近衛 このえ 兵 へい (このえへい)や近衛 このえ (このえ)(英 えい : royal guard )とは、君主 くんしゅ を護衛 ごえい (警護 けいご )する(君主 くんしゅ 直属 ちょくぞく の)軍人 ぐんじん ・軍団 ぐんだん や、直属 ちょくぞく の護衛 ごえい のこと。また広義 こうぎ には大統領 だいとうりょう などを警護 けいご する役割 やくわり の兵 へい や部隊 ぶたい もこう呼 よ ぶ。
本 ほん 記事 きじ では、君主 くんしゅ に限 かぎ らず、国家 こっか 元首 げんしゅ の身辺 しんぺん 警護 けいご を行 おこな う役割 やくわり についても解説 かいせつ する。
歴史 れきし 的 てき なことを中心 ちゅうしん に説明 せつめい するので、軍 ぐん か警察 けいさつ かの区別 くべつ は明確 めいかく ではない場合 ばあい も多 おお いので、その場合 ばあい あまり区別 くべつ せずに解説 かいせつ する。
君主 くんしゅ (王 おう 、女王 じょおう 、皇帝 こうてい など)や大統領 だいとうりょう などを護衛 ごえい する者 もの のことである。普段 ふだん は君主 くんしゅ ・大統領 だいとうりょう の居所 きょしょ (王宮 おうきゅう 、大統領 だいとうりょう 府 ふ など)の内部 ないぶ や周囲 しゅうい を警備 けいび ・警護 けいご する。
君主 くんしゅ 制 せい が廃止 はいし された国 くに でも、大統領 だいとうりょう など国家 こっか の最高 さいこう 権力 けんりょく を握 にぎ っている人物 じんぶつ はいるわけで、そうした人物 じんぶつ の身辺 しんぺん 警護 けいご をする必要 ひつよう は当然 とうぜん あるわけなので、身辺 しんぺん 警護 けいご の役割 やくわり を担 にな う者 もの は当然 とうぜん いる。
時代 じだい や国 くに によってさまざまな名称 めいしょう がある。
たとえば古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく では皇帝 こうてい の警護 けいご 兵 へい はプラエトリアニといった。英語 えいご では「ロイヤルガード(英 えい : royal guard )」という。皇帝 こうてい となったナポレオン・ボナパルトの身辺 しんぺん 警護 けいご をした兵 へい は「ラ・ギャルド・アンペリアル 仏 ふつ : La Garde Impériale )といった。たとえば漢字 かんじ 表現 ひょうげん では近衛 このえ ・近衛 このえ 兵 へい ・衛兵 えいへい ・近衛府 このえふ ・御 ご 親 おや 兵 へい ・親衛隊 しんえいたい ・近衛 このえ 師団 しだん ・禁衛 きんえい 府 ふ ・などという。
世界 せかい 各国 かっこく の元首 げんしゅ の居所 きょしょ を警護 けいご する役割 やくわり の兵 へい は、当然 とうぜん それぞれの国 くに の言語 げんご で、たとえば古代 こだい ローマならラテン語 らてんご で、英語 えいご 圏 けん なら英語 えいご で、イスラーム圏 けん ならアラビア語 ご の名称 めいしょう で呼 よ ばれているわけだが、それらの警護 けいご 役 やく の兵 へい (や警官 けいかん )を日本語 にほんご で呼 よ ぶときは、「近衛 このえ (このえ)」や「近衛 このえ 兵 へい (このえへい)」などという訳語 やくご を充 あ てることは多 おお い。[1]
法治 ほうち 主義 しゅぎ がゆきとどいた国 くに では軍 ぐん と警察 けいさつ の職務 しょくむ 分離 ぶんり が進 すす んでおり、平時 へいじ の警護 けいご は警察 けいさつ や国家 こっか 憲兵 けんぺい が担当 たんとう し、軍 ぐん は儀仗 ぎじょう や海外 かいがい 訪問 ほうもん や緊急 きんきゅう 時 じ の警護 けいご を担当 たんとう する国 くに が多 おお くなっている。
当 とう 記事 きじ では、君主 くんしゅ や大統領 だいとうりょう などを護衛 ごえい する兵 へい や部隊 ぶたい に加 くわ えて関連 かんれん する制度 せいど などについても解説 かいせつ する。
古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく [ 編集 へんしゅう ]
この絵画 かいが では、左側 ひだりがわ に描 えが かれている兵 へい たちがローマ皇帝 こうてい の警護 けいご を担 にな ったプラエトリアニ 。
古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく では、皇帝 こうてい (ローマ皇帝 こうてい ) の身辺 しんぺん 警護 けいご はプラエトリアニ がおこなった。(あえて漢字 かんじ に訳 やく す場合 ばあい は「近衛 このえ 隊 たい 」「近衛 このえ 軍団 ぐんだん 」「護衛 ごえい 隊 たい 」「親衛隊 しんえいたい 」などと訳 やく され、訳語 やくご は一定 いってい しない。) 紀元前 きげんぜん 27年 ねん 、アウグストゥスによる帝政 ていせい 開始 かいし とともに組織 そしき され、コンスタンティヌス1世 せい (在位 ざいい :306年 ねん -337年 ねん )によって解体 かいたい された。
ローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう
現在 げんざい のローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう にはスイス衛兵 えいへい が置 お かれている。スイス衛兵 えいへい は、ローマ教皇 きょうこう ユリウス2世 せい によって、1506年 ねん に創設 そうせつ される。1527年 ねん のローマ略奪 りゃくだつ に際 さい して、スイス衛兵 えいへい が自 みずか らを犠牲 ぎせい にして、教皇 きょうこう クレメンス7世 せい を守護 しゅご したことから、爾来 じらい ローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう の衛兵 えいへい はスイス人 じん に限 かぎ られることとなる。
現在 げんざい のスペインでは、グアルディア・レアル (西 にし : Guardia Real )がスペイン国王 こくおう とスペイン王室 おうしつ のメンバーの警護 けいご を専 せん 門 もん で行 おこな っており、スペイン陸軍 りくぐん の「独立 どくりつ 部隊 ぶたい 」という位置 いち づけになっている。規模 きぼ は連隊 れんたい 。(漢字 かんじ 混 ま じりに訳 やく す時 とき は「スペイン国王 こくおう 近衛 このえ 隊 たい 」などと訳 やく す。) グアルディア・レアルは儀式 ぎしき やイベントにも参加 さんか しはするが、通常 つうじょう の軍隊 ぐんたい として機能 きのう しており、しっかりと戦闘 せんとう 能力 のうりょく を持 も っており、通常 つうじょう の兵士 へいし と同様 どうよう の戦闘 せんとう 訓練 くんれん を受 う けている[2] 。
グアルディア・レアル(2001年 ねん )
パレードに参加 さんか しているグアルディア・レアル
フランス革命 かくめい 後 ご の混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう して皇帝 こうてい となったナポレオン は、自身 じしん の執政 しっせい 親衛隊 しんえいたい をさらに強化 きょうか 拡大 かくだい して、皇帝 こうてい 近衛 このえ 隊 たい (La Garde Impériale )を編成 へんせい する。皇帝 こうてい 近衛 このえ 隊 たい の中 なか でも、最 さい 精強 せいきょう の歩兵 ほへい 部隊 ぶたい として第 だい 1近衛 このえ 擲弾兵 へい 連隊 れんたい ・第 だい 1近衛 このえ 猟 りょう 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 、近衛 このえ 擲弾騎兵 きへい 連隊 れんたい 、近衛 このえ 猟 りょう 騎兵 きへい 連隊 れんたい などが編成 へんせい された。また、特 とく にナポレオンに忠誠 ちゅうせい を誓 ちか う古参 こさん 兵 へい によって編成 へんせい された部隊 ぶたい は古参 こさん 近衛 このえ 隊 たい (La Vieilles Gardes )と呼 よ ばれた。これらは部隊 ぶたい 名誉 めいよ 称号 しょうごう であり、精鋭 せいえい 部隊 ぶたい の証 あかし である。一方 いっぽう で、実際 じっさい に、宮廷 きゅうてい の警備 けいび のみならず、戦場 せんじょう で活動 かつどう する皇帝 こうてい の警衛 けいえい も、皇帝 こうてい 近衛 このえ 隊 たい の一部 いちぶ 所 しょ 、近衛 このえ 猟 りょう 騎兵 きへい 連隊 れんたい やエリート憲兵 けんぺい 騎兵 きへい が担当 たんとう した。
現在 げんざい でも、ジャンダルムリー(Gendarmerie 、(フランス)国家 こっか 憲兵 けんぺい 隊 たい )によって、ギャルド・レピュブリケーヌ (Garde Républicaine (フランス)共和 きょうわ 国 こく 親衛隊 しんえいたい )が編成 へんせい されている。共和 きょうわ 国 こく 親衛隊 しんえいたい の第 だい 1連隊 れんたい は大統領 だいとうりょう の警護 けいご を、共和 きょうわ 国 こく 親衛隊 しんえいたい 第 だい 2連隊 れんたい は国会 こっかい 議事堂 ぎじどう や政府 せいふ 高官 こうかん 等 とう の警備 けいび ・警護 けいご に当 あ たる。
ナポレオン時代 じだい のLa Vieilles Gardes。
現代 げんだい のフランス共和 きょうわ 国 こく のギャルド・レピュブリケーヌ(共和 きょうわ 国 こく 親衛隊 しんえいたい )
現代 げんだい フランス共和 きょうわ 国 こく のギャルド・レピュブリケーヌ。
ギャルド・レピュブリケーヌのオートバイ
部隊 ぶたい (
写真 しゃしん のオートバイはすべて
ヤマハ 製 せい 。)
ドイツ帝国 ていこく 陸軍 りくぐん 近衛 このえ 師団 しだん
ドイツ帝国 ていこく 時代 じだい にはGardekorps (近衛 このえ 師団 しだん )がベルリン に駐留 ちゅうりゅう しており、第 だい 1近衛 このえ 師団 しだん (1. Garde-Division )、第 だい 2近衛 このえ 師団 しだん (2. Garde-Division )、近衛 このえ 騎兵 きへい 師団 しだん (Garde-Kavallerie-Division )が組織 そしき されていた。
イギリスの近衛 このえ 兵 へい の歴史 れきし
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2022年 ねん 6月 がつ )
イギリスの現在 げんざい の近衛 このえ 兵 へい
近衛 このえ 歩兵 ほへい 連隊 れんたい の軍楽隊 ぐんがくたい 連隊 れんたい 毎 ごと に帽子 ぼうし の飾 かざ り羽 わ が異 こと なる
イギリス では現在 げんざい でも、バッキンガム宮殿 きゅうでん やウィンザー城 じょう 等 ひとし において英国 えいこく 陸軍 りくぐん の近衛 このえ 兵 へい が衛兵 えいへい 勤務 きんむ に就 つ いている。衛兵 えいへい は直立 ちょくりつ 不動 ふどう の姿勢 しせい で警衛 けいえい を行 おこな い、衛兵 えいへい 交代 こうたい 式 しき は観光 かんこう 名所 めいしょ の一 ひと つである。歩兵 ほへい 部隊 ぶたい の正装 せいそう は赤 あか い上着 うわぎ に熊 くま の毛皮 けがわ の帽子 ぼうし (Bearskin )で有名 ゆうめい であり、連隊 れんたい によって制服 せいふく のボタンの配列 はいれつ と帽子 ぼうし の飾 かざ りに差異 さい がある。騎兵 きへい 部隊 ぶたい はジャケットの色 いろ が連隊 れんたい により異 こと なる。
これらイギリス陸軍 りくぐん 所属 しょぞく の近衛 このえ 連隊 れんたい の他 ほか に、儀式 ぎしき の際 さい に国王 こくおう ・女王 じょおう の護衛 ごえい を務 つと める主権 しゅけん 者 しゃ 警護 けいご 隊 たい (Sovereign's Bodyguard)と呼 よ ばれる部隊 ぶたい が存在 そんざい する。
スウェーデン王国 おうこく においても近衛 このえ 兵 へい が王宮 おうきゅう を警護 けいご している。その創始 そうし は、スウェーデン が独立 どくりつ した16世紀 せいき に起源 きげん を持 も つ。かつてはスウェーデン君主 くんしゅ の近衛 このえ としてのスウェーデン軍 ぐん 戦闘 せんとう 部隊 ぶたい の一 ひと つだった。
18世紀 せいき のスウェーデン王 おう グスタフ3世 せい は、近衛 このえ 連隊 れんたい を用 もち いクーデター を起 お こしている(1772年 ねん )。
現在 げんざい のスウェーデンの近衛 このえ 兵 へい は、一般 いっぱん 的 てき な近衛 このえ 連隊 れんたい と、主 おも に王室 おうしつ と宮殿 きゅうでん を警護 けいご する近衛 このえ 兵 へい がある。
現代 げんだい のロシア連邦 れんぽう では、ソビエト連邦 れんぽう 時代 じだい から、戦時 せんじ に卓越 たくえつ した戦果 せんか を挙 あ げた部隊 ぶたい 、平時 へいじ の演習 えんしゅう ・訓練 くんれん 時 じ に優 すぐ れた成績 せいせき を収 おさ めた部隊 ぶたい (艦艇 かんてい )に対 たい して、親衛 しんえい (гвардейский )の称号 しょうごう が授与 じゅよ されている。ただし、これは部隊 ぶたい 名誉 めいよ 称号 しょうごう でしかなく、制度 せいど 上 じょう のいかなる優遇 ゆうぐう 措置 そち もないが、親衛 しんえい 部隊 ぶたい (艦艇 かんてい )配属 はいぞく の将校 しょうこう の階級 かいきゅう 呼称 こしょう には、「親衛 しんえい 」(гвардия )の文字 もじ が付 つ く(例 たと えば、親衛 しんえい 少佐 しょうさ (майор гвардии )等 とう )。
ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい 後 のち に行 おこな われた軍縮 ぐんしゅく では、新参 しんざん の部隊 ぶたい が廃止 はいし され、輝 かがや かしい戦歴 せんれき を有 ゆう する部隊 ぶたい が残 のこ される傾向 けいこう が強 つよ く、必然 ひつぜん 的 てき に現在 げんざい のロシア連邦 れんぽう 軍 ぐん では、「親衛 しんえい 」部隊 ぶたい の割合 わりあい が大 おお きくなっている。
クレムリン の警備 けいび は、ロシア連邦 れんぽう 警護 けいご 庁 ちょう の大統領 だいとうりょう 連隊 れんたい (旧 きゅう クレムリン連隊 れんたい )が担当 たんとう している。
オスマン帝国 ていこく のスルタン の身辺 しんぺん 警護 けいご の兵 へい にはいくつかのタイプがあった。
スルタンの身辺 しんぺん には普段 ふだん から、選 え りすぐりの兵 へい が2名 めい 一 いち 組 くみ で仕 つか えており、剣 けん で武装 ぶそう していたが、今 いま でいう「ボディーガード」のような役割 やくわり も果 は たしており、スルタンになにか危険 きけん が迫 せ れば、たとえば弓矢 ゆみや で狙 ねら われたりしたらとっさに自分 じぶん の身 み を挺 てい して自分 じぶん の命 いのち とひきかえにスルタンを護 まも ることもいとわなかった。鮮 あざ やかな紅色 こうしょく の服 ふく と、紅色 こうしょく の布 ぬの が垂 しだ れた帽子 ぼうし をかぶっているのが目印 めじるし である。(歴史 れきし ドラマ『オスマン帝国 ていこく 外伝 がいでん 〜愛 あい と欲望 よくぼう のハレム〜 』では第 だい 10代皇帝 こうてい スレイマン1世 せい とその家族 かぞく の人生 じんせい を描 えが いているが、下 した の絵 え そっくりの、真 ま っ赤 か な服 ふく を着 き た兵 へい がたびたび登場 とうじょう する。)
またボスタンチ (トルコ語 ご :tr:Bostancı )と分類 ぶんるい される護衛 ごえい 兵 へい もおり、ボスタンチは主 おも にスルタンの宮殿 きゅうでん (たとえばトプカプ宮殿 きゅうでん など)とその敷地 しきち を護 まも る任務 にんむ を帯 お びていた。もともと「ボスタンチ」は「庭師 にわし 」といった意味 いみ の言葉 ことば だった。ボスタンチは宮殿 きゅうでん の警備 けいび を担当 たんとう するだけでなく、スルタンのはしけ も漕 こ いだ。ボスタンチのリーダーはパシャ の階級 かいきゅう に属 ぞく した(つまり、リーダーはいわば「大臣 だいじん クラス」だった)。ボスタンチは多 おお い時代 じだい には3000名 めい ほどいた。兵役 へいえき 時 じ には、帝国 ていこく の別 べつ の護衛 ごえい 軍団 ぐんだん イェニチェリ(次 つぎ に説明 せつめい )と連携 れんけい して活動 かつどう した。いざ戦争 せんそう となると、ボスタンチ1人 ひとり で普通 ふつう の兵 へい の数 すう 名分 めいぶん の強 つよ さだったという。20世紀 せいき 初頭 しょとう にはボスタンチの数 かず は600人 にん ほどに減 へ っていた。
またスルタン直属 ちょくぞく の軍隊 ぐんたい の中 なか では、旧来 きゅうらい の剣 けん などの武器 ぶき の軍隊 ぐんたい とは別 べつ に、新 あら たに火器 かき で武装 ぶそう した最 さい 精鋭 せいえい 常備 じょうび 歩兵 ほへい 軍団 ぐんだん のイエニチェリ が創 つく られた。スルタン直属 ちょくぞく の主力 しゅりょく 軍団 ぐんだん として原則 げんそく 的 てき に首都 しゅと イスタンブールにある兵営 へいえい に住 す まわされ、スルタンの「おひざもと」の首都 しゅと イスタンブールを護 まも る役割 やくわり を与 あた えられていた。妻帯 さいたい は禁 きん じられたが、高 たか い俸給 ほうきゅう を与 あた えられ免税 めんぜい などの特権 とっけん も享受 きょうじゅ した。(イエニチェリは強力 きょうりょく な部隊 ぶたい だったが、スルタンの身辺 しんぺん 警護 けいご や首都 しゅと 警護 けいご だけでなく首都 しゅと 以外 いがい の各 かく 都市 とし にも配備 はいび され組織 そしき が拡大 かくだい するにつれ反乱 はんらん なども起 お こすようになった。)
スルタン の
身辺 しんぺん 警護 けいご の
兵 へい 。2
名 めい 一 いち 組 くみ で
警護 けいご した。
ボスタンチ
始皇帝 しこうてい (紀元前 きげんぜん 259年 ねん - 紀元前 きげんぜん 210年 ねん )も近衛 このえ 兵 へい をたずさえていたことが知 し られている。「あの世 よ 」でも近衛 このえ 軍団 ぐんだん をしたがえるつもりだったのか、壮大 そうだい な兵馬 へいば 俑 (秦 はた 始皇帝 しこうてい 陵 りょう 兵馬 へいば 俑坑 )を残 のこ した。兵馬 へいば 俑の軍人 ぐんじん たちは、実際 じっさい に始皇帝 しこうてい に仕 つか えた実在 じつざい の軍人 ぐんじん ひとりひとりを再現 さいげん するように作 つく られた、といわれている。
隋 ずい 朝 あさ (581年 ねん - 618年 ねん )では禁 きん 軍 ぐん (近衛 このえ 軍 ぐん )として、十 じゅう 二 に 衛 まもる が置 お かれた。2代 だい 皇帝 こうてい ・煬帝 は宇文 うぶん 化 か 及 らが率 ひき いる禁 きん 軍 ぐん によって殺害 さつがい された。
唐 から 朝 あさ (618年 ねん - 907年 ねん )では禁 きん 軍 ぐん (近衛 このえ 軍 ぐん )として、皇帝 こうてい を護衛 ごえい する北 きた 衙禁軍 ぐん (左右 さゆう 羽林 はばやし 軍 ぐん ・左右 さゆう 龍 りゅう 武 たけし 軍 ぐん ・左右 さゆう 神武 じんむ 軍 ぐん ・左右 さゆう 神 しん 策 さく 軍 ぐん )と首都 しゅと を警備 けいび する十 じゅう 二 に 衛 まもる が置 お かれた。この他 ほか に皇太子 こうたいし を護衛 ごえい する六 ろく 率 りつ 府 ふ もあった。
明朝 みょうちょう では、首都 しゅと に駐屯 ちゅうとん する京 きょう 軍 ぐん のうち上 うえ 十 じゅう 二 に 衛 まもる を侍 さむらい 衛 まもる 親 おや 軍 ぐん (近衛 このえ 軍 ぐん )とした。永楽 えいらく 帝 みかど は禁 きん 軍 ぐん を増強 ぞうきょう し、侍 さむらい 衛 まもる 親 おや 軍 ぐん は12衛 まもる から22衛 まもる に増強 ぞうきょう したほか、投降 とうこう したタタール 人 ひと を基盤 きばん に編成 へんせい した騎兵 きへい 部隊 ぶたい である三 さん 千 せん 営や火器 かき を運用 うんよう する部隊 ぶたい である神 かみ 機 き 営を設置 せっち した。
清朝 せいちょう では、領 りょう 侍 さむらい 衛 まもる 府 ふ が紫 むらさき 禁城 きんじょう の警備 けいび を担任 たんにん した。そのほか、北京 ぺきん 八 はち 旗 はた が警備 けいび に当 あ たった。
現代 げんだい ・中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく [ 編集 へんしゅう ]
中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい の施設 しせつ 警備 けいび や要人 ようじん 警護 けいご は中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 中央 ちゅうおう 弁 べん 公 おおやけ 庁 ちょう 警衛 けいえい 局 きょく が担当 たんとう している。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう [ 編集 へんしゅう ]
李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい に禁 きん 軍 ぐん (近衛 このえ 軍 ぐん )として禁衛 きんえい 営、御 ご 営庁、訓 くん 錬 ね 都 と 監 かん が設置 せっち され、王宮 おうきゅう の警備 けいび のため内 うち 禁衛 きんえい や武芸 ぶげい 庁 ちょう が置 お かれた。
孝 こう 宗 むね の代 だい に内 うち 禁衛 きんえい は他 た の王宮 おうきゅう 警備 けいび 組織 そしき と統合 とうごう されて内 うち 三 さん 庁 ちょう となり、その後 ご 、紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ て龍虎 りゅうこ 営となった。武芸 ぶげい 庁 ちょう は李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 末期 まっき に武 たけ 衛 まもる 所 しょ に統合 とうごう された。
李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 末期 まっき に、禁 きん 軍 ぐん は大幅 おおはば に再編 さいへん され、武 たけ 衛 まもる 所 しょ 、訓 くん 錬 ね 都 と 監 かん 、扈衛庁 ちょう が統合 とうごう され武 たけ 衛 まもる 営に、禁衛 きんえい 営、総 そう 衛 まもる 営、御 ご 営庁、龍虎 りゅうこ 営を再編 さいへん して親 おや 軍 ぐん 3営となった。
李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 時代 じだい に行 おこな われていた王宮 おうきゅう 守門 すもん 軍 ぐん の交代 こうたい の儀式 ぎしき を再現 さいげん したという王宮 おうきゅう 守門 すもん 将 すすむ 交代 こうたい 儀式 ぎしき が、観光 かんこう スポットとなっている。
1907年 ねん (隆 りゅう 熙元年 がんねん )軍隊 ぐんたい 解散 かいさん にともない近衛 このえ 歩 あゆみ 兵隊 へいたい 及 およ び近衛 このえ 騎兵隊 きへいたい が置 お かれる。1909年 ねん 7月 がつ 30日 にち に宮中 きゅうちゅう に親衛 しんえい 府 ふ が設置 せっち される。近衛 このえ 歩 あゆみ 兵隊 へいたい 及 およ び近衛 このえ 騎兵隊 きへいたい は、日 にち 韓 かん 併合 へいごう 後 ご も存続 そんぞく して朝鮮 ちょうせん 歩兵 ほへい 隊 たい ・朝鮮 ちょうせん 騎兵隊 きへいたい として1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )まで韓国 かんこく 近衛 このえ 兵 へい の栄誉 えいよ を守 まも る。
日本 にっぽん 統治 とうち 下 か の朝鮮 ちょうせん [ 編集 へんしゅう ]
韓国 かんこく 併合 へいごう 後 ご 、日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の朝鮮 ちょうせん において旧 きゅう 大韓 たいかん 帝国 ていこく 軍人 ぐんじん でなお在職 ざいしょく 中 ちゅう の者 もの は、1911年 ねん 制定 せいてい の「朝鮮 ちょうせん 軍人 ぐんじん ニ関 せき スル件 けん 」(明治 めいじ 44年 ねん 勅 みことのり 令 れい 第 だい 36号 ごう )の定 さだ めるところにより、同 どう 階級 かいきゅう の陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん に相当 そうとう するものとされ、一般 いっぱん の朝鮮 ちょうせん 軍人 ぐんじん は、朝鮮 ちょうせん 駐箚 ちゅうさつ 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ 又 また は朝鮮 ちょうせん 駐箚 ちゅうさつ 憲兵 けんぺい 隊 たい 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ とされた。
ところが、先 さき に設 もう けられていた韓国 かんこく 近衛 このえ 歩 あゆみ 兵隊 へいたい 及 およ び近衛 このえ 騎兵隊 きへいたい は、朝鮮 ちょうせん 駐箚 ちゅうさつ 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ 又 また は朝鮮 ちょうせん 駐箚 ちゅうさつ 憲兵 けんぺい 隊 たい 司令 しれい 部 ぶ 附 ふ とされるのではなく、朝鮮 ちょうせん 歩兵 ほへい 隊 たい ・朝鮮 ちょうせん 騎兵隊 きへいたい と改称 かいしょう されたのみで、そのまま李 り 王家 おうけ と昌徳 まさのり 宮 みや 警護 けいご のために存続 そんぞく されることになった。これらの部隊 ぶたい は、「近衛 このえ 」の語 かたり こそ使 つか わないものの、朝鮮 ちょうせん 人 じん によって構成 こうせい されるもので、李 り 王家 おうけ の事実 じじつ 上 じょう の近衛 このえ 兵 へい である。但 ただ し、儀礼 ぎれい 的 てき な役割 やくわり を担 にな うものに過 す ぎないことや、同様 どうよう の任務 にんむ は一般 いっぱん の陸 りく 海軍 かいぐん 及 およ び朝鮮 ちょうせん 総督 そうとく 府 ふ 警察 けいさつ によって充分 じゅうぶん に担 にな えることから財政 ざいせい 負担 ふたん の軽減 けいげん のため、1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )3月 がつ に朝鮮 ちょうせん 騎兵隊 きへいたい が廃止 はいし され、また朝鮮 ちょうせん 歩兵 ほへい 隊 たい の規模 きぼ を2個 こ 中隊 ちゅうたい 324名 めい の定員 ていいん とされた。1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )に朝鮮 ちょうせん 歩兵 ほへい 隊 たい を202名 めい の定員 ていいん とする。1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )には朝鮮 ちょうせん 歩兵 ほへい 隊 たい も廃止 はいし された。
元来 がんらい 、大王 だいおう 家 か と並 なら ぶ氏族 しぞく であった臣 しん 系 けい 豪族 ごうぞく と違 ちが い、連 れん 系 けい の豪族 ごうぞく は古 ふる くより大王 だいおう 家 か に仕 つか えてきた言 い わば譜代 ふだい の氏族 しぞく であって、大王 だいおう 家 か からの信頼 しんらい も厚 あつ く、特 とく に大伴 おおとも 氏 し や物部 ものべ 氏 し などは軍 ぐん の中核 ちゅうかく であると同時 どうじ に、近衛 このえ 兵 へい 的 てき な役割 やくわり を担 にな ってきたと考 かんが えられている。
5世紀 せいき 又 また は6世紀 せいき 頃 ごろ に舎人 とねり の制度 せいど が確立 かくりつ した。屯 たむろ 倉 くら が集中 しゅうちゅう し大王 だいおう 家 か の経済 けいざい 的 てき ・軍事 ぐんじ 的 てき 基盤 きばん となっていた東国 とうごく の国造 くにのみやつこ の子弟 してい を中核 ちゅうかく として、大王 だいおう 家 か に従属 じゅうぞく する舎人 とねり は大伴 おおとも 氏 し ・物部 ものべ 氏 し の軍 ぐん よりも更 さら に大王 だいおう 親衛 しんえい 軍 ぐん の側面 そくめん が強 つよ かった。舎人 とねり は後 のち に、身辺 しんぺん 警護 けいご は中務 なかつかさ 省 しょう の内 うち 舎人 とねり (うどねり)に、直轄 ちょっかつ 軍事 ぐんじ 力 りょく は兵衛 ひょうえ 府 ふ (つはものとねり)に引 ひ き継 つ がれる。
靫 うつぼ 負 まけ は西国 さいこく の国造 くにのみやつこ の子弟 してい を中核 ちゅうかく として、宮城 みやぎ 門 もん の守衛 しゅえい に当 あ たる軍 ぐん である。
また、門部 かとべ (かどべ)とは、宮城 みやぎ 門 もん を守衛 しゅえい する伴 とも 部 ぶ のこと。宮城 みやぎ 門 もん にはその門 もん の守衛 しゅえい を担 にな う門 もん 部 ぶ の名 な が冠 かん せられてきたが、818年 ねん (弘 ひろし 仁 ひとし 9年 ねん )に殿 しんがり 門 もん 改号 かいごう が行 おこな われて、唐風 とうふう 門 もん 号 ごう へ変更 へんこう される。
中務 なかつかさ 省 しょう に属 ぞく する内 うち 舎人 とねり (うどねり)が、天皇 てんのう の最 さい 側近 そっきん で身辺 しんぺん 警護 けいご にあたり、帯刀 たいとう 宿衛 しゅくえい 、供奉 ぐぶ 雑 ざつ 使 し 、駕 が 行 ぎょう 時 じ の護衛 ごえい も行 おこな った。
日本 にっぽん の律令制 りつりょうせい においては、5つの衛 まもる 府 ふ (えふ)が設置 せっち されたが、後 のち に整理 せいり ・再 さい 編成 へんせい が行 おこな われた。
衛門 えもん 府 ふ (えもんふ・ゆげいのつかさ)
太古 たいこ より宮城 みやぎ の門 もん の警備 けいび を担 にな ってきた氏族 しぞく である靫 うつぼ 負 まけ の伝統 でんとう を受 う け継 つ ぐ門 もん 部 ぶ を中核 ちゅうかく として併 あわ せて衛士 えじ も配属 はいぞく する。衛門 えもん 府 ふ と称 しょう せられた。職掌 しょくしょう は宮門 きゅうもん を守衛 しゅえい し通行 つうこう 者 しゃ を検察 けんさつ する。758年 ねん (天平 てんぴょう 宝 たから 字 じ 2年 ねん ・淳仁天皇 じゅんにんてんのう )に、藤原仲麻呂 ふじわらのなかまろ による官 かん 号 ごう の唐 から 風化 ふうか の一環 いっかん として司 つかさ 門衛 もんえい と改称 かいしょう したが、藤原仲麻呂 ふじわらのなかまろ 失脚 しっきゃく 後 ご の764年 ねん (称 しょう 徳 とく 天皇 てんのう )に再度 さいど 、衛門 えもん 府 ふ に改称 かいしょう される。808年 ねん (大同 だいどう 3年 ねん )に左右 さゆう 衛士 えじ 府 ふ に統合 とうごう された。
職員 しょくいん は以下 いか の通 とお り
また衛士 えじ 府 ふ に併合 へいごう されるまでは被官 ひかん として
を有 ゆう した。(その後 ご は兵部 ひょうぶ 省 しょう に移管 いかん )
左右 さゆう 衛士 えじ 府 ふ (えじふ)
衛士 えじ を中核 ちゅうかく とする。衛士 えじ は農民 のうみん 出身 しゅっしん 者 しゃ によって構成 こうせい されるため、人員 じんいん が多 おお い。大内裏 だいだいり の庁舎 ちょうしゃ を警備 けいび し京 きょう 内 ない の夜間 やかん 警衛 けいえい を主 おも な職掌 しょくしょう とした。758年 ねん (天平 てんぴょう 宝 たから 字 じ 2・淳仁天皇 じゅんにんてんのう )の官 かん 号 ごう の唐 から 風化 ふうか の一環 いっかん として司 つかさ 左右 さゆう 勇士 ゆうし 衛 まもる と改称 かいしょう されたが、764年 ねん に再度 さいど 、左右 さゆう 衛士 えじ 府 ふ となった。808年 ねん に廃止 はいし された衛門 えもん 府 ふ を統合 とうごう し、811年 ねん (弘 ひろし 仁 ひとし 2年 ねん )左右 さゆう 衛士 えじ 府 ふ を左右 さゆう 衛門 えもん 府 ふ と改称 かいしょう した。
職員 しょくいん は以下 いか の通 とお り
左右 さゆう 兵衛 ひょうえ 府 ふ (ひょうえふ・つはものとねり)
兵舎 へいしゃ 人 じん (つわものとねり)の伝統 でんとう を受 う け継 つ ぐ。舎人 とねり は旧 きゅう 国造 くにのみやつこ 家 いえ の子弟 してい からなるため、皇室 こうしつ 直轄 ちょっかつ の軍事 ぐんじ 力 りょく として重視 じゅうし された。五 ご 衛 まもる 府 ふ 時代 じだい には衛 まもる 府 ふ の中 なか で最 もっと も天皇 てんのう に近 ちか い位置 いち で警護 けいご する。令 れい 制 せい では上級 じょうきゅう 官 かん 人 じん の子弟 してい からとられた兵衛 ひょうえ が中核 ちゅうかく であった。後世 こうせい まで存続 そんぞく したが近衛府 このえふ (後述 こうじゅつ )の成立 せいりつ で次第 しだい に重要 じゅうよう 性 せい は低下 ていか した。
職員 しょくいん は以下 いか の通 とお り
令 れい 外 そと 官 かん の三 さん 衛 まもる 府 ふ は令 れい 制 せい 五 ご 衛 まもる 府 ふ より官位 かんい が高 たか かった。
授刀舎人 とねり 寮 りょう ・中 なか 衛 まもる 府 ふ
707年 ねん (慶 けい 雲 くも 4年 ねん ・元明 もとあき 天皇 てんのう )に授刀舎人 とねり 寮 りょう を置 お く。728年 ねん (神 かみ 亀 かめ 5年 ねん ・聖武天皇 しょうむてんのう )に中 なか 衛 まもる 府 ふ (ちゅうえふ)と改組 かいそ され、807年 ねん (大同 だいどう 2年 ねん )に右 みぎ 近衛府 このえふ と改組 かいそ ・改称 かいしょう されたといわれる。(下記 かき 参照 さんしょう )藤原 ふじわら 氏 し の権力 けんりょく 強化 きょうか の一環 いっかん とされ、五 ご 衛 まもる 府 ふ に比 くら べて官位 かんい 相当 そうとう はやや高 たか い。
中 なか 衛 まもる 府 ふ の職員 しょくいん は以下 いか の通 とお り
大将 たいしょう
中将 ちゅうじょう 少将 しょうしょう
将 はた 監 かん
将 はた 曹
中 なか 衛 まもる 舎人 とねり (授刀舎人 とねり を改称 かいしょう )
医師 いし
使 つかい 部 ぶ
直 ちょく 丁 ひのと
授刀衛 まもる
746年 ねん (天平 てんぴょう 18年 ねん )に中 なか 衛 まもる 府 ふ に設置 せっち されていた騎兵 きへい の騎 き 舎人 とねり が授刀舎人 とねり と改称 かいしょう される。元 もと は皇太子 こうたいし 阿倍 あべ 内親王 ないしんのう (孝 こう 謙 けん 天皇 てんのう )を警護 けいご する目的 もくてき であったと言 い われている。759年 ねん (天平 てんぴょう 宝 たから 字 じ 3年 ねん )に授刀衛 まもる を設置 せっち して授刀舎人 とねり を管轄 かんかつ させた。設置 せっち 経緯 けいい から孝 こう 謙 けん 天皇 てんのう (上皇 じょうこう )との関係 かんけい が強 つよ く、藤原仲麻呂 ふじわらのなかまろ の乱 らん (恵美押勝 えみのおしかつ の乱 らん ) では上皇 じょうこう 方 かた の主力 しゅりょく となり、勝利 しょうり 後 ご にはその地位 ちい は強化 きょうか された。765年 ねん (天平 てんぴょう 神護 かんご 元年 がんねん )には授刀衛 まもる が近衛府 このえふ に改組 かいそ され、807年 ねん (大同 だいどう 2年 ねん )には左 ひだり 近衛府 このえふ と改称 かいしょう された。(下記 かき 参照 さんしょう )
外 そと 衛 まもる 府 ふ (がいえふ)
765年 ねん (天平 てんぴょう 神護 かんご 元年 がんねん )2月 がつ に設置 せっち された。772年 ねん (宝亀 ほうき 3年 ねん )に外 そと 衛 まもる 府 ふ を廃止 はいし して、近衛 このえ ・中 なか 衛 まもる ・左右 さゆう 兵衛 ひょうえ に分配 ぶんぱい された。
左右 さゆう 近衛府 このえふ (このえふ・おほきちかきまもりのつかさ)[ 編集 へんしゅう ]
(「近衛府 このえふ 」も参照 さんしょう のこと)
六 ろく 衛 まもる 府中 ふちゅう では天皇 てんのう の最 さい 側近 そっきん で警護 けいご した。授刀衛 まもる と中 なか 衛 まもる 府 ふ が改組 かいそ されて成立 せいりつ した。初期 しょき には警備 けいび 機関 きかん としてその後 ご は儀式 ぎしき ・余興 よきょう 実施 じっし (相撲 すもう など)において重要 じゅうよう となった。栄誉 えいよ 職 しょく として後世 こうせい まで存続 そんぞく した。
職員 しょくいん は以下 いか の通 とお り(この他 た 、儀礼 ぎれい 進行 しんこう 役 やく として人 ひと 長 ちょう や駕輿丁 かよちょう などがいる)
左右 さゆう 兵衛 ひょうえ 府 ふ (ひょうえふ)[ 編集 へんしゅう ]
上記 じょうき 参照 さんしょう
左右 さゆう 衛門 えもん 府 ふ (えもんふ)[ 編集 へんしゅう ]
左右 さゆう 衛士 えじ 府 ふ を改組 かいそ ・改称 かいしょう して発足 ほっそく 。宮城 みやぎ 外郭 がいかく を警備 けいび することが職掌 しょくしょう 。検非違使 けびいし 庁 ちょう は当初 とうしょ 衛門 えもん 府内 ふない に設置 せっち され衛門 えもん 府 ふ 官 かん 人 じん が兼務 けんむ した。後 のち に職掌 しょくしょう は検非違使 けびいし ・武家 ぶけ に奪 うば われる。
職員 しょくいん は以下 いか の通 とお り
六 ろく 衛 まもる 府 ふ 以外 いがい [ 編集 へんしゅう ]
隼人 はやと 司 し
隼人 はやと の祖 そ である火照 ほて 命 いのち が大王 だいおう の祖 そ である彦火火 ひ 出 で 見 み 尊 みこと に臣従 しんじゅう (山 やま 幸彦 さちひこ と海 うみ 幸彦 さちひこ )して以来 いらい 、隼人 はやと は天皇 てんのう の警護 けいご に当 あ たるものとされてきた。隼人 はやと 司 し はこの任 にん に当 あ たる隼人 はやと を管理 かんり する。当初 とうしょ 衛門 えもん 府 ふ の被官 ひかん であったがいったん廃止 はいし された後 のち に兵部 ひょうぶ 省 しょう の管轄 かんかつ に移 うつ る。ただし奈良 なら 時代 じだい 以降 いこう は舞楽 ぶがく (隼人 はやと 舞 まい )の教習 きょうしゅう や竹 たけ 製品 せいひん の製作 せいさく に重点 じゅうてん が置 お かれ宮中 きゅうちゅう 警備 けいび に重用 じゅうよう されなくなった。
内 うち 舎人 とねり
中務 なかつかさ 省 しょう に属 ぞく する。
内 うち 豎省 ・内 うち 豎所
令 れい 外 そと 官 かん 。天皇 てんのう の護衛 ごえい
大内 おおうち 守護 しゅご
滝口 たきぐち 武者 むしゃ を統括 とうかつ ・指揮 しき 。
滝口 たきぐち
寛平 かんぺい 年間 ねんかん に射 い 芸 げい に長 なが じた者 もの を選抜 せんばつ して創設 そうせつ 。蔵人所 くろうどどころ に属 ぞく して御所 ごしょ の警衛 けいえい にあたる。
帯刀 たいとう 舎人 とねり (たちはきのとねり)
春宮 とうぐう 坊 ぼう に属 ぞく して皇太子 こうたいし の警衛 けいえい にあたる。
武士 ぶし 等 とう による御所 ごしょ 警備 けいび [ 編集 へんしゅう ]
以下 いか は御所 ごしょ を警備 けいび したが、近衛 このえ 兵 へい ではなく部署 ぶしょ 長 ちょう に相当 そうとう する。
御 ご 親 おや 兵 へい
1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )2月 がつ に出 だ された御 ご 親 おや 兵 へい 召集 しょうしゅう の命令 めいれい に応 おう じて、薩摩 さつま 藩 はん 、長州 ちょうしゅう 藩 はん 、土佐 とさ 藩 はん の三 さん 藩 はん から差 さ し出 だ された6000人 にん ~10000人 にん の兵 へい によって、政府 せいふ 直轄 ちょっかつ の御 ご 親 おや 兵 へい が置 お かれる[3] 。この兵力 へいりょく を背景 はいけい に、廃藩置県 はいはんちけん が行 おこな われる。1871年 ねん 9月3日 にち には、「兵部 ひょうぶ 大 だい 少 しょう 輔御 ご 親 おや 兵 へい 少佐 しょうさ 以上 いじょう ヘ勅語 ちょくご 」が下 くだ され励精尽力 じんりょく が命 めい ぜられる。
内 うち 舎人 とねり (うどねり)
明治維新 めいじいしん 以降 いこう 、旧 きゅう 江戸城 えどじょう の跡地 あとち に宮城 みやぎ (皇居 こうきょ )が置 お かれ、大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん に近衛 このえ 師団 しだん 、次 つ いで宮 みや 内省 ないせい に皇宮警察 こうぐうけいさつ が創設 そうせつ されたが、天皇 てんのう ・皇族 こうぞく の身辺 しんぺん 警護 けいご は宮 みや 内省 ないせい 侍従 じじゅう 職 しょく に所属 しょぞく する内 うち 舎人 とねり が担当 たんとう した。
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )、皇宮警察 こうぐうけいさつ の侍 さむらい 衛 まもる 官 かん が天皇 てんのう ・皇族 こうぞく の身辺 しんぺん 警護 けいご を担当 たんとう することになり、警護 けいご 担当 たんとう の内 うち 舎人 とねり には皇宮 こうぐう 護衛 ごえい 官 かん としての身分 みぶん が付与 ふよ された。
近衛 このえ ・近衛 このえ 師団 しだん
1872年 ねん (明治 めいじ 5年 ねん )2月 がつ に「近衛 このえ 条例 じょうれい 」を制定 せいてい して、天皇 てんのう に直 ちょく 隷する近衛 このえ 都 と 督 とく の下 した 、壮 たけし 兵 へい からなる近衛 このえ 兵 へい を創設 そうせつ した。1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )1月 がつ に制定 せいてい された徴兵 ちょうへい 令 れい に基 もと づく徴兵 ちょうへい は鎮台 ちんだい にのみ配備 はいび されることとなり、近衛 このえ の壮 たけし 兵制 へいせい は維持 いじ された。1878年 ねん (明治 めいじ 11年 ねん )に近衛 このえ 砲兵 ほうへい の一部 いちぶ が騒動 そうどう を起 お こす(竹橋 たけばし 事件 じけん )。近衛 このえ 都 と 督 とく は、初代 しょだい が山縣 やまがた 有朋 ありとも 、2代 だい が西郷 さいごう 隆盛 たかもり であった。
1880年 ねん の「明治 めいじ 13年 ねん 10月5日 にち 達 いたる 乙 おつ 第 だい 62号 ごう 」による改正 かいせい 後 ご の「近衛 このえ 条例 じょうれい 」によると、近衛 このえ 兵 へい は、専 もっぱ ら輦下を護衛 ごえい し、特旨 とくし によらない限 かぎ り、他 た の徴発 ちょうはつ に応 おう じるものではない。上 うえ 旨 むね を奉戴 ほうたい し、千軍万馬 せんぐんばんば の中 なか といえども、整 せい 々独歩 どっぽ の勇 いさみ を持 も ち、平常 へいじょう にあっては信義 しんぎ を本 ほん とし、先進 せんしん を敬 うやま い、後進 こうしん を教導 きょうどう し、全国 ぜんこく 諸 しょ 兵 へい の模範 もはん となることが求 もと められた。(近衛 このえ 参照 さんしょう )
その後 ご 、1890年 ねん 3月25日 にち に近衛 このえ 司令 しれい 部 ぶ 条例 じょうれい (明治 めいじ 23年 ねん 3月 がつ 25日 にち 勅 みことのり 令 れい 第 だい 46号 ごう )が制定 せいてい され、原則 げんそく として、近衛 このえ 都 と 督 とく の職務 しょくむ 権限 けんげん は師団 しだん 長 ちょう と同一 どういつ となった。更 さら に、1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )12月12日 にち に近衛 このえ も師団 しだん 制 せい を採用 さいよう して近衛 このえ 師団 しだん となる。近衛 このえ 師団 しだん に改編 かいへん 後 ご の詳細 しょうさい は近衛 このえ 師団 しだん 参照 さんしょう 。
門部 かとべ ・皇宮警察 こうぐうけいさつ
竹橋 たけばし 事件 じけん により、近衛 このえ 兵 へい 以外 いがい の宮城 みやぎ 警備 けいび 組織 そしき として宮 みや 内省 ないせい に、古代 こだい の宮城 みやぎ 門 もん を守衛 しゅえい した伴 とも 部 ぶ の称 しょう を復活 ふっかつ し「門部 かとべ 」を設置 せっち した。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )、門部 かとべ は皇宮警察 こうぐうけいさつ に改編 かいへん された。皇宮警察 こうぐうけいさつ は主 おも に宮殿 きゅうでん 屋内 おくない の警衛 けいえい と防火 ぼうか ・消防 しょうぼう を担当 たんとう した。
大正 たいしょう 時代 じだい には天皇 てんのう 及 およ びその他 た の皇族 こうぞく の警護 けいご を強化 きょうか するため、全国 ぜんこく の警察 けいさつ から文武両道 ぶんぶりょうどう に秀 ひい でた警部 けいぶ や警部補 けいぶほ を集 あつ め特別 とくべつ 警衛 けいえい 掛 かけ が設置 せっち された。やがて特別 とくべつ 警衛 けいえい 掛 かけ は、来日 らいにち した国賓 こくひん の身辺 しんぺん 警護 けいご も担当 たんとう するようになった。
禁衛 きんえい 府 ふ
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の日本 にっぽん の降伏 ごうぶく による終戦 しゅうせん に伴 ともな い、陸軍 りくぐん 近衛 このえ 師団 しだん と皇宮警察 こうぐうけいさつ を統合 とうごう して、宮 みや 内省 ないせい に禁衛 きんえい 府 ふ が発足 ほっそく 。近衛 このえ 師団 しだん は禁衛 きんえい 府 ふ 皇宮 こうぐう 衛士 えじ 総 そう 隊 たい に、皇宮警察 こうぐうけいさつ は禁衛 きんえい 府 ふ 皇宮警察 こうぐうけいさつ 部 ぶ に改組 かいそ される。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )に、GHQ の命令 めいれい で解体 かいたい された。
陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい では、第 だい 32普通 ふつう 科 か 連隊 れんたい が旧 きゅう 陸軍 りくぐん の近衛 このえ 歩兵 ほへい 連隊 れんたい にちなんで「近衛 このえ 連隊 れんたい 」を自称 じしょう している[4] [5] 。
皇宮警察 こうぐうけいさつ の警察 けいさつ への移管 いかん
禁衛 きんえい 府 ふ は解体 かいたい されたものの、禁衛 きんえい 府 ふ 皇宮警察 こうぐうけいさつ 部 ぶ のみ皇宮警察 こうぐうけいさつ 署 しょ として分離 ぶんり して存続 そんぞく する。1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )末 まつ に宮 みや 内省 ないせい から内務省 ないむしょう に移管 いかん され、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )には警視庁 けいしちょう 皇宮警察 こうぐうけいさつ 部 ぶ として移管 いかん される。旧 きゅう 警察 けいさつ 法 ほう の施行 しこう に伴 ともな い、1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )3月 がつ に国家 こっか 地方 ちほう 警察 けいさつ 本部 ほんぶ に移管 いかん され皇宮警察 こうぐうけいさつ 府 ふ とされたが、6月 がつ には皇宮警察 こうぐうけいさつ 局 きょく と再 ふたた び改称 かいしょう される。1954年 ねん (昭和 しょうわ 29年 ねん )に現在 げんざい の警察 けいさつ 法 ほう が施行 しこう されるに伴 ともな い、警察庁 けいさつちょう の附属 ふぞく 機関 きかん となり、現在 げんざい の「警察庁 けいさつちょう 皇宮警察 こうぐうけいさつ 本部 ほんぶ 」と改称 かいしょう される。英名 えいめい は近衛 このえ 兵 へい を意味 いみ する「Imperial Guard 」である。皇宮警察 こうぐうけいさつ の紋章 もんしょう は五 ご 三 さん の桐 きり である。
1956年 ねん の「昭和 しょうわ 31年 ねん 12月19日 にち 国家 こっか 公安 こうあん 委員 いいん 会 かい 規則 きそく 第 だい 5号 ごう 」の「皇宮 こうぐう 護衛 ごえい 官 かん の服 ふく 制 せい に関 かん する規則 きそく 」により、皇宮 こうぐう 護衛 ごえい 官 かん は制服 せいふく として一般 いっぱん の警察官 けいさつかん と同様 どうよう のものを着用 ちゃくよう することとなっている。もっとも、制服 せいふく の上衣 うわぎ 、活動 かつどう 服 ふく 及 およ び防寒 ぼうかん 服 ふく の両 りょう 襟 えり 部 ぶ に皇宮 こうぐう 護衛 ごえい 官 かん 章 あきら (金色 きんいろ で五 ご 三 さん の桐 きり の紋 もん が描 えが かれた金縁 きんぶち 付 つ き赤 あか 紫色 むらさきいろ の丸 まる バッジ)を着用 ちゃくよう する。また、それ以外 いがい に、宮殿 きゅうでん で儀式 ぎしき が行 おこな われる場合 ばあい 等 とう には特別 とくべつ の「儀礼 ぎれい 服 ふく 」を着用 ちゃくよう する。
警視庁 けいしちょう 警備 けいび 部 ぶ 警衛 けいえい 課 か
警視庁 けいしちょう 警備 けいび 部 ぶ にも天皇 てんのう や皇族 こうぞく の警衛 けいえい を担当 たんとう する警察官 けいさつかん が所属 しょぞく する警衛 けいえい 課 か が存在 そんざい する。編成 へんせい は警衛 けいえい 第 だい 1係 がかり が天皇 てんのう ・皇后 こうごう ・皇太后 こうたいごう 担当 たんとう 、警衛 けいえい 第 だい 2係 がかり が皇太子 こうたいし ・皇太子 こうたいし 妃 ひ ・内廷 ないてい 皇族 こうぞく 担当 たんとう 、警衛 けいえい 第 だい 3係 がかり が内廷 ないてい 外 がい 皇族 こうぞく 担当 たんとう となっている。但 ただ し警衛 けいえい 要 よう 則 のり の規定 きてい により皇族 こうぞく の身辺 しんぺん 警護 けいご は皇宮 こうぐう 護衛 ごえい 官 かん が行 おこな うため、警衛 けいえい 担当 たんとう の警察官 けいさつかん が固 かた めるのはさらにその外側 そとがわ となる。大 だい 規模 きぼ な公式 こうしき 式典 しきてん の際 さい などは皇宮 こうぐう 護衛 ごえい 官 かん だけでは人手 ひとで が足 た りなくなることもあるため、都内 とない については、警衛 けいえい 課 か が後方 こうほう 支援 しえん することもある。なお法令 ほうれい 上 じょう 、皇族 こうぞく 以外 いがい の要人 ようじん 等 とう の身辺 しんぺん を守 まも ることを「警護 けいご 」といい、天皇 てんのう ・皇族 こうぞく の身辺 しんぺん を守 まも ることを「警衛 けいえい 」という。ちなみに首相 しゅしょう の警護 けいご は警視庁 けいしちょう 警備 けいび 部 ぶ 警護 けいご 課 か 警護 けいご 第 だい 1係 がかり が担当 たんとう している。
日本 にっぽん 関連 かんれん 項目 こうもく [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう の身辺 しんぺん 警護 けいご は、平時 へいじ や外国 がいこく 訪問 ほうもん 時 じ などは主 しゅ としてアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく シークレットサービス が担当 たんとう している。ホワイトハウス 内 うち には大統領 だいとうりょう の執務 しつむ 室 しつ があり、また大統領 だいとうりょう が採用 さいよう した右腕 うわん たちが勤務 きんむ する場所 ばしょ でもあるわけだが、ホワイトハウスを警護 けいご する任務 にんむ を帯 お びたアメリカ海兵 かいへい 隊 たい (White House Marine. White House sentries) がおり、大統領 だいとうりょう がホワイトハウスで執務 しつむ している間 あいだ はWest Wing(西 にし 棟 とう )のドアの前 まえ に必 かなら ず海兵 かいへい 隊 たい が立 た っている。海兵 かいへい 隊 たい は同時 どうじ に4名 めい 勤務 きんむ しており、ホワイトハウスに入館 にゅうかん する者 もの 、退 すさ 館 かん する者 もの のためにドアの開閉 かいへい も行 おこな っており、30分 ふん 勤務 きんむ し30分 ふん 休憩 きゅうけい をとるというサイクルで(交代 こうたい 制 せい で)仕事 しごと をしている[6] 。なおホワイトハウスの屋上 おくじょう には海兵 かいへい 隊 たい のスナイパー が配置 はいち されており、ライフルを三脚 さんきゃく にすえ、周囲 しゅうい に不審 ふしん な動 うご きが無 な いか常 つね に望遠鏡 ぼうえんきょう で見張 みは っている。また大統領 だいとうりょう は軍 ぐん の最高 さいこう 指揮 しき 官 かん であり、大統領 だいとうりょう の命令 めいれい で海兵 かいへい 隊 たい をいかようにも動 うご かせる状態 じょうたい となっている。(海兵 かいへい 隊 たい は在外 ざいがい 公館 こうかん の警護 けいご も担当 たんとう している。)
White House Sentry
ホワイトハウスのWest Wingのドアを警備 けいび し、出入 でい りする要人 ようじん のためにドアの開 あ け締 じ めも行 おこな う。
記者 きしゃ 会見 かいけん の時 とき に大統領 だいとうりょう (や海外 かいがい 要人 ようじん )のための傘 かさ をさす役 やく をしているWhite House sentries。もちろん警護 けいご 中 ちゅう であり、周囲 しゅうい を見張 みは っており、いざとなると大統領 だいとうりょう を護 まも るための行動 こうどう を起 お こす。
海兵 かいへい 隊 たい のヘリコプター、
マリーン・ワン (
en:Marine One )が
大統領 だいとうりょう のホワイトハウスへの
送 おく り
迎 むか えをする。
下記 かき には、国家 こっか を代表 だいひょう して儀仗 ぎじょう を担 にな う部隊 ぶたい と又 また はそれに加 くわ えて元首 げんしゅ 等 とう の警護 けいご を平時 へいじ の任務 にんむ とする部隊 ぶたい とが含 ふく まれている。
日本 にっぽん
オーストラリア
オランダ
スウェーデン
北朝鮮 きたちょうせん
ドイツ
フランス
ローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう (バチカン市 し 国 こく )
ロシア
イギリス
中国 ちゅうごく
^ 警護 けいご の対象 たいしょう が世襲 せしゅう 制 せい かそうでないかなどということには基本 きほん 的 てき にはこだわらない。たとえば皇帝 こうてい ナポレオンも世襲 せしゅう ではなかったがその警護 けいご を担当 たんとう する部隊 ぶたい のことを日本語 にほんご に訳 やく す時 とき も「近衛 このえ 」という訳語 やくご を充 あ てている。「近衛 このえ 」という語 かたり を分解 ぶんかい すると、あくまで「近 こん 」 + 「衛 まもる 」という表現 ひょうげん であり、もともと「近 ちか き」を「衛 まもる (まも)る」という程度 ていど の意味 いみ の言葉 ことば (つまり「身辺 しんぺん 警護 けいご 」という程度 ていど の言葉 ことば )でしかないからである。言葉 ことば 自体 じたい には「世襲 せしゅう 制 せい でなければならない」などという語義 ごぎ は一切 いっさい 含 ふく まれていない 。なお日本語 にほんご で「近衛 このえ 」は天皇 てんのう の居所 きょしょ の警護 けいご や身辺 しんぺん 警護 けいご を指 さ したわけだが、たまたま日本 にっぽん の権力 けんりょく 制度 せいど が世襲 せしゅう 制 せい だった、というだけであり、「近衛 このえ 」という語義 ごぎ 自体 じたい には「世襲 せしゅう 制 せい でなければならない」などという意味 いみ は一切 いっさい 含 ふく まれていない。気 き にする人 ひと は「親衛隊 しんえいたい 」と訳 やく すことがあるが、「親衛隊 しんえいたい 」ではまるで昭和 しょうわ 時代 じだい のアイドルの「ファンクラブ」のようで、そちらのほうがかえって不適切 ふてきせつ な訳語 やくご だと感 かん じる人 ひと もいる。
^ スペイン国王 こくおう 近衛 このえ 隊 たい
^ 坂野 さかの 潤 じゅん 治 ち 『未完 みかん の明治維新 めいじいしん 』 筑摩書房 ちくましょぼう p.87-90
^ 福山 ふくやま 隆 たかし 『続 ぞく 空砲 くうほう 戦記 せんき 』 イカロス出版 いかろすしゅっぱん p.189
^ 広報 こうほう 紙 し 「頭 あたま 号 ごう 師団 しだん 」平成 へいせい 30年 ねん 8月 がつ 号 ごう 第 だい 1師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ 総務 そうむ 課 か 広報 こうほう 班 はん (2018年 ねん 8月 がつ )2022年 ねん 07月 がつ 13日 にち 閲覧 えつらん 。
^ AP News, Marines did not volunteer by the thousands for sentry duty in Trump White House.
^ なお、戦後 せんご の陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい において旧 きゅう 陸軍 りくぐん 内 ない の近衛 このえ 師団 しだん のような組織 そしき は存在 そんざい していない。