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ワラキア

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ワラキア公国こうこくから転送てんそう
ワラキア公国こうこく
Țara Românească
Цѣра Рȣмѫнѣскъ
ハンガリー王国 1330ねん - 1859ねん ルーマニア公国
ルーマニアの国旗 ルーマニアの国章
国旗こっきくにあきら
ルーマニアの位置
ルーマニアの行政ぎょうせい区域くいきワラキア
公用こうよう ルーマニア古代こだい教会きょうかいスラヴ
首都しゅと クルテア・デ・アルジェシュ(1330ねん-1418ねん)
トゥルゴヴィシュテ(1418ねん-1659ねん)
ブカレスト(1659ねん以降いこう)
公爵こうしゃく
1386ねん - 1418ねん ミルチャ1せい
1448ねん - 1477ねんヴラド3せい
1862ねん - 1866ねんアレクサンドル・ヨアン・クザ
変遷へんせん
建国けんこく 1330ねん
ルーマニア公国こうこく発展はってん解消かいしょう1859ねん
ルーマニア歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。
ククテニ文化ぶんか (5500 BC-2750 BC)
ダキア
ダキア戦争せんそう (101-106)
ダキアぞくしゅう (106-c.270)
ワラキア公国こうこく (13Cまつ-1856)
モルダヴィア公国こうこく (1359-1856)
トランシルヴァニア公国こうこく (1571-1711)
ワラキア蜂起ほうき (1821)
ルーマニア公国こうこく (1859-1881)
ルーマニア王国おうこく (1881-1947)
ルーマニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく (1947-1989)
ルーマニア革命かくめい (1989)
ルーマニア (1989-現在げんざい)

ルーマニア ポータル

ワラキアルーマニア: Valahia [vaˈlahi.a]ハンガリー: Havasalföld [ˈhɒvɒʃɒlføld])は、ルーマニア南部なんぶ地方ちほうめいである。ルーマニアの首都しゅとブカレストがある地域ちいきで、かつては14世紀せいき建国けんこくされたワラキア公国こうこくがあった[1]。ここでは、古代こだいはじまり、モルダヴィア統合とうごうしてルーマニア王国おうこく成立せいりつするまでのワラキアの歴史れきしおもしるす。

地理ちり

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ワラキアという地名ちめいは「ヴラフじんくに」という意味いみでルーマニア国外こくがいでは慣用かんようてき使つかわれているそとめい呼称こしょうである。英語えいごではWallachia, Walachia[wɑˈleɪkiə])といい、ルーマニアにも同根どうこんのヴァラヒア(Valahia)というがあるが、ルーマニア国内こくないでは「ルーマニアじんくに」を意味いみするツァラ・ロムネヤスカŢara Românească [ˈt͡sara romɨˈne̯askə])のほうがより一般いっぱんてきである。

ワラキアはドナウがわきたみなみカルパチア山脈さんみゃくみなみ位置いちする。オルトがわ東西とうざいけ、東部とうぶムンテニア西部せいぶオルテニアぶ。モルダヴィアとのさかいは、伝統でんとうてきにミルコヴがわMilcov River)となってきた。ドナウがわ河口かこう南北なんぼくりょうするのはドブルジャである。

首都しゅととされた都市とし時代じだいともうつわり、クムプルングCâmpulung)からクルテア・デ・アルジェシュトゥルゴヴィシュテ、そして16世紀せいき後半こうはんからブカレスト首都しゅととなった。

歴史れきし

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古代こだい

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ローマ時代じだいぞくしゅうダキア紫色むらさきいろ部分ぶぶん

だいダキア戦争せんそう紀元きげん105ねんごろ)のさい、オルテニア西部せいぶダキアぞくしゅう一部いちぶとなり、ワラキアの一部いちぶモエシアぞくしゅう(モエシア・インフェリオル、しもモエシア)に併合へいごうされた。ローマのリメスがオルトかわ沿いに建設けんせつされた(119ねん)。2世紀せいきちゅう国境こっきょうせんひがしへわずかにび、ドナウがわからカルパチア山脈さんみゃくにあるルカル(Rucăr)へ拡張かくちょうした。国境こっきょうせんは245ねんにオルトかわまで退却たいきゃくし、271ねんにローマじんらはこの地域ちいきから撤退てったいした(短期間たんきかんのローマ支配しはいで、ローマ文化ぶんかキリスト教きりすときょう伝播でんぱした)。

ムレシュ=チェルナエホフ文化ぶんかChernyakhov culture)をもたらしたゴートぞくサルマタイひとや、さらにべつ遊牧ゆうぼく民族みんぞくが、現在げんざいのルーマニアの大半たいはん侵略しんりゃくした民族みんぞく移動いどう時代じだいにも、ローマ文化ぶんか浸透しんとうすすんだ。328ねん、ローマじんがスキダヴァ(現在げんざいゴルジュけんチェレイ)とオエスクス(現在げんざいのブルガリア・プレヴェンしゅうウルピア・エスクス)のあいだはしけた。これはドナウがわ北方ほっぽう民族みんぞくとのだい規模きぼ交易こうえきがあったことを示唆しさするものである。332ねんコンスタンティヌス1せいが、ドナウがわ北岸ほくがん定住ていじゅうしていたゴートぞく攻撃こうげきし、そのコンスタンティヌス1せいした短期間たんきかんワラキアが支配しはいされていたことが立証りっしょうされている。ゴートぞくはドナウがわ北岸ほくがん、のちに南岸なんがん定住ていじゅうした。ゴートぞく支配しはいは、フンぞくパンノニア平原へいげん到着とうちゃくし、アッティラ統率とうそつ、ドナウりょうきしにあったやく170箇所かしょのゴートぞく定住ていじゅう攻撃こうげきされ破壊はかいされて終焉しゅうえんむかえた。

中世ちゅうせい

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5世紀せいきから6世紀せいきにかけてひがしマ帝国まていこく影響えいきょうがあったことは、イポテシュティ・クンデシュティ(Ipoteşti-Cândeşti)の遺跡いせきなどによりあきらかである。しかし6世紀せいきなかばから7世紀せいきにかけてスラヴじんがワラキアへ移動いどうはじめ、定住ていじゅうした。スラヴじんひがしローマへの経路けいろにあたるドナウ南岸なんがん占領せんりょうした。593ねんひがしローマの将軍しょうぐんプリスクス(Priscus)はスラヴじんアヴァールじんゲピドじんかした。602ねん、スラヴじんひどい敗退はいたいきっした。マウリキウスみかど帝国ていこくぐんにドナウ北岸ほくがん展開てんかいするようめいじたが、ぐん強固きょうこ反対はんたい直面ちょくめんした。

ワラキアは、だいいちブルガリア帝国ていこくが681ねん成立せいりつしたさい支配しはいされ、10世紀せいき後半こうはんマジャルじんがトランシルヴァニアを征服せいふくするまでつづいた。ブルガリア帝国ていこくが(10世紀せいき後半こうはんから1018ねんにかけ)おとろひがしマ帝国まていこく従属じゅうぞくするようになると、10世紀せいきから11世紀せいきにかけ勢力せいりょく拡大かくだいしてきたトルコけいペチェネグぞくがワラキアを支配しはいにおいた。1091ねんごろみなみロシアのクマンじんがペチェネグぞく敗退はいたいさせ、モルダヴィアとワラキアの領土りょうど手中しゅちゅうれた。10世紀せいき初頭しょとう以降いこうひがしローマ、ブルガリア、ハンガリーの文献ぶんけんおくれて西欧せいおう文献ぶんけんにより、ルーマニアじん(ヴラフ)のしょう勢力せいりょくが、最初さいしょはトランシルヴァニアで、12世紀せいき・13世紀せいきにはトランシルヴァニア東部とうぶやカルパチア山脈さんみゃく南部なんぶで、クニャズ(Knyazおおやけ)やヴォイヴォド(Voivode総督そうとくまたは知事ちじ)にひきいられて乱立らんりつしていたことが記録きろくされている。

1241ねんモンゴルのヨーロッパ侵攻しんこう英語えいごばんでクマンじん支配しはい終焉しゅうえんむかえた。ワラキアはモンゴルの直接ちょくせつ支配しはいけたとおもわれるが立証りっしょうされていない。その、ワラキアの一部いちぶはしばらくのあいだハンガリー王国おうこくとブルガリアじんあいだ係争けいそうとなったようである。しかし、モンゴル侵攻しんこうけたハンガリー王国おうこく極度きょくど弱体じゃくたい手伝てつだい、ワラキアではあらたに強固きょうこしょ勢力せいりょく確立かくりつされることになった。これらしょ勢力せいりょくすうじゅう年間ねんかん存続そんぞくしたことが実証じっしょうされている。

公国こうこく誕生たんじょう

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ポサダのたたかい。14世紀せいきハンガリーの年代ねんだいクロニコン・ピクトゥムより

ワラキアのヴォイヴォドについてはじめてしるされた文献ぶんけんには、カルパチア山脈さんみゃく両側りょうがわ土地とちトランシルヴァニアのハツェグこくふくむ)を支配しはいしていたワラキアこうリトヴォイ(Litovoi)に関連かんれんする記述きじゅつ登場とうじょうする(1272ねん)。リトヴォイはハンガリーおうラースロー4せい朝貢ちょうこうすることをこばんだとされる。リトヴォイののちいだのはおとうとのバルバト(Bărbat在位ざいい1285ねん-1288ねん)であった。さらなるモンゴル侵攻しんこう(1285ねん-1319ねん)でハンガリー国家こっか弱体じゃくたいつづき、アールパード王家おうけ崩壊ほうかいしたことでワラキアしょ勢力せいりょく統合とうごう、そしてハンガリー支配しはいからの脱却だっきゃくみちけた。

ワラキアの建国けんこくは、伝承でんしょうによればワラキアおおやけラドゥ・ネグルRadu Negru)の業績ぎょうせきとされてきた。ラドゥ・ネグルは、歴史れきしがくじょうはオルトがわりょうきし支配しはい確立かくりつしハンガリーおうカーロイ1せいたい反乱はんらんこしたバサラブ1せい比定ひていされる。アルジェシュ地方ちほうのクネズ(首長しゅちょう)であったバサラブ1せい豪族ごうぞくたちをまとめげてバサラブあさ初代しょだいおおやけとなり、クンプルングに宮廷きゅうていをかまえた。バサラブ1せいファガラシュアムラシュAmlaş)、セヴェリンバナト領土りょうどをハンガリーへ割譲かつじょうすることをこばみ、1330ねんポサダのたたかルーマニアばんハンガリーばん英語えいごばんでカーロイ1せいぐん撃破げきはしたことによってワラキア公国こうこく独立どくりつ達成たっせいされた。バサラブはひがし領土りょうど拡張かくちょうし、のちのベッサラビアとなる、ブジャクのキリアにまでいた領土りょうど支配しはいした[2]。しかし、バサラブ1せい後継こうけいしゃらはキリアの支配しはい維持いじすることができず、キリアは1334ねんごろノガイじんによってうばわれた[3]

バサラブ1せいつぎにワラキアこうとなったのはニコラエ・アレクサンドルで、ニコラエのつぎヴラディスラフ1せい継承けいしょうした。ヴラディスラフ1せいは、ラヨシュ1せいがドナウがわ南部なんぶ占領せんりょうするとトランシルヴァニアを攻撃こうげきした。1368ねんには、ラヨシュ1せい大王だいおうみとめることを余儀よぎなくされたが、おなねんふたた反乱はんらんこした。ヴラディスラフ1せい統治とうち時代じだいにはまた、最初さいしょのワラキア=オスマン帝国ていこくあいだ紛争ふんそうしょうじた。たいトルコせんではブルガリア皇帝こうていイヴァン・シシュマンIvan Shishman)と同盟どうめいむすんだ[4]。ワラキアこうラドゥ1せいとその後継こうけいであるダン1せいのもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領土りょうどがハンガリー王国おうこくとのあいだあらそわれつづけていた[5]

バサラブ1せい以降いこう、ワラキアの統一とういつてき統治とうちしゃは「おおやけ」(ルーマニア:DomnまたはDomnitor英語えいご:Prince)とばれる。それぞれがだい土地とち所有しょゆうしゃであるボイェリ(Boyarボヤールとも。封建ほうけん貴族きぞく階級かいきゅう)は、自身じしん領地りょうちから賦役ふえきじゅうぶんいちぜいたてて、私兵しへいゆうする封建ほうけん領主りょうしゅであった。建国けんこくより16世紀せいき初頭しょとうまでおおやけバサラブあさ世襲せしゅうであったが、長子ちょうし相続そうぞくせい確立かくりつされず、公家くげ男子だんしならだれにでも即位そくいする資格しかくがあった。ボイェリたち自分じぶんたちにとって都合つごうのいい候補者こうほしゃてて、そうあらそった。そのため、公権こうけん弱体じゃくたいで、おおやけ終身しゅうしんせいまっているわけではなく、ごく短期たんき交替こうたいしたり、おな人物じんぶつが2、3おおやけにつくこともあった。

おおやけは、役職やくしょくしゃおよ無官むかんだいボイェリによって構成こうせいされるおおやけしつ評議ひょうぎかい補佐ほさされて統治とうちおこなった。役職やくしょくには、宮廷きゅうていにおける最高さいこう役職やくしょくである太政官だじょうかん(ヴォルニク)、おおやけしつ宮廷きゅうていさい重要じゅうよう役職やくしょくである宮内卿くないきょう(ロゴファット)、公国こうこく収入しゅうにゅう処理しょりする大蔵おおくらきょう(ヴィスティエール)、儀式ぎしきおおやけ刀剣とうけん保持ほじするおおやけけん保持ほじしょく(スパタール)、おおやけしつりょうおよ供奉ぐぶしゃがかりしゅうまりょう(コミス)、おおやけ個室こしつ管理かんりたる侍従じじゅう(ポステルニックまたはストラトルニック)、おおやけおよおおやけきゃくをもてなす内膳ないぜんあたま(ストルニック)、おおやけしつようワインの管理かんり購入こうにゅうやくつかさくりやしょく(パハルニックまたはチァシュニック)とう存在そんざいした[6]おおやけ建前たてまえじょう立法りっぽうけん行政ぎょうせいけん司法しほうけん統帥とうすいけん全権ぜんけん保有ほゆうするとされていたが、その権力けんりょくおおやけしつ評議ひょうぎかいによっていちじるしく制限せいげんされているのが実態じったいであった。

1400ねん-1600ねん

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ミルチャ1せいからラドゥ大公たいこう時代じだい

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ワラキアのけんあらわした地図ちず。1390ねんごろ[7]

バルカン半島ばるかんはんとう全体ぜんたいが、勃興ぼっこうしたオスマン帝国ていこく枢要すうよう部分ぶぶんとなることで、ワラキアはトルコとの常習じょうしゅうてき対決たいけつときついやされるようになった。ミルチャ1せい(ミルチャ老公ろうこう在位ざいい1386-1395ねん、1397-1418ねん時代じだい末期まっきにはワラキアはオスマン帝国ていこく属国ぞっこくとなった。

ミルチャ1せいはじすうたたかい(1394ねんロヴィネのたたかふくむ)でトルコを敗退はいたいさせ、てきドブルジャから駆逐くちくして短期間たんきかんながら自身じしん支配しはいドナウ・デルタ、ドブルジャ、シリストラにまでひろげた(1400–1404ねんごろ)。かれは、神聖しんせいローマ皇帝こうていジギスムント同盟どうめいしながら、一方いっぽうポーランドヤギェウォあさとも同盟どうめいむすんだ(どちらのくにともニコポリスのたたか同盟どうめいした)[8]。1417ねんメフメト1せいトゥルヌ・マグレレジュルジュ支配しはいにおいたのち、ミルチャ1せいはオスマン帝国ていこく宗主そうしゅけんれた。この2つの港町みなとちょう短期間たんきかん中断ちゅうだんがあったものの、1829ねんまでぐん直轄ちょっかつとしてトルコの支配しはいにおかれた。1418ねんから1420ねんミハイル1せい英語えいごばんがセヴェリンでトルコをかしたが、ミハイルはトルコの反撃はんげき戦死せんしした。1422ねんダン2せい英語えいごばんが、ハンガリー軍人ぐんじんピッポ・スパノ英語えいごばんたすけをムラト2せいぐんかし[9]たいトルコ危機ききはしばらくのあいだワラキアからとおざかった。

1493ねんニュルンベルク年代ねんだいえがかれたワラキア

1428ねん和平わへいむすばれるとワラキア国内こくない危機ききはいった。ダン2せいはラドゥ・プラスナグラヴァ(のちのラドゥ2せい)から自身じしん防衛ぼうえいしなければならなかった。ラドゥは、既定きていのワラキアこう対抗たいこうして、率先そっせんしてボイェリ連合れんごうむすんだ(当時とうじ、ボイェリらはトルコによる抑圧よくあつおうじて公然こうぜんしんトルコとなっていた)[10] 。1431ねんにボイェリがわ勝利しょうりおさめ(ボイェリが後押あとおしをしたアレクサンドル1せいアルデア英語えいごばんがワラキアこうとなった)、アルデアはおよそ5年間ねんかんおおやけにあったが、ボイェリらはアルデアの異母弟いぼていヴラド2せいから継続けいぞくてき攻撃こうげきけた。そのヴラド2せいにしても、やはりトルコのだい宰相さいしょうかみきよしマ帝国まていこくあいだ妥協だきょうはかろうとした [11]。しかし1444ねんヴァルナのたたかでスルタン・ムラト2せいぐんキリスト教きりすときょうこく連合れんごうぐん大敗たいはいしたのち、ヴラド2せいはトルコに従属じゅうぞくするほかなくなり、ハンガリーの将軍しょうぐんフニャディ・ヤーノシュ敵対てきたいするようになる。

そのの10年間ねんかんは、おなじバサラブあさながら、ダン1せいはじまるダネシュティとダン1せいおいのヴラド2せいはじまるドラクレシュティとのおおやけあらそい、ハンガリー王国おうこく摂政せっしょうとなったフニャディ・ヤーノシュの影響えいきょうりょく増大ぞうだいヴラディスラフ2せい中立ちゅうりつてき支配しはいのちの、ヴラド2せい次男じなんヴラド3せい興隆こうりゅう目立めだった[12]ヴラド3時代じだいに、ブカレストはワラキアこう居住きょじゅうとしてはじめて歴史れきしじょうあらわした。ヴラド3せい反抗はんこうてきなボイェリたちに恐怖きょうふ政治せいじき、ボイェリとオスマン帝国ていこくとのすべてのつながりをった。かれは1462ねんトゥルゴヴィシュテの夜襲やしゅうにおいてメフメト2せいぐん打撃だげきあたえたが、トゥルゴヴィシュテ退却たいきゃくいられ、以前いぜんよりさらにおおくの朝貢ちょうこうまされた[13] 。ヴラド3せい時代じだいには、イスラム教徒きょうと改宗かいしゅうした実弟じっていラドゥ3せい美男びなんおおやけバサラブ3せいライオタとの対立たいりつたいトルコせん平行へいこうしてつづき、ハンガリーおうマーチャーシュ1せいぐんのワラキア侵攻しんこう、モルダヴィアこうシュテファン3せい(シュテファン大公たいこう)のワラキア占領せんりょう、ラドゥ3せいによるワラキア征服せいふくとそのまでの11年間ねんかん支配しはいといった事態じたいまねいた[14]。1495ねんにワラキアこうとなったラドゥ4せい英語えいごばん(ラドゥ大公たいこう)はボイェリらといくつかの妥協だきょうをし、かれはモルダヴィアこうボグダン3せいとの衝突しょうとつがあったものの、国内こくない安定あんていした時代じだいまもった[15]

ミフネア・チェル・ラウこうからペトル・チェルチェルおおやけまで

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15世紀せいき後半こうはんには、有力ゆうりょくなボイェリで、オルテニアのバン総督そうとく)として事実じじつじょう独立どくりつした支配しはいしゃであったクラヨヴェシュティからのおおやけ就任しゅうにんがみられた。ワラキアこうミフネア・チェル・ラウ(ミフネア悪行あくぎょうこう、ヴラド3せい)と対立たいりつしていたクラヨヴェシュティはオスマン帝国ていこく支援しえんもとめ、ミフネアにえてヴラドゥツ(Vlăduţ)をおおやけにつけた。このヴラドゥツがバンにたいして敵意てきいしめすと、バサラブはクラヨヴェシュティ出身しゅっしんのワラキアこうネアゴエ・バサラブ台頭たいとう公式こうしき断絶だんぜつした[16]。ネアゴエこうおさめた平和へいわ時代じだい(1512ねん-1521ねん)は、文化ぶんかてき興隆こうりゅう特徴とくちょうてきで(クルテア・デ・アルジェシュ聖堂せいどうCurtea de Argeș Cathedral建設けんせつルネサンス流入りゅうにゅうなど)、また、ブラショフシビウにおけるトランシルヴァニア・ザクセンじん商人しょうにん影響えいきょうつよくなった。そしてワラキアは、ハンガリーおうラヨシュ2せい同盟どうめい関係かんけいにあった[17]。ネアゴエのテオドシエ(Teodosie)がワラキアこうとなってから、ふたたび4ヶ月かげつあいだにわたるオスマン帝国ていこく支配しはいをうけ、ワラキアにおけるパシャルクパシャりょう創設そうせつ目論もくろんだとみられる軍政ぐんせいかれた[18]。この危機ききが、ワラキアこうラドゥ・デ・ラ・アフマツィ(Radu de la Afumaţi)を支援しえんすべくすべてのボイェリを結集けっしゅうさせた(かれは1522ねんから1529ねんにかけ、4ワラキアこうになっている)。ラドゥはクラヨヴェシュティスレイマン1せいとの合意ごういのちたたかいにやぶれた。ラドゥこう結局けっきょくスレイマンの地位ちい宗主そうしゅけん認証にんしょうし、以前いぜんより多額たがく朝貢ちょうこうおさめることを承諾しょうだくした[18]

16世紀せいき後半こうはんのワラキア(緑色みどりいろ部分ぶぶん

オスマン帝国ていこく宗主そうしゅけんはそれから90年間ねんかんつうじて事実じじつじょうおびやかされることなくつづいた。1545ねんにスレイマンによってわれたワラキアこうラドゥ・パイシエは、同年どうねんにオスマン施政しせいたいブライラみなと譲渡じょうとした。ラドゥ・パイシエの後継こうけいミルチャ・チョバヌル(en:Mircea Ciobanul在位ざいい1558ねん-1559ねん)は財産ざいさん相続そうぞくけんあたえられることなくおおやけくことを強要きょうようされ、そのために自治じちけん縮小しゅくしょうんだ(徴税ちょうぜい増額ぞうがく、およびしんトルコのハンガリー王位おうい請求せいきゅうしゃサポヤイ・ヤーノシュ支援しえんするためのトランシルヴァニアへの軍事ぐんじ介入かいにゅう実施じっし[19]。ボイェリの一族いちぞくらのあいだ対立たいりつがパトラシュク・チェル・ブン(Pătraşcu cel Bunおおやけ時代じだい以後いご緊迫きんぱくし、ボイェリが支配しはいしゃ以上いじょう優勢ゆうせいほこることが、ペトル・チェル・トゥナル(Petru cel Tânărおおやけ(1559–1568ねん摂政せっしょうドアムナ・キアジナDoamna Chiajna執政しっせいし、徴税ちょうぜい高騰こうとうられる)、ミフネア・トゥルチトゥルペトル・チェルチェル時代じだいには露骨ろこつとなった[20]。ボイェリたちは、西欧せいおう貴族きぞくのような称号しょうごうっていなくとも、財産ざいさんにものをわせて官職かんしょくうことは可能かのうであったし、そのうえイスタンブールのスルタンやだい宰相さいしょう献金けんきんをすればおおやけという最高さいこうえた。また、オスマン帝国ていこくほうも、ふるくからあるボイェリによるワラキアこう選挙せんきょせいのこしつつも、帝国ていこく人物じんぶつ有利ゆうりになるよう買収ばいしゅうおこなうことはめずらしくなかった。どう時代じだいオスマン帝国ていこくりょうハンガリーやバルカンしょ民族みんぞくちがい、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの3公国こうこく帝国ていこく占領せんりょうされず、パシャりょうにもならなかったのは事実じじつである。しかし、帝国ていこく上記じょうきの3公国こうこく属国ぞっこくとみなしていたのである。

オスマン帝国ていこくは、オスマン帝国ていこくぐん物資ぶっし供給きょうきゅう維持いじ管理かんりのため、ますますワラキアとモルダヴィアの徴税ちょうぜいたよっていった。一方いっぽう地元じもとワラキアのぐんは、いられる負担ふたん増加ぞうかや、傭兵ようへいぐんのほうがはるかに効率こうりつてきであることが明白めいはくとなったことから、やがて消滅しょうめつしてしまった[21]

17世紀せいき

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1595ねん、ジュルジュでのミハイ勇敢ゆうかんこうとトルコの戦闘せんとう

当初とうしょはオスマン帝国ていこく支援しえん利用りようして、1593ねんミハイ勇敢ゆうかんこうen:Michael the Brave)がワラキアおおやけについた。ミハイはトランシルヴァニアこうバートリ・ジグモンドとモルダヴィアこうアロン・ヴォダ(Aron Vodă)と同盟どうめいむすんだうえ、ドナウのみなみ北岸ほくがんムラト3せいぐん攻撃こうげきした(カルガレニのたたか)。ミハイはやがて神聖しんせいローマ皇帝こうていルドルフ2せい臣下しんかはいり、1599ねんから1600ねんにはポーランド・リトアニア共和きょうわこく時代じだいのポーランドおうジグムント3せい対抗たいこうしてトランシルヴァニアに干渉かんしょうし、トランシルヴァニアをミハイの支配しはいいた。ミハイの支配しはいみじかかったものの、翌年よくねんにはモルダヴィアへ拡大かくだいした [22]短期間たんきかんながらミハイはルーマニアじんぜん地域ちいき統合とうごうし、古代こだいダキア王国おうこく主要しゅよう再興さいこうした。ミハイの没落ぼつらくにつれて、ワラキアはシミオン・モヴィラひきいるポーランド=モルダヴィア連合れんごうぐん占領せんりょうされた(モルダヴィア・マグナート戦争せんそうMoldavian Magnate Wars)。モヴィラによる占領せんりょうは1602ねんまでつづいたが、同年どうねんにはトルコけいノガイじんによる攻撃こうげきけた[23]

オスマン帝国ていこく拡大かくだいにおける最終さいしゅう局面きょくめんでは、ワラキアの緊張きんちょう増大ぞうだいした。政治せいじ支配しはいつづき、オスマン帝国ていこく経済けいざいてき主導しゅどうけんにぎり、首都しゅとであったトゥルゴヴィシュテが見捨みすてられブカレストがえらばれた(ブカレストはオスマン帝国ていこくとの国境こっきょうちかく、貿易ぼうえき中心ちゅうしんとして急速きゅうそく成長せいちょうしていた)。ミハイ勇敢ゆうかんこう治下ちかでは荘園しょうえんでの収入しゅうにゅう増加ぞうかさくとして農奴のうどせい確立かくりつされ、下級かきゅうボイェリらの重要じゅうようせいうすれた(消滅しょうめつおそれた下級かきゅうボイェリらは1655ねんセイメニらんこした)[24] 。そのうえ土地とち所有しょゆうよりも高位こうい官職かんしょく任命にんめいされる重要じゅうようしたことから、かね官位かんいうべくギリシャじんレバントひとにすりより、これら一族いちぞく流入りゅうにゅうをもたらすことになった(ファナリオティス参照さんしょう。ギリシャじんらはワラキアじんおな正教会せいきょうかい信徒しんとであり、金融きんゆうぎょういとなんでいたため富裕ふゆうであった)。この過程かていすでに17世紀せいき初頭しょとうラドゥ・ミフネアおおやけ時代じだい地元じもとボイェリによって不快ふかいおもわれていた [25] 。ボイェリによって任命にんめいされたマテイ・バサラブは、1653ねんフィンタのたたかBattle of Finta。モルダヴィアこうヴァシレ・ルプかした)をのぞけば、ワラキアこうとして比較的ひかくてきなが平和へいわ時代じだいをもたらした(1632ねん-1654ねん)。フィンタのたたかいののちにルプがおおやけわれ、マテイこういきのかかったゲオルゲ・シュテファンヤシでモルダヴィアおおやけについた。ゲオルゲ・シュテファンこうと、マテイの後継こうけいであるコンスタンティン・シェルバン密接みっせつ同盟どうめい関係かんけいは、トランシルヴァニアの支配しはいしゃラーコーツィー・ジョルジ2せいによって維持いじされた。しかし、オスマン支配しはいから独立どくりつするための3公国こうこく計画けいかくは、1658ねんから1659ねんにかけおそったメフメト4せいぐんやぶられた[26]。スルタンのおりであったグリゴレ1せいギカゲオルゲ・ギカ統治とうちは、そのような反抗はんこう未然みぜんちくためのものであった。しかし、それが、ボイェリであるバレアヌBăleanu)とカンタクジノ(ギリシャじんはじまるファナリオティスの家柄いえがら)とのあいだなまぐさい衝突しょうとつがねとなった。このこうそうは1680年代ねんだいまでワラキア史上しじょうだい事件じけんであった[27]。カンタクジノは、同盟どうめいむすんでいたバレアヌギカおびやかされ、まずアントニエ・ヴォダゲオルゲ・ドゥカといったカンタクジノえらんだワラキアこう後援こうえん[28]のちには同族どうぞくからワラキアこうした。それが1678ねんから10年間ねんかんワラキアこうであったシェルバン・カンタクジノである。シェルバンはブカレストに公国こうこくはつ学校がっこう創立そうりつし、各種かくしゅ活字かつじ印刷いんさつ導入どうにゅう同意どういした。シェルバンはルーマニア・キリル文字もじかれたルーマニアわけ聖書せいしょ通称つうしょうカンタクジノ聖書せいしょ)の編纂へんさんめいじた。この聖書せいしょはそのながきにわたってルーマニア正教会せいきょうかいもちいられた。

戦争せんそうとファナリオティス時代じだい

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1699ねんバルカン半島ばるかんはんとう地図ちず。オスマン帝国ていこくりょうおよ属国ぞっこくピンク色ぴんくいろ地域ちいき

ワラキアは1690ねん前後ぜんこうだいトルコ戦争せんそう終盤しゅうばんハプスブルク帝国ていこく(オーストリア)による侵攻しんこう標的ひょうてきとなった。当時とうじ、ワラキアこうコンスタンティン・ブルンコヴェアヌ英語えいごばん秘密ひみつうらはんオスマン連合れんごう形成けいせいするための交渉こうしょうおこなっていたが失敗しっぱいわった。ブルンコヴェアヌの統治とうち時代じだい(1688ねん-1714ねん)は、後期こうきルネサンス文化ぶんかブルンコヴェアヌ様式ようしき英語えいごばん)が花開はなひらいたことでられる。そして同時どうじロシア皇帝こうていピョートル1せい大帝たいてい) のもとで帝政ていせいロシアが台頭たいとうした。

ブルンコヴェアヌは戦争せんそう (1710ねん-1711ねん)最中さいちゅうピョートル1せい接近せっきんけた。しかしスルタン・アフメト3せいにロシアとの交渉こうしょうられてしまいおおやけうしない、逮捕たいほされイスタンブールへ連行れんこうされた。そして3ねん1714ねん8がつ、ブルンコヴェアヌは4にん息子むすこたちとも斬首ざんしゅけいしょされた[29]。ワラキアこうシュテファン・カンタクジノ英語えいごばんは、ブルンコヴェアヌの政略せいりゃく非難ひなんしたにもかかわらず、自身じしんはんオスマン帝国ていこくまわりハプスブルク計画けいかくくわわり、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(プリンツ・オイゲン)ひきいるオーストリアぐんたいしワラキアを通過つうかできるようにした。カンタクジノもおおやけからわれちち叔父おじともにイスタンブールへ連行れんこうされ、1716ねんに3にんとも処刑しょけいされた[30]

シュテファン・カンタクジノの廃位はいいすぐに、オスマン帝国ていこくは、たんなる形式けいしきしていたワラキアこう選挙せんきょ制度せいど廃止はいしした(すで当時とうじ国民こくみん議会ぎかい重要じゅうようせい低下ていかし、スルタンの決定けっていくつがえすだけのちからうしなっていた)。ワラキア、モルダヴィアりょう公国こうこく君主くんしゅはイスタンブールのファナリオティスなかから任命にんめいされていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミールおおやけのあと、ニコラエ・マヴロコルダトルーマニアばんおおやけ就任しゅうにんし、ファナリオティス支配しはいはマヴロコルダトこうによって1715ねんにワラキアへも導入どうにゅうされた[31]。ボイェリとおおやけあいだ緊張きんちょう関係かんけいにより、ボイェリのだい多数たすう免税めんぜい特権とっけんあたえられたことで徴税ちょうぜい対象たいしょうしゃり、その結果けっか公国こうこく全体ぜんたい課税かぜい増額ぞうがくされた[32]。マヴロコルダトは貨幣かへい経済けいざい成長せいちょう容認ようにんし、荘園しょうえんせい衰退すいたいをもたらした。御前ごぜん会議かいぎDivan最高さいこう会議かいぎとも)においてボイェリ集団しゅうだんちから増大ぞうだいしたのも事実じじつである[33]

同時どうじに、ワラキアはオスマン帝国ていこくたいロシア、またはオスマンたいハプスブルクの戦争せんそう連続れんぞくで、戦場せんじょうとなっていった。マヴロコルダット自身じしんはボイェリの反乱はんらんによっておおやけわれ、おう戦争せんそう最中さいちゅうにハプスブルクぐんによって逮捕たいほされた。戦争せんそうパッサロヴィッツ条約じょうやくでオスマン帝国ていこくオルテニア神聖しんせいローマ皇帝こうていカール6せい割譲かつじょうした[34]

オルテニアは啓蒙けいもう主義しゅぎ支配しはい影響えいきょうけ、すぐに地元じもとボイェリらが覚醒かくせいさせられた。オルテニアは1739ねんベオグラード条約じょうやくによってワラキアへ復帰ふっきした(1737ねんから1739ねんにかけこったオーストリア・ロシア・トルコ戦争せんそう結果けっか)。国境こっきょうせん変更へんこうったワラキアこうコンスタンティン・マヴロコルダト英語えいごばんは、1746ねん農奴のうどせい公式こうしき廃止はいし実施じっしした(これには、おも負担ふたんにあえぐ農民のうみん隣国りんごくのトランシルヴァニアへ大量たいりょう移住いじゅうするのをめる目的もくてきがあった)[35] 。この時代じだい、オルテニアのバン住居じゅうきょクラヨーヴァからブカレストへうつし、またマヴロコルダトの命令めいれいで、バンの私的してき財源ざいげん国庫こっこ統合とうごうした。これが中央ちゅうおう集権しゅうけん政権せいけんへとかうながれとなった[36]

ブカレストに到着とうちゃくしたフリードリヒ・ヨジアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトぐん。1789ねん

戦争せんそう (1768ねん-1774ねん) 最中さいちゅうの1768ねん, ワラキアはロシアによる最初さいしょ占領せんりょうにおかれた(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国ていこくぐん士官しかんであったはんトルコの首領しゅりょうプルヴ・カンタクジノ英語えいごばん反乱はんらんによってロシアは占領せんりょうするのに有利ゆうりであった)[37]。1774ねんキュチュク・カイナルジ条約じょうやくは、オスマン帝国ていこく属国ぞっこくない正教会せいきょうかい信徒しんと保護ほごをロシアにゆだねたため、オスマン帝国ていこくによる圧力あつりょくよわまり、ロシアの介入かいにゅうゆるすことになった。この条約じょうやくには義務ぎむとなってきたトルコへの朝貢ちょうこう減額げんがくふくまれていた[38]同時どうじにトルコは、みなみブーフがわドニエプルがわはさまれた地域ちいきをロシアへ割譲かつじょうしたため、はじめてロシア領土りょうど黒海こっかい沿岸えんがんたっした。やがて国内こくない比較的ひかくてき安定あんていし、ワラキアはさらにロシアの干渉かんしょうけるようになった[39]

戦争せんそう (1787ねん-1791ねん)最中さいちゅうフリードリヒ・ヨージアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトひきいるハプスブルクぐんがワラキアへ入国にゅうこくし、1789ねんにワラキアこうニコラエ・マヴロゲニルーマニアばん退位たいいさせた[40]。この危機ききに、オスマン帝国ていこく影響えいきょう復活ふっかつした。オルテニアはオスマン・パズヴァントグル英語えいごばん遠征えんせいによりらされた。パズヴァントグルは強力きょうりょく反逆はんぎゃくてきなパシャで、パズヴァントグルの反乱はんらん影響えいきょうにより、ワラキアこうコンスタンティン・ハンゲルリ英語えいごばん反逆はんぎゃくざい容疑ようぎをかけられ1799ねん処刑しょけいされることにもなった[41]。1806ねん戦争せんそう (1806ねん-1812ねん) は、ざいブカレストのワラキアこうコンスタンティン・イプシランティ英語えいごばん御前ごぜん会議かいぎ決定けっていによって退位たいいさせられたことが原因げんいんひとつとなってこされた。この退位たいいナポレオン戦争せんそう進展しんてんわせ、フランスだいいち帝政ていせいによって誘発ゆうはつされたのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約じょうやく影響えいきょうがみてとれる(ワラキアおよびモルダヴィアで構成こうせいされるドナウ公国こうこくDanubian Principalities)ではロシアの政治せいじてき影響えいきょうりょくたいして許容きょようてき姿勢しせいがみられた)。この戦争せんそうで、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍しょうぐんひきいるロシアぐん占領せんりょうされた[42]

1793ねんから1812ねんのワラキア公国こうこく緑色みどりいろ部分ぶぶん

1812ねんブカレスト和平わへい条約じょうやくヨアン・カラドジャ英語えいごばんおおやけ時代じだいペストだい流行りゅうこうen:Caradja's plague)でられるが、また文化ぶんか産業さんぎょう育成いくせい事業じぎょうにおいてられている[43]。この時代じだいのワラキアは、ロシア帝国ていこく拡大かくだい警戒けいかいするヨーロッパ諸国しょこくおおくにとっての戦略せんりゃくじょう要地ようちとなっていた。ブカレスト和平わへい条約じょうやくでロシアは正式せいしきベッサラビア併合へいごうし、モルダヴィア公国こうこく近接きんせつするようになったためである。領事館りょうじかんがブカレストで開設かいせつされ、スディツィ商人しょうにん(オーストリア、ロシア、フランスに保護ほごされたワラキア商人しょうにんたいする名称めいしょう)にたい恩恵おんけいあた保護ほごすることをとおし、間接かんせつてきながらワラキア経済けいざいへのおおきな効果こうかおよぼした。スディツィはやがて地元じもとギルドたい競争きょうそうりょく優位ゆういった[44]

ワラキアからルーマニアへ

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19世紀せいき初頭しょとう

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1821ねん、ワラキアこうアレクサンドル・スツは、ギリシャ独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつどう時期じきであった。スツのによりボイェリによる摂政せっしょう体制たいせいとなり、スカルラト・カリマキ(Scarlat Callimachi)がブカレストでおおやけにつくべくやってくるのを妨害ぼうがいしようとした。同時どうじきた1821ねんワラキア蜂起ほうきは、トゥドル・ウラジミレスク民兵みんぺい首領しゅりょうとしてこした。ウラジミレスクはギリシャけいによる支配しはい転覆てんぷくねらっていた[45]。しかしウラジミレスクはフィリキ・エテリアぞくするギリシャじん革命かくめいらと妥協だきょうし、摂政せっしょうらと同盟どうめいした[46]。その一方いっぽうで、ロシアの支援しえんもとめた[47]

1821ねん3がつ21にち、ウラジミレスクはブカレストへはいった。そのすう週間しゅうかんで、とくにウラジミレスクがオスマンぐん対抗たいこうする準備じゅんびをしながらもオスマン帝国ていこく合意ごういようとしたため、ウラジミレスクと同盟どうめいしゃあいだ関係かんけい悪化あっかした[48]。フィリキ・エテリアの指導しどうしゃアレクサンドル・イプシランチはモルダヴィアで蜂起ほうきした。その5がつ、ワラキア北部ほくぶで、同盟どうめい崩壊ほうかいしたとて、イプシランチはウラジミレスクをらえ処刑しょけいした。このためにイプシランチは、ウラジミレスクがわについていたパンドゥル(Pandur民兵みんぺい組織そしき)やロシア帝国ていこくうしたてなしに、侵攻しんこうしてきたスルタンのぐん直面ちょくめんすることとなった。イプシランチぐんはブカレストとドラガシャニ大敗たいはいきっした(イプシランチはオーストリア帝国ていこく逃亡とうぼうし、トランシルヴァニアで監禁かんきんされることになる)[49]。これらの反乱はんらんでファナリオティスのだい多数たすうがイプシランチひきいるフィリキ・エテリアを支持しじしたのをけ、スルタン・マフムト2せい公国こうこく占領せんりょうし(ヨーロッパ諸国しょこく要請ようせい放棄ほうきさせられる)[50]、また、ファナリオティス支配しはい終結しゅうけつ裁定さいていした。ワラキアでは、1715ねん以降いこうはつとなるワラキア出身しゅっしんおおやけグリゴレ4せいギカ即位そくいした。ワラキアの残部ざんぶ国家こっか領土りょうどとしてしん体制たいせい発足ほっそくしたが、ギカによる支配しはい戦争せんそう (1828ねん-1829ねん)による破壊はかい短期間たんきかんられた[51]

1837ねん、ワラキアでの立法りっぽう議会ぎかい

1829ねんアドリアノープル条約じょうやくで、オスマン帝国ていこく宗主そうしゅけん打倒だとうされることなく、ワラキアとモルダヴィアはロシア軍政ぐんせいにおかれ、両国りょうこくにははつ合同ごうどう行政ぎょうせい組織そしき擬似ぎじてき憲法けんぽうである「組織そしき規定きてい」(Regulamentul Organic)があたえられた。オスマン帝国ていこくは、それまでのぐん直轄ちょっかつブライラジュルジュ(この2都市としはやがてドナウがわ沿いの主要しゅよう通商つうしょう都市としへと発展はってんしていく)、トゥルヌ・マグレレをワラキアへ返還へんかんした [52]条約じょうやくにより、ワラキアとモルダヴィアにはオスマン帝国ていこく以外いがいくにとの自由じゆう貿易ぼうえき許可きょかされ、たか経済けいざい成長せいちょう都市とし発展はってん農民のうみん生活せいかつじょうきょう改善かいぜんにつながった[53]おおくの条項じょうこうが、1826ねんのロシア=トルコあいだアッケルマン条約じょうやくによって規定きていされた(ただし3年間ねんかん履行りこう期間きかんちゅう完全かんぜん履行りこうされることはなかった)[54]りょう公国こうこく統治とうち権限けんげんはロシアの将軍しょうぐんパーヴェル・キセリョフゆだねられた。この時期じきには、ワラキアぐんさい設立せつりつ(1831ねん)、税法ぜいほう改正かいせい(それでもなお特権とっけん階級かいきゅうのための免税めんぜい措置そち維持いじされた)、ブカレストや都市としにおけるだい規模きぼ都市とし基盤きばん整備せいびなど、おおきな変化へんかつづいた[55]。1834ねん、ワラキアのおおやけアレクサンドル2せいギカた。アドリアノープル条約じょうやくはんし、ギカはあらたに設立せつりつされた立法りっぽう議会ぎかいによってえらばれていなかった。ギカは1842ねん宗主そうしゅこく(ロシアとオスマン帝国ていこく)から地位ちいわれ、議会ぎかい認定にんていしたおおやけゲオルゲ・ビベスクってわられた[56]

1840年代ねんだいから1850年代ねんだい

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革命かくめいによってげられたさんしょくはた図案ずあんこのさんしょくナショナルカラーとして、のちのルーマニアモルドバがれてくこととなる
1848ねん革命かくめい活動かつどうが、初期しょきのルーマニア国旗こっきかかげる

アレクサンドル2せいギカの専横せんおうきびしい保守ほしゅ主義しゅぎ支配しはいたいする抵抗ていこうや、自由じゆう主義しゅぎ台頭たいとう急進きゅうしん主義しゅぎ勃興ぼっこうは、イオン・クムピネアヌ(Ion Câmpineanu)による抗議こうぎ活動かつどうかたちはじめて表面ひょうめんした(またた弾圧だんあつされた)[57]。そのためにますます政府せいふ打倒だとう陰謀いんぼうえ、ニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitică Filipescu)といったわか士官しかんらによって結成けっせいされた秘密ひみつ結社けっしゃ勢力せいりょく結集けっしゅうしていった[58]

1843ねん結成けっせいされた秘密ひみつ結社けっしゃフラツィア(Frăţia、ルーマニア友愛ゆうあい)は、1848ねんにはゲオルゲ・ビベスク政権せいけんたお革命かくめい、および組織そしき規定きてい(Regulamentul Organic)の無効むこう計画けいかくはじめた(ヨーロッパ諸国しょこくきた1848ねん革命かくめい触発しょくはつされていた)。フラツィアらのワラキア全土ぜんどクーデター最初さいしょ群衆ぐんしゅうが6がつ9にち新暦しんれきでは6がつ21にち)のイスラズ宣言せんげんen:Islaz Proclamation)に喝采かっさいをおくったトゥルヌ・マグレレ付近ふきん成功せいこうしただけであった。宣言せんげんには、外国がいこくによる保護ほごせい廃止はいし完全かんぜん独立どくりつ農地のうち解放かいほう国民こくみん防衛ぼうえいたい創設そうせつまれていた[59]。6月11にちから12にち運動うんどうはビベスクこう退位たいいさせることに成功せいこうし、臨時りんじ政府せいふ設立せつりつされた。オスマン帝国ていこくは、革命かくめいはんロシアてき目的もくてき共感きょうかんかんじていたものの、ロシアの圧力あつりょく革命かくめい運動うんどうさえつけた。トルコぐんは9月13にち、ブカレストへはいった[60]。ロシアとトルコのぐんは、1851ねんまで占領せんりょうつづけた。退位たいいしたビベスクこうつぎにワラキアこうとなったのは、ロシア皇帝こうていとスルタンから指名しめいされたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命かくめい関係かんけいしゃおおくが国外こくがい亡命ぼうめいした。

クリミア戦争せんそうあいだロシアによるワラキア占領せんりょう事実じじつじょう再開さいかいされ、戦後せんごにワラキアとモルダヴィアは中立ちゅうりつこくオーストリア帝国ていこく管理かんり(1854ねん-1856ねん)におかれ、パリ条約じょうやくもとづいてあらたな地位ちいあたえられた。条約じょうやくには、オスマン帝国ていこくによる宗主そうしゅけんをヨーロッパ列強れっきょうイギリスフランスだい帝政ていせいサルデーニャ王国おうこく、オーストリア帝国ていこくプロイセン王国おうこく、ロシア帝国ていこく)の保障ほしょうきでみとめること、列強れっきょう会議かいぎ、カイマカム(en:kaymakam、トルコの地方ちほう長官ちょうかんしょく主導しゅどう内政ないせい管理かんりなどがまれていた。ドナウ公国こうこく合同ごうどう目指めざ運動うんどう最初さいしょ1848ねん要求ようきゅうされ、亡命ぼうめいした革命かくめい帰還きかんによって強固きょうこになった)ががり、フランス帝国ていこくとサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護えんごした。しかし、のすべての保護ほごこく拒絶きょぜつするか不審ふしんした[61]

1857ねんのワラキアでのディヴァン

はげしい運動うんどうのち正式せいしきなモルドヴィア=ワラキア合同ごうどう公国こうこく最終さいしゅうてき承認しょうにんされた。協定きょうていによってそれぞれの公国こうこくは、現地げんち出身しゅっしんおおやけ議会ぎかい選挙せんきょせい議会ぎかいつものの、りょう公国こうこく共通きょうつう司法しほう裁判所さいばんしょつことになった。ボイェリの特権とっけんはこのとき廃止はいしされた。それにもかかわらず、1859ねん暫定ざんてい議会ぎかいAd hoc Divans選挙せんきょほう解釈かいしゃく余地よちくことができるものであった(最終さいしゅう合意ごうい原文げんぶんにはりょう公国こうこくそれぞれのおおやけ明文化めいぶんかしていたが、同時どうじ一人ひとり人物じんぶつが、ブカレストのワラキア議会ぎかいと、ヤシのモルダヴィア議会ぎかいでの選挙せんきょ立候補りっこうほ当選とうせんすることをさまたげなかった)。自由じゆう主義しゅぎ政党せいとうパルティダ・ナツィオナラ(Partida Naţională)の合同ごうどう主義しゅぎしゃとして立候補りっこうほした軍人ぐんじんアレクサンドル・ヨアン・クザが、1がつ5にちにモルダヴィアでモルダヴィアこう選出せんしゅつされた。同様どうよう投票とうひょう結果けっかられると合同ごうどう主義しゅぎしゃらが予想よそうしたワラキアでは、最高さいこう会議かいぎにおいておおくのはん合同ごうどう主義しゅぎしゃかえきをたし多数たすうとなった[62]

このような状況じょうきょうで、ブカレストにあつまった群衆ぐんしゅう抗議こうぎ行動こうどうこすと、議員ぎいんらの支持しじ傾向けいこう変化へんかしょうじた[62]。2月5にち旧暦きゅうれきでは1がつ24にち)、クザがワラキアこう選出せんしゅつされた。これにともないクザはモルドヴィア=ワラキア合同ごうどう公国こうこくおおやけDomnitor)として承認しょうにんされた(ルーマニア公国こうこく成立せいりつ、1861ねん以後いごはルーマニアこうとなる)。これで事実じじつじょう合同ごうどうたしたのだが、合同ごうどう公国こうこく国際こくさいてき承認しょうにんされたのはクザいちだい在位ざいい期間きかんのみで、後任こうにんおおやけ在位ざいい期間きかんにおける効力こうりょくはなかった。クザは7ねんおよ在位ざいいあいだ寄進きしん修道院しゅうどういん所領しょりょう世俗せぞく農地のうち改革かいかくトル法とるほう採用さいよう刑法けいほうてん民法みんぽうてん整備せいびナポレオン法典ほうてん模範もはんとする)、教育きょういく制度せいど整備せいびおこなった。これらの改革かいかく活動かつどうによってクザは保守ほしゅ自由じゆう両派りょうは対立たいりつかえすようになった。クザが支持しじうしない1866ねん2がつ退位たいいさせられたのち合同ごうどう維持いじすることをだいいちかんがえた臨時りんじ政府せいふは、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンのカール公子こうしカロル1せい)をあらたなおおやけえらんだ。同年どうねん7がつ1にち憲法けんぽう制定せいていされ(1866ねん7がつ1にち憲法けんぽう)、正式せいしき国名こくめいがルーマニアとなった。カロルの即位そくい以後いごりょう公国こうこく合同ごうどう解消かいしょうできないことになった(ひろしおう戦争せんそうどう時期じきであった。このときオーストリアは決定けってい反対はんたい立場たちばをとったが、干渉かんしょうする立場たちばになかった)。

サン・ステファノ条約じょうやくベルリン会議かいぎて、ルーマニア王国おうこく独立どくりつ国家こっかとして正式せいしき列強れっきょうから承認しょうにんされるのは、1881ねんのことである。

ワラキアまれのルーマニアじん

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社会しゃかい制度せいど

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奴隷どれい制度せいど

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ワラキアの社会しゃかい制度せいど特筆とくひつすべきは、奴隷どれい制度せいどながらく存在そんざいしたことである。奴隷どれい対象たいしょうロマじんであった。これはイスラム勢力せいりょく支配しはい時期じき廃止はいしされていたが、その存在そんざいして、19世紀せいきルーマニア公国こうこくいた自由じゆう主義しゅぎしゃにより奴隷どれい制度せいど廃止はいしになったが、21世紀せいきになってもロマじん問題もんだいはルーマニアでいている[63]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ Ştefănescu, p.114
  3. ^ Ştefănescu, p.119
  4. ^ Ştefănescu, p.93-94
  5. ^ Ştefănescu, p.94
  6. ^ ニコラエ・ストイチェク『ドラキュラ伯爵はくしゃく ルーマニアにおけるただしい史伝しでん中公ちゅうこう文庫ぶんこ, p.50
  7. ^ Petre Dan, Hotarele românismului în date, Editura, Litera International, Bucharest, 2005, p.32, 34. ISBN 973-675-278-X
  8. ^ Ştefănescu, p.97
  9. ^ Ştefănescu, p.105
  10. ^ Ştefănescu, p.105-106
  11. ^ Ştefănescu, p.106
  12. ^ Ştefănescu, p.110
  13. ^ Ştefănescu, p.115-118
  14. ^ Ştefănescu, p.117-118; 125
  15. ^ Ştefănescu, p.146
  16. ^ Ştefănescu, p.140-141
  17. ^ Ştefănescu, p.141-144
  18. ^ a b Ştefănescu, p.144-145
  19. ^ Ştefănescu, p.162
  20. ^ Ştefănescu, p.163-164
  21. ^ Berza; Djuvara, p.24-26
  22. ^ Ştefănescu, p.169-180
  23. ^ Giurescu, p.65, 68
  24. ^ Giurescu, p.68-69, 73-75
  25. ^ Giurescu, p.68-69, 78, 268
  26. ^ Giurescu, p.74
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • Djuvara, Neagu. Între Orient și Occident. Țările române la începutul epocii moderne, Humanitas, Bucharest, 1995
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  • Giurescu, Constantin. Istoria Bucureștilor. Din cele mai vechi timpuri pînă în zilele noastre, Ed. Pentru Literatură, Bucharest, 1966
  • Ștefănescu, Ștefan. Istoria medie a României, Vol. I, Bucharest, 1991

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関連かんれん項目こうもく

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