いぬやしなえ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

いぬやしなえいぬかひべ)とは、いぬ飼養しよう使用しようすることを「ぎょう」とし、その能力のうりょくって中央ちゅうおう政権せいけんつかえた大化たいか前代ぜんだいしないち

いぬやしなえこりと存在そんざい意義いぎ[編集へんしゅう]

いぬやしなえの、いぬ使用しよう目的もくてきとして、

1.狩猟しゅりょうもちいられた

2.守衛しゅえいもちいられた

の2つが古来こらいよりかれていた。

日本書紀にほんしょき』によれば、いぬやしなえ安閑天皇あんかんてんのうねん(538)はちがつ同年どうねんがつたむろくら大量たいりょう設置せっちをうけて国々くにぐに設置せっちされた。この記事きじ近接きんせつせいと、現存げんそんする「ミヤケ」という地名ちめいと「イヌカイ」という地名ちめい近接きんせつれいおおさから、いぬやしなえたむろくらとのあいだになんらかの密接みっせつ関係かんけいがあったことが想定そうていされ、現在げんざいでは、いぬやしなえいぬもちいてたむろくら守衛しゅえいをしていたというせつ有力ゆうりょくになっている。

また、いぬやしなえ正確せいかく設置せっち時期じき不明ふめいであるが、安閑天皇あんかんてんのうきょであると『日本書紀にほんしょき』がつたえる勾金まがりかねきょうみやに「いぬかい」の地名ちめい現存げんそんしていることから、安閑あんかんごろ6世紀せいき前半ぜんはんである可能かのうせい示唆しさされている。『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつには、安閑天皇あんかんてんのう前後ぜんごからたむろくら設置せっち記事きじおおられるようになる。たむろくら発展はってんいぬやしなえ設置せっちおおきく寄与きよしていたことがかんがえられる。なお、たむろくら広域こういき展開てんかいがのちのくにぐんさとせい基礎きそとなっていったとの指摘してきもある。

いぬやしなえ統率とうそつしゃ[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』、『新撰しんせん姓氏せいしろく』などのしょ史料しりょうによれば、いぬやしなえ統率とうそつしたともづくり(とものみやつこ)に、けんけんやしなえれん(あがたのいぬかひのむらじ)、うみけんやしなえれん(あまいぬかひのむらじ)、わかいぬやしなえれん(わかいぬかひのむらじ)、おもねくもりけんやしなえれん(あずみのいぬかひのむらじ)、からしけんやしなえれん(からいぬかいのむらじ)、おもねけんやしなえ(あたみてのいぬかい)の6存在そんざいしたことがつたわっている。なお、あたまなにかんさない、いぬやしなえれんも『しょ』にられなくはないが、ぼういぬやしなえれんの「ぼう」の記載きさいれであろうとかんがえられている。このなかでもけんけんやしなえれんうみけんやしなえれんわかいぬやしなえれんの3有力ゆうりょく上級じょうきゅうともづくりとされる。うみけんやしなえれんわかいぬやしなえれんおもねくもりけんやしなえれんからしけんやしなえれん海神わたつみぞくけいおもねけんやしなえ隼人はやとけいけんけんやしなえれん山祇やまずみぞくけいにそれぞれ分類ぶんるいされるとせつがある[1]

このうちのけんけんようは、藤原不比等ふじわらのふひとつまであり、藤原ふじわらひかり明子あきこ光明皇后こうみょうこうごう)・橘諸兄たちばなのもろえははであるおくしたがえいちけんけんやしなえさんせんだいや、安積あさか親王しんのう(あさかしんのう、聖武天皇しょうむてんのう息子むすこ)のははであるせいさんけんけんやしなえこう刀自とじなどが輩出はいしゅつされ、天武天皇てんむてんのう奈良なら時代じだい中期ちゅうきにかけて有力ゆうりょく氏族しぞくであったことがられている(『ぞく日本にっぽん』より)。

いぬやしなえのその[編集へんしゅう]

たむろくら守衛しゅえいはじまったいぬよういぬやしなえは、のちにいぬ手放てばなすとともに、「守衛しゅえい」によりつちかってきた武芸ぶげいかし、軍事ぐんじ氏族しぞくとしてのいろつよめていったとおもわれる。有名ゆうめい大化たいか改新かいしんがねとなった蘇我入鹿そがのいるか暗殺あんさつのクーデター(おつへん)の参加さんかしゃとして、うみけんやしなえ連勝れんしょう麻呂まろ葛城かつらぎややけんやしなえわかいぬようれん網田あみたられることから、そのことがわかる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ たから寿男としおけんけんやしなえさんせんだいけい」『いにしえじゅ紀之のりゆき房間ふさま』、2017ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • まゆずみ弘道ひろみち 『律令りつりょう国家こっか成立せいりつ研究けんきゅう