれている。神社じんじゃにおいては、神事しんじとして賀茂かも神社じんじゃ石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう春日大社かすがたいしゃもよおしがられる。

とく上賀茂かみがも神社じんじゃ競馬けいば有名ゆうめいで、中世ちゅうせい以降いこう宮中きゅうちゅう武徳たけのり殿どのでのもよおしが衰微すいびしていくとともに臨時りんじ競馬けいば減少げんしょうしていったが、「競馬けいばかい神事しんじ」(賀茂かも競馬けいば(かもくらべうま)ともう)として現在げんざいでもおこなわれており、古式こしき習俗しゅうぞく今日きょうまで継承けいしょうしている。春日大社かすがたいしゃではふじ長者ちょうじゃ在任ざいにんちゅういち春日しゅんじつ参詣さんけいおり競馬けいばひらくのを慣例かんれいにしており、この風習ふうしゅう藤原ふじわら道長みちながによって創始そうしされ、早世そうせいした藤原ふじわらどおり例外れいがいとして歴代れきだいふじ長者ちょうじゃ一部いちぶ例外れいがいのぞいて摂関せっかんねる)のならわしとされた[2]

宮中きゅうちゅう行事ぎょうじ

[編集へんしゅう]

宮中きゅうちゅう行事ぎょうじとしての競馬けいばは、調教ちょうきょううま左右さゆうはいし、直線ちょくせんコースの馬場ばばで2とうはしらせる。そのうまを「しり(のりじり)」とばれる騎手きしゅだくみにあやつって、競争きょうそう相手あいて進行しんこう妨害ぼうがいしたりしがらも先着せんちゃくきそう。無事ぶじゴールまではや走行そうこうさせたほうちであり、落馬らくばけとなった。これはうまはやさだけでなく、騎手きしゅしり)の乗馬じょうば技術ぎじゅつわれる趣向しゅこうらしたものでもあった。なお、2番目ばんめ以後いごまけかた先行せんこうして出発しゅっぱつするもうかうま(もうけのうま)となり、かちかたいちおそ(いちじ)ぶん時間じかんいてから出発しゅっぱつするついうまばれ、ついうまもうかうましてうまちゅうはい必要ひつようがあった。21くみひだりかたみぎかた)でけい10ばん競走きょうそうおこない、ぜんばんとおしてひだりかたみぎかた勝敗しょうはい決定けっていした。

直線ちょくせんコースには左右さゆうらち(らち)とばれる黒木くろきしがらみ設置せっちし、途中とちゅう目印めじるしとなる3ほん設置せっちする。騎射きしゃ場合ばあいには左側ひだりがわむかい(いこう)となるようにらち左側ひだりがわになるようなコースを設定せっていし、それぞれにてきかか(まとかけ)の牓示をおこなうが、競馬けいば場合ばあい最初さいしょ馬出まいだし馬場本ばばもと)とし、2番目ばんめむちれてきそいあう「勝負しょうぶ」とし、最後さいご勝負しょうぶ決定けっていしるべ(しめ)をいてはたほこててうまちゅう(うまとどめ)すなわちゴールとする。観客かんきゃくらちのぞ中央ちゅうおう建物たてもの馬場ばば殿どのとし、その左右さゆうに幄舎を設置せっちしてそのいずれかで観戦かんせんすることになっていた。

騎手きしゅまもるうまりょうなどにぞくする武官ぶかんからえらばれ、自身じしん位階いかいあたいするとういろ(とうじき)の上着うわぎ裲襠うちかけ(りょうとう)というぬきあたまころも一種いっしゅけて競技きょうぎのぞんだ[3]

中世ちゅうせいいたるまでさかんにおこなわれ、花園はなぞのいん日記にっきである『花園はなぞのいん宸記』には、正中せいちゅう2ねん正月しょうがつ13にち1325ねん1がつ28にちじょう記事きじとして花園はなぞのいんぞくする持明院じみょういんみつるのライバルである大覚寺だいかくじみつる後醍醐天皇ごだいごてんのう皇太子こうたいしくにりょう皇位こうい継承けいしょう正当せいとうせいめぐって鎌倉かまくら幕府ばくふからの有利ゆうり裁定さいていもとめてたがいに鎌倉かまくら使者ししゃ相次あいついで派遣はけんした有様ありさまを「競馬けいばごうす」と皮肉ひにくっている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ しょう右記うき長保ながほ元年がんねん9がつ13にち・16にち・10がつ20日はつかじょうなど。
  2. ^ たい別記べっき仁平にだいら3ねん11月28にちじょう
  3. ^ 大辞林だいじりん だいさんはん裲襠うちかけ 〔りょうとう〕」 三省堂さんせいどう 2015ねん9がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 鈴木すずき敬三けいぞう競馬けいば」・「競馬けいば装束しょうぞく吉川弘文館よしかわこうぶんかん国史こくしだい辞典じてん
  • 近藤こんどう好和よしかず競馬けいば角川書店かどかわしょてん平安へいあん時代じだい事典じてん
  • 中込なかごめ律子りつこ摂関せっかんうま校倉あぜくら書房しょぼう平安へいあん時代じだいぜい財政ざいせい構造こうぞう受領じゅりょう

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]