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おもねくもり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
おもねくもり安曇あずみ

氏神うじがみとする志賀しが海神わたつみしゃ福岡ふくおかけん福岡ふくおか
氏姓しせい おもねくもり宿禰すくね
始祖しそ 綿津見わたつみいのち
種別しゅべつ かみべつ地祇ちぎ
ほんぬき 筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐんおもねくもりきょう
凡例はんれい / Category:

おもねくもり(あずみうじ、安曇あずみとも)は、「おもねくもり安曇あずみ)」をとする氏族しぞく

海神わたつみである綿津見わたつみいのちとする地祇ちぎけい氏族しぞく

概要がいよう

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記紀きき』に登場とうじょうし、『古事記こじき』では「おもねくもりれんはその綿津見わたつみしん宇都うとこころざしきん柝命子孫しそんなり」としるされ、『日本書紀にほんしょき』の応神天皇おうじんてんのうこうに「海人あまむねにんじられた」としるされている。その、『新撰しんせん姓氏せいしろく』では「安曇あずみれん綿めん豊玉とよたま彦の高見こうけんいのちのちなり」としるされる。

おもねくもり」と「安曇あずみ」の表記ひょうきについて、田中たなかたくは、本来ほんらいは「おもねくもり」であったのが、天平てんぺい3ねん731ねん以前いぜんに「安曇あずみ」とかれるように変更へんこうされたと発表はっぴょうした。ただし、すべてがいち変更へんこうされたのではなく、安曇あずみひろ麻呂まろのように、どちらの表記ひょうきもちいられる場合ばあいもあったという[1]。それにたいして、青木あおきおさむ和銅わどう6ねん713ねん)の好字こうじれいときであるとした[2]

じんとして、『高橋たかはしぶん』にあるたかししんあさはじめて御膳ごぜんたてまつっただいたえなりいのちだいたえなしいのちとも)、『肥前ひぜんこく風土記ふどき』に記録きろくされるけいぎょうあさおもねくもりひゃくそく(『播磨はりまこく風土記ふどき』では孝徳たかのりあさ人物じんぶつとされるが、加藤かとう謙吉けんきちは、史料しりょうごとに時代じだいおおきくがあるのは、百足むかで安曇あずみとしての伝説でんせつじょう人物じんぶつであったからであるとしている[3])、応神天皇おうじんてんのうさんねんや『筑前ちくぜんこく風土記ふどき』に登場とうじょうする大浜おおはま宿禰すくね履中天皇りちゅうてんのう即位そくいぜんえるおもねくもり浜子はまこ舒明あさ百済くだら派遣はけんされたおもねくもり比羅夫ひらふひとし明朝みょうちょう天智てんじちょう活動かつどうしたおもねくもりほおたれなどがいる。

歴史れきし

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全国ぜんこくおもねくもり管掌かんしょうしたともづくりとしてられる有力ゆうりょく氏族しぞく[4]発祥はっしょうについては筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐんおもねくもりきょうこころざし珂郷(現在げんざい福岡ふくおか東部とうぶせつ淡路島あわじしませつなどがある[4]

安曇あずみは、日本にっぽん各地かくち個々ここ成立せいりつしていた海人あま集団しゅうだんちょうが、6世紀せいき以降いこう王権おうけん隷属れいぞくする過程かていで1つの統合とうごうされたとかんがえられられる[3]

以下いか記述きじゅつは『日本書紀にほんしょき』、『風土記ふどき』による[5]

けいぎょう天皇てんのう82ねんには、くまかさね征伐せいばつかう途中とちゅう筑紫つくしにおいて、土蜘蛛つちぐも討伐とうばつしようとしたが、抵抗ていこうはげしかったため、こころざしわがかみまつったという。また、『肥前ひぜん風土記ふどき』によると、けいぎょう天皇てんのう巡幸じゅんこうしたとき、きょうしゃ安曇あずみれんひゃくそくめいじて、ちかくのしま視察しさつさせたところ、だいみみたれみみという土蜘蛛つちぐもがいたため、百足むかでかれらをらえた。かれらは貢物みつぎものをすることを約束やくそくしたので、天皇てんのう赦免しゃめんしたという。そのしまよしみしまであった。

仲哀ちゅうせつ天皇てんのう9ねんに、神功じんぐう皇后こうごうは、しん出征しゅっせいするために、いそ鹿しか海人あまくさ偵察ていさつつかわしたという。

応神天皇おうじんてんのう3ねんには、各地かくち海人あまぞめいて、命令めいれいしたがわなかったため、おもねくもりれん先祖せんぞ大浜おおはま宿禰すくねつかわされて、そのさわぎを平定へいていし、そのこう海人あまおさむとなったという。また神功じんぐう皇后こうごうしんかったさいに、おもねくもり大浜おおはまおもねくもり小浜おばま2人ふたり従軍じゅうぐんしている。さらに、応神天皇おうじんてんのうには海部かいふ設置せっちされたとされる。

履中天皇りちゅうてんのう即位そくい前年ぜんねんには、住吉すみよしなか皇子おうじが、仁徳天皇にんとくてんのう皇太子こうたいしである去来きょらいべつ皇子おうじ反乱はんらんこしたさいに、おもねくもり浜子はまこ淡路あわじのうしま海人あまひきいてなか皇子おうじがわいている。その浜子はまこらえられ、「浜子はまごつみ死刑しけいあたいするが、おんあたえて、めんじて「すみ(ひたいにきざむつみ)」をあたえる」として、そののうちにしたずみれられた。これにより、ずみをしたのことを「おもねくもり」とぶようになったという。

推古天皇すいこてんのう31ねんには、おもねくもりれんかけめい)がしんから賄賂わいろをもらい、蘇我馬子そがのうまこしん派兵はへいするようにうながしたという。また、翌年よくねんにはどう一人物いちじんぶつられるおもねくもりれんかけめい)がほうあたまにんじられている。

おもねくもり比羅夫ひらふは、舒明天皇てんのう百済くだら使者ししゃとして派遣はけんされていたが、どう天皇てんのう13ねん641ねん)の天皇てんのう崩御ほうぎょさいし、翌年よくねん百済くだらちょう使ともなって帰国きこくした。またこのときひゃくずみ王子おうじである翹岐自分じぶん邸宅ていたくむかえている。ひとし明天めいてんすめらぎ7ねん661ねん)には百済くだら救援きゅうえんぐん将軍しょうぐんとなり、百済くだらわたっている。よく662ねんには、日本にっぽん渡来とらいした百済くだら王子おうじゆたかあきら王位おういがせようと水軍すいぐん170せきひきいて王子おうじとも百済くだらわたった。だいにしきちゅうにんじられた。天智天皇てんぢてんのう2ねん(663ねん)8がつに、白村はくそんこうたたか戦死せんししたという。

律令制りつりょうせいもとで、みや内省ないせいぞくする内膳ないぜん天皇てんのう食事しょくじ調理ちょうりつかさどる)の長官ちょうかん相当そうとう官位かんいせいろくじょう)をつとめている。

安曇あずみ分布ぶんぷ

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播磨はりまこく風土記ふどき』によれば、おもねくもりひゃくそく難波なんばうらんでおり、のちに揖保いぼぐん移住いじゅうしたという。百足むかで難波なんばんでいたのは、平安へいあん時代じだい東大寺とうだいじりょう安曇あずみこうそうがあった現在げんざい大阪おおさか西成にしなり堀江ほりえ地区ちくであり、『日本書紀にほんしょき』にえ、のち安曇あずみてらとした「おもねくもりてら」は、大阪おおさか中央ちゅうおう安堂寺あんどうじまちにあったとかんがえられている。このことから、安曇あずみ摂津せっつこく西成にしなりぐんをも拠点きょてんとしていたことがわかる[4]

また、『日本書紀にほんしょきくつちゅう即位そくいぜんによれば、おもねくもり浜子はまご淡路島あわじしまの「野嶋のじま海人あま」を統率とうそつしていたとされ、安曇あずみ淡路島あわじしまにも拠点きょてんっていたことを示唆しさしている[4]

には、隠岐おきこく備中びっちゅうこく周防すおうこく阿波あわこく伊予いよこくから安曇あずみあるいは安曇あずみによって海産物かいさんぶつみつぎおさめされており、安曇あずみ海人あま集団しゅうだんとして西日本にしにほん中心ちゅうしん分布ぶんぷしていたことがわかる[4]

安曇あずみ信濃しなの

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安曇あずみは、海辺うみべかぎらず、かわさかのぼって内陸ないりく安曇あずみにものこし、標高ひょうこう3190mの奥穂高岳おくほたかだけ山頂さんちょうみねみやのある穂高ほたか神社じんじゃはこのおもねくもり祖神そしんまつった古社ふるやしろで、中殿ちゅうでん主祭しゅさいしん)に「高見こうけんいのち」、ひだり殿どのに「綿津見わたつみいのち」など海神わたつみまつっている。内陸ないりくにあるにもかかわらずれい大祭たいさい御船みふね神事しんじ)はおおきな船形ふながた山車だし登場とうじょうする。志賀島しかしまから全国ぜんこくったのち一族いちぞく一部いちぶは、この信濃しなのこく安曇あずみぐん長野ながのけん安曇あずみ野市のいち)に定住ていじゅうしたとされる。

従来じゅうらい研究けんきゅう

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信濃しなのこく安曇あずみ居住きょじゅうするようになった理由りゆうについて、大場おおば磐雄いわお日本海にほんかい沿岸えんがん出土しゅつどした銅戈どうか銅剣どうけんいしほこいしけん分布ぶんぷから、筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐんおもねくもりきょうこころざし珂郷を拠点きょてんとした安曇あずみが、越後えちごこく頸城ぐんから姫川ひめかわ沿いにヒスイもとめて遡上そじょうした結果けっか安曇あずみりしたとした[4]佐藤さとう雄一ゆういちも、『しゃく日本にっぽん』「おもねくもりれんとうしょ祭神さいじんじょう筑前ちくぜんこく風土記ふどき逸文いつぶん筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐん珂嶋の地名ちめい起源きげんたん、『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』「神代かみしろ本紀ほんぎ」の「筑紫つくし斯香しん」、『しんしょうかくみことのりしょう』、「大同だいどう元年がんねん牒」の「おもねくもりしん」、『住吉すみよし大社たいしゃ神代かみよ』の「糟屋かすやぐんおもねくもりしゃ」、『延喜えんぎしき』「かみめいちょう筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐんじょうの「しむら海神わたつみしゃ」などの記述きじゅつから、れんせいびるおもねくもりれんまつかみ筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐん所在しょざいしているという奈良なら平安へいあん時代じだいとおして一貫いっかんしている認識にんしきは、大化たいか改新かいしん以前いぜんさかのぼるものとかんがえられ、おもねくもり拠点きょてんとして筑前ちくぜんこく糟屋かすやぐんしむら珂郷および隣接りんせつするおもねくもりきょう周辺しゅうへんかんがえられるとしている[6]

宮地みやじ直一なおかずは、『延喜えんぎしき』『和名わみょうしょう』などから存在そんざい推測すいそくされる安曇あずみ関連かんれん氏族しぞく山陰さんいん瀬戸内せとうち近畿きんきおよ東海とうかい地方ちほう分布ぶんぷしており、中部ちゅうぶ地方ちほうからひがしにはほとんどられないことから、東海とうかい地方ちほうから松本まつもとたいらはいった安曇あずみが、古墳こふん時代じだい後期こうき以降いこう安曇あずみ進出しんしゅつしたとした[4]

しかし、「弥生やよい時代じだい安曇あずみ移住いじゅうせつ現在げんざい古代こだい研究けんきゅうにおいてみとめられることはなく、従前じゅうぜんせつたいして、小穴おあな芳美よしみは、安曇あずみは5世紀せいきごろの王権おうけんささえた有力ゆうりょく氏族しぞくであり、東国とうごくへの展開てんかいはそれ以降いこうのことであるとし、その定着ていちゃく年代ねんだいは「古墳こふん出土しゅつどひん状況じょうきょうからして6世紀せいき後半こうはんから7世紀せいき以前いぜんさかのぼるものではない」とした[4]

笹川ささかわ尚紀なおきは、安曇あずみきょくである安曇あずみは、のち安曇あずみぐんとなる地域ちいき住民じゅうみん一部いちぶから成立せいりつしたとし、安曇あずみ職業しょくぎょうを「海人あま統括とうかつし、天皇てんのう食膳しょくぜんあずかるという職掌しょくしょうもとづき、たむろくら管理かんり積極せっきょくてき関与かんよした」とした。また、たむろくらかれた場所ばしょについて、イヌカイ地名ちめいとミヤケ地名ちめい近接きんせつすることから、筑摩つかまぐんからしいぬきょう付近ふきんであるとした。そして、筑摩つかまぐんにはたかしぐんえ、これは蘇我そが曽我部そがべいたことに由来ゆらいし、筑摩つかまぐんたむろくら設置せっち蘇我そが関係かんけいしており、安曇あずみ蘇我そがふか関係かんけいがあったため、たむろくら管理かんりしゃとして信濃しなの派遣はけんされた」と結論けつろんづけた[4]

松崎まつざき岩夫いわおは、うみでの生産せいさん活動かつどうでは経済けいざいてききびしくなったために農業のうぎょう従事じゅうじするための安曇あずみみつぎおさめがた部民ぶみん)を設置せっちしたとした[7]

近年きんねん研究けんきゅう

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信濃しなのこく安曇あずみ関係かんけいについて、近年きんねん研究けんきゅうにでは、「6世紀せいき以降いこう蘇我そが東国とうごくたむろくら設置せっちすすめるなかで、蘇我そがふか関係かんけいにあった安曇あずみ信濃しなのこくたむろくら派遣はけんされ、地域ちいきとの関係かんけいふかめた結果けっか安曇あずみぐんいき安曇あずみ設置せっちされた(あるいは、安曇あずみ中央ちゅうおうまるままで、安曇あずみのみが信濃しなの関係かんけいふかめた)」とかんがえられている[4]。その根拠こんきょ以下いかとおりである。

  • 安曇あずみ九州きゅうしゅう瀬戸内海せとないかい沿いには幅広はばひろ分布ぶんぷしているのにたいし、日本海にほんかいがわでは隠岐おきこく加賀かがこくえるのみであるうえに、東日本ひがしにっぽんにおける安曇あずみ甲斐かいこく信濃しなのこく美濃みのこくといった山国やまぐにおお分布ぶんぷしているため、日本海にほんかいがわ安曇あずみ瀬戸内海せとないかい沿いの安曇あずみべつ時期じき設置せっち定住ていじゅうされたものであり、東日本ひがしにっぽん安曇あずみ本来ほんらい海人あま集団しゅうだんとしての性質せいしつによって移住いじゅうしたものではないとかんがえられる。
  • 蘇我そがしろいのししたむろくら児島こじまたむろくら設置せっちしていることや、蘇我馬子そがのうまこ葛木かつらぎけん割譲かつじょう要求ようきゅうするための使者ししゃ阿倍あべおもねくもりれんかけめい)をえらんでおり、侶のそのいから、安曇あずみ蘇我そがふか関係かんけいにあり、蘇我そが安曇あずみとおしてたむろくら経営けいえいたずさわっていたとかんがえられる。
  • 隠岐おきこくにおいても、そう我部がぶ安曇あずみ海部かいふおお存在そんざいしているうえに、海部かいふぐん海士あもうぐん)にはたくきょう存在そんざいし、おもねくもりさんゆう郡司ぐんじとしてえ、さと域内いきない矢原やばら遺跡いせきから「多倍たばい」とかれた墨書ぼくしょ土器どき出土しゅつどしているため、蘇我そが安曇あずみたむろくらふかつながりがあった。
  • 信濃しなのこくたむろくら文献ぶんけん史料しりょうじょう存在そんざい見出みだせないものの、せんきょく屋代やしろ遺跡いせきからは「さん家人かじん」「石田いしだ」「戸田とだ」としるされた木簡もっかん出土しゅつどしているうえに、屋代やしろ遺跡いせきから千曲川ちくまがわはさんだ対岸たいがん更級さらしなぐんには更埴こうしょく条理じょうり遺跡いせきひろがっており、『和名わみょうしょう』によれば更級さらしなぐん埴科はにしなぐん存在そんざいした16さと信濃しなのこくそうさとすう62のやく4ぶんの1をめており、人口じんこう集中しゅうちゅう生産せいさんりょくたかさが想定そうていされていることから、更埴こうしょく地域ちいきにはたむろくら設置せっちされていた可能かのうせいたかい。設置せっちされていたとすれば、『和名わみょうしょう』にしるされた埴科はにしなぐんえいさとが「アガタきょう」であり、たむろくら関連かんれんした地名ちめいであるとかんがえられる。
  • 信濃しなのこく安曇あずみおなじく「内陸ないりくかつ東国とうごく」の安曇あずみ存在そんざいした美濃みのこくにはさん家郷かきょう確認かくにんできる。
  • 信濃しなのこく筑摩つかまぐん現在げんざい松本まつもと)にはたむろくら守衛しゅえいしゃである犬飼いぬかい集団しゅうだん一族いちぞくからしいぬあまが、おな筑摩つかまぐん南部なんぶ現在げんざい塩尻しおじり宗賀そうが地区ちくから松本まつもと神林かみはやし地区ちく)にはたかしきょう蘇我そがきょうともしるされる)がそれぞれ確認かくにんできる。
  • 蘇我そが尾張おわりたむろくら管掌かんしょうてていたが、屋代やしろ遺跡いせきからも「尾張おわり」としるされた木簡もっかん出土しゅつどしているうえに、『和名わみょうしょう』には水内みずうちぐん尾張おわりきょうえ、現在げんざい長野ながの東部とうぶには「西尾張部にしおわりべ」「北尾張部きたおわりべ」の大字だいじ確認かくにんできる。

安曇あずみ海部かいふ

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安曇あずみは、『日本書紀にほんしょき応神天皇おうじんてんのう3ねん11月じょうに「處々しょしょ海人あま、訕哤したがえいのちのりおもねくもりれん大濱おおはま宿禰すくねひら其訕哤、いんため海人あまおさむ。」とあるように、海人あま暴動ぼうどうおさえた功績こうせきによって「海人あまおさむ」となったとされる。また、どう天皇てんのう5ねん8がつじょうには、「れいしょ国定こくてい海部かいふ及山守部もるべ」とあり、海部かいふ起源きげんであるとされ、どう時期じき海人あまおさむとしての安曇あずみ海部かいふ成立せいりつしたことから、安曇あずみ海部かいふともづくりであるとされてきた。しかし、実際じっさい安曇あずみ海人あま宰領さいりょうとしての役割やくわり史料しりょうじょうたすのは、推古天皇すいこてんのう時代じだいである。履中天皇りちゅうてんのう即位そくいぜんにはおもねくもり浜子はまこ淡路島あわじしま海人あまひきいているものの、これは海部かいふではない。

史料しりょうえる海部かいふ地域ちいきによってせいじきれんしんなど、ことなるせいゆうしているが、これは海部かいふともづくりとなった氏族しぞく尾張おわり吉備きびなど)に由来ゆらいしているとかんがえられる。そのため、安曇あずみ同族どうぞく関係かんけいむすんだものもあれば、氏族しぞくむすんだものもあるとおもわれ、安曇あずみ一部いちぶ地域ちいきうみみん統括とうかつし、ヤマト政権せいけん一環いっかんれられたことはかんがえられるが、全国ぜんこくすべての海人あま管掌かんしょうしたわけではなく、各地かくち海部かいふ安曇あずみどう程度ていどあるいはそれ以上いじょうふるくに日本にっぽん各地かくち設定せっていされて、設置せっち当初とうしょから安曇あずみとは関係かんけいなくヤマト王権おうけんれられていたとかんがえられる[8]

後裔こうえい

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新撰しんせん姓氏せいしろく』には後裔こうえいとして右京うきょうかみべつ安曇あずみ宿禰すくね河内かわち国神くにかみべつ安曇あずみれん記録きろくされている。安曇あずみはいくつかの集団しゅうだんから構成こうせいされていたが、支族しぞくとしてはおもねくもりけんやしなえれんからしいぬあま、凡海宿禰すくねうみけんよう八太はったづくりつたわる。また、八太はったづくりについて、宮地みやじ直一なおかずは、現在げんざい松本まつもと波田なみた氏族しぞくであったと仮定かていした[9]

新撰しんせん姓氏せいしろく』によれば、安曇あずみ関連かんれんする氏族しぞく以下いかとおりである。

  • 右京うきょうかみべつ 安曇あずみ宿禰すくね - 海神わたつみ綿めんせき豊玉とよたま神子かみこみのる高見こうけんいのちこう也。
  • 右京うきょうかみべつ うみけんよう - 海神わたつみ綿めんせきいのちこう也。
  • 右京うきょうかみべつ 凡海れん - どうかみおとこ高見こうけんいのちこう也。
  • 右京うきょうかみべつ 八太はったづくり - かずゆたかいのち布留ふる多摩たま乃命これ也。
  • 河内かわうち国神くにかみべつ 安曇あずみれん - 綿めんせきしんいのち高見こうけんいのちこう也。
  • 未定みていざつせい河内かわちこく 安曇あずみれん - 于都斯奈いのちこう也。
  • 摂津せっつ国神くにかみべつ 凡海れん - 安曇あずみ宿禰すくねどう綿めんせきいのち六世孫小栲梨命之後也。
  • 摂津せっつ国神くにかみべつ おもねくもりけんやしなえれん - 海神わたつみ大和やまといのち三世孫穂己都久命之後也。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田中たなかたく田中たなかたく著作ちょさくしゅう 7 住吉すみよし大社たいしゃ神代かみよ研究けんきゅう』(国書刊行会こくしょかんこうかい、1985ねん
  2. ^ 穂高ほたか神社じんじゃとその伝統でんとう文化ぶんか』(1988ねん穂高ほたか神社じんじゃ社務しゃむしょ
  3. ^ a b 加藤かとう謙吉けんきちおもねくもりかんする予備よびてき考察こうさつ」『古墳こふん国家こっか形成けいせいしょ問題もんだい』(山川やまかわ出版しゅっぱん、2019ねん
  4. ^ a b c d e f g h i j 佐藤さとう雄一ゆういち古代こだい信濃しなの氏族しぞく信仰しんこう」(2021ねん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  5. ^ [1]安曇あずみ系譜けいふ歴史れきし
  6. ^ 佐藤さとう雄一ゆういち信濃しなのこくおもねくもりについて[2]
  7. ^ 松崎まつざき岩夫いわお信濃しなの古代こだいなか人々ひとびと』(信濃しなの古代こだい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1986ねん
  8. ^ 上遠野かとおの浩一こういち尾張おわり国造くにのみやつこ海部かいふともづくりたむろくら」『日本書紀にほんしょき研究けんきゅう だいじゅうよんかん』(はなわ書房しょぼう、2002ねん
  9. ^ 宮地みやじ直一なおかず穂高ほたか神社じんじゃ 』(穂高ほたかまち、1949ねん

関連かんれん書籍しょせき

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関連かんれん項目こうもく

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