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てき

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てき
氏姓しせい てきしん
始祖しそ 彦太しのぶしんいのちさんせいまご葛城かつらぎかさね
こうもと天皇てんのう後裔こうえい
種別しゅべつ すめらぎべつ
凡例はんれい / Category:

てき(いくはうじ)は、「まと」をとする氏族しぞく


概要がいよう

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古事記こじき』によると、玉江たまえ生江なまえおもねげいとともに葛城かつらぎ長江ながえ曾都毘古(かずらき の ながえ の そつびこ)の子孫しそんとされている[1]。『新撰しんせん姓氏せいしろく山城やましろすめらぎべつには、石川いしかわ朝臣あそん蘇我そが)とどうで、彦太しのぶしんいのちさんせいまご葛城かつらぎかさね彦の子孫しそんとある。

てきしん葛城かつらぎかさね彦にルーツをもとめたのは、かさね彦が武勇ぶゆう朝鮮ちょうせん外交がいこう活躍かつやくした伝承でんしょうがあり、5世紀せいき朝鮮ちょうせん外交がいこう従事じゅうじしていたてきしんにとって丁度ちょうど存在そんざいであったからであるとかんがえられる[2]

てきはその名前なまえ由来ゆらいからして弓矢ゆみや関係かんけいふかい。『日本書紀にほんしょきまきだいじゅうによると、応神天皇おうじんてんのう時代じだいまと戸田とだ宿禰すくね(いくは の とだ の すくね)が平群へぐり木菟みみずく(へぐり の つく)とともに派遣はけんされている。そして、葛城かつらぎかさね彦が帰国きこくしないのはしんさまたげているからだとして精兵せいびょうしんめ、無事ぶじ弓月ゆづきみんかさね彦を奪還だっかんしたとある[3]

またまきだいじゅうかんでは、仁徳天皇にんとくてんのう12ねん7がつ3にちに、高句麗こうくりから献上けんじょうされたてつたててき[4]を、群臣ぐんしんおよひゃくりょうたが、だれ射通いとおすことができず、ただ1人ひとりたてじん宿禰すくね(たたひと の すくね)のみがまと射通いとおしたという。翌日よくじつたてじん宿禰すくねまと戸田とだ宿禰すくねたまわ[5]かれてきいくは うじ始祖しそとされている。戸田とだ宿禰すくねは、5ねんしんへの問責もんせき使として朝鮮半島ちょうせんはんとう派遣はけんされている[6]べつ箇所かしょでは、てきしんいくは の おみくち(くちもち)が、仁徳天皇にんとくてんのういのち皇后こうごういわひめいのちもどそうとして筒城つつきみやかったが、皇后こうごうからの返事へんじもらえず、悪天候あくてんこうなかずっとくしていたが、そんなあに姿すがたて、いもうと侍女じじょくにひめ(くによりひめ)がなみだながして和歌わかんだ、というエピソードもかたられている[7]

ただし、たてじん名前なまえ伝説でんせつ後世こうせい創作そうさくであるとするせつ存在そんざいする[2]

仁賢天皇にんけんてんのう4ねん5がつには、てきしんしま(いくはのおみかしま)がなんらかの理由りゆう獄死ごくししている[8]

6世紀せいきには、てき一族いちぞく半島はんとうでのさらなる活躍かつやくられる。『しょまきだいじゅうきゅうには、推定すいてい544ねん欽明天皇てんのうにん復興ふっこう計画けいかく関連かんれんして、百済くだらほん引用いんようぶんには、にん日本にっぽんかんじんらしき人物じんぶつとして「がらすえびすちんばしん(うごはのおみ)を召(よ)ぶといふ。けだてきしんなり」とあり、さらに「いま(いま)てきしん吉備きびしん河内かわうちただしひとし、咸(みな)、うつり斯(えなし)・(まつ)がゆび撝(さしまね)くにしたがえへらくのみ」・「てきしんとうひとしとは吉備きびおとうと君臣くんしん河内かわうちただしとういいふなり・しん往来おうらい(かよ)ひしことはちん(わ)がしんず」とある[9]この「てきしん」は欽明天皇てんのう14ねん推定すいてい553ねん)までにはなくなっていることも『しょ』には記載きさいされている[10]

このほか、よう明天めいてんすめらぎ2ねん587ねん)には、炊屋ひめほうじた蘇我馬子そがのうまこいのちにより、てき(いくはのまくい)は、佐伯さえきまことけいしゅ土師はじいわおむららとともに、あな皇子おうじたく皇子おうじ殺害さつがいしている[11]

宮城みやぎじゅうもんいくよしもんは、てき由来ゆらいし、大炊おおいりょう正面しょうめん位置いちしており、大炊おおい御門みかどともばれている。淡路あわじこく津名つなぐん育波いくはきょう(いくはのさと)の存在そんざいする理由りゆうとして、淡路島あわじしま狩猟しゅりょうであり、そのことは、

  1. しょまきだいじゅう応神天皇おうじんてんのう実家じっか吉備きび里帰さとがえりさせたのあにひめ様子ようす記事きじ[12]
  2. しょまきだいじゅう履中天皇りちゅうてんのう河内かわうち飼部(こうちのうまかいべ)の黥(めさきのきず)にまつわる記事きじや、皇后こうごう薨去こうきょ記事きじ[13]
  3. しょ』の允恭天皇いんぎょうてんのう赤石あかしうみ真珠しんじゅ(しらたま)をれようとして、白水しろうずろう(あま)をくぐらせようとした記事きじ[14]

などにられる。

また、淡路あわじこくしょくこくであることともおおいに関係かんけいがあるとおもわれる。津名つなぐんには、おもねくもり海人あまやまただしなどが居住きょじゅうしており、てきしんも、やまさちうみこう育波いくはきょうから確保かくほしたようである。尾張おわりこく海部かいふぐんに、「ひさ神社じんじゃ」が存在そんざいすることも海産物かいさんぶつ確保かくほのためとみられる。

上記じょうきのことから、てき軍事ぐんじてき性格せいかくとともに、大王だいおう食膳しょくぜん奉仕ほうしする役割やくわりゆうしていたとかんがえられる[15]

684ねん天武天皇てんむてんのう13ねん)のはちしょくせい[16]では、てきあたらしいせいあたえられていない。

ウジめい由来ゆらい

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てき(いくは)というウジめい由来ゆらいについて、『日本書紀にほんしょき』では、仁徳天皇にんとくてんのう12ねん7がつ3にちに、高句麗こうくりから献上けんじょうされたてつたてまとを、群臣ぐんしんおよひゃくりょうたが、だれ射通いとおすことができず、ただ1人ひとりたてじん宿禰すくねのみがまと射通いとおし、翌日よくじつたてじん宿禰すくねまと戸田とだ宿禰すくねたまわったというのがはじまりであるとされている[4][5]

しかし、直木なおき孝次郎こうじろうは、筑紫つくしこく浮葉本来ほんらい「イクハ」とばれていたように、イクハとは本来ほんらい地名ちめいなのであり、イクハ=てきというイメージは、イクハ(地名ちめい)とてき(イクハ)が同音どうおんであること、てき朝鮮ちょうせんとの外交がいこうたずさわったことで武力ぶりょくてき氏族しぞくとなっていたことなどから、後世こうせい創造そうぞうされたものであるとした[17]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 古事記こじきちゅうまきこうもと天皇てんのうじょう
  2. ^ a b 加藤かとう謙吉けんきち大和やまと豪族ごうぞく渡来とらいじん 葛城かつらぎ蘇我そが大伴おおとも物部ものべ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2002ねん
  3. ^ 日本書紀にほんしょき応神天皇おうじんてんのう16ねん8がつじょう
  4. ^ a b 日本書紀にほんしょき仁徳天皇にんとくてんのう12ねん7がつ3にちじょう
  5. ^ a b 日本書紀にほんしょき仁徳天皇にんとくてんのう12ねん8がつ10日とおかじょう
  6. ^ 日本書紀にほんしょき仁徳天皇にんとくてんのう17ねん9がつ
  7. ^ 日本書紀にほんしょき仁徳天皇にんとくてんのう30ねん10がつ1にちじょう。『古事記こじき』や『しょ』の別伝べつでんでは、かず珥臣であるくちくちひめになっている
  8. ^ 日本書紀にほんしょき仁賢天皇にんけんてんのうよんねんなつがつじょう
  9. ^ 日本書紀にほんしょき欽明天皇てんのう5ねん3がつじょう
  10. ^ 日本書紀にほんしょき』欽明天皇てんのう14ねん8がつ7にちじょう
  11. ^ 日本書紀にほんしょきよう明天めいてんすめらぎ2ねん6がつ7にちじょう、8にちじょう
  12. ^ 日本書紀にほんしょき応神天皇おうじんてんのう22ねん9がつ6にちじょう
  13. ^ 日本書紀にほんしょき履中天皇りちゅうてんのう5ねん9がつ18にちじょう、19にちじょう、22にちじょう
  14. ^ 日本書紀にほんしょき允恭天皇いんぎょうてんのう14ねん9がつ12にちじょう
  15. ^ 前之まえのえん亮一りょういち「6 ウヂとカバネ」(大林おおばやし太良たらへん日本にっぽん古代こだい11 ウヂとイエ』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ1987ねん、p231 - p232)
  16. ^ 日本書紀にほんしょきまきだいじゅうきゅう天武天皇てんむてんのう13ねん10がつ1にちじょう
  17. ^ 直木なおき孝次郎こうじろうてきかんするいち考察こうさつ[1]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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